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桂米朝かつらべいちょう (3代目だいめ)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
さん代目だいめ かつらかつら べいちょうべいちょう
三代目 桂(かつら) 米朝(べいちょう)
1947ねんから1950ねんごろ撮影さつえいかってみぎ人物じんぶつべいちょうさん代目だいめかつらはるだん撮影さつえい当時とうじ代目だいめかつら小春こはる)。
本名ほんみょう 中川なかがわなかがわ きよしきよし
別名べつめい 俳号はいごうかつらかつらはちじゅうはちやそはち
ちゃーちゃん
べーやん
生年月日せいねんがっぴ 1925ねん11月6にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (2015-03-19) 2015ねん3月19にち(89さいぼつ
出生しゅっしょう 関東かんとうしゅう大連たいれんひろしらんてん
げん中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく遼寧りょうねいしょう大連たいれんひろしらんてん
師匠ししょう よん代目だいめかつらべいだん
弟子でし 代目だいめかつらざこば
かつらちょう太郎たろう
かつら米蔵よねぞう
かつらべい
かつらせんあさ
かつらべい
代目だいめかつらべいだん
かつらぜいあさ
かつらべいたいら
かつらよねひろし
かつらべいひだり
かつらだんあさ
代目だいめかつら八十八やそはち
名跡みょうせき 桂米朝かつらべいちょう
(1947ねん - 2015ねん
活動かつどう期間きかん 1947ねん - 2015ねん
活動かつどう内容ないよう 上方かみがた落語らくご
家族かぞく 代目だいめかつらべいだん長男ちょうなん
所属しょぞく せん土地とち興行こうぎょう(1947ねん - 1968ねん
無所属むしょぞく(1968ねん - 1974ねん
べいちょう事務所じむしょ(1974ねん - 2015ねん
公式こうしきサイト べいちょう事務所じむしょ
おも作品さくひん
地獄じごく八景はっけい亡者もうじゃおどけ
ひゃくねん
菊江きくえ仏壇ぶつだん
一文いちぶんふえ
受賞じゅしょうれき
1987ねん紫綬褒章しじゅほうしょう
1996ねん人間にんげん国宝こくほう
2002ねん文化ぶんか功労こうろうしゃ顕彰けんしょう
2009ねん文化ぶんか勲章くんしょう
2015ねんしたがえさん
備考びこう
上方かみがた落語らくご協会きょうかいふく会長かいちょう(1957ねん - 1977ねん
上方かみがた落語らくご協会きょうかい相談役そうだんやく(1977ねん - 2015ねん

さん代目だいめ かつら 米朝べいちょう(かつら べいちょう、1925ねん大正たいしょう14ねん11月6にち - 2015ねん平成へいせい27ねん3月19にち)は、落語らくご本名ほんみょう中川なかがわ きよし囃子ばやし∶『さんくだり鞨鼓』→『囃子ばやし[1]俳号はいごうは「はちじゅうはちやそはち[2]所属しょぞくべいちょう事務所じむしょ

現代げんだい落語らくごかい代表だいひょうする落語らくご一人ひとりで、だい世界せかい大戦たいせんほろびかけていた上方かみがた落語らくご継承けいしょう復興ふっこうおおきく貢献こうけんした。その功績こうせきから、1996ねん平成へいせい8ねん)に落語らくごかいから2人ふたり重要じゅうよう無形むけい文化財ぶんかざい保持ほじしゃ人間にんげん国宝こくほう)に認定にんていされ、2009ねん平成へいせい21ねん)には演芸えんげいかいはつ文化ぶんか勲章くんしょう受章じゅしょうしゃとなった。位階いかいしたがえさん

きゅう関東かんとうしゅう満州まんしゅう大連たいれんまれ、兵庫ひょうごけん姫路ひめじ出身しゅっしん1979ねん昭和しょうわ54ねん)に帝塚山学院大学てづかやまがくいんだいがく非常勤ひじょうきん講師こうしつとめた。 わかころから尼崎あまがさき武庫之荘むこのそう在住ざいじゅう[3]同町どうちょう発展はってん景観けいかん維持いじなどにも貢献こうけんしていた[4][5]

生涯しょうがい

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むすかしわは、かつらべいちょう一門いちもん定紋じょうもんである。

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1925ねん関東かんとうしゅう大連たいれんひろしらんてんげん中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく遼寧りょうねいしょう大連たいれんひろしらんてん)にまれた。4さいのころに奉天ほうてんげん瀋陽しんよう)ヘ転居てんきょ実家じっか兵庫ひょうごけん姫路ひめじきゅうしょ御霊みたま天神てんじんしゃ神職しんしょくであり[6]祖父そふ死去しきょともない、ちち1930ねん実家じっか継承けいしょうするために一家いっかそろって姫路ひめじ帰郷ききょうした。べいちょう自身じしん上京じょうきょうまえ周囲しゅういすすめもあって神職しんしょく資格しかく取得しゅとくしており、落語らくごになるまえには実家じっか神社じんじゃ禰宜ねぎ(ねぎ)をつとめたこともあったという[7]幼少ようしょう時代じだいから落語らくご浪曲ろうきょくしたしみ、ちち演芸えんげいきの叔父おじれられて西にし花月かげつていみなみ花月かげつにもよくかよっていた。

