田中たなか寅彦とらひこ

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 田中たなか 寅彦とらひこ きゅうだん
名前なまえ 田中たなか 寅彦とらひこ
生年月日せいねんがっぴ (1957-04-29) 1957ねん4がつ29にち(67さい
プロ年月日ねんがっぴ 1976ねん6がつ4にち(19さい
引退いんたい年月日ねんがっぴ 2022ねん4がつ15にち(64さい
棋士きし番号ばんごう 127
出身しゅっしん 大阪おおさか豊中とよなか
所属しょぞく 日本にっぽん将棋しょうぎ連盟れんめい関東かんとう
師匠ししょう 高柳たかやなぎ敏夫としお名誉めいよきゅうだん
段位だんい きゅうだん
棋士きしDB 田中たなか 寅彦とらひこ
戦績せんせき
タイトル獲得かくとく合計ごうけい 1
一般いっぱん棋戦きせん優勝ゆうしょう回数かいすう 6かい
通算つうさん成績せいせき 794しょう783はい(.5034)
竜王りゅうおうせん最高さいこうクラス 1くみ 9
順位じゅんいせん最高さいこうクラス Aきゅう 6
2022ねん4がつ16にち現在げんざい
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田中たなか 寅彦とらひこ(たなか とらひこ、1957ねん4がつ29にち - )は、将棋しょうぎ棋士きし高柳たかやなぎ敏夫としお名誉めいよきゅうだん門下もんか大阪おおさか豊中とよなか出身しゅっしん棋士きし番号ばんごう127。棋聖きせいのタイトルを獲得かくとく竜王りゅうおうせん1くみ通算つうさん9順位じゅんいせんAきゅう通算つうさん6日本にっぽん将棋しょうぎ連盟れんめい理事りじ(2005ねん5がつ - 2009ねん5がつ、2011ねん5がつ - 2013ねん6がつ)。2012ねん12月に当時とうじ専務せんむ理事りじであった谷川たにがわ浩司こうじ会長かいちょう就任しゅうにんともない、日本にっぽん将棋しょうぎ連盟れんめい専務せんむ理事りじとなり2013ねんまでつとめた。

戦績せんせき[編集へんしゅう]

1976ねん、プロり(よんだん)。順位じゅんいせんでCきゅう2くみに4ねん在籍ざいせきしたが、4昇級しょうきゅう。1981年度ねんど新人しんじんおうせん優勝ゆうしょうし、棋戦きせんはつ優勝ゆうしょう。1982年度ねんど新鋭しんえいせんせん優勝ゆうしょう。このあいだ順位じゅんいせんでは4ねん連続れんぞく昇級しょうきゅうしており、1984ねん4がつ1にちにAきゅうはちだんとなった。

1984年度ねんどNHKはい優勝ゆうしょうし、これがぜん棋士きし参加さんか棋戦きせんでのはつ優勝ゆうしょうとなる。1986年度ねんど選手権せんしゅけんせん優勝ゆうしょう

1988ねん棋聖きせいせん前期ぜんき)でみなみ芳一よしかずから奪取だっしゅし、はつのタイトル獲得かくとく。しかし、どう年度ねんど後期こうき中原なかはらまことうばわれた。

2022ねん2がつ4にち自身じしん対局たいきょくではなかったもののだい80順位じゅんいせんCきゅう2くみにおいてまだ2きょくのこした状態じょうたいくだきゅうてん3が確定かくていし、のこ棋戦きせん終了しゅうりょうした時点じてんでの引退いんたい決定けっていした[1][2]。2022ねん4がつ15にち竜王りゅうおうせん6くみ昇級しょうきゅうしゃ決定けっていせん田中たなか悠一ゆういちだんやぶれ、公式こうしきせんぜん対局たいきょく引退いんたいとなった[3]通算つうさん成績せいせきは794しょう783はい(.5034)。将棋しょうぎ栄誉えいよ敢闘かんとうしょうの800しょうに6しょうおよばなかった。

棋風きふう[編集へんしゅう]

