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政所まんどころ

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政所まんどころ(まんどころ)は、

  1. 親王しんのうさん以上いじょう公卿くぎょう設置せっちゆるされた家政かせい機関きかんのこと。平安へいあん時代じだいもうけられた。
  2. 1に由来ゆらいする鎌倉かまくら幕府ばくふ職制しょくせいひとつ。
  3. 1、2に由来ゆらいする室町むろまち幕府ばくふ職制しょくせいひとつ。

皇族こうぞく公卿くぎょう政所まんどころ[編集へんしゅう]

親王しんのうおよびしたがえさん以上いじょう公家くげ家政かせい担当たんとうする機関きかん事務じむかんいえという。 摂政せっしょう関白かんぱく夫人ふじん北政所きたのまんどころしょうするのも、夫人ふじん家庭かていない家政かせい統括とうかつしていたこと由来ゆらいしている(そのまいは邸宅ていたく北側きたがわ設置せっちされることおおかった。また平安へいあん時代じだい貴族きぞく婿むここん普通ふつうのため、その邸宅ていたく夫人ふじん実家じっかから夫人ふじんへと相続そうぞくされたものであった)。

荘園しょうえんせい確立かくりつすると、政所まんどころ本所ほんじょそうつとむ担当たんとうする機関きかんとして機能きのうすることになるが、荘園しょうえん衰退すいたいして公家くげ家政かせい不振ふしんとなった中世ちゅうせい後期こうきには実質じっしつうしなわれていった。

政所まんどころ政治せいじせつ[編集へんしゅう]

なお摂関せっかん政治せいじ政策せいさく決定けってい過程かていについて、一時期いちじき政所まんどころ政治せいじせつという学説がくせつとなえられていた時期じきがあった。これは戦前せんぜん黒板こくばん勝美かつみらによってとなえられたせつで、摂関せっかん政治せいじには摂政せっしょう関白かんぱく国政こくせい全般ぜんぱん掌握しょうあくし、政所まんどころしもぶん御教書みぎょうしょ天皇てんのう宣旨せんじわって機能きのうし、太政官だじょうかんわって政所まんどころ政務せいむおこなわれ、朝廷ちょうてい儀式ぎしきのみをおこなったというものである。だが、戦後せんごはいると土田つちたただしらによる批判ひはんなどがあり、現在げんざいでは院政いんせい初期しょきまでは摂政せっしょう関白かんぱく天皇てんのうとのあいだちから関係かんけいはあっても、両者りょうしゃ協議きょうぎによって政治せいじ判断はんだんおこなわれており、摂政せっしょう関白かんぱく専断せんだんてき政務せいむった時期じき存在そんざいしなかったこと、摂関せっかん政治せいじ全盛期ぜんせいきでも宣旨せんじ太政官だじょうかんによる命令めいれい系統けいとう機能きのうしており、政所まんどころぶんおよ御教書みぎょうしょはあくまで摂政せっしょう関白かんぱく個人こじん私的してきあるいは摂関せっかん内部ないぶ問題もんだいたいしてのみ有効ゆうこう命令めいれい文書ぶんしょであったことがあきらかとされており、このせつりたないとかんがえられている。

鎌倉かまくら幕府ばくふ政所まんどころ[編集へんしゅう]

政所まんどころ鎌倉かまくら幕府ばくふ統治とうち機構きこうのひとつ。前身ぜんしん公文こうぶんしょである。これは幕府ばくふひらいたみなもと頼朝よりとも上記じょうきのものとおなじくしたがえさん以上いじょう公卿くぎょうゆるされる政所まんどころ開設かいせつ権利けんり獲得かくとくしたことにより、みずからの統治とうち機構きこう律令制りつりょうせいもとづく公的こうてき性格せいかくびる意義いぎったことによる。鎌倉かまくら幕府ばくふにおいては、一般いっぱん政務せいむ財政ざいせいつかさどった。

