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正岡子規まさおかしき

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
正岡まさおか 子規しき
まさおか しき
誕生たんじょう 正岡まさおか しょすけ
1867ねん10月14にち
日本の旗 日本にっぽん 伊予いよこく温泉おんせんぐん
げん愛媛えひめけん松山まつやま
藤原ふじわら新町しんまち
死没しぼつ (1902-09-19) 1902ねん9月19にち(34さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん
東京とうきょう下谷しもたに
上根岸かみねぎし
墓地ぼち 大龍寺だいりゅうじ東京とうきょうきた田端たばた
職業しょくぎょう 俳人はいじん歌人かじん新聞しんぶん記者きしゃ
言語げんご 日本語にほんご
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
最終さいしゅう学歴がくれき 帝国ていこく大学だいがく国文こくぶん中退ちゅうたい
活動かつどう期間きかん 1893ねん - 1902ねん
ジャンル 俳句はいく短歌たんか新体詩しんたいし小説しょうせつ評論ひょうろん随筆ずいひつ
代表だいひょうさくうたよみにあずかふるしょ
ウィキポータル 文学ぶんがく
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松山まつやまにある子規しき記念きねん博物館はくぶつかん

正岡まさおか 子規しき(まさおか しき、1867ねん10月14にち旧暦きゅうれき慶応けいおう3ねん9月17にち〉- 1902ねん明治めいじ35ねん9月19にち[1]は、日本にっぽん俳人はいじん歌人かじん国語こくごがく研究けんきゅう子規しき筆名ひつめいで、本名ほんみょう正岡まさおか つねぶんまわし(まさおか つねのり)[1]幼名ようみょうしょすけ(ところのすけ)といい、のちます(のぼる)とあらためた[2]

俳句はいく短歌たんか新体詩しんたいし小説しょうせつ評論ひょうろん随筆ずいひつなど多方面たほうめんにわたり創作そうさく活動かつどうおこない、日本にっぽん近代きんだい文学ぶんがく多大ただい影響えいきょうおよぼした、明治めいじ代表だいひょうする文学ぶんがくしゃ一人ひとりである。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

伊予いよこく温泉おんせんぐん藤原ふじわら新町しんまちげん愛媛えひめけん松山まつやま花園はなぞのまち)にまれる[2]同地どうち伊予いよ松山まつやまはんりょうで、ちち藩士はんし正岡まさおかはやぶさふとつねなお[2](1833ねん - 1872ねん)、はははちじゅう(1845ねん - 1927ねん)は藩儒はんじゅ大原おおはら観山かんざん長女ちょうじょ[2]で、長男ちょうなんであった。

1872ねん明治めいじ5ねん)、おさなくしてちちぼっしたために家督かとく相続そうぞくし、大原おおはら叔父おじ加藤かとうひさしただし拓川たくせん)の後見こうけんけた。外祖父がいそふである観山かんざん私塾しじゅくかよって漢書かんしょ素読そどくならい、翌年よくねんには末広すえひろ小学校しょうがっこう入学にゅうがくし、のちに勝山かつやま学校がっこう転校てんこう少年しょうねん時代じだい漢詩かんし戯作げさく軍談ぐんだん書画しょがなどにしたしみ、友人ゆうじん回覧かいらん雑誌ざっしつくり、試作しさくかいひらいた。また自由じゆう民権みんけん運動うんどう影響えいきょう[注釈ちゅうしゃく 1]政談せいだんにも関心かんしん熱中ねっちゅうしたという。

1880ねん明治めいじ13ねん)、旧制きゅうせい松山まつやま中学ちゅうがくげん愛媛えひめ県立けんりつ松山東まつやまひがし高等こうとう学校がっこう)に入学にゅうがく1883ねん明治めいじ16ねん)、同校どうこう中退ちゅうたいして上京じょうきょうし、漢文かんぶんまなぶため赤坂あかさか丹後たんごまち須田すだ学舎がくしゃや、受験じゅけん英語えいごのために共立きょうりつ学校がっこうげん開成かいせい中学校ちゅうがっこう高等こうとう学校がっこう)に入学にゅうがく翌年よくねんきゅう藩主はんしゅ給費きゅうひせいとなり、東大とうだい予備よびもん(のちいちだかげん東大とうだい教養きょうよう学部がくぶ)に入学にゅうがくし、常盤ときわかい寄宿舎きしゅくしゃはいった。1890ねん明治めいじ23ねん)、帝国ていこく大学だいがく哲学てつがく進学しんがくしたものの、文学ぶんがく興味きょうみち、翌年よくねんには国文こくぶんうたてした。このころから「子規しき」とごうして句作くさくおこなう。

松山まつやまちゅう共立きょうりつ学校がっこう同級どうきゅうだった秋山あきやま真之まさゆきのちにち戦争せんそうどき連合れんごう艦隊かんたい参謀さんぼう)とは、松山まつやま在住ざいじゅうからの友人ゆうじんであり、また共通きょうつう友人ゆうじんとして勝田かつた主計かずえがいた。東大とうだい予備よびもんでは夏目なつめ漱石そうせき南方みなかた熊楠くまぐす山田やまだ美妙びみょうらと同窓どうそうだった。