全盛期ぜんせいき独創どくそうてき序盤じょばん戦術せんじゅつにより作戦さくせんちをおさめることがおおく、「序盤じょばんのエジソン」の異名いみょうつ。きょ飛車ひしゃ穴熊あなぐまの「がこいのかた重視じゅうし」、飛車ひしゃさき矢倉やぐら戦法せんぽうでの「展開てんかいのスピード重視じゅうし」という思想しそうは、その序盤じょばん戦術せんじゅつ基礎きそとなった[4]

さらにはそれまで「素人しろうと将棋しょうぎ」とされていたウソ矢倉やぐらを、後手ごてばんでの矢倉やくら斬新ざんしんかた無理矢理むりやり矢倉やぐら」としてプロのあいだ通用つうようする戦法せんぽうにするなど、将棋しょうぎ序盤じょばん戦術せんじゅつ発展はってんあたえた影響えいきょうおおきい。それ以外いがいにも、藤井ふじいシステム対策たいさくくしカツがこ発案はつあんなど、積極せっきょくてき序盤じょばん戦術せんじゅつ開拓かいたくしていった。

きょ飛車ひしゃ穴熊あなぐま」を現代げんだい戦法せんぽうとして再編さいへん体系たいけいづけてプロ棋士きしあいだだい流行りゅうこうさせて本格ほんかくてきたい飛車ひしゃ攻略こうりゃくとして定着ていちゃくさせた[4]裁判所さいばんしょみとめた「きょ飛車ひしゃ穴熊あなぐま戦法せんぽう元祖がんそ[ちゅう 1]

20世紀せいき将棋しょうぎ序盤じょばん戦術せんじゅつ革新かくしんせいをもたらし、現代げんだい将棋しょうぎ発展はってん貢献こうけんした。羽生はぶ善治よしはる若手わかて棋士きしだった時代じだいに、日経新聞にっけいしんぶんの「19さい挑戦ちょうせん」という記事きじに「田中たなか寅彦とらひこはちだん当時とうじ序盤じょばんじつたくみで、わたしにはない感覚かんかくといつも感服かんぷくさせられる。中略ちゅうりゃく 序盤じょばん研究けんきゅう急務きゅうむおもっている。」とべていた。研究けんきゅう将棋しょうぎたいする熱意ねつい真摯しんしみといっためんで、羽生はぶ世代せだいあたえた影響えいきょうすくなくない。

終盤しゅうばんかんしては、さほどつよくはなかった。羽生はぶ世代せだいが(田中たなからがした序盤じょばん戦術せんじゅつまなび、それを研究けんきゅうした結果けっか序盤じょばん終盤しゅうばん両方りょうほうつよくなり隆盛りゅうせいして以降いこうはさすがに戦績せんせきるわなくなった[ちゅう 2]

エピソード[編集へんしゅう]