上京じょうきょう正岡まさおかとの出会であ

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旧制きゅうせい姫路ひめじ中学ちゅうがく現在げんざい兵庫ひょうご県立けんりつ姫路ひめじ西高にしこうとう学校がっこう卒業そつぎょう1943ねん大東だいとう文化ぶんか学院がくいん旧制きゅうせい専門せんもん学校がっこうげん大東文化大学だいとうぶんかだいがく進学しんがくのため上京じょうきょう在学ざいがくちゅう作家さっかであり落語らくご寄席よせ研究けんきゅうでもある正岡まさおかひろし(蓉)主催しゅさいめずらしい落語らくごかいたことを正岡まさおか入門にゅうもん正岡まさおか一門いちもん一番いちばん弟子でしとなった。正岡まさおかつう5代目だいめわらいぶくていまつづるや、大阪おおさか映画えいが館主かんしゅ息子むすこであった矢倉やくら悦夫えつお(のちの3代目だいめかつらべいすけ)といとなった。

太平洋戦争たいへいようせんそうおわりの前後ぜんご

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1945ねん2がつ応召おうしょうし、入隊にゅうたいするが急性きゅうせい腎臓炎じんぞうえんたおれて、3月には地元じもと陸軍りくぐん病院びょういん入院にゅういん三田みた療養りょうようしょ転院てんいんのち、8がつ12にち退院たいいんし、姫路ひめじ実家じっか太平洋戦争たいへいようせんそう終結しゅうけつむかえる。このころ慰問いもん病院びょういんおとずれたたちばなえん出会であうことになる。専門せんもん学校がっこう当時とうじ大東だいとう文化ぶんか学院がくいん旧制きゅうせい専門せんもん学校がっこう)には復学ふくがくせず、神戸こうべ神戸こうべ生活せいかつ用品ようひん商事しょうじ会社かいしゃいんとなり一介いっかい落語らくご愛好あいこうとして落語らくごかい素人しろうと落語らくご上演じょうえんかい主催しゅさいするなど、上方かみがた落語らくご復興ふっこうちかられていた。[8]

本格ほんかくてき落語らくご

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矢倉やくらが3代目だいめかつらべいすけとなったことがえんで、のち師匠ししょうとなる4代目だいめかつらべいだんおしえを機会きかいしょうじた。このときに「高津たかつとみ」をおそわる。

やがて、正岡まさおかの「いまや伝統でんとうある上方かみがた落語らくご消滅しょうめつ危機ききにある。復興ふっこう貴公きこう生命せいめいをかけろ」との言葉ことばけ、本格ほんかくてき落語らくごこころざすようになり、1947ねん9月に会社かいしゃつとめをしながらべいだん入門にゅうもん。3代目だいめ桂米朝かつらべいちょう名乗なの[9][10]一旦いったんつとめをめてべいだんたく内弟子うちでしとなるものの親戚しんせきから叱責しっせきけ、姫路ひめじ市内しない広畑ひろはた郵便ゆうびんきょくいんとして1ねんほど勤務きんむした[11]。そのべいだんい、落語らくごのみに精進しょうじんすることを決意けついする。

初舞台はつぶたい

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戎橋えびすばし松竹しょうちくはつ舞台ぶたい長年ながねんせん土地とち興行こうぎょう日本にっぽんドリーム観光かんこう)に所属しょぞくし、せんにち劇場げきじょう本拠ほんきょ道頓堀どうとんぼりかくうめだ花月かげつ出演しゅつえんしたが、1968ねん3がつ以降いこうはフリーとなり、ホール落語らくご独演どくえんかい一門いちもんかい中心ちゅうしん活動かつどうするようになる。ラジオパーソナリティーをつとめていた近畿放送きんきほうそうの「天壇てんだんゴールデンリクエスト」のえんで1966ねん7がつ16にちはつ独演どくえんかいべいちょう スポットショー」を京都きょうと府立ふりつ勤労きんろう会館かいかん開催かいさい、そのながれで10がつ25にち現在げんざいでもつづ桂米朝かつらべいちょう落語らくご研究けんきゅうかいをスタート。1974ねんせん土地とち時代じだい担当たんとうマネージャーを社長しゃちょう芸能げいのう事務所じむしょべいちょう事務所じむしょ設立せつりつ現在げんざい一門いちもんおおくがここに所属しょぞくする。