大学だいがく中退ちゅうたい叔父おじ加藤かとう拓川たくせん紹介しょうかい1892ねん明治めいじ25ねん)に新聞しんぶん日本にっぽん』の記者きしゃとなり、家族かぞくせて文芸ぶんげい活動かつどう拠点きょてんとした。1893ねん明治めいじ26ねん)に「うそさい書屋しょおく俳話はいわ(だっさいしょおくはいわ)」を連載れんさいし、俳句はいく革新かくしん運動うんどう開始かいしした。1894ねん明治めいじ27ねんなつにちしん戦争せんそう勃発ぼっぱつすると、よく1895ねん明治めいじ28ねん)4がつ近衛このえ師団しだんつきの従軍じゅうぐん記者きしゃとして遼東りゃおとん半島はんとうわたったものの、上陸じょうりくした2にち下関しものせき条約じょうやく調印ちょういんされたため、同年どうねん5がつだい2ぐん兵站へいたん軍医ぐんい部長ぶちょうもり林太郎りんたろう鴎外おうがい)らに挨拶あいさつをして帰国きこくについた[注釈ちゅうしゃく 2]。そのふねちゅう喀血かっけつして重態じゅうたいおちいり、神戸こうべ病院びょういん入院にゅういん。7月、須磨すま保養ほよういん療養りょうようしたのち、松山まつやま帰郷ききょうした。喀血かっけつした(いた)ことから、「いてく」[注釈ちゅうしゃく 3]われているホトトギス自分じぶんかさわせ、ホトトギスの漢字かんじ表記ひょうきの「子規しき」を自分じぶん俳号はいごうとした。俳句はいく分類ぶんるい与謝よさ蕪村ぶそんなどを研究けんきゅうし、俳句はいく世界せかいおおきく貢献こうけんした。漱石そうせき下宿げしゅく同宿どうしゅくしてごし、俳句はいくかいなどをひらいた。

短歌たんか和歌わか)においても、「うたよみにあずかふるしょ」を新聞しんぶん日本にっぽん』に連載れんさい。『古今ここんしゅう』を否定ひていして『万葉集まんようしゅう』をたか評価ひょうかして、江戸えど時代じだいまでの形式けいしきにとらわれた和歌わか非難ひなんしつつ、根岸ねぎし短歌たんかかい主催しゅさいして短歌たんか革新かくしんつとめた。根岸ねぎし短歌たんかかいは、のちに伊藤いとう左千夫さちお長塚ながつかたかしおかふもとらにより短歌たんか結社けっしゃアララギ』へと発展はってんしていく。

やがてやまいしつつ『病牀びょうしょうろくしゃく』をいた。これはすこしの感傷かんしょうくらかげもなく、のぞんだ自身じしん肉体にくたい精神せいしん客観きゃっかん写生しゃせいしたすぐれた人生じんせい記録きろくとして、現在げんざいまでまれている。どう時期じき病床びょうしょうかれた日記にっき仰臥ぎょうが漫録』の原本げんぽんは、兵庫ひょうごけん芦屋あしや虚子きょし記念きねん文学ぶんがくかん収蔵しゅうぞうされている。

1902ねん明治めいじ35ねん)9がつ19にち午前ごぜん1ごろいきった[2]。21にち葬儀そうぎには150めい以上いじょう参列さんれつ[2]生前せいぜん弟子でし遺言ゆいごんしていた「しずかなてらほうむってほしい」というねがいにわせて、田端たばた大龍寺だいりゅうじ埋葬まいそうされ、現在げんざい墓所はかしょがある[5]戒名かいみょう子規しき居士こじ[2]

年譜ねんぷ[編集へんしゅう]

日付ひづけは1872ねんまでは旧暦きゅうれき

1883ねん明治めいじ16ねん)11月、東京とうきょう新橋しんばしでの記念きねん写真しゃしん前列ぜんれつひだりより藤野ふじの古白こはく安長やすなが知之ともゆき正岡まさおか子規しき後列こうれつひだりより三並みなみりょう太田おおたただし躬。
  • 1883ねん明治めいじ16ねん
  • 1884ねん明治めいじ17ねん)9がつ東京大学とうきょうだいがく予備よびもん(のちだいいち高等こうとう中学校ちゅうがっこう)へ入学にゅうがく俳句はいくつくはじめる。
  • 1887ねん明治めいじ20ねん)7がつ松山まつやま三津みつづはま宗匠そうしょう大原其戎おおはらきじゅうおとず稿こうせる。このとし、其戎の主宰しゅさいする『真砂まさご志良しろう』に俳句はいく掲載けいさいされる。
  • 1888ねん明治めいじ21ねん
    • 7がつだいいち高等こうとう中学校ちゅうがっこう卒業そつぎょう
    • 9月:本科ほんか進級しんきゅう常磐ときわかい寄宿舎きしゅくしゃはいる。
  • 1889ねん明治めいじ22ねん
    • 4がつ3にち - :常磐ときわかい友人ゆうじん2人ふたりで、菊池きくち謙二郎けんじろう実家じっかのある水戸みとまで、徒歩とほ旅行りょこうおこな[6]
    • 5月:喀血かっけつはじめて「子規しき」とごうす。
  • 1890ねん明治めいじ23ねん
    • 7がつだいいち高等こうとう中学校ちゅうがっこう本科ほんか卒業そつぎょう
    • 9月:帝国ていこく大学だいがく文科ぶんか大学だいがく哲学てつがく入学にゅうがく
  • 1891ねん明治めいじ24ねん)1がつ国文こくぶんてん
  • 1892ねん明治めいじ25ねん
  • 1895ねん明治めいじ28ねん)4がつにちしん戦争せんそう記者きしゃとして従軍じゅうぐん、その帰路きろ喀血かっけつ
  • 1896ねん明治めいじ29ねん)1がつ現在げんざい子規しきあん句会くかい
  • 1898ねん明治めいじ31ねん)3がつ子規しきあん歌会うたかい
  • 1900ねん明治めいじ33ねん)8がつ大量たいりょう喀血かっけつ
  • 1902ねん明治めいじ35ねん)9がつ死去しきょまん34さい東京とうきょうきた田端たばた大龍寺だいりゅうじねむる。
    辞世じせい糸瓜へちまさきたんのつまりしほとけかな」「たんいち糸瓜へちまみずあいだにあはず」「をとゝひのへちまのみずらざりき」より、子規しき忌日きじつ9がつ19にちを「糸瓜へちま」といい、雅号がごうひとつから「うそさい(だっさい)」ともいう。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

