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仰木おうぎあきら

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
仰木おうぎ あきら
スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ『ベースボール・マガジン』だい10かん1ごう(1955)より
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしん 福岡ふくおかけん遠賀おんがぐん中間なかままちげん中間なかま
生年月日せいねんがっぴ (1935-04-29) 1935ねん4がつ29にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (2005-12-15) 2005ねん12月15にち(70さいぼつ
身長しんちょう
体重たいじゅう
170 cm
67 kg
選手せんしゅ情報じょうほう
投球とうきゅう打席だせき みぎとうみぎ
ポジション 二塁手にるいしゅ
プロ 1954ねん
はつ出場しゅつじょう 1954ねん3がつ27にち
最終さいしゅう出場しゅつじょう 1967ねん7がつ4にち
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど
選手せんしゅれき
監督かんとく・コーチれき
野球やきゅう殿堂でんどう日本にっぽん
殿堂でんどう表彰ひょうしょうしゃ
選出せんしゅつねん 2004ねん
選出せんしゅつ方法ほうほう 競技きょうぎしゃ表彰ひょうしょう

仰木おうぎ あきら(おおぎ あきら、1935ねん4がつ29にち - 2005ねん12月15にち)は、福岡ふくおかけん出身しゅっしんプロ野球やきゅう選手せんしゅプロ野球やきゅう監督かんとく野球やきゅう解説かいせつしゃ

昭和しょうわ30年代ねんだい西鉄にしてつライオンズ黄金おうごん時代じだいただし二塁手にるいしゅとして活躍かつやくし、引退いんたい西鉄にしてつ近鉄きんてつオリックスのコーチ・監督かんとく歴任れきにんした。とくに1980年代ねんだいから90年代ねんだいにかけて、10.19ばれためい勝負しょうぶや、阪神はんしん淡路あわじ大震災だいしんさいのち『がんばろうKOBE』合言葉あいことばかい進撃しんげきたし[1]ひきいたチームを11ねん連続れんぞくでAクラスりさせたことでられる。血液けつえきがたAがた[2]

経歴けいれき

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プロまえ

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教員きょういん両親りょうしんつ。父親ちちおや太平洋戦争たいへいようせんそうにて1944ねん2がつ戦死せんし[3]ははひとつでそだてられた。2人ふたりいたいもうと病気びょうきくしたため、「八幡やはた製鉄せいてつ就職しゅうしょくしてはは安心あんしんさせたい」と、工業こうぎょう高校こうこうへの進学しんがく希望きぼうしていた。しかし中学ちゅうがく野球やきゅうでの活躍かつやくをつけた東筑とうちく高校こうこうOBの説得せっとくにより、同校どうこう全日ぜんじつせい商業しょうぎょう進学しんがく[4]投手とうしゅよんばん打者だしゃとして活躍かつやくする。

1952ねん秋季しゅうき九州きゅうしゅう大会たいかいけん予選よせん準決勝じゅんけっしょうでは、小倉こくらだか石田いしだ泰三たいぞうおさえられ敗退はいたいしたが、よく1953ねんなつ甲子園こうしえんけん予選よせんでは準決勝じゅんけっしょう小倉こくらだか石田いしだち、決勝けっしょうではエース・中島なかじま孝司たかし(のち南海なんかい)をようする戸畑とばただかに2-1で勝利しょうりし、なつ甲子園こうしえんへのはつ出場しゅつじょうめる。

甲子園こうしえんでは2回戦かいせん初戦しょせん)で片岡かたおかひろしゆう捕手ほしゅのいたなみしょうに0-3で完封かんぷうけしている[5]

現役げんえき時代じだい

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南海なんかいホークス中日ちゅうにちドラゴンズ西鉄にしてつライオンズの3球団きゅうだんからさそわれた。甲子園こうしえん出場しゅつじょう練習れんしゅうした大阪おおさかスタヂアム南海なんかい選手せんしゅあこがれていたこともあって仰木おうぎ本人ほんにん南海なんかい入団にゅうだん希望きぼうであり、南海なんかい中日ちゅうにち契約けいやくきんは100まんえんだったのにたい西鉄にしてつは60まんえんだったにもかかわらず、監督かんとく三原みはらおさむみずか自宅じたくおとずれ「わたしまかせなさい」とかたをたたかれたことで「運命うんめいかんじた」と[4]1954ねん西鉄にしてつ年俸ねんぽう36まんえん入団にゅうだんした[6]

投手とうしゅとして入団にゅうだんしたが、1ねん春季しゅんきキャンプで、打撃だげき投手とうしゅとしての仰木おうぎ投球とうきゅう三原みはら監督かんとくから、二塁手にるいしゅへのコンバートめいじられ、以降いこうのキャンプでは首脳しゅのうじん仰木おうぎ二塁手にるいしゅとしてきたえるため、仰木おうぎはげしいノックをびせた[7]

1ねんから宮崎みやざきかなめわりレギュラーとして出場しゅつじょうし、同年どうねんのリーグ優勝ゆうしょう貢献こうけんする。1955ねんには規定きてい打席だせき到達とうたつし(40打率だりつ.235)、1955ねん5月22にち松江まつえでのトンボユニオンズせんで、1試合しあい6安打あんだパ・リーグ記録きろく樹立じゅりつした[8]打率だりつひくかったが、チャンスメーカーやつなぎやくとしての役割やくわりたし、1956ねんからの3ねん連続れんぞく日本一にっぽんいち貢献こうけんした。とく1958ねん日本にっぽんシリーズではよんしょうしたすべての勝利しょうり試合しあいにセカンドとして出場しゅつじょうした[9]。しかし巨人きょじんとの3日本にっぽんシリーズでは不振ふしんあえぎ、ほとんど活躍かつやくがなかった。

入団にゅうだん以来いらいあそびの合間あいま野球やきゅうをやっていたというほどのあそきがこうじ、3ねんには三原みはらから西鉄にしてつ合宿がっしゅくしょちか大円寺だいえんじ毎朝まいあさ10るようめいじられる[10]。ここで毎朝まいあさ三原みはらから野球やきゅうのことや、「タダしゅむな」などと一般いっぱん常識じょうしきはなしなどをかれた[11]

1959ねん三原みはら西鉄にしてつ監督かんとく退任たいにんし、このままあそきのままでいいのかと自問じもん[12]以後いご練習れんしゅうむようになる。坪内つぼうち道則みちのり打撃だげきコーチからの指導しどう打撃だげき強化きょうかつと[13]1960ねんには自己じこ最高さいこう打率だりつ.267(16)を記録きろくしてベストナイン選出せんしゅつされ、1961ねんにはオールスターにはつ出場しゅつじょうした。