テレビ出演しゅつえん落語らくご研究けんきゅう活動かつどう

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1958ねんごろには朝日放送あさひほうそう専属せんぞくとなり、放送ほうそうタレントとしても、1960年代ねんだい以降いこうは、『ハイ!土曜日どようびです』、『わらいとんちぶくろ』(関西かんさいテレビ)や『あじ招待しょうたいせき』、『和朗かずおてい』(朝日放送あさひほうそう)など多数たすう番組ばんぐみ出演しゅつえんして大人気おとなげはくした。一方いっぽうで、落語らくご研究けんきゅうとしても活動かつどうおこない、文献ぶんけんから発掘はっくつしたり落語らくごかい古老ころうから調査ちょうさをしたりして、一度いちどほろんだはなし多数たすう復活ふっかつさせている。かれによって復活ふっかつした演目えんもくとしては「算段さんだんたいら兵衛ひょうえ」「かぜかみおくり」「矢橋やはしせん」などがある。また上方かみがた文化ぶんか交流こうりゅうふかめる「上方かみがた風流ふうりゅう」を1963ねんから結成けっせいし「上方かみがた風流ふうりゅう」を発行はっこう(1967ねんまで活動かつどう)。

上方かみがた落語らくご四天王してんのうらの復興ふっこう尽力じんりょく

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入門にゅうもん当時とうじには衰微すいびたしていた上方かみがた落語らくご復興ふっこうねがい、ともに上方かみがた落語らくご四天王してんのうたたえられた6代目だいめわらいぶくていまつづる、3代目だいめかつらしょう文枝ふみえ5代目だいめかつら文枝ふみえ)、3代目だいめかつらはるだんらと東奔西走とうほんせいそうして尽力じんりょくした。現在げんざい上方かみがた落語らくご隆盛りゅうせいべいちょうまつづるらの功績こうせきであるというのが衆目しゅうもく一致いっちするところである。一言ひとこと東奔西走とうほんせいそうといっても、地方ちほうにおいては昭和しょうわ40年代ねんだい(1965ねん - 1974ねん)であってもなお、落語らくごたいする理解りかいひくく、べいちょう高座こうざがって落語らくごはじめても、きゃくからは「なに一人ひとりしゃべってるんだ? ゆうんでないではや落語らくごはじめろ!」と野次やじんでくる有様ありさまだった。地方ちほうける落語らくご一般いっぱんてき認知にんち複数ふくすう演者えんじゃ舞台ぶたいがり問答もんどうわらいを大喜だいぎ演芸えんげいテレビ番組ばんぐみの『わらいてん』が落語らくごであると、その程度ていど認識にんしきであり、その苦労くろう並大抵なみたいていのものではなかった。

文化ぶんか貢献こうけんへの評価ひょうか

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1987ねん4がつ29にち紫綬褒章しじゅほうしょう受章じゅしょうする。1988ねん2がつ25にちには上方かみがた落語らくご協会きょうかい選挙せんきょ会長かいちょう選出せんしゅつされたが、当時とうじ相談役そうだんやく退しりぞいていたべいちょうは「いまさら会長かいちょうになる気持きもちはない[12]」「相談役そうだんやくという隠居いんきょ[13]」と辞退じたいしたため、「べいちょう会長かいちょう」はまぼろしわっている。四天王してんのうとしては唯一ゆいいつ会長かいちょう就任しゅうにんしていない。1996ねん落語らくごでは5代目だいめ柳家やなぎやさんつづき2にん上方かみがた落語らくごかいでははつ重要じゅうよう無形むけい文化財ぶんかざい保持ほじしゃ人間にんげん国宝こくほう)に認定にんていされる。また、2002ねん11月3にちには、演芸えんげいじんとして史上しじょうはつ文化ぶんか功労こうろうしゃ顕彰けんしょうける。

晩年ばんねん

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2009ねん3月、医師いしからのう梗塞こうそく診断しんだんされ入院にゅういんし、7がつ27にちにも脳幹のうかん出血しゅっけつ診断しんだんされ入院にゅういんした[14]が、いずれも軽度けいどみ、早期そうき活動かつどう復帰ふっきしている。同年どうねん11月3にち演芸えんげいじんとして史上しじょうはつ文化ぶんか勲章くんしょう受章じゅしょうしゃとなった[15]

2013ねん1がつべいちょう一門いちもんかい最後さいご高座こうざからとおのき、2013ねん8がつ肺炎はいえんのため入院にゅういん。10月に退院たいいんするも、ふたた入院にゅういんし2015ねん3がつ19にち1941ふん肺炎はいえんのため死去しきょ[16]。89さいぼつおくりなは「中川なかがわきよし大人おとなめいじ(なかがわきよしうしのみこと)」[17]。4月17にち日本にっぽん政府せいふは、さん代目だいめまいあさ上方かみがた落語らくごかい発展はってんくした功績こうせきたたえ、ぼつさかのぼしたがえさんついじょすることを閣議かくぎ決定けっていした[18]

墓所はかしょ姫路ひめじ名古山なごやまれいえんうち同市どうし名誉めいよ市民しみんとしてどう霊園れいえんきずかれた「名誉めいよ市民しみん」は、うえからると「べい」のをかたどったかたちいしはいされている[19]

