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斎藤さいとう

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斎藤さいとう
家紋
くだふじ代表だいひょうてき家紋かもん
本姓ほんせい 藤原ふじわらきたじんりゅう
いえ 藤原ふじわらじょよう
種別しゅべつ 公家くげ
おも根拠地こんきょち 越前えちぜんこく
加賀かがこく
武蔵むさしこく
美濃みのこく
山城やましろこく
著名ちょめい人物じんぶつ 斎藤さいとうみのるもり
斎藤さいとうたえ椿つばき
斎藤さいとう道三どうさん
支流しりゅう分家ぶんけ 武蔵むさし美濃みの斎藤さいとう
加藤かとう武家ぶけ
富樫とかし武家ぶけ
はやし武家ぶけ
岡部おかべ武家ぶけ
斎藤さいとう実家じっか(武家ぶけ子爵ししゃく)など多数たすう
凡例はんれい / Category:日本にっぽん氏族しぞく

斎藤さいとう(さいとうし、きゅう字体じたい齋藤さいとう󠄁)は、日本にっぽん氏族しぞく

概要がいよう

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斎藤さいとう」の一文字ひともじ使用しようされる異体いたいはあわせて31種類しゅるいあるとわれている。なお、「とき(サイ)」は「いむ(心身しんしんきよめる)」、「ひとし(セイ)」は「ととのえる」の意味いみべつ漢字かんじであるが、江戸えど時代じだいに「とき」の略字りゃくじとして「ひとし」が使用しようされた(なお、簡体字かんたいじではそれぞれ「斋」と「ひとし」となり、共通きょうつうせいがさらにうしなわれている)。

平安へいあん時代じだい中頃なかごろ鎮守ちんじゅ将軍しょうぐん藤原ふじわらとしひとしじょよう斎宮いつきあたまであったことに由来ゆらいする苗字みょうじとされる[1]藤原ふじわらとしじん後裔こうえい越前えちぜん加賀かがをはじめ、北陸ほくりく各地かくち武家ぶけとして発展はってんした[2]斎藤さいとう平安へいあん時代じだいまつから武蔵むさしなど各地かくち移住いじゅうして繁栄はんえいした[1]

斎藤さいとうから苗字みょうじ大変たいへんおおいが、有力ゆうりょくなものとして、加藤かとう富樫とかしはやしひとしげられる。

なお、現在げんざいみとめられる「齋藤さいとう」、「齊藤さいとう」、「斉藤さいとう」のせいは、明治めいじ時代じだい以降いこう名字みょうじたないもの名字みょうじ申請しんせいするさいに、役所やくしょが「斎藤さいとう」の間違まちがいで登録とうろくしたものであるとされている[3]

藤原ふじわらきたじんりゅう斎藤さいとう

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鎮守ちんじゅ将軍しょうぐん藤原ふじわらとしじんじょようとする[1][4]じょようちちとぎじん敦賀つるが豪族ごうぞくはた豊国ほうこくむすめははっていたことから[4]越前えちぜん中心ちゅうしん北陸ほくりく一帯いったい勢力せいりょくきずき、じょようまご斎藤さいとうでん越前えちぜんこく押領使となった[5]。またおなじくじょようまご斎藤さいとう忠頼ただより加賀かがかいにんじられたため[6]加賀かがにまで勢力せいりょくひろげた。その後裔こうえいはそれぞれ越前えちぜん斎藤さいとう加賀かが斎藤さいとうの2系統けいとうかれた。

加賀かが斎藤さいとう

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鎮守ちんじゅ将軍しょうぐん藤原ふじわらとしじんじょようまご加賀かがかいであった忠頼ただよりとする。忠頼ただより斎藤さいとう吉宗よしむね弘岡ひろおか斎藤さいとうとなる。加賀かが斎藤さいとうからほりなどがかれ、弘岡ひろおか斎藤さいとうはやし富樫とかしとなった[7]