  • だい57(1998年度ねんど)のBきゅう1くみ順位じゅんいせんにおいて、Aきゅう昇級しょうきゅう候補こうほは、だい9きょく終了しゅうりょう時点じてんのこり2きょく)で、田中たなか(8しょう1はい)、田中たなかより順位じゅんいした郷田ごうだしんたかし(7しょう2はい)、そして順位じゅんいうえみなみ芳一よしかず(6しょう3はい)の3めいしぼられていた。田中たなかとしては、上位じょうい2めいはいり、ライバル同士どうし直接ちょくせつ対決たいけつわっていたため、のこり2きょく田中たなかが2連敗れんぱい郷田ごうだみなみが2連勝れんしょうしないかぎり、田中たなかのAきゅう復帰ふっき確実かくじつわれており、田中たなか本人ほんにんも「64ぶんの1のかくりつ」とっていた。ところが、だい10きょく田中たなか敗北はいぼくみなみ郷田ごうだ勝利しょうりして雲行くもゆきがあやしくなってきた。それでも、最終さいしゅうきょくで、田中たなかけ・郷田ごうだち・みなみちという「8ぶんの1のかくりつ」の出来事できごとこりさえしなければ、という状況じょうきょうである。最終さいしゅうだい11きょくでも田中たなかけ、郷田ごうだった。しかし、みなみ福崎ふくざき文吾ぶんごやぶれたため、田中たなかのAきゅう復帰ふっきまった。あせをかいた田中たなかは、このとき、「福崎ふくざきくん感謝かんしゃしないと」とかたっている。
  • 田中たなかは、羽生はぶ善治よしはる若手わかてだった1990年代ねんだい中期ちゅうきに、かれしていた数少かずすくない棋士きしでもあり、“羽生はぶキラー”とばれていた[ちゅう 3]若手わかて天才てんさい棋士きしばれなかから注目ちゅうもくされるようになっていた羽生はぶ翻弄ほんろうしたことで田中たなか注目ちゅうもくあつめ、1996ねんには『羽生はぶ必敗の法則ほうそく あなたにも天才てんさいたおせます』が刊行かんこうされた(表紙ひょうしには「きゅうだんたい羽生はぶ勝率しょうりつ8わり 田中たなか寅彦とらひこ ちょ」とも印刷いんさつされていた[5])。
  • 羽生はぶとは公文こうぶんしきのCMで共演きょうえんしているが、出演しゅつえんのきっかけは、田中たなか電通でんつういに羽生はぶ起用きようすすめたものであり、羽生はぶの「やっててよかった公文こうぶんしき」、田中たなかの「やってりゃよかった公文こうぶんしき」も、キャッチコピーは田中たなか発案はつあんしたものである[6]
  • かつては谷川たにがわ浩司こうじへのつよ競争心きょうそうしんかくさず、谷川たにがわ名人めいじんだった1984ねんころに「谷川たにがわつよくない」、「あの程度ていど名人めいじん」などの挑発ちょうはつてき発言はつげんをして注目ちゅうもくあつめた。その理由りゆうとして、かれ同期どうきであり、周囲しゅういから谷川たにがわを「将来しょうらい名人めいじん候補こうほ」、自身じしんを「将来しょうらいのAきゅう候補こうほ」などとつね比較ひかくされつづけ、相対そうたいてき見下みさげられていたことにくやしさとつらさをあじわったためである。その発言はつげん直後ちょくごの1983年度ねんどだい2かい全日本ぜんにほんプロトーナメント谷川たにがわ対戦たいせんし、1しょう2はいやぶれた。なお、現在げんざいではそうした挑発ちょうはつてき発言はつげんかれなくなっており、かれ一目いちもく立場たちばえている。
  • だい21竜王りゅうおうせんだい6きょく大盤おおばん解説かいせつかいでは、△5ぎん妙手みょうしゅ渡辺わたなべあきら竜王りゅうおうすじがあることにまったづかず、「羽生はぶ名人めいじんちでもうすぐわる」と聴衆ちょうしゅう断言だんげんして、鈴木すずき大介だいすけはちだんひかしつしてあわてて訂正ていせいする一幕ひとまくもあった[7]。ただし、されたは△4よんである。対局たいきょく結果けっかは70まで後手ごて渡辺わたなべ竜王りゅうおうちとなった。
  • 現在げんざい研修けんしゅうかい制度せいどげ、幹事かんじつとめた。制度せいど設立せつりつ背景はいけいには当時とうじ将棋しょうぎ漫画まんが5りゅう』で将棋しょうぎ人気にんきとなり、奨励しょうれいかいへの受験じゅけんしゃ急増きゅうぞうしたという事情じじょうがあった。そこで、『5りゅう』への原作げんさく協力きょうりょくをしていた田中たなか対策たいさく白羽しらはがたったものとされている。
  • 2022ねん非公式ひこうしきせん新銀河しんぎんがせん開催かいさい過去かこ銀河ぎんがせん優勝ゆうしょう(1994年度ねんど)の実績じっせきにより、田中たなか本戦ほんせんにエントリーされ、引退いんたい決定けっていの4がつ2にちには、1回戦かいせん藤井ふじいさとしふとし竜王りゅうおうとのはつ対局たいきょく公式こうしきせんでは対局たいきょく)がネット配信はいしんされた。局面きょくめん田中たなか優勢ゆうせいすすめていたものの、107こまだいの「なりぎん」をってしまったため逆転ぎゃくてん反則はんそくけとなった[ちゅう 4]
  • 2023ねん8がつ17にち 中原なかはらまこと谷川たにがわ浩司こうじ森内もりうち俊之としゆき羽生はぶ善治よしはる歴代れきだい永世えいせい名人めいじんたち発起人ほっきにんとなった 「田中たなか寅彦とらひこ九段くだん引退いんたい慰労いろうかい」を将棋しょうぎ大会たいかいとも開催かいさい。 棋聖きせいせん就位しゅういしき結婚式けっこんしき開催かいさいした新宿しんじゅく京王けいおうプラザホテルにておこなわれる。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

