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藤沢ふじさわ秀行ひでゆき

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 藤沢ふじさわ秀行ひでゆき  名誉めいよ棋聖きせい
名前なまえ 藤沢ふじさわ秀行ひでゆき
生年月日せいねんがっぴ (1925-06-14) 1925ねん6月14にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (2009-05-08) 2009ねん5月8にち(83さいぼつ
プロねん 1940ねん
出身しゅっしん 神奈川かながわけん横浜よこはま
所属しょぞく 日本棋院にほんきいん東京とうきょうほんいん
師匠ししょう 福田ふくだ正義まさよし
名誉めいよ称号しょうごう 名誉めいよ棋聖きせい
概要がいよう
タイトル獲得かくとく合計ごうけい 23
通算つうさん成績せいせき 852しょう649はい8持碁じご
ななだいタイトル
棋聖きせい 6 (1977-82)
名人めいじん 2 (1962・70)
王座おうざ 5 (1967-69・91-92)
天元てんげん 1 (1975)
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藤沢ふじさわ 秀行ひでゆき(ふじさわ ひでゆき、ふじさわ しゅうこう、1925ねん6月14にち - 2009ねん5月8にち)は、日本にっぽん囲碁いご棋士きし本名ほんみょう:「藤沢ふじさわ (たもつ)」[ちゅう 1]棋聖きせいせん6連覇れんぱ史上しじょう最年長さいねんちょうタイトル保持ほじしゃなどにかがやいた、昭和しょうわ代表だいひょうする棋士きし1人ひとり

年上としうえおいあね息子むすこ[1])に藤沢ふじさわともとききゅうだん五男いつお)に藤沢ふじさわいちはちだんまご藤沢ふじさわ里菜りなななだん。また小島こじま高穂たかほきゅうだんだいおいあねまご[2])にたる。経済けいざい学者がくしゃ松井まつい彰彦あきひこおい

ただしい名前なまえかたは「ひでゆき」だが、生涯しょうがいつうじて「しゅうこう」とばれつづけた。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

棋風きふう人柄ひとがら[編集へんしゅう]

棋風きふう豪放磊落ごうほうらいらくであり、あつみのはたらきをもっともよくるとわれた。ポカ(うっかりミス)でこうきょくとすこともおおかったが、「異常いじょう感覚かんかく」ともしょうされるするど着想ちゃくそうせ、「華麗かれい秀行ひでゆき」ともばれた。「序盤じょばん50までなら日本一にっぽんいち」とされ、序盤じょばん中盤ちゅうばんきょく検討けんとう結論けつろんがでない場合ばあいは「秀行ひでゆき(しゅうこう)先生せんせいこう」というのが、かつての日本棋院にほんきいんでのまり文句もんくだった。

盤上ばんじょうでの活躍かつやく一方いっぽうばんがいではさけ、ギャンブル、借金しゃっきん女性じょせい関係かんけいなど破天荒はてんこう生活せいかつでも有名ゆうめいであった。がん手術しゅじゅつ以前いぜんアルコール依存いぞんしょう禁断症状きんだんしょうじょうたたかいながらの対局たいきょくかさねていた。こうした「最後さいご無頼ぶらい」とでもしょうすべき藤沢ふじさわ人柄ひとがらあいするものおおく、政財界せいざいかいおおくの支持しじしゃかかえるほか、にちちゅうかん若手わかて棋士きしからも非常ひじょう尊敬そんけいされている。

高利貸こうりがしからおく単位たんい借金しゃっきんがありその大半たいはんきな競輪けいりんにつぎんだ。政財界せいざいかい藤沢ふじさわのファンがおり、そのうちの一人ひとりであるもと法務大臣ほうむだいじん稲葉いなばおさむが「せめて借金しゃっきんさき銀行ぎんこうへ」とえさせ借金しゃっきん保証人ほしょうにんになったという。1976ねん創設そうせつされた棋聖きせいせんだい1優勝ゆうしょう賞金しょうきんは1700まんえん現在げんざいは4500まんえん)をろく連覇れんぱ借金しゃっきん返済へんさいした[3]

