(Translated by https://www.hiragana.jp/)
清河八郎 - Wikipedia コンテンツにスキップ

清河きよかわ八郎はちろう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
清河きよかわ 八郎はちろう
生年せいねん 文政ぶんせい13ねん10がつ10日とおか1830ねん11月24にち
生地きじ 出羽でわこく
没年ぼつねん 文久ぶんきゅう3ねん4がつ13にち1863ねん5月30にち
ぼつ 江戸えど
活動かつどう 浪士ろうしぐみ
はん 庄内しょうないはん
受賞じゅしょう おくせいよん
びょう 清河きよかわ神社じんじゃ
テンプレートを表示ひょうじ

清河きよかわ 八郎はちろう(きよかわ はちろう、文政ぶんせい13ねん10がつ10日とおか1830ねん11月24にち) - 文久ぶんきゅう3ねん4がつ13にち1863ねん5月30にち))は、江戸えど時代じだい末期まっき幕末ばくまつ)の庄内しょうないはん出身しゅっしん志士しし田中たなか河内かわうちかいとともに九州きゅうしゅう遊説ゆうぜいをして尊王そんのう攘夷じょうい志士しし京都きょうとせ、一方いっぽう浪士ろうしぐみ結成けっせい新選しんせんぐみしんちょうぐみへのながれをつくり、みずからもとらかいひきいて明治維新めいじいしん火付ひつやくとなった。

幼名ようみょうもとつかさいみな正明まさあきごうだんおこりにわとり本名ほんみょう齋藤さいとう正明まさあきで、清川きよかわ八郎はちろう改名かいめいしたのち、清河きよかわ八郎はちろう名乗なのった。山形やまがたけん庄内しょうないまち清河きよかわ神社じんじゃ祭神さいじんとしてまつられている。位階いかいおくせいよん

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

清河きよかわ八郎はちろう肖像しょうぞう

誕生たんじょう[編集へんしゅう]

出羽でわこく田川たがわぐん清川きよかわむらげん山形やまがたけん東田川ひがしたがわぐん庄内しょうないまち[1]庄内しょうないはん郷士ごうし齋藤さいとうつよし寿ことぶき

天保てんぽう14ねん1843ねん)、清川きよかわ関所せきしょ役人やくにん畑田はただ安右衛門やすえもん師事しじ勉学べんがくいそしむ。ひろし3ねん1846ねん)には天誅てんちゅうぐみ総裁そうさい藤本ふじもと鉄石てっせき親交しんこうふかめた[2]ひろし4ねん1847ねん)、江戸えど古学こがく東条とうじょう一堂いちどう師事しじする[3]ざいみとめられ東条とうじょうじゅく塾頭じゅくとうめいぜられたが、固辞こじ安積あさか艮斎ごんさいてんじゅく。そのかたわら、じゅく同輩どうはいさそわれ[4]北辰ほくしん一刀いっとうりゅう開祖かいそ千葉ちば周作しゅうさく玄武げんぶかんけんみが免許皆伝めんきょかいでんゆるされ、江戸えど幕府ばくふ学問がくもんしょである昌平しょうへいまなんだ。その清河きよかわじゅく開設かいせつするが、当時とうじ江戸えどちゅう学問がくもん剣術けんじゅつ一人ひとりおしえるじゅく清河きよかわじゅくだけであった。

諸国しょこく漫遊まんゆう[編集へんしゅう]

安政あんせい2ねん1855ねん)3がつから9がつにかけて、母親ははおやれて、清川きよかわむら出発しゅっぱつ[5]善光寺ぜんこうじ名古屋なごや伊勢いせ奈良なら京都きょうと近江おうみ大坂おおさか宮島みやじま岩国いわくに天橋立あまのはしだて鎌倉かまくら江戸えど日光にっこうなどをめぐるだい旅行りょこうをする。その記録きろく西遊せいゆうそう』は、幕末ばくまつ旅行りょこう事情じじょうるうえでは貴重きちょう資料しりょうである。内容ないよう各国かっこく名士めいしとの出会であいなどを中心ちゅうしんかれているが、その性格せいかくからか辛辣しんらつ手厳てきびしい批評ひひょうおおい。

とらかい[編集へんしゅう]

安政あんせい7ねん1860ねん)にこった桜田さくらだ門外もんがいへんつよ衝撃しょうげきけ、倒幕とうばく尊王そんのう攘夷じょうい思想しそうつよめる[1]。この事件じけん契機けいきに、清河きよかわじゅく憂国ゆうこくあつまりだす。そのなかには幕臣ばくしん山岡やまおか鉄太郎てつたろう鉄舟てっしゅう)・笠井かさい伊蔵いぞう松岡まつおかよろず薩摩さつまはん伊牟田いむたしょうたいら樋渡ひわたし八兵衛はちべえ神田かんだはしただしすけえきまんきゅうすけ同門どうもんであった安積あさか五郎ごろうらがいる。また池田いけだ徳太郎とくたろう中村なかむらさだ太郎たろう西川にしかわねりづくり村上むらかみしゅん五郎ごろう石坂いしざかはじめじゅんなどともまじわる[6]

