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日本棋院にほんきいん

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公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん日本棋院にほんきいん
The Nihon Ki-in
日本棋院会館
日本棋院にほんきいん会館かいかん
団体だんたい種類しゅるい 公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん
設立せつりつ 1924ねん7がつ17にち
所在地しょざいち 東京とうきょう千代田ちよだ五番ごばんまち7番地ばんち2
北緯ほくい3541ふん25.68びょう 東経とうけい13944ふん11.44びょう / 北緯ほくい35.6904667 東経とうけい139.7365111 / 35.6904667; 139.7365111座標ざひょう: 北緯ほくい3541ふん25.68びょう 東経とうけい13944ふん11.44びょう / 北緯ほくい35.6904667 東経とうけい139.7365111 / 35.6904667; 139.7365111
法人ほうじん番号ばんごう 9010005016726 ウィキデータを編集
主要しゅよう人物じんぶつ 理事りじちょう 小林こばやしさとし
活動かつどう地域ちいき 日本の旗 日本にっぽん
主眼しゅがん 棋道の継承けいしょう発展はってんおよ内外ないがいへの普及ふきゅう振興しんこうはかるとともに、棋士きし健全けんぜん育成いくせいおこない、囲碁いごとおして文化ぶんか向上こうじょうすること
活動かつどう内容ないよう 国内こくない海外かいがいへの囲碁いご普及ふきゅうおよび国際こくさい交流こうりゅう推進すいしん
棋士きし育成いくせいと棋道研鑽けんさん ほか
ウェブサイト https://www.nihonkiin.or.jp/
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公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん日本棋院にほんきいん(にほんきいん、えい: The Nihon Ki-in)は、東京とうきょう千代田ちよだ五番ごばんまち市ケ谷いちがやえきまえ)に本部ほんぶをおく、囲碁いご棋士きし統括とうかつし、棋戦きせんをおこなっていくための公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん。「囲碁いご世界せかい中心ちゅうしん」としての役割やくわりたしている。やく300にん棋士きし所属しょぞくするほか、職員しょくいんとして事務じむいんや棋院発行はっこう出版しゅっぱんぶつをまとめる記者きしゃなどが所属しょぞくしている。

歴史れきし[編集へんしゅう]

戦時せんじちゅう初段しょだん允許いんきょじょう昭和しょうわ19ねん1がつ8にち

明治維新めいじいしん以降いこう幕府ばくふというパトロンうしなった棋士きしたちは離合りごう集散しゅうさんかえし、囲碁いごかい混沌こんとんとした情勢じょうせいであった。1872ねん明治めいじ5ねん)に村瀬むらせしげるはじめにより設立せつりつされた史上しじょうはつ近代きんだいてきなプロ棋士きし団体だんたいである方円ほうえんしゃと、封建ほうけんてき風習ふうしゅう墨守ぼくしゅする家元いえもと本因坊ほんいんぼういえとが、対立たいりつ並存へいそんする時代じだい長年ながねんつづいていた。1923ねん大正たいしょう12ねん)の大正たいしょう関東かんとう地震じしん関東大震災かんとうだいしんさい)を棋士きしたちの大同団結だいどうだんけつ機運きうんたかまり、よく1924ねん大正たいしょう13ねん)、大倉おおくら喜七郎きしちろう後援こうえんしゃとして、本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや以下いか坊門ぼうもん棋士きし方円ほうえんしゃなどほとんどの棋士きし集結しゅうけつし、日本棋院にほんきいん設立せつりつされた。同年どうねん9がつ8にちには日本にっぽん将棋しょうぎ連盟れんめい前身ぜんしんとなる東京とうきょう将棋しょうぎ連盟れんめい設立せつりつされている。

設立せつりつ直後ちょくご棋正しゃ独立どくりつなどもあり多少たしょう動揺どうようした日本棋院にほんきいんであったが、そのしん布石ふせきほう発表はっぴょうなどで囲碁いご人気にんきたかまり、磐石ばんじゃく体制たいせいきずく。

