仰木 彬
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1935 | |
2005 | |
170 cm 67 kg | |
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ポジション |
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プロ |
1954 |
1954 | |
1967 | |
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2004 | |
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この
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経歴
[プロ入 り前
[1952
現役 時代
[1
1959
しかし1963
1967
近鉄 コーチ・監督 時代
[1970
1987
1989
1990
その
オリックス・ブルーウェーブ監督 時代
[1993
1994
1995
その
ユニフォームのデザインが
オリックス・バファローズ監督 時代
[オリックス
2004
2004
グラウンドでは
オリックス・バファローズ監督 勇退 、そして逝去
[没後
[また
人物 ・エピソード
[性格
[この |
東筑 高校 時代 は、筑豊本線 の中間 駅 から折尾 駅 までを通学 に利用 していたが、筑豊本線 を利用 していたのは年間 の半分 くらいに過 ぎず、あとの半分 は友人 にカバンを学校 まで運 ばせ、自分 は学校 まで線路 沿 いの4キロメートルほどの道 を走 って通学 していたという[26]。- 1958
年 オフにセントルイス・カージナルスが来日 した際 、全日本 チームのメンバーとして出場 した豊田 泰光 が、当時 カージナルスの二塁手 であるドン・ブレイザーからグラブを貰 った。豊田 が福岡 に帰 ってチームメイトにグラブを見 せびらかし、仰木 もしばらく手 にとって眺 めていたが、豊田 が「もういいだろう。返 せ」とグラブを奪 うと、グラブには墨 で「5番 仰木 」と書 かれていた。そして「トヨさん、こりゃ二塁手 のグローブばい!」と仰木 に言 われた豊田 は、泣 く泣 くそのグラブを仰木 に譲 ったという。 現役 時代 からかなりの遊 び人 で、選手 時代 は「グラウンドの外 ではいくらでもムチャやってくれたらいい」と選手 に言 っていた三原 監督 からも「仰木 と豊田 だけは遊 びに制限 をかけんといかん」とこぼされるほどだった。西鉄 の島原 キャンプの休日 に船 で天草 まで遊 びに行 ったものの、海 が荒 れてその日 のうちに帰 れず、翌日 の昼過 ぎにコッソリと帰 ってきたら、三原 監督 からバントの練習 だけをするように命令 されたという。清原 和博 も、「朝飯 のお茶 代 わりにビールを飲 むような人 」と自身 の著書 で述 べている。退場 処分 を受 けることもそれなりに多 く、7回 を記録 している[27]。- 「
信 汗 不乱 」が座右 の銘 といわれる[28]。
監督 として
[選手 との関係
[野茂 英雄 をはじめ、長谷川 滋 利 やイチロー、田口 壮 など多 くの日本人 メジャーリーガーを輩出 した。そして、全員 が「師匠 」「尊敬 する人 」と公言 しており、彼 らに多大 な影響 を与 えている。中村 紀洋 もメジャーリーグに行 っていたが「仰木 監督 が必要 としてくれると言 っていたから日本 に戻 ってきた」と発言 しており、敬意 を表 している[29]。- イチローはメジャー
移籍 後 、キャンプ中 の仰木 に会 うためだけにわざわざ宮古島 まで出向 いたほどで、その尊敬 ぶりは崇拝 に近 いものであり、記者 の質問 に「僕 の唯 一 人 の師匠 ですから」とまで答 えている。仰木 のオリックス監督 就任 直後 、登録 名 を「イチロー」と改名 するという仰木 の提案 に、「今 はいいですが、この先 、子供 ができて父親 がイチローではおかしいでしょう」と譲 らなかったイチローに対 し、仰木 が佐藤 和弘 を呼 び寄 せ、「おまえは来年 から登録 名 を佐藤 から別 のものにしよう。おまえの頭 はパンチパーマだからパンチでいこう」と指示 して佐藤 は快諾 し、「先輩 の佐藤 が変 えるんだから、おまえも来年 からイチローで登録 だ」と強引 に納得 させたエピソードがある[30]。 