年譜ねんぷ

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人物じんぶつ

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芸風げいふうおよ落語らくごへの
  • かたくち調ちょう端正たんせい上品じょうひん容姿ようし端麗たんれい人気にんきはくした。
  • げい最終さいしゅうてきには催眠さいみんじゅつである」が持論じろん。おきゃくさんを落語らくご世界せかいむことを催眠さいみんじゅつたとえている。
  • ほろびたはなし復活ふっかつ当時とうじ時代じだい背景はいけい風俗ふうぞく流行りゅうこうなどの研究けんきゅうのために多種たしゅ多様たよう古書こしょ文書ぶんしょ収蔵しゅうぞうした書庫しょこ自宅じたくつ(孫弟子まごでしかつら吉弥よしやいわく「べいちょう文庫ぶんこ」)。とく演目えんもく登場とうじょう人物じんぶつ仕草しぐさ研究けんきゅう余念よねんがなく、酒席しゅせきでのほろいと酩酊めいていえんけ(酒肴さけさかなくちはこかたさけそそかたなど)からものいとりの位置いちいたるまで、日常にちじょう生活せいかつじょうのさりない動作どうさ徹底的てっていてきなリアリティを追求ついきゅうしている。
  • ちネタは多数たすうあるが、代表だいひょうてきなところではみずかこした「地獄じごく八景はっけい亡者もうじゃおどけ」や「ひゃくねん」、自作じさくに「よどみこい」(中川なかがわきよし時代じだい)や「一文いちぶんふえ」がある。
  • 身近みぢか存在そんざいだった実父じっぷ正岡まさおかべいだんが55さいくなったので、自身じしんも55さいぬと断言だんげんしていた。みずからにした55さいというタイムリミットにわせるために、後進こうしん育成いくせいくわえ、書籍しょせき音声おんせい資料しりょうによる落語らくご記録きろく精力せいりょくてきんだ(実際じっさいには55さいはるかにえ、89さいという長寿ちょうじゅをまっとうした)。
  • 古典こてん落語らくご流暢りゅうちょうえんじる正統せいとうとしての印象いんしょうつよいが、ときとして艶笑えんしょう落語らくごえんじており、現在げんざいでもその音源おんげんがⅭⅮにろくされ市販しはんされている。とくに「ぞくいろはにほへとひとりでするはなしへん」では、せんずり自慰じいなどと卑猥ひわい言葉ことばはっするなど過激かげき内容ないようになっている。
弟子でしとのかかわり
  • おおくの弟子でしそだて、長男ちょうなん5代目だいめかつらべいだんもその一人ひとりとく初期しょき弟子でしには月亭つきていあさ2代目だいめ桂枝雀かつらしじゃく2代目だいめかつらざこばのうおおく、TVなどでれっになっていった。むしろ後期こうきほうかつらきちあさら、師匠ししょう端正たんせい芸風げいふう後継こうけいしゃされる人材じんざいおおい。かつてはげいきびしく怒鳴どなってはいたが、近年きんねんおおきな包容ほうようりょく一門いちもんそだげた。
  • 一門いちもん弟子でしたちからは「ちゃーちゃん」とばれている。5代目だいめかつらべいだん著書ちょしょによると、べいだん幼少ようしょうのころ、「おとーちゃん」と発音はつおんしようとして、「ちゃーちゃん」とっていたものを当時とうじ弟子でしたちがまねて使つかったのが由来ゆらいであるという。
  • きびしい指導しどうられていたが、一方いっぽうでは、破門はもんしゃ一人ひとりさなかったとされ、人情味にんじょうみのあるいちめんせていた。えだすずめは「自分じぶんやったら兄弟きょうだい弟子でしうち半分はんぶん破門はもんにしていただろう。」とべたことがあるという。
家族かぞく
  • 中川なかがわ絹子きぬこ夫人ふじんもとOSSK(大阪おおさか松竹しょうちく少女しょうじょ歌劇かげきだん、のちのOSK日本にっぽん歌劇かげきだん)の「こまひかる」である。じゅうすうねんパーキンソンびょう静養せいようしていたが2014ねん死別しべつ[20]長男ちょうなんは5代目だいめかつらべいだん次男じなん高校こうこう保健ほけん体育たいいく教諭きょうゆから教頭きょうとう)と三男さんなん博物館はくぶつかん学芸がくげいいん)は双子ふたごで、べいちょう一家いっかおなじく武庫之荘むこのそうんでいた大村崑おおむらこん息子むすことは同級生どうきゅうせい
  • 長男ちょうなん・5代目だいめかつらべいだんによると「ちち中川なかがわきよし」は、とりわけて子煩悩こぼんのうでも、教育きょういく熱心ねっしんでもなく、かといって目立めだったいさかいもなく、いえても丹念たんねん落語らくご資料しりょうとおしている父親ちちおや父子ふしとしてはいたって普通ふつう淡白たんぱく関係かんけいであった。ただわからないことをたずねると子供こども相手あいてであってもじゅんって理路りろ整然せいぜん説明せつめいするなど、父親ちちおや本業ほんぎょう両面りょうめんていた。舞台ぶたいでの流暢りゅうちょうしゃべりと温厚おんこうそうな雰囲気ふんいき反面はんめん、TVや新聞しんぶんさわることがあると、途端とたんむし居所きょしょわるくなり、怒声どせい剣幕けんまくこそさないものの、けわしいかお所作しょさ乱暴らんぼうになり険悪けんあく雰囲気ふんいきらすなど、子供こどもにとっては居心地いごこちわるくなってしまう気難きむずかしいめんっていた。
その
  • 大塚おおつかとおる処女しょじょ詩集ししゅう古城こじょう幻想げんそう出版しゅっぱん寄付きふつのったさいには、中川なかがわきよし名義めいぎ資金しきんではなく清酒せいしゅいちしょう寄付きふした[26]
  • ニュースなどで北朝鮮きたちょうせん米国べいこくあつかったいわゆる「べいちょう問題もんだい」をくと「自分じぶんとは無関係むかんけいなのにドキっとする」という。
  • 晩年ばんねん、「稽古けいこをつけていただけないでしょうか」とべいちょう自宅じたく電話でんわをいれたという桂歌丸かつらうたまるは、べいちょう訃報ふほうき、「博学はくがくであることはうにおよばず、我々われわれ落語らくごかいの『百科ひゃっか事典じてん』をうしなったにひとしい」といたんだ。
  • 俳句はいくたしなみ、みずか俳号はいごうを「はちじゅうはち」(べいちょうの「べい」をくずしたもの)としょうした。2021ねん8がつ俳号はいごう由来ゆらいとした「かつら八十八やそはち」の高座こうざめい弟子でしかつらそうすけ代目だいめべいちょう初代しょだいとしてあつかう)として襲名しゅうめいすることとなった[27]