公文こうぶんしょから政所まんどころ改称かいしょうされた時期じきについては様々さまざま見解けんかいがある。1191ねん公文こうぶんしょ政所まんどころ改称かいしょうされたとされるせつと、政所まんどころ改称かいしょうされたのは1185ねんとするせつがある(このとしみなもと頼朝よりともさん以上いじょうしたがえ)へ昇叙しょうじょしたことにより政所まんどころ設置せっち資格しかくたため)。また、公文こうぶんしょ政所まんどころ連続れんぞくせい否定ひていして、大江広元おおえのひろもと機能きのう重複じゅうふくする部分ぶぶんがあった公文こうぶんしょ政所まんどころ別当べっとう兼務けんむした結果けっかとして公文こうぶんしょ機能きのう政所まんどころ機能きのう吸収きゅうしゅうされたとするせつ(「鎌倉かまくら」)もある。

機構きこう[編集へんしゅう]

政所まんどころ別当べっとう
政所まんどころ長官ちょうかん初代しょだい別当べっとう大江広元おおえのひろもと定員ていいん複数ふくすうせいだった時期じきもある。のちには執権しっけんまたは連署れんしょ兼任けんにん
れい
政所まんどころ次官じかん初代しょだいれい二階堂にかいどう行政ぎょうせいのち広元ひろもととともに別当べっとう)。文書ぶんしょしょばんやく
政所まんどころ執事しつじ
政所まんどころ上級じょうきゅう役人やくにん政務せいむ参与さんよし、会計かいけい担当たんとう二階堂にかいどう世襲せしゅう
執事しつじだい
政所まんどころ執事しつじ代理だいりかん
あんぬし
政所まんどころ下級かきゅう役人やくにん文案ぶんあん作成さくせいするやく
家事かじ
政所まんどころ下級かきゅう役人やくにん文案ぶんあん作成さくせいするやく
寄人よりうど
政所まんどころ雑用ざつようかん当初とうしょ、「政所まんどころ公人こうじん」とも

政所まんどころ執事しつじ一覧いちらん[編集へんしゅう]

就任しゅうにんしゃ 在任ざいにん期間きかん
二階堂にかいどう行光ゆきみつ - 1219ねん
伊賀いがひかりむね 1219ねん - 1224ねん
二階堂にかいどうこうもり 1224ねん - 1253ねん
二階堂にかいどうこうやすし 1253ねん - 1262ねん
二階堂にかいどうこうよりゆき 1262ねん - 1263ねん
二階堂にかいどうこうやすし再任さいにん 1263ねん - 1265ねん
二階堂にかいどう行実ぎょうじつ 1265ねん - 1269ねん
二階堂にかいどうこうつな 1269ねん - 1281ねん
二階堂にかいどう頼綱よりつな 1281ねん - 1283ねん
二階堂にかいどう行忠ゆきただ 1283ねん - 1290ねん
二階堂にかいどうこうさだ 1290ねん - 1293ねん
二階堂にかいどうこうふじ 1293ねん - 1302ねん
二階堂にかいどうこうさだ再任さいにん 1302ねん - 1329ねん
二階堂にかいどうさだ 1329ねん - 1332ねん
二階堂にかいどうさだふじ 1332ねん - 1333ねん

室町むろまち時代じだい政所まんどころ[編集へんしゅう]

室町むろまち幕府ばくふ財政ざいせい領地りょうちかんする訴訟そしょうてのひらしょく執事しつじ当初とうしょ二階堂にかいどう京極きょうごく佐々木ささきりゅうとうにんじられていたが天授てんじゅ5ねん/かんれき元年がんねん1379ねん)の伊勢いせ貞継さだつぐ任命にんめい以後いご伊勢いせ世襲せしゅうとなった。例外れいがいたからいさお元年がんねん1449ねん)、8だい将軍しょうぐん足利あしかが義政よしまさ元服げんぷくとき二階堂にかいどう忠行ただゆき一時いちじ執事しつじとなり長禄ちょうろく3ねん1459ねん)まで在任ざいにんしていた期間きかん足利あしかが義澄よしずみ元服げんぷく二階堂にかいどう尚行なおゆき足利あしかが義輝よしてる三好みよし長慶ちょうけいむすんで伊勢いせさだこう更迭こうてつして側近そっきん摂津せっつはれもん起用きようした期間きかん足利あしかが義昭よしあきおなじく起用きようした期間きかんである。

