本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや

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呉清源ごせいげんとの対局たいきょくのぞ秀哉ひでやひだり・1933 - 1934ねんごろ

本因坊ほんいんぼう 秀哉ひでや(ほんいんぼう しゅうさい、1874ねん明治めいじ7ねん6月24にち- 1940ねん昭和しょうわ15ねん1がつ18にち)は、明治めいじから昭和しょうわにかけての囲碁いご棋士きし家元いえもと本因坊ほんいんぼうじゅういちせいで、終身しゅうしん名人めいじんせい最後さいご名人めいじん東京とうきょう出身しゅっしん本因坊ほんいんぼう秀栄しゅうえい門下もんか本名ほんみょう田村たむらたもつ寿ことぶき(やすひさ)。法名ほうみょうにちゆたか

引退いんたいのち本因坊ほんいんぼう名跡みょうせき日本棋院にほんきいん譲渡じょうとし、選手権せんしゅけんせい本因坊ほんいんぼうせん創設そうせつみちびいた。棋風きふう力戦りきせんつよく、「序盤じょばんさくあり」とわれた。2008ねん囲碁いご殿堂でんどうはいり。

川端かわばた康成やすなりの『名人めいじん』でもられる。

囲碁いご棋士きし高橋たかはし俊光としみつ義弟ぎてい[1]秀哉ひでやつまおとうと)。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

修行しゅぎょう時代じだい[編集へんしゅう]

祖父そふ肥前ひぜん唐津からつはん小笠原おがさわら家臣かしん[2]浅原あさはら耕司こうじちち御家人ごけにんかぶって田村たむら名乗なの幕臣ばくしんとなり、のちに内務省ないむしょう勤務きんむした田村たむら保永やすながである。東京とうきょうばんまちまれ、赤坂あかさか氷川ひかわまち神田かんだ猿楽さるがくまち牛込うしごめえのきまちなどに転居てんきょしながらそだ[3]叔父おじちち末弟ばってい[2]貴族きぞくいん議員ぎいんシーメンス事件じけんでの弾劾だんがい演説えんぜつられ、水産すいさんおきなともよばれた村田むらたたもつ寿ことぶきちち趣味しゅみ影響えいきょうで10さい[2]囲碁いごおぼえた。

1885ねん、11さいのときに方円ほうえんしゃ入塾にゅうじゅくし、村瀬むらせしげるはじめ師事しじ[2]当時とうじみの塾生じゅくせいは、塾頭じゅくとう石井いしいせんおさむ道家みちや富太とみた杉岡すぎおか榮治郎えいじろう田村たむらたもつ寿ことぶきの4にんだった。田村たむらは、石井いしいせんおさむ杉岡すぎおか榮治郎えいじろうとともに方円ほうえんしゃさん小僧こぞうばれた。1886ねんしゅうはじめ死去しきょ中川なかがわ亀三郎かめさぶろう師事しじ[2]。1886ねん9きゅう初段しょだん)をみとめられる。1891ねん方円ほうえんしゃ脱退だったいして、しゅうはじめ養子ようし村瀬むらせぴょう[2]ひろじん会合かいごうしょ」という地方ちほうから上京じょうきょうする若者わかものけの事業じぎょうひらこうとしたが、許可きょかりずに頓挫とんざ方円ほうえんしゃ除名じょめいされる。千葉ちば東福寺とうふくじ相手あいて農業のうぎょう手伝てつだいをしたが、囲碁いごもどることを決心けっしんして翌年よくねん東京とうきょうかえり、金玉きんぎょくひとし紹介しょうかいによりじゅうきゅうせい本因坊ほんいんぼう秀栄しゅうえい門下もんか入門にゅうもんよんだんゆるされ、1897ねんにはだんのぼる。