アルコール依存いぞんしょうでありななばん勝負しょうぶのときだけは禁断症状きんだんしょうじょうくるしみながらさけいた。平時へいじからさけをよくたしなみ、午前ごぜんちゅうにウイスキーを一本いっぽんあけ、うと卑猥ひわい言葉ことばはっ周囲しゅういこまらせ若手わかて一流いちりゅう棋士きしつかまえてはいちきょく1000えん早碁はやごった。泥酔でいすい状態じょうたいでもなみ棋士きしたなかったという。

本妻ほんさい藤沢ふじさわモト)とのあいだに3がいたほか、2人ふたり女性じょせいとのあいだにそれぞれ2をもうけており、全部ぜんぶで7にんいた[4]正月しょうがつになると4にん女性じょせい子供こどもたち全員ぜんいん一斉いっせいかい正月しょうがつのあいさつを藤沢ふじさわ本妻ほんさいたいしてった。将棋しょうぎ棋士きし米長よねなが邦雄くにおは「おれとえらいちがいだ。おそった」とあたまげたという[3]。この勝負しょうぶかげささえたつま・モトは著書ちょしょ勝負しょうぶつま囲碁いご棋士きし藤沢ふじさわ秀行ひでゆきとのじゅうねん』でかれおそった数々かずかず難局なんきょくについてべている。

しょ大家たいかでもあり安芸あき宮島みやじま厳島いつくしま神社じんじゃ鎮座ちんざ1400ねんさいし「磊磊」の文字もじ奉納ほうのうしている[3]各地かくち個展こてんひらいたほか、1992ねんには大相撲おおずもう貴闘力たかとうりき化粧けしょうまわしに「」の文字もじ揮毫きごう。2007ねんにはニコニコ動画どうがのコンテンツ「ニコニコニュース」の題字だいじ手掛てがけた[5]

若手わかて育成いくせい[編集へんしゅう]

門下もんか天野あまの雅文まさふみ高尾たかおしん森田もりたみちはく三村みつむらさとし倉橋くらはし正行まさゆき金沢かなざわしんらがいるが、このほかにも合宿がっしゅくなどで依田よだきのはじめ結城ゆうきさとし坂井さかいしげるいたり多数たすう若手わかて棋士きしそだてており、中国ちゅうごく韓国かんこく棋士きしふく藤沢ふじさわあおものおおい。るものはだれでもこばまずにれた研究けんきゅうかい秀行ひでゆきじゅく』は有名ゆうめい

自分じぶん門下生もんかせい以外いがいにもおおくの若手わかて棋士きし育成いくせいちからそそいだ。昭和しょうわ30年代ねんだいには、阿佐ヶ谷あさがや自宅じたくで、茅野ちの直彦なおひこ当時とうじじゅうだいであったはやし海峰みほ大竹おおたけ英雄ひでお工藤くどう紀夫のりお高木たかぎ祥一しょういち小島こじま高穂たかほじゅうすうにんによるつき2かい研究けんきゅうかいおこなっていた。これにはその、さらにわか世代せだい安倍あべ吉輝よしてる福井ふくい正明まさあき酒井さかいたけし石田いしだあきら中村なかむら秀仁ひでひとらがくわわる。つづいて1969ねん不動産ふどうさんぎょうのために代々木よよぎ事務所じむしょひらいたが、ここでも若手わかて棋士きしあつまっての研究けんきゅうかいおこなわれ、はやし海峰みほ曺薫鉉四谷よつやにあった木谷きたに道場どうじょう石田いしだ芳夫よしお加藤かとう正夫まさおたけみや正樹まさき小林こばやし光一こういちちょう治勲ちくんらがあつまり、事務所じむしょじる1978ねんまでつづいた。