越前えちぜん斎藤さいとう

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鎮守ちんじゅ将軍しょうぐん藤原ふじわらとしじんじょようまご越前えちぜんこく押領使であったでん子孫しそんである越前えちぜんこく敦賀つるがぐん疋田ひきた[注釈ちゅうしゃく 1]現在げんざい福井ふくいけん敦賀つるが疋田ひきた)を本拠ほんきょとした疋田ひきた斎藤さいとう同国どうこく足羽あすわぐん河合かわいきょう福井ふくいけん福井ふくい河合かわい)を本拠ほんきょとした河合かわい斎藤さいとうの2かれる。

疋田ひきた斎藤さいとう

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藤原ふじわらじょようまご越前えちぜんこく押領使であったでん斎藤さいとうためのべ[注釈ちゅうしゃく 2]とする。越前えちぜんこく敦賀つるがぐん疋田ひきだ根拠地こんきょちとした。斎藤さいとうせいもちいたが、地名ちめいからり、ためのべため方上かたがみ進藤しんどう)をしょうし、そのおとうと斎藤さいとう為頼ためよりである斎藤さいとうよりゆきもと斎藤さいとうしげるしん斎藤さいとう為永ためながらがそれぞれ竹田たけだ宇田うだ疋田ひきたしょうした。さらに竹田たけだから大谷おおや宇田うだからあしさきこころざし疋田ひきたから千田せんだ熊坂くまさかなどがかれた。『平家ひらか物語ものがたり』で滝口たきぐち入道にゅうどうとしてられる斎藤さいとうよりゆきはこの系統けいとうといわれる。

吉原よしはら斎藤さいとう

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吉原よしはら斎藤さいとう藤原ふじわらじょようまご越前えちぜんこく押領使であったでん斎藤さいとうのりこうとする。のりこう斎藤さいとう孝則たかのり系統けいとう粟生あおとなった。

河合かわい斎藤さいとう

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河合かわい斎藤さいとうのりこうまご斎藤さいとう助宗すけむね[注釈ちゅうしゃく 3]とする。助宗すけむねは「越前えちぜんこく住人じゅうにん輔宗」の中央ちゅうおう歴史れきししょ登場とうじょうする人物じんぶつ[11]越前えちぜんこく足羽あすわぐん河合かわいきょう福井ふくいけん福井ふくい河合かわい)を根拠地こんきょちとした。斎藤さいとうせいもちいたが、助宗すけむね斎藤さいとうしげる系統けいとうさかみなみ都筑つづき脇本わきもとなりおとうと斎藤さいとうけい系統けいとう稲津いなつ松本まつもと大見おおみなどをしょうした。そのほか、美濃みの斎藤さいとう長井ながい別当べっとうばれた斎藤さいとうみのるもり始祖しそとする長井ながい斎藤さいとう武蔵むさし斎藤さいとう)と木田きだはこの系統けいとうといわれる。

美濃みの斎藤さいとう

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美濃みの斎藤さいとう
家紋
撫子なでしこ
本姓ほんせい 藤原ふじわらきたじんりゅう[12]
いえ 斎藤さいとうゆう
種別しゅべつ 武家ぶけ
出身しゅっしん 越前えちぜんこく
おも根拠地こんきょち 美濃みのこく[12]
著名ちょめい人物じんぶつ 斎藤さいとうたえ椿つばき[13]
斎藤さいとう道三どうさん
支流しりゅう分家ぶんけ 長井ながい[12]井上いのうえ花村はなむら
凡例はんれい / Category:日本にっぽん氏族しぞく
斎藤さいとう道三どうさん家紋かもん
とう波頭なみがしら立波たつなみ

守護しゅごだいとして台頭たいとう

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美濃みの斎藤さいとうは、越前えちぜん斎藤さいとうの庶流・河合かわいけい斎藤さいとう赤塚あかつか美濃みの目代もくだいとして越前えちぜんからうつんだのにはじまるといわれる。家紋かもん撫子なでしこ斎藤さいとう道三どうさんとう波頭なみがしら立波たつなみもちいた)。

