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浪曲ろうきょく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

浪曲ろうきょく(ろうきょく)は、日本にっぽん明治めいじ時代じだい初期しょきからはじまった演芸えんげいで、「浪花節なにわぶし」(なにわぶし)とも[1]三味線しゃみせん伴奏ばんそうにして独特どくとくふしかたりで物語ものがたりすすめるかたげい話芸わげい)。ひとつ30ふんほどである。

落語らくご講談こうだんとともに「日本にっぽんさんだい話芸わげい」のひとつとされ[1][注釈ちゅうしゃく 1]最盛さいせい昭和しょうわ初期しょきには日本にっぽん全国ぜんこくやく3000にん浪曲ろうきょくがいた[1]。その急速きゅうそくおとろえた[2]が、復興ふっこうさい評価ひょうかうごきもある(後述こうじゅつ)。

概説がいせつ

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浪曲ろうきょく起源きげんは800ねんまえともわれ、ふるくからつたわる浄瑠璃じょうるり説経節せっきょうぶし祭文さいぶんかたりなどが基礎きそになって、大道芸だいどうげいとしてはじまった[3]浪曲ろうきょくおも七五調しちごちょうえんじられ「」と「わら」の感情かんじょうさぶる[4]時代じだい翻弄ほんろうされつつ、いつも人々ひとびとしんってきた芸能げいのう[5]である。

こえしてえんじるものを「浪曲ろうきょく」(ろうきょくし)[6]び、三味線しゃみせん伴奏ばんそうしゃを「曲師きょくし」とぶ。

ひとつの物語ものがたりふし(ふし)と啖呵たんか(たんか)でえんじる。ふしうた部分ぶぶん物語ものがたり状況じょうきょう登場とうじょう人物じんぶつ心情しんじょう歌詞かしにしており、啖呵たんか登場とうじょう人物じんぶつえんじて台詞せりふ(セリフ)をはなす。重視じゅうしするじゅんを「一声いっせいせつさん啖呵たんか(いちこえ、にふし、さんたんか)」とう。まえふたつを「こえぶし(こえふし)」とび、とく重要じゅうようする[7]

落語らくごは「はなしす」、講談こうだんは「む」、浪曲ろうきょくは「かた芸能げいのう[8]われるように、かせところことなり、三味線しゃみせんりである浪曲ろうきょくは、都市とし中心ちゅうしんさかんになった講談こうだん落語らくごくらべ、鉄道てつどうもう発達はったついつにするように[注釈ちゅうしゃく 2]当時とうじ最新さいしんメディアである、レコードラジオ媒介ばいかいとして、都市としから地方ちほういたるまで全国ぜんこくてき人気にんきたもった[9]歌謡かよう浪曲ろうきょくから演歌えんかへ、人気にんき連綿れんめんつづく。そのため演歌えんかともに、「田舎いなかくさい」「通俗つうぞくてき」と軽蔑けいべつてきひょうされることもあった。反面はんめん伝統でんとうてき叙情じょじょう鎮魂ちんこんちからそなわっているともえる[10]

日本にっぽん国内こくないでは大衆たいしゅうあいされた浪曲ろうきょくであるが、知識ちしきじん[11]による教養きょうよう主義しゅぎ[注釈ちゅうしゃく 3]からきらわれた[12]とく文学ぶんがくしゃ浪花節なにわぶしぎらいを公言こうげんするものおおく、蛇蝎だかつごときらわれる。尾崎おざき紅葉こうよう[13]いずみ鏡花きょうか[14]夏目なつめ漱石そうせき芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけ[15]永井ながい荷風かふう[注釈ちゅうしゃく 4][16]三好みよし達治たつじ[17][18]三島みしま由紀夫ゆきお[17]がいた。くわえて演芸えんげいかかわりのふか久保田くぼた万太郎まんたろう[19][20]浪花節なにわぶしぎらいは有名ゆうめいであった。

一方いっぽう浪花節なにわぶし好意こういてき言及げんきゅうするものもいる。代目だいめ玉川たまがわ勝太郎かつたろうの『てん保水ほすい滸伝』に触発しょくはつされて『伝法でんぼうすい滸伝』をいた山口やまぐちひとみ[21]代目だいめ広沢ひろさわ虎造とらぞうの『次郎じろうちょうでん』に愛着あいちゃくあらわした村松むらまつとも[22]のほか、2017ねん処女しょじょさく『おらおらでひとりいぐも』で文藝ぶんげいしょうだい54かい)を受賞じゅしょうし、『久米くめひろし ラジオなんですけど』にゲスト出演しゅつえんした作家さっか若竹わかたけ千佐子ちさこ番組ばんぐみないで、虎造とらぞう影響えいきょう明言めいげんした[23]のちだい158かい芥川賞あくたがわしょう受賞じゅしょう)。テレビかいでは著書ちょしょ幼少ようしょう浪花節なにわぶししたしんだことをかしている演出えんしゅつ鴨下かもした信一しんいち[24]演芸えんげいかいでは『ラジオビバリーひる』でネタにするなど、玉川たまがわ福太郎ふくたろう一門いちもん国本くにもと武春たけはる中心ちゅうしん浪曲ろうきょく話題わだいにしつづけた放送ほうそう作家さっか高田たかだ文夫ふみお[25]がいる。また舞踏ぶとう田中たなか福太郎ふくたろうむ『もり石松ひかげのかずら』にわせておどるというパフォーマンスを披露ひろうしたこともある[26]