近鉄 時代 は確執 があると噂 された吉井 だが、近年 は「あの時代 は自分 が若 かったせいで、仰木 さんの考 えが分 かっていなかっただけ。仰木 さんに要 らないと言 われた時 が、自分 の引退 の時 」、「仰木 さんは、声 かけが上手 。当時 は“なんだ、あのオヤジ”と思 っていたけど、あとで、意図 が分 かるんですよ。若 い頃 は、性格 的 にちょっと怒 っているぐらいの方 が、パフォーマンスが上 がっていた。それを分 かっていた。オリックスでも仰木 さんと一緒 にやった。最後 に“あの時 はなー”と全部 タネ明 かししてくれた」[31]と語 っていた。- 1995
年 のインタビューにて、野茂 とイチローの共通 点 を問 われた際 、「頑固 さ」をあげている。 - 2005
年 に仰木 がオリックスの監督 として復帰 した時 に、イチローが自 らの背番号 51番 を「監督 につけてほしい」と勧 めたが、「そんな番号 は恐 れ多 くて絶対 つけられへん」と断 った(イチローが生 まれる前 の話 だが、仰木 自身 は1970年 に近鉄 の守備 走塁 コーチに就任 した際 に51番 をつけたことがある)。 清原 和博 は、自分 の最後 のチームになったオリックスに誘 ってくれた仰木 のことを深 く感謝 しており、自分 の引退 試合 セレモニーで「天国 にいる仰木 さん、自分 に最後 の活躍 の場 を与 えてくれてありがとう!」と感謝 を述 べた。- イチローが
大 リーグで3,000本 安打 を達成 した際 のインタビューで「思 い出 したのが、きっかけを作 ってくれた仰木 監督 」「神戸 で2000年 の秋 、お酒 の力 を使 って大 リーグ移籍 を口説 いた。仰木 さんの決断 がなければ、何 も始 まらなかった」と感謝 の言葉 を述 べている[32]。
采配 ・指導
[本人 の遊 び人 性格 もあって、監督 時代 も選手 がグラウンドの外 で何 をしようが、試合 で結果 を出 せば何 も言 わなかったが、練習 そのものはかなり厳 しかったことで知 られる。ただし、1989年 にコンディショニングコーチに就任 した立花 龍司 は、まだ日本 では普及 していなかった量 より質 を重視 した最新 のトレーニング理論 を導入 しようとしていたが、他 のコーチが反発 する中 で理解 を示 し、その年 リーグ優勝 を達成 したことで、立花 を高 く評価 した。- 1989
年 、マジックナンバー1で迎 えた10月14日 の福岡 ダイエーホークス戦 (藤井寺 球場 )で、仰木 は、リリーフの吉井 ではなく、その試合 でリリーフした阿 波野 秀幸 が最後 まで投 げ胴上 げ投手 になった。投手 コーチの権藤 博 は「仰木 さんは阿波 野 好 きだったんですよ。私 は吉井 が1年間 抑 えをやったのだから最後 は吉井 でと言 って、仰木 さんは「わかった」って言 いながら代 えたんです。吉井 も怒 って、胴上 げ引 き上 げちゃった。私 が「みんなビールかけやってるんだから、みんなのところへと言 ったら、吉井 は「はい」と言 ってました[33]。 光山 英和 は「阿波 野 や野茂 などの一流 の選手 には何 も言 わなかった。そうでない選手 にはむちゃくちゃ厳 しかった」と語 っている。その光山 は、1991年 9月26日 の福岡 ダイエー戦 でベンチに捕手 登録 の選手 が残 っていないにもかかわらず、8回 裏 1点 ビハインドの場面 で1アウト満塁 のチャンスだったため、代打 に中根 仁 を出 されたことがある。その試合 ではその後 、その日 三塁 を守 っていた金村 義明 を捕手 で起用 した[34]。現役 時代 、光山 は仰木 が嫌 いだったとしているが、指導 者 になった現在 は「仰木 さんならどうするか」と考 えることがあるという[35]。- ブライアントは「
僕 が苦 しんでいるのを見 て、呼 び出 された。とにかくリラックスしてやってくれ。お前 はホームランバッターなんだから、いくら三振 しようと構 わない。勝 つために得点 が必要 なんだと言 ってくれた。そのおかげもあり、良 い成績 を残 せたんじゃないかな」[36]と述 べている。 - オリックス