1980ねんからは、にゅうだんしたばかりの依田よだきのはじめ安田やすだやすしさとし院生いんせい藤沢ふじさわいち就、小松こまつ英樹ひできらでだいさん研究けんきゅうかいはじめ、場所ばしょよみうりランド自宅じたくうつした。この研究けんきゅうかいはその弟子でし森田もりた三村みつむら高尾たかおほかにも人数にんずうえ、1984ねんからはとしに2かい合宿がっしゅくおこなうようになる。このメンバーはしゅう行軍こうぐんだんなどともばれる。

1981ねんからは研究けんきゅうかいのメンバーとともに訪中ほうちゅうし、中国ちゅうごく棋士きしとの手合てあい指導しどうおこなうようになる。これには聶衛ひらたりゅうしょうひかりこうひさし曹大もと若手わかてうまあきらはるちょうぶんひがしらが参加さんかした。この毎年まいとし1987ねんまでと、それ以後いご断続だんぞくてき訪中ほうちゅうは、中国ちゅうごく実力じつりょくレベル向上こうじょうおおきく寄与きよしたとわれている。

いのちがけで技術ぎじゅつをなぜ他国たこくおしえる必要ひつようがあるのか」というこえもあるなか、ちゅうかん両国りょうこく若手わかて棋士きししげもなく技術ぎじゅつ伝授でんじゅした[3]

1999ねんおこなわれた引退いんたいさんばんでは、だい1きょく(4がつ16にち)でつねひろしだい2きょく(4がつ30にち)で曺薫鉉だい3きょく(5がつ14にち)で高尾たかおしんと、にちちゅうかん棋士きし対戦たいせん相手あいてつとめた。引退いんたいおこなわれたのは本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや以来いらい死後しごの2010ねん6がつには北京ぺきんに「藤沢ふじさわ秀行ひでゆき記念きねんしつ」が設立せつりつされた[6]

家族かぞく親族しんぞく[編集へんしゅう]

ちち藤沢ふじさわしげる五郎ごろう相場そうばとしてげた人物じんぶつで、賭博とばくにも熱中ねっちゅうしたが囲碁いごでもさんだん免状めんじょうっていたとされ、田村たむらたもつ寿ことぶき(のちの本因坊ほんいんぼう秀哉ひでや)と「おに池田いけだ」とばれた素人しろうと名人めいじんとの対戦たいせん企画きかくするなどしている[7]何人なんにんもの女性じょせい相手あいてに、合計ごうけい19にん子供こどもをつくった。囲碁いごほかにも、剣道けんどうさんだん将棋しょうぎだん柔道じゅうどうさんだんおこりたおせりゅう柔術じゅうじゅつ)。

つま藤沢ふじさわモトには、藤沢ふじさわらした人生じんせいえがいた著書ちょしょが『勝負しょうぶつま囲碁いご棋士きし藤沢ふじさわ秀行ひでゆきとのじゅうねん 』『大丈夫だいじょうぶぬまできる 碁打ごうち 藤沢ふじさわ秀行ひでゆき‐‐無頼ぶらい最期さいご』のさつある。

三男さんなん藤沢ふじさわ嘉浩よしひろはアマチュア囲碁いご強豪きょうごうよんなん藤沢ふじさわ秀敏ひでとし将棋しょうぎ奨励しょうれいかい入会にゅうかいしたが、初段しょだんになれず年齢ねんれい制限せいげん退会たいかいした[8]五男いつお藤沢ふじさわいち新宿しんじゅく囲碁いご教室きょうしつ開催かいさいしており、15にんのプロ棋士きし輩出はいしゅつしている[9]

いち就の長女ちょうじょであり、秀行ひでゆきまごにあたる藤沢ふじさわ里菜りなは、2010ねん4がつ当時とうじ史上しじょう最年少さいねんしょうとなる11さい6かげつ棋士きしとなり、数々かずかず女流じょりゅうタイトルを獲得かくとくしている[10]

