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マヤ片岡かたおか

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マヤ かたおか

マヤ片岡かたおか
生誕せいたん 米沢よねざわ 信子のぶこ
(1909-03-08) 1909ねん3月8にち
愛知あいちけん名古屋なごや
死没しぼつ (2003-01-15) 2003ねん1がつ15にち(93さいぼつ
死因しいん のう梗塞こうそく
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
別名べつめい 片岡かたおか 信子のぶこ本名ほんみょう
出身しゅっしんこう 文化ぶんか学院がくいん文学部ぶんがくぶ専攻せんこう
職業しょくぎょう 美容びよう[2]美容びよう[3]
活動かつどう期間きかん 1934ねん - 1999ねん
時代じだい 昭和しょうわ - 平成へいせい
団体だんたい 火曜かようかい
著名ちょめい実績じっせき パーマネントウエーブ流行りゅうこう牽引けんいん美容びよう情報じょうほう発信はっしんなどによる美容びようかい発展はってんへの貢献こうけん
影響えいきょうけたもの 山野やまの千枝子ちえこ、ロシー上田うえだ
活動かつどう拠点きょてん 東京とうきょう
配偶はいぐうしゃ 片岡かたおか守弘もりひろ
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マヤ片岡かたおか(マヤ かたおか、1909ねん明治めいじ42ねん3月8にち[4] - 2003ねん平成へいせい15ねん1がつ15にち[7])は、日本にっぽん美容びよう[2]美容びよう[3]本名ほんみょう片岡かたおか信子のぶこ[4]愛知あいちけん名古屋なごや出身しゅっしん

昭和しょうわ初期しょきパーマネントウエーブ流行りゅうこう牽引けんいんした人物じんぶつ1人ひとりであり[8]日本にっぽん国内外こくないがいでの美容びよう情報じょうほう発信はっしんにより、美容びようかい発展はってん貢献こうけんした[2]昭和しょうわ美容びようかい代表だいひょうする人物じんぶつ1人ひとりとされ[2]、「パーマかい草分くさわけ」ともばれる[5]

経歴けいれき[編集へんしゅう]

誕生たんじょう - 美容びようみち[編集へんしゅう]

愛知あいちけん名古屋なごやで、旧家きゅうか米沢よねざわまれた。1930ねん昭和しょうわ5ねんはる、21さい上京じょうきょうし、文化ぶんか学院がくいん文学部ぶんがくぶ専攻せんこう卒業そつぎょうし、婦人画報社ふじんがほうしゃ記者きしゃとしてつとめた[4]

横浜よこはまこう停泊ていはくしていたアメリカ客船きゃくせんプレジデント・ウィルソン美容びようしつ取材しゅざいしたさいに、電気でんきパーマをにして、「あらってもウェーブがちない」として興味きょうみった[4]。マヤが美容びようこころざすと、母親ははおやおどろき、学校がっこうでのむすめ恩師おんしである河崎かわさきなつのもとを相談そうだんおとずれると、なつはヨーロッパの美容びよう社会しゃかいてき地位ちいなどをいにし、美容びようけっしていやしい職業しょくぎょうではないことをいて、はは納得なっとくさせた[9]

ふね取材しゅざいの2ねん山野やまの千枝子ちえこ美容びよう研究所けんきゅうじょ入所にゅうしょした。卒業そつぎょう銀座ぎんざ尾張おわりまち美容びようであるロシー上田うえだ師事しじした[4]1934ねん昭和しょうわ9ねん)に25さい独立どくりつし、新宿しんじゅく三光さんこうまちに「マヤ片岡かたおか美容びようしつ」を開業かいぎょうした。「マヤ片岡かたおか」のは、母校ぼこうである文化ぶんか学院がくいん文学部ぶんがくぶ部長ぶちょうつとめた作家さっか菊池きくちひろしが、フランシスコ・デ・ゴヤえがいたマヤのマヤ文明ぶんめいにちなみ、当時とうじの「メイ牛山うしやま」「アーデン山中さんちゅう」など、カタカナの名乗なのった著名ちょめい美容びようたちにならってけたである[4]片岡かたおかせい結婚けっこんせいであり、このときすでに、日本にっぽんヘアデザイン協会きょうかい代表だいひょう理事りじである片岡かたおか守弘もりひろ学生がくせい結婚けっこんしていた[4]

