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藤沢ふじさわ周平しゅうへい

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藤沢ふじさわ 周平しゅうへい
(ふじさわ しゅうへい)
ペンネーム 藤沢ふじさわ 周平しゅうへい(ふじさわ しゅうへい)
誕生たんじょう 小菅こすが 留治とめじ(こすげ とめじ)
1927ねん昭和しょうわ2ねん12月26にち
日本の旗 日本にっぽん山形やまがたけん東田川ひがしたがわぐん黄金おうごんむら大字だいじだかざかだてしたげん鶴岡つるおか
死没しぼつ (1997-01-26) 1997ねん1がつ26にち(69さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう新宿しんじゅく戸山とやま
国立こくりつ国際こくさい医療いりょうセンター[1]
墓地ぼち 日本の旗 日本にっぽん都営とえい八王子はちおうじ霊園れいえん
職業しょくぎょう 小説しょうせつ
言語げんご 日本語にほんご
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
最終さいしゅう学歴がくれき 山形やまがた師範しはん学校がっこう
ジャンル 時代じだい小説しょうせつ
代表だいひょうさく暗殺あんさつ年輪ねんりん』(1973ねん
たそがれせい兵衛ひょうえ』(1983ねん)
海鳴うみなり』(1984ねん
しろびん』(1985ねん
蟬しぐれ』(1988ねん
ちり』(1988ねん
おも受賞じゅしょうれき オール讀物よみもの新人しんじんしょう(1971ねん
直木なおき三十五さんじゅうごしょう(1973ねん
吉川よしかわ英治えいじ文学ぶんがくしょう(1986ねん
芸術げいじゅつ選奨せんしょう(1989ねん
菊池きくちひろししょう(1989ねん
朝日あさひしょう(1994ねん
紫綬褒章しじゅほうしょう(1995ねん
山形やまがたけん県民けんみん栄誉えいよしょう(1997ねん
鶴岡つるおか特別とくべつ顕彰けんしょう(1997ねん
配偶はいぐうしゃ 小菅こすが 悦子えつこ(1959ねん - 1963ねん
高澤たかさわ 和子かずこ(1969ねん - )
子供こども 遠藤えんどう展子のぶこ先妻せんさい悦子えつこあいだまれた長女ちょうじょ
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藤沢ふじさわ 周平しゅうへい(ふじさわ しゅうへい、1927ねん昭和しょうわ2ねん12月26にち - 1997ねん平成へいせい9ねん1がつ26にち)は、日本にっぽん小説しょうせつ山形やまがたけん鶴岡つるおか出身しゅっしん本名ほんみょう小菅こすが 留治とめじ(こすげ とめじ)。

江戸えど時代じだい[ちゅう 1]舞台ぶたいに、庶民しょみん下級かきゅう武士ぶし哀歓あいかんえがいた時代じだい小説しょうせつ作品さくひんおおのこした[2]。とくに、架空かくうはんうみざかはん(うなさかはん)」を舞台ぶたいにした作品さくひんぐん有名ゆうめいである。

来歴らいれき人物じんぶつ

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山形やまがたけん東田川ひがしたがわぐん黄金おうごんむら大字だいじだかざかだてした現在げんざい鶴岡つるおか高坂こうさか)にまれる。ちち小菅こすが繁蔵しげぞうははたきゑのだいよん兄弟きょうだいじゅん繁美しげみ、このゑ、久治きゅうじ留治とめじ、てつ繁治しげじ)。実家じっか農家のうかで、藤沢ふじさわ自身じしん幼少ようしょうからいえ手伝てつだいをとおして農作業のうさぎょうかかわり、この経験けいけんから後年こうねん農村のうそん舞台ぶたいにした小説しょうせつ農業のうぎょうをめぐる随筆ずいひつおお発表はっぴょうすることになる。郷里きょうり庄内しょうないならんでのうは、作家さっか藤沢ふじさわ周平しゅうへいかんがえるうえでくことのできない要素ようそである。

1934ねん昭和しょうわ9ねん)、あおりゅうてら尋常じんじょう高等こうとう小学校しょうがっこう入学にゅうがく在学ざいがくちゅう黄金おうごんむら国民こくみん学校がっこう改称かいしょう現在げんざい鶴岡つるおか市立しりつ黄金おうごん小学校しょうがっこう)。小学校しょうがっこう時代じだいからあらゆる小説しょうせつ雑誌ざっしるい濫読らんどくし、とう下校げこう最中さいちゅうにも書物しょもつ手放てばなさなかった。また、6年生ねんせいころには時代物じだいもの小説しょうせついた[3]1938ねん(昭和しょうわ13ねん)、11さいときひどい吃音きつおんなやまされる[4]1942ねん(昭和しょうわ17ねん)、15さいとき黄金おうごんむら国民こくみん学校がっこう高等こうとう卒業そつぎょうし、山形やまがた県立けんりつ鶴岡つるおか中学校ちゅうがっこうげん鶴岡つるおかみなみ高校こうこうよるあいだ入学にゅうがく昼間ひるま印刷いんさつ会社かいしゃ村役場むらやくば書記しょきとしてはたらいた。

1945ねん昭和しょうわ20ねん)、18さい、「8がつ15にち終戦しゅうせんのラジオ放送ほうそうを、わたしは役場やくばひかしついた。……よろこびもかなしみもなく、わたしはだだっぴろい空虚くうきょかんつつまれていた。しばらくして、これからどうなるのだろうとおもったが、それにこたえるひとはだれもいないこともわかっていた。」(だいななかん月報げっぽう[5]

1946ねん昭和しょうわ21ねん)に中学校ちゅうがっこう卒業そつぎょう山形やまがた師範しはん学校がっこう[ちゅう 2]げん山形大学やまがただいがく)にすす[ちゅう 3]一級いっきゅうじょうちゃくなりきょう[6]がいた。入学にゅうがくはもっぱら文芸ぶんげいしたしみ、校内こうない同人どうじん雑誌ざっし砕氷さいひょうせん』に参加さんかした(このときの同人どうじん蒲生がもう芳郎よしお小松こまつ康裕やすひろ土田つちた茂範しげのり那須なす五郎ごろう丹波たんば秀和ひでかず松阪まつざか俊雄としお小菅こすが留治とめじの7にん最初さいしょ自筆じひつ原稿げんこう回覧かいらん、ポーの評伝ひょうでん発表はっぴょう)。この時期じきおもいでは自伝じでん半生はんせい』にくわしくしるされており、また小説しょうせつ作品さくひんにしばしば登場とうじょうする剣術けんじゅつ道場みちば同門どうもん友情ゆうじょうなどにもかたちえてえがかれている。小菅こすがは、年生ねんせいなつさん年生ねんせいふゆかい肺炎はいえんになりかけた。かいときには意識いしき不明ふめい状態じょうたいおちいっている。

