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二階堂にかいどうこうやすし

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二階堂にかいどうこうやすし
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ前期ぜんき
生誕せいたん けんれき元年がんねん1211ねん
死没しぼつ ぶんひさし2ねん10月2にち1265ねん11月11にち
改名かいめい 法名ほうみょうあるきぜん
官位かんい 左衛門尉さえもんのじょうしたがえじょう筑前ちくぜんもり
幕府ばくふ 鎌倉かまくら幕府ばくふ 引付ひきつけしゅ 評定ひょうじょうしゅ 政所まんどころ執事しつじ
氏族しぞく 藤原ふじわらみなみおつ麻呂まろながれ 二階堂にかいどう
父母ちちはは ちち二階堂にかいどうこうもり
兄弟きょうだい くだりやすし二階堂にかいどうこうつな二階堂にかいどう行忠ゆきただ
くだりよりゆき行実ぎょうじつくだり行重ゆきしげ[1]
テンプレートを表示ひょうじ

二階堂にかいどう こうやすし(にかいどう ゆきやす)は、鎌倉かまくら時代ときよ前期ぜんき御家人ごけにん鎌倉かまくら幕府ばくふ政所まんどころ執事しつじ

生涯しょうがい

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けんれき元年がんねん(1211ねん二階堂にかいどうこうもりとしてまれる。よしみただし3ねん1237ねんみんすすむとなった[2]たからおさむ元年がんねん1247ねん幕府ばくふ使者ししゃとしてきょうのぼ徳政令とくせいれいについて奏上そうじょうした[3]けんちょう元年がんねん1249ねん引付ひきつけかた設置せっちとともに引付ひきつけしゅとなり[4]けんちょう5ねん1253ねん二階堂にかいどう行方ゆくえとともに引付ひきつけあたまじん[5]にんじられた。また同年どうねんちちぎょうもりくなり、政所まんどころ執事しつじ[6]にんじられた。そのせいもと元年がんねん1259ねん評定ひょうじょうしゅとなった[4]ひろちょう2ねん1262ねん息子むすこくだりよりゆき政所まんどころ執事しつじゆずるが[7]翌年よくねんぎょうよりゆきくなったため政所まんどころ執事しつじふくした[8]

ぶんひさし2ねん(1265ねん)10がつ2にち死去しきょした。享年きょうねん55[2]後任こうにん政所まんどころ執事しつじ行実ぎょうじついだ[9]

経歴けいれき

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  • よしみただし3ねん(1237ねん)1がつ24にち - みんすすむ
  • ひろしもと元年がんねん(1243ねん)6がつ12にち - したがえじょう[2]
  • ひろしもと元年がんねん(1243ねん)11月2にち - 筑前ちくぜんもり[2]
  • かんもと元年がんねん(1256ねん)11月 - 出家しゅっけ法名ほうみょうあるきぜん[2]
  • ぶんなが2ねん(1265ねん)10がつ2にち - そつ享年きょうねん55

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ みこと文脈ぶんみゃく」、『史料しりょう総覧そうらん』5へん905さつ81ぺーじ
  2. ^ a b c d e 関東かんとう評定ひょうじょうでん」、『史料しりょう総覧そうらん』5へん905さつ111ぺーじ
  3. ^ 」「吾妻あづまきょう」、『だい日本にっぽん史料しりょう』5へん22さつ293ぺーじ
  4. ^ a b 日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん
  5. ^ 吾妻あづまきょう」『史料しりょう総覧そうらん』5へん904さつ799ぺーじ
  6. ^ 関東かんとう評定ひょうじょうでん」、『史料しりょう総覧そうらん』5へん904さつ799ぺーじ
  7. ^ 関東かんとう評定ひょうじょうでん」、『史料しりょう総覧そうらん』5へん905さつ73ぺーじ
  8. ^ 武家ぶけ年代ねんだい」、『史料しりょう総覧そうらん』5へん905さつ81ぺーじ
  9. ^ 関東かんとう評定ひょうじょうでん」、『史料しりょう総覧そうらん』5へん905さつ159ぺーじ

関連かんれん資料しりょう

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  • 東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさんしょ だい日本にっぽん史料しりょう総合そうごうデータベース『史料しりょう総覧そうらん