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芹沢せりざわ博文ひろぶみ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 芹沢せりざわ博文ひろぶみ きゅうだん
名前なまえ 芹沢せりざわ博文ひろぶみ
生年月日せいねんがっぴ (1936-10-23) 1936ねん10月23にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1987-12-09) 1987ねん12月9にち(51さいぼつ
プロ年月日ねんがっぴ 1955ねん4がつ1にち(18さい
棋士きし番号ばんごう 68
出身しゅっしん 静岡しずおかけん沼津ぬまづ
師匠ししょう 高柳たかやなぎ敏夫としお名誉めいよきゅうだん
弟子でし 佐藤さとう義則よしのり
段位だんい きゅうだん
棋士きしDB 芹沢せりざわ博文ひろぶみ
戦績せんせき
一般いっぱん棋戦きせん優勝ゆうしょう回数かいすう 1かい
通算つうさん成績せいせき 455しょう512はい(.470)
順位じゅんいせん最高さいこうクラス Aきゅう(2
2017ねん8がつ24にち現在げんざい
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芹沢せりざわ 博文ひろぶみ(せりざわ ひろぶみ、1936ねん10月23にち - 1987ねん12月9にち)は、将棋しょうぎ棋士きし棋士きし番号ばんごう68。きゅう字体じたい芹澤せりざわ 博文ひろぶみ表記ひょうき使つかわれている。

静岡しずおかけん沼津ぬまづ出身しゅっしん高柳たかやなぎ敏夫としお名誉めいよきゅうだん門下もんか文筆ぶんぴつタレントとしても活躍かつやくした(ばんがいでの活動かつどう参照さんしょう)。

来歴らいれき

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将棋しょうぎおぼえたのは小学校しょうがっこう4年生ねんせいころだった。しかし、その2ねんには沼津ぬまづ将棋しょうぎ大会たいかいおとずれた木村きむら義雄よしおじゅうよんせい名人めいじんまいちで快勝かいしょうしており、神童しんどうさわがれる。

14さいとき入門にゅうもん、19さいよんだんとなる。1ねん順位じゅんいせんこそしくも昇級しょうきゅうがしたが2ねんからは4ねんつづけて昇級しょうきゅうし、24さいでAきゅうはちだんとなる。ちなみにCきゅう2くみから4ねんつづけて昇級しょうきゅうたしたのは、芹沢せりざわほか加藤かとう一二三ひふみ中原なかはらまこと谷川たにがわ浩司こうじ名人めいじん経験けいけんしゃ3めいに、田中たなか寅彦とらひこけい4めいしかいない。このようなことから芹沢せりざわは『わか天才てんさい』『俊英しゅんえい』とばれた。

Bきゅう1くみでは、後述こうじゅつ発言はつげんとおり11しょう1はいという好成績こうせいせきでAきゅう昇級しょうきゅうしたが、そのほしおもうようにびずにわずか2ねんでAきゅうから陥落かんらくした。本人ほんにんいわく「そのになればいつでもてるとおもっていたから、そのにならずけるくせがついてしまった」という。以後いご、Bきゅう1くみながらく維持いじする。そのなかでもなんかAきゅう復帰ふっきのチャンスはあったが、1969ねんのB1順位じゅんいせんでは最終さいしゅうきょく中原なかはらとの直接ちょくせつ対決たいけつ終盤しゅうばんまで優位ゆういすすめながらも逆転ぎゃくてんけし、Aきゅう復帰ふっきのがす。ちなみ中原なかはらはこのとし10しょう3はいでAきゅう昇級しょうきゅうした。1973年度ねんどは、最終さいしゅうきょくほしりでライバルだった大内おおうちのべかいとの直接ちょくせつ対戦たいせんやぶれてしまい、昇級しょうきゅうのがす。

30だい以降いこう棋士きしとして目立めだった成績せいせきのこしていないが、運営うんえいめんやタレント・文筆ぶんぴつ活動かつどうなどで才覚さいかく発揮はっきする(後述こうじゅつ)。

1987ねん12月9にち肝不全かんふぜんのため逝去せいきょ。51さいぼつ逝去せいきょする直前ちょくぜんまでバラエティ番組ばんぐみにも出演しゅつえんしており突然とつぜん訃報ふほうという印象いんしょうもあったが、すうねんまえにもたおれて病院びょういんかつまれた経験けいけんっていた。そのさい、テレビ番組ばんぐみ共演きょうえんしていたせんだみつおりょう紹介しょうかいされ「せんださんのおかげたすかりました」と、感謝かんしゃあらわしている。