教員きょういん時代じだい

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1949ねん昭和しょうわ24ねん)、山形やまがた師範しはん学校がっこう卒業そつぎょう山形やまがたけん西田川にしたがわぐん湯田川ゆたがわむらたて湯田川ゆたがわ中学校ちゅうがっこう鶴岡つるおか湯田川ゆたがわ現在げんざい鶴岡つるおか市立しりつ鶴岡つるおかだいよん中学校ちゅうがっこう統合とうごう)へ赴任ふにん[7]国語こくご社会しゃかい担当たんとう1951ねん昭和しょうわ26ねん)、『砕氷さいひょうせん』の後継こうけいである『プレリュウド』に参加さんかした。優秀ゆうしゅう教師きょうしとして将来しょうらい嘱望しょくぼうされ、おしたちからも「体格たいかくがよく、スポーツマンで、色白いろじろ二枚目にまいめ素敵すてき先生せんせい」としたわれた。当時とうじ、この地方ちほうでは師範しはん学校がっこうそつ教師きょうしはエリートであり、順調じゅんちょう人生じんせいあゆはじめた。しかし、このとし3がつ集団しゅうだん検診けんしん当時とうじ不治ふじやまいとされた肺結核はいけっかく発見はっけんされ、休職きゅうしょく余儀よぎなくされる[8]

1952ねん昭和しょうわ27ねん)2がつ東京とうきょう北多摩きたたまぐん東村山ひがしむらやままちげん東村山ひがしむらやま)の篠田しのだ病院びょういん入院にゅういんし、保生やすおえん病院びょういんにおいてみぎはいじょう切除せつじょだい手術しゅじゅつけた。順調じゅんちょうで、篠田しのだ病院びょういんない句会くかい参加さんかし、静岡しずおかけん俳誌はいしうみざか』(ひゃくごうやまおおやけ相生垣あいおいがき瓜人かじん主宰しゅさい)に投稿とうこうをおこなうようになる。きたという俳号はいごうもちいた。またこの時期じきおおいに読書どくしょはげみ、ことに海外かいがい小説しょうせつしたしみ、作家さっか生活せいかつ素地そじ完成かんせいさせた。

記者きしゃ時代じだい

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1957ねん昭和しょうわ32ねん)、退院たいいん準備じゅんびはいるもののおもわしい就職しゅうしょくさきつからず、郷里きょうり教員きょういん生活せいかつおくることを断念だんねん歴史れきし研究けんきゅう大井おおいあつしいもうとはれすすめにより練馬ねりま貫井ぬくいまち下宿げしゅくして業界ぎょうかい新聞しんぶんつとめはじめるも、倒産とうさんなどが相次あいつすう転々てんてんとする。[9]1959ねん昭和しょうわ34ねん)、三浦みうら悦子えつこ結婚けっこん。8さい年下としした同郷どうきょうしゃであった。1960ねん昭和しょうわ35ねん)に株式会社かぶしきがいしゃ日本にっぽん食品しょくひん経済けいざいしゃ入社にゅうしゃ、『日本にっぽん食品しょくひん加工かこう新聞しんぶん』の記者きしゃとなる。以後いご作家さっか生活せいかつ専念せんねんするまで同社どうしゃ勤務きんむ記者きしゃとしての仕事しごとは、本人ほんにんせいにあっており、精力せいりょくてき取材しゅざい執筆しっぴつおこなう。のちに同紙どうし編集へんしゅうちょう昇進しょうしんし、ハム・ソーセージ業界ぎょうかいについて健筆けんぴつるい、業界ぎょうかい健全けんぜん尽力じんりょくした。コラム「甘味あまみ辛味からみ」をほとんど一人ひとり執筆しっぴつ[10]取材しゅざいさきひとつで日本にほんハム創業そうぎょうしゃ当時とうじ社長しゃちょう大社たいしゃ義規よしのりとは信頼しんらい関係かんけいむすんだ[11]。その一方いっぽう文学ぶんがくへの情熱じょうねつやみがたく、勤務きんむはたかたわらこつこつと小説しょうせつきつづけていた。当時とうじはもっぱら純文学じゅんぶんがくこころざしていたらしい(1963ねん昭和しょうわ38ねん)には、読売新聞よみうりしんぶん短編たんぺん小説しょうせつしょうに『あか夕日ゆうひ』が選外せんがい佳作かさくとなった)。

1963ねん昭和しょうわ38ねん)、長女ちょうじょ展子のぶこ遠藤えんどう展子のぶこ藤沢ふじさわぼつエッセイスト)がまれ、清瀬きよせ上清戸かみきよと間借まが生活せいかつはじめるも、同年どうねん10がつつま悦子えつこ急性きゅうせいがんにより[12]急死きゅうし(28さい)。このことにつよ衝撃しょうげきけ、どう市内しないをしつつ、やりのない虚無きょむかんをなだめるために時代じだい小説しょうせつふでるようになる。おも大衆たいしゅうてきな「倶楽部くらぶ雑誌ざっし」に短編たんぺん発表はっぴょう(『藤沢ふじさわ周平しゅうへい 刊行かんこう初期しょき短編たんぺん』に収録しゅうろく)。藤沢ふじさわ作品さくひん初期しょき特徴とくちょうてきな、すくいのないくら雰囲気ふんいきヒロイン悲劇ひげきには、つまがつよく影響えいきょうあたえているとおもわれる。翌年よくねん以降いこう毎年まいとしのようにオール讀物よみもの新人しんじんしょう投稿とうこうはじめる。1965ねん昭和しょうわ40ねん)から藤沢ふじさわ周平しゅうへいペンネーム使つかいはじめた。「藤沢ふじさわ」は悦子えつこ実家じっかのある地名ちめい鶴岡つるおか藤沢ふじさわ)から、「しゅう」の悦子えつこ親族しんぞくからられている[13]