だい世界せかい大戦たいせんなか1945ねん昭和しょうわ20ねん)の東京とうきょうだい空襲くうしゅう赤坂あかさかげんみなと赤坂あかさか溜池ためいけにあった棋院本部ほんぶ焼失しょうしつするなどおおきな被害ひがいけた。戦後せんごすぐにせらこし憲作けんさく岩本いわもとかおるらが中心ちゅうしんになって再建さいけん目指めざし、だい手合てあい料亭りょうてい後援こうえんしゃ邸宅ていたくなどをりて再開さいかいされた。1948ねん昭和しょうわ23ねん)にはみなと高輪たかなわあたらしい棋院会館かいかん設立せつりつされ、順調じゅんちょう日本棋院にほんきいん再建さいけんされていった。

1947ねん昭和しょうわ22ねん)には坂田さかた栄男さかお梶原かじはら武雄たけおら8棋士きしが「囲碁いごしんしゃ」を旗揚はたあげするが、1949ねん昭和しょうわ24ねん復帰ふっきする。 さらに1950ねん昭和しょうわ25ねん)、今度こんど当時とうじ本因坊ほんいんぼうにあった橋本はしもと宇太郎うたろう旗頭はたがしら関西棋院かんさいきいん設立せつりつされた。橋本はしもと翌年よくねん本因坊ほんいんぼうせん坂田さかた挑戦ちょうせんを1-3からのだい逆転ぎゃくてんくだしてタイトルを防衛ぼうえい関西棋院かんさいきいん独立どくりつまもった。そのいくさい統合とうごうはなしているが、段位だんい調整ちょうせいや(おも日本棋院にほんきいんがわの)財政ざいせい問題もんだいなどがネックとなり実現じつげんしていない。

1971ねん昭和しょうわ46ねん)には千代田ちよだ五番ごばんまち市ヶ谷いちがや駅前えきまえ現在げんざい使用しようされているしん会館かいかん建設けんせつされた。その紆余曲折うよきょくせつはあったものの、現在げんざいでも、世界せかい囲碁いごかいなかでも重要じゅうよう地位ちいめる。ただし1990年代ねんだい以降いこう赤字あかじ財政ざいせいつづいているほか囲碁いご人口じんこう減少げんしょう(『レジャー白書はくしょ』で調査ちょうさ方法ほうほうわった2009ねん囲碁いご愛好あいこうしゃやく640まんにんだったのにたいし2017ねんは190まんにん)、国際こくさい棋戦きせんにおける日本にっぽん棋士きし不振ふしんなど、問題もんだい山積さんせき現状げんじょうである。

2011ねん平成へいせい23ねん)に公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん移行いこうした。

発行はっこう[編集へんしゅう]