室町むろまち時代ときよ美濃みの守護しゅご土岐ときつかえ、ぶんやす元年がんねん1444ねんうるう6がつに、斎藤さいとうはじめえん京都きょうと土岐とき屋形やかた富島としま誅殺ちゅうさつ守護しゅごだいとなって勢力せいりょくふるった。宗円そうえん斎藤さいとうたえ椿つばきあに利永としなが死後しごおい守護しゅごだいふじ後見こうけんし、のち室町むろまち幕府ばくふ奉公ほうこうしゅとなって足利あしかが直接ちょくせつつか守護しゅご土岐ときしげるよりゆき官位かんいをも上回うわまわり、応仁おうにん元年がんねん1467ねん)の応仁おうにんらんでは西にしぐん主力しゅりょくとして各地かくち転戦てんせんした。 しかし、みょう椿つばきあともちいん)をいだ斎藤さいとうたえじゅん利国としくに)は土岐ときしげるよりゆきんでふじ守護しゅごだいあらそい、内紛ないふんをおこした。みょうじゅんは、あきらおう4ねん(1495ねん)からの船田ふなだ合戦かっせん勝利しょうりしたが、翌年よくねん近江おうみ出兵しゅっぺい戦死せんしした。このため、同族どうぞくあらそいが再燃さいねん斎藤さいとう勢力せいりょく徐々じょじょおとろえをせ、庶流の長井ながい台頭たいとうした。なお、みょうじゅんむすめ越前えちぜん朝倉あさくらさだけいとつぎ、姻戚いんせき関係かんけいとなっている。また、ふじ末子まっしにちうん京都きょうと妙覚寺みょうかくじはいり、のち美濃みの常在寺じょうざいじせいとなった。

斎藤さいとう道三どうさん下克上げこくじょう

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天文てんもん8ねん1539ねんごろ長井ながいちょうひろし家臣かしん長井ながいただししゅう頭角とうかくあらわし、斎藤さいとう名乗なのった(斎藤さいとう道三どうさん)。みちさんちち松波まつなみ庄五郎しょうごろう畿内きない出身しゅっしんであり、妙覚寺みょうかくじにてにちうん兄弟子あにでしであったという。

道三どうさん稲葉いなば山城やましろおもとなり、さらに守護しゅご土岐ときよりゆきげいい、下克上げこくじょうによって美濃みの押領したが、弘治こうじ2ねん1556ねん)、嫡子ちゃくしりゅうころされた。りゅう早世そうせいりゅうきょうえいろく10ねん1567ねん)、本拠地ほんきょち稲葉山いなばやまじょう織田おだ信長のぶなが攻略こうりゃくされ、美濃みの追放ついほうされて越前えちぜん朝倉あさくら義景よしかげたよった。りゅうきょう天正てんしょう10ねん1573ねん)に義景よしかげ信長のぶながほろぼされたとき運命うんめいともにして討死うちじに戦国せんごく大名だいみょう斎藤さいとう滅亡めつぼうした。

織田おだ本能寺ほんのうじへん

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信長のぶなが統治とうちでは、みちさん末子まっしとされる斎藤さいとう利治としはるちょうりゅう)が、せき加治田かじた合戦かっせんのち加治田かじたじょうおもとされ、織田おだ信忠のぶただ重臣じゅうしんとしてつかえたが、これはみちさん近親きんしん利治としはる斎藤さいとう家督かとく相続そうぞくしたのではないかという考察こうさつがある[14]。しかし、利治としはる本能寺ほんのうじへん主君しゅくん織田おだ信忠のぶただとも戦死せんしした。

美濃みのでは、利治としはるあにとされる斎藤さいとうとし混乱こんらん同時どうじ岐阜ぎふじょう近隣きんりん掌握しょうあくした。山崎やまざきたたかわると堯は岐阜ぎふじょう織田おだ信孝のぶたかわたしたのち加治田かじたじょう加治田かじたしゅ信孝のぶたか重臣じゅうしんとなったが、加治田かじた兼山かねやま合戦かっせんおよび賤ヶだけたたか結果けっか森長もりながしろわたした。