1896ねんからは5さい年長ねんちょう石井いしいせんと5じゅうばんち、当初とうしょ寿ことぶきじょうさきはじまったが、97ねんだい互先たがいせんとなり、1907ねんだいではさきにまでんでいる。秀栄しゅうえい当時とうじ棋士きしたちをことごとくさき以下いかんでいたが、田村たむら唯一ゆいいつさきたもち、本因坊ほんいんぼう継承けいしょうさい有力ゆうりょく候補こうほられていた。1904ねんには日本にっぽんかこえ棋会発足ほっそくにともない、秀栄しゅうえい最後さいご手合てあい相手あいてとしてばんつ。しかし秀栄しゅうえい田村たむらこときらい、雁金かりがね準一じゅんいち実力じつりょく田村たむらおよばないことをみとめながら雁金かりがね後継こうけいしゃのぞんでいた。1905ねんななだん昇段しょうだん、このとき雁金かりがねとの対局たいきょく持碁じごにするようにたのみ、それを秀栄しゅうえい棋譜きふから見破みやぶられたこともあり、秀栄しゅうえい寝込ねこようになってからは面会めんかいゆるされなくなった。田村たむら性格せいかくきわめてつよく、また金銭きんせんにうるさいところがあり、これが秀栄しゅうえいきらわれた要因よういんであろうといわれている。

本因坊ほんいんぼう名人めいじんかさね[編集へんしゅう]

1907ねん秀栄しゅうえい後継こうけいめないままに死去しきょ本因坊ほんいんぼうもんでは、後継こうけいしゃ実力じつりょくだいいち田村たむらと、秀栄しゅうえい遺志いし優先ゆうせんして雁金かりがねかれ、前者ぜんしゃ秀栄しゅうえいおとうとじゅうろくせい本因坊ほんいんぼうであったしゅうもと野沢のざわちくあさ後者こうしゃには秀栄しゅうえい未亡人みぼうじんせき源吉げんきちなどがいた。田村たむら囲碁いご研究けんきゅうかい雁金かりがねは敲玉かい結成けっせい結局けっきょくしゅうもと一旦いったんじゅうせい本因坊ほんいんぼういて、1ねん田村たむら本因坊ほんいんぼうゆずることでこの事態じたい収拾しゅうしゅうし、田村たむら1908ねん34さいじゅういちせい本因坊ほんいんぼう秀哉ひでやとなる。

その、1910ねんには井上いのうえ田淵たぶちよしせきだんじゅうばんよしせきさきで9きょく秀哉ひでやが7しょう2はいさきむなど、すべての棋士きしたちさき以下いかんだ。また1910ねん新案しんあんつめ死活しかつみょう』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん)を出版しゅっぱん1911ねんはちだん昇段しょうだん1914ねん大正たいしょう3ねん)、41さいとき名人めいじん推挙すいきょされ、名実めいじつともに棋界きかい第一人者だいいちにんしゃになる。

このころには方円ほうえんしゃ鈴木すずき為次郎ためじろうせらこし憲作けんさく秀哉ひでやせまってていた。鈴木すずきは1914ねんじゅうばんで、鈴木すずき二子ふたごから7きょくまででさきじょうさきとなって打切うちきり、そのまんあさほうせんでは鈴木すずきさきで2連勝れんしょうした。瀬越せごしも1910ねん三子みつごから1920ねんさきまで秀哉ひでやに11連勝れんしょうした。1919ねんにはだん祺瑞招待しょうたいで、広瀬ひろせ平治郎へいじろう高部たかべ道平どうたいららとともに訪中ほうちゅうする。

日本棋院にほんきいん総帥そうすいとして[編集へんしゅう]

大正たいしょう初期しょき囲碁いごかいは、本因坊ほんいんぼうもん方円ほうえんしゃおよ裨聖かい雁金かりがね準一じゅんいち鈴木すずき為次郎ためじろうせらこし憲作けんさくら)とのさん鼎立ていりつ状態じょうたいであった。しかし各派かくは合同ごうどう機運きうんまれ、1923ねん1がつには本因坊ほんいんぼう方円ほうえんしゃ合同ごうどうして中央ちゅうおう棋院設立せつりつするものの、4がつにはふたたび分裂ぶんれつする。しかし同年どうねん9がつ関東大震災かんとうだいしんさい各派かくはおおきな打撃だげきけ、分裂ぶんれつこうそう余裕よゆうすらうしなわれた。このため翌年よくねん各派かくは関西かんさい棋士きしなどが集結しゅうけつし、日本棋院にほんきいん設立せつりつ秀哉ひでやは棋院さい上位じょういしゃとして定式ていしき手合てあいだい手合てあい)に出場しゅつじょうする。