しかし1963ねん豊田とよだ泰光やすみつがチームをると、わりにトニー・ロイジム・バーマジョージ・ウィルソン入団にゅうだんし、バーマが二塁手にるいしゅとしてレギュラー出場しゅつじょうしたことから出場しゅつじょう機会きかい減少げんしょう同年どうねん巨人きょじんとの日本にっぽんシリーズは6打数だすう安打あんだわった。1966ねん遊撃手ゆうげきしゅねて68試合しあい先発せんぱつ出場しゅつじょうし、同年どうねんからコーチ兼任けんにんとなる。

1967ねんかぎりで現役げんえき引退いんたい1968ねんから翌年よくねんまで西鉄にしてつのコーチをつとめた。

近鉄きんてつコーチ・監督かんとく時代じだい

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1970ねん三原みはら監督かんとくつとめていた近鉄きんてつ守備しゅび走塁そうるいコーチに就任しゅうにん監督かんとく岩本いわもとたかし交代こうたいしたのち近鉄きんてつのこり、コーチを歴任れきにんした。おも攻撃こうげき三塁さんるいベースコーチを担当たんとうし、1979ねん日本にっぽんシリーズだい7せんにおける「江夏えなつの21きゅう」が伝説でんせつになった広島ひろしまとの日本にっぽんシリーズでも三塁さんるいベースコーチを担当たんとうしていた。1974ねんから1981ねんまで近鉄きんてつ監督かんとくだった西本にしもと幸雄ゆきおは「仰木おうぎはベンチのサインを1間違まちがえなかった」とかたっている[14]山本やまもと和範かずのりは1ねん春季しゅんきキャンプでわすものとどけた仰木おうぎ部屋へやでいきなり「ドラちゃんはピッチャー、クビや」と通告つうこくされる[15]1984ねんからはヘッドコーチとなり、1985ねんには仰木おうぎ要請ようせい西鉄にしてつ先輩せんぱいである中西なかにしふとし打撃だげきコーチに就任しゅうにんしている[16]。またヘッドコーチ時代じだい晩年ばんねんネームをOOGIとしていた時期じきがあった(監督かんとく時代じだいOHGI[17]

1987ねんオフ、岡本おかもと三美みよし後任こうにんとして近鉄きんてつ監督かんとく就任しゅうにん遊撃手ゆうげきしゅ村上むらかみ隆行たかゆき外野がいやまわし、ゆうげき若手わかて吉田よしだつよし喜志きしかんひさしきそわせ、打線だせん頻繁ひんぱんえ、投手とうしゅじんでは吉井よしいじんをストッパーに抜擢ばってきした[18]。シーズン途中とちゅうリチャード・デービス大麻たいま事件じけん退団たいだんするもわりに中日ちゅうにちから獲得かくとくしたラルフ・ブライアントぎゃくにプラスとなる[18]。1ねん西武せいぶとのはげしい優勝ゆうしょうあらそいのすえ10.19でリーグ優勝ゆうしょうのがした。前年度ぜんねんど最下位さいかいのチームをひきいて当時とうじ黄金おうごん西武せいぶをあといちのところまでめた、様々さまざま奇策きさくによるこう采配さいはいは、恩師おんし三原みはらの「三原みはら魔術まじゅつ(マジック)」にならって仰木おうぎ魔術まじゅつ(マジック)」しょうされた。

1989ねんは、オリックス、西武せいぶとのどもえ優勝ゆうしょうあらそいとなり、2のオリックスにわずか1りん(3西武せいぶとは2りん)で、チームを9ねんぶりのリーグ優勝ゆうしょうみちびいた。読売よみうりジャイアンツとの日本にっぽんシリーズでは、3連勝れんしょうのちの4連敗れんぱいきっし、チームはつ日本一にっぽんいちのがした。

1990ねん野茂のも英雄ひでおドラフトてその独特どくとくのフォームを矯正きょうせいすることなくそだてた[18]

その毎年まいとしAクラスりはするが、1991ねん - 1992ねんと2ねん連続れんぞく西武せいぶとの優勝ゆうしょうあらそいにやぶれ、1992ねんをもって退任たいにんした。赤堀あかほり元之もとゆきなどのチームをささえることになる若手わかて数多かずおお育成いくせいした。

オリックス・ブルーウェーブ監督かんとく時代じだい

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1993ねんの1年間ねんかん朝日放送あさひほうそう(ABC)・九州朝日放送きゅうしゅうあさひほうそう(KBC)野球やきゅう解説かいせつしゃスポーツニッポン野球やきゅう評論ひょうろんつとめた。

1994ねんオリックス・ブルーウェーブ監督かんとく就任しゅうにんした。オリックスでは、ぐん生活せいかつつづけていたイチローをすぐに一軍いちぐん抜擢ばってきだい活躍かつやくさせ、前任ぜんにん土井どい正三しょうさん監督かんとく時代じだいから遊撃手ゆうげきしゅとして期待きたいされながらイップスにおちいっていた田口たぐちたけしを、外野がいやしゅとして起用きよう成功せいこうさせるなど、土井どい時代じだい停滞ていたいしていた才能さいのう次々つぎつぎ開花かいかさせ、「ねこ目打めうちせん」とばれた日替ひがわり打線だせん中心ちゅうしんとして特徴とくちょうてき采配さいはいるい、就任しゅうにん1ねんは2浮上ふじょうさせた。

1995ねん阪神はんしん淡路あわじ大震災だいしんさい発生はっせい神戸こうべ本拠地ほんきょちくオリックスは、一時いちじ試合しあい開催かいさいさえあやぶまれた状態じょうたいから、『がんばろうKOBE』を合言葉あいことばに、オリックスとしてはつのリーグ優勝ゆうしょうみちびいた。日本にっぽんシリーズでは野村のむら克也かつやひきいるヤクルトスワローズ対戦たいせんするが、1しょう4はい敗退はいたいした。

よく1996ねんもリーグ優勝ゆうしょうたし、日本にっぽんシリーズでは長嶋ながしま茂雄しげおひきいる読売よみうりジャイアンツ対戦たいせん。4しょう1はい巨人きょじんくだし、監督かんとくとしてはつ日本一にっぽんいちかがやいた。このとし大晦日おおみそかおこなわれただい47かいNHK紅白こうはく歌合戦うたがっせんでは審査しんさいんつとめた。

そのリーグ優勝ゆうしょうたすことはなかったが、1999ねんまで6ねん連続れんぞくでAクラスを維持いじ近鉄きんてつ監督かんとく時代じだいふくめると11ねん連続れんぞく)しつづけた。2000ねん球団きゅうだんめいがオリックスになってからはじめてBクラスに転落てんらくし4わり、オフにはイチローがメジャーリーグシアトル・マリナーズ移籍いせきした。