美濃みの斎藤さいとうのその

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利治としはる義興よしおき新五郎しんごろう)と斎藤さいとう市郎いちろう左衛門さえもんへい左衛門さえもん)は、最初さいしょ織田おだ秀信ひでのぶに、のち義興よしおき池田いけだ輝政てるまさみぎ衛門えもん松平まつだいらただしもとかかえられ、義興よしおき子孫しそん岡山おかやまはんとしてつづいた。東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく教授きょうじゅとして西洋せいよう史学しがく教鞭きょうべんるった斎藤さいとう清太郎せいたろうはその末裔まつえいである。家系かけいとしては、斎藤さいとう久兵衛きゅうべえ義興よしおき)、斎藤さいとう弥三郎やさぶろう久兵衛きゅうべえ)、斎藤さいとうひさきょう弥三郎やさぶろう)、斎藤さいとう一興かずおきひさきょうむすめ婿むこ本姓ほんせい上阪こうさか)、斎藤さいとうたかしきょう一興いっきょう)、斎藤さいとうよしきょうたかしきょう)、斎藤さいとう一太郎いちたろうたかしきょう)、清太郎せいたろう一太郎いちたろう)とつらなる[よう出典しゅってん]

また堯のおい斎藤さいとう元忠もとただおよび、その斎藤さいとう徳元とくもと織田おだ秀信ひでのぶつかえ、代官だいかんとして加治田かじたおさめた。徳元とくもと墨俣すのまた城代じょうだいでもあったが、関ヶ原せきがはらたたかのち主君しゅくん織田おだ秀信ひでのぶ改易かいえきによって浪人ろうにんし、以降いこう俳人はいじんとしてらした。

きゅう奉公ほうこうしゅ明智あけち光秀みつひで重臣じゅうしん春日局かすがのつぼねちちとしてられるおなじくきゅう奉公ほうこうしゅであった斎藤さいとう利三としみつみちさん以前いぜん美濃みの斎藤さいとう一族いちぞくであり、三男さんなん斎藤さいとうとしむねのちに5,000せき知行ちぎょうする旗本はたもととなった。

美濃みの斎藤さいとう系図けいずは、『美濃みのこく諸家しょか系譜けいふ』、『古代こだい氏族しぞく系譜けいふ集成しゅうせい』ともに不正確ふせいかく箇所かしょ多々たたあり、確定かくていされていないてんおおい。

越後えちご斎藤さいとう

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越後えちご斎藤さいとうは、越後えちご守護しゅご上杉うえすぎ被官ひかん。その出自しゅつじ越後えちご土着どちゃくした時期じきについてはつまびらかではないが、室町むろまち時代ときよから戦国せんごく時代じだいにかけて越後えちご赤田あかだしろげん新潟にいがたけん刈羽かりわむら)に居住きょじゅうしていた[15]守護しゅご上杉うえすぎ没落ぼつらく守護しゅごだい長尾ながおつかえ、斎藤さいとうちょうしん長尾ながお景虎かげとら上杉うえすぎ謙信けんしん)の重臣じゅうしんとして有名ゆうめい[15]

あさしん天正てんしょう6ねん1578ねん)、謙信けんしん御館みたてらんでは景勝けいしょうかたぞくし、以後いご景勝けいしょうつかえた。あさしんじ死後しご家督かとくいだその斎藤さいとう景信かげのぶ景勝けいしょうつかえたが、上杉うえすぎ会津あいづうつりふうされると、越後えちごのこり、ほりつかえたとかんがえられている[よう出典しゅってん]子孫しそん米沢よねざわはんつかえた[15]江戸えど時代じだい斎藤さいとうについては米沢よねざわはん#平侍ひらざむらいやく70参照さんしょう

豊後ぶんご斎藤さいとう

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豊後ぶんご斎藤さいとうは、大友おおとも重臣じゅうしんとしてつかえた[16]豊後ぶんごこく海部かいふぐん丹生たんじょうしょう根拠地こんきょちとした。長井ながい別当べっとうとしてられる斎藤さいとうみのるもりつまおいみやろく傔仗国平くにへいみやみち国平くにへい)がかんがえられているが、さだかではない。南北なんぼくあさ時代じだい主家しゅか大友おおとも貞載さだとし[17](または大友おおとも貞宗さだむね[18])が守護しゅごしょく補任ほにんされ、斎藤さいとうただしへん[17](または斎藤さいとうあまねただし[18])がその守護しゅごだいにんじられた。大友おおとも肥前ひぜん守護しゅごでなくなると、斎藤さいとう肥前ひぜん守護しゅごだいでなくなり、それ以後いご戦国せんごく時代じだいまでほとんど動向どうこうがわかっていない。