  • 英語えいご苦手にがてだった。試験しけんさいカンニングをしたことがある。"judicature" の意味いみからなかった子規しきとなりおとこ意味いみいたところ、「ほうかん」とわれた。本当ほんとうは「法官ほうかん」という意味いみだったが、「幇間ほうかん」だとおもって解答かいとう用紙ようしいてしまった。ちなみに、子規しきはこの試験しけん合格ごうかくしたが、その「となりおとこ」は合格ごうかくになったという[7]
  • 松山まつやま漱石そうせきがいたときにうなぎどんぶりおごるとって、その代金だいきん漱石そうせきはらわせた。
  • 子規しき東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく入学にゅうがく哲学てつがく専攻せんこうめたのには理由りゆうがある。夏目なつめ漱石そうせき親友しんゆう[8][9]米山よねやま保三郎やすさぶろう[注釈ちゅうしゃく 4][10][11]がおり、会話かいわをして驚嘆きょうたんしてあきらめたという。「哲学てつがくというのはわけがわかんらんぞなもし。わしにはえん」とったという[12]
  • 本来ほんらい毎月まいつきつきごとなどを意味いみする「月並つきなみ」という言葉ことばが、「陳腐ちんぷ平凡へいぼん」という意味いみふくんだのは、正岡子規まさおかしきがありふれた俳句はいく短歌たんかを「月並つきな調ちょう」と批判ひはんしたことがはじまりとされる。当時とうじ和歌わか発句ほっくは「月並つきな句会くかい」とばれる月例げつれい句会くかいわせをすることがおおかった。
  • 同郷どうきょう言語げんご学者がくしゃ小川おがわ尚義ひさよしは、松山まつやま中学ちゅうがくいちだかみかどだい後輩こうはいにあたり、いちだか時代じだいから交友こうゆうがあった。小川おがわみかどだい卒業そつぎょうした1896ねん7がつ一時いちじ帰省きせいするさい、「じゅうねんあせ道後どうごのゆにあらいへ」のおくった(道後どうご温泉おんせん椿つばき湯釜ゆがまにも刻印こくいんされているが、そこでは「ゆ」が「温泉おんせん」となっている)。
  • かきくへば…」の名句めいくは、療養りょうよう生活せいかつ世話せわ奈良なら旅行りょこう工面くめんしてくれた漱石そうせきさくかねつけば 銀杏いちょうちるなり建長寺けんちょうじ」のへの返礼へんれいである。なお、病床びょうしょうにおいてもいくつもべるほどかききであり、夏目なつめ漱石そうせきに「かき」というあだをつけたこともある。
  • 子規しきぼつ正岡まさおかえがかれる後日ごじつだんてき作品さくひんに『ひとびとの跫音きょうおん』がある。

子規しき野球やきゅう[編集へんしゅう]

プレイヤー引退いんたい直前ちょくぜんの1890ねん3がつまつ撮影さつえいされたベースボールユニフォーム姿すがた子規しき。1899ねんにこの写真しゃしんながら、「たまたまをうつにぎりてシャツちゃくればそのときおもえほぬ」との短歌たんかをつけた。

子規しき日本にっぽん野球やきゅう導入どうにゅうされた最初さいしょころ熱心ねっしん選手せんしゅでもあり、1889ねん明治めいじ22ねん)に喀血かっけつしてやめるまでつづけていた。ポジションは捕手ほしゅであった。

子規しき最良さいりょう理解りかいしゃであった河東かわとう碧梧桐へきごとうですら、かれのスポーツにはまった関心かんしんしめさなかったのに、ベースボールにかぎって夢中むちゅうになったことについては理解りかいできないというふうに「変態へんたい現象げんしょう」とんだほどであった[13]

1890ねん5月17にちいちだかベースボールかいたい明治めいじ学院がくいん白金はっきん倶楽部くらぶによるベースボールの試合しあいで「インブリー事件じけん」がこったさい観客かんきゃく一人ひとりでもあった。0-6といちだか大差たいさをつけられた6かい事件じけんこり、試合しあい中止ちゅうしとなった。同年どうねん5がつの『ふでまかせ・だいさんのまき』にいちだかかた見苦みぐるしい、ときしている(ちゅうじゅうはちにち誤記ごきじゅう余程よほどというのは実際じっさい得点とくてん意味いみしない)[14][15]

