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二階堂にかいどうこうさだ

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二階堂にかいどう こうさだ(にかいどう ゆきさだ)

  1. 鎌倉かまくら時代ときよ後期こうき武士ぶし政所まんどころ執事しつじ二階堂にかいどうこうむねほんこう以下いかにて詳述しょうじゅつ
  2. 室町むろまち時代ときよ前期ぜんき武士ぶし生年せいねん不明ふめい - おうひさし18ねん1411ねん))。二階堂にかいどう直行なおゆき

 
二階堂にかいどうこうさだ
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ後期こうき
生誕せいたん ぶんひさし6ねん1269ねん[注釈ちゅうしゃく 1][2][3][4]
死没しぼつ よしみれき4ねん2がつ2にち1329ねん3月3にち
改名かいめい くだりさだあるきあかつき法名ほうみょう
官位かんい 左衛門尉さえもんのじょう[2]山城やましろまもる[2]信濃しなのまもる[2]
幕府ばくふ 鎌倉かまくら幕府ばくふ 政所まんどころ執事しつじ
氏族しぞく 藤原ふじわらみなみおつ麻呂まろながれ 二階堂にかいどう
父母ちちはは ちち二階堂にかいどうこうむね[2][3][4]
さだ行広ゆきひろ
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二階堂にかいどう こうさだ(にかいどう ゆきさだ)は、鎌倉かまくら時代ときよ後期こうき武士ぶし鎌倉かまくら幕府ばくふ政所まんどころ執事しつじ[2][3]

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

ぶんひさし6ねん1269ねん)、二階堂にかいどうこうむねとして誕生たんじょう

北条ほうじょうとく宗家そうけ当主とうしゅ・9だい執権しっけん北条ほうじょう貞時さだときよりへんいみなけてくだりさだ名乗なのったものとされる[注釈ちゅうしゃく 2]くだりさだちち二階堂にかいどうこうむね引付ひきつけしゅまですすんだが、そのちち行忠ゆきただ先立さきだって弘安ひろやす9ねん1286ねん)にぼっしており、せいおう3ねん1290ねん)の行忠ゆきただ没後ぼつごまごくだりさだが22さい政所まんどころ執事しつじ就任しゅうにんした[2][3][4]。その人事じんじたんいえいだだけにひとしかったが、そのころ弘安ひろやす8ねん1285ねん)の霜月しもづき騒動そうどうによってとく宗家そうけ被官ひかんうち管領かんりょう平頼綱たいらのよりつな実権じっけんにぎっていた時期じきにあたる。

それから3ねんせいおう6ねん1293ねん)に北条ほうじょう貞時さだとき平頼綱たいらのよりつなち(ひら禅門ぜんもんらん)、頼綱よりつな時代じだい人事じんじ否定ひていし、霜月しもづき騒動そうどう以前いぜんちち北条ほうじょう時宗じしゅう時代じだいへの回帰かいきはかる。そのあおりをらったのか、くだりさだ同年どうねん10がつ政所まんどころ執事しつじしょく罷免ひめんされる[2][注釈ちゅうしゃく 3]。そしてこれまでは政所まんどころ執事しつじ輩出はいしゅつしなかった隠岐おきりゅう[注釈ちゅうしゃく 4]から二階堂にかいどうこうふじ出羽いずは備中びっちゅう)が10月19にち政所まんどころ執事しつじとなる。その二階堂にかいどうこうふじいぬいはじめ元年がんねん1302ねん)8がつぼっすると、3ヶ月かげつ空白くうはく期間きかんをおいてくだりさだ再任さいにんされる[2][3][4]が、この空白くうはくの3ヶ月かげつとくむね北条ほうじょう貞時さだときもとでの人事じんじ迷走めいそうおよ信濃しなのりゅうくだりさだ隠岐おきりゅうさだふじ対立たいりつはげしさを物語ものがたっている[8]なお、この前年ぜんねん正安まさやす3ねん1301ねん)にくだりさだ出家しゅっけしている(法名ほうみょうこうあかつき[4][2][3]

そしてぎょうさだが『吾妻あづまきょう』の編纂へんさんしゃ一人ひとりされているのだが、くだりさだ祖父そふである行忠ゆきただ誕生たんじょう[9]を『吾妻あづまきょう』にんだのがくだりさだだとするならば、それはたんなる自分じぶん先祖せんぞ顕彰けんしょうえて、二階堂にかいどうこうふじとそのどきふじ隠岐おきりゅうたいして、二階堂にかいどう行光ゆきみつくだりもりから行忠ゆきただ、そして自分じぶんへとつながる政所まんどころ執事しつじ家系かけいとしての正当せいとうせい主張しゅちょうするものとして十分じゅうぶん動機どうき推測すいそくされる[10]

よしみれき4ねん1329ねん)2がつ2にち、61さいぼっする[2][3][4]まで政所まんどころ執事しつじつと[3]没後ぼつごそのしょく嫡子ちゃくしさだ[2]いだ。