まぼろしかつら三木助みきすけ襲名しゅうめい

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朝日放送あさひほうそう社員しゃいん松本まつもと昇三しょうぞう当時とうじ)が、香川かがわ登志としいとぐち(のちの香川かがわ登枝緒としお 作家さっか)、三田みたじゅん作家さっか)とともに、べいちょうたいし、3代目だいめ死後しご名跡みょうせきとなっていた「かつら三木助みきすけ」の襲名しゅうめい提案ていあんした。べいちょう芸風げいふう風貌ふうぼう2代目だいめているとされることがその理由りゆうだった[28]

やがて、3代目だいめ三木助みきすけ師匠ししょうであり落語らくご芸術げいじゅつ協会きょうかい会長かいちょうであった6代目だいめ春風しゅんぷうてい柳橋やなぎばし[29]、3代目だいめ心酔しんすいしていた落語らくご協会きょうかい8代目だいめかつら文楽ぶんらく[29]、3代目だいめ遺族いぞく在京ざいきょうかく寄席よせ席亭せきてい安藤あんどう鶴夫つるお久保田くぼた万太郎まんたろうテレビ局てれびきょく関係かんけいしゃ承諾しょうだくがまとまったが、8代目だいめ文楽ぶんらくから[よう出典しゅってん]襲名しゅうめい披露ひろうかくおこなうこと」との条件じょうけんされた。当時とうじかく原則げんそくとして松竹しょうちく芸能げいのう芸人げいにん配給はいきゅう番組ばんぐみ編成へんせい仕切しきっており、一方いっぽうべいちょうせん土地とち興行こうぎょう所属しょぞくであった(せん土地とち松竹しょうちくとの関係かんけいから定期ていきてきかく出演しゅつえんはしていた)。当時とうじ上方かみがた芸界げいかい慣習かんしゅうじょうかく襲名しゅうめい披露ひろうおこなうためには、松竹しょうちく移籍いせきすることが必須ひっす条件じょうけんであった[30]。このはなしいたべいちょうは「おおきな名前なまえがほしいために、いままでお世話せわになってせん土地とちさんを裏切うらぎることは、わたしの良心りょうしんもとしまへん[29]」と、断固だんこ拒否きょひする姿勢しせいしめした。その柳橋やなぎばし文楽ぶんらくせてはないのもうけられるなど、べいちょうへの説得せっとくつづけられたが、松本まつもと朝日放送あさひほうそう退社たいしゃなどで襲名しゅうめい計画けいかくえとなった。べいちょう自身じしん著書ちょしょで「文楽ぶんらくさんにもわたしにもらされていなかったが(中略ちゅうりゃく襲名しゅうめい条件じょうけんわたしをある興行こうぎょう会社かいしゃ専属せんぞくにしようという計画けいかくだった」「三木助みきすけ名前なまえさそもうというのである。それをった途端とたんわたしおもいはめた」[10]回想かいそうしている。

その三木助みきすけ」の名跡みょうせきは、3代目だいめ実子じっし4代目だいめを、3代目だいめまごで4代目だいめおい5代目だいめ襲名しゅうめいした。なお、べいちょうは4代目だいめ稽古けいこけていたことがある。