監督 時代 の試合 、相手 チームに大量 リードを許 している試合 の終盤 で、守備 要員 としてベンチに入 ることが多 かった野手 に「おい、次 の回 守 るぞ」と守備 固 めに入 るよう伝 えたところ、「えっ」という驚 きの反応 を見 せられたことから(一般 的 に守備 固 めによる野手 交代 は自軍 がリードしている場面 で行 われることが多 く、大量 ビハインドの場面 でのこうした交代 は非常 に珍 しい)、不機嫌 そうに「もういい」と言 い、翌日 その野手 に2軍 降格 を命 じた。その選手 はその年 限 りで自由 契約 となった[37]。 岡田 彰布 は選手 ・コーチとして9人 の監督 の下 プレー、指導 したが一番 影響 受 けている監督 に仰木 を挙 げている。「阪神 しか知 らなかったオレはオリックスに移 り、エッと驚 くことの連続 だった。例 えば先発 メンバー、仰木 さん固定 しないのよ。毎 試合 メンバーが違 う。そう、日替 わりメンバーでそれが当 たり前 のようだった。こんな野球 初 めての経験 した。でも、これは直感 で行 っているものではなく仰木 さんがデータを調 べて分析 して、答 えを導 き出 しわけよ。そこには根拠 がありそれが正解 であったということを結果 を示 した。それがオレには衝撃 であり、野球 に対 する考 え方 を変 えてくれた恩人 だった。」[38]と述 べている。- オリックス
監督 時代 の1996年 のオールスターゲームで監督 を務 めた際 に、当時 オリックスのイチローを投手 として登板 させ、話題 となった。打者 は巨人 の松井 秀喜 だったが、セ・リーグ監督 の野村 克也 は野手 であるイチローのパフォーマンス的 な登板 に抗議 する意味 で、代打 にヤクルト投手 の高津 臣 吾 を送 った(結果 は内野 ゴロ)[注釈 1]。なお、その前年 に仰木 率 いるオリックスは、西武 戦 で東尾 修 監督 がピッチャーとして登板 させたオレステス・デストラーデと対戦 している(デストラーデは1死 も取 れずに降板 )。 采配 の特徴 として「投手 の起用 、投手 の交代 を小刻 みにおこなう」ことが非常 に多 い点 が挙 げられ、勝利 のためには無茶 な投手 起用 を厭 わない場面 もしばしば見 られた。ワンポイントリリーフは勿論 、1人 の打者 に対 して打席 が完了 する前 に継投 したこともしばしばあったため、近鉄 監督 時代 には権藤 博 投手 コーチ[39]や吉井 理 人 と、オリックス監督 時代 には山田 久志 投手 コーチと対立 することがあった。権藤 は著書 の中 で「仰木 さんに呼 ばれてバファローズに入 ったのだが、キャンプの段階 からこの人 話 を聞 かない人 だな」「仰木 さんとの衝突 を挙 げれば本当 にキリがない」「仰木 さんは私 にとって最高 の反面 教師 。べからず集 を一番 提供 してくれた」[40]と書 き、「仰木 さんは策士 でしたね。あれやれ、これやれとと指示 が多 く、選手 が嫌 がってました。「また始 まったよ」と。ただ、その作戦 が当 たるんでしょ。勝負 師 の勘 というのか。仰木 さんは西鉄 で三原 脩 さんの野球 を学 んでいますから。投手 起用 に関 しても、三原 さんが稲尾 さんを使 ったみたいにエースを使 いたいんですよ。でも私 の仕事 は投手 を守 るのが仕事 で当時 のエース阿波 野 なんかを酷使 させるわけにはいかない。そこで意見 が合 わないことありました。残 っていたら大変 でしたよ。向 こうは監督 でこちらはコーチ。最後 の権限 は監督 にある。それを分 かった上 でギリギリのところでやっていたわけです。続 けていたら我慢 の限界 超 えていたでしょうね」[33]と述 べる一方 で、「勝 つことに対 してとても貪欲 で、なおかつ自分 の直感 を何 よりも信 じている人 だった。彼 が名 指導 者 として人々 の記憶 に残 っているのは、そんな彼 の資質 に由来 しているような気 がする」と記 している[41]。山田 は「発想 と発信 力 がありました。近鉄 では『10・19』で騒 がれたけど、監督 としてそこそこやるなという感 じでした。オリックスでは温 めていたものをすべてぶつけたように思 います」、「(多 くの)ピッチャーを、まとめて使 ってもらうということをするのが難 しい監督 だった。出来上 がった投手 でないと使 ってもらえないという印象 が強 かったね」、「どの監督 にもいえるが、ペナントをとりにいくチームは投手 を酷使 しがちです。その試合 に勝 ちたいから少々 無理 をしてでも勝 ちにいく。