人物じんぶつ

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  • 奨励しょうれいかいころから傲岸ごうがん不遜ふそん言動げんどうられており、当時とうじ常務じょうむ理事りじたいして「奨励しょうれいかい昇級しょうきゅう規定きていなまぬるい。こんな規定きてい昇級しょうきゅうしてもずかしいだけだから、自分じぶんは(昇級しょうきゅうを)辞退じたいする」と啖呵たんかったり、Bきゅう1くみ当時とうじいま自分じぶんならじゅうばんしてばんけることはない。(Aきゅうに)がるには9しょう3はいでいいのだから、ばん不戦敗ふせんぱいでいい」などと発言はつげんして物議ぶつぎかもすが、当時とうじから表裏ひょうり一本いっぽんすじとおった性格せいかくだったこともあり、先輩せんぱいたちからは可愛かわいがられた。
  • その一方いっぽうで、若手わかて面倒めんどうかったことでられる。弟弟子おとうとでしでもあった中原なかはらまことは、奨励しょうれいかい時代じだい毎週まいしゅう日曜日にちようびになると芹沢せりざわいえたずねて稽古けいこけてもらっていた。中原なかはらつよくなったのも、すじ芹沢せりざわ将棋しょうぎ吸収きゅうしゅうしたからだともわれている。
  • また一門いちもんちがったものの、米長よねなが邦雄くにお奨励しょうれいかい時代じだいから芹沢せりざわ可愛かわいがられていた。ていだん時代じだい米長よねなが飛車ひしゃおおしていたが、芹沢せりざわの『わかうちから飛車ひしゃしていては大成たいせいしない』という忠告ちゅうこくけ、飛車ひしゃ封印ふういんした。その米長よねながきょ飛車ひしゃ本格ほんかくとしてきゅう成長せいちょうたす。なお、芹沢せりざわ葬儀そうぎ弔辞ちょうじ米長よねなが担当たんとうしている。
  • 名人めいじんたいするおもいはつよく、名人めいじんになる見込みこみがなくなって以後いごおりれ「おれ名人めいじんになれないのかな…」というかんがえがかんで、なみだながしていた。
  • 無類むるいさけきとしてられていたが、晩年ばんねん酒量しゅりょうえて対局たいきょくもままならないことがすくなからずあったという。しかしそんななか将来しょうらい名人めいじん候補こうほされた谷川たにがわ浩司こうじとの1981年度ねんどのB1順位じゅんいせんでの対局たいきょくは、さけちをして体調たいちょうととのえてから谷川たにがわ対峙たいじして完璧かんぺきまわしで谷川たにがわやぶった[ちゅう 1]。また、谷川たにがわ浩司こうじの棋才と人物じんぶつはやくからみとめて「将来しょうらい名人めいじん」と断言だんげんしており「谷川たにがわ応援おうえん団長だんちょう」と自称じしょうしていた。
  • 一方いっぽう芹沢せりざわ死去しきょする2ねんまえにデビューして活躍かつやくしていた羽生はぶ善治よしはるについては、その「すじにこだわらない」棋風きふうきら評価ひょうかしていなかった。羽生はぶどう世代せだい若手わかて棋士きし芹沢せりざわ評価ひょうかしていたのは「すじあかるい」将棋しょうぎしていた阿部あべたかしである。
  • わかにはみずからを将棋しょうぎ天才てんさいしんじていたが、あるとき才能さいのう限界げんかい自覚じかく[ちゅう 2]、それ以来いらいさけおぼれる生活せいかつおくっている。晩年ばんねんになるとあさからシャブリ・ワイン食事しょくじしにつづけていた。尋常じんじょうではない酒量しゅりょうによりみずか体調たいちょうくずした結果けっか逝であり、芹沢せりざわは「時間じかんをかけたゆるやかな自殺じさつ」ともたとえられた。