  • 大阪おおさか出身しゅっしんであるにもかかわらず、「名門めいもんである」という理由りゆう関東かんとう高柳たかやなぎ一門いちもん門戸もんこたたいたという。テレビなどでも標準ひょうじゅん解説かいせつする。
  • ボサボサの長髪ちょうはつひげばした和服わふく姿すがたで、升田ますだ幸三こうぞう実力じつりょくせいだいよんだい名人めいじん彷彿ほうふつさせるファッションスタイルを愛用あいようしていた時期じきもあった。
  • 経済けいざい分野ぶんやあかるく、NHK総合そうごうテレビ経済けいざい番組ばんぐみ出演しゅつえんしたことがある。また、不動産ふどうさん投資とうし熱心ねっしんだった。
  • 趣味しゅみくさ野球やきゅうギター水泳すいえいくさ野球やきゅうでは日本にっぽん将棋しょうぎ連盟れんめい野球やきゅう監督かんとくけん選手せんしゅとして活動かつどう、ギターでは駒音こまおんコンサートなどで井上いのうえ陽水ようすいなどのきょくがたりを披露ひろうしている。水泳すいえいは2017ねんおよげりょく検定けんてい1きゅう合格ごうかく
  • 2005ねんより、日本にっぽん将棋しょうぎ連盟れんめい常務じょうむ理事りじ会館かいかん渉外しょうがい営業えいぎょう広告こうこく出版しゅっぱん販売はんばいなどの担当たんとうを2つとめるも、2009ねん理事りじ選挙せんきょで2ひょう落選らくせん
  • 2011ねんより、日本にっぽん将棋しょうぎ連盟れんめい常務じょうむ理事りじ事業じぎょう本部ほんぶ担当たんとう
  • 2012ねんより、日本にっぽん将棋しょうぎ連盟れんめい専務せんむ理事りじ
  • 2013ねん理事りじ選挙せんきょ落選らくせん
  • 夫人ふじんもとアナウンサー(キューピー3ふんクッキングひとし出演しゅつえん)。テレビ東京てれびとうきょうの『テレビ将棋しょうぎ対局たいきょく』に解説かいせつしゃとして出演しゅつえんしたさいに、夫人ふじんどう番組ばんぐみのアシスタントをしていたことから結婚けっこんした[8]息子むすこ田中たなかまこと奨励しょうれいかい在籍ざいせきしていたが、2007ねんふゆ年齢ねんれい制限せいげん退会たいかいし、囲碁いご将棋しょうぎチャンネル活動かつどう、その独立どくりつ。『将棋しょうぎ世界せかい』で「将棋しょうぎなんでもマーケティング」を連載れんさいし、民放みんぽうやNHKでの将棋しょうぎ番組ばんぐみ制作せいさく将棋しょうぎイベントの情報じょうほう発信はっしんしている。

昇段しょうだん履歴りれき[編集へんしゅう]

  • 1972ねん00がつ00にち : 6きゅう = 奨励しょうれいかい入会にゅうかい
  • 1974ねん00がつ00にち初段しょだん
  • 1976ねん06がつ04にちよんだん = プロ
  • 1981ねん04がつ01にちだん順位じゅんいせんCきゅう1くみ昇級しょうきゅう
  • 1982ねん04がつ01にちろくだん順位じゅんいせんBきゅう2くみ昇級しょうきゅう
  • 1983ねん04がつ01にちななだん順位じゅんいせんBきゅう1くみ昇級しょうきゅう
  • 1984ねん04がつ01にちはちだん順位じゅんいせんAきゅう昇級しょうきゅう
  • 1994ねん12月16にちきゅうだんかちすう規定きてい
  • 2022ねん04がつ15にち引退いんたい通算つうさん1577きょく、794しょう783はい[3][9]