経歴けいれき[編集へんしゅう]

おも戦績せんせき[編集へんしゅう]

  • 棋聖きせい 6歴代れきだい3)6連覇れんぱ歴代れきだい2名誉めいよ棋聖きせい
  • 名人めいじん 2 
  • 王座おうざ 5歴代れきだい4)3連覇れんぱ
  • 天元てんげん 1
囲碁いごななだいタイトル獲得かくとく記録きろく
順位じゅんい 獲得かくとく回数かいすう 棋士きしめい
1 60 じゅうろくせい本因坊ほんいんぼう文裕ふみひろ*
2 42 ちょう治勲ちくん名誉めいよかん*
3 35 小林こばやし光一こういち名誉めいよさんかん*
4 31 加藤かとう正夫まさお名誉めいよ王座おうざ
5 24 張栩ちょううきゅうだん*
6タイ 21 じゅうさんせい本因坊ほんいんぼう栄寿えいじゅ | はやし海峰みほ名誉めいよ天元てんげん*
8 17 大竹おおたけ英雄ひでお名誉めいよ碁聖ごせい
9タイ 14 藤沢ふじさわ秀行ひでゆき名誉めいよ棋聖きせい| 山下やました敬吾けいごきゅうだん*
*は現役げんえき棋士きし
2024ねん4がつ30にち時点じてん

だい1名人めいじん[編集へんしゅう]

1952ねんごろより日本棋院にほんきいん理事りじつとめ、1960ねんには渉外しょうがい担当たんとう理事りじとなる。日本棋院にほんきいん財政ざいせい基盤きばん改善かいぜんさくとして名人めいじんせん創設そうせつはかる。読売新聞よみうりしんぶんとの契約けいやくをまとめ、1961ねんからだい1旧名きゅうめいじんせん開始かいし最高さいこうタイトルをっていた秀行ひでゆきも13にんのリーグせん参加さんかする。翌年よくねん8がつ最終さいしゅうきょくまで9しょう2はいのトップをはしっていたが、最終さいしゅうきょく橋本はしもと昌二しょうじやぶれて9しょう3はいとなり、呉清源ごせいげん - 坂田さかた栄男さかおせん勝者しょうしゃとプレーオフとなるとおもわれた。しかし-坂田さかたせんしろばんジゴち(コミ5もくで)となり、当時とうじ規定きていでジゴちは正規せいきちより下位かいとされていたため、藤沢ふじさわだい1名人めいじんまった。

エピソード[編集へんしゅう]