ばんがいでの活動かつどう

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  • 現在げんざい全国ぜんこく各地かくちおこなわれている「将棋しょうぎまつり」を企画きかく立案りつあんするなどアイデアマンとしてもられた。また、1976ねんには蔵前くらまえ国技こくぎかんで「将棋しょうぎ」イベントを開催かいさいする立役者たてやくしゃとなった。このイベントは平日へいじつ開催かいさいであったにもかかわらず、8500にんもの観客かんきゃくあつめて大盛おおもりきょうわる。
  • 山口やまぐちひとみの『血涙けつるいじゅうばん勝負しょうぶ』では、連盟れんめいサイドでの調整ちょうせいにあたってみずからもだいろくばん対局たいきょくしゃとして山口やまぐち対峙たいじした。
  • 日曜にちよう天国てんごく』の司会しかいや『アイ・アイゲーム』の解答かいとうしゃなど、テレビタレントとしても活躍かつやくしておりいまう「文化ぶんかじんタレント」のはしりでもあった。また、1981ねん映画えいがの・ようなもの』では俳優はいゆうとして出演しゅつえんしている。
  • 観戦かんせんをはじめ、エッセイなど文章ぶんしょうとしても活躍かつやくしており、おおくの著作ちょさくのこしている。
  • 観戦かんせんでのペンネームは『かも』。本人ほんにんいわく『鴨長明かものちょうめいのような流暢りゅうちょう文章ぶんしょうきたい』とのおもいでこのけた。また藤沢ふじさわ秀行ひでゆきなどのちかしい人物じんぶつは、かれのことを新撰しんせんぐみ筆頭ひっとう局長きょくちょう芹沢鴨せりざわかもになぞらえて『せりかも』とんでいた。
  • だい将棋しょうぎきであった田中たなか角栄かくえいともしたしく、一時期いちじき自由民主党じゆうみんしゅとうからの参議院さんぎいん選挙せんきょ全国ぜんこくからの出馬しゅつば沙汰ざたされた。
  • 晩年ばんねんには作詞さくし伊奈いなろう作曲さっきょく山本やまもと寛之ひろゆきさくの『ふうぞう』で歌手かしゅデビューもたす。
  • 焼酎しょうちゅう「おつだね」のCMに長女ちょうじょ共演きょうえんして「おつだねいちはい、ぐいっ!」と台詞せりふはなっている。
  • 1982ねんに、テレビ東京てれびとうきょうけい時代じだいげき大江戸おおえど捜査そうさもうだい542ったなし!まんりょう王手おうて』に、当代とうだい将棋しょうぎ名人めいじんやく特別とくべつ出演しゅつえんしている。
  • DAM第一興商だいいちこうしょう)で配信はいしんされている北島きたじま三郎さぶろう』のカラオケ(本人ほんにん映像えいぞう)では、うた将棋しょうぎ題材だいざいとしているということもあり、みずか出演しゅつえんして北島きたじま対局たいきょくしている[1]

筆禍ひっか・トラブル

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ころもせぬすじとおった発言はつげんや、秀逸しゅういつ文章ぶんしょうエッセイ一般いっぱん大衆たいしゅうから好評こうひょうていた。しかしその反面はんめんとしかさねるごと棋界きかい内外ないがいすうおおくの舌禍ぜっか筆禍ひっかこした将棋しょうぎ史上しじょう有数ゆうすうのトラブルメーカーでもあり、大山おおやま康晴やすはるなどどう時期じき棋界きかい関係かんけいしゃ度々どど激怒げきどし、ばんがいあたまなやませていた。