しかし雁金かりがね準一じゅんいちらは日本棋院にほんきいん脱退だったいし、棋正しゃ設立せつりつする。両者りょうしゃ読売新聞よみうりしんぶん正力しょうりき松太郎まつたろう社長しゃちょう仲介ちゅうかいのもと、「大正大たいしょうだいそう棋」と銘打めいうっただい規模きぼ対抗たいこうせん開始かいしする。1926ねんおこなわれたその初戦しょせんで、秀哉ひでや雁金かりがね準一じゅんいちとの主将しゅしょう決戦けっせんのぞむ。いしりのきょくうたわれたはげしいねじりいのすえ勝利しょうりし、不敗ふはい名人めいじんたかめることとなった。

1933~34ねん読売新聞よみうりしんぶん主催しゅさいの「日本にっぽん囲碁いご選手権せんしゅけん手合てあい」に優勝ゆうしょうした呉清源ごせいげんだんむこうさき対戦たいせんする。読売新聞よみうりしんぶんだい宣伝せんでんと、斬新ざんしん布石ふせきによっておおいに注目ちゅうもくあつめたが、秀哉ひでやは2もくちをおさめる(後述こうじゅつ)。

1936ねん秀哉ひでや日本棋院にほんきいん本因坊ほんいんぼう名跡みょうせき譲渡じょうと世襲せしゅうせいではなく選手権せんしゅけんせんによって本因坊ほんいんぼうめる本因坊ほんいんぼうせん誕生たんじょうする。秀哉ひでや後継こうけいしゃとして愛弟子まなでししょうきしたけしかんがえていたといわれるが、はんしょうきし夭折ようせつした。秀哉ひでやには自身じしん経験けいけんから実力じつりょくだいいちのものに本因坊ほんいんぼうがせたいというつよおもいがあり、本因坊ほんいんぼう世襲せしゅうせい廃止はいしったものといわれる。

1938ねん木谷きたにみのるとの引退いんたいち、1940ねん1がつ18にち実力じつりょくせい初代しょだい本因坊ほんいんぼう決定けっていることなく熱海あたみ旅館りょかん死去しきょ日本棋院にほんきいんそうおこなわれ、歴代れきだい本因坊ほんいんぼうねむ本妙寺ほんみょうじほうむられた。その毎年まいとし1がつ18にち秀哉ひでやとして、時々ときどき本因坊ほんいんぼう保持ほじしゃ関係かんけいしゃによる法要ほうようおこなわれている。またそのは、日本棋院にほんきいん最優秀さいゆうしゅう棋士きしおくられる秀哉ひでやしょう(1963ねん創設そうせつ)にのこされている。

門下もんか鹿間しかま千代治ちよじ宮坂みやさか宷二蒲原かんばら繁治しげじ村田むらたせいひろししょうきしたけしはやしゆう太郎たろう福田ふくだ正義まさよし増淵ますぶち辰子たつこ村島むらしまよしみ前田まえだひねなんじ苅部かりべ栄三郎えいさぶろう宮下みやした秀洋ひでひろ武田たけだ博愛ひろよしらがいる[4]。また藤沢ふじさわともとき安永やすながはじめ秀哉ひでや薫陶くんとうけた。

死去しきょ[編集へんしゅう]

1940ねん昭和しょうわ15ねん)1がつ15にちから避寒ひかん目的もくてき夫人ふじんとともに熱海あたみ温泉おんせん旅行りょこう、うろこ旅館りょかん投宿とうしゅくよく1がつ16にちには川端かわばた康成やすなり訪問ほうもんがあり将棋しょうぎってわかれたのち入浴にゅうよくちゅうきゅう体調たいちょうくずして急性きゅうせい心臓しんぞう衰弱すいじゃくしょう診断しんだん一時いちじ快方かいほうかうも翌々日よくよくじつの1がつ18にちにうろこ旅館りょかん死去しきょした。遺体いたい世田谷せたがや自宅じたくはこばれ、葬儀そうぎは棋院そうおこなわれた[5]

代表だいひょうきょく[編集へんしゅう]

いんしゃ対抗たいこうせん[編集へんしゅう]