  • 本拠地ほんきょちである阿佐ヶ谷あさがや中心ちゅうしん中央ちゅうおうせん沿線えんせんなんけんかの会所かいしょ運営うんえいしていた(門下生もんかせいまかせをふくむ)。
  • 首相しゅしょうはい日本棋院にほんきいんだいいち決定けっていせんきゅう名人めいじんせん早碁はやご選手権せんしゅけん天元てんげんせん棋聖きせいせんだい1優勝ゆうしょうたしており、「初物食はつものぐいの秀行ひでゆき」といわれた。
  • 多額たがく借金しゃっきんかかえていた時期じきだい2棋聖きせいせんでは加藤かとう正夫まさおに1しょう3はいまれ、だい5きょく開始かいしまえには「けたらくびるため」と枝振えだぶりのよいさがしながら対局たいきょくじょうかったと述懐じゅっかいしている。この藤沢ふじさわいちに2あいだ57ふんという記録きろくてきだい長考ちょうこうはらったすえ加藤かとう大石おおいしころ気迫きはく勝利しょうりおさめた(後述こうじゅつ)。
  • 将棋しょうぎ棋士きし米長よねなが邦雄くにおとはながいがあり、共著きょうちょ出版しゅっぱんもしている。
  • おなじく将棋しょうぎ棋士きし芹沢せりざわ博文ひろぶみは「弟分おとうとぶん」となかで、仲間なかまでもあった。二人ふたりさけせきで「囲碁いご将棋しょうぎすべてを100としたら、自分じぶんたちにはそのうちどのくらいをわかっているか」をかみいてったことがある。藤沢ふじさわっておおきくなってちょっとおおめに「6」といた。芹沢せりざわは「4か5」といていた。藤沢ふじさわ芹沢せりざわがわからないということがちゃんとわかっているおとこだとみとめ、デキるやつだったと回想かいそうしている[14]
  • 女性じょせい関係かんけい派手はでで、愛人あいじんいえびたって自宅じたくに3ねんものあいだかえらなかったこともあった。用事ようじができてかえらなければならなくなったさい自宅じたくへのかたがわからずつま電話でんわして案内あんないさせたという。
  • 米長よねなが邦雄くにおつま藤沢ふじさわつまモトをたずね、「うちの主人しゅじんしゅうに5にちかえってこないのですが」と相談そうだんしたところ、モトは「うちは3ねんかえりませんでした」とこたえたという[15]
  • 本妻ほんさい以外いがい女性じょせいとのあいだにも子供こどもがおり、認知にんちもしている。
  • 酒好さけずきでほぼ毎日まいにち飲酒いんしゅをしていた。しかしけっしてつよいわけではなく、とくに83ねん胃癌いがん手術しゅじゅつ少量しょうりょうでもいがまわるのがはやくなったという。また、うと女性じょせい俗称ぞくしょう連呼れんこする悪癖あくへきがあり、あるときには女性じょせい棋士きしあつまり検討けんとうをしている部屋へやはいみこのくせせたこともあった。鄧小ひらた面会めんかいしたさいには、あろうことかベロンベロンにっぱらっており、「中国ちゅうごくではおまんこのことをなにというのだ」と執拗しつようからみ、面会めんかい中断ちゅうだんされた。
  • また、開高かいこうけんのエッセイ『開口かいこう閉口へいこう』にてくる、「門口かどぐちで『やい、クロまん、でてこい!』とさけぶ『疾風しっぷう怒濤どとうのロマン』」とは藤沢ふじさわことである。
  • ライバルであった坂田さかた栄男さかおとは性格せいかくてきにもうまわなかったようで、1963ねんだい2名人めいじんせんだい6きょくでのふうをめぐる応酬おうしゅうなど、敵対てきたい関係かんけい物語ものがたるエピソードもおおい。藤沢ふじさわ日本棋院にほんきいんから除名じょめい処分しょぶんけたさいには、坂田さかた藤沢ふじさわはげしく非難ひなんした。しかし、2009ねん藤沢ふじさわ死去しきょさいし、坂田さかたは「対戦たいせん成績せいせきわたしほうかったが、才能さいのうわたしよりあったとおもう」(毎日新聞まいにちしんぶん)とかたり、没後ぼつごもよおされた「しのかい」にも車椅子くるまいす出席しゅっせきした。また将棋しょうぎ棋士きし河口かわぐち俊彦としひこ著書ちょしょには、あるとき日本棋院にほんきいん藤沢ふじさわったさい、「今日きょう坂田さかたに2まんえんりた。坂田さかたかねりるようじゃおれもおしまいだな」とつぶやいたというエピソードがかれている。なお、坂田さかた藤沢ふじさわ死去しきょからわずか1ねんの2010ねんに、うようにくなっている。
  • たしな企業きぎょう役員やくいん著名ちょめいじんからの人気にんきたかく、藤沢ふじさわ開催かいさいしたしょ展示てんじかいなどにはたくさんのはな祝電しゅくでんとどき、直接ちょくせつ会場かいじょうけつけ挨拶あいさつわすひとおおかった。また、藤沢ふじさわ贔屓ひいきにしていたてる銀座ぎんざ会員かいいんせいクラブ(2010ねん閉店へいてん)では、藤沢ふじさわ私設しせつ後援こうえんかい藤沢ふじさわかい』の会員かいいん対象たいしょうつきに1かい藤沢ふじさわとその弟子でしのプロ棋士きし講習こうしゅうかいひらいていた。
  • 競輪けいりんきで、後楽園こうらくえん競輪けいりんで250まんえんり、それを花月園かげつえん競輪けいりんで480まんえんにしたこともある。くなる前年ぜんねんには競輪けいりんじょう転倒てんとうして骨折こっせつしている。とし2かい若手わかて育成いくせい合宿がっしゅく湯河原ゆがわらおこなわれるのが恒例こうれいだったが、その日程にってい小田原おだわら競輪けいりん開催かいさい日程にっていわせてまれるのがつねだったという[16]
  • 京王けいおうかく競輪けいりんじょうで250まんえん車券しゃけんを1てんいしたがしくもはずれ、観戦かんせんしていた決勝けっしょうせん付近ふきん金網かなあみつよにぎりすぎて菱形ひしがたにひしゃげてしまい、「秀行ひでゆきせの金網かなあみ」として京王けいおうかく競輪けいりんじょう名所めいしょになった[15][ちゅう 2]
  • 棋聖きせいせん6連覇れんぱあいだに、借金しゃっきんのために自宅じたく競売きょうばいにかけられたが、「最善さいぜんしゅもとめていのちけずっているから、借金しゃっきんおんなこわくない」とかたった[15]
  • 戒名かいみょう自身じしん生前せいぜんめていた「無明むみょう居士こじ(むみょうこじ)」。
  • くなって3ねん以上いじょうたった、2012ねん週刊しゅうかん11がつ5にちごう(10がつ29にち発売はつばい)に「尊敬そんけいする棋士きしきな棋士きしベスト10」・だい2獲得かくとくした[17]