機関きかんとして月刊げっかんワールド」、また年刊ねんかん囲碁いご年鑑ねんかん」がある。週刊しゅうかんタブロイドかみとして「週刊しゅうかん」がある。

棋道
日本棋院にほんきいん創立そうりつとともに、日本棋院にほんきいん機関きかんとして、1924ねん大正たいしょう13ねん10月創刊そうかん棋戦きせんなどの手合てあい情報じょうほう掲載けいさいほか独自どくじ企画きかくなどもおこない、情報じょうほうとしての機能きのうくわえ、メディアをつうじての囲碁いご普及ふきゅう役割やくわりになった。1999ねん平成へいせい11ねん)7がつごうおわりかんし、「囲碁いごクラブ」と合併がっぺいして「ワールド」となる。
囲碁いごクラブ
「棋道」の姉妹しまいとして「ただれ柯」が1925ねん大正たいしょう14ねん)に創刊そうかんされ、その囲碁いごクラブ」に改名かいめい戦時せんじちゅう休刊きゅうかんし、1954ねん昭和しょうわ29ねん)に復刊ふっかん。「ワールド」発刊はっかんによりおわりかん
独自どくじ棋戦きせん主催しゅさいおこない、1988ねん昭和しょうわ63ねん)から1996ねん平成へいせい8ねん)までの、プロとアマチュア混合こんごう地域ちいき対抗たいこう団体だんたいせんキリンはいGO団体だんたいせん」などがある。
ワールド
「棋道」「囲碁いごクラブ」を機関きかんとして、1999ねん平成へいせい11ねん)8がつから発刊はっかん
囲碁いご未来みらい
初級しょきゅうしゃけの月刊げっかん1962ねん昭和しょうわ37ねん)に「」として創刊そうかん1967ねん昭和しょうわ42ねんおわりかん1973ねん昭和しょうわ48ねん)に復刊ふっかんし、1980ねん昭和しょうわ55ねん)に「レッツ」に改名かいめい1995ねん平成へいせい7ねん)に「囲碁いご未来みらい」に改名かいめいした。2022ねんれい4ねん)3がつごうをもって休刊きゅうかん
週刊しゅうかん
週刊しゅうかんタブロイドかみ情報じょうほう新聞しんぶんとして、1977ねん昭和しょうわ52ねん)から発行はっこう朝日新聞社あさひしんぶんしゃ販売はんばい協力きょうりょくする。2023ねんれい5ねん)8がつをもって休刊きゅうかんする[1]

組織そしき[編集へんしゅう]

東京とうきょうほんいん[編集へんしゅう]

発足ほっそく当初とうしょ銀座ぎんざかり事務所じむしょき、1925ねん12月に永田町ながたちょう溜池ためいけ会館かいかん建設けんせつ。1945ねん5がつ空襲くうしゅう溜池ためいけ焼失しょうしつし、終戦しゅうせんかき木坂きざか岩本いわもとかおるたくかり事務所じむしょとし、1948ねん高輪たかなわのビルを購入こうにゅうして会館かいかんとした。1954ねん東京とうきょうえき八重洲やえすこう国際こくさい観光かんこう会館かいかんビルに日本棋院にほんきいん中央ちゅうおう会館かいかん開館かいかん(1991ねん八重洲やえす囲碁いごセンターに改称かいしょう移転いてん、2013ねん有楽町ゆうらくちょう東京とうきょう交通こうつう会館かいかん)に移転いてん有楽町ゆうらくちょう囲碁いごセンターとなっている)。1971ねん千代田ちよだ市ケ谷いちがやえきまえほんいん移転いてんした。新築しんちくおよびその修繕しゅうぜんにあたっては日本にっぽん財団ざいだん支援しえんおこなっている[2][3]

関西かんさい総本部そうほんぶ[編集へんしゅう]

大阪おおさかきた茶屋ちゃやまちちゃやまちアプローズ)にあり、近畿きんき地区ちく広島ひろしま岡山おかやまりょうけん統轄とうかつする。1950ねん昭和しょうわ25ねん)に関西棋院かんさいきいん独立どくりつしたさいに、日本棋院にほんきいん残留ざんりゅうによって同年どうねん発足ほっそくした。2008ねん平成へいせい20ねん2がつ現在げんざい山田やまだただしさんせい井山いやまひろしふとしなど棋士きし39めい所属しょぞくする。

中部ちゅうぶ総本部そうほんぶ[編集へんしゅう]

名古屋なごやひがし橦木しゅもくまちにあり、中部ちゅうぶ地区ちく山梨やまなしけんのぞく)と三重みえけん統轄とうかつする。1940ねん昭和しょうわ15ねん設立せつりつ日本棋院にほんきいん東海とうかい支部しぶから、1948ねん昭和しょうわ23ねん)に日本棋院にほんきいん東海とうかい本部ほんぶ昇格しょうかく1955ねん昭和しょうわ30ねん)に日本棋院にほんきいん中部ちゅうぶ総本部そうほんぶとなる。2008ねん平成へいせい20ねん)2がつ現在げんざい羽根はね直樹なおき羽根はね泰正やすまさなど棋士きし43めい所属しょぞくする。独自どくじのタイトルせんとして王冠おうかんせんがある。