じゅうはちにち学校がっこう明治めいじ学院がくいんとのベースボール・マッチありときてきてる。だいよんイニングのおわりに学校がっこうじゅう余程よほどまけたり。其まけかた見苦みぐるしきいたり也。おりがら明治めいじ学院がくいん教師きょうし、インブリー学校がっこうかきをこえてきたりしかば、校生こうせいだいいかこれ打擲ちょうちゃく負傷ふしょうせしめたり。明治めいじ学院がくいんのチャンピオンにも負傷ふしょうありければマッチは中止ちゅうしとなりたり。

自身じしん幼名ようみょうである「ます(のぼる)」にちなんで、「野球やきゅう(のぼーる)」という雅号がごうもちいたこともある[16]。これは、中馬ちゅうまかのえがベースボールを野球やきゅう(やきゅう)と翻訳ほんやくする4ねんまえ1890ねん明治めいじ23ねん)のことで、かたこそことなるが「野球やきゅう」という表記ひょうき最初さいしょもちいた人物じんぶつとなる。ただしこれはベースボールにたいする訳語やくごではなく、あくまで自身じしん雅号がごうとして使つかっていたものである。実際じっさい1896ねん明治めいじ29ねん)7がつ27にちづけ新聞しんぶん日本にっぽん』に掲載けいさいされた随筆ずいひつ記事きじによると[17]

ベースボールいま訳語やくごあらず、こんこゝにげたる訳語やくごわれ創意そういかかる。訳語やくご妥当だとうならざるはみずかこれるといえども匆卒のさい改竄かいざんするによしなし。君子くんしこうせいたまえ。

とあり、「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」「ショートストップ」などの外来がいらいたいして、「打者だしゃ」「走者そうしゃ」「四球しきゅう」「直球ちょっきゅう」「飛球ひきゅう」「たんさえぎ中馬ちゅうまかのえ遊撃手ゆうげきしゅ表現ひょうげんするまえ)」という翻訳ほんやくあん創作そうさくして提示ていじしているが、ベースボールにたいする訳語やくご提示ていじされていない(野球やきゅう参照さんしょうのこと)。そのまりげてたき広場ひろばはるくさ」「ここのつのひとここのつのをしめてベースボールのはじまらんとす」など野球やきゅう題材だいざいとしたうたんだり、新海非風にいのみひふうとの連作れんさくで、日本にっぽんはつ野球やきゅう小説しょうせつされる『山吹やまぶき一枝かずえ』を執筆しっぴつするなど、文学ぶんがくつうじて野球やきゅう普及ふきゅう貢献こうけんした。これらの功績こうせき評価ひょうかされ、子規しき2002ねん平成へいせい14ねん)、野球やきゅう殿堂でんどうりをたした[16]。ちなみに子規しき出身しゅっしんである愛媛えひめけんには、子規しき野球やきゅうきにちなんで、野球やきゅう資料しりょうかん「の・ボールミュージアム」がオープンしている。

雅号がごう[編集へんしゅう]

雅号がごう子規しきとはホトトギス異称いしょうで、結核けっかく喀血かっけつした自分じぶん自身じしんを、いてくといわれるホトトギスにたとえたものである。

またべつごうとして、うそさい書屋しょおく主人しゅじんたけ里人さとびとこうくもふうます越智おちしょすけ(おち ところのすけ)などももちいた。「うそさい書屋しょおく主人しゅじん」の「うそ」とは川獺かわうそのことである。これは『れいがつれいへんえる「うそさいぎょ」なる一文いちぶん語源ごげんとする。かつて中国ちゅうごくにおいて、カワウソはらえたさかなならべてからべる習性しゅうせいがあり、そのようはまるでひと祭祀さいしおこない、てん供物くもつささげるときのようであるとしんじられていた。「カワウソですら祭祀さいしおこなう、いわんや人間にんげんをや」というわけである。そして後世こうせいとうだいだい詩人しじんであるしょうかくれ尊敬そんけいする詩人しじん作品さくひん短冊たんざくき、左右さゆうなららしながら詩想しそうふけったため、短冊たんざくならぶさまをさきの『れい』の故事こじになぞらえ、みずからを「うそさいぎょあん」とごうした。ここから「うそさいぎょ」には「書物しょもつらかるさま」という意味いみてんじる。「うそさい書屋しょおく主人しゅじん」というごうたんに「書物しょもつらかった部屋へや主人しゅじん」という意味いみではなく、しょうかくれのごとく高名こうみょう詩人しじんたらんとする子規しき気概きがいあらわれである。病臥びょうが枕元まくらもと資料しりょうおおいてうそのようだといったわけである。

その随筆ずいひつふでまかせ』の「雅号がごう」にて自身じしんが54種類しゅるいごうもちいていることをしめ[注釈ちゅうしゃく 5]、さらにおおくのペンネームがもちいられているとされる。上述じょうじゅつの「野球やきゅう(のぼーる)」もこのなかふくまれる。

子規しきやまい[編集へんしゅう]

子規しき晩年ばんねん1900ねんえがいた自画じがぞう国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん所蔵しょぞう