作家さっかデビュー

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つま没後ぼつごは、郷里きょうりからせたはは長女ちょうじょとのさんにんらしとなり、わるはは看病かんびょうしつつ育児いくじおこない、編集へんしゅうちょう激務げきむかたわら5ねん独身どくしんごす。再婚さいこんばなしなか々まとまらなかった。[14]1969ねん昭和しょうわ44ねん)、高澤たかさわ和子かずこ再婚さいこん長女ちょうじょとあわせてさんにん家族かぞくとなり、疲労ひろう困憊こんぱいしていた家事かじから解放かいほうされ、週末しゅうまつ小説しょうせつ執筆しっぴつ専念せんねんできるようになった。1970ねん昭和しょうわ45ねん)に東久留米ひがしくるめしをし、1971ねん昭和しょうわ46ねん)、ついに 『溟いうみ』がだい38かいオール讀物よみもの新人しんじんしょう受賞じゅしょう直木賞なおきしょう候補こうほとなり、1972ねん昭和しょうわ47ねん)『暗殺あんさつ年輪ねんりん』でだい69かい直木賞なおきしょう記者きしゃ仲間なかま大社たいしゃらにいわわれ、編集へんしゅうちょうかたわ新進しんしん時代じだい小説しょうせつ作家さっかとしてみとめられるようになる。このとし最初さいしょ作品さくひんしゅう暗殺あんさつ年輪ねんりん』を文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうより刊行かんこうし、よく1974ねん昭和しょうわ49ねん)には日本にっぽん食品しょくひん経済けいざいしゃ退社たいしゃして、本格ほんかくてき作家さっか生活せいかつはいる。

このころ自分じぶん心境しんきょうを、藤沢ふじさわはこうべている。

さんじゅうだいのおしまいごろからよんじゅうだいのはじめにかけて、わたしはかなりしつこい鬱屈うっくつをかかえてらしていた。鬱屈うっくつといっても仕事しごとなかたいする不満ふまんといったものではなく、まったく私的してきなものだったが、わたしはそれをとおしてなか絶望ぜつぼうし、またそういう自分じぶん自身じしんにも愛想あいそをつかしていた。(中略ちゅうりゃく)(そういう鬱屈うっくつ解消かいしょう方法ほうほうが)わたし場合ばあい小説しょうせつ作業さぎょうにつながった。「溟いうみ」は、そんなぐあいで出来上できあがった小説しょうせつである。」

(「溟いうみ」の背景はいけい

わたし自身じしん当時とうじ小説しょうせつかえすと、少少しょうしょう苦痛くつうかんじるほどにくら仕上しあがりのものがおおい。男女だんじょあい別離べつりわるし、武士ぶしんで物語ものがたりわるというふうだった。ハッピーエンドがけなかった。」

転機てんき作物さくもつ

初期しょきにはみずかべるようにくらおも作風さくふうであり、地味じみ作家さっかであったが、1976ねん昭和しょうわ51ねん刊行かんこうの『竹光たけみつ始末しまつ』、同年どうねん連載れんさいの『用心棒ようじんぼう日月じつげつしょう』のあたりから作風さくふうかわり、綿密めんみつ描写びょうしゃうつくしい抒情じょじょうせいのうえにユーモアのいろどりが濃厚のうこうとなってきた。藤沢ふじさわは、これについて「『用心棒ようじんぼう日月じつげつしょう』あたりからユーモア要素ようそはいんできた。北国きたぐにふうのユーモアが目覚めざめたということだったかもれない」(転機てんき作物さくもつ要約ようやく)とべている。

円熟えんじゅく作家さっかとして

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1980年代ねんだい前半ぜんはん町人ちょうにんものですうおおくのしゅうひんをものする(『時雨しぐれみち』『しもあさ』『りゅうおとこ』などの短篇たんぺんしゅう所収しょしゅう一方いっぽうで、大衆たいしゅう小説しょうせつ本道ほんどうともいうべき娯楽ごらくしょくつよいシリーズもの(短篇たんぺん連作れんさく)を次々つぎつぎみだす。刊行かんこうねんによってげると、1980ねん昭和しょうわ55ねん)に町人ちょうにんものの『はしものがたり』、捕物とりものちょうの『きりて-神谷かみやげん次郎じろう捕物とりものひかえ』、ごく立花たちばなのぼるもののだいいちさくとなる『春秋しゅんじゅうおりごく立花たちばなのぼる手控てびかえ』、『用心棒ようじんぼう日月じつげつしょう』のだい孤剣こけん』、よく1981ねん昭和しょうわ56ねん)にはユーモアしょくかした『かくけん孤影こえいしょう』『かくけん秋風あきかぜしょう』と立花たちばなのぼるもののだいさく風雪ふうせつおり』、1982ねん昭和しょうわ57ねん)にはおなじく『愛憎あいぞうおり』、1983ねん昭和しょうわ58ねん)には『用心棒ようじんぼう日月じつげつしょう』の系統けいとうかした『よろずや平四郎へいしろうかつじんけん』、立花たちばなのぼるだいさんさく人間にんげんおり』、『用心棒ようじんぼう日月じつげつしょう』のだいさんさく刺客しかく』などがある。

1984ねん昭和しょうわ59ねん以降いこうになると、こうしたシリーズもののほかに綿密めんみつ構成こうせいによる長篇ちょうへん登場とうじょうし、物語ものがたりせいのつよい傑作けっさく相次あいついで発表はっぴょう刊行かんこうされるようになる。すでに1980ねん昭和しょうわ55ねん)に唯一ゆいいつ伝奇でんき小説しょうせつやみ傀儡かいらい』、1982ねん昭和しょうわ57ねん)に江戸えどハードボイルドねらったといわれる伊之助いのすけもののだいさく漆黒しっこくきりなかで-伊之助いのすけ捕物とりものおぼえ』が上梓じょうしされているが、1984ねん昭和しょうわ59ねん)には江戸えど舞台ぶたいにした恋愛れんあい小説しょうせつ海鳴うみなり』、1985ねん昭和しょうわ60ねん)には武家ぶけ青春せいしゅん小説しょうせつとおいえ騒動そうどうものの系譜けいふ集大成しゅうたいせいともいえる『ふう』と伊之助いのすけものだいさんさく『ささやくかわ』、1988ねん昭和しょうわ63ねん)には代表だいひょうさくとのほまれがたかい『蟬しぐれ』が刊行かんこうされ、いずれもたか人気にんきた。

1992ねん平成へいせい4ねん)6がつに、文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうで『藤沢ふじさわ周平しゅうへい全集ぜんしゅう[15]刊行かんこう開始かいしした(ぜん23かん1994ねん平成へいせい6ねん)4がつ完結かんけつ[16]

晩年ばんねん没後ぼつご

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1995ねん平成へいせい7ねんごろより、わかいころの結核けっかく手術しゅじゅつさい輸血ゆけつさい罹患りかんした肝炎かんえんにより、1996ねん平成へいせい8ねん)には入退院にゅうたいいんかえし、直木賞なおきしょう選考せんこう委員いいん辞退じたいする。1996ねん平成へいせい8ねん)7がつ帰宅きたくしたさい、『文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう』への連載れんさいが4がつごうより中断ちゅうだんしていた「うるしのみのるくに結末けつまつの6まい執筆しっぴつした。