『ちょっと勘弁 してほしい』という投手 コーチとは摩擦 が生 じがちで、仰木 さんもそうでした」と述 べ、1995年 に仰木 との間柄 はギクシャクし出 し[42]、1996年 に退団 した。野田 浩司 は1997年 になると仰木 の継投 が早 くなって、野田 も何 度 も同点 で代 えられるようになった。ある日 の東京 ドームの試合 後 の宿舎 、野田 はたまらず仰木 の部屋 に行 き、「何 であんなところで代 えるんですか」と。その時 にFA権 を持 っていたし「こんなんだったら、もう投 げられませんよ」とまで言 った。すると仰木 は「俺 には俺 の選手 起用 がある。それがなかったら95、96年 と優勝 できていない。監督 というのは自分 の中 の自信 でやっているんや。お前 らのおかげで優勝 はできたけど、そこには俺 の采配 がある。お前 の気持 ちはくむけど、そこは目 をつむってやれ。それしかない」と。納得 できたというか、させられました、「起用 法 で不満 を言 ったこともあるけど、仰木 さんほど器 の大 きい人 はいなかった」[43]と述 べている。川越 英隆 が影響 を受 けた指導 者 に真 っ先 に挙 げたのが仰木 で「プロ入 り(1999年 )した時 の監督 が、仰木 監督 でよかったと思 います。人 を観察 する能力 、人 を動 かす能力 に長 けていました。2005年 に仰木 監督 が再 就任 した時 にも、その手腕 の高 さを再 認識 しました」[44]と述 べている。攻撃 面 では、スタメンを固定 することが少 なく、日替 わりで毎日 打順 が変 わり、オリックス時代 は「猫 の目打 線 」と呼 ばれていた。しかしこれは緻密 なデータによるものであり、イチロー以外 にシーズンを通 して打 てる選手 がほとんどいなかった事 、相手 投手 と自 チームの打者 との相性 を考 えていた事 、さらに1994年 からパ・リーグで予告 先発 が導入 された事 、これらによって行 われていた物 で[45]、結果 的 に成功 をおさめ、仰木 マジックの面目 躍如 とされることになった。また、メンバー起用 の幅 を広 げるために選手 に複数 ポジションを守 ることを求 め、内野 手 が複数 ポジションを兼任 したり、外野 守備 に定評 のあった谷 佳 知 、本 西 厚 博 、田口 壮 を内野 で起用 することもあった。- 「
打倒 西武 」を唱 え続 けていた。当時 の西武 ライオンズは黄金 期 にあり、1982-98年 の17シーズンでパ・リーグ優勝 13回 と他 チームを圧倒 していたが、残 る4シーズンのうち1984年 を除 く3シーズンでは仰木 が監督 をしたチームが優勝 している。 - パンチ
佐藤 に芸能 界 転向 を薦 めたのも仰木 である。仰木 は既 に佐藤 が芸能 界 に向 いていると見抜 いており「お前 は野球 をやっても大成 出来 ないが、芸能人 なら大成 できるから野球 をやめろ」とストレートに戦力 外 通告 したが、言 われた佐藤 は怒 るどころか「ハイ、辞 めます」と二 つ返事 で答 えて引退 を決意 した。佐藤 もまた仰木 を非常 に尊敬 しており、仰木 の意見 を無条件 で受 け入 れた。 自動車 を運転 しないため、球場 へのアクセスは電車 やタクシーを利用 していた。近鉄 時代 には、新大阪 駅 近 くの自宅 マンションから大阪 市営 地下鉄 (当時 )御堂筋線 と近鉄 南大阪線 を乗 り継 いで藤井寺 駅 まで通 っており、電車 内 でファンに声 を掛 けられることも多 かった。近鉄 監督 最終 年 となる1992年 には、親会社 である近畿日本鉄道 のダイヤ変更 告知 や、近鉄 特急 「アーバンライナー」のイメージキャラクターに起用 された。- 2001
年 10月5日 、既 にオリックス監督 退任 を発表 しており、最終 戦 となる近鉄 戦 (グリ ーンスタジアム神戸 )では、試合 後 のオリックスの選手 による胴上 げに次 いで、対戦 相手 である近鉄 の選手 たちからも胴上 げをされた。 - 2005