物語ものがたり内容ないようから、てんじて「浪花節なにわぶしにでもてきそうな」という意味いみで、言動げんどうかんがかた義理ぎり人情にんじょうおもんじ[27]通俗つうぞくてき情緒じょうちょてきであることをぞくに「浪花節なにわぶしてきな」あるいはたんに「浪花節なにわぶし」と比喩ひゆする[28][れい 1][れい 2][れい 3]

おもわず真似まねをしてうなりたくなる節回ふしまわしという間口まぐちひろさと、そのうまくなるには鍛錬たんれんようするおくふかさを同時どうじつ。近接きんせつした芸能げいのうを(郷土きょうど芸能げいのうふくめ)どんよくみ、浪曲ろうきょくふしはこびなどに各人かくじん各様かくよう創意そうい工夫くふうをすることで発展はってんした。節回ふしまわしの自由じゆうさ、融通無碍ゆうずうむげぶりがおおきな特徴とくちょうである。竹本たけもと義太夫ぎだゆう決定けっていであった義太夫ぎだゆうぶし鶴賀つるが新内しんない新内しんないぶしのような、様式ようしき決定けっていける存在そんざいいまていない[29][注釈ちゅうしゃく 5]

浪曲ろうきょく浪花節なにわぶし)の実演じつえんあらわ動詞どうしには様々さまざまあり、「うなる」「かたる」「む」「うたう」「口演こうえんする」などがある。使用しようする局面きょくめんによって多少たしょう使つかけているが基本きほんてきおな意味いみである[注釈ちゅうしゃく 6]

台本だいほん存在そんざいするが譜面ふめんはなく[30]浪曲ろうきょく曲師きょくし呼吸こきゅううかどうかが重要じゅうようであり、春野はるの恵子けいこ説明せつめいによれば「浪曲ろうきょく曲師きょくし舞台ぶたいひろげるやりとりは「ジャズセッションのよう」ともわれ、そのライブかん浪曲ろうきょく魅力みりょく」である [31][注釈ちゅうしゃく 7]

三味線しゃみせん伴奏ばんそうしゃ相方あいかた)のうち、しゅたる相手あいては「あい三味線しゃみせん(あいじゃみせん)」とばれる[32][注釈ちゅうしゃく 8][注釈ちゅうしゃく 9]浪曲ろうきょく三味線しゃみせん太棹ふとざおもち[33]調しらべつる三下さんさが(さんさがり)にする。ぶりのばち[34]上方かみがたでは曲師きょくしギター奏者そうしゃがつくこともある[35][注釈ちゅうしゃく 10]

男女だんじょどもふるくから活躍かつやくする芸能げいのうである。およそ伝統でんとうてきとされる日本にっぽん芸能げいのうなかで、男女だんじょまった対等たいとう活躍かつやくできるものは数少かずすくない[36][37]

テレビ時代じだい浪曲ろうきょくそのものはうごきが地味じみ対応たいおうできなかったが、ジャンルをブレンドして[38]びた。

現在げんざい浪曲ろうきょく定席じょうせき常打じょううちの寄席よせ)は、東京とうきょう台東たいとう浅草あさくさの「木馬亭もくばてい」と大阪おおさか大阪おおさか天王寺てんのうじの「一心寺いっしんじ門前もんぜん浪曲ろうきょく寄席よせ」、大阪おおさか大阪おおさかみなとの「みなと浪曲ろうきょく寄席よせ」でける。東京とうきょうでは永谷ながたに演芸えんげいじょうなどで浪曲ろうきょく公演こうえん毎月まいつきある。

なかでも、東京とうきょう渋谷しぶや毎月まいつき開催かいさいされている「渋谷しぶやらくご」(シブラク)に浪曲ろうきょくが1まいかならくわえられ、わか世代せだい浪曲ろうきょくつたわってきており[39]近年きんねんなが低迷ていめいからした[40][41][42]

浪花節なにわぶし複雑ふくざつで、結局けっきょく、つかみどころのない魅力みりょくは「ぬえ」(ぬえ)に度々たびたびたとえられる[43][44]