1997ねん平成へいせい9ねん1がつ26にち肝不全かんふぜんのため国立こくりつ国際こくさい医療いりょうセンター死去しきょ、(69さいぼつ[1][17]戒名かいみょう藤澤ふじさわいんしゅう徳留とくどめしん居士こじ墓所はかしょ都営とえい八王子はちおうじ霊園れいえん

没後ぼつご山形やまがたけん県民けんみん栄誉えいよしょう[18]鶴岡つるおか特別とくべつ顕彰けんしょう鶴岡つるおか名誉めいよ市民しみん顕彰けんしょう同等どうとう)が没後ぼつご授与じゅよされた。鶴岡つるおか藤沢ふじさわ周平しゅうへい文学ぶんがく愛好あいこうかいが、毎年まいとし寒梅かんばい」を開催かいさいしている(祥月命日しょうつきめいにち前後ぜんご[19][20]

2010ねん平成へいせい22ねん)4がつ29にち出身しゅっしん鶴岡つるおかに「鶴岡つるおか市立しりつ藤沢ふじさわ周平しゅうへい記念きねんかん」が開館かいかんした。

受賞じゅしょうれき選考せんこう委員いいんれき

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受賞じゅしょうれき

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選考せんこう委員いいん

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  • 1976ねん昭和しょうわ51ねん)からはオール讀物よみもの新人しんじんしょう選考せんこう委員いいん
  • 1985ねん昭和しょうわ60ねん)から1996ねん平成へいせい8ねん)まで直木賞なおきしょう選考せんこう委員いいん
  • 1988ねん昭和しょうわ63ねん)から1991ねん平成へいせい3ねん)まで 山本やまもと周五郎しゅうごろうしょう選考せんこう委員いいん

エピソード

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  • 織田おだ信長のぶなが先進せんしんせいみとめながらも、小説しょうせつ下調したしらべのため史料しりょう調しらべているとき残虐ざんぎゃくいのおおさにづき、以降いこう信長のぶながきらうようになった、とエッセイ『信長のぶながぎらい』でべている。べつのエッセイによれば、この小説しょうせつ明智あけち光秀みつひでえがいた小説しょうせつぎゃくぐんはた』のことであったという。また、この信長のぶながかんについては「全集ぜんしゅう解説かいせつ担当たんとうしている向井むかいさとしが、司馬しばりょう太郎たろうとの差異さいとしてげている。
  • 趣味しゅみ囲碁いご日本棋院にほんきいんから初段しょだんみとめられる腕前うでまえであり、職場しょくば新聞しんぶんしゃ)の昼休ひるやすみにほか作家さっか専業せんぎょうになってからも近所きんじょ会所かいしょかよったり、作家さっか仲間なかまつなどしていた。けるとはやし海峰みほの『定石じょうせき急所きゅうしょ』を帰宅きたくひそかにんでいたという。本人ほんにんは「直木賞なおきしょうをとってもアマよんだん職場しょくば同僚どうりょうけており、なかなかうでがらない」とべている。また、しばしばエッセイ囲碁いごについてれている。
  • 郷里きょうりである山形やまがたけん鶴岡つるおか憧憬どうけいがあり、作品さくひん反映はんえいされている。とくに庄内しょうない交通こうつう湯野浜ゆのはません電車でんしゃ(1975ねん昭和しょうわ50ねん廃止はいし)が馴染なじみがあったこともあり、書斎しょさいには同線どうせん廃止はいしになったさいつくられたレールの文鎮ぶんちんがあり、愛用あいようしていた[23]。また、1975ねん昭和しょうわ50ねん)に発刊はっかんされた『えゆく山形やまがた私鉄してつ電車でんしゃ』(久保田くぼた久雄ひさお東北とうほく出版しゅっぱん企画きかく)にも、湯野浜ゆのはません電車でんしゃ廃止はいしについてコメントをせている。
  • 自伝じでん随想ずいそうしゅうである『周平しゅうへい独言ひとりごとないでは、「ある政党せいとう」を応援おうえんしているとしるしてあるが、どうこう文学ぶんがく政治せいじでは分野ぶんやことなるとべ、選挙せんきょ応援おうえんなどの政治せいじ活動かつどう自分じぶんには似合にあわないことのようながするともしるしている。

著書ちょしょ

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シリーズ作品さくひん

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  • 用心棒ようじんぼう日月じつげつしょうシリーズ
    • 用心棒ようじんぼう日月じつげつしょう新潮社しんちょうしゃ 1978ねん のち文庫ぶんこ
    • 孤剣こけん 用心棒ようじんぼう日月じつげつしょう新潮社しんちょうしゃ 1980ねん のち文庫ぶんこ
    • 刺客しかく 用心棒ようじんぼう日月じつげつしょう新潮社しんちょうしゃ 1983ねん のち文庫ぶんこ
    • 凶刃きょうじん 用心ようじんささげ日月じつげつしょう新潮社しんちょうしゃ 1991ねん のち文庫ぶんこ
  • 伊之助いのすけ捕物とりものおぼえシリーズ
    • えたおんなだてふう書房しょぼう 1979ねん のち新潮しんちょう文庫ぶんこ
    • 漆黒しっこくきりなかで(新潮社しんちょうしゃ 1982ねん のち文庫ぶんこ
    • ささやくかわ新潮社しんちょうしゃ 1985ねん のち文庫ぶんこ
  • ごく立花たちばなのぼる手控てびかシリーズ
    • 春秋しゅんじゅうおり ごく立花たちばなのぼる手控てびかえ1(講談社こうだんしゃ 1980ねん のち文庫ぶんこ文春ぶんしゅん文庫ぶんこ
    • 風雪ふうせつおり ごく立花たちばなのぼる手控てびかえ2(講談社こうだんしゃ 1981ねん のち文庫ぶんこ文春ぶんしゅん文庫ぶんこ
    • 愛憎あいぞうおり ごく立花たちばなのぼる手控てびかえ3(講談社こうだんしゃ 1982ねん のち文庫ぶんこ文春ぶんしゅん文庫ぶんこ
    • 人間にんげんおり ごく立花たちばなのぼる手控てびかえ4(講談社こうだんしゃ 1983ねん のち文庫ぶんこ文春ぶんしゅん文庫ぶんこ
  • かくけんシリーズ
    • かくけん孤影こえいしょう文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 1981ねん のち文庫ぶんこ
    • かくけん秋風あきかぜしょう文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 1981ねん のち文庫ぶんこ

