木村 義徳
| |
---|---|
| |
1935 | |
2021 | |
プロ |
1961 |
1991 | |
82 | |
| |
| |
| |
| |
| |
| |
1 | |
A | |
2021 |
経歴 [編集 ]
1960
1972
1990
2021
人物 [編集 ]
木村 義雄 十 四 世 名人 の三男 。親子 で順位 戦 A級 在籍 歴 と九段 昇段 は近代 将棋 史上 2組 目 (もう一 組 は板谷 四郎 ・板谷 進 親子 。なお、現役 中 の昇段 だけによる親子 九 段 はまだ出 ていない)。父 の義雄 とは違 って「弱 がり」である事 で有名 で、「自分 の将棋 は弱 い」と公言 してはばからない。関西 将棋 会館 の将棋 博物館 の館長 を長 く務 めた。将棋 の歴史 についての研究 でも著名 であり、将棋 の起源 について6~7世紀 頃 に中国 から立像 型 のものが到着 し、後 のシャンチーと同 系統 に属 するという説 に立 っている[7]。また興福寺 境内 跡 で発掘 された駒 は持 ち駒 ルールの下 で使 われ、それゆえ11世紀 にはすでに持 ち駒 ルールが存在 していたということを発表 している。こうした木村 義徳 の説 に対 しては増川 宏一 が反対 し、論争 が続 いた。株式 相場 に精通 した棋士 としても知 られた。棋士 になる以前 の1955年 から株式 投資 を始 めたので投資 歴 が長 く、二 十 年間 かけて120万 円 の元手 を30 - 40倍 ほどに増 やした実績 も持 つ[8]。他 に株 に精通 した棋士 として米長 邦雄 がいるが、木村 は「米長 さんには将棋 では勝 てないが株 なら自分 の方 が上手 」と豪語 していた[8]。昭和 30年代 には、チェスプレイヤーとして活動 したこともある[9]。
弟子 [編集 ]
女流 棋士 となった弟子 [編集 ]
2005 |
(2017
昇段 履歴 [編集 ]
- 1959
年 三 段 =奨励 会 入会 - 1961
年 10月 1日 四 段 = プロ入 り - 1966
年 4月 1日 五 段 (順位 戦 C級 1組 昇級 ) - 1968
年 4月 1日 六 段 (順位 戦 B級 2組 昇級 ) - 1970
年 4月 1日 七 段 (順位 戦 B級 1組 昇級 ) - 1980
年 4月 1日 八 段 (名人 戦 挑戦 者 決定 リーグ昇級 ) - 1991
年 3月 引退 - 2000
年 4月 1日 九 段 (引退 棋士 の昇段 規定 )
主 な成績 [編集 ]
一般 棋戦 優勝 [編集 ]
東西 対抗 勝 継 戦 1回 (6連勝 、1964年 )
在籍 クラス[編集 ]
A |
B |
C |
1 |
2 |
3 |
4 |
5 |
6 |
T |
|||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 |
2 |
1 |
2 | |||||||||||||||
1962 | 17 | C212 | ||||||||||||||||
1963 | 18 | C206 | ||||||||||||||||
1964 | 19 | C201 | ||||||||||||||||
1965 | 20 | C206 | ||||||||||||||||
1966 | 21 | C113 | ||||||||||||||||
1967 | 22 | C105 | ||||||||||||||||
1968 | 23 | B214 | ||||||||||||||||
1969 | 24 | B204 | ||||||||||||||||
1970 | 25 | B113 | ||||||||||||||||
1971 | 26 | B201 | ||||||||||||||||
1972 | 27 | B205 | ||||||||||||||||
1973 | 28 | B216 | ||||||||||||||||
1974 | 29 | B206 | ||||||||||||||||
1975 | 30 | B207 | ||||||||||||||||
1976 | ||||||||||||||||||
1977 | 36 | B214 | ||||||||||||||||
1978 | 37 | B213 | ||||||||||||||||
1979 | 38 | B113 | ||||||||||||||||
1980 | 39 | A 09 | ||||||||||||||||
1981 | 40 | B102 | ||||||||||||||||
1982 | 41 | B202 | ||||||||||||||||
1983 | 42 | B209 | ||||||||||||||||
1984 | 43 | B209 | ||||||||||||||||
1985 | 44 | B221 | ||||||||||||||||
1986 | 45 | B204 | ||||||||||||||||
1987 | 46 | B210 | 1 | 3 |
-- | |||||||||||||
1988 | 47 | B207 | 2 | 3 |
-- | |||||||||||||
1989 | 48 | B210 | 3 | 3 |
-- | |||||||||||||
1990 | 49 | B207 | 4 | 4 |
-- | |||||||||||||
将棋 大賞 [編集 ]
第 7回 (1980年度 )殊勲賞 第 24回 (1997年度 )東京 記者 会 賞
著書 [編集 ]
将棋 ・穴熊 戦法 (1980年 8月 、成美 堂 出版 、ISBN 4-415-04618-5)弱 いのが強 いのに勝 つ法 勝負 の理論 (1980年 9月 、日本 将棋 連盟 、ISBN 4-819-70030-8)- ボクは
陽気 な負 け犬 (1983年 2月 、ベストセラーズ、ISBN 4-584-00493-5) 株 は大局 観 元手 を100倍 にする読 みと定跡 (1986年 12月、東洋経済新報社 、ISBN 4-492-73077-X)持駒 使用 の謎 (2001年 3月 、日本 将棋 連盟 、ISBN 4-8197-0067-7)
脚注 [編集 ]
- ^ a b
女流 3級 時代 の田中 は木村 門下 で、木村 の没後 に研修 会 からLPSAでプロ入 りしてからは大野 八一 雄 が師匠 。 - ^ a b c
訃報 木村 義徳 九 段 |将棋 ニュース|日本 将棋 連盟 - ^
現行 の三 段 リーグ編入 制度 に基 づくものではない。 - ^ 『ボクは
陽気 な負 け犬 』(ベストセラーズ)裏表紙 - ^
土佐 は当時 十 段 戦 で難関 の予選 を通過 しリーグ入 りするなど有望 視 されていた若手 であった。 - ^ この
経験 を著書 『弱 いのが強 いのに勝 つ法 』にまとめている。同書 によると、それまで木村 が得意 としていた振 飛車 戦法 は、必然 的 に長期 戦 となるため(大山 康晴 のような)「強者 」が勝 つための戦法 だという。「弱者 」が「強者 」に勝 つには、短期 決戦 となるべく急戦 を仕掛 けるべきだとし、実際 この「連続 昇級 」の際 には振 飛車 党 から居 飛車 党 に棋風 を改造 したという。 - ^
清水 康二 「「庶民 の遊戯 である将棋 」考 」 - ^ a b 『
株 は大局 観 元手 を100倍 にする読 みと定跡 』より - ^
東 公平 『近代 将棋 のあけぼの』(河出書房新社 )P.195