日本にっぽん国内こくない内地ないち)から国外こくがいへの殖民しょくみん移民いみんだい世界せかい大戦たいせんまえ中心ちゅうしんさかんにおこなわれたが、それにともな浪曲ろうきょく普及ふきゅう結局けっきょく日本人にっぽんじんおよ日系にっけいじん社会しゃかいまり、人種じんしゅ社会しゃかいえたひろがりをたなかった[注釈ちゅうしゃく 11]

なお、講談こうだんなどのてき著作ちょさくぶつであるかのてんあらそいのたねえない。

歴史れきし

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浪花節なにわぶし」という字面じめんだけを関西かんさい出来できものである、と短絡たんらくをするのは以下いかにみるようにあやまである。注意ちゅういされたい[注釈ちゅうしゃく 12]げいとしての源流げんりゅう関西かんさいにあるとしても、その源流げんりゅう前進ぜんしん芸能げいのうデロレン祭文さいぶんのように関東かんとうにもある。「浪花節なにわぶし」という東京とうきょうはつである。また、落語らくごのように東西とうざいはあまりく、桃中軒とうちゅうけん雲右衛門くもえもん代目だいめ広沢ひろさわ虎造とらぞうのように東西とうざいまたけた交流こうりゅう旅回たびまわりが浪曲ろうきょく歴史れきし重要じゅうよう部分ぶぶん[45][注釈ちゅうしゃく 13]える。まただい世界せかい大戦たいせんのとき「たたかいのうた」として浪曲ろうきょく喧伝けんでんされたのは周知しゅうちのことである[46]

形成けいせいから、げいとしての成立せいりつ

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浪曲ろうきょくは、いずれも願人がんにんおおえんじていた、「ちょぼくれちょんがれ」(阿呆陀羅経あほだらきょう[47]基礎きそデロレン祭文さいぶんかい祭文さいぶん)など近接きんせつする門付かどづけしょげい[48]徐々じょじょ合流ごうりゅうし、おなじく源流げんりゅうともにする説経節せっきょうぶし影響えいきょう[49]大道芸だいどうげいとしてはじまった。幕末ばくまつとく大坂おおさかでは、さらに講談こうだんなどの影響えいきょうから複雑ふくざつかたものあつかう「ちょんがれぶし」に転化てんかした[50]成立せいりつ先行せんこうする文化ぶんか文政ぶんせい年間ねんかんだいさかなど上方かみがた浪花なにわ伊助いすけ(なにわ いすけ)[51]が、阿波あわ浄瑠璃じょうるり祭文さいぶんはるこまふし、ほめらとうれて「浮連ぶし(うかれぶし)」と名付なづけ、あたらしくしたげい源流げんりゅうとするが、伝説でんせつである[52]後述こうじゅつする雲右衛門くもえもんが「浪花節なにわぶし」の関西かんさい口演こうえんしたのち明治めいじ36ねん以降いこう大阪おおさか芸人げいにんは「浮れふし」で登録とうろくがあった。大阪おおさかでも「浪花節なにわぶし」になるのは大正たいしょう12ねんである[53]大阪おおさかから西にし地方ちほうでは「かれぶし」というかたおもであった。中村なかむら幸彦さちひこ研究けんきゅうにより、大阪おおさかかれぶし明治めいじ4ねんよりまえには寄席よせ出演しゅつえんたしていること判明はんめいしている[54][55][注釈ちゅうしゃく 14]横浜よこはま本牧ほんもくヒラキ祭文さいぶんかたって活躍かつやくしていた青木あおき勝之助かつのすけのち美弘よしひろしゃ東一ひがしいち玉川たまがわ)が、寄席よせ進出しんしゅつ運動うんどう私費しひすべとうじ、東京とうきょう四谷よつや寄席よせ山本やまもとちん」に出演しゅつえんしたことを嚆矢こうしとする[56][57]浪花節なにわぶし差別さべつされ[注釈ちゅうしゃく 15]組合くみあい結成けっせい寄席よせへの出演しゅつえん容易よういにはかなわず、相変あいかわらず浅草あさくさ奥山おくやま両国りょうこく広小路ひろこうじ[58]上野山うえのやました[注釈ちゅうしゃく 16]神田かんだすじたがえ秋葉あきばはら[注釈ちゅうしゃく 17]八丁堀はっちょうぼり三角さんかく銀座ぎんざ采女うねめはら[注釈ちゅうしゃく 18]さくら田久保たくぼまちはら[注釈ちゅうしゃく 19]下谷しもたに佐竹さたけはら[注釈ちゅうしゃく 20]本所ほんじょ津軽つがるはら[注釈ちゅうしゃく 21]といったさかヒラキがその中心ちゅうしんであった[注釈ちゅうしゃく 22]東京とうきょうにおける浪花節なにわぶし成立せいりつ同業どうぎょう組合くみあい結成けっせい寄席よせ出演しゅつえん時期じき諸説しょせつありはっきりせず[注釈ちゅうしゃく 23][注釈ちゅうしゃく 24]明治めいじ12ねんまでにはゆう芸人げいにん鑑札かんさつていたようである。また「浪花節なにわぶし」としょうしたグループだけでなく、周辺しゅうへん芸能げいのう推定すいていされている「歌祭文うたざいもんぶし」「ぶし一中節いっちゅうぶしではない)」「ななしょくぶし」などが、それぞれにさかヒラキ活動かつどうし、勢力せいりょく維持いじしていた。ただ二郎じろう実録じつろく浪曲ろうきょく』によれば、1882ねん明治めいじ15ねん)(当時とうじ浪花節なにわぶし組合くみあい頭取とうどり芝新しばしんもう藤本ふじもと清助せいすけしば浜松はままつまち春日井かすがい善太郎ぜんたろうの2めい)から1888ねん(21ねん)にいたるまで「浪花節なにわぶし」より「ななしょくぶし」の芸人げいにんかずおおきく上回うわまわっていた。それが、1891ねん明治めいじ24ねん)をさかいとして情勢じょうせい一変いっぺんし、「ななしょくぶし」の人数にんずう激減げきげんする。「ぶし」「歌祭文うたざいもんぶし」も減少げんしょうし、「浪花節なにわぶし」だけが微減びげんにとどまった。なお、当時とうじ浪花節なにわぶし芝新しばしんもう七色なないろぶし浅草あさくさ神田かんだおおく、また、七色なないろぶし浪花節なにわぶし大差たいさはなく、あわせて越後えちご五色ごしき軍談ぐんだん[59][60]との関連かんれんせい指摘してきされている[61]。このころ春日井かすがいから組合くみあい頭取とうどりいだ浪花なにわちん駒吉こまきちは、講釈こうしゃくひるせきかよ演題えんだい仕入しいれ、また説経節せっきょうぶし日暮ひぐらしりゅうぼくふし調ちょうならうことで、あい三味線しゃみせん戸川とがわてるとともに、浪花節なにわぶしというげい向上こうじょうつとめ、のちに「関東節かんとうぶし」とばれるようになる。