ユニフォームのデザインがわった2001ねんも、一時いちじ上昇じょうしょうするかにおもえたが中盤ちゅうばん失速しっそくし、2ねん連続れんぞくBクラスとなる4でシーズンをえ、このとしかぎりで監督かんとく退任たいにんした。なお、近鉄きんてつのコーチ時代じだいはヘッドコーチ昇格しょうかくまで、三塁さんるいベースコーチを担当たんとうしていたが、ブルーウェーブでのいち政権せいけん、チームを活気かっきけるため、開幕かいまくからの短期間たんきかん最後さいごの1年間ねんかんは140試合しあいとおして、三塁さんるいコーチャーズボックスにみずかって、陣頭じんとう指揮しきっていた。

監督かんとく退任たいにん阪神はんしんタイガース次期じき監督かんとくとして有力ゆうりょくされていたが[19]結局けっきょく久万くましゅん二郎じろうオーナーの意向いこうにより有耶無耶うやむやとなった。

オリックス・バファローズ監督かんとく時代じだい

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オリックス退団たいだんは、2002ねんから2004ねんまで再度さいどABC野球やきゅう解説かいせつしゃ、スポーツニッポン野球やきゅう評論ひょうろんつとめた。

2004ねん野球やきゅう殿堂でんどうりし、記念きねんパーティーでのスピーチで「今日きょうのパーティーでございますが、これはわたし生前せいぜんそうだとおもっております」とかたった。この時点じてんはいがん発覚はっかくしており、闘病とうびょうつづけていたが、仰木おうぎ生前せいぜんがんにおかされて闘病とうびょうしている事実じじつおおやけにすることはなかった。一部いちぶ球界きゅうかい関係かんけいしゃはその事実じじつっていたが、仰木おうぎ懇願こんがんされて内密ないみつにしていたという。

2004ねん10月12にち、かつて自身じしんひきいたオリックス・ブルーウェーブと大阪おおさか近鉄きんてつバファローズの合併がっぺいによって誕生たんじょうした新生しんせい「オリックス・バファローズ」から監督かんとく就任しゅうにん要請ようせいけ、70さい現場げんば復帰ふっきしたが、当時とうじ歴代れきだいさい高齢こうれいでの監督かんとく就任しゅうにんだった(翌年よくねん野村のむら克也かつや更新こうしん)。闘病とうびょうつづけていたはいがんはかんなおしていなかったが、「グラウンドでたおれたら本望ほんもう」と、やまいをおして監督かんとく就任しゅうにんしており、新井あらい宏昌ひろあき松山まつやま秀明ひであきらが、仰木おうぎ体調たいちょう不良ふりょうしての決意けついたれてコーチングスタッフとして加入かにゅうした[20]

グラウンドでは病状びょうじょうかく気丈きじょう振舞ふるまっていたものの[21]過労かろうによる居眠いねむりや、ベンチに腰掛こしかけたままうごかない場面ばめん目立めだち、とく後半こうはんせん西武せいぶドームでの試合しあいでは、球場きゅうじょう階段かいだん自力じりきのぼることができず、外野がいや大道具おおどうぐ搬入はんにゅうこうからグラウンドに出入でいりするほど、体調たいちょうくずしている様子ようす周囲しゅういから確認かくにんされていた。2005ねんシーズンは4となった。

西武せいぶドームでの最終さいしゅう戦後せんご、レフトのオリックスファンに2、3あたまげ「ありがとう」とくちにし、そのままセンターバックスクリーン(大道具おおどうぐ搬入はんにゅうこう)からそとけのハイヤーにんだ。

球団きゅうだんから監督かんとく続投ぞくとう要請ようせいけるも、高齢こうれい健康けんこう状態じょうたい理由りゆうとして、最終さいしゅうせん翌日よくじつ9月29にち記者きしゃ会見かいけんひらき、監督かんとく退任たいにん発表はっぴょうした。同時どうじにオリックス球団きゅうだんシニア・アドバイザー(SA)への就任しゅうにん発表はっぴょうしている[22]

オリックス・バファローズ監督かんとく勇退ゆうたい、そして逝去せいきょ

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監督かんとく退任たいにん体調たいちょう悪化あっかして入院にゅういんしたが、死期しきせまった2005ねん12月、医師いしに「20日はつかにイチローと食事しょくじ約束やくそくをしている。それまではきさせてくれ」とうったえたという。オフに仰木おうぎさそいできょじんから移籍いせき加入かにゅうした清原きよはら和博かずひろとも、「このあいだ食事しょくじしたところでまた食事しょくじしましょう」と清原きよはらさそったところ、「あのみせべきれないから今度こんどみせえよう」と約束やくそくしていたという。

監督かんとく退任たいにん2ヶ月かげつ12月15にち午後ごご410ふんはいがんによる呼吸こきゅう不全ふぜんのため、福岡ふくおかけん福岡ふくおか市内しない病院びょういん死去しきょした[23]。70さいぼつ法名ほうみょうは「おおせたかしいんしゃく耀彬」。

仰木おうぎ死去しきょほうせっし、おなどしでこのとしオフに東北とうほく楽天らくてんゴールデンイーグルス監督かんとく就任しゅうにんした野村のむら克也かつやは「もう一度いちど監督かんとくとしてアイツとたたかいたかった…」とコメントするなど、いたこえ球界きゅうかいだけでなくかく方面ほうめんからも数多かずおおせられた。

葬儀そうぎ仰木おうぎ遺志いしにより密葬みっそうにていとなまれたが、おわかれのかいにあたる「天国てんごくおくかい」が、2006ねん1がつ21にち午前ごぜん11からスカイマークスタジアムおこなわれた。神戸こうべでのおわかれのかいとなったため西鉄にしてつ時代じだいのチームメイトである稲尾いなお和久かずひさらが発起人ほっきにんとなり、故郷こきょう福岡ふくおかけん中間なかまでも、神戸こうべでのかい日時にちじわせた「天国てんごくおくかい」がおこなわれた。

没後ぼつご

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故郷こきょう中間なかまでは、2016ねんから中間ちゅうかん市内しないの4中学校ちゅうがっこうと、福岡ふくおか県内けんないから招待しょうたいした中学校ちゅうがっこう12こうによる『仰木おうぎあきら記念きねん野球やきゅう大会たいかい』を開催かいさいしている[24]

また中間なかま仰木おうぎへの顕彰けんしょう事業じぎょう一環いっかんとして、2017ねん4がつ1にちより中間ちゅうかん市営しえい野球やきゅうじょう名称めいしょうを『中間ちゅうかん仰木おうぎあきら記念きねん球場きゅうじょう』と変更へんこうした[25]