渡米とべい[編集へんしゅう]

開店かいてん当初とうしょは、繁華はんかがいである新宿しんじゅくというこう立地りっちにもかかわらず、パーマ目当めあてのきゃくはまだすくなかった。マヤはおっとすすめで、日本にっぽん国外こくがいでの勉強べんきょう決心けっしんした[4]1935ねん昭和しょうわ10ねん)、マヤはちちから「結婚けっこん費用ひようかわり」の名目めいもく資金しきん調達ちょうたつしてアメリカへわたり、ロサンゼルス美容びよう学校がっこう入学にゅうがくした。よく1936ねんにはニューヨーク美容びよう学校がっこうで、さらに高度こうど美容びよう技術ぎじゅつまなんだ[10]

1936ねん昭和しょうわ11ねん)に帰国きこく新宿しんじゅくてん再開さいかいし、日系にっけい2せい片腕かたうでえ、じゅうすうにんのスタッフ、すべて輸入ゆにゅうひん機器きき薬剤やくざいそろえた。なかでも特徴とくちょうは、ニューヨークから直輸入ちょくゆにゅうしたさい新鋭しんえい電気でんきパーマであった。これは日本にっぽん全国ぜんこくてきても導入どうにゅうてんはまだすうてんで、しかもパーマ料金りょうきん当時とうじ有名ゆうめいホテルの宿泊しゅくはくりょうの10ばい以上いじょうという高価こうかなものであった。そのてん、マヤのみせ機械きかい安価あんか仕入しいれたうえに、設備せつびのコスト削減さくげんつとめたすえ大衆たいしゅうてき料金りょうきん実現じつげんした[* 1]。マヤはさらに、留学りゅうがく時代じだい人脈じんみゃくをいかし、新聞しんぶん雑誌ざっし頻繁ひんぱん広告こうこくせた。朝日新聞あさひしんぶんには連日れんじつのように「パーマは帝都ていといちのマヤ片岡かたおか」の広告こうこくった[10]

この広告こうこく戦略せんりゃく的中てきちゅうし、みせには開店かいてん同時どうじにパーマ目当めあてのきゃくがなだれみ、「行列ぎょうれつのできる美容びようしつ」として評判ひょうばんになった。めをしたり、翌日よくじつ予約よやくけん発行はっこうせざるをないほどだった。きゃくなかには、当時とうじ人気にんき漫画まんが小野おの佐世男させお俳優はいゆう高勢たかせじょう姿すがたもあった[10]

戦中せんちゅう - 終戦しゅうせん[編集へんしゅう]

1937ねん昭和しょうわ12ねん)、にちちゅう戦争せんそう開戦かいせん女性じょせい髪形かみがた自粛じしゅく奨励しょうれいされ、廃業はいぎょうする電気でんきパーマてんはじめた。マヤは芝山しばやまみよか牛山うしやま喜久子きくこらと「火曜かようかい」を結成けっせいし、パーマの延命えんめい尽力じんりょくした。しかし太平洋戦争たいへいようせんそうには東京とうきょう空襲くうしゅう激化げきかし、やむを新宿しんじゅくてんめ、静岡しずおかけん熱海あたみ疎開そかいした[10]

終戦しゅうせん、マヤは東京とうきょうもどるとすぐ、GHQによりアメリカぐん婦人ふじん将校しょうこう美容びようめいぜられた。美容びよう技術ぎじゅつくわえ、アメリカ留学りゅうがくによる語学ごがくりょくわれたのである。神田かんだのヒルトップホテルに美容びようしつがもうけられ、マヤは毎日まいにちそこへ通勤つうきんした。連合れんごうぐん司令しれいかんダグラス・マッカーサー夫人ふじんジーン・マッカーサーへの応対おうたいには苦労くろうしたが、かえぎわにはかならず、当時とうじ日本にっぽん貴重きちょうひんであった高級こうきゅう石鹸せっけんおくられた[11]

翌年よくねんごろよりGHQの仕事しごとから解放かいほうされ、新宿しんじゅくてん再開さいかいした。戦前せんぜんみせのあった場所ばしょ戦争せんそう野原のはらとなっており、戦後せんご混乱こんらんじょうじて不法ふほう占拠せんきょする男性だんせいたちがいたが、マヤはマッカーサー夫人ふじんうったえて、これを一掃いっそうさせた。さらにこうじまち熱海あたみ名古屋なごやと、支店してん拡張かくちょうした[2]

