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二階堂にかいどう頼綱よりつな

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二階堂にかいどう頼綱よりつな
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ中期ちゅうき
生誕せいたん のべおう元年がんねん1239ねん
死没しぼつ 弘安ひろやす6ねん10月24にち1283ねん11月14にち
官位かんい したがえ左衛門尉さえもんのじょう下総しもうさまもる
幕府ばくふ 鎌倉かまくら幕府ばくふ 引付ひきつけしゅ 評定ひょうじょうしゅ 政所まんどころ執事しつじ
氏族しぞく 藤原ふじわらみなみおつ麻呂まろながれ 二階堂にかいどう
父母ちちはは ちち二階堂にかいどうこうつな
兄弟きょうだい くだりけい頼綱よりつなもりつなくだりけいくだりさだ政雄まさおそうつなひかりつなおんな佐竹さたけ行義ゆきよししつ
さだつな景綱かげつな
テンプレートを表示ひょうじ

二階堂にかいどう 頼綱よりつな(にかいどう よりつな)は、鎌倉かまくら時代ときよ中期ちゅうき御家人ごけにん鎌倉かまくら幕府ばくふ政所まんどころ執事しつじ

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

のべおう元年がんねん(1239ねん政所まんどころ執事しつじ二階堂にかいどうこうつな次男じなんとしてまれる。長子ちょうし夭折ようせつしたため嫡男ちゃくなんとしてそだった。ぶんなが6ねん(1269ねん検非違使けびいしにん左衛門尉さえもんのじょうじょされる。ぶんなが11ねん1274ねん下総しもうさまもるとなり建治けんじ元年がんねん(1275ねん引付ひきつけしゅくわわる。建治けんじ3ねん1278ねん伊豆いず伊豆いず権現ごんげん宗徒しゅうと争乱そうらんこすと、評定ひょうじょうしゅ三善みよしりんけいとともに伊豆いずおもむ鎮撫ちんぶたった[1]。その弘安ひろやす4ねん(1281ねんちちぎょうつな死去しきょともなって政所まんどころ執事しつじとなり、翌年よくねんには評定ひょうじょうしゅとなった。

弘安ひろやす6ねん(1283ねん)10がつ24にち死去しきょ享年きょうねん45。政所まんどころ執事しつじ叔父おじ二階堂にかいどう行忠ゆきただ後継こうけいした[2]

経歴けいれき[編集へんしゅう]

系譜けいふ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 建治けんじさんねん」、『史料しりょう総覧そうらん』5へん905さつ222ぺーじ
  2. ^ 関東かんとう評定ひょうじょうでん」、『史料しりょう総覧そうらん』5へん905さつ285ぺーじ
  3. ^ 系図けいず纂要」、『史料しりょう総覧そうらん』5へん905さつ264ぺーじ
  4. ^ a b c d 関東かんとう評定ひょうじょうでん」、『史料しりょう総覧そうらん』5へん905さつ259ぺーじ
  5. ^ 日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん
  6. ^ 関東かんとう評定ひょうじょうでん」、『史料しりょう総覧そうらん』5へん905さつ264ぺーじ

関連かんれん資料しりょう[編集へんしゅう]

  • 東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさんしょ だい日本にっぽん史料しりょう総合そうごうデータベース『史料しりょう総覧そうらん