年 6月4日 の広島 戦 で、投手 交代 の是非 をめぐって、44分間 審判 に抗議 を行 い、遅延 行為 により退場 処分 を受 けた。仰木 は「審判 にはコースについて少 し抗議 したというものであって投手 交代 ではない。審判 が聞 き違 えた」と主張 したが、認 められなかった。この試合 の球審 だった土山 剛弘 は「確 かに『投手 交代 、菊地 原 』と聞 き、仰木 監督 が復唱 した」と主張 し、両者 のい分 は真 っ向 から対立 した[46]。この2人 のやりとりの口 の動 きを毎日放送 のニュース番組 「VOICE」が詳細 に分析 し、仰木 が土山 に、投球 の判定 について「コース、低 いかな?」と尋 ねたところ、土山 球審 が「投手 、菊地 原 」と聞 き違 え、そこから「言 ってもいない投手 交代 がコールされたとみられる」と報 じた。ビデオには、仰木 が身振 りを交 えてコースについて尋 ねている様子 が映 っていた。 - 2005
年 7月 16日 のロッテ戦 で、ランドール・サイモンのショートゴロの間 に谷 佳 知 が本塁 に突 っ込 み、アウトを宣告 されたことに激昂 した谷 が球審 の胸 を突 き飛 ばしたが、仰木 もベンチから飛 び出 し、猛 抗議 で審判 に暴言 を吐 いたとして、2005年 シーズン2度目 の退場 処分 を受 けた。仰木 にとってはこれが最後 の退場 となったが、70歳 3ヶ月 での退場 処分 は日本 プロ野球 最 高齢 記録 である。 清川 栄治 がオリックスの投手 コーチに就任 した際 、仰木 がオリックス・バファローズ初代 監督 時 の背番号 「70」を背負 っている。清川 は背番号 「70」を選 んだ理由 として「同 じ背番号 を背負 い、指導 者 として一 歩 でも仰木 さんに近 づきたい」と語 っている。清川 は仰木 の下 で1991年 - 1992年 の2年間 プレーした[47]。- オリックスの
宮内 義彦 オーナーは「仰木 さんは、若 い選手 を使 うのが非常 にうまく、プロ野球 史上 に残 る名 監督 だったと思 います。もちろん野球 をよく知 っているだけでなく、若 い選手 をその気 にさせ、競 わせる。人柄 も好 きでした。あっさりしていながら、礼儀 正 しい。情 というのが分 かる人 でした。選手 のプレーだけでなく、精神 状態 がよく分 かって、人 に対 して非常 に優 しい人間 でした。いろんな落 ち込 んでいる選手 、調子 に乗 っている選手 を一人 ひとり呼 んで話 していたらしいのです。選手 にも仰木 時代 を懐 かしむ人 は多 いですね。オリックスの監督 がたくさんいた中 で、私 はやっぱり一番 センチメント(感傷 )を感 じるのは仰木 監督 です」[48]と述 べている。 選手 のフォームを尊重 して、そのまま才能 を伸 ばす育成 法 で知 られる[49]。
詳細 情報
[年度 別 打撃 成績
[犠 |
犠 |
併 |
O P S | |||||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1954 | 101 | 280 | 250 | 27 | 54 | 11 | 6 | 5 | 92 | 26 | 15 | 5 | 6 | 0 | 22 | -- | 2 | 51 | 6 | .216 | .285 | .368 | .653 | |
1955 | 126 | 406 | 370 | 48 | 87 | 15 | 1 | 15 | 149 | 39 | 22 | 7 | 8 | 2 | 22 | 0 | 4 | 70 | 5 | .235 | .285 | .403 | .688 | |
1956 | 124 | 438 | 388 | 52 | 94 | 19 | 1 | 10 | 145 | 33 | 23 | 10 | 17 | 1 | 30 | 0 | 2 | 75 | 3 | .242 | .300 | .374 | .674 | |
1957 | 96 | 246 | 211 | 28 | 54 | 6 | 2 | 6 | 82 | 23 | 4 | 4 | 5 | 1 | 26 | 0 | 3 | 49 | 4 | .256 | .346 | .389 | .734 | |
1958 | 115 | 331 | 296 | 38 | 59 | 10 | 0 | 2 | 75 | 27 | 10 | 3 | 10 | 0 | 22 | 0 | 3 | 65 | 4 | .199 | .262 | .253 | .515 | |
1959 | 128 | 316 | 281 | 38 | 62 | 11 | 2 | 7 | 98 | 31 | 8 | 6 | 14 | 2 | 16 | 0 | 3 | 52 | 8 | .221 | .270 | .349 | .619 | |