有名ゆうめいきょく[編集へんしゅう]

1978(昭和しょうわ53)ねん藤沢ふじさわ棋聖きせいせんで、本因坊ほんいんぼうじゅうだん碁聖ごせいさんかん保持ほじする加藤かとう正夫まさお挑戦ちょうせんけた。だい4きょくまで1しょう3はいとなり、カド番かどばんまれただい5きょくくろ藤沢ふじさわこう中国ちゅうごくりゅう布石ふせき採用さいようした。

くろ模様もようしろが△とんできた瞬間しゅんかんくろ藤沢ふじさわは▲の鉄柱てっちゅうち、このしろ皆殺みなごろしにすることを決意けついする。

しろが1にツケてきたとき藤沢ふじさわは2あいだ57ぶん考慮こうりょくろ2にトンだ。この一世一代いっせいちだいだい長考ちょうこう以下いか変化へんかり、加藤かとう大石おおいし撲殺ぼくさつ。この勝利しょうりながれをつかみ、以下いか3連勝れんしょう逆転ぎゃくてん防衛ぼうえい成功せいこうした。高尾たかおしん藤沢ふじさわ里菜りなは、「日本棋院にほんきいん100周年しゅうねん 棋士きしえらんだこのいち」に、このくろ2のトビをえらんでいる。