当時とうじは、しゃくだいまえ着流きなが姿すがたすそをはしょる姿すがたで、説経節せっきょうぶしつたわる「小栗おぐり判官ほうがん」や「刈萱かるかや」などの寺社じしゃ縁起えんぎもの[注釈ちゅうしゃく 25]、「鬼神きじんのおまつ」「八百屋やおやしち」などの巷間こうかんのこかたものなどがおもえんじられ、「風呂ふろがえりのぬぐいをかたにしたそのかせぎの勤労きんろうしゃ」がいているというのが普通ふつう寄席よせ風景ふうけいだったという[62]。また1889ねん明治めいじ22ねん)における大阪おおさか名護なごまち寄席よせでは「まだ大道芸だいどうげい時代じだい猥雑わいざつ雰囲気ふんいきのこ小屋こやなかえんじられているかれぶしは「暁天ぎょうてんほし五郎ごろう新門しんもん辰五郎たつごろう国定くにさだ忠治ただはる」といった侠客きょうかくもの白浪しらなみもので」あった[63]

また、吉川よしかわしょうしげる桃中軒とうちゅうけん雲右衛門くもえもん)は、この時期じきヒラキにていた。新聞しんぶん紙上しじょう自身じしん連載れんさいにて告白こくはくしたところによれば、浪花なにわちん浜勝はまかつ駒吉こまきち弟子でし)の手下てしたとしてさんボリ(山場やまばで3かい集金しゅうきんまわること)をしたという[64]

寄席よせげいとしての隆盛りゅうせい

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そのやまはしせきから都心としんおおきな寄席よせへの進出しんしゅつさかんになっていく。しかし、職域しょくいきおかされはじめた講談こうだん落語らくごからは「ご入来にゅうらい」と蔑視べっしされていた。

浪花節なにわぶし寄席よせ口演こうえん風景ふうけい

大阪おおさかでもかれぶしせんもん寄席よせ1884ねん明治めいじ17ねん)から1889ねん明治めいじ22ねん)にかけて、天満てんま国光くにみつせき」、松島まつしま広沢ひろさわかん」、千日前せんにちまえあいしんかん」など)やかれぶし組合くみあい岡本おかもと義治よしはる版権はんけん問題もんだい対応たいおうする必要ひつようから愛国あいこくしゃ明治めいじ28ねん結成けっせい[65]。のちの「親友しんゆう組合くみあい」から親友しんゆう協会きょうかいいたる)ができた。