戦国せんごく時代じだいはいり、斎藤さいとうたかし斎藤さいとうちょうみのる父子ふし大友おおともばんしゅしてそのあらわれる。ながじつばんしゅとして大友おおとも義鑑よしあきつかえた重臣じゅうしんであったが、大友おおとも家督かとく問題もんだい主君しゅくん義鑑よしあき対立たいりつ殺害さつがいされ、これが原因げんいんかいくずれのへん勃発ぼっぱつする。この家督かとくあらそいは大友おおとも義鎮よししげ宗麟そうりんぐことでおさまった。ちょうみのる斎藤さいとう鎮実家督かとく所領しょりょう安堵あんどされ、義鎮よししげ重用じゅうようされたが、耳川みみがわたたかにおいて戦死せんしした。これにより斎藤さいとう没落ぼつらくしたが、その血筋ちすじ外孫そとまご立花たちばな宗茂むねしげ直次なおじ兄弟きょうだい継承けいしょうされて外様とざま大名だいみょうとして後世こうせいのこった。

いわひつ斎藤さいとう

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いわひつ斎藤さいとう
家紋
むっかしわ
本姓ほんせい 藤原ふじわらきたしゅうきょうりゅう
いえ 斎藤さいとう憲行のりゆき
種別しゅべつ 武家ぶけ
おも根拠地こんきょち 上野うえのこく
支流しりゅう分家ぶんけ 中山なかやま武家ぶけ
荒牧あらまき武家ぶけ
大野おおの武家ぶけ
富沢とみざわ武家ぶけ
唐沢からさわ武家ぶけ
凡例はんれい / Category:日本にっぽん氏族しぞく

来歴らいれき

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藤原ふじわらきたさかなめいりゅう藤原ふじわらしげるきょう後裔こうえいである上野うえのこく吾妻あづまぐん太田おおたしょういわひつじょう根拠地こんきょちとした斎藤さいとう初代しょだい斎藤さいとう憲行のりゆきはこの拠点きょてんとしたしゅうきょう後裔こうえい吾妻あづま遺児いじ伯父おじにあたる吾妻あづまこずえもと養子ようしとなった人物じんぶつとも、斎藤さいとうしょうしたしゅうきょうからよんだいまご藤原ふじわら助宗すけむね後裔こうえい斎藤さいとう基国もとくに嫡子ちゃくしであるともいわれる[19]

山内やまうち上杉うえすぎ入国にゅうこく

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憲行のりゆきには6にん男子だんしがおり、長男ちょうなん憲実のりざねいわひつじょうに、次男じなん中山なかやま幸憲ゆきのり中山なかやま)を中山ちゅうざんじょうに、三男さんなん荒牧あらまきたけし荒牧あらまき)を荒牧あらまきかんに、四男よつお山田やまだはじめせい宗家そうけ)を山田やまだしろ五男いつお大野おおの憲基のりもと大野おおの)を稲荷いなりじょうろくなん富沢とみざわ幸連こうれん富沢とみざわ)をいわ下城げじょうにそれぞれはいした。1438ねんえいとおるらん前後ぜんごに、五男いつお憲基のりもと大野おおの宗家そうけしのぎ、いわひつ城主じょうしゅとなり、当時とうじ嫡流ちゃくりゅう憲実のりざね斎藤さいとうはその配下はいかとなった。憲実のりざねかわり、もとせい嫡孫ちゃくそんよんだい当主とうしゅ斎藤さいとう憲次けんじ大野おおの植栗うえぐり対立たいりつすると、植栗うえぐり共謀きょうぼうして大野おおのほろぼし、いわひつ城主じょうしゅ復帰ふっきして管領かんりょう山内やまうち上杉うえすぎつかえた。