喀血かっけつした自身じしんをホトトギスになぞらえて子規しきごうしたことに象徴しょうちょうされるように、子規しき文学ぶんがくはそのやまいってもはなせないものであった。はははちじゅう回想かいそうでは、乳児にゅうじころ子規しきかお異常いじょうまるく、見苦みぐるしく、はなひくかった。体質たいしつ虚弱きょじゃくひくく、内向ないこうてきだったことからよくいじめられていたという[18]子規しき最初さいしょ喀血かっけつしたのは、1888ねん明治めいじ21ねん)8がつ鎌倉かまくら旅行りょこう最中さいちゅうであった。子規しき本人ほんにんは、よく1889ねん明治めいじ22ねん)4がつ水戸みとへの旅行りょこうを、旅行りょこう半年はんとしやまい原因げんいんいている[6]。5月にはだい喀血かっけつをし、医師いし肺結核はいけっかく診断しんだんされる。当時とうじ結核けっかく不治ふじやまいとみなされており、この診断しんだんけたものは必然ひつぜんてき意識いしきせざるをなかった。このとき子規しきはホトトギスのつくり、はじめて子規しきごうもちいるようになった。

子規しきやまいおおきく進行しんこうさせたのはにちしん戦争せんそうへの記者きしゃとしての従軍じゅうぐんであった。1895ねん明治めいじ28ねん)5がつ帰国きこく途上とじょうふねちゅうだい喀血かっけつして重態じゅうたいとなり、そのまま神戸こうべ入院にゅういん須磨すま保養ほようしたあと松山まつやま帰郷ききょうし、当時とうじ松山まつやま中学校ちゅうがっこう赴任ふにんしていた親友しんゆう夏目なつめ漱石そうせき下宿げしゅく静養せいようした。このとし10がつさい上京じょうきょうする途上とじょうころより腰痛ようつう歩行ほこう困難こんなんをきたすようになり、当初とうしょリューマチかんがえていたがよく1896ねん明治めいじ29ねん)、結核けっかくきん脊椎せきついおか脊椎せきついカリエス発症はっしょうしていると診断しんだんされる。以後いごゆかおおくなり、すう手術しゅじゅつけたが病状びょうじょう好転こうてんせず、やがて臀部でんぶ背中せなかあながあきうみながるようになった。

歩行ほこう不能ふのうになったあとも折々おりおり人力車じんりきしゃ外出がいしゅつもしていたが、1899ねん明治めいじ32ねんなつごろ以後いごすわることさえ困難こんなんになった。このころから子規しきやく3年間ねんかんほぼたきりで、寝返ねがえりもてないほどの苦痛くつう麻痺まひざいやわらげながら、俳句はいく短歌たんか随筆ずいひつつづけ(一部いちぶ口述こうじゅつ)、また病床びょうしょうおとずれた高浜たかはま虚子きょし河東かわとう碧梧桐へきごとう伊藤いとう左千夫さちお長塚ながつかたかし後進こうしん指導しどうをしつづけた。碧梧桐へきごとうは、あつさにまいたきりの師匠ししょう手動しゅどう扇風機せんぷうきつくったとわれている。子規しきは、それを「ふうばん」と名付なづよろこび、季語きごにならぬかとかんがえたともわれている。

著名ちょめいさく[編集へんしゅう]

松山まつやま代表だいひょうする俳句はいく(JR松山駅前まつやまえきまえ
俳句はいく
  • かきくへばかねるなり法隆寺ほうりゅうじ
  • 松山まつやまあきよりたか天主てんしゅかく
  • はるむかしじゅうまんせき城下じょうか
  • 牡丹ぼたんえがいてさらのこりけり
  • 山吹やまぶきはなしょうにわ
  • をとゝひのへちまのみずらざりき
  • 風呂敷ふろしきをほどけばかきのころげけり
  • かきくふも今年ことしばかりとおもひけり
  • むらさき蒲團ふとんすわ春日しゅんじつかな
  • 鶏頭けいとうじゅうよんほんもありぬべし
  • あかとんぼ 筑波つくばくもも なかりけり
短歌たんか
  • くれなゐのしゃくびたる薔薇ばらはりやはらかに春雨はるさめのふる
  • まつごとむす白露しらつゆきてはこぼれこぼれては
  • いちはつのはなきいでてには今年ことしばかりのはるかんとす
  • あしたたば不尽ふじん高嶺たかねのいただきをいかづちなしてらさましを
  • あしたたば黄河こうがみずをからわたる崋山かざんはちすはな剪らましを
  • あしたたばきたインヂヤのヒマラヤのエヴェレストなるゆきくはましを
随想ずいそう日記にっき
子規しきさんさくとされ、いちさつほん講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ刊行かんこう(1986ねん
漢詩かんし
以下いか文献ぶんけんは、近年きんねん研究けんきゅう
  • 加藤かとう国安くにやす漢詩かんしじん子規しき 俳句はいく開眼かいがん土壌どじょう』(けんぶん出版しゅっぱん、2006ねん
  • じょまえ漱石そうせき子規しき漢詩かんし 対比たいひ視点してんから』(明治めいじ書院しょいん、2005ねん
  • 清水しみず房雄ふさお子規しき漢詩かんし周辺しゅうへん』(明治めいじ書院しょいん、1996ねん
  • 飯田いいだ利行としゆき海棠かいどうはな 子規しき漢詩かんし漱石そうせき』(柏書房かしわしょぼう、1991ねんほか)

系譜けいふ[編集へんしゅう]

正岡まさおか[編集へんしゅう]