同年どうねん盟主めいしゅとしてとらかい結成けっせい発起人ほっきにん山岡やまおか鉄太郎てつたろうら15めい横浜よこはま外国がいこくじん居留きょりゅうちし、尊王そんのう攘夷じょうい精神せいしん鼓舞こぶし、倒幕とうばく計画けいかくてたが、この密計みっけい幕府ばくふるところとなる。しかも文久ぶんきゅう元年がんねん1861ねん)には罵詈ばり雑言ぞうごんびせてきた幕府ばくふ手先てさきてたため、幕府ばくふわれる立場たちばとなった[7]。このとき、笠井かさい中村なかむら西川にしかわらは捕縛ほばくされ、のち獄死ごくししている。

急務きゅうむさんさく浪士ろうしぐみ結成けっせい[編集へんしゅう]

倒幕とうばく運動うんどうつづけるため、きょう潜伏せんぷくしたり諸国しょこくまわり、田中たなか河内かわうちかいつづいて九州きゅうしゅう遊説ゆうぜいはいった。筑後ちくごこく水田すいでん天満宮てんまんぐう付近ふきんやまくちなし蟄居ちっきょちゅう真木まきたもつしんしたにも滞在たいざいし、福岡ふくおかはん平野ひらの国臣くにおみ小郡おごおり肥後ひご尊皇そんのう攘夷じょういとも接触せっしょく。その戦略せんりゃく薩摩さつまはんりつへい上京じょうきょう期待きたいせるものであり、薩摩さつまつと諸国しょこく遊説ゆうぜいしたが、小松こまつきよしれん一切いっさい言質げんちあたえていない。『近世きんせい日本にっぽん国民こくみん』では京都きょうと参集さんしゅうした尊皇そんのう攘夷じょういは、清河きよかわ空想くうそうてき政局せいきょくろんによりあつめられたいちめんがあるとしている。

その山岡やまおか鉄舟てっしゅうらをとおして松平まつだいらはるだけ幕府ばくふ政事せいじ総裁そうさいしょく)に急務きゅうむさんさく(1. 攘夷じょうい断行だんこう、2. 大赦たいしゃ発令はつれい、3. 天下てんかえいざい教育きょういく)を上書うわがきする。尊攘そんじょう志士ししいていた幕府ばくふはこれを採用さいようし、松平まつだいら忠敏ただとしのもとに浪士ろうしぐみ結成けっせい許可きょかされた(234めい[7]上手うま幕府ばくふいて、今度こんど佐幕さばくきょうあつした。文久ぶんきゅう3ねん1863ねん2がつ23にち将軍しょうぐん徳川とくがわ家茂いえもち上洛じょうらくさい、その前衛ぜんえいとして浪士ろうしぐみひききょう出発しゅっぱつ到着とうちゃくしたよる浪士ろうし壬生みぶしんとくてらあつめ、本当ほんとう目的もくてき将軍しょうぐん警護けいごでなく尊王そんのう攘夷じょうい先鋒せんぽうにあるとべる。鵜殿うどの鳩翁きゅうおう浪士ろうしぐみたい殿内とのうち義雄よしおいえさと次郎じろうりょうに、きょう残留ざんりゅうすることを希望きぼうするものりまとめを依頼いらいし、攘夷じょうい反対はんたいした根岸ねぎしともさん芹沢鴨せりざわかも近藤こんどういさむ土方ひじかた歳三としぞうらが残留ざんりゅうたもとかった[ちゅう 1]翌日よくじつ、200めい手勢てぜいひき朝廷ちょうてい建白けんぱくしょ上申じょうしんねがで、幸運こううんにも受理じゅりされた。

このような浪士ろうしぐみ動静どうせい不安ふあんいた幕府ばくふは、浪士ろうしぐみ江戸えどもどす。江戸えどもどったあと浪士ろうしぐみうごかそうとするが、京都きょうと完全かんぜん幕府ばくふ対立たいりつしていたためねらわれていた。

東京とうきょう伝通院でんづういんにあるはか(2023ねん撮影さつえい

同年どうねん4がつ13にち幕府ばくふ刺客しかく佐々木ささき只三郎たださぶろう窪田くぼたいずみ太郎たろうなど6めいによって麻布まふ赤羽あかはねきょうげん麻布十番あざぶじゅうばん商店しょうてんがいそば)でくびたれた[8]享年きょうねん34。『おんな士道しどう[9]』(山岡やまおか英子えいこ 1903ねん)の記述きじゅつ[10][11]によるとくび石坂いしざか周造しゅうぞうもどし、山岡やまおか英子えいこ山岡やまおか鉄舟てっしゅうつま)が保管ほかん伝通院でんづういんほうむったがのち遺族いぞくわたしたという。墓所はかしょ東京とうきょう文京ぶんきょう小石川こいしかわ伝通院でんづういんにある。死後しご幕府ばくふ浪士ろうしぐみしんちょうぐみ改名かいめいし、庄内しょうないはんあずかりとした。明治めいじ41ねん1908ねん)、特旨とくしによりせいよん贈位ぞういされた[12]