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

  • 藤沢ふじさわ秀行ひでゆき囲碁いご学校がっこう』(ぜん6さつ平凡社へいぼんしゃ、1971ねん
  • たけ』(日本にっぽん囲碁いご大系たいけい10)筑摩書房ちくましょぼう、1976ねん
  • げい探求たんきゅうシリーズ1 華麗かれい 藤沢ふじさわ秀行ひでゆき日本棋院にほんきいん、1977ねん
  • 秀行ひでゆき創作そうさくつめ傑作けっさくしゅう日本棋院にほんきいん、1980ねん
  • 藤沢ふじさわ秀行ひでゆき じょうした』(現代げんだい囲碁いご大系たいけい26.27)講談社こうだんしゃ、1980ねん
  • 藤沢ふじさわ秀行ひでゆき名誉めいよ棋聖きせいへのみち : 棋聖きせいせん1-5激闘げきとう読売新聞社よみうりしんぶんしゃ、1981ねん
  • 秀行ひでゆき 飛天ひてん 藤沢ふじさわ秀行ひでゆきタイトルせん全集ぜんしゅう 上下じょうげまき日本棋院にほんきいん、1982ねん
  • 棋聖きせい秀行ひでゆきぜん5かんよんほししゃ、1982ねん
  • 『わたしならこう秀行ひでゆき囲碁いご道場どうじょう じょうした日本棋院にほんきいん 1982ねん
  • 囲碁いごはつろん』(解説かいせつ平凡社へいぼんしゃ東洋文庫とうようぶんこ412)、1982ねん
  • 基本きほん手筋てすじ事典じてん じょうした日本棋院にほんきいん、1982ねん
  • 藤沢ふじさわ秀行ひでゆき (現代げんだい囲碁いごめい勝負しょうぶシリーズ) 』講談社こうだんしゃ、1987ねん
  • 秀行ひでゆき世界せかいぜん6さつまことぶんどう新光しんこうしゃ、1992ねん
  • 藤沢ふじさわ秀行ひでゆき全集ぜんしゅう』(ぜん12さつ日本棋院にほんきいん 1994ねん
  • 藤沢ふじさわ秀行ひでゆき急所きゅうしょこのいち (NHK囲碁いごシリーズ) 』1995ねん
  • 秀行ひでゆきひゃくめいきょくまことぶんどう新光しんこうしゃ、2009ねん

ほか、きわめて多数たすうの(100さつかるえる)棋書ろしている(そのおおくは棋士きしにして囲碁いごライターである小西こにし泰三たいぞう構成こうせいによる)。

ほかに本人ほんにん壮絶そうぜつせいきかたをしるしたエッセイとして

  • 八方破はっぽうやぶ人生じんせい天才てんさい勝負しょうぶ戦陣せんじんくん』 (1971ねん)サンケイドラマブックス
  • げい 棋聖きせい秀行ひでゆき囲碁いご放談ほうだん日本棋院にほんきいん 1978ねん
  • 碁打ごういちだい読売新聞社よみうりしんぶんしゃ 1981ねん
  • えてつ!』講談社こうだんしゃ 1986ねん
  • 勝負しょうぶげい~わが囲碁いごみち岩波いわなみ新書しんしょ 1990ねん
  • 人生じんせい大局たいきょくかた (フロムフォーティズ) 』ごま書房しょぼう 1992
    • 人生じんせい大局たいきょくをどうむか』 三笠みかさ知的ちてききかた文庫ぶんこ
  • 碁打ごうち秀行ひでゆきわたし履歴りれきしょ日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ 1993ねん、のち角川かどかわ文庫ぶんこ 1999ねん
  • 人生じんせい意気いきかんじず』ひらく 1998ねん
  • 野垂のたに』新潮しんちょう新書しんしょ 2005ねん

などがある。将棋しょうぎ米長よねなが邦雄くにお永世えいせい棋聖きせいとの対談たいだんしゅうとして

  • 勝負しょうぶ極北きょくほく~なぜたたかいつづけるのか』
  • たたかいはこれからだ~人間にんげんてき魅力みりょく研究けんきゅう祥伝社しょうでんしゃノン・ポシェット文庫ぶんこ

また

  • 藤沢ふじさわモト『勝負しょうぶつま囲碁いご棋士きし藤沢ふじさわ秀行ひでゆきとのじゅうねん角川かどかわoneテーマ21

夫人ふじん正妻せいさい)による著書ちょしょ。 (本人ほんにんでなく)本人ほんにんつませいきかたに焦点しょうてんてたNHKによるテレビ番組ばんぐみが、DVDされている。