作品さくひん

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  • 暗殺あんさつ年輪ねんりん文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 1973ねん のち文庫ぶんこ)- たん編集へんしゅう
  • またくら文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 1974ねん のち文庫ぶんこ)- たん編集へんしゅう
  • やみ梯子はしご文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 1974ねん のち文庫ぶんこ講談社こうだんしゃ文庫ぶんこ)- たん編集へんしゅう
  • おりしゃすみかわわたる(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 1975ねん
  • 竹光たけみつ始末しまつたてふう書房しょぼう 1976ねん のち新潮しんちょう文庫ぶんこ)- たん編集へんしゅう
  • 時雨しぐれのあと(だてふう書房しょぼう 1976ねん のち新潮しんちょう文庫ぶんこ)- たん編集へんしゅう
  • 義民ぎみんける中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ 1976ねん のち文庫ぶんこ講談社こうだんしゃ文庫ぶんこ新潮しんちょう文庫ぶんこ
  • 冤罪えんざい青樹あおきしゃ 1976ねん のち新潮しんちょう文庫ぶんこ)- たん編集へんしゅう
  • あかつきのひかり(光風こうふうしゃ書店しょてん 1976ねん のち文春ぶんしゅん文庫ぶんこ)- たん編集へんしゅう
  • ぎゃくぐんはた青樹あおきしゃ 1976ねん のち文春ぶんしゅん文庫ぶんこ)- たん編集へんしゅう
  • 喜多川きたがわ歌麿うたまろじょ絵草紙えぞうし青樹あおきしゃ 1977ねん のち文春ぶんしゅん文庫ぶんこ講談社こうだんしゃ文庫ぶんこ)- 連作れんさくたん編集へんしゅう
  • やみあなだてふう書房しょぼう 1977ねん のち新潮しんちょう文庫ぶんこ)- たん編集へんしゅう
  • やみ歯車はぐるま講談社こうだんしゃ 1977ねん のち文庫ぶんこ中公ちゅうこう文庫ぶんこ文春ぶんしゅん文庫ぶんこ
  • 長門ながとまもる陰謀いんぼうだてふう書房しょぼう 1978ねん のち文春ぶんしゅん文庫ぶんこ講談社こうだんしゃ文庫ぶんこ)- たん編集へんしゅう
  • 春秋しゅんじゅう山伏やまぶしいえひかり協会きょうかい 1978ねん のち新潮しんちょう文庫ぶんこ角川かどかわ文庫ぶんこ
  • 一茶いっさ文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 1978ねん のち文庫ぶんこ
  • 神隠かみがくし(青樹あおきしゃ 1979ねん のち新潮しんちょう文庫ぶんこ)- たん編集へんしゅう
  • 雪明ゆきあかり(講談社こうだんしゃ文庫ぶんこ 1979ねん)- たん編集へんしゅう
  • 回天かいてんもん文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 1979ねん のち文庫ぶんこ
  • 驟りあめ青樹あおきしゃ 1980ねん のち新潮しんちょう文庫ぶんこ)- たん編集へんしゅう
  • はしものがたり(実業之日本社じつぎょうのにほんしゃ 1980ねん のち新潮しんちょう文庫ぶんこ)- 連作れんさくたん編集へんしゅう
  • 出合であい茶屋ちゃや 神谷かみやげん次郎じろう捕物とりものひかえ双葉社ふたばしゃ 1980ねん
    • 改題かいだいきりて」(文春ぶんしゅん文庫ぶんこ 1985ねん
  • やみ傀儡かいらい文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 1980ねん のち文庫ぶんこ
  • よるはし中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ 1981ねん のち文庫ぶんこ文春ぶんしゅん文庫ぶんこ)- たん編集へんしゅう
  • 時雨しぐれみち(青樹あおきしゃ 1981ねん のち新潮しんちょう文庫ぶんこ)- たん編集へんしゅう
  • しもあさ青樹あおきしゃ 1981ねん のち新潮しんちょう文庫ぶんこ)- たん編集へんしゅう
  • 密謀みつぼう毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ 1982ねん のち新潮しんちょう文庫ぶんこ
  • よろずや平四郎へいしろうかつじんけん文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 1983ねん のち文庫ぶんこ
  • りゅうおとこ青樹あおきしゃ 1983ねん のち新潮しんちょう文庫ぶんこ)- たん編集へんしゅう
  • 海鳴うみなり(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 1984ねん のち文庫ぶんこ
  • しろびん小説しょうせつ長塚ながつかたかし文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 1985ねん のち文庫ぶんこ
  • はなのあと青樹あおきしゃ 1985ねん のち文春ぶんしゅん文庫ぶんこ)- たん編集へんしゅう
  • ふう朝日新聞社あさひしんぶんしゃ 1985ねん のち文春ぶんしゅん文庫ぶんこ
  • 決闘けっとうつじ 藤沢ふじさわばんしん剣客けんかくでん講談社こうだんしゃ 1985ねん のち文庫ぶんこ新潮しんちょう文庫ぶんこ)- たん編集へんしゅう
  • 潮田うしおだでん五郎ごろうおけぶん東京とうきょう文芸ぶんげいしゃ 1985ねん光風こうふうしゃ出版しゅっぱん 1991ねん)- たん編集へんしゅう
  • 本所ほんじょしぐれまち物語ものがたり新潮社しんちょうしゃ 1987ねん のち文庫ぶんこ)- 連作れんさくたん編集へんしゅう
  • 蟬しぐれ文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 1988ねん のち文庫ぶんこ
  • たそがれせい兵衛ひょうえ新潮社しんちょうしゃ 1988ねん のち文庫ぶんこ)- 連作れんさくたん編集へんしゅう
  • ちり講談社こうだんしゃ日本にっぽん歴史れきし文学ぶんがくかん)1988ねん 新版しんぱん1989ねん のち文庫ぶんこ新潮しんちょう文庫ぶんこ
  • むぎまち昼下ひるさがり(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 1989ねん のち文庫ぶんこ)- たん編集へんしゅう
  • 三屋清左衛門残日録文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 1989ねん のち文庫ぶんこ
  • げんとり文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 1991ねん のち文庫ぶんこ)- たん編集へんしゅう
  • 天保てんぽう悪党あくとうでん角川書店かどかわしょてん 1992ねん のち文庫ぶんこ新潮しんちょう文庫ぶんこ
  • 太刀だちうまほね文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 1992ねん のち文庫ぶんこ
  • よるえる(文春ぶんしゅん文庫ぶんこ 1994ねん文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 1995ねん)- たん編集へんしゅう
  • 日暮ひぐちく河岸かわぎし文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 1996ねん のち文庫ぶんこ)- 連作れんさくたん編集へんしゅう[24]
  • うるしのみのるくに文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 1997ねん のち文庫ぶんこ
  • 早春そうしゅん その文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 1998ねん のち文庫ぶんこ)- たん編集へんしゅう
  • しずかな新潮社しんちょうしゃ 1998ねん のち文庫ぶんこ)- たん編集へんしゅう
  • 刊行かんこう初期しょき短篇たんぺん文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 2006ねん のち文庫ぶんこ[25]
  • 江戸えどおんな絵姿えすがたじゅうけい文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 2016ねん[26]