機構きこう[編集へんしゅう]

政所まんどころ執事しつじ
政所まんどころ長官ちょうかんあたまじんともばれる。二階堂にかいどう京極きょうごく長井ながいらがにんじられたが、のち伊勢いせ世襲せしゅう
政所まんどころ執事しつじだい
政所まんどころ次官じかん二階堂にかいどう斎藤さいとう松田まつだ交替こうたい就任しゅうにん
政所まんどころだい
執事しつじ代理だいりかんさむらいしょひらき相当そうとうする。伊勢いせ家臣かしん蜷川にながわ世襲せしゅう
寄人よりうど
政所まんどころ評定ひょうじょう参加さんかする役人やくにん
公人こうじん
政所まんどころ雑用ざつようかん。「政所まんどころ下部かぶ」とも

政所まんどころ執事しつじ一覧いちらん[編集へんしゅう]

就任しゅうにんしゃ 在任ざいにん期間きかん
二階堂にかいどうつな 1333ねん
長井ながいひろしゅう 1334ねん
二階堂にかいどうこうあさ 1335ねん
二階堂にかいどうこうただし 1340ねん
二階堂にかいどうつな再任さいにん 1346ねん
あわめしはらきよしたね 1348ねん
二階堂にかいどうこうあさ再任さいにん 1349ねん
佐々木ささき京極きょうごくみちほまれ 1349ねん
二階堂にかいどうこうどおり政所まんどころ執事しつじだい 1351ねん
二階堂にかいどうこうあさ再任さいにん 1352ねん
佐々木ささきみちほまれ再任さいにん 1352ねん
あわめしはらきよしたね再任さいにん 1353ねん
二階堂にかいどうまさしもと 1353ねん
佐々木ささきみちほまれ再任さいにん 1354ねん
二階堂にかいどうこうもと 1368ねん
伊勢いせ貞継さだつぐ 1379ねん - 1391ねん
伊勢いせ貞行さだゆき 1393ねん - 1410ねん
伊勢いせさだけい 1410ねん - 1431ねん
伊勢いせさだこく 1431ねん - 1449ねん
二階堂にかいどう忠行ただゆき 1449ねん - 1459ねん
伊勢いせさだおや 1460ねん - 1466ねん
伊勢いせ貞宗さだむね 1466ねん - 1468ねん
伊勢いせさだおや再任さいにん 1468ねん - 1471ねん
伊勢いせ貞宗さだむね再任さいにん 1471ねん - 1490ねん
伊勢いせさだりく 1490ねん - 1520ねん
二階堂にかいどう尚行なおゆき 1493ねん
伊勢いせさだただし 1521ねん - 1535ねん
伊勢いせさだこう 1535ねん - 1562ねん
摂津せっつはれもん 1562ねん - 1571ねん
伊勢いせさだきょう織田おだ政権せいけん 1571ねん[1]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 木下きのしたあきらぶんまわし京都きょうと支配しはいから足利あしかが義昭よしあき室町むろまち幕府ばくふ織田おだ権力けんりょく」『戦国せんごく足利あしかが将軍家しょうぐんけ権力けんりょく構造こうぞう岩田いわた書院しょいん、2014ねん P261-262。典拠てんきょもとかめ2ねん11月1にちづけ織田おだ信長のぶなが書状しょじょう(「本法ほんぽうてら文書ぶんしょ」)

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]


外部がいぶリンク[編集へんしゅう]