  • 数多かずおおいトラブルのなかでもとく1982ねんの『対局たいきょく全敗ぜんぱい宣言せんげん』はそのさいたるものであり、解釈かいしゃくによっては『へん八百長やおちょう宣言せんげん』にれることから物議ぶつぎかもしている。
    • この全敗ぜんぱい宣言せんげんは『競争きょうそう原理げんりはたらくはずのプロが、全敗ぜんぱいでクラスもちず[ちゅう 3]給料きゅうりょうもらえるのはおかしい』という一種いっしゅ提言ていげんであったが、棋士きしなかでも賛否さんぴ両論りょうろんた。
    • 棋士きしかいでも「芹沢せりざわ処分しょぶんすべきではないか」とのこえがったものの、結局けっきょくとがしにわった。
    • 一方いっぽう、Cきゅう2くみからのくだきゅう制度せいどは、この4ねん1986ねんから復活ふっかつしたことを考慮こうりょすると、このけんかぎればおおむ芹沢せりざわ主張しゅちょうちか結果けっかとなっている。
  • 将棋しょうぎ連盟れんめい会長かいちょうであった大山おおやま康晴やすはるとは、人間にんげんてきわなかった。エッセイで度々たびたび批判ひはんかえ芹沢せりざわ激怒げきどした大山おおやまが、当時とうじ連盟れんめい職員しょくいんだった鈴木すずき宏彦ひろひこげん観戦かんせん記者きしゃ)に「いますぐ芹沢せりざわをここへれてい!」とめいじ、鈴木すずき対処たいしょきゅうしたこともあったという。一方いっぽう大山おおやまは、芹沢せりざわ将棋しょうぎかいやく人間にんげんとしてはみとめていた。
  • クイズダービー弟弟子おとうとでし当時とうじ名人めいじんだった中原なかはらまこと出演しゅつえんしたさいに、司会しかい大橋おおはし巨泉きょせんが「中原なかはらくん」となんんだことにたいして「年齢ねんれいしただとはいえ、将棋しょうぎかい頂点ちょうてん人間にんげんを『きみけとはけしからん。もの常識じょうしきらないおとこだ」と批判ひはん。これ以後いご著作ちょさくきょいずみ攻撃こうげきするようになった。のちに「クイズダービーでは解答かいとうしゃはらたいら)にこたえをおしえている」と週刊しゅうかんエッセイいており、きょいずみ激怒げきどさせている。これにたいして巨泉こいずみ芹沢せりざわ名誉めいよ毀損きそんうったえるつもりでいたが、中原なかはら将棋しょうぎ連盟れんめいきょいずみへの懸命けんめいのとりなしでことなきをている。
  • いもうと弟子でし蛸島たこしま彰子あきこ時代じだいげきしん必殺ひっさつ仕置しおきじん』の『王手おうて無用むよう』のかい女性じょせい棋士きしやくでゲスト出演しゅつえんすることになったが、一部いちぶ撮影さつえいんだだんになってから芹沢せりざわが「女流じょりゅうとはいえ名人めいじん、それが〔ころされて〕コモかぶりでは将棋しょうぎのためにならない」と番組ばんぐみプロデューサーもう抗議こうぎひろげた[2]。この芹沢せりざわ介入かいにゅう結果けっか蛸島たこしまやくからろされ[ちゅう 4]撮影さつえいずみシーンもすべぞうという事態じたいいた[ちゅう 5]
  • 上記じょうきよう芹沢せりざわ周囲しゅういではトラブルが頻発ひんぱつしたため、晩年ばんねんになるにれてしたしかった棋士きしやメディア関係かんけいしゃたちにも警戒けいかい躊躇ちゅうちょされるようになり、次第しだい距離きょりかれるなどいわゆる「けいしてとおざける」というあつかいをされるようになっていった。
    • 上述じょうじゅつの『全敗ぜんぱい宣言せんげん』と前後ぜんごして、かつて蜜月みつげつ間柄あいだがらだった山口やまぐちひとみ絶縁ぜつえんする。山口やまぐち将棋しょうぎかいとの交遊こうゆう自体じたい[ちゅう 6]山口やまぐち連盟れんめい棋士きし批判ひはん芹沢せりざわはらてたことや、米長よねなが邦雄くにおとのあいだきたトラブルがおも要因よういんわれているが、山口やまぐち将棋しょうぎかいつなパイプ役ぱいぷやくであった芹沢せりざわ傲岸ごうがん不遜ふそんさをすばかりの態度たいど言動げんどうあわせて、それを阻止そし出来できない将棋しょうぎ関係かんけいしゃ弱腰よわごし姿すがた山口やまぐち将棋しょうぎかい失望しつぼうした一因いちいんともいわれている。
    • 1986ねんじゅうだんせんだいきょくげのせきで、立会たちあいじん板谷いたや四郎しろうが「ちょっと芹沢せりざわ最近さいきんまえ態度たいどなにだ?でチャラチャラかせいだりするから将棋しょうぎおろかになるんだよ!」と一喝いっかつした[2]。そのりょう者共ものども険悪けんあく雰囲気ふんいきとなり、その板谷いたや子息しそく板谷いたやすすむらがなにとかおさめたものの、そのはもはや周囲しゅうい直言ちょくげんをしてくれる人物じんぶつだれもいなくなった。