1951ねん昭和しょうわ26ねん)には、欧米おうべい美容びよう事情じじょう探求たんきゅうたびから帰国きこくし、有楽町ゆうらくちょう記念きねんショーを開催かいさいした。女優じょゆうせき千恵子ちえこ明美あけみ京子きょうこらをモデルとし、欧米おうべいかみ発表はっぴょうした。読売新聞社よみうりしんぶんしゃ主催しゅさいということもあり、会場かいじょう美容びようであふれた。またパリ滞在たいざいちゅうには「フランス通信つうしん」として、現地げんち美容びよう傾向けいこう日本にっぽん新聞しんぶん雑誌ざっししゃながした[2]

日本にっぽん国内外こくないがい美容びよう情報じょうほう積極せっきょくてき提供ていきょうすることで、マヤの急速きゅうそくたかまった。美容びよう文化ぶんか発信はっしんしゃとしては、牛山うしやま喜久子きくことも代表だいひょうてき存在そんざいであった[2]日本にっぽん国外こくがいでは、ロサンゼルス支店してんもうけた[5]

晩年ばんねん[編集へんしゅう]

60さいだいに、それまで放置ほうちしていた卵巣らんそう腫瘍しゅよう手術しゅじゅつけ、生死せいしさかいをさまよった[12]術後じゅつご癒着ゆちゃくせい腸閉塞ちょうへいそくわずらった。またわかころから神経しんけいせい心臓しんぞうびょう発作ほっさがあり、つねにカンフル注射ちゅうしゃやくあるいていた。くわえて極端きょくたん便秘べんぴであったが、そうしたからだをものともせずに、としに2かい海外かいがい旅行りょこうていた[7][12]

1993ねん平成へいせい5ねん)12月、おっと守弘もりひろ事故死じこしした。長男ちょうなんによれば「はは晩年ばんねんはここからはじまった」「ちちからやく1ねん夢遊病むゆうびょうしゃのようだった」という。1998ねん平成へいせい10ねん)にはようやく元気げんきもどして、長男ちょうなん夫婦ふうふらととも石垣島いしがきじま旅行りょこうしたが、それが最期さいご遠出とおでとなった[7]

よく1999ねん平成へいせい11ねん)1がつに、自宅じたくのう梗塞こうそくたおれた。病床びょうしょうでは「こんなことしていられない」とつづけたが、4年間ねんかん闘病とうびょうすえに、2003ねん平成へいせい15ねん)1がつ15にちまん93さい死去しきょした[7]芝山しばやまみよかは、そのがおを「ご苦労くろうのあとはみじんもかんじられず」と追悼ついとうした[7]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

幼少ようしょうおとこばかり6にん兄弟きょうだいともそだち、女子じょしはマヤ1人ひとりだけであった。そのためおんならしいあそびをこのまず、チャンバラごっこが大好だいすきであった。そのためか、「何事なにごとにも120パーセント」を目指めざす、つよ勝気かちき性格せいかくであった。長男ちょうなん誕生たんじょうすると、おしえたあそびは将棋しょうぎ麻雀まーじゃん花札はなふだであった[4]

戦中せんちゅう苦楽くらくともにし、同年代どうねんだいであった芝山しばやまみよか、牛山うしやま喜久子きくことは、夫婦ふうふぐるみで親交しんこうふかめ、「業界ぎょうかいさんガラス」とばれた[13]とく芝山しばやまみよかは、親友しんゆうべる間柄あいだがらであった[2]。また牛山うしやま喜久子きくこが、「うつくしい彼岸ひがんまれゆくこと」と人生じんせい肯定こうていてきとらえていたのにたいし、マヤは日頃ひごろから死後しご世界せかい否定ひていして「だ」とかたっており、対照たいしょうてき死生しせいかんっていた[7][14]

美容びようかい随一ずいいち実力じつりょくしゃである山野やまの愛子あいこは、戦後せんご以来いらいのライバル関係かんけいといわれた。美容びよう学校がっこうなどで後進こうしん育成いくせいした山野やまのたいし、マヤは業界ぎょうかいらず、東京とうきょうから日本にっぽん各地かくちへの出店しゅってんで、営業えいぎょう一本いっぽん地位ちいきずいたてん対照たいしょうてきであった[6]