1926ねん日本棋院にほんきいんたい棋正しゃ対抗たいこうせん初戦しょせんにおいて、雁金かりがね準一じゅんいちとの主将しゅしょう同士どうし決戦けっせんのぞんだ。下辺かへんしろ模様もよう突入とつにゅうした雁金かりがね黒石くろいしを、秀哉ひでや強引ごういんりにったことからだい乱戦らんせんとなり、満天下まんてんかかせるスリリングないちせんとなった。主催しゅさい読売新聞よみうりしんぶん各地かくち大盤おおばんもちいて速報そくほうし、観戦かんせん菊池きくちひろし河東かわとう碧梧桐へきごとうなど有名ゆうめい文士ぶんしはいして宣伝せんでんつとめ、部数ぶすう一挙いっきょに3ばいばしたといわれる。

42ツグ(37) 44ツグ(35)

下辺かへんくろ1(43)とカドにんだところから乱戦らんせん開始かいしされた。秀哉ひでやくろうばうが、雁金かりがね包囲ほういもううすみをついて反撃はんげき、まれにるねじりいとなった。しろ58(100以降いこうたたかいがつづき、秀哉ひでやはここで発生はっせいしたコウをきっかけに優勢ゆうせいとし、最後さいご雁金かりがね時間切じかんぎけとなった。

呉清源ごせいげんとの勝負しょうぶ[編集へんしゅう]

本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや名人めいじんひだり)と呉清源ごせいげんだんみぎ)の対局たいきょく

1933ねん呉清源ごせいげんは16にんのトーナメントをいて「日本にっぽん囲碁いご選手権せんしゅけん手合てあい」に優勝ゆうしょう第一人者だいいちにんしゃ本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや先番せんばん対戦たいせんすることとなる。とき秀哉ひでや59さい20さいであった。時間じかんかく24あいだ、13かいけをはさんで1934ねん1がつ29にち終了しゅうりょう当初とうしょたんなる指導しどう程度ていどおもむきであったが、読売新聞よみうりしんぶんだい宣伝せんでんにより次第しだい日本にっぽんたい中国ちゅうごくきゅう権威けんいたいしん勢力せいりょくだい勝負しょうぶへと事態じたいはヒートアップしていった。

10月16にち東京とうきょう京橋きょうばし鍛冶たんやきょう旅館りょかんにて対局たいきょく開始かいし日本にっぽんちゅう注目ちゅうもくあつまるなかだいいちちゃく本因坊ほんいんぼうきんしゅとされるさんち。3ほし、5天元てんげんという大胆だいたん布石ふせき披露ひろうし、満天下まんてんかかせた(しん布石ふせきこう参照さんしょう)。

159まで進行しんこうしたのち、13かい開始かいし直後ちょくごに、秀哉ひでや黒地くろじ強襲きょうしゅうをかける歴史れきしてき妙手みょうしゅはなつ。も「けの妙手みょうしゅ」とばれたツケこたえて崩壊ほうかいまぬかれるが、この攻防こうぼうあいだ秀哉ひでやみぎかたくろ5捕獲ほかくし、優勢ゆうせい決定けっていづけた。結局けっきょくこのは、この妙手みょうしゅはたらいて秀哉ひでやの2もくちにわった。しかし後日ごじつ、この妙手みょうしゅ秀哉ひでや弟子でしである前田まえだひねなんじ案出あんしゅつしたであるというせつながれており、いまもって真相しんそう不明ふめいのままとなっている。[6]

秀哉ひでや160妙手みょうしゅしろ1)と、けの妙手みょうしゅ161ツケ(くろ2)

引退いんたい[編集へんしゅう]

1938ねん、64さい秀哉ひでや現役げんえき引退いんたい発表はっぴょうし、リーグせんいた木谷きたにみのる相手あいて引退いんたいつこととなった。史上しじょう最長さいちょうとなる時間じかん40あいだ史上しじょうはつとなるふうせいおこなわれ、6月26にち開始かいしされた。20かいけをはさみ、途中とちゅう秀哉ひでや入院にゅういんなどもあり終局しゅうきょくまでとおせるかあやぶまれもしたが、12月4にち終局しゅうきょく結果けっか木谷きたにの5もくちとなった。この対局たいきょく観戦かんせん担当たんとうした川端かわばた康成やすなりは、のちにこの対局たいきょくせんでの秀哉ひでやたたかいぶりや、そのさま小説しょうせつ名人めいじん』としてえがいている。