結局けっきょくべいちょう改名かいめい襲名しゅうめい生涯しょうがいおこなわなかった。

弟子でし

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弟子でし

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あずかり弟子でし

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孫弟子まごでし

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あさ門下もんか

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えだすずめ門下もんか

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ざこば門下もんか

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うたじょ門下もんか

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べい輔門

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よしちょう門下もんか

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べい門下もんか

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べいだん門下もんか

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曾孫そうそん弟子でし

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八方はっぽう門下もんか

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南光なんこう門下もんか

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すずめ三郎さぶろう門下もんか

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すずめ門下もんか

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きゅうすずめ門下もんか

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ぶんわが門下もんか

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しおたい門下もんか

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よしわたる門下もんか

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玄孫げんそん弟子でし

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ゆうかた門下もんか

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ぶん門下もんか

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方正ほうせい門下もんか

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月亭つきていやなぎただし

南天なんてん門下もんか

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かつらたかしわれ

すずめふとし門下もんか

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受賞じゅしょう栄典えいてん

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著作ちょさくぶつ

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  • べいちょう艶笑えんしょう上方かみがた落語らくご いろはにほへと(1971ねん東芝とうしばEMI当時とうじだけで1まんまいちかれ、当時とうじ落語らくごのレコードとしては異例いれいだいヒットになった[35]
  • べいちょう艶笑えんしょう上方かみがた落語らくご ぞくいろはにほへと(1972ねん8がつ東芝とうしばEMI)
  • 桂米朝かつらべいちょう 上方かみがた落語らくごだい全集ぜんしゅう(1973ねん3がつ - 1978ねん3がつ東芝とうしばEMI)シリーズ累計るいけい100まんまい突破とっぱし、2まいのゴールデンレコードを獲得かくとくした[35]
  • 広沢ひろさわひさごみぎ衛門えもんVS桂米朝かつらべいちょう(1979ねん東芝とうしばEMI)
  • べいちょう艶笑えんしょう上方かみがた落語らくご いろはにほへと(ぜん2しゅう、1988ねん6がつ25にち東芝とうしばEMI)レコードの復刻ふっこく
  • 特選とくせん!!べいちょう落語らくご全集ぜんしゅうぜん40しゅう、1989ねん12月13にち - 1993ねん12月22にち東芝とうしばEMI)
  • べいちょう珍品ちんぴんしゅうぜん8しゅう、1989ねん12月6にち - 1999ねん4がつ28にち東芝とうしばEMI)
  • 桂米朝かつらべいちょう 上方かみがた落語らくごだい全集ぜんしゅうかく10まいぐみぜん4ぶん、2006ねん6がつ28にち - 7がつ26にち東芝とうしばEMI)同名どうめいレコード全集ぜんしゅうぜん23しゅう復刻ふっこく
  • 桂米朝かつらべいちょう上方かみがた落語らくご選集せんしゅうたびのはなし>(7まいぐみ、2016ねん3がつ16にち、ユニバーサル)レコードの復刻ふっこく
  • 特選とくせん!!べいちょう落語らくご全集ぜんしゅうぜん30しゅう、2002ねん10がつ17にち - 12月18にち東芝とうしばEMI)
  • 文化ぶんか勲章くんしょう受章じゅしょう記念きねんDVD「桂米朝かつらべいちょう らくごの世界せかい」(平成へいせい紅梅こうばいてい映像えいぞう厳選げんせん、2010ねん11月24にち、EMI MUSIC JAPAN)
  • 蔵出くらだし!べいちょう全集ぜんしゅう(DVD7まいぐみ、2012ねん12月28にち、ユニバーサル)
  • 落語らくご研究けんきゅうかい 桂米朝かつらべいちょう全集ぜんしゅう(DVD8まいぐみ、2014ねん11月5にち、ユニバーサル)
  • THE まいあさ(DVD・ひゃくねん本能寺ほんのうじ、CD・地獄じごく八景はっけい亡者もうじゃおどけ、2007ねん12月26にち、ユニバーサル)

著書ちょしょ

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  • べいちょう上方かみがた落語らくごせんたてふう書房しょぼう、1970ねん1がつ10日とおか
  • べいちょう上方かみがた落語らくごせん つづけたてふう書房しょぼう、1972ねん8がつ20日はつか
  • 落語らくごわたし二俣ふたまた英五郎えいごろう ポプラ社ぽぷらしゃ ポプラ・ブックス 1975 文春ぶんしゅん文庫ぶんこ、1986
  • 上方かみがた芸人げいにん朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1976ねん3がつ8にち
  • 上方かみがた落語らくごノート』(ぜん4かん青蛙あおがえるぼう、1978ねん1がつ - 1998ねん1がつ
  • べいちょう落語らくご全集ぜんしゅう』(ぜん7かんつくもとしゃ、1980ねん1がつ - 1982ねん1がつ
  • べいちょうばなし 上方かみがた落語らくご地図ちず毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ 1981 講談社こうだんしゃ文庫ぶんこ、1984
  • 一芸いちげいいちだん』(あわ交社、1991ねん2がつ)ちくま文庫ぶんこ、2007ねん
  • ともあり駄句だくありさんじゅうねんはじおおおとこづきあいはるかさね』(東京とうきょうやなぎ句会くかいへん日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ、1999ねん3がつ
  • 桂米朝かつらべいちょう わたし履歴りれきしょ』(日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ、2002ねん4がつ日経にっけいビジネス人文じんぶん、2007ねん 
  • 上方かみがた落語らくご 桂米朝かつらべいちょうコレクション』(ちくま文庫ぶんこぜん8さつ、2002ねん9がつ - 2003ねん7がつ
  • 桂米朝かつらべいちょう集成しゅうせい 上方かみがた落語らくご』(ぜん4かん豊田とよだよしたかし戸田とだまなぶへん岩波書店いわなみしょてん、2004ねん11月 - 2005ねん2がつ
  • 桂米朝かつらべいちょう座談ざだん』(単行本たんこうぼんぜん2かん豊田とよだよしたかし戸田とだがくへん岩波書店いわなみしょてん、2005ねん12月 - 2006ねん1がつ
  • べいちょうよもやまばなし』(朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、2007ねん12がつ
  • げい、これ一生いっしょう べいちょうよもやまばなし』(朝日新聞あさひしんぶん出版しゅっぱん、2010ねん2がつ
  • 桂米朝かつらべいちょう句集くしゅう』(岩波書店いわなみしょてん 2011ねん
  • 『【べいちょうよもやまばなし歳々さいさい年々ねんねんげいおなじからず』(朝日新聞あさひしんぶん出版しゅっぱん、2012ねん8がつ
  • 桂米朝かつらべいちょうはちじゅうはち松岡まつおかひでたか 神戸こうべ 交友こうゆうプランニングセンターともがつ書房しょぼう (制作せいさく) 2015

