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二階堂にかいどう行方ゆくえ

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二階堂にかいどう行方ゆくえ
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ前期ぜんき - 中期ちゅうき
生誕せいたん たてひさし元年がんねん1206ねん
死没しぼつ ぶんひさし4ねん6月8にち1267ねん7がつ1にち
改名かいめい 法名ほうみょうみちあきら
別名べつめい 和泉いずみぜんつかさ
幕府ばくふ 鎌倉かまくら幕府ばくふ 評定ひょうじょうしゅ
主君しゅくん 宗尊親王むねかたしんのう
氏族しぞく 藤原ふじわらみなみおつ麻呂まろながれ 二階堂にかいどう
父母ちちはは ちち二階堂にかいどうこうむら
兄弟きょうだい 基行もとゆき行義ゆきよしくだりひさし行方ゆくえおもんみくだり
つま 佐々木ささき信綱のぶつなむすめ[1]
こうくだりあきら
テンプレートを表示ひょうじ

二階堂にかいどう 行方ゆくえ(にかいどう ゆきかた)は、鎌倉かまくら時代ときよ前期ぜんきから中期ちゅうきにかけての武士ぶし鎌倉かまくら幕府ばくふ評定ひょうじょうしゅ。6だい将軍しょうぐん宗尊親王むねかたしんのう御所ごしょちゅう雑事ざつじ奉行ぶぎょう[2]

略歴りゃくれき

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たてひさし元年がんねん1206ねん)、二階堂にかいどうこうむらとして誕生たんじょう[1]けんちょう元年がんねん1249ねん)の引付ひきつけ設置せっちとも引付ひきつけしゅけんちょう4ねん1252ねん)、宗尊親王むねかたしんのうむかえるためにきょうのぼる。けんちょう5ねん1253ねん)12月、4ばん引付ひきつけあたまじんとなる[3]このときあたまじんとなったのは、北条ほうじょうまさしむら北条ほうじょうちょうじき北条ほうじょうあきらとくむねいえ周辺しゅうへん北条ほうじょう一門いちもんだけであり、実務じつむ官僚かんりょうとしての二階堂にかいどう行方ゆくえ地位ちいたかさがうかがえる[4]

せいもと元年がんねん1259ねん)9がつ評定ひょうじょうしゅ[5]となり、ひろちょう3ねん1263ねん)7がつ5にち御所ごしょちゅう雑事ざつじ奉行ぶぎょう中原なかはられん交替こうたい同年どうねん10がつ8にちびょう湯治とうじをしていたがぶんひさし元年がんねん1264ねん)12がつ10日とおか出家しゅっけしてみちあきら名乗なのった[6]。『吾妻あづまきょう』の当該とうがい時期じきには敬称けいしょうとしての「和泉いずみぜんつかさ」のほかに「行方ゆくえ」と実名じつめい表記ひょうきされている記事きじ多数たすうられること、同様どうよう表記ひょうきされているもの目上めうえものないことなどから、この時期じきの『吾妻あづまきょう』は、二階堂にかいどう行方ゆくえふでろくをベースにしているとられている。

ぶんひさし4ねん1267ねん)6がつ8にち死去しきょ[1]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c 関東かんとう評定ひょうじょうでん」、『史料しりょう綜覧そうらん』5へん905さつ197ぺーじ
  2. ^ 御所ごせ奉行ぶぎょうとも。
  3. ^ 吾妻あづまきょう」『史料しりょう総覧そうらん』5へん904さつ799ぺーじ
  4. ^ なおあに行義ゆきよしあるきひさはこのとき評定ひょうじょうしゅつとめている
  5. ^ 関東かんとう評定ひょうじょうでん」、『史料しりょう総覧そうらん』5へん905さつ39ぺーじ
  6. ^ 吾妻あづまきょう」「関東かんとう評定ひょうじょうでん」、『史料しりょう総覧そうらん』5へん905さつ81ぺーじ

出典しゅってん

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