随想ずいそうしゅう

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  • 周平しゅうへい独言ひとりごと中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ 1981ねん のち文庫ぶんこ文春ぶんしゅん文庫ぶんこ)- はつのエッセイしゅう
  • 小説しょうせつ周辺しゅうへん潮出版社うしおしゅっぱんしゃ 1986ねん のち文春ぶんしゅん文庫ぶんこ
  • 半生はんせい文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 1994ねん のち文庫ぶんこ)- 自叙伝じじょでん
  • ふるさとへまわろくは(新潮しんちょう文庫ぶんこ 1995ねん新潮社しんちょうしゃ 1998ねん
  • 帰省きせい 刊行かんこうエッセイしゅう文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 2008ねん のち文庫ぶんこ
  • ちちのごとき故郷こきょう文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 2010ねん)- 新編しんぺん48へん
  • 甘味あまみ辛味からみ 業界ぎょうかい時代じだい藤沢ふじさわ周平しゅうへい文春ぶんしゅん文庫ぶんこ 2012ねん)- 記者きしゃ時代じだい精選せいせんコラム70へん

作品さくひんしゅう その

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  • 藤沢ふじさわ周平しゅうへい短篇たんぺん傑作けっさくせん ぜん4かん文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 1981ねん
  • 藤沢ふじさわ周平しゅうへい全集ぜんしゅう 文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう - ※ だい1 〜 23かん 1992ねん - 1994ねんだい24・25かん別巻べっかん 2002ねんだい26かん 2012ねん
  • 藤沢ふじさわ周平しゅうへい珠玉しゅぎょくせん ぜん9かん青樹あおきしゃ 1993ねん - 1994ねん
  • 藤沢ふじさわ周平しゅうへい句集くしゅう文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 1999ねん のち文庫ぶんこ
  • うみざかはん大全たいぜんうえした)(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 2007ねん

著作ちょさくメディア展開てんかい

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映画えいが

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テレビドラマ

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舞台ぶたい

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朗読ろうどく(ラジオほか)

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関連かんれん文献ぶんけん

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作家さっか本人ほんにん身辺しんぺんおもとするもの

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  • 遠藤えんどう展子のぶこ[32]藤沢ふじさわ周平しゅうへい ちち周辺しゅうへん』(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、2006ねん文春ぶんしゅん文庫ぶんこ、2010ねん)、ISBN 4-16-777338-4
  • 遠藤えんどう展子のぶこちち藤沢ふじさわ周平しゅうへいとのくらし』 (新潮社しんちょうしゃ、2007ねん新潮しんちょう文庫ぶんこ、2009ねん)、ISBN 4-10-128681-7
  • 遠藤えんどう展子のぶこ藤沢ふじさわ周平しゅうへい のこされた手帳てちょう』(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、2017ねん文春ぶんしゅん文庫ぶんこ、2020ねん)、ISBN 4-16-791568-5
  • 小菅こすが繁治しげじあに 藤沢ふじさわ周平しゅうへい』(毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、2001ねん)。末弟ばってい回想かいそう
  • 粕谷あらや昭二しょうじ藤沢ふじさわ周平しゅうへいいしずえ 小菅こすが留治とめじ』(東北とうほく出版しゅっぱん企画きかく、2008ねん)。故郷こきょう関係かんけいしゃによる人間像にんげんぞう

作家さっかろん作品さくひんろんおもとするもの

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要素ようそふくあわしたもの

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  • 文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうへん藤沢ふじさわ周平しゅうへい世界せかい』(文春ぶんしゅん文庫ぶんこ[35]、1997ねん4がつ)、ISBN 4-16-721763-5 
  • 文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうへん藤沢ふじさわ周平しゅうへいのすべて』(文春ぶんしゅん文庫ぶんこ[36]、2001ねん2がつ)、ISBN 4-16-721775-9
  • オール読物よみもの責任せきにん編集へんしゅう藤沢ふじさわ周平しゅうへいのこころ』(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう<没後ぼつごじゅうねん文春ぶんしゅんムック>、2016ねん12月/文春ぶんしゅん文庫ぶんこ改訂かいていばん)、2018ねん10がつISBN 4-582-94501-5[37]
  • 別冊べっさつ太陽たいよう 藤沢ふじさわ周平しゅうへい人間にんげん哀歓あいかんぎしのぬくもりをえがいた小説しょうせつ』(平凡社へいぼんしゃ、2006ねん10がつ)、図版ずはん案内あんない
  • 山形新聞社やまがたしんぶんしゃへん藤沢ふじさわ周平しゅうへい庄内しょうない うみざかはんたずねるたび』(ダイヤモンド社だいやもんどしゃ、1997ねん
    • 改題かいだい藤沢ふじさわ周平しゅうへいあいした風景ふうけい 庄内しょうないうみざかはんたずねるたび』(祥伝社しょうでんしゃ黄金おうごん文庫ぶんこ、2000ねん
  • 山形新聞社やまがたしんぶんしゃへんつづけ 藤沢ふじさわ周平しゅうへい庄内しょうない うみざかはんひとかぜ』(ダイヤモンド社だいやもんどしゃ、1999ねん
  • 山形新聞社やまがたしんぶんしゃへん没後ぼつごじゅうねん 藤沢ふじさわ周平しゅうへい読本とくほん』(あら蝦夷えぞ仙台せんだい)、2008ねん)。※ 「山形やまがた新聞しんぶん連載れんさい企画きかく書籍しょせき
    高橋たかはし義夫よしお中村なかむらあきら蒲生がもう芳郎よしお井上いのうえ史雄ふみお井上いのうえひさし佐伯さえきいちむぎ佐藤さとう賢一けんいち杉村すぎむらたかし酒井さかいおきとう孝康たかやす仲川なかがわ秀樹ひでき中村なかむら敦夫あつおひとし寄稿きこう
  • 笹沢ささざわしん藤沢ふじさわ周平しゅうへいでん[38]白水しろみずしゃ、2013ねん9がつISBN 4-560-08319-3
  • 歴史れきし読本とくほん編集へんしゅうへん藤沢ふじさわ周平しゅうへいむ』[39]新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2010ねん9がつ)、ISBN 4-404-03912-3
  • 藤沢ふじさわ周平しゅうへい全集ぜんしゅう 別巻べっかん ひととその世界せかい[40]文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、2002ねん8がつ)、ISBN 4-16-364460-1
  • 幸津さいつ國生こつしょう貢献こうけんじんという人間像にんげんぞう 東日本ひがしにっぽん大震災だいしんさい記録きろく藤沢ふじさわ周平しゅうへい作品さくひん世界せかいかえりみて』 花伝社かでんしゃ 2013ねん
  • 福沢ふくさわ一郎いちろう武士ぶしどうこのまず、のうひと藤沢ふじさわ周平しゅうへい砂子屋さごや書房しょぼう 2021ねん
  • 鯨井くじらいたすく藤沢ふじさわ周平しゅうへい読書どくしょ遍歴へんれき朝日出版社あさひしゅっぱんしゃ 2019ねん