武田たけだ上杉うえすぎこうそう

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憲次けんじである五代ごだい当主とうしゅけんひろ上杉うえすぎ憲政のりまさ長尾ながお景虎かげとら上杉うえすぎ謙信けんしん)をたより、越後えちごのがれためうしたてうしなうと、勢力せいりょく拡大かくだいはかり、鎌原かんばらめた。窮地きゅうちたされた鎌原かんばら武田たけだ信玄しんげんたすけをもとめた。それをったけんひろ武田たけだ対抗たいこうするため、上杉うえすぎ謙信けんしん配下はいかとなる。こうして武田たけだ上杉うえすぎこうそう発展はってんした。

いわひつじょう落城らくじょう没落ぼつらく

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えいろく6ねん(1563ねん)、武田たけだぐんめられ、いわひつじょう落城らくじょうし、斎藤さいとう没落ぼつらくした。最後さいご当主とうしゅであるけんひろけんむね上杉うえすぎ支援しえんいわひつじょう奪還だっかんし、嵩山すせじょうはいった。りょうぐん人質ひとじち交換こうかんして一度いちど和睦わぼくするが、それは武田たけだぐん策略さくりゃく斎藤さいとう重臣じゅうしん池田いけだたすく渡守わたしもり寝返ねがえらせ、渡守わたしもり退去たいきょ見計みはからい、嵩山すせじょうめた。防戦ぼうせんむなしく嵩山すせじょう落城らくじょうし、けんむね自刃じじんしてここに斎藤さいとう滅亡めつぼうした。

その

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 福井ふくいけん 通史つうしへん1』によると、根拠地こんきょちとした疋田ひきたは『姓氏せいし家系かけいだい辞典じてん』では越前えちぜんこく敦賀つるがぐん疋田ひきだ現在げんざい福井ふくいけん敦賀つるが疋田ひきた)とあるが、浅香あさかみのるうけたまわ寿ことぶきひさし内乱ないらんろん序説じょせつ』によると、同国どうこく坂井さかいぐん現在げんざいあわら北疋田きたひきだ南疋田みなみひきだ)ではないかと見識けんしきがある[8]
  2. ^ 尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』のためのべ傍注ぼうちゅうに「疋田ひきた斎藤さいとうはじめ」とある[9]
  3. ^ 尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』の助宗すけむね傍注ぼうちゅうに「河合かわい斎藤さいとうはじめ」とある[10]

出典しゅってん

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  1. ^ a b c 太田おおた 1934, p. 2451.
  2. ^ 太田おおた 1934, p. 2452.
  3. ^ 斎藤さいとう」「斉藤さいとう」「齋藤さいとう」「齊藤さいとう」・・このってなに”. 東洋経済新報社とうようけいざいしんぽうしゃ. 2022ねん7がつ3にち閲覧えつらん
  4. ^ a b ほらいん公定こうてい 1903, p. 76.
  5. ^ ほらいん公定こうてい 1903, p. 85.
  6. ^ ほらいん公定こうてい 1903, p. 77.
  7. ^ ほらいん公定こうてい 1903, p. 80.
  8. ^ 福井ふくいけんへん 1993, p. [ようページ番号ばんごう].
  9. ^ ほらいん公定こうてい 1903, p. 88.
  10. ^ ほらいん公定こうてい 1903, p. 101.
  11. ^ 平安へいあん時代じだい編纂へんさんされた歴史れきししょ本朝ほんちょう世紀せいき』「かんかずねんがつさんじゅうにちじょう
  12. ^ a b c 太田おおた 1934, p. 2461.
  13. ^ 太田おおた 1934, p. 2462.
  14. ^ 富加とみかまち編集へんしゅう委員いいんかい 1980, p. 227, §.だいだい加治田かじた城主じょうしゅ斎藤さいとう新五しんご.
  15. ^ a b c 太田おおた 1934, p. 2455.
  16. ^ 太田おおた 1934, p. 2466.
  17. ^ a b 歴代れきだい鎮西ちんぜい要略ようりゃく
  18. ^ a b 深堀ふかほり文書ぶんしょ』による。
  19. ^ 尊父そんぷ分脈ぶんみゃく[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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