1960 | 114 | 426 | 374 | 46 | 100 | 19 | 3 | 4 | 137 | 30 | 8 | 8 | 15 | 0 | 33 | 1 | 4 | 57 | 4 | .267 | .333 | .366 | .700 | |
1961 | 123 | 453 | 408 | 45 | 99 | 19 | 1 | 9 | 147 | 52 | 11 | 7 | 5 | 3 | 33 | 3 | 4 | 69 | 13 | .243 | .306 | .360 | .666 | |
1962 | 111 | 406 | 357 | 48 | 76 | 13 | 5 | 5 | 114 | 21 | 5 | 10 | 18 | 1 | 25 | 1 | 5 | 75 | 7 | .213 | .274 | .319 | .593 | |
1963 | 83 | 245 | 193 | 16 | 37 | 8 | 0 | 1 | 48 | 17 | 5 | 5 | 20 | 2 | 29 | 1 | 1 | 39 | 5 | .192 | .300 | .249 | .549 | |
1964 | 105 | 275 | 234 | 23 | 55 | 11 | 1 | 5 | 83 | 23 | 3 | 3 | 12 | 2 | 23 | 2 | 4 | 40 | 1 | .235 | .314 | .355 | .669 | |
1965 | 62 | 116 | 105 | 17 | 16 | 1 | 0 | 0 | 17 | 2 | 1 | 1 | 3 | 0 | 8 | 0 | 0 | 21 | 2 | .152 | .212 | .162 | .374 | |
1966 | 36 | 30 | 28 | 2 | 6 | 0 | 0 | 1 | 9 | 2 | 1 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 7 | 0 | .214 | .241 | .321 | .563 | |
1967 | 4 | 6 | 6 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .167 | .167 | .167 | .333 | |
1328 | 3974 | 3501 | 428 | 800 | 143 | 22 | 70 | 1197 | 326 | 116 | 69 | 134 | 14 | 290 | 8 | 35 | 670 | 62 | .229 | .294 | .342 | .636 |
各 年度 の太字 はリーグ最高
年度 別 監督 成績
[引 |
ゲ | ム |
|||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1988 | 2 |
130 | 74 | 52 | 4 | .587 | 0 | 154 | .253 | 3.23 | 53 | |
1989 | 1 |
130 | 71 | 54 | 5 | .568 | ― | 157 | .261 | 3.86 | 54 | |
1990 | 3 |
130 | 67 | 60 | 3 | .528 | 14.5 | 181 | .275 | 4.34 | 55 | |
1991 | 2 |
130 | 77 | 48 | 5 | .616 | 4.5 | 157 | .265 | 3.46 | 56 | |
1992 | 2 |
130 | 74 | 50 | 6 | .597 | 4.5 | 155 | .247 | 3.69 | 57 | |
1994 | オリックス | 2 |
130 | 68 | 59 | 3 | .535 | 7.5 | 92 | .285 | 3.93 | 59 |
1995 | 1 |
130 | 82 | 47 | 1 | .636 | ― | 115 | .259 | 2.88 | 60 | |
1996 | 1 |
130 | 74 | 50 | 6 | .597 | ― | 124 | .271 | 3.55 | 61 | |
1997 | 2 |
135 | 71 | 61 | 3 | .538 | 5 | 111 | .263 | 3.61 | 62 | |
1998 | 3 |