1892ねん明治めいじ25ねんごろには、浪花節なにわぶし寄席よせ定着ていちゃくがあり[66][注釈ちゅうしゃく 26]東京とうきょうではいきおいがす。落語らくご講談こうだん紛争ふんそうきている。明治めいじ26ねん講釈こうしゃく落語らくご浪花節なにわぶしかたりとの合同ごうどう演芸えんげいかい遊楽ゆうらくかん企画きかくされた[67]が、講談こうだん落語らくごがわ共演きょうえん拒否きょひ手打てうちとして1894ねん明治めいじ27ねん)2がつ10日とおか・11にち神田かんだにしきてるかん」にてさんだいしゅう演芸えんげいかいひらかれる。(落語らくごやなぎれんさん代目だいめ春風しゅんぷうていやなぎえだ初代しょだいだんしゅうろうつばめえだ、(浪花節なにわぶしれん初代しょだい鼈甲べっこうとき虎丸とらまる浪花なにわちん駒吉こまきち、(落語らくごさんゆうれんよん代目だいめたちばなまどかたかし初代しょだいさんゆうていえんゆう[68][69][70]

1897ねん明治めいじ30ねん)、斎藤緑雨さいとうりょくうがその作品さくひん『おぼえちょう』にいた[71]ころには、都心としん東京とうきょう日本橋にほんばし葺屋まちもと吉原よしわらそば)の「だいろじ」[72]浪花節なにわぶし出演しゅつえん[73]駒吉こまきちや、門下もんか浪花なにわちんほうきち浪花なにわちん愛造あいぞう活躍かつやくもあり、1900ねん明治めいじ33ねん)には、東京とうきょう市内しない寄席よせ120けんのうち53けん浪花節なにわぶしおもにかける(定席じょうせき)までにいきおいを[74]従来じゅうらい入来にゅうらい」(ごにゅうらい)とわれ、代名詞だいめいしとしてさげすまれた要因よういんでもあった外題げだいけ(物語ものがたり導入どうにゅう)を、主題しゅだいごとにあらため、物語ものがたり内容ないよう改良かいりょうし、衣装いしょうくろ紋付もんつきはかま姿すがたにするなどしてげいかくげる。

このように明治めいじ中期ちゅうきには東西とうざいで、主任しゅにんつとめるかたち寄席よせげいとしての地位ちい確立かくりつされた。

東京とうきょう浪花節なにわぶしにはえた出番でばんもとめて、名古屋なごや早川はやかわたつつばめ初代しょだい鼈甲べっこうとき虎丸とらまる末広すえひろちん清風せいふうなど)や大阪おおさか京山きょうざんだいきょう京山きょうやまきょうためなど)からかれぶしかたりが続々ぞくぞく上京じょうきょう参入さんにゅうする[75]出番でばんめぐって神田かんだ市場いちばてい」やしばさらてい」などの有力ゆうりょくせき亭主ていしゅがわ関東かんとう地元じもと芸人げいにんがわ対立たいりつし、芸人げいにん中心ちゅうしんに「関西かんさい神田かんだぐみ)」とばれるあいしんしゃたつつばめ虎丸とらまる清風せいふう三河みかわうめしゃ代目だいめ吉川よしかわしげるよし雲右衛門くもえもん)など)と「関東かんとう浅草あさくさぐみ)」とばれるきょう盛会せいかい浪花なにわちんいち初代しょだい東家とうげらくゆう武蔵むさしよしみ春日しゅんじつてい清吉せいきちなど)にかれ[76][77]、この構図こうずはさらに分派ぶんぱみながら[78]大正たいしょう時代じだいつづ[注釈ちゅうしゃく 27]

またべつながれとして、熊本くまもとけんから九州きゅうしゅう一帯いったい制覇せいはしていた「糸入いとい軍談ぐんだんよしとういち調ちょう1898ねん明治めいじ31ねん)に上京じょうきょうし、きゅうだん偕行社かいこうしゃにて、東宮とうぐう皇族こうぞくかく大臣だいじん陸軍りくぐん将校しょうこうまえでの公演こうえんを、1902ねん明治めいじ35ねん)には6がつ18にちから6日間にちかん東京とうきょう銀座ぎんざ歌舞伎座かぶきざ浪花節なにわぶし関連かんれんでははつ公演こうえんをしている。昼夜ちゅうやかいにわたり教育きょういく活動かつどう写真しゃしん[79]わせて、にちしん戦争せんそうだんきたきよし事変じへん口演こうえん神田かんだにしきてるかん明治めいじでお名残なごり公演こうえんおこなっている)。[80][81][82]明治めいじ39ねんまつにも上京じょうきょう浪花節なにわぶしれん助演じょえん慈善じぜん公演こうえんする。