死活しかつみょう[編集へんしゅう]

  • 新案しんあんつめ 死活しかつみょう」として1910ねん1がつ吉川弘文館よしかわこうぶんかんより出版しゅっぱんされた。明治めいじ時代じだいの「時事新報じじしんぽう」に掲載けいさいされた懸賞けんしょうつめ120だい増補ぞうほ訂正ていせいしていちかんにまとめたもの。
  • 緒言しょげんに「本書ほんしょ詰物つめもの古人こじんおよ著者ちょしゃりたる実戦じっせんじょうのものを基礎きそとしたるものにして、さらにつくりたるちん瓏的のものにあらず、もっぱ実用じつようおもとしたればなり」とあり、実戦じっせん基礎きそとした作品さくひんしゅうである。
  • 前田まえだひねなんじが「つめ名作めいさくベストテン」の6位置いちづけたほどの明治めいじ代表だいひょうてき歴史れきしてき著作ちょさくであり、その特徴とくちょうとしてはつろんてき難解なんかいさでられる。
  • 1931ねん大阪おおさか屋号やごう書店しょてんより再版さいはんされ、現在げんざいでは1981ねん山海さんかいどうから出版しゅっぱんされたはん入手にゅうしゅ可能かのうである(2004ねん改訂かいていばんあり)。

著作ちょさく[編集へんしゅう]