人物じんぶつ・エピソード

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性格せいかく

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  • 東筑とうちく高校こうこう時代じだいは、筑豊本線ちくほうほんせん中間なかまえきから折尾おりおえきまでを通学つうがく利用りようしていたが、筑豊本線ちくほうほんせん利用りようしていたのは年間ねんかん半分はんぶんくらいにぎず、あとの半分はんぶん友人ゆうじんにカバンを学校がっこうまではこばせ、自分じぶん学校がっこうまで線路せんろ沿いの4キロメートルほどのみちはしって通学つうがくしていたという[26]
  • 1958ねんオフにセントルイス・カージナルス来日らいにちしたさい全日本ぜんにほんチームのメンバーとして出場しゅつじょうした豊田とよだ泰光やすみつが、当時とうじカージナルスの二塁手にるいしゅであるドン・ブレイザーからグラブをもらった。豊田とよだ福岡ふくおかかえってチームメイトにグラブをせびらかし、仰木おうぎもしばらくにとってながめていたが、豊田とよだが「もういいだろう。かえせ」とグラブをうばうと、グラブにはすみで「5ばん 仰木おうぎ」とかれていた。そして「トヨさん、こりゃ二塁手にるいしゅのグローブばい!」と仰木おうぎわれた豊田とよだは、くそのグラブを仰木おうぎゆずったという。
  • 現役げんえき時代じだいからかなりのあそにんで、選手せんしゅ時代じだいは「グラウンドのそとではいくらでもムチャやってくれたらいい」と選手せんしゅっていた三原みはら監督かんとくからも「仰木おうぎ豊田とよだだけはあそびに制限せいげんをかけんといかん」とこぼされるほどだった。西鉄にしてつ島原しまばらキャンプの休日きゅうじつふね天草あまくさまであそびにったものの、うみれてそののうちにかえれず、翌日よくじつ昼過ひるすぎにコッソリとかえってきたら、三原みはら監督かんとくからバントの練習れんしゅうだけをするように命令めいれいされたという。清原きよはら和博かずひろも、「朝飯あさめしのおちゃわりにビールをむようなひと」と自身じしん著書ちょしょべている。
  • 退場たいじょう処分しょぶんけることもそれなりにおおく、7かい記録きろくしている[27]
  • しんあせ不乱ふらん」が座右ざゆうめいといわれる[28]

監督かんとくとして

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選手せんしゅとの関係かんけい

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  • 野茂のも英雄ひでおをはじめ、長谷川はせがわしげるイチロー田口たぐちたけしなどおおくの日本人にっぽんじんメジャーリーガーを輩出はいしゅつした。そして、全員ぜんいんが「師匠ししょう」「尊敬そんけいするひと」と公言こうげんしており、かれらに多大ただい影響えいきょうあたえている。中村なかむら紀洋のりひろもメジャーリーグにっていたが「仰木おうぎ監督かんとく必要ひつようとしてくれるとっていたから日本にっぽんもどってきた」と発言はつげんしており、敬意けいいあらわしている[29]
  • イチローはメジャー移籍いせき、キャンプちゅう仰木おうぎうためだけにわざわざ宮古島みやこじままで出向でむいたほどで、その尊敬そんけいぶりは崇拝すうはいちかいものであり、記者きしゃ質問しつもんに「ぼくただいちにん師匠ししょうですから」とまでこたえている。仰木おうぎのオリックス監督かんとく就任しゅうにん直後ちょくご登録とうろくめいを「イチロー」と改名かいめいするという仰木おうぎ提案ていあんに、「いまはいいですが、このさき子供こどもができて父親ちちおやがイチローではおかしいでしょう」とゆずらなかったイチローにたいし、仰木おうぎ佐藤さとう和弘かずひろせ、「おまえは来年らいねんから登録とうろくめい佐藤さとうからべつのものにしよう。おまえのあたまはパンチパーマだからパンチでいこう」と指示しじして佐藤さとう快諾かいだくし、「先輩せんぱい佐藤さとうえるんだから、おまえも来年らいねんからイチローで登録とうろくだ」と強引ごういん納得なっとくさせたエピソードがある[30]
  • 近鉄きんてつ時代じだい確執かくしつがあるとうわさされた吉井よしいだが、近年きんねんは「あの時代じだい自分じぶんわかかったせいで、仰木おうぎさんのかんがえがかっていなかっただけ。仰木おうぎさんにらないとわれたときが、自分じぶん引退いんたいとき」、「仰木おうぎさんは、せいかけが上手じょうず当時とうじは“なんだ、あのオヤジ”とおもっていたけど、あとで、意図いとかるんですよ。わかころは、性格せいかくてきにちょっとおこっているぐらいのほうが、パフォーマンスががっていた。それをかっていた。オリックスでも仰木おうぎさんと一緒いっしょにやった。最後さいごに“あのときはなー”と全部ぜんぶタネ明たねあかししてくれた」[31]かたっていた。
  • 1995ねんのインタビューにて、野茂のもとイチローの共通きょうつうてんわれたさい、「頑固がんこさ」をあげている。
  • 2005ねん仰木おうぎがオリックスの監督かんとくとして復帰ふっきしたときに、イチローがみずからの背番号せばんごう51ばんを「監督かんとくにつけてほしい」とすすめたが、「そんな番号ばんごうおそおおくて絶対ぜったいつけられへん」とことわった(イチローがまれるまえはなしだが、仰木おうぎ自身じしんは1970ねん近鉄きんてつ守備しゅび走塁そうるいコーチに就任しゅうにんしたさいに51ばんをつけたことがある)。
  • 清原きよはら和博かずひろは、自分じぶん最後さいごのチームになったオリックスにさそってくれた仰木おうぎのことをふか感謝かんしゃしており、自分じぶん引退いんたい試合しあいセレモニーで「天国てんごくにいる仰木おうぎさん、自分じぶん最後さいご活躍かつやくあたえてくれてありがとう!」と感謝かんしゃべた。
  • イチローがだいリーグで3,000ほん安打あんだ達成たっせいしたさいのインタビューで「おもしたのが、きっかけをつくってくれた仰木おうぎ監督かんとく」「神戸こうべで2000ねんあき、おさけちから使つかってだいリーグ移籍いせき口説くどいた。仰木おうぎさんの決断けつだんがなければ、なにはじまらなかった」と感謝かんしゃ言葉ことばべている[32]