このほかにもオフレコレベルで、関係かんけいしゃあいだ処理しょりによって収拾しゅうしゅうけられたのもありぜん真相しんそうさだかではなく、後々あとあと棋界きかい内外ないがい尾鰭おびれいてつたわっているよう真偽しんぎ不明ふめいはなし散見さんけんされる。

その

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  • 名前なまえについては生前せいぜんから「せりさわ表記ひょうきと「せりさわ表記ひょうき混在こんざいしていた。日本にっぽん将棋しょうぎ連盟れんめい物故ぶっこ棋士きし紹介しょうかいらんでは「芹沢せりざわ」と表記ひょうきされているが、一部いちぶ著作ちょさくぶつ前出ぜんしゅつのドラマ出演しゅつえんのエンドロールにおいては「芹澤せりざわ表記ひょうきとなっている。
  • 当時とうじ将棋しょうぎかいでも屈指くっし競輪けいりんきとしてもられており、競輪けいりん中継ちゅうけい番組ばんぐみのゲストとしてもおおくの出演しゅつえんれきがある。ただし、わかかりしころには競輪けいりん原因げんいんおくちか借金しゃっきんってしまった。
  • 作家さっか色川いろかわたけしだいとも競輪けいりんつうじて交友こうゆうがあった。芹沢せりざわ晩年ばんねんおおくの知人ちじん友人ゆうじん前述ぜんじゅつの「けいしてとおざける」状態じょうたいになったのちも、芹沢せりざわくなる直前ちょくぜんまで親交しんこうつづいた。色川いろかわ芹沢せりざわについて、おもね佐田さた哲也てつや名義めいぎでの著書ちょしょおもね佐田さた哲也てつやあやしい交友こうゆうろく』で「かなしい・しい・さびしい・そういう色々いろいろ感情かんじょう先駈さきがけて、どうもつくづく、おとこかただなァ、とおもう」とあらわしている。
  • 月原つきはら稿こう用紙ようしひゃくまいほど原稿げんこう口述こうじゅつ筆記ひっき執筆しっぴつしていた。芹沢せりざわからのききとり・清書せいしょすべ夫人ふじんおこなっていた。出版しゅっぱんしゃに「タイプライターこわれたから、原稿げんこう明日あしたにしてくれ」の電話でんわは、夫人ふじん風邪かぜひいて寝込ねこんだというるいはなしであった[3]
  • アマだん腕前うでまえだった囲碁いごはじめ、あらゆる室内しつない遊技ゆうぎ精通せいつうとく麻雀まーじゃんにおける実力じつりょく猛者もさそろ将棋しょうぎかいにおいても当時とうじいちあらそうとしょうされたほど強者きょうしゃであった。
  • つのだじろう将棋しょうぎ漫画まんが5りゅう』において、主人公しゅじんこう師匠ししょうとして登場とうじょうする芦川あしかわはちだんは、かれがモデルとされている。
  • おな静岡しずおかけん出身しゅっしん芹沢せりざわせい[ちゅう 7]である俳優はいゆう芹澤名人せりざわめいじん芸名げいめいは、博文ひろぶみがテレビ番組ばんぐみにおいて「芹沢名人せりざわめいじん[ちゅう 8]」とばれていたことにけて名付なづけられたものである。なお当人とうにん将棋しょうぎかいとの接点せってん一切いっさいなく、また芹沢せりざわ博文ひろぶみとも血縁けつえん関係かんけいい。

弟子でし

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棋士きしとなった弟子でし

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名前なまえ よんだん昇段しょうだん 段位だんいおも活躍かつやく
佐藤さとう義則よしのり 1970ねん10がつ1にち きゅうだん
  • 佐藤さとう奨励しょうれいかい時代じだい芹沢せりざわに「む・つ・うはプロになるまで厳禁げんきん」ときびしくわれていたにもかかわらず、佐藤さとう京王けいおうかく競輪けいりんあそんでいるところを、芹沢せりざわ本人ほんにんつかってしまい破門はもんされそうになったことがある。このとき芹沢せりざわは「佐藤さとう弁解べんかいがましいことったら本当ほんとう破門はもんするつもりだった」とのちかたっている。