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ とく町人ちょうにん文化ぶんかじゅくした文化ぶんか文政ぶんせいおもえがいた。
  2. ^ 当時とうじ師範しはん学校がっこう入学にゅうがくきん授業じゅぎょうりょうらなかった。からはいっていれば、給費きゅうひせんえんちかくもらえた。しかし、小菅こすが本科ほんかからはいった。下宿げしゅくだいさねばならなかったから、おやにはかなりな負担ふたんけている。奨学しょうがくきんもらった。
  3. ^ 留治とめじにとってあに久治きゅうじ復員ふくいんしてきたことも進学しんがく決心けっしんさせた

出典しゅってん

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  1. ^ a b 史上しじょうはつだい調査ちょうさ 著名ちょめいじん100にん最後さいごたよった病院びょういん あなたの病院びょういんえらびは間違まちがっていませんか”. 現代げんだいビジネス (2011ねん8がつ17にち). 2020ねん9がつ15にち閲覧えつらん
  2. ^ 藤沢ふじさわ周平しゅうへいにとって小説しょうせつはどういてもいいのではなく、人生じんせい哀切あいせつたしかに読者どくしゃつたえることのできる小説しょうせつをとねがった。それを時代じだい小説しょうせつという形式けいしきあらわした。その時代じだい小説しょうせつは、剣客けんかく藩士はんし登場とうじょうする武家ぶけものと、町人ちょうにん渡世人とせいにん主人公しゅじんこうとする市井しせいものとの系列けいれつけられている。(『藤沢ふじさわ周平しゅうへい全集ぜんしゅう 別巻べっかん文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、2002ねん。17ページ)
  3. ^ 歴史れきし読本とくほん編集へんしゅうへん藤沢ふじさわ周平しゅうへいむ』新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2010ねん平成へいせい22ねん)9がつ。298ページ
  4. ^ 笹沢ささざわしん藤沢ふじさわ周平しゅうへいでん白水しろみずしゃ、2013ねん。423ページ
  5. ^ 藤沢ふじさわ周平しゅうへい全集ぜんしゅう だい23かん文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1994ねん。578ページ
  6. ^ 藤沢ふじさわ周平しゅうへい全集ぜんしゅう だい23かん文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1994ねん。577 - 578ページ
  7. ^ 元気げんき・まちネット」踏査とうさ同行どうこう(4) 湯田川ゆたがわ温泉おんせん”. 山形やまがた新聞しんぶん (2009ねん10がつ1にち). 2020ねん9がつ15にち閲覧えつらん [リンク]
  8. ^ 教師きょうし時代じだい事項じこうもっぱ徳永とくなが文一ぶんいち業界ぎょうかい時代じだい藤沢ふじさわ周平しゅうへい」-『甘味あまみ辛味からみ所収しょしゅう文春ぶんしゅん文庫ぶんこ)による。
  9. ^ のち徳永とくなが文一ぶんいち調査ちょうさしたところでも、藤沢ふじさわがこの時期じきどこにつとめていたのかは判然はんぜんとしないという。徳永とくなが文一ぶんいち業界ぎょうかい時代じだい藤沢ふじさわ周平しゅうへい」-『甘味あまみ辛味からみ所収しょしゅう文春ぶんしゅん文庫ぶんこ)。
  10. ^ 甘味あまみ辛味からみ」は遺稿いこうしゅうとして、文春ぶんしゅん文庫ぶんこ没後ぼつご出版しゅっぱんされた(徳永とくなが文一ぶんいち解説かいせつ業界ぎょうかい時代じだい藤沢ふじさわ周平しゅうへい」による)。
  11. ^ 藤沢ふじさわ周平しゅうへいのすべて」での同僚どうりょう金田かねだ明夫あきお回想かいそうと、阿部あべ達二たつじ発掘はっくつ新聞しんぶん記者きしゃ 藤沢ふじさわ周平しゅうへいのエッセイ」、『オール読物よみもの』(2012ねん2がつごう文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう)による。
  12. ^ 徳永とくなが評伝ひょうでん、および『藤沢ふじさわ周平しゅうへいいた我慢がまん』2013ねん平成へいせい25ねん)1がつ20日はつか 読売新聞よみうりしんぶん15めん
  13. ^ 阿部あべ達二たつじ藤沢ふじさわ周平しゅうへいざんろく』、p.85
  14. ^ 徳永とくなが業界ぎょうかい時代じだい藤沢ふじさわ周平しゅうへい』より
  15. ^ 向井むかいさとしうみざかはんさむらいたち』は、大半たいはんは「全集ぜんしゅう解説かいせつしゅう
  16. ^ 没後ぼつごの2002ねん平成へいせい14ねん)に、24かんうるしのみのるくに ほか短編たんぺん」、25かん書簡しょかん句集くしゅう ほか」、別巻べっかん作品さくひん解説かいせつ ほか」が、2012ねん平成へいせい24ねん)には、26かん初期しょき短篇たんぺんじゅうへん、エッセイ、選評せんぴょうしゅう」が刊行かんこうされた。
  17. ^ 岩井いわいひろし作家さっか臨終りんじゅう墓碑ぼひ事典じてん』(東京とうきょうどう出版しゅっぱん1997ねん平成へいせい9ねん))285ページ
  18. ^ 山形やまがたけん名誉めいよ県民けんみん山形やまがたけん県民けんみん栄誉えいよしょう”. 山形やまがたけん. 2022ねん7がつ29にち閲覧えつらん
  19. ^ 藤沢ふじさわさんの魅力みりょくさい発見はっけん 鶴岡つるおか没後ぼつご20ねん寒梅かんばい」、パネルてんも”. 山形やまがた新聞しんぶん. (2017ねん1がつ30にち). http://yamagata-np.jp/news/201701/30/kj_2017013000741.php 2020ねん9がつ15にち閲覧えつらん  [リンク]
  20. ^ “<藤沢ふじさわ周平しゅうへい没後ぼつご20ねん 魅力みりょくかたくせず”. 河北かわきた新報しんぽう. (2017ねん1がつ30にち). http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201701/20170130_53029.html 2020ねん9がつ15にち閲覧えつらん  [リンク]
  21. ^ 朝日あさひしょう 1971-2000年度ねんど”. 朝日新聞社あさひしんぶんしゃ. 2022ねん8がつ19にち閲覧えつらん