共編きょうへんちょ

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  • 日本にっぽんめい随筆ずいひつ 22 わらいへん作品社さくひんしゃ、1984ねん1がつ
  • べいちょう上岡うえおかかた昭和しょうわ上方かみがた漫才まんざい』(上岡うえおか龍太郎りゅうたろうとの共著きょうちょ朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、2000ねん6がつ
  • 対談たいだん わらいの世界せかい』(筒井つつい康隆やすたかとの共著きょうちょ朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、2003ねん9がつ
  • よんせいかつらべいだん 寄席よせ随筆ずいひつ』(編著へんちょ岩波書店いわなみしょてん、2007ねん11月6にちべいちょう誕生たんじょう発行はっこう
  • べいちょうらくごの舞台裏ぶたいうらしょう佐田さた定雄さだおしる 筑摩書房ちくましょぼう 2015ねん4がつ ISBN 4480068260

出演しゅつえん作品さくひん

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テレビ番組ばんぐみ

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ラジオ番組ばんぐみ

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テレビドラマ

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映画えいが

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劇場げきじょうアニメ

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関連かんれん書籍しょせき

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 従来じゅうらいもちいた『三下さんさがり鞨鼓(三下さんさがりかっこ)』は、2008ねん平成へいせい20ねん)10がつ息子むすこかつら小米こごめあさ代目だいめかつらべいだん襲名しゅうめいするさいゆずった。[よう出典しゅってん]
  2. ^ べいちょうべいというくずした
  3. ^ 2012.02.28 「わが故郷こきょう武庫之荘むこのそう
  4. ^ かつら米朝べいちょうさんの功績こうせき後世こうせいに 尼崎あまがさき武庫之荘むこのそう常設じょうせつてん
  5. ^ 武庫之荘むこのそう駅前えきまえさくら並木なみき
  6. ^ 至宝しほう話芸わげい 噺家はなしかまいあさ遺産いさんうえ上方かみがた落語らくご復興ふっこう 神戸こうべ新聞しんぶん 2015ねん3がつ21にち閲覧えつらん[リンク]
  7. ^ 上岡うえおか龍太郎りゅうたろうべいちょう名前なまえ永久えいきゅう欠番けつばん デイリースポーツ 2015ねん3がつ25にち閲覧えつらん
  8. ^ かつら米朝べいちょうさん:げいへの心構こころがまえ、会社かいしゃいん時代じだい社内しゃないほう 毎日新聞まいにちしんぶん 2015ねん08がつ25にち
  9. ^ 当初とうしょべいだんは「いずれまいあさという名前なまえあたえる」というつもりで「べいちょう名前なまえをあげよう」と中川なかがわげたが、中川なかがわはそので「べいちょうという名前なまえをもらった」とおもんで正岡まさおからせてしまった。中川なかがわからはなしいた正岡まさおかがすぐさまべいだん礼状れいじょういてしまったことから、べいだん中川なかがわ入門にゅうもん当初とうしょから3代目だいめまいあさ名乗なのることをゆるした。
  10. ^ a b 桂米朝かつらべいちょう桂米朝かつらべいちょう わたし履歴りれきしょ日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ、2002ねんISBN 978-4532164171 
  11. ^ 郵便ゆうびん局員きょくいんめ、落語らくご一筋ひとすじわかべいちょう26さい覚悟かくご
  12. ^ a b 5代目だいめかつら文枝ふみえちょしょう佐田さた定雄さだおへん)『あんけらそう夜話やわ新装しんそうばん)』青蛙あおがえるぼう、2011ねん11月、[ようページ番号ばんごう]
  13. ^ 戸田とだまなぶ上方かみがた落語らくご戦後せんご岩波書店いわなみしょてん、2014ねん7がつ、pp.488 - 489
  14. ^ a b かつら米朝べいちょうさん、脳幹のうかん梗塞こうそく入院にゅういん 8がつちゅう出演しゅつえんりやめアサヒ・コム 2009ねん7がつ31にち閲覧えつらん