正岡子規まさおかしき系図けいず子規しきからさかのぼって8だいまえまでかっている。初代しょだい法名ほうみょう以外いがい不明ふめいてら良久よしひさ今治いまばり手代てだいてらはたじゅう今治いまばり波止浜はしはま手代てだいで、のちに正岡まさおかせい名乗なのる。正岡まさおかつねとら風早かざはやぐん元締もとじめであった。
忠三郎ちゅうざぶろう養子ようしとなってまもないころ写真しゃしんひだりよりりつ子規しきいもうと)、忠三郎ちゅうざぶろう八重やえ子規しきはは)。
げん祖父そふ正岡まさおか常一つねいちきょうがりせん宗室そうしつ入門にゅうもんして茶人ちゃじんとなる。子規しきげん祖父そふ常一つねいちについて「げん祖父そふ正岡まさおかはじめはじめといふてお茶坊主ちゃぼうずやくをしたまひき。……おう正月しょうがつれいにまはるときにはかなら一枝かずえ寒梅かんばいそでにして“のどかなはるでございます”といひきゅうひしとか。またかつて五右衛門風呂ごえもんぶろ木炭もくたんにてわかしそのはいりて“たきぎにてわかせしとははい心地ごこちちがう”といひきゅうひしと。洒落しゃれふうそうるべし」といている[19]
祖父そふ正岡まさおかつねたけ鎖鎌くさりがま名手めいしゅであった。
ちち正岡まさおかつねひさしつねまご養子ようし御馬おんままわり下級かきゅう武士ぶし子規しきちちつねなおについて「ちち武術ぶじゅつにもたけきゅうはず。さりとて学問がくもんとてもしきゅうはざりしごとゆ」といている[20]いもうとりつは、叔父おじ加藤かとうひさしただし三男さんなん忠三郎ちゅうざぶろう養子ようしとして正岡まさおかがせた。
梅室うめむろどうかん禅定ぜんじょうもん良久よしひさはたしげるつねとら常一つねいちつねたけしつねなおつねぶんまわしただし忠三郎ちゅうざぶろう
                      正岡まさおかつねなお
                          ┃      ┏正岡まさおかつねぶんまわし
                          ┣━━━┫
加藤かとう重孝しげたか━━大原おおはら有恒ありつね      ┃      ┗りつ
                ┃    ┏はちじゅう
                ┣━━┫
                ┃    ┗加藤かとうひさしちゅう━━正岡まさおか忠三郎ちゅうざぶろう
歌原うたはら松陽しょうよう━━━━じゅう                      ┃      ┏正岡まさおかひろし
                                        ┣━━━┫
                                        ┃      ┗正岡まさおかあきら
                        野上のかみ俊夫としお━━━あや

講談社こうだんしゃ子規しき全集ぜんしゅう事件じけん[編集へんしゅう]

講談社こうだんしゃは、1975ねん4がつから『子規しき全集ぜんしゅう』(ぜん25かん)の配本はいほんはじめるにさいし、1974ねん7がつからプロジェクトチーム「子規しき全集ぜんしゅう編集へんしゅう」をつくり、編集へんしゅう作業さぎょう開始かいしした[21]。このとき子規しき俳句はいくに「けがれおお」のかたり使つかったが5つあることがかったため、1975ねん1がつ編集へんしゅう担当たんとうしゃ大阪おおさか部落ぶらく解放かいほう同盟どうめい本部ほんぶおもむいて協議きょうぎした[21]。その結果けっかつぎ条件じょうけんいがついた[21]

  • 部落ぶらく解放かいほう同盟どうめいによる監修かんしゅうけ、監修かんしゅうりょう支払しはらうこと[21]
  • だい1かい配本はいほんの「月報げっぽう」パンフレットに部落ぶらく解放かいほう同盟どうめい主張しゅちょうせること[21]

そして監修かんしゅうじん4にんなかには、部落ぶらく解放かいほう同盟どうめいちか立場たちば詩人しじんぬやま・ひろし(西沢にしざわ隆二りゅうじ)がくわえられた[21]通常つうじょう監修かんしゅうりょう有名人ゆうめいじんでもすうまんえん相場そうばであるところ、部落ぶらく解放かいほう同盟どうめいには巨額きょがく監修かんしゅうりょう支払しはらわれたといわれる[21]

講談社こうだんしゃによるこの措置そちについては、当時とうじ部落ぶらく解放かいほう同盟どうめいによる糾弾きゅうだんあらしれていたなか糾弾きゅうだんうごきを事前じぜん回避かいひして「かね解決かいけつするならというだい出版しゅっぱん資本しほんらしい発想はっそう」の存在そんざい指摘してきするこえもある[21]

評価ひょうか[編集へんしゅう]

みじか生涯しょうがいにおいて俳句はいく短歌たんか改革かいかく運動うんどうげた子規しきは、きん現代げんだい文学ぶんがくにおける短詩たんしがた文学ぶんがく方向ほうこう位置いちづけた改革かいかくしゃとしてたか評価ひょうかされている。

俳句はいくにおいてはいわゆる月並つきなみ俳諧はいかい陳腐ちんぷ否定ひていし、松尾まつお芭蕉ばしょう詩情しじょうたか評価ひょうかする一方いっぽう江戸えど文献ぶんけんあさって与謝よさ蕪村ぶそんのようにわすれられていた俳人はいじん発掘はっくつするなどの功績こうせきられる。またヨーロッパにおける19世紀せいき自然しぜん主義しゅぎ影響えいきょうけて写生しゃせい写実しゃじつによる現実げんじつ密着みっちゃくがた生活せいかつえい主張しゅちょうしたことが、俳句はいくにおけるあらたな詩情しじょう開拓かいたくするにいたった。

その一方いっぽうで、その俳論はいろんさくにおいては以下いかのような課題かだい指摘してきされている[だれによって?]