  • 無頼ぶらい遺言ゆいごん棋士きし藤沢ふじさわ秀行ひでゆきつまモト』NHKエンタープライズ

棋士きし技術ぎじゅつ伝授でんじゅでないビデオに出演しゅつえんするのはきわめて異例いれいのことである。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 小西こにし泰三たいぞう波瀾万丈はらんばんじょう はだか秀行ひでゆき」(『棋道』1994ねん5-12月ごう

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 秀行ひでゆき」という名前なまえは、少年しょうねん時代じだいから心酔しんすいしていた本因坊ほんいんぼうしゅうはじめ由来ゆらいするという。『野垂のたに』 (新潮しんちょう新書しんしょ)より
  2. ^ 芹沢せりざわ博文ひろぶみちょ人生じんせい、くそ度胸どきょう』には「京王けいおうかく秀行ひでゆきガマンの金網かなあみ」との表記ひょうき

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 棋聖きせい秀行ひでゆき(3)』(よんほししゃ)P.88
  2. ^ 棋聖きせい秀行ひでゆき(3)』(よんほししゃ)P.88
  3. ^ a b c d 2015ねん8がつ18にち東京とうきょう中日ちゅうにちスポーツ「怪物かいぶつ伝説でんせつ 藤沢ふじさわ秀行ひでゆき名誉めいよ棋聖きせい」より
  4. ^ 藤沢ふじさわモト『勝負しょうぶつま――囲碁いご棋士きし藤沢ふじさわ秀行ひでゆきとのじゅうねん』(角川書店かどかわしょてん、2003ねん)92-95、126ぺーじ藤沢ふじさわモト『大丈夫だいじょうぶぬまできる 碁打ごう藤沢ふじさわ秀行ひでゆき――無頼ぶらい最期さいご』(角川書店かどかわしょてん、2012ねん)195、274ぺーじ
  5. ^ 名誉めいよ棋聖きせい 藤沢ふじさわ秀行ひでゆきさんご逝去せいきょ‐ニコニコインフォ”. blog.nicovideo.jp. 2019ねん1がつ11にち閲覧えつらん
  6. ^ ワールド』2010ねん7がつごう
  7. ^ 本因坊ほんいんぼう自伝じでん Kindleばん本因坊ほんいんぼう秀哉ひでやちょ
  8. ^ https://web.archive.org/web/20220828025706/https://kakaku.com/tv/search/keyword=%E8%97%A4%E6%B2%A2%E7%A7%80%E6%95%8F/
  9. ^ 新宿しんじゅくこども囲碁いご教室きょうしつ 教室きょうしつ案内あんない”. 新宿しんじゅくこども囲碁いご教室きょうしつ. 2019ねん1がつ11にち閲覧えつらん[リンク]
  10. ^ 囲碁いご日本棋院にほんきいん”. 囲碁いご日本棋院にほんきいん. 2019ねん1がつ11にち閲覧えつらん
  11. ^ 田村たむら龍騎兵りゅうきへいかいうらおもて』(ルックしゃ)P.59
  12. ^ 「97ねんあき叙勲じょくん受章じゅしょうしゃくんさんとう以上いじょう一覧いちらん」『読売新聞よみうりしんぶん』1997ねん11月3にち朝刊ちょうかん
  13. ^ 藤沢ふじさわ秀行ひでゆき囲碁いご殿堂でんどうり(だい17かい囲碁いご殿堂でんどう表彰ひょうしょう”. 日本棋院にほんきいん (2020ねん11月25にち). 2020ねん12月11にち閲覧えつらん
  14. ^ 野垂のたに』p86 - p87
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  16. ^ 競馬けいば最強さいきょう法則ほうそく』(KKベストセラーズ)2010ねん6がつごう・pp.134 - 135
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外部がいぶリンク[編集へんしゅう]