評価ひょうか[編集へんしゅう]

  • 高橋泥舟たかはしでいしゅう
    • 「その天性てんせい猛烈もうれつであって、正義せいぎねんつよく、体格たいかく堂々どうどう威風いふう凛々りんりん音声おんせいかねのようで、眼光がんこうじんる。一見いっけんして凡人ぼんじん超越ちょうえつ俊傑しゅんけつであることをる」[13]
    • 平素へいそはじつに淡泊たんぱくなもので磊々落々たるもので文武ぶんぶおとこでしたな。しかし議論ぎろんをする時分じぶんには、だれでも自分じぶんおもうとおり、やっつけてしまいますので、わたしはよっぽど、それはいけないからよせとって忠告ちゅうこくしましたが、性質せいしつでしたからなおりませんでしたな」[14]
  • 草野くさのつよしさん
    • じんしんのあるひとで、わたしやまいちゅうときなどは、わたし木綿もめんぶつていたが、そのとき自分じぶんていたものいで、これをはや病気びょうきくしてれろとっていてった」[15]
    • 人望じんぼうはありましたな。あのころ儒者じゅしゃいちゆずっていた」[14]
  • 佐田さた白茅ちがや八郎はちろういち英雄えいゆう豪傑ごうけつであった」[14]
  • 西川にしかわきよし清河きよかわさんはたかく、いろしろ気品きひんのあるほうでした」

清河きよかわ神社じんじゃ清河きよかわ八郎はちろう記念きねんかん[編集へんしゅう]

八郎はちろう出身しゅっしんである清川きよかわに、せいよん追贈ついぞう昭和しょうわ8ねん1933ねん)に清河きよかわ神社じんじゃ創建そうけんされた[12]。また昭和しょうわ37ねん1962ねん)には神社じんじゃ境内けいだい一角いっかく清河きよかわ八郎はちろう記念きねんかん開館かいかん八郎はちろう書簡しょかんなど遺品いひん展示てんじしている。

著作ちょさく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

ちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ かれらは壬生みぶ浪士ろうし壬生みぶなみ)となり、のち新選しんせんぐみへと発展はってんしていく。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 元気げんき・まちネット」踏査とうさ同行どうこう(1)出身しゅっしん清川きよかわたずねて”. 山形やまがた新聞しんぶん (2009ねん9がつ28にち). 2011ねん3がつ26にち閲覧えつらん
  2. ^ 元気げんき・まちネット」踏査とうさ同行どうこう(2)“実像じつぞうつたえる肖像しょうぞう”. 山形やまがた新聞しんぶん (2009ねん9がつ29にち). 2011ねん3がつ26にち閲覧えつらん
  3. ^ 元気げんき・まちネット」踏査とうさ同行どうこう江戸えどへんうえ文武ぶんぶ修業しゅうぎょう”. 山形やまがた新聞しんぶん (2010ねん12月14にち). 2011ねん3がつ26にち閲覧えつらん
  4. ^ 発行はっこうしゃかん英志えいじけん達人たつじん 111にんデータファイル』2002ねん、192ぺーじ
  5. ^ 元気げんき・まちネット」踏査とうさ同行どうこう(4)湯田川ゆたがわ温泉おんせん”. 山形やまがた新聞しんぶん (2009ねん10がつ1にち). 2011ねん3がつ26にち閲覧えつらん
  6. ^ 元気げんき・まちネット」踏査とうさ同行どうこう江戸えどへんなか江戸えどさんひらけじゅく”. 山形やまがた新聞しんぶん (2010ねん12月15にち). 2011ねん3がつ26にち閲覧えつらん
  7. ^ a b 元気げんき・まちネット」踏査とうさ同行どうこう江戸えどへんした逃亡とうぼうから浪士ろうしぐみ結成けっせい”. 山形やまがた新聞しんぶん (2010ねん12月16にち). 2011ねん3がつ26にち閲覧えつらん
  8. ^ 元気げんき・まちネット」踏査とうさ後半こうはん同行どうこう(5) 上山うえやま”. 山形やまがた新聞しんぶん (2010ねん6がつ27にち). 2011ねん3がつ26にち閲覧えつらん
  9. ^ おんな士道しどう』 - 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん
  10. ^ おんな士道しどうだい1かい(11)清河きよかわ八郎はちろう首級しゅきゅう處分しょぶんしたる模様もよう 20-21ページ 
  11. ^ おんな士道しどう 冒頭ぼうとう
  12. ^ a b 新編しんぺん庄内しょうない人名じんめい辞典じてん』263ぺーじ
  13. ^ どろぶね遺稿いこう
  14. ^ a b c 史談しだんかい速記そっきろく
  15. ^ 清河きよかわ八郎はちろう大川おおかわ周明しゅうめいちょ 昭和しょうわ18ねん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 庄内しょうない人名じんめい辞典じてん刊行かんこうかいへん新編しんぺん庄内しょうない人名じんめい辞典じてん庄内しょうない人名じんめい辞典じてん刊行かんこうかい、1986ねん

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

小説しょうせつ
漫画まんが
映画えいが
テレビドラマ
テレビアニメ

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]