おも成績せいせき[編集へんしゅう]

獲得かくとくタイトル[編集へんしゅう]

タイトル獲得かくとく合計ごうけい 1
タイトルせん登場とうじょう
  • 棋聖きせい:2かいだい52=1988年度ねんど前期ぜんき - 53=1988年度ねんど後期こうき
タイトルせん登場とうじょう 合計ごうけい 2かい

一般いっぱん棋戦きせん優勝ゆうしょう[編集へんしゅう]

合計ごうけい 6かい

将棋しょうぎ大賞たいしょう[編集へんしゅう]

  • だい4かい(1976年度ねんど新人しんじんしょう連勝れんしょうしょう
  • だい6かい(1978年度ねんど勝率しょうりつだいいちしょう技能ぎのうしょう
  • だい8かい(1980年度ねんど勝率しょうりつだいいちしょう
  • だい9かい(1981年度ねんど勝率しょうりつだいいちしょう敢闘かんとうしょう
  • だい11かい(1983年度ねんど勝率しょうりつだいいちしょう敢闘かんとうしょう
  • だい16かい(1988年度ねんど技能ぎのうしょう
  • だい49かい(2021年度ねんど升田ますだ幸三こうぞうしょう特別とくべつしょう
  • だい50かい(2022年度ねんど東京とうきょう記者きしゃかいしょう

在籍ざいせきクラス[編集へんしゅう]

順位じゅんいせん竜王りゅうおうせん在籍ざいせきクラスの年別ねんべつ一覧いちらん
開始かいし
年度ねんど
(出典しゅってん)順位じゅんいせん (出典しゅってん)竜王りゅうおうせん
名人めいじん Aきゅう Bきゅう Cきゅう 0 竜王りゅうおう 1くみ 2くみ 3くみ 4くみ 5くみ 6くみ 決勝けっしょう
T
1くみ 2くみ 1くみ 2くみ
1977 36 C228
1978 37 C211
1979 38 C203
1980 39 C202
1981 40 C117
1982 41 B217
1983 42 B112
1984 43 A 10
1985 44 B101
1986 45 B106
1987 46 B104 1 2くみ --
1988 47 B105 2 2くみ --
1989 48 A 09 3 1くみ --
1990 49 B101 4 1くみ --
1991 50 B103 5 1くみ --
1992 51 A 09 6 1くみ --
1993 52 A 06 7 1くみ --
1994 53 A 06 8 1くみ --
1995 54 B102 9 1くみ --
1996 55 B103 10 1くみ --
1997 56 B105 11 1くみ --
1998 57 B104 12 2くみ --
1999 58 A 10 13 2くみ --
2000 59 A 07 14 2くみ --
2001 60 B102 15 3くみ --
2002 61 B105 16 3くみ --
2003 62 B106 17 4くみ --
2004 63 B110 18 4くみ --
2005 64 B201 19 4くみ --
2006 65 B212 20 4くみ --
2007 66 B215x 21 4くみ --
2008 67 B223* 22 4くみ --
2009 68 B203 23 3くみ --
2010 69 B213x 24 3くみ --
2011 70 B224* 25 3くみ --
2012 71 C101 26 4くみ --
2013 72 C119 27 5くみ --
2014 73 C125 28 6くみ --
2015 74 C116 29 6くみ --
2016 75 C130 30 6くみ --
2017 76 C126x 31 6くみ --
2018 77 C134* 32 6くみ --
2019 78 C202x 33 6くみ --
2020 79 C244*x 34 6くみ --
2021 80 C249** 35 6くみ --
2022 Fへん 2022ねん4がつ15にちづけ引退いんたい
順位じゅんいせん竜王りゅうおうせん わく表記ひょうき 挑戦ちょうせんしゃみぎらん数字すうじかち-はい(ばん勝負しょうぶ/POふくまず)。
順位じゅんいせんみぎ数字すうじはクラスない順位じゅんい ( x当期とうきくだきゅうてん / *累積るいせきくだきゅうてん / +くだきゅうてん消去しょうきょ )
順位じゅんいせんの「Fへん」はフリークラス編入へんにゅう /「Fせん」は宣言せんげんによるフリークラス転出てんしゅつ
竜王りゅうおうせん 太字ふとじ はランキングせん優勝ゆうしょう竜王りゅうおうせんくみ(添字そえじ)棋士きし以外いがいわくでの出場しゅつじょう