1903ねん明治めいじ36ねん)、愛造あいぞう浪曲ろうきょくかいはじめてのレコードばんみをする(当時とうじSPレコード[83]1906ねん明治めいじ39ねん)には東京とうきょう浪花節なにわぶし人気にんきおおきくがり、10月には『新聞しんぶん』の演芸えんげいさんすぐる投票とうひょうがあり(芸能げいのうかい人気にんき投票とうひょう明治めいじ時代じだいにはすでさかんであったわけである)、そのとし流行りゅうこうをまとめた「エスペラント浪花節なにわぶし」という言葉ことば新聞しんぶんおどった[84]。このころ名古屋なごや中心ちゅうしんだい流行りゅうこうした(説経せっきょう源氏げんじたかしがある[85][86][注釈ちゅうしゃく 28]

雲右衛門くもえもん凱旋がいせん劇場げきじょうげい・レコード

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にち戦争せんそう勝利しょうり余韻よいんもまだめない1907ねん明治めいじ40ねん)、三河そうごうめしゃつまはまとのにより雌伏しふくし、突如とつじょ弟子入でしいりを志願しがんしてきた大陸たいりく浪人ろうにん宮崎みやざき滔天とうてん配下はいかにしていた[注釈ちゅうしゃく 29][注釈ちゅうしゃく 30]桃中軒とうちゅうけん雲右衛門くもえもんが、総髪そうはつ紋付もんつきはかま姿すがた屏風びょうぶに、「不弁ふべん」とうのみで(つまり外題げだいけもしに)いきなり本題ほんだいはいるというしん演出えんしゅつ、「武士ぶしどう鼓吹こすい」を旗印はたじるしにし、演目えんもくげんようしゃ助力じょりょくにより台本だいほん内容ないようたかめた義士ぎしでんばかりというしん機軸きじく[87]で、一息ひといき非常ひじょうながい「さんだんながし」を駆使くしし、研鑽けんさん九州きゅうしゅうすみ坑夫こうふ港湾こうわん労働ろうどうしゃからき、それまでおおおこなっていた慈善じぜん興行こうぎょうよしとういち調ちょう踏襲とうしゅうしている)により上流じょうりゅう中流ちゅうりゅう婦人ふじん人気にんきがあったという[88])から神戸こうべ有栖川ありすがわみや御前ごぜん口演こうえんもあった)、大阪おおさか京都きょうと東上とうじょうしつつ続々ぞくぞくかせてゆく。それが新聞しんぶん記事きじによりおおきな話題わだいになるなか、ついには6がつ東京とうきょうだい劇場げきじょう[注釈ちゅうしゃく 31]本郷ほんごう進出しんしゅつ、27にちものあいだ連日れんじつ3時間じかん以上いじょう長講ちょうこう、2500にん収容しゅうよう劇場げきじょうちょう満員まんいんにする[89]風雲児ふううんじ雲右衛門くもえもんにより、人気にんき大衆たいしゅうてきなものから、当時とうじから浪花節なにわぶし嫌悪けんおしていた上流じょうりゅう中流ちゅうりゅうそうにまでひろがり、席巻せっけんする。雲右衛門くもえもんのインパクトはつよく、浪曲ろうきょくのスタイル確立かくりつおおきく影響えいきょうした反面はんめん居丈高いたけだかなイメージも浪曲ろうきょく一般いっぱんてきなイメージ形成けいせいにいまだ影響えいきょうあたえてつづけている[注釈ちゅうしゃく 32]直後ちょくご1908ねん明治めいじ41ねん)2がつ大阪おおさか吉田よしだ奈良丸ならまる対抗たいこうするように「日本一にっぽんいち」のごえともな東上とうじょうし、新富しんとみ出演しゅつえん[90][91]、さらに11月には初代しょだい京山きょうやましょうえん同座どうざがるなど、寄席よせげいとして定着ていちゃくしてわずか20ねんほどの新興しんこう演芸えんげい浪花節なにわぶしは、一気いっきせんにん以上いじょう客席きゃくせきめることが出来でき劇場げきじょう芸能げいのうとなる。

くも東上とうじょう桃中軒とうちゅうけん如雲[92]てんちゅうのきくもがつ[93]篠田しのだみのる[94]山田やまだ芳夫よしお[95]うめちゅうのきうぐいすわらわなどが「天才てんさい少年しょうねん」として全国ぜんこくから続々ぞくぞく登場とうじょうし、それぞれ人気にんきぶ。

こうして浪花節なにわぶしは、明治めいじ末期まっきには落語らくご講談こうだんをはるかにしのぐ人気にんきとなる[96]明治めいじ38ねんには東京とうきょう浪曲ろうきょくかず落語らくご講談こうだんき、明治めいじ40ねんには448めいとピークをむかえる。落語らくごの2ばいきょう講談こうだんの4ばいじゃくである[注釈ちゅうしゃく 33]当時とうじ寄席よせみの名人めいじんとしては、東西とうざい一心いっしんてい辰雄たつお春日かすがてい清吉せいきち初代しょだい東家とうげらくゆうあらたさとらくときさん叟や岡本おかもと鶴治つるじ(おかもと かくじ)などがいる。