日本にっぽん国外こくがい[編集へんしゅう]

  • 日本棋院にほんきいん南米なんべい本部ほんぶブラジルサンパウロNihon KI-IN do Brasil
  • 日本棋院にほんきいんヨーロッパ囲碁いご文化ぶんかセンター:オランダアムステルフェーンStichting The Nihon KI-IN European GO Cultural Centre
  • 日本棋院にほんきいんアメリカ西部せいぶ囲碁いごセンター:アメリカシアトルNihon KI-IN GO Institute Of The West U.S.A

役員やくいん[編集へんしゅう]

囲碁いごかい伝統でんとうてき財界ざいかいとのつながりがふかいことから、役員やくいん大半たいはん現役げんえき棋士きしめる日本にっぽん将棋しょうぎ連盟れんめいことなり、総裁そうさい伝統でんとうてき政財界せいざいかい人物じんぶつつとめているほか、それ以外いがい役員やくいんにも棋士きし以外いがい人間にんげん多数たすう存在そんざいしている。

役員やくいん

2019ねん現在げんざい

歴代れきだい総裁そうさい
在職ざいしょく期間きかん 氏名しめい
1 1924 - 1946ねん 牧野まきのしんあきら外務がいむ大臣だいじん内大臣ないだいじん
2 1955 - 1967ねん 津島つしま寿一ひさいち大蔵おおくら大臣だいじん防衛庁ぼうえいちょう長官ちょうかん
3 1967 - 1973ねん 足立あだちただし日本にっぽん商工しょうこう会議かいぎしょ会頭かいとう王子製紙おうじせいし社長しゃちょうラジオ東京とうきょうげん:TBSホールディングス)社長しゃちょう 
4 1973 - 1974ねん 佐藤さとう喜一郎きいちろう三井みつい銀行ぎんこう会長かいちょう三井みついグループ総帥そうすい
5 1974 - 1982ねん じつわたる三菱銀行みつびしぎんこう会長かいちょう三菱みつびしグループ総帥そうすい
6 1982 - 1987ねん 稲山いなやまよしみひろしきゅう経団連けいだんれん会長かいちょうしん日本にっぽん製鐵せいてつ社長しゃちょう
7 1993 - 1996ねん11月 朝田あさだ静夫しずおもと日本航空にほんこうくう相談役そうだんやくもと運輸うんゆ事務次官じむじかん
8 2004ねん7がつ - 現職げんしょく 今井いまいたかしきゅう経団連けいだんれん会長かいちょうしん日本にっぽん製鐵せいてつ相談役そうだんやく名誉めいよ会長かいちょう
歴代れきだい理事りじちょう
在職ざいしょく期間きかん 氏名しめい
1 1946 - 1948ねん せらこし憲作けんさく
2 1948 - 1949ねん 岩本いわもとかおる
3 1949 - 1951ねん 津島つしま寿一ひさいち
4 1951 - 1955ねん 足立あだちただし
5 1955 - 1956ねん 三好みよし英之ひでゆき北海道開発庁ほっかいどうかいはつちょう長官ちょうかん
6 1956 - 1975ねん ゆう光次郎みつじろう文部もんぶ事務次官じむじかん
7 1975 - 1978ねん 長谷川はせがわあきら
8 1978 - 1986ねん 坂田さかた栄男さかお
9 1986 - 1987ねん 色部いろべ義明よしあき協和きょうわ銀行ぎんこう相談役そうだんやく
10 1988 - 1993ねん 朝田あさだ静夫しずお
11 1993 - 1998ねん 渡辺わたなべ文夫ふみお日本航空にほんこうくう会長かいちょう
12 1999 - 2004ねん 利光としみつ松男まつお日本航空にほんこうくう社長しゃちょう
13 2004ねん 加藤かとう正夫まさお
14 2006 - 2008ねん 岡部おかべひろしデンソー会長かいちょう
15 2008 - 2012ねん 大竹おおたけ英雄ひでお
16 2012 - 2016ねん 和田わだ紀夫のりお(NTT相談役そうだんやく
17 2016 - 2019ねん だん宏明ひろあき公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん通信つうしん文化ぶんか協会きょうかい理事りじちょう
18 2019 - 現職げんしょく 小林こばやしさとし[4]