  • 俳諧はいかいにおけるゆたかな言葉ことばあそびや修辞しゅうじ技巧ぎこうつよ否定ひていしたこと。
  • あまりに写生しゃせいにこだわりすぎて句柄くがらだいらかさや、昭和しょうわ山本やまもと健吉けんきちべた「挨拶あいさつ」のしんうしなったこと。
  • 連句れんく歌仙かせん)にはきわめてひく評価ひょうかしかあたえず、発句ほっくのみをもって俳句はいく概念がいねんつくげたこと。

などは近代きんだい俳句はいくおおきな弊害へいがいあたえているとかんがえるきもある[だれによって?]

俳句はいくにおける子規しき後継こうけいしゃである高浜たかはま虚子きょしは、子規しきの「写生しゃせい」(写実しゃじつ)の主張しゅちょういだが、それを「客観きゃっかん写生しゃせい」から「花鳥かちょう諷詠ふうえい」へと方向ほうこう転換てんかんしていった。これは子規しきによる近代きんだい江戸えど俳諧はいかいへの回帰かいき折衷せっちゅうさせた主張しゅちょうであるとることもできる[だれによって?]

短歌たんかにおいては、子規しきたした役割やくわりさくよりも歌論かろんにおいておおきい[22]当初とうしょ俳句はいくおおいなる情熱じょうねつそそいだ子規しきは、短歌たんかについてはごくおおまかな概論がいろんてき批評ひひょうのこ時間じかんしかあたえられていなかった。かれ著作ちょさくのうち短歌たんかもっとおおきな影響えいきょうあたえた『うたよみにあずかふるしょ』がそれである。『うたよみにあずかふるしょ』における歌論かろん俳句はいくのそれと同様どうよう写生しゃせい写実しゃじつによる現実げんじつ密着みっちゃくがた生活せいかつえい重視じゅうしと『万葉集まんようしゅう』の称揚しょうようと『古今ここんしゅう』の否定ひてい重点じゅうてんかれている。とくに『古今ここんしゅう』にたいする全面ぜんめん否定ひていには拒否きょひかんしめ文学ぶんがくしゃおおいが、明治めいじという疾風しっぷう怒涛どとう時代じだいおととしてその主張しゅちょう肯定こうていできるものがおお[だれによって?]

子規しき理論りろんには文学ぶんがくゆたかにそだてていく方向ほうこうへはかいにくい部分ぶぶんもあるという批判ひはんもあるが、「写生しゃせい」は明治めいじという近代きんだい主義しゅぎともかさなった主張しゅちょうであった。いまでも否定ひていできない俳句はいくかんである。日本語にほんご散文さんぶん成立せいりつにおける、子規しきたした役割やくわりはすこぶるおおきいとされる[23]

また、あまりられていないが漢詩かんし作者さくしゃとしても著名ちょめいである。鈴木すずき虎雄とらおりく羯南かつなんむすめ婿むこで、子規しきとは新聞しんぶん日本にっぽん』の同僚どうりょうでもあった)が、子規しき漢詩かんし漱石そうせき漢詩かんしよりも評価ひょうかしていたことを、弟子でし吉川よしかわ幸次郎こうじろう回想かいそうしている。

もり銑三せんぞうは、明治めいじすぐれた随筆ずいひつなか正岡子規まさおかしきげている。子規しき俳人はいじん歌人かじんであったのみならず、文章ぶんしょうにしてめい随筆ずいひつであったという[24]くわえて、「…ぶんとしての子規しきなど、まった度外視どがいしせられてゐるのではないかとおもはれるが…」としたうえで、子規しきぶんには注目ちゅうもくすべき文章ぶんしょうがいくらでもあるとべ、その代表だいひょうに「子規しき自撰じせん碑文ひぶん」「闇汁やみじる図解ずかい」「ゆず味噌みそかい」をげる[25]

著作ちょさく[編集へんしゅう]

近年きんねん[編集へんしゅう]