奈良丸ならまるのレコードが発売はつばいされ、代名詞だいめいしとなった「日本一にっぽんいち」の流麗りゅうれいかたりで、わせて売上うりあげ50まんまいおよび、誕生たんじょうあいだもない日本にっぽんのレコード・蓄音機ちくおんき全国ぜんこくてき普及ふきゅう[97]おおきな貢献こうけんたす[98][99](この時期じき以降いこう浪花節なにわぶし浪曲ろうきょく)の人気にんきしゃ数多かずおお音源おんげんされている)。その三河屋みかわやえんしゃの『どんどんふし[100]や、奈良丸ならまるのメロディを使つかった俗曲ぞっきょく奈良丸ならまるくずし[101][102][103][注釈ちゅうしゃく 34]またこの時期じき落語らくご講談こうだんから一足ひとあしおくれで、浪花節なにわぶしでも速記そっきほん多数たすう出版しゅっぱんされる。ちなみに当時とうじ(1912ねん)、浅草寺せんそうじ境内けいだい薬師堂やくしどうわき)で見世物みせものひとつとしてくことが出来できろうかんレコード浪花節なにわぶし木村きむら重松しげまつ浪花なにわちん愛造あいぞう鼈甲べっこうとき虎丸とらまるひとしふしまね)[104]その演目えんもくは「中山なかやま堀部ほりべ安兵衛やすべえ赤垣あかがき源蔵げんぞう大岡おおおか政談せいだん五寸釘ごすんくぎ寅吉とらきち鍋島なべしまねこ騒動そうどう雷電らいでん小野川おのがわ国定くにさだ忠治ただはる安中あんなかくさ三郎さぶろう宮本みやもとろくさんよん武蔵むさし)、てんいちぼう桂川かつらがわ力蔵りきぞうはたずいいん長兵衛ちょうべえ檜山ひやま大作だいさく明石あかし仁王におう宮本みやもと左門さもんかい桜川さくらがわ五郎ごろうぞうわらい山中やまなか鹿之助しかのすけねずみ小僧こぞうあねひゃくかわ内山うちやま宗俊むねとし」というものだった[105]講談こうだんさかんにれられ、義士ぎしでん浪花節なにわぶし演目えんもくとしてくわわりはじめていた。

そんななか1913ねん大正たいしょう2ねん)、講談こうだん倶楽部くらぶ』の臨時りんじ増刊ぞうかん浪花節なにわぶしじゅうはちばん刊行かんこうたり、講釈こうしゃくれん出版しゅっぱんもと講談社こうだんしゃ対立たいりつきる[106][107][108][注釈ちゅうしゃく 35]。また、この時期じき[注釈ちゅうしゃく 36]関東かんとうでは浪花節なにわぶしもととなったわれるほどの名門めいもん浪花なにわていから重勝しげかつ重松しげまつ重友しげとも重正しげまさなど木村きむら一派いっぱ独立どくりつする騒動そうどうきる。

1904ねん7がつ4にち大審院だいしんいんは、桃中軒とうちゅうけん雲右衛門くもえもん海賊版かいぞくばんレコードの著作ちょさくけん違反いはん事件じけんで、浪花節なにわぶし著作ちょさくけんほうじょう音楽おんがくてき著作ちょさくぶつでないと判定はんていし、損害そんがい賠償ばいしょう請求せいきゅうをも否定ひていした[109]

浪花節なにわぶし」が「浪曲ろうきょく」とばれはじめたのは新聞しんぶん紙上しじょう[注釈ちゅうしゃく 37]、その徐々じょじょひろまり、昭和しょうわはいってから「浪花節なにわぶし」のってわるようになる[110]。このころからおおくの浪曲ろうきょくにより忠臣蔵ちゅうしんぐら浪花節なにわぶしえんじられる。あまりに義士ぎしでんばかりがかかるため、「義士ぎしでん禁止きんし」の貼紙はりがみ楽屋がくやかかげられたり、当時とうじ川柳せんりゅうに「武士ぶしどうも ついにかれらに 鼓吹こすいされ」[111][112][注釈ちゅうしゃく 38]われたりするほどで、その内容ないようは、武士ぶしどう拍手はくしゅをする民衆みんしゅう視点してんよりも、武士ぶしどうそれ自体じたい宣伝せんでんにと視点してんわっていった[113][114]。わかりやすさをわれて浪花節なにわぶしはやくより民衆みんしゅう教化きょうか利用りようされ、1919ねん大正たいしょう8ねん)、国民こくみん思想しそう統一とういつ旗印はたじるし古賀こがれんづくりらの肝煎きもいりで「通俗つうぞく教育きょういく研究けんきゅうかい」が結成けっせいされ、よく1920ねん大正たいしょう9ねん)のだい1かい国勢調査こくせいちょうさ大阪おおさか東京とうきょう要請ようせいけ、宣伝せんでん説明せつめいやくにな[115][116][注釈ちゅうしゃく 39]。また、当時とうじさかんにおこなわれ急増きゅうぞうした海外かいがい移民いみんたいする排日はいにち感情かんじょうたかまるなか移民いみんって奈良丸ならまる[117]はじめとした浪曲ろうきょくたちにより、樺太からふと台湾たいわん朝鮮ちょうせん満州まんしゅうはもちろんのこと、ハワイアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく本土ほんど[118]ブラジル[119]まで海外かいがい巡業じゅんぎょうおこなわれるようになる。