采配さいはい指導しどう

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  • 本人ほんにんあそにん性格せいかくもあって、監督かんとく時代じだい選手せんしゅがグラウンドのそとなにをしようが、試合しあい結果けっかせばなにわなかったが、練習れんしゅうそのものはかなりいかめしかったことでられる。ただし、1989ねんにコンディショニングコーチに就任しゅうにんした立花たちばな龍司りゅうじは、まだ日本にっぽんでは普及ふきゅうしていなかったりょうよりしつ重視じゅうしした最新さいしんのトレーニング理論りろん導入どうにゅうしようとしていたが、のコーチが反発はんぱつするなか理解りかいしめし、そのとしリーグ優勝ゆうしょう達成たっせいしたことで、立花りっかたか評価ひょうかした。
  • 1989ねんマジックナンバー1でむかえた10月14にち福岡ふくおかダイエーホークスたたかえ藤井寺ふじいでら球場きゅうじょう)で、仰木おうぎは、リリーフの吉井よしいではなく、その試合しあいでリリーフしたおもね波野なみの秀幸ひでゆき最後さいごまで胴上どうあ投手とうしゅになった。投手とうしゅコーチの権藤ごんどうひろしは「仰木おうぎさんは阿波あわきだったんですよ。わたし吉井よしいが1年間ねんかんおさえをやったのだから最後さいご吉井よしいでとって、仰木おうぎさんは「わかった」っていながらえたんです。吉井よしいおこって、胴上どうあげちゃった。わたしが「みんなビールかけやってるんだから、みんなのところへとったら、吉井よしいは「はい」とってました[33]
  • 光山こうやま英和ひでかずは「阿波あわ野茂のもなどの一流いちりゅう選手せんしゅにはなにわなかった。そうでない選手せんしゅにはむちゃくちゃいかめしかった」とかたっている。その光山こうやまは、1991ねん9月26にち福岡ふくおかダイエーせんでベンチに捕手ほしゅ登録とうろく選手せんしゅのこっていないにもかかわらず、8かいうら1てんビハインドの場面ばめんで1アウト満塁まんるいのチャンスだったため、代打だいだ中根なかねひとしされたことがある。その試合しあいではその、その三塁さんるいまもっていた金村かなむら義明よしあき捕手ほしゅ起用きようした[34]現役げんえき時代じだい光山こうやま仰木おうぎきらいだったとしているが、指導しどうしゃになった現在げんざいは「仰木おうぎさんならどうするか」とかんがえることがあるという[35]
  • ブライアントは「ぼくくるしんでいるのをて、された。とにかくリラックスしてやってくれ。おまえはホームランバッターなんだから、いくら三振さんしんしようとかまわない。つために得点とくてん必要ひつようなんだとってくれた。そのおかげもあり、成績せいせきのこせたんじゃないかな」[36]べている。
  • オリックス監督かんとく時代じだい試合しあい相手あいてチームに大量たいりょうリードをゆるしている試合しあい終盤しゅうばんで、守備しゅび要員よういんとしてベンチにはいることがおおかった野手やしゅに「おい、つぎかいまもるぞ」と守備しゅびがたはいるようつたえたところ、「えっ」というおどろきの反応はんのうせられたことから(一般いっぱんてき守備しゅびがためによる野手のて交代こうたい自軍じぐんがリードしている場面ばめんおこなわれることがおおく、大量たいりょうビハインドの場面ばめんでのこうした交代こうたい非常ひじょうめずらしい)、不機嫌ふきげんそうに「もういい」とい、翌日よくじつその野手やしゅに2ぐん降格こうかくめいじた。その選手せんしゅはそのとしかぎりで自由じゆう契約けいやくとなった[37]
  • 岡田おかだ彰布あきのぶ選手せんしゅ・コーチとして9にん監督かんとくしもプレー、指導しどうしたが一番いちばん影響えいきょうけている監督かんとく仰木おうぎげている。「阪神はんしんしからなかったオレはオリックスにうつり、エッとおどろくことの連続れんぞくだった。たとえば先発せんぱつメンバー、仰木おうぎさん固定こていしないのよ。まい試合しあいメンバーがちがう。そう、日替ひがわりメンバーでそれがたりまえのようだった。こんな野球やきゅうはじめての経験けいけんした。でも、これは直感ちょっかんおこなっているものではなく仰木おうぎさんがデータを調しらべて分析ぶんせきして、こたえをみちびしわけよ。そこには根拠こんきょがありそれが正解せいかいであったということを結果けっかしめした。それがオレには衝撃しょうげきであり、野球やきゅうたいするかんがかたえてくれた恩人おんじんだった。」[38]べている。
  • オリックス監督かんとく時代じだい1996ねんのオールスターゲーム監督かんとくつとめたさいに、当時とうじオリックスのイチローを投手とうしゅとして登板とうばんさせ、話題わだいとなった。打者だしゃ巨人きょじん松井まつい秀喜ひできだったが、セ・リーグ監督かんとく野村のむら克也かつや野手やしゅであるイチローのパフォーマンスてき登板とうばん抗議こうぎする意味いみで、代打だいだにヤクルト投手とうしゅ高津たかつしんわれおくった(結果けっか内野ないやゴロ)[注釈ちゅうしゃく 1]。なお、その前年ぜんねん仰木おうぎひきいるオリックスは、西武せいぶせん東尾ひがしおおさむ監督かんとくがピッチャーとして登板とうばんさせたオレステス・デストラーデ対戦たいせんしている(デストラーデは1れずに降板こうばん)。
  • 采配さいはい特徴とくちょうとして「投手とうしゅ起用きよう投手とうしゅ交代こうたい小刻こきざみにおこなう」ことが非常ひじょうおおてんげられ、勝利しょうりのためには無茶むちゃ投手とうしゅ起用きよういとわない場面ばめんもしばしばられた。ワンポイントリリーフは勿論もちろん1人ひとり打者だしゃたいして打席だせき完了かんりょうするまえ継投けいとうしたこともしばしばあったため、近鉄きんてつ監督かんとく時代じだいには権藤ごんどうひろし投手とうしゅコーチ[39]吉井よしいじんと、オリックス監督かんとく時代じだいには山田やまだ久志ひさし投手とうしゅコーチと対立たいりつすることがあった。権藤ごんどう著書ちょしょなかで「仰木おうぎさんにばれてバファローズにはいったのだが、キャンプの段階だんかいからこのひとばなしかないひとだな」「仰木おうぎさんとの衝突しょうとつげれば本当ほんとうにキリがない」「仰木おうぎさんはわたしにとって最高さいこう反面はんめん教師きょうし。べからずしゅう一番いちばん提供ていきょうしてくれた」[40]き、「仰木おうぎさんは策士さくしでしたね。あれやれ、これやれとと指示しじおおく、選手せんしゅいやがってました。「またはじまったよ」と。ただ、その作戦さくせんたるんでしょ。勝負しょうぶかんというのか。仰木おうぎさんは西鉄にしてつ三原みはらおさむさんの野球やきゅうまなんでいますから。投手とうしゅ起用きようかんしても、三原みはらさんが稲尾いなおさんを使つかったみたいにエースを使つかいたいんですよ。でもわたし仕事しごと投手とうしゅまもるのが仕事しごと当時とうじのエース阿波あわなんかを酷使こくしさせるわけにはいかない。そこで意見いけんわないことありました。のこっていたら大変たいへんでしたよ。こうは監督かんとくでこちらはコーチ。最後さいご権限けんげん監督かんとくにある。それをかったうえでギリギリのところでやっていたわけです。つづけていたら我慢がまん限界げんかいえていたでしょうね」[33]べる一方いっぽうで、「つことにたいしてとても貪欲どんよくで、なおかつ自分じぶん直感ちょっかんなによりもしんじているひとだった。かれめい指導しどうしゃとして人々ひとびと記憶きおくのこっているのは、そんなかれ資質ししつ由来ゆらいしているようながする」としるしている[41]山田やまだは「発想はっそう発信はっしんりょくがありました。近鉄きんてつでは『10・19』でさわがれたけど、監督かんとくとしてそこそこやるなというかんじでした。オリックスではあたためていたものをすべてぶつけたようにおもいます」、「(おおくの)ピッチャーを、まとめて使つかってもらうということをするのがむずかしい監督かんとくだった。出来上できあがった投手とうしゅでないと使つかってもらえないという印象いんしょうつよかったね」、「どの監督かんとくにもいえるが、ペナントをとりにいくチームは投手とうしゅ酷使こくししがちです。その試合しあいちたいから少々しょうしょう無理むりをしてでもちにいく。『ちょっと勘弁かんべんしてほしい』という投手とうしゅコーチとは摩擦まさつしょうじがちで、仰木おうぎさんもそうでした」とべ、1995ねん仰木おうぎとの間柄あいだがらはギクシャクし[42]、1996ねん退団たいだんした。