評伝ひょうでん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 天田あまだ愚庵ぐあん自由じゆう民権みんけん思想しそうつたえたという。松山まつやま市立しりつ子規しき記念きねん博物館はくぶつかんには「子規しき国会こっかい開設かいせつかんする演説えんぜつ」という資料しりょうがある[3]
  2. ^ もり鴎外おうがいなどとの交際こうさいは、「遼東りゃおとんともまじわり」としょうされた。そのともとは、鴎外おうがい、『新聞しんぶん 日本にっぽん』の中村なかむら不折ふせつ、『読売新聞よみうりしんぶん』の河東かわとう銓(かわひがし せん。俳人はいじん河東かわとう碧梧桐へきごとうあに)、久松ひさまつじょう子規しきの5にんである[4]。なお、子規しき鴎外おうがい交際こうさいは、ぼっするまでつづいた[よう出典しゅってん]
  3. ^ 中国ちゅうごく故事こじ杜鵑とけん吐血とけつ」にちなむ。長江ちょうこう流域りゅういきに(はた以前いぜんにあった)しょくというかたむいたくにがあり、そこに杜宇ほととぎすというおとこあらわれ、農耕のうこう指導しどうしてしょく再興さいこう帝王ていおうとなり「もちみかど」とばれた。のちに、長江ながえ氾濫はんらんおさめるのを得意とくいとするおとこ帝位ていいゆずり、もちみかどのほうは山中さんちゅう隠棲いんせいした。もちみかど杜宇ほととぎすぬと、その霊魂れいこんはホトトギスに化身けしんし、農耕のうこうはじめるぶしるとそれをみんげるため、杜宇ほととぎす化身けしんホトトギスするどくようになったという。またのちしょくはたによってほろぼされてしまったことをった杜宇ほととぎす化身けしんのホトトギスはなげかなしみ、「不如帰ふじょき」(かえ(ゆ)くにかず)ときながらいた、とい、ホトトギスのくちばしがあかいのはそのためだ、とわれるようになった。
  4. ^ 明治めいじ2ねん1がつ金沢かなざわまれ。明治めいじ26ねん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく卒業そつぎょう大学院だいがくいん在学ざいがくちゅう明治めいじ30ねん3がつ29にち腹膜炎ふくまくえん死亡しぼう
  5. ^ 子規しき記念きねん博物館はくぶつかん展示てんじでも確認かくにんできる。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 正岡子規まさおかしきについて 松山まつやま市立しりつ子規しき記念きねん博物館はくぶつかん(2023ねん11月25にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d e f g 正岡子規まさおかしきについて 子規しきあん(2023ねん11月25にち閲覧えつらん
  3. ^ (中村なかむら政則まさのり 2010)
  4. ^ 佐谷さや眞木まきじんにちしん戦争せんそう』(講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ、2009ねん)54ぺーじ
  5. ^ 観光かんこうスポット ≫ 田端たばたエリア ≫ 大龍寺だいりゅうじ 東京とうきょうきた区役所くやくしょ地域ちいき振興しんこう(2023ねん11月25にち閲覧えつらん
  6. ^ a b 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん デジタルコレクション 正岡まさおか子規しき ちょ 大正たいしょう14 アルス『子規しき全集ぜんしゅう. だい8かん (少年しょうねん時代じだい創作そうさくへん)』「水戸みと紀行のりゆき」 info:ndljp/pid/978844 請求せいきゅう記号きごう 520-9 書誌しょしID(国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんオンラインへのリンク)000000590499 DOI 10.11501/978844『水戸みと紀行のりゆき
  7. ^ 正岡子規まさおかしき 墨汁ぼくじゅういちてき春陽しゅんようどう、1932ねん
  8. ^ 処女しょじょさく追懐ついかいだん 夏目なつめ漱石そうせき 青空あおぞら文庫ぶんこ
  9. ^ 漱石そうせき自分じぶん 狩野かの亨吉こうきち 青空あおぞら文庫ぶんこ
  10. ^ 上田うえだ正行まさゆき哲学てつがく雑誌ざっし」と漱石そうせき」『金沢大学かなざわだいがく文学部ぶんがくぶ論集ろんしゅう 文学ぶんがくへんだい8ごう金沢大学かなざわだいがく、1988ねん2がつ、1-37ぺーじISSN 02856530NAID 110000976302 
  11. ^ 哲学てつがく雑誌ざっし』124ごう、125ごう
  12. ^ 伊集院いじゅういんしず「それがどうした おとこたちの流儀りゅうぎだい264かい週刊しゅうかん現代げんだい』2015ねん5がつ23にちごう講談社こうだんしゃ)pp.68-69
  13. ^ 城井しろい(1996ねん pp.118-119
  14. ^ 城井しろい(1996ねん p.102
  15. ^ 君島きみしま(1972ねん p.75
  16. ^ a b 殿堂でんどうりリスト 公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん野球やきゅう殿堂でんどう博物館はくぶつかん(2020ねん10がつ13にち閲覧えつらん
  17. ^ 正岡子規まさおかしき 香雪こうせつ紫雲しうん春陽しゅんようどう、1932ねん
  18. ^ 末延すえのぶ芳晴よしはる従軍じゅうぐん記者きしゃ正岡子規まさおかしき」『愛媛えひめ新聞しんぶん』2010ねん2がつ7にちづけ。のち『正岡まさおか子規しき従軍じゅうぐんす』(平凡社へいぼんしゃ、2011ねん)。
  19. ^ ふでまかせしょう』95ぺーじ
  20. ^ ふでまかせしょう』97ぺーじ
  21. ^ a b c d e f g h 差別さべつ用語ようご』(しおぶんしゃ、1975ねん)pp.76-77
  22. ^ ふくほん一郎いちろううたよみじん正岡子規まさおかしき びょうひになじうたぬとも』(岩波いわなみ現代げんだい全書ぜんしょ、2014ねん)にくわしい。
  23. ^ 司馬しばりょう太郎たろう『ひとびとの跫音きょうおん[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]
  24. ^ もり銑三せんぞうもり銑三せんぞう著作ちょさくしゅう続編ぞくへん だいろくかん』(中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1993ねん、)226ぺーじ
  25. ^ もり銑三せんぞうもり銑三せんぞう著作ちょさくしゅう続編ぞくへん だいろくかん』(中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1993ねん)238-241ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

関連かんれん人物じんぶつ[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]