美容びようとしてだけでなく、事業じぎょう志向しこうしており、美容びよう以外いがい商売しょうばい模索もさくしていた時期じきもあった。株式かぶしき投資とうしにも熱心ねっしんであった。芝山しばやまみよかのべんによれば「とおりにいしていたら本当ほんとうもうかった」とう。その一方いっぽうで、1おくえん収入しゅうにゅうると、その収入しゅうにゅうべつ相場そうばまるごと投資とうしし、結果けっかとして全額ぜんがくうしなったという、豪快ごうかい逸話いつわもあった[2]

美容びようとしてしたのちは、いえでは毎朝まいあさ味噌汁みそしるをかけたたまごかけごめし朝食ちょうしょくませ、仕事しごとるという生活せいかつぶりだった。50さいだいこしいためるまではやすはたらき、電話でんわでは早口はやくちでまくしてた。あたま回転かいてんはやく、物事ものごとって前進ぜんしんする性格せいかくであり、ひとたいしては物事ものごとをはっきりとった。それだけにひときずつけることもあったが、当人とうにんは「つい本当ほんとうのことをっちゃう」と、にはめていなかった[7]先述せんじゅつ山野やまの愛子あいこ活動かつどうたいしても、やわらかい口調くちょうながらもきびしく批判ひはんすることがあった[6]。フリーの著述ちょじゅつである並木なみき孝信たかのぶは、マヤのこのような美容びようとしての人生じんせいを「疾走しっそうするくるまのよう」と表現ひょうげんしている[7]

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 当時とうじ日本にっぽんで、有名ゆうめいホテルの宿泊しゅくはくりょうが2えんから3えんであり、一般いっぱんてき一流いちりゅうてんのパーマ料金りょうきんは30えんから40えんのところを、マヤのみせのパーマは5えんから10えんであった[10]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 主婦しゅふともしゃ 1953, p. 126
  2. ^ a b c d e f g h i 並木なみき 2015, pp. 326–328
  3. ^ a b 主婦しゅふともしゃ 1953, 目次もくじ
  4. ^ a b c d e f g h i j 並木なみき 2015, pp. 320–322
  5. ^ a b c きん現代げんだい日本にっぽん女性じょせい人名じんめい事典じてん 2001, p. 322
  6. ^ a b c 週刊しゅうかんポスト 1970, pp. 33–34
  7. ^ a b c d e f g h 並木なみき 2015, pp. 328–329
  8. ^ 並木なみき 2015, p. 319.
  9. ^ はやしひかり母親ははおやがかわれば社会しゃかいがかわる 河崎かわさきなつでんくさ文化ぶんか、1974ねん6がつ15にち、68ぺーじNCID BN0202553X 
  10. ^ a b c d e 並木なみき 2015, pp. 322–325
  11. ^ 並木なみき 2015, pp. 325–326
  12. ^ a b 日外にちがいアソシエーツ 1981, p. 234
  13. ^ 並木なみき 2015, pp. 298–300
  14. ^ 並木なみき 2015, pp. 302–305

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • きん現代げんだい日本にっぽん女性じょせい人名じんめい事典じてん編集へんしゅう委員いいんかい へんきん現代げんだい日本にっぽん女性じょせい人名じんめい事典じてん』ドメス出版しゅっぱん、2001ねん3がつ30にちISBN 978-4-8107-0538-6 
  • 並木なみき孝信たかのぶ『BEAUTY LEGENDS' STORIES 近代きんだい美容びよう歴史れきしいろどった先人せんじんたち』女性じょせいモードしゃ、2015ねん6がつ25にちISBN 978-4-906941-32-2 
  • 日外にちがいアソシエーツ へん年間ねんかん 現代げんだいきる女性じょせい事典じてん日外にちがいアソシエーツ、1981ねん12月。ISBN 978-4-8169-0104-1 
  • あたらしい図案ずあん800しゅ 図案ずあん基礎きそから使つかかたまで 服飾ふくしょく手芸しゅげい編物あみもの主婦しゅふともしゃ、1953ねん11月28にちNCID BB14695105 
  • 山野やまの王国おうこくみついた、マヤ・片岡かたおかじゅうねん鬱憤うっぷん」『週刊しゅうかんポストだい2かんだい42ごう小学館しょうがくかん、1970ねん10がつ23にちNCID AN1045581X