おも著書ちょしょ[編集へんしゅう]

書籍しょせき[編集へんしゅう]

  • 田中たなか寅彦とらひこきょ飛車ひしゃ穴熊あなぐま入門にゅうもん(1984ねん1がつ日東にっとう書院しょいん本社ほんしゃISBN 978-4-528-00485-6
  • 田中たなか寅彦とらひこ実戦じっせん将棋しょうぎ—これであなたは確実かくじつつよくなる(1986ねん3がつ、ナツメしゃISBN 978-4-816-30572-6
  • 田中たなかりゅう 鉄壁てっぺききょ飛車ひしゃ穴熊あなぐま(1986ねん5がつ筑摩書房ちくましょぼうISBN 978-4-480-67006-9
  • 田中たなか寅彦とらひこのスーパー詰将棋つめしょうぎ(1988ねん6がつ大泉おおいずみ書店しょてんISBN 978-4-278-08163-3
  • いますぐマイホームを獲得かくとくするほん不動産ふどうさんトレンドの「さきさき」をむ(1989ねん3がつ、かんき出版しゅっぱんISBN 978-4-761-25258-8
  • 将棋しょうぎかいちょう新人しんじんるい これがチャイルドブランドだ!(1989ねん5がつ池田いけだ書店しょてんISBN 978-4-262-10182-8
  • とらちゃんりゅう上達じょうたつほう—なかなかつよくなれないとなやんでいるひとへ (1993ねん8がつ日本にっぽん将棋しょうぎ連盟れんめいISBN 978-4-819-70113-6
  • 後手ごて無理矢理むりやり矢倉やくら矢倉やぐらはエジソンにけ!(1995ねん5がつ毎日まいにちコミュニケーションズ、ISBN 978-4-895-63631-5
  • 羽生はぶ善治よしはる 神様かみさまあいした青年せいねん(1996ねん3がつベストセラーズISBN 4-584-19128-X
  • 羽生はぶ必敗の法則ほうそく あなたにも天才てんさいたおせます(1996ねん9がつワニブックスISBN 4-8470-1218-6
  • 頭脳ずのうきたえかた : プロ棋士きしによる右脳うのう活性かっせいほう(1997ねん2がつ、ベストセラーズ、ISBN 4-5840-1006-4)
  • ちょう過激かげき!トラトラしん戦法せんぽう—ぶっちきりでつ(1999ねん12月、日本にっぽん将棋しょうぎ連盟れんめいISBN 978-4-819-70360-4
  • ひゃくにん棋士きし、このいち(2000ねん9がつ東京書籍とうきょうしょせきISBN 4-487-79610-5
  • 実戦じっせんきょ飛車ひしゃ穴熊あなぐま戦法せんぽう必殺ひっさつ!飛車ひしゃやぶり(2001ねん5がつはじめもとしゃISBN 978-4-422-75077-4
  • きょ飛車ひしゃ穴熊あなぐま戦法せんぽう アマの将棋しょうぎここがわるい!(2001ねん9がつはじめもとしゃISBN 978-4-422-75045-3
  • 羽生はぶ善治よしはる 進化しんかつづける頭脳ずのう(2002ねん8がつ小学館しょうがくかんISBN 978-4-094-03046-4
  • 将棋しょうぎかい真相しんそう(2004ねん11月、河出書房新社かわでしょぼうしんしゃISBN 4-309-26796-3

ゲーム監修かんしゅう[編集へんしゅう]