昇段しょうだん履歴りれき

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  • 1950ねん : 入門にゅうもん
  • 1955ねん04がつ01にち : よんだん = プロ
  • 1958ねん04がつ01にち : だん順位じゅんいせんCきゅう1くみ昇級しょうきゅう
  • 1959ねん04がつ01にち : ろくだん順位じゅんいせんBきゅう2くみ昇級しょうきゅう
  • 1960ねん04がつ01にち : ななだん順位じゅんいせんBきゅう1くみ昇級しょうきゅう
  • 1961ねん04がつ01にち : はちだん順位じゅんいせんAきゅう昇級しょうきゅう
  • 1984ねん04がつ01にち : きゅうだんかちすう規定きてい
  • 1987ねん12月09にち : 現役げんえきのまま死去しきょ

通算つうさん成績せいせき優勝ゆうしょう履歴りれき

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在籍ざいせきクラスの推移すいい

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順位じゅんいせん竜王りゅうおうせん在籍ざいせきクラスの年別ねんべつ一覧いちらん
開始かいし
年度ねんど
(出典しゅってん)順位じゅんいせん
出典しゅってん[4]
(出典しゅってん)竜王りゅうおうせん
出典しゅってん[5]
名人めいじん Aきゅう Bきゅう Cきゅう 0 竜王りゅうおう 1くみ 2くみ 3くみ 4くみ 5くみ 6くみ 決勝けっしょう
T
1くみ 2くみ 1くみ 2くみ
( よんだん昇段しょうだんまえ )
1956 11 C216
1957 12 C207
1958 13 C113
1959 14 B211
1960 15 B111
1961 16 A 09
1962 17 A 05
1963 18 B101
1964 19 B106
1965 20 B111
1966 21 B107
1967 22 B107
1968 23 B108
1969 24 B105
1970 25 B104
1971 26 B110
1972 27 B102
1973 28 B106
1974 29 B104
1975 30 B106
(順位じゅんいせんだい31-35かい省略しょうりゃく)
1976 36 B110
1978 37 B110
1979 38 B107
1980 39 B104
1981 40 B111
1982 41 B201
1983 42 B221
1984 43 B207
1985 44 B215
1986 45 B218 (棋戦きせん創設そうせつまえ)
1987 46 B223 1 3くみ --
( 1987ねん12月9にち 死去しきょ ) ( だい1で4くみくだきゅう対象たいしょうしゃ/1987ねん12月9にち死去しきょ )
順位じゅんいせん竜王りゅうおうせん わく表記ひょうき 挑戦ちょうせんしゃみぎらん数字すうじかち-はい(ばん勝負しょうぶ/POふくまず)。
順位じゅんいせんみぎ数字すうじはクラスない順位じゅんい ( x当期とうきくだきゅうてん / *累積るいせきくだきゅうてん / +くだきゅうてん消去しょうきょ )
順位じゅんいせんの「Fへん」はフリークラス編入へんにゅう /「Fせん」は宣言せんげんによるフリークラス転出てんしゅつ
竜王りゅうおうせん 太字ふとじ はランキングせん優勝ゆうしょう竜王りゅうおうせんくみ(添字そえじ)棋士きし以外いがいわくでの出場しゅつじょう