  • 囲碁いごいしずえ : 新撰しんせんけい 稲垣いながき兼太郎かねたろう ちょ,本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや へん 博文ひろぶみかん 1909
  • 新案しんあんつめ死活しかつみょう 本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや ちょ 吉川弘文館よしかわこうぶんかん 1910
  • 素人しろうと棋鑑 : 実戦じっせん詳解しょうかい じょう 土屋つちや秀栄しゅうえい 稿こう,本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや てい 中央ちゅうおうかこえ棋会 1910
  • 囲碁いごちん瓏発ろん 井上いのうえよしせき ちょ,本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや こう 大野おおの万歳ばんざいかん 1914
  • かこえ神髄しんずい 本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや 講述こうじゅつ,こうがつしのげ へん 中央ちゅうおうかこえ棋会 1916
  • かこえ神髄しんずい ,つき,,みず,,きむ, 本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや 講述こうじゅつ,こうがつしのげ へん 中央ちゅうおうかこえ棋会 1916
  • きゅう幕府ばくふ秘蔵ひぞうせん 本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや ちょ 大阪おおさか屋号やごう[ほか] 1917
  • 大正たいしょう棋鑑 : 名人めいじん本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや 講評こうひょう,こうつきぜっのき へん 東京とうきょう中央ちゅうおうかこえ推会関西かんさい支部しぶ 1923
  • 互先たがいせん定石じょうせき 上中かみなか 本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや ちょ まことぶんどう 1930-1933
  • 置碁おきご定石じょうせき 本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや ちょ まことぶんどう 1930 (名人めいじん囲碁いご全集ぜんしゅう ; [だい1])
  • 囲碁いご実戦じっせん軌範きはん 本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや ちょ まことぶんどう 1931 (名人めいじん囲碁いご全集ぜんしゅう ; [だい3])
  • 新案しんあんつめ死活しかつみょう 本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや ちょ 大阪おおさか屋号やごう書店しょてん 1931
  • さんよん布石ふせきほう 本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや ちょ まことぶんどう 1931 (名人めいじん囲碁いご全集ぜんしゅう ; [だい2])
  • 名人めいじん囲碁いご講座こうざ だい1 実戦じっせん詳解しょうかい素人しろうとかん. うえ,しも 本因坊ほんいんぼう秀栄しゅうえい, 本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや, こうつきぜっのき, 平凡社へいぼんしゃ 1933
  • 名人めいじん指導しどう全集ぜんしゅう 本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや ちょ まことぶんどう 1933
  • 名人めいじん囲碁いご講座こうざ だい2 名人めいじん指南しなん. 互先たがいせんきょく 本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや, こうつきぜっのき, 平凡社へいぼんしゃ 1934
  • きょく解説かいせつ 上巻じょうかん 本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや ちょ まことぶんどう新光しんこうしゃ 1937 (名人めいじん囲碁いご全集ぜんしゅう ; つづけ [2])
  • 本因坊ほんいんぼう棋談 本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや ちょ 岡倉おかくら書房しょぼう 1937
  • だいはす定石じょうせき 上下じょうげ 本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや ちょ まことぶんどう新光しんこうしゃ 1939 (名人めいじん囲碁いご全集ぜんしゅう ; つづけ [1])
  • 選集せんしゅう 上下じょうげ 本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや ちょ まことぶんどう新光しんこうしゃ 1939
  • 死活しかつみょう : 新案しんあんつめ 本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや ちょ 大阪おおさか屋号やごう 1939
  • だいはす定石じょうせき 本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや ちょ まことぶんどう新光しんこうしゃ 1940
  • 本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや全集ぜんしゅう だい1かん 秀哉ひでやかい へん 博文ひろぶみかん 1941
  • 名人めいじん指南しなん 互先たがいせんきょく よんきょく ろくななきょく 本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや ちょ,こうつきぜっのき へん 平凡社へいぼんしゃ 1946
  • 名人めいじん囲碁いご講座こうざ だい2 名人めいじん指南しなん. さんきょく 本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや, こうつきぜっのき, 平凡社へいぼんしゃ 1947
  • 秀哉ひでや名人めいじん囲碁いご全集ぜんしゅう だい1-5さつ 本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや ちょ 秀哉ひでや名人めいじん囲碁いご全集ぜんしゅう刊行かんこうかい 1950
  • つめ死活しかつみょう 本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや ちょ 大阪おおさか屋号やごう書店しょてん 1952
  • 秀哉ひでや名人めいじん傑作けっさくしゅう 本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや ちょ,宮下みやした秀洋ひでひろ, 高橋たかはし重行しげゆき [へん] 日本棋院にほんきいん 1957 (囲碁いご文庫ぶんこ)
  • 名人めいじん本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや 秀哉ひでやかい 1972
  • 本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや全集ぜんしゅう ぜん6かん 秀哉ひでやかい ちょ 日本棋院にほんきいん 1974
  • 死活しかつみょう 本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや 解説かいせつ,囲碁いご研究けんきゅうかい 編集へんしゅう 山海さんかいどう 1981
  • 秀哉ひでや』(日本にっぽん囲碁いご大系たいけい18)筑摩書房ちくましょぼう 1977/8
  • 死活しかつみょう山海さんかいどう 2004ねん(1981ねん)(初版しょはん新案しんあんつめ死活しかつみょう』1910ねん

ドラマ[編集へんしゅう]

1963ねん、NHKテレビにて、『「名人めいじん」~21せい本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや~』として秀哉ひでや人生じんせいがドラマされた[7]ぜん1かい

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 榊山さかきやまじゅん新編しんぺん 囲碁いご名言めいげんしゅう』(教養きょうよう文庫ぶんこ)P.28
  2. ^ a b c d e f 本因坊ほんいんぼう自伝じでん
  3. ^ 従来じゅうらい記述きじゅつは「しば桜田さくらだまちまれる」とあったが、『本因坊ほんいんぼう自伝じでん』の記述きじゅつにあわせた。
  4. ^ 小堀こぼりあきらなんじ日本棋院にほんきいん物故ぶっこ棋士きし名鑑めいかん」(『1993年度ねんどばん囲碁いご年鑑ねんかん日本棋院にほんきいん、1993ねん
  5. ^ 囲碁いごじゅういちせい名人めいじん死去しきょ東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん』(昭和しょうわ15ねん1がつ19にち夕刊ゆうかん)『昭和しょうわニュース辞典じてんだい7かん 昭和しょうわ14ねん-昭和しょうわ16ねん』p740 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  6. ^ もっともけの本因坊ほんいんぼう一門いちもんあつまって検討けんとうし、対策たいさくるということはむかしからおこなわれていた。(『以文会友かいゆう白水しろみずしゃ
  7. ^ 坂田さかた栄男さかお坂田さかた一代かずよ』(日本棋院にほんきいん)P.227

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]