  • 野田のだ浩司こうじは1997ねんになると仰木おうぎ継投けいとうはやくなって、野田のだなん同点どうてんえられるようになった。ある東京とうきょうドームの試合しあい宿舎しゅくしゃ野田のだはたまらず仰木おうぎ部屋へやき、「なんであんなところでえるんですか」と。そのときにFAけんっていたし「こんなんだったら、もうげられませんよ」とまでった。すると仰木おうぎは「おれにはおれ選手せんしゅ起用きようがある。それがなかったら95、96ねん優勝ゆうしょうできていない。監督かんとくというのは自分じぶんなか自信じしんでやっているんや。おまえらのおかげで優勝ゆうしょうはできたけど、そこにはおれ采配さいはいがある。おまえ気持きもちはくむけど、そこはをつむってやれ。それしかない」と。納得なっとくできたというか、させられました、「起用きようほう不満ふまんったこともあるけど、仰木おうぎさんほどうつわおおきいひとはいなかった」[43]べている。
  • 川越かわごえ英隆ひでたか影響えいきょうけた指導しどうしゃさきげたのが仰木おうぎで「プロり(1999ねん)したとき監督かんとくが、仰木おうぎ監督かんとくでよかったとおもいます。ひと観察かんさつする能力のうりょくひとうごかす能力のうりょくけていました。2005ねん仰木おうぎ監督かんとくさい就任しゅうにんしたときにも、その手腕しゅわんたかさをさい認識にんしきしました」[44]べている。
  • 攻撃こうげきめんでは、スタメンを固定こていすることがすくなく、日替ひがわりで毎日まいにち打順だじゅんわり、オリックス時代じだいは「ねこ目打めうちせん」とばれていた。しかしこれは緻密ちみつなデータによるものであり、イチロー以外いがいにシーズンをとおしててる選手せんしゅがほとんどいなかったこと相手あいて投手とうしゅチームの打者だしゃとの相性あいしょうかんがえていたこと、さらに1994ねんからパ・リーグ予告よこく先発せんぱつ導入どうにゅうされたこと、これらによっておこなわれていたもの[45]結果けっかてき成功せいこうをおさめ、仰木おうぎマジックの面目めんぼく躍如やくじょとされることになった。また、メンバー起用きようはばひろげるために選手せんしゅ複数ふくすうポジションをまもることをもとめ、内野ないやしゅ複数ふくすうポジションを兼任けんにんしたり、外野がいや守備しゅび定評ていひょうのあったたにけいほん西にしあつはく田口たぐちたけし内野ないや起用きようすることもあった。
  • 打倒だとう西武せいぶ」をとなつづけていた。当時とうじ西武せいぶライオンズは黄金おうごんにあり、1982-98ねんの17シーズンでパ・リーグ優勝ゆうしょう13かいチームを圧倒あっとうしていたが、のこる4シーズンのうち1984ねんのぞく3シーズンでは仰木おうぎ監督かんとくをしたチームが優勝ゆうしょうしている。
  • パンチ佐藤さとう芸能げいのうかい転向てんこうすすめたのも仰木おうぎである。仰木おうぎすで佐藤さとう芸能げいのうかいいていると見抜みぬいており「おまえ野球やきゅうをやっても大成たいせい出来できないが、芸能人げいのうじんなら大成たいせいできるから野球やきゅうをやめろ」とストレートに戦力せんりょくがい通告つうこくしたが、われた佐藤さとうおこるどころか「ハイ、めます」とふた返事へんじこたえて引退いんたい決意けついした。佐藤さとうもまた仰木おうぎ非常ひじょう尊敬そんけいしており、仰木おうぎ意見いけん無条件むじょうけんれた。
  • 自動車じどうしゃ運転うんてんしないため、球場きゅうじょうへのアクセスは電車でんしゃタクシー利用りようしていた。近鉄きんてつ時代じだいには、新大阪しんおおさかえきちかくの自宅じたくマンションから大阪おおさか市営しえい地下鉄ちかてつ当時とうじ御堂筋線みどうすじせん近鉄きんてつ南大阪線みなみおおさかせんいで藤井寺ふじいでらえきまでかよっており、電車でんしゃないでファンにこえけられることもおおかった。近鉄きんてつ監督かんとく最終さいしゅうねんとなる1992ねんには、親会社おやがいしゃである近畿日本鉄道きんきにほんてつどうダイヤ変更へんこう告知こくちや、近鉄きんてつ特急とっきゅうアーバンライナー」のイメージキャラクターに起用きようされた。
  • 2001ねん10月5にちすでにオリックス監督かんとく退任たいにん発表はっぴょうしており、最終さいしゅうせんとなる近鉄きんてつせんグリぐりンスタジアム神戸んすたじあむこうべ)では、試合しあいのオリックスの選手せんしゅによる胴上どうあげにいで、対戦たいせん相手あいてである近鉄きんてつ選手せんしゅたちからも胴上どうあげをされた。
  • 2005ねん6月4にち広島ひろしませんで、投手とうしゅ交代こうたい是非ぜひをめぐって、44分間ふんかん審判しんぱん抗議こうぎおこない、遅延ちえん行為こういにより退場たいじょう処分しょぶんけた。仰木おうぎは「審判しんぱんにはコースについてすこ抗議こうぎしたというものであって投手とうしゅ交代こうたいではない。審判しんぱんちがえた」と主張しゅちょうしたが、みとめられなかった。この試合しあい球審きゅうしんだった土山つちやま剛弘たけひろは「たしかに『投手とうしゅ交代こうたい菊地きくちげん』とき、仰木おうぎ監督かんとく復唱ふくしょうした」と主張しゅちょうし、両者りょうしゃのいいぶんこうから対立たいりつした[46]。この2人ふたりのやりとりのくちうごきを毎日放送まいにちほうそうのニュース番組ばんぐみVOICE」が詳細しょうさい分析ぶんせきし、仰木おうぎ土山つちやまに、投球とうきゅう判定はんていについて「コース、ひくいかな?」とたずねたところ、土山つちやま球審きゅうしんが「投手とうしゅ菊地きくちげん」とちがえ、そこから「ってもいない投手とうしゅ交代こうたいがコールされたとみられる」とほうじた。ビデオには、仰木おうぎ身振みぶりをまじえてコースについてたずねている様子ようすうつっていた。
  • 2005ねん7がつ16にちロッテせんで、ランドール・サイモンのショートゴロのあいだたにけい本塁ほんるいみ、アウトを宣告せんこくされたことに激昂げっこうしたたに球審きゅうしんむねばしたが、仰木おうぎもベンチからし、もう抗議こうぎ審判しんぱん暴言ぼうげんいたとして、2005ねんシーズン2度目どめ退場たいじょう処分しょぶんけた。仰木おうぎにとってはこれが最後さいご退場たいじょうとなったが、70さい3ヶ月かげつでの退場たいじょう処分しょぶん日本にっぽんプロ野球やきゅうさい高齢こうれい記録きろくである。
  • 清川きよかわ栄治えいじがオリックスの投手とうしゅコーチに就任しゅうにんしたさい仰木おうぎがオリックス・バファローズ初代しょだい監督かんとく背番号せばんごう「70」を背負せおっている。清川きよかわ背番号せばんごう「70」をえらんだ理由りゆうとして「おな背番号せばんごう背負せおい、指導しどうしゃとしていちでも仰木おうぎさんにちかづきたい」とかたっている。清川きよかわ仰木おうぎした1991ねん - 1992ねんの2年間ねんかんプレーした[47]
  • オリックスの宮内みやうち義彦よしひこオーナーは「仰木おうぎさんは、わか選手せんしゅ使つかうのが非常ひじょうにうまく、プロ野球やきゅう史上しじょうのこめい監督かんとくだったとおもいます。もちろん野球やきゅうをよくっているだけでなく、わか選手せんしゅをそのにさせ、きそわせる。人柄ひとがらきでした。あっさりしていながら、礼儀れいぎただしい。じょうというのがかるひとでした。選手せんしゅのプレーだけでなく、精神せいしん状態じょうたいがよくかって、ひとたいして非常ひじょうやさしい人間にんげんでした。いろんなんでいる選手せんしゅ調子ちょうしっている選手せんしゅ一人ひとりひとりんではなしていたらしいのです。選手せんしゅにも仰木おうぎ時代じだいなつかしむひとおおいですね。オリックスの監督かんとくがたくさんいたなかで、わたしはやっぱり一番いちばんセンチメント(感傷かんしょう)をかんじるのは仰木おうぎ監督かんとくです」[48]べている。
  • 選手せんしゅのフォームを尊重そんちょうして、そのまま才能さいのうばす育成いくせいほうられる[49]