著書ちょしょ

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芹沢せりざわ博文ひろぶみ名義めいぎ

  • タテ戦法せんぽう(1966ねん北辰ほくしんどう):1975ねん、1989ねん改訂かいていばんゆう
  • 矢倉やくら戦法せんぽううえ)(した)(1966ねん北辰ほくしんどう):1986ねん改訂かいていばんゆう
  • ぼうぎん腰掛こしかぎん戦法せんぽう(1966ねん北辰ほくしんどう):1988ねん改訂かいていばんゆう
  • ハメしゅ撃破げきは戦法せんぽう(1967ねん北辰ほくしんどう):1986ねん改訂かいていばんゆう
  • あいかか基本きほん戦法せんぽう(1967ねん北辰ほくしんどう):1987ねん改訂かいていばんゆう
  • 初心者しょしんしゃのための飛車ひしゃかた(1968ねん有紀ゆうき書房しょぼう
  • 将棋しょうぎ定跡じょうせき入門にゅうもん(1968ねん天元てんげん書房しょぼう
  • 実践じっせん最中さいちゅうつぎ妙手みょうしゅ(1973ねん東京とうきょう書店しょてん
  • 将棋しょうぎつための本筋ほんすじ(1973ねんつる書房しょぼう
  • 単純たんじゅん明快めいかいぼうぎん戦法せんぽう(1974ねん日本にっぽん将棋しょうぎ連盟れんめい
  • 将棋しょうぎ飛車ひしゃやぶり(1975ねん西東さいとうしゃ
  • ヨコ戦法せんぽう(1975ねん4がつ北辰ほくしんどう):1989ねん改訂かいていばんゆう
  • よこある(1977ねんたからとも出版しゅっぱんしゃ
  • ××(ちょめちょめ)はちだんはちめんろくぴ(1982ねん6がつちからとみ書房しょぼうISBN 4-89776-002-X
  • ぼくんちは萌黄色もえぎいろ(1984ねん5がつフレふれベル館べるかんISBN 4-577-70002-6
  • 芹沢せりざわ博文ひろぶみ破天荒はてんこうばんがい ふうぞう(1984ねん11月、日本にほんコンサルタントグループ出版しゅっぱんISBN 4-88916-097-3
  • どんと失敗しっぱい どんと成功せいこう(1986ねん5がつ交通タイムス社こうつうたいむすしゃ
  • 飛車ひしゃやぶりのぼうぎん(1986ねん8がつ北辰ほくしんどう
  • ってけんごとし(1986ねん10がつ、ケント出版しゅっぱん
  • しつされつ─芹澤せりざわきゅうだん将棋しょうぎかいうらばなし(1987ねん5がつリイドしゃ
  • 猪突ちょとつぎん戦法せんぽう(1988ねん3がつ北辰ほくしんどう
  • 奇襲きしゅう戦法せんぽううえ)(した)(1988ねん7がつ北辰ほくしんどう

芹澤せりざわ博文ひろぶみ名義めいぎ

  • 芹沢せりざわ将棋しょうぎ教室きょうしつ(1) 現代げんだい流行りゅうこうしん戦法せんぽう高橋たかはし書店しょてん、1966ねん
    • 1977ねんに『芹澤せりざわ最新さいしん戦法せんぽう』と改題かいだいし、芹澤せりざわ名義めいぎ変更へんこう
  • 芹沢せりざわ将棋しょうぎ教室きょうしつ(2) めの基本きほん応用おうよう高橋たかはし書店しょてん、1966ねん
    • 1977ねんに『芹澤せりざわ将棋しょうぎ』と改題かいだいし、芹澤せりざわ名義めいぎ変更へんこう
  • 芹沢せりざわ将棋しょうぎ教室きょうしつ(3) 奇襲きしゅうとハメしゅ高橋たかはし書店しょてん、1966ねん
    • 1977ねんに『芹澤せりざわ急戦きゅうせん将棋しょうぎ』と改題かいだいし、芹澤せりざわ名義めいぎ変更へんこう
  • 芹沢せりざわ将棋しょうぎ教室きょうしつ(4) 中盤ちゅうばん必勝ひっしょうこのいち高橋たかはし書店しょてん、1966ねん
    • 1977ねんに『芹澤せりざわ急戦きゅうせん将棋しょうぎ』と改題かいだいし、芹澤せりざわ名義めいぎ変更へんこう
  • 芹沢せりざわ将棋しょうぎ教室きょうしつ(5) 必勝ひっしょうかたちとネライ(高橋たかはし書店しょてん、1966ねん
    • 1977ねんに『芹澤せりざわ基本きほん将棋しょうぎ』と改題かいだいし、芹澤せりざわ名義めいぎ変更へんこう
  • 芹沢せりざわ将棋しょうぎ教室きょうしつ(6) あたらしいこま落定あと高橋たかはし書店しょてん、1966ねん
    • 1977ねんに『芹澤せりざわこま将棋しょうぎ』と改題かいだいし、芹澤せりざわ名義めいぎ変更へんこう
  • おうより飛車ひしゃき(1984ねん12月、サンケイ出版しゅっぱん(扶桑社ふそうしゃ)、ISBN 4-383-02351-7
  • はちだんうえきゅうだんした(1984ねん12月、講談社こうだんしゃISBN 4-06-201601-X
  • 人生じんせい、くそ度胸どきょう!(1985ねん6がつロングセラーズISBN 4-8454-0195-9
  • 芹澤せりざわ博文ひろぶみむすめよ(1985ねん8がつ、パン・ニューズ・インターナショナル)