なお、もう一人ひとり息子むすこ行広ゆきひろ鎌倉かまくら時代じだい後期こうき登場とうじょうする二階堂にかいどう行光ゆきみつであり、その子孫しそん六郷ろくごうしょうした。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 鎌倉かまくら年代ねんだい』(いぬいもと元年がんねんじょう)からよしみれき4ねん(1329ねん)に61さい死去しきょしたことがうかがえるため、逆算ぎゃくさんすると生誕せいたんねんぶんなが6ねん(1269ねん)となる[1]
  2. ^ 鎌倉かまくら年代ねんだい』の記述きじゅつから算出さんしゅつした生誕せいたんねんぶんなが6ねん(1269ねん))にもとづくと、元服げんぷくした年次ねんじはおおよそ1278ねん1283ねんあいだ推定すいていすることができる[1]。しかしこれはあくまで元服げんぷく年齢ねんれいを10さい~15さい仮定かていしたものであり、その前後ぜんごおこな事例じれいもあったので、1284ねんより執権しっけんとなった貞時さだとき烏帽子えぼし親子おやこ関係かんけいにあったとかんがえてつかえはない[5]貞時さだとき在任ざいにんちゅうとく宗家そうけ当主とうしゅ貞時さだとき)から一般いっぱん御家人ごけにんへ「さだ」の下賜かしされる図式ずしき成立せいりつしていたことが論文ろんぶん指摘してきされており[6]嫡男ちゃくなんさだ親子おやこだいわたって「さだ」のけた[1]ことが、貞時さだとき就任しゅうにんしてまもないころへんいみな授与じゅよされたことを裏付うらづけているとえる。
  3. ^ そのまもないえいひとし元年がんねん上野うえの佐野さの荘内そうない板倉いたくらきょう伊豆いずはし湯山ゆやま東明とうめいてら寄進きしんしている[7]
  4. ^ 二階堂にかいどうこうむら系統けいとう

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c 紺戸こんと 1979, p. 15.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 安田やすだ 1990, p. 453, 関口せきぐちみさを「二階堂にかいどうこうさだ
  3. ^ a b c d e f g h 永井ながいすすむ二階堂にかいどうこうさだ」『ちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてんhttp://kotobank.jp/word/%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E5%A0%82%E8%A1%8C%E8%B2%9E 
  4. ^ a b c d e f 二階堂にかいどうこうさだ(1)」『デジタルばん 日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん+Plus』http://kotobank.jp/word/%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E5%A0%82%E8%A1%8C%E8%B2%9E(1) 
  5. ^ 紺戸こんと 1979, p. 19.
  6. ^ 角田つのだ朋彦ともひこへんいみなはなし」『だんかづら』さんよん合併がっぺいごう再興さいこう中世ちゅうせい前期ぜんき勉強べんきょうかい、2004ねん、20-21ぺーじ 
  7. ^ 安田やすだ 1990, p. 453, 関口せきぐちみさを「二階堂にかいどうこうさだ」(鎌倉かまくら時代じだい
  8. ^ 細川ほそかわ 1999。なお、行忠ゆきただ死去しきょ直前ちょくぜんであるせいおう3ねん(1290ねん正月しょうがつには鎌倉かまくらにおいてくだりさだたいする暗殺あんさつ未遂みすい事件じけん発生はっせいしている(『鎌倉かまくら年代ねんだい裏書うらがき)が、細川ほそかわはこの事件じけん背景はいけい隠岐おきりゅうくだりふじさだふじ親子ちかこ関与かんよ推測すいそくしている。
  9. ^ 吾妻あづまきょう1222ねんさだおう元年がんねん)9がつ21にちじょうに「とうみん大夫だいぶゆきさかりつま男子だんしたいらす」とある、行忠ゆきただ誕生たんじょう記事きじ
  10. ^ 五味ごみ 2000, p. 300.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 五味ごみ文彦ふみひこ増補ぞうほ 吾妻あづまきょう方法ほうほう 事実じじつ神話しんわにみる中世ちゅうせい吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2000ねんISBN 4-642-07771-5 
  • 細川ほそかわ重男しげお鎌倉かまくら政権せいけんとくむね専制せんせいろん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2000ねんISBN 4-642-02786-6 
  • 細川ほそかわ重男しげお ちょ政所まんどころ執事しつじ二階堂にかいどう家系かけい」、鎌倉かまくら遺文いぶん研究けんきゅうかい へん鎌倉かまくら時代じだい社会しゃかい文化ぶんか東京とうきょうどう出版しゅっぱん鎌倉かまくら遺文いぶん研究けんきゅう2〉、1999ねんISBN 978-4-490-20375-2 
  • 安田やすだ元久もとひさ へん鎌倉かまくら室町むろまち人名じんめい事典じてん』(コンパクト)新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1990ねん 
  • 紺戸こんとあつし武家ぶけ社会しゃかいにおける加冠かかんいち付与ふよ政治せいじせいについて」『中央ちゅうおう史学しがく、1979ねん