顕彰けんしょう[編集へんしゅう]

囲碁いご殿堂でんどう

2004ねん創設そうせつ

秀哉ひでやしょう
年間ねんかん最優秀さいゆうしゅう棋士きしおくられるしょう本因坊ほんいんぼう秀哉ひでやって、1963ねん昭和しょうわ38ねん)に創設そうせつ識者しきしゃ関係かんけいしゃによる秀哉ひでやしょう選考せんこう委員いいんによって選考せんこうされる。
大倉おおくら喜七郎きしちろうしょう
囲碁いご普及ふきゅう発展はってん功労こうろうしゃおくられるしょう日本棋院にほんきいん創設そうせつ功績こうせきのあった大倉おおくら喜七郎きしちろうって、1964ねん昭和しょうわ39ねん)に創設そうせつ当初とうしょ名称めいしょう大倉おおくらしょうだったが、1989ねん平成へいせい元年がんねん)に現在げんざい名称めいしょう改称かいしょう
棋道しょう
年間ねんかん活躍かつやくした棋士きしおくられるしょう1967ねん昭和しょうわ42ねん)に、日本棋院にほんきいん機関きかん棋道主催しゅさいで、関係かんけいしゃ棋戦きせん主催しゅさいしゃ代表だいひょうにより誌上しじょう選考せんこうするかたち創設そうせつし、最優秀さいゆうしゅう棋士きししょう記録きろく部門ぶもんしょう、その部門ぶもんしょうえらぶ。1999ねん平成へいせい11ねん)のだい33かいからは、「ワールド」主催しゅさいとなった。
部門ぶもんしょうとしによって変更へんこうされることがある。1988ねん昭和しょうわ63ねん)からは国際こくさいしょう設置せっち当初とうしょあった敢闘かんとうしょう技能ぎのうしょう殊勲賞しゅくんしょうは、1990ねん平成へいせい2ねん以降いこう廃止はいしされて優秀ゆうしゅう棋士きししょうつくられた。特別とくべつしょうなど、そのとしかぎりのしょうおくられることもある。記録きろく部門ぶもんしょうも、当初とうしょななだん以上いじょう棋士きし対象たいしょうにしていたが、棋戦きせん構成こうせいじょうその規定きてい合理ごうりせいがないため1995ねん平成へいせい7ねん)からはだん以上いじょうあらためられた。
松原まつばらしょう
関西かんさい総本部そうほんぶ主催しゅさい
土川つちかわしょう
中部ちゅうぶ総本部そうほんぶ主催しゅさい

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 週刊しゅうかん休刊きゅうかんのおらせ - 日本棋院にほんきいん・2023ねん3がつ29にち
  2. ^ 日本にっぽん財団ざいだんさんじゅうねんあゆみ|”. 日本にっぽん財団ざいだん. 2019ねん9がつ19にち閲覧えつらん
  3. ^ 平成へいせい26年度ねんど事業じぎょう報告ほうこく”. 日本棋院にほんきいん. 2019ねん9がつ19にち閲覧えつらん
  4. ^ 日本棋院にほんきいんしん理事りじちょう小林こばやしさとしふく理事りじちょう選定せんてい”. 日本棋院にほんきいん (2019ねん4がつ2にち). 2019ねん4がつ3にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]