名義めいぎ不明ふめい

  • 将棋しょうぎ これからはじめるひとに(1967ねん天元てんげん書房しょぼう
  • 急所きゅうしょ攻撃こうげきほう(1968ねん光風こうふうしゃ書店しょてん
  • 将棋しょうぎ入門にゅうもん : キミの実力じつりょく向上こうじょうはかるワザのぜん公開こうかい!(1977ねんつる書房しょぼう
  • やさしい将棋しょうぎ入門にゅうもん(1978ねんかねほししゃ):1984ねん改訂かいていばんゆう

テレビ出演しゅつえん

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※ すべてセガからの発売はつばい

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 谷川たにがわはこのとし、10しょう2はいでAきゅう昇級しょうきゅうしている。
  2. ^ 中原なかはら自分じぶんとどかない場所ばしょき、米長よねながにもられたとかんじ「まえに2とういればれんたい出来できない」と競馬けいば勝負しょうぶたとえてかたっている。
  3. ^ 1982ねん当時とうじは、Cきゅう2くみからのくだきゅうかった。
  4. ^ 将棋しょうぎ関係かんけいしゃでは伊藤いとうはじめやく伊藤いとうはてはそのまま出演しゅつえんしている。
  5. ^ 本来ほんらい蛸島たこしまえんじる予定よていだった女性じょせい棋士きしやくについては、女優じょゆう横山よこやまリエ急遽きゅうきょこれをえんじてことまされた。
  6. ^ 棋士きしとのプライベートの交遊こうゆうっただけであり、1987ねん発足ほっそくした将棋しょうぎペンクラブには発足ほっそく当初とうしょから参加さんかし、かくしょう選考せんこう委員いいん逝去せいきょするまでつづけた。
  7. ^ 静岡しずおかけんでは芹沢せりざわ姓名せいめい相当そうとうおおけんである。
  8. ^ これはたんなる愛称あいしょうであり、芹沢せりざわ名人めいじんへの挑戦ちょうせんれき獲得かくとくれきはない。
  9. ^ 芹沢せりざわは1987ねん12月に逝去せいきょしたため、初期しょきのみ出演しゅつえん
  10. ^ ゲームの開発かいはつコアランド担当たんとうした。
  11. ^ 業務ぎょうむようからの移植いしょく作品さくひん。アーケードばんではたて画面がめん構成こうせいだったが、家庭かていようばんよこ画面がめん構成こうせい変更へんこうされている。またクレジット画面がめん対局たいきょく終了しゅうりょう段位だんい判定はんてい家庭かていようでは芹沢せりざわはちだんによる段位だんい判定はんてい機能きのうい)表示ひょうじされる芹沢せりざわはちだんふう)の似顔絵にがおえイラストはカットされている。ゲームの操作そうさ設定せっていもアーケードばんは「1レバー・4ボタン」仕様しようであったが、家庭かていようばんは「1レバー・2ボタン」仕様しよう変更へんこうした。またアーケードばんにあった制限せいげん時間じかん・スコア設定せっていく、相手あいてむまでゲームオーバーにはならない「フリープレイ設定せってい」となっている。アーケードばんのタイトル画面がめん表示ひょうじされていた「王将おうしょう」の文字もじくなり、家庭かていよう将棋しょうぎこま画面がめんじょうからおうこうかくきむぎんうまりゅう)がタイトル画面がめん表示ひょうじされる。当時とうじ価格かかくは4300えんだった。

出典しゅってん

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  1. ^ 内藤ないとう國雄くにおきゅうだん「どういうわけか将棋しょうぎきな大学生だいがくせいおんなにもてないようである」 - 将棋しょうぎペンクラブログ・2013ねん10がつ19にち
  2. ^ a b 山田やまだ史生ふみお将棋しょうぎめい勝負しょうぶぜん秘話ひわぜん実話じつわ』(講談社こうだんしゃアルファ文庫ぶんこ、2002ねん[ようページ番号ばんごう]
  3. ^ 能智のうちうつ棋士きしたのしみ/(く) 碁盤ごばんつくえがわり」『将棋しょうぎ世界せかい日本にっぽん将棋しょうぎ連盟れんめい、1983ねん5がつごう、115ぺーじ 
  4. ^ 名人めいじんせん順位じゅんいせん」『日本にっぽん将棋しょうぎ連盟れんめい。2023ねん12月2にち閲覧えつらん
  5. ^ 竜王りゅうおうせん」『日本にっぽん将棋しょうぎ連盟れんめい。2023ねん12月2にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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