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佐竹さたけ義胤よしたね

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佐竹さたけ義胤よしたね
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ前期ぜんき
生誕せいたん 安貞やすさだ元年がんねん1227ねん
死没しぼつ 弘安ひろやす元年がんねん4がつ22にち1278ねん5月15にち
墓所はかしょ 茨城いばらきけん常陸太田ひたちおおた勝楽寺しょうらくじ正宗寺しょうそうじ
官位かんい 讃岐さぬきもり常陸ひたちかい
幕府ばくふ 鎌倉かまくら幕府ばくふ
氏族しぞく 佐竹さたけ
父母ちちはは ちち佐竹さたけ長義ながよしはは宍戸ししどしゅうむすめ
兄弟きょうだい 義胤よしたね伊豆いず王丸おうまる国井くにい弘義ひろよししつなど女子じょし4にん
つま 岩崎いわさき
佐竹さたけ行義ゆきよし小川おがわよしつな宗義しゅうぎ)・稲木いなぎ義信よしのぶ義貞よしさだ)・豊間とよま義照よしてるよしひろし)・高部たかべ景義かげよし
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佐竹さたけ 義胤よしたね(さたけ よしたね、安貞やすさだ元年がんねん1227ねん) - 弘安ひろやす元年がんねん4がつ22にち1278ねん5月15にち[1])は、鎌倉かまくら時代ときよ武将ぶしょうで、常陸ひたち佐竹さたけ6だい当主とうしゅ。5だい当主とうしゅ佐竹さたけ長義ながよし長男ちょうなんはは宍戸ししどしゅうむすめ讃岐さぬきもり常陸ひたちかい

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

  • 常陸ひたちほかいまいわき付近ふきん支配しはいしていた。義胤よしたね建治けんじ2ねん(1276ねん)に稲荷山いなりやままつぎんてら(しょうぎんじ。いま常陸ひたち大宮おおみや)を建立こんりゅうしたとされる。

子孫しそん[編集へんしゅう]

  • 家督かとく長男ちょうなん行義ゆきよしいだ。次男じなんよんなんとも)の三郎さぶろうつな宗義しゅうぎ)は地元じもと豪族ごうぞく母方ははかた親族しんぞくである岩崎いわさきいわ箇崎とも[1])のおんなめとり、陸奥みちのくこく岩城いわきぐん小川郷おがわごう(いわき)にみ、しょう川又かわまた二郎じろう大和やまともり名乗なのったという。三男さんなん義信よしのぶ義貞よしさだ)で、養子ようし稲木いなぎ宮内みやうち大輔だいすけよししげるがいる。よんなん義照よしてるよしひろし)も岩城いわきぐん豊間とよま(いわき豊間とよま)にみ、豊間とよま彦四郎ひこしろう名乗なのる。五男いつお高部たかべ五郎ごろう景義かげよし

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょかまきだいひゃくじゅうきゅう

出典しゅってん[編集へんしゅう]