詳細しょうさい情報じょうほう

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年度ねんどべつ打撃だげき成績せいせき

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とし

たま

だん
ためし

ごう


せき


かず
とく

てん
やす


るい
さん
るい
ほん
るい
るい



てん
ぬすめ

るい
ぬすめ
るい




よん

たま
けい

とお


たま
さん


ころせ


りつ

るい
りつ
なが

りつ
O
P
S
1954 西鉄にしてつ 101 280 250 27 54 11 6 5 92 26 15 5 6 0 22 -- 2 51 6 .216 .285 .368 .653
1955 126 406 370 48 87 15 1 15 149 39 22 7 8 2 22 0 4 70 5 .235 .285 .403 .688
1956 124 438 388 52 94 19 1 10 145 33 23 10 17 1 30 0 2 75 3 .242 .300 .374 .674
1957 96 246 211 28 54 6 2 6 82 23 4 4 5 1 26 0 3 49 4 .256 .346 .389 .734
1958 115 331 296 38 59 10 0 2 75 27 10 3 10 0 22 0 3 65 4 .199 .262 .253 .515
1959 128 316 281 38 62 11 2 7 98 31 8 6 14 2 16 0 3 52 8 .221 .270 .349 .619
1960 114 426 374 46 100 19 3 4 137 30 8 8 15 0 33 1 4 57 4 .267 .333 .366 .700
1961 123 453 408 45 99 19 1 9 147 52 11 7 5 3 33 3 4 69 13 .243 .306 .360 .666
1962 111 406 357 48 76 13 5 5 114 21 5 10 18 1 25 1 5 75 7 .213 .274 .319 .593
1963 83 245 193 16 37 8 0 1 48 17 5 5 20 2 29 1 1 39 5 .192 .300 .249 .549
1964 105 275 234 23 55 11 1 5 83 23 3 3 12 2 23 2 4 40 1 .235 .314 .355 .669
1965 62 116 105 17 16 1 0 0 17 2 1 1 3 0 8 0 0 21 2 .152 .212 .162 .374
1966 36 30 28 2 6 0 0 1 9 2 1 0 1 0 1 0 0 7 0 .214 .241 .321 .563
1967 4 6 6 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .167 .167 .167 .333
通算つうさん:14ねん 1328 3974 3501 428 800 143 22 70 1197 326 116 69 134 14 290 8 35 670 62 .229 .294 .342 .636
  • かく年度ねんど太字ふとじはリーグ最高さいこう