135 | 66 | 66 | 3 | .500 | 4.5 | 140 | .264 | 4.03 | 63 | |
1999 | 3 |
135 | 68 | 65 | 2 | .511 | 10.5 | 112 | .263 | 3.64 | 64 | |
2000 | 4 |
135 | 64 | 67 | 4 | .489 | 8 | 116 | .260 | 4.64 | 65 | |
2001 | 4 |
140 | 70 | 66 | 4 | .515 | 7 | 143 | .263 | 4.11 | 66 | |
2005 | 4 |
136 | 62 | 70 | 4 | .470 | 26 | 97 | .260 | 3.84 | 70 | |
1856 | 988 | 815 | 53 | .548 | Aクラス11 |
表彰
[記録
[初 記録
初 出場 :1954年 3月 27日 、対 東映 フライヤーズ1回戦 (平和 台 球場 )、8回 表 に二塁手 で出場 初 先発 出場 :1954年 3月 31日 、対 高橋 ユニオンズ2回戦 (平和 台 球場 )、9番 ・二塁手 で先発 出場 初 安打 ・初 打点 :同上 、3回 裏 に滝 良彦 から適時 三塁打 初 本塁打 :1954年 5月 20日 、対 毎日 オリオンズ7回戦 (後楽園 球場 )、8回 表 に荒巻 淳 から2ラン
節目 の記録
- 1000
試合 出場 :1962年 8月 12日 、対 東映 フライヤーズ20回戦 (平和 台 球場 )、2番 ・二塁手 で先発 出場 ※史上 75人 目
- その
他 の記録
背番号
[- 42(1954
年 - 1954年 途中 ) - 5(1954
年 途中 - 1967年 ) - 30(1968
年 - 1969年 ) - 51(1970
年 ) - 71(1971
年 - 1992年 ) - 72(1994
年 - 2001年 ) - 70(2005
年 )
関連 情報
[著書
[- 『
燃 えて勝 つ:9回 裏 の逆転 人生 』(学習研究社 、1990年 3月 、ISBN 405104582X) - 『
勝 つということ:対談 ・熱球 交友 録 』(鐘 ヶ江 管 一 [注釈 2]共著 、集英社 、1997年 3月 、ISBN 4087811441) - 『
勝 てるには理由 がある。』(集英社 、1997年 4月 、ISBN 4087802434) - 『
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関連 書籍
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仰木 彬 「人材 育成 の黄金 律 」:出 てくる芽 を摘 むな!』(太田 真一 著 、プレジデント社 、1995年 12月、ISBN 483341600X) - 『
仰木 彬 ニューエイジの管理 学 』(仰木 番 記者 グループ編著 、飯倉 書房 、1996年 5月 、ISBN 484220298X) - 『
仰木 彬 「夢 実現 」の方程式 :野茂 、イチローらを育 てた男 の実像 』(永谷 脩 著 、イースト・プレス、2006年 4月 、ISBN 4872576578) - 『
仰木 彬 パ・リーグ魂 :命 をかけてプロ野球 を救 った男 』(金村 義明 著 、世界文化社 、2006年 12月、ISBN 4418065369)
解説 者 としての出演 番組
[- ABCフレッシュアップベースボール -
出演 していたABCラジオのプロ野球 中継 の現行 タイトル。 - スーパーベースボール -
出演 していたABCテレビのプロ野球 中継 現行 統一 タイトル。 - KBCホークスナイター-
出演 していたKBCテレビのプロ野球 中継 現行 統一 タイトル。
CM
[映画 出演
[参考 テレビ番組
[脚注
[注釈
[- ^
野村 も1999年 プレシーズン、新庄 剛志 の投手 起用 を模索 した - ^
鐘 ヶ江 は1991年 、雲仙 普賢岳 火砕流 発生 時 の長崎 県 島原 市 長 。島原 キャンプで西鉄 が宿舎 としていた旅館 「国光 屋 」の主人 であったことから、仰木 をはじめとする当時 の西鉄 ナインと親交 がある。
出典
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関連 項目
[外部 リンク
[個人 年度 別 成績 仰木 彬 - NPB.jp日本 野球 機構