  15. ^ a b 落語らくご一筋ひとすじしかなかった」=文化ぶんか勲章くんしょうかつら米朝べいちょうさん時事じじドットコム 2009ねん10がつ27にち閲覧えつらん
  16. ^ a b かつら米朝べいちょうさん死去しきょ 肺炎はいえん 89さい デイリースポーツ 2015ねん3がつ19にち
  17. ^ かつら米朝べいちょうさん葬儀そうぎに1500にん以上いじょう参列さんれつ かつら文枝ふみえ遺志いしいでいく」 スポーツ報知ほうち 2015ねん3がつ25にち
  18. ^ a b 落語らくご桂米朝かつらべいちょうしたがえさん デイリースポーツ 2015ねん4がつ17にち閲覧えつらん
  19. ^ 姫路ひめじ名古山なごやまれいえん散策さんさく案内あんない (かつら米朝べいちょうのおはか披露ひろうされました・地球儀ちきゅうぎ噴水ふんすい花壇かだんとしてさい整備せいびしました)名古山なごやまれいえん管理かんり事務所じむしょ姫路ひめじ、2017ねん3がつ28にち閲覧えつらん
  20. ^ a b べいちょう 憔悴しょうすいくるまいすで見送みおくる つま中川なかがわ絹子きぬこさん告別こくべつしき スポニチ 2015ねん9がつ2にち閲覧えつらん
  21. ^ 姫路ひめじ落語らくごかい:べいちょうさん、古里ふるさと高座こうざ 元気げんき姿すがた、ファン満足まんぞく−40かい記念きねん毎日新聞まいにちしんぶん2012ねん8がつ6にち
  22. ^ 米寿べいじゅ記念きねん べいちょうてん サンケイホールブリーゼ 2012ねん8がつ
  23. ^ さらに人間にんげんらしく べいちょうアンドロイド「はつ高座こうざ」 “落語らくご電脳でんのう対決たいけつ”に歓声かんせい
  24. ^ べいちょうアンドロイド」完成かんせい  大阪おおさか 発表はっぴょうかい開催かいさい
  25. ^ べいちょうアンドロイド・姫路ひめじ落語らくごかい特別とくべつ公演こうえん
  26. ^ 姫路ひめじ文学ぶんがくかん 企画きかく展示てんじ生誕せいたん110ねん記念きねん 詩人しじん大塚おおつかとおる パネルてん展示てんじより
  27. ^ かつらはじめすけ 来夏らいか代目だいめかつら八十八やそはち襲名しゅうめい 師匠ししょうかつら米朝べいちょうさんの俳号はいごう来年らいねん襲名しゅうめい披露ひろう公演こうえん - デイリースポーツ online 2020ねん3がつ20日はつか
  28. ^ にちさわ 伸哉のぶや (2009ねん1がつ10日とおか). “襲名しゅうめい悲喜ひき”. らくごくら Webへん 上方かみがた落語らくごこぼればなし(キャッシュ). 2020ねん4がつ6にち閲覧えつらん
  29. ^ a b c 軟派なんぱにっぽんの100にん』(集英社しゅうえいしゃ文庫ぶんこ、1981ねん)pp.346-349 香川かがわ登枝緒としお桂米朝かつらべいちょう
  30. ^ 6代目だいめまつづるえだづる時代じだいまではせん土地とち所属しょぞくしていたが、まつづる襲名しゅうめい披露ひろうかくおこなうために、松竹しょうちく芸能げいのう移籍いせきしている。
  31. ^ 女優じょゆうさんはやし京子きょうこ
  32. ^ 朝日あさひしょう 1971-2000年度ねんど”. 朝日新聞社あさひしんぶんしゃ. 2022ねん8がつ19にち閲覧えつらん
  33. ^ 平成へいせい14年度ねんど 文化ぶんか功労こうろうしゃおよ文化ぶんか勲章くんしょう受章じゅしょうしゃ五十音ごじゅうおんじゅん)−文部もんぶ科学かがくしょう(2009ねん10がつ25にちアーカイブ) - 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんWeb Archiving Project
  34. ^ 飯島いいじま名城大めいじょうだい教授きょうじゅら5めい 文化ぶんか勲章くんしょう受章じゅしょう”. 日本にっぽん私立しりつ大学だいがく協会きょうかい (2009ねん11月4にち). 2023ねん6がつ19にち閲覧えつらん
  35. ^ a b 桂米朝かつらべいちょう わたし履歴りれきしょ』(日経にっけいビジネス人文じんぶん)184-185ぺーじ
  36. ^ 桂米朝かつらべいちょうほん出版しゅっぱん中止ちゅうし 講談社こうだんしゃ関係かんけいしゃとの認識にんしき相違そうい - archive.today(2013ねん10がつ13にちアーカイブぶん
  37. ^ 桂米朝かつらべいちょう上方かみがた落語らくご奇蹟きせき刊行かんこう中止ちゅうしかんするおびとおらせ 講談社こうだんしゃニュースリリース 2013ねん10がつ11にち

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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