  • 田中たなか寅彦とらひこのウルとらりゅう将棋しょうぎ きょ飛車ひしゃ穴熊あなぐまへん(プレイステーションようソフト、1999ねんアークシステムワークス

漫画まんが監修かんしゅう[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 元祖がんそ」というかたかんして、アマチュア強豪きょうごう大木おおき和博かずひろ大木たいぼく将棋しょうぎのアマチュア棋戦きせん支部しぶ名人めいじん1かい赤旗あかはた名人めいじん3かい獲得かくとく戦績せんせきゆうする)からうったえられたが、「二人ふたりとも元祖がんそ創始そうししゃばれるにふさわしい」というのが裁判所さいばんしょ結論けつろんである(いちしんから最高裁さいこうさいまで、結論けつろん一貫いっかんしてそうであった。きょ飛車ひしゃ穴熊あなぐま戦法せんぽう訴訟そしょう参照さんしょう。)結論けつろんとしては、田中たなか寅彦とらひこは「きょ飛車ひしゃ穴熊あなぐま戦法せんぽう元祖がんそ」とばれるのにふさわしい。(また同様どうように、大木たいぼく元祖がんそばれるのにふさわしい。ちなみになかのさまざまなことで「元祖がんそ」とばれたり名乗なのるのにふさわしいひとが2〜3にんいるという状態じょうたいはさほどめずらしくない)。(実際じっさいきょ飛車ひしゃ穴熊あなぐま自体じたいは、史実しじつでは、1968ねんだい27名人めいじんせんだい2きょく先手せんてばん升田ますだ幸三こうぞうきょ飛車ひしゃ穴熊あなぐまのコンセプト(当時とうじ棋戦きせん解説かいせつでは「めずらしいひだり穴熊あなぐま」としるされた。棋譜きふ週刊しゅうかん将棋しょうぎへん不滅ふめつめい勝負しょうぶ100」(毎日まいにちコミュニケーションズ)で確認かくにんできる。)を後手ごてばん大山おおやま康晴やすはるよんあいだ飛車ひしゃ相手あいて実践じっせんしていた。
  2. ^ とはいえ、後輩こうはいから「まなぶにあたいする先輩せんぱい」とみなされ研究けんきゅうされ、後輩こうはいそだち、やがてえられてゆくことは、先輩せんぱいとしての功績こうせきであり名誉めいよである。その羽生はぶ世代せだいすでに、後輩こうはい世代せだい手本てほんとなりえられるがわという状況じょうきょうになっている。
  3. ^ たとえば『羽生はぶ善治よしはる 神様かみさまあいした青年せいねん』のおびにこの表現ひょうげんがある。
  4. ^ 使用しようこまいち表記ひょうきで、きむと「なりぎん(「あきら」の「おう部分ぶぶん横線おうせんよんほん)」の表記ひょうきていることによる「なりぎんち」の反則はんそくは、しまあきらも1998ねん銀河ぎんがせんおこなっている。しまあきら#人物じんぶつ参照さんしょう

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ だい80順位じゅんいせんきゅうくみ 9回戦かいせんたい長沼ながぬまひろし対局たいきょく、10回戦かいせんたい黒沢くろさわれいせい対局たいきょくまえ(2022ねん1がつ13にち
  2. ^ 田中たなか寅彦とらひこtwitter@tora_ejison昨日きのうわたし現役げんえき引退いんたいまっていたようだ。
  3. ^ a b 田中たなか寅彦とらひこきゅうだん引退いんたい将棋しょうぎニュース|日本にっぽん将棋しょうぎ連盟れんめい” (2022ねん4がつ16にち). 2022ねん4がつ16にち閲覧えつらん
  4. ^ a b 片山かたやま良三りょうぞう (2022ねん1がつ23にち). “《65さい直前ちょくぜん引退いんたい危機きき》「その規定きていわたしつよ主張しゅちょうしてきたもの」 将棋しょうぎかいの「序盤じょばんのエジソン」がタメ息ためいき…AI時代じだい変化へんかとは”. Number Web. 2022ねん1がつ25にち閲覧えつらん
  5. ^ ワニブックス。ISBN 978-4847012181
  6. ^ 田中たなか寅彦とらひこのtwitter
  7. ^ だい21竜王りゅうおうせんだい6きょく棋譜きふplusの51
  8. ^ 将棋しょうぎ妙手みょうしゅ奇手きしゅ・アナウンサー島田しまだ良夫よしお NIKKEI将棋しょうぎ王国おうこく日本経済新聞にほんけいざいしんぶん)2003ねん3がつ20にちづけ文中ぶんちゅう参照さんしょう
  9. ^

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]