一時いちじ停滞ていたいした浪花節なにわぶし[120]も、前記ぜんきさん巨頭きょとうつぎ世代せだいさん代目だいめ鼈甲べっこうとき虎丸とらまる[121]東家あずまやらくつばめ木村きむら重友しげともで「三羽烏さんばがらす」、さらに初代しょだいてんちゅうのきくもがつくわえ、四天王してんのうしょうされる。1923ねん大正たいしょう12ねん)、関東大震災かんとうだいしんさいのち篠田しのだみのるのレコード『紺屋こんや高尾たかお』が空前くうぜんだいヒットをばす。寄席よせは、内容ないよう飛躍ひやくてき充実じゅうじつしていく活動かつどう写真しゃしん映画えいが)に興行こうぎょうてきされはじめる。弁士べんし転向てんこうしたれいおおくあったという。

いちにぎりである劇場げきじょうみの大家たいかは、おおきな資産しさんつほどになる[注釈ちゅうしゃく 40]が、おおくの無名むめい浪曲ろうきょく地方ちほう巡業じゅんぎょう寄席よせ出演しゅつえん糊口ここうしの[注釈ちゅうしゃく 41]大家たいか偽物にせものまぎらわしい芸名げいめいのエピソードも数多かずおおくあった。

以下いかは、1919ねん大正たいしょう8ねん)に関西かんさいのオリエントレコードを傘下さんかにし[122]日本にっぽん蓄音器ちくおんきレコードかい最大さいだいのメーカーとなったニッポノホン(日本にっぽん蓄音器ちくおんき商会しょうかいげん日本にほんコロムビアそう目録もくろく(1926ねん大正たいしょう15ねん)5がつ発行はっこう)のジャンルべつ内訳うちわけである[123][注釈ちゅうしゃく 42][124][125][注釈ちゅうしゃく 43]

ジャンル 発売はつばい枚数まいすう 代表だいひょう作品さくひん
童謡どうよう 37 十五夜じゅうごやつきほんきょみどり[126][127]など
独唱どくしょう唱歌しょうか 74 埴生はにゅう宿やどはら信子のぶこ、「シューベルトの子守こもりうた三浦みうらたまきなど
とぎ歌劇かげき 29 一寸法師いっすんぼうし」など
歌劇かげきげき 13 ゴンドラのうた松井まつい須磨子すまこ、「カルメンのうた中山なかやま歌子うたこ[128]など
吹奏楽すいそうがく管弦楽かんげんがく 42 きみ行進曲こうしんきょく海軍かいぐん軍楽隊ぐんがくたい、「ダニューブ・ワルツ」「軍艦ぐんかん行進曲こうしんきょく陸軍りくぐん戸山とやま軍楽隊ぐんがくたいなど
独奏どくそう 15 ヴァイオリン>「ミニュエット」<ベートーヴェンカスリーン・パーロウ英語えいごばん[129][130]など
ハーモニカ 37 ラ・パロマ」「越後獅子えちごじし川口かわぐち章吾しょうご[131]など
合奏がっそう 11 和洋わよう合奏がっそう>「新内しんないなが」「やつさん」など
尺八しゃくはち 30 やまりゅうきん古流こりゅう>など
琵琶びわ 117 にしきしんりゅう筑前ちくぜん琵琶びわ高峰たかみね琵琶びわ>など
謡曲ようきょく 21 隅田川すみだがわ宝生ほうしょう九郎くろうなど
長唄ながうた 116 娘道成寺むすめどうじょうじ芳村よしむら伊十郎いじゅうろうなど
清元きよもと 55 神田かんださい久太夫きゅうだゆう[132]など
常磐津ときわづ 33 将門まさかど松尾まつお太夫たゆうなど
新内しんない 13 らんちょう富士ふじまつ加賀かが太夫たゆうなど
歌沢うたざわ 16 ゆうぐれ[よう