年度ねんどべつ監督かんとく成績せいせき

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とし

たま

だん
じゅん

くらい
ためし

ごう
かち

はい

せん


ぶん
かち

りつ



ほん
るい


りつ
ぼう

りつ
とし

よわい
1988 近鉄きんてつ 2 130 74 52 4 .587 0 154 .253 3.23 53さい
1989 1 130 71 54 5 .568 157 .261 3.86 54さい
1990 3 130 67 60 3 .528 14.5 181 .275 4.34 55さい
1991 2 130 77 48 5 .616 4.5 157 .265 3.46 56さい
1992 2 130 74 50 6 .597 4.5 155 .247 3.69 57さい
1994 オリックス 2 130 68 59 3 .535 7.5 92 .285 3.93 59さい
1995 1 130 82 47 1 .636 115 .259 2.88 60さい
1996 1 130 74 50 6 .597 124 .271 3.55 61さい
1997 2 135 71 61 3 .538 5 111 .263 3.61 62さい
1998 3 135 66 66 3 .500 4.5 140 .264 4.03 63さい
1999 3 135 68 65 2 .511 10.5 112 .263 3.64 64さい
2000 4 135 64 67 4 .489 8 116 .260 4.64 65さい
2001 4 140 70 66 4 .515 7 143 .263 4.11 66さい
2005 4 136 62 70 4 .470 26 97 .260 3.84 70さい
通算つうさん:14ねん 1856 988 815 53 .548 Aクラス11かい、Bクラス3かい
  • 順位じゅんい太字ふとじ日本一にっぽんいち
  • 1988ねんから1996ねんまでは130試合しあいせい1997ねんから2000ねんまでは135試合しあいせい、2001ねんから2003ねんまでは140試合しあいせい、2004ねんから136試合しあいせい

表彰ひょうしょう

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記録きろく

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はつ記録きろく
節目ふしめ記録きろく
  • 1000試合しあい出場しゅつじょう:1962ねん8がつ12にちたい東映とうえいフライヤーズ20回戦かいせん平和へいわだい球場きゅうじょう)、2ばん二塁手にるいしゅ先発せんぱつ出場しゅつじょう史上しじょう75にん
その記録きろく

背番号せばんごう

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  • 42(1954ねん - 1954ねん途中とちゅう
  • 5(1954ねん途中とちゅう - 1967ねん
  • 30(1968ねん - 1969ねん
  • 51(1970ねん
  • 71(1971ねん - 1992ねん
  • 72(1994ねん - 2001ねん
  • 70(2005ねん

関連かんれん情報じょうほう

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著書ちょしょ

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関連かんれん書籍しょせき

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解説かいせつしゃとしての出演しゅつえん番組ばんぐみ

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映画えいが出演しゅつえん

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参考さんこうテレビ番組ばんぐみ

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 野村のむらも1999ねんプレシーズン、新庄しんじょう剛志たけし投手とうしゅ起用きよう模索もさくした
  2. ^ かね1991ねん雲仙うんぜん普賢岳ふげんだけ火砕流かさいりゅう発生はっせい長崎ながさきけん島原しまばらちょう島原しまばらキャンプで西鉄にしてつ宿舎しゅくしゃとしていた旅館りょかん国光こっこう」の主人しゅじんであったことから、仰木おうぎをはじめとする当時とうじ西鉄にしてつナインと親交しんこうがある。

出典しゅってん

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  1. ^ 野球やきゅうねんのプロ野球やきゅう きょじん&オリックスに縁起えんぎよし?”. デイリースポーツ online (2020ねん1がつ5にち). 2022ねん6がつ23にち閲覧えつらん
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  3. ^ 仰木おうぎあきらえてつ 9かいうら逆転ぎゃくてん人生じんせい学研がっけん、1990ねん、p51
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  6. ^ 仰木おうぎ(1990)p59
  7. ^ 仰木おうぎ(1990)p59-p60
  8. ^ 2003ねん7がつ27にち城島じょうしま健司けんじ福岡ふくおかダイエーホークス)が6安打あんだ記録きろくしている。
  9. ^ 近鉄きんてつ加藤かとう哲郎てつろうかした「巨人きょじんはロッテよりよわい」発言はつげん真相しんそう. 文春ぶんしゅんオンライン. (2020ねん11月25にち). https://bunshun.jp/articles/-/41791?page=1 2020ねん12月1にち閲覧えつらん 
  10. ^ 仰木おうぎ、p77
  11. ^ 仰木おうぎ(1990)p78
  12. ^ 仰木おうぎ(1990)p82
  13. ^ 仰木おうぎ(1990)p84
  14. ^ 大阪おおさか日刊にっかんスポーツ編著へんちょ感涙かんるい!ナニワ野球やきゅう伝説でんせつ朝日新聞あさひしんぶん出版しゅっぱん、2011ねん、P42
  15. ^ 逆転ぎゃくてん野球やきゅう人生じんせい戦力せんりょくがい通告つうこくからバッティングセンター勤務きんむて、2おくえんプレーヤーにのぼめた山本やまもと和範かずのり逆転ぎゃくてん野球やきゅう人生じんせい週刊しゅうかんベースボール
  16. ^ 【セ・パ誕生たんじょう70ねん記念きねん特別とくべつ企画きかく】よみがえる1980年代ねんだいのプロ野球やきゅう Part.5 [1989ねんへん] (週刊しゅうかんベースボール別冊べっさつ若葉わかばごう)、スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ、2020ねん、P22
  17. ^ 金曜きんようメガTVわくしゅく15周年しゅうねんプロ野球やきゅうちんプレー・こうプレー大賞たいしょう一挙いっきょ公開こうかい!~永久えいきゅう保存ほぞんばんスペシャル~』(1996ねん10がつ11にち放送ほうそうない映像えいぞうより
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  19. ^ 仰木おうぎあきら「90年代ねんだい代表だいひょうする名将めいしょう阪神はんしん監督かんとく就任しゅうにん実現じつげんしなかった意外いがい理由りゆう」【プロ野球やきゅう世紀せいきまつブルース】 - エキサイトニュース(3/4)”. エキサイトニュース (2017ねん9がつ15にち). 2023ねん2がつ4にち閲覧えつらん
  20. ^ 平成へいせい名将めいしょう仰木おうぎあきらかえる3 オリックス・バファローズへんいのちけた“最後さいご仰木おうぎマジック” | 野球やきゅうコラム”. 週刊しゅうかんベースボールONLINE. 2023ねん2がつ4にち閲覧えつらん
  21. ^ おそるべき闘志とうし!オリックス・仰木おうぎあきら監督かんとく、70さい退場たいじょう【2005ねん7がつ16にち】 | 野球やきゅうコラム”. 週刊しゅうかんベースボールONLINE. 2023ねん2がつ4にち閲覧えつらん
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