  22. ^ 藤沢ふじさわ周平しゅうへいさんに魯迅ろじん文学ぶんがくしょう. 朝日新聞あさひしんぶんデジタル (朝日新聞社あさひしんぶんしゃ). (2022ねん9がつ13にち). https://www.asahi.com/articles/DA3S15414141.html 2022ねん10がつ5にち閲覧えつらん 
  23. ^ 1994ねん平成へいせい6ねん)3がつ2にち朝日新聞あさひしんぶん藤沢ふじさわ周平しゅうへい世界せかい
  24. ^ 江戸えどおんな絵姿えすがたじゅうけいぜん12へんと「広重ひろしげ名所めいしょ江戸えどひゃくけい」 より」ぜん7へん収録しゅうろく
  25. ^ 改題かいだい無用むよう隠密おんみつ 刊行かんこう初期しょき短篇たんぺん」(文春ぶんしゅん文庫ぶんこ 2009ねん。1へん追加ついかぜん15へん
  26. ^ 浮世絵うきよえ12まいによる連作れんさく掌編しょうへん、カラー版本はんぽん
  27. ^ 撮影さつえい終了しゅうりょう一茶いっさ」も公開こうかい未定みてい おぞうりのわけとは デジタル毎日新聞まいにちしんぶん 2018ねん平成へいせい30ねん)1がつ11にち
  28. ^ “リリー・フランキーが小林こばやし一茶いっさやく主演しゅえん藤沢ふじさわ周平しゅうへいによる伝記でんき小説しょうせつ映画えいが. 映画えいがナタリー. (2016ねん10がつ13にち). https://natalie.mu/eiga/news/205205 2020ねん9がつ15にち閲覧えつらん 
  29. ^ 番組ばんぐみエピソード 歴史れきし時代じだい小説しょうせつをドラマ!『連続れんぞく時代じだいげき特集とくしゅう』 -NHKアーカイブス
  30. ^ テレビ番組ばんぐみひょう記録きろく 2017ねん4がつ2にちのラジオ番組ばんぐみひょう山形やまがた・ラジオ)
  31. ^ 藤沢ふじさわ周平しゅうへい世界せかい番組ばんぐみHP YBCラジオ(山形放送やまがたほうそう)(2022ねん10がつ5にち閲覧えつらん)
  32. ^ 遠藤えんどう展子のぶこ解説かいせつちちむすめの「はしものがたり」』(連作れんさく短篇たんぺんしゅうはしものがたり』、実業之日本社じつぎょうのにほんしゃ新版しんぱん2007ねん平成へいせい19ねん)、愛蔵あいぞうばん2017ねん平成へいせい29ねん))がある。ISBN 4-408-53505-2
  33. ^ ほかにも『藤沢ふじさわ周平しゅうへい言葉ことば』(角川かどかわSSC新書しんしょ、2009ねん平成へいせい21ねん))、高信たかのぶとの対談たいだん藤沢ふじさわ周平しゅうへい山本やまもと周五郎しゅうごろう』(毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、2004ねん平成へいせい16ねん)/光文社こうぶんしゃ知恵ちえもり文庫ぶんこ、2012ねん平成へいせい24ねん))がある。
  34. ^ おっと遠藤えんどうたかし寿ことぶきともに『わたしの藤沢ふじさわ周平しゅうへい』(宝島社たからじましゃ、2009ねん平成へいせい21ねん)1がつ文春ぶんしゅん文庫ぶんこ、2012ねん平成へいせい24ねん)10がつ監修かんしゅうおこない、没後ぼつご10ねん記念きねんした番組ばんぐみ『わたしの藤沢ふじさわ周平しゅうへい』(NHK衛星えいせい放送ほうそうBS2)を書籍しょせき著名ちょめいじん30すうめいのファンが、きな作品さくひんえらおもいをかたっている。
  35. ^ 文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう臨時りんじ増刊ぞうかん 藤沢ふじさわ周平しゅうへい世界せかい』(1994ねん平成へいせい6ねん)6がつ)の再編さいへんばん
  36. ^ 文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう臨時りんじ増刊ぞうかん 藤沢ふじさわ周平しゅうへいのすべて』(1997ねん平成へいせい9ねん)10がつ)の再編さいへんばん
  37. ^ ムックほんは、に『「せみしぐれ」と藤沢ふじさわ周平しゅうへい世界せかい』(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、2005ねん平成へいせい17ねん))、『藤沢ふじさわ周平しゅうへいと〈うみざかはん〉をたびする』(徳間書店とくましょてん、2012ねん平成へいせい24ねん))がある。
  38. ^ 著者ちょしゃ山形新聞社やまがたしんぶんしゃ記者きしゃ郷里きょうり庄内しょうないからの視点してんじくえがいた評伝ひょうでん
  39. ^ 旧版きゅうばんは『別冊べっさつ歴史れきし読本とくほん 藤沢ふじさわ周平しゅうへい読本とくほん新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1998ねん平成へいせい10ねん
  40. ^ 上記じょうき藤沢ふじさわ周平しゅうへいのすべて』、『藤沢ふじさわ周平しゅうへい世界せかい』、および文庫ぶんこばん解説かいせつ

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 阿部あべいたる藤沢ふじさわ周平しゅうへい 完全かんぜん年譜ねんぷ」。文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうへん藤沢ふじさわ周平しゅうへいのすべて』(文春ぶんしゅん文庫ぶんこ、2001ねん)の巻末かんまつ収録しゅうろく
  • 阿部あべ達二たつじ藤沢ふじさわ周平しゅうへいざんろく』(文春ぶんしゅん新書しんしょ、2004ねん)、ISBN 4-16-660359-0担当たんとうしゃ回想かいそう上記じょうきはペンネーム)
  • 徳永とくなが文一ぶんいちもと読売新聞社よみうりしんぶんしゃ記者きしゃ解説かいせつ -『甘味あまみ辛味からみ 業界ぎょうかい時代じだい藤沢ふじさわ周平しゅうへい』(文春ぶんしゅん文庫ぶんこ、2012ねん)、ISBN 4-16-719255-1
後編こうへんは、徳永とくなが取材しゅざいによる当時とうじ同僚どうりょう仲間なかま取材しゅざいした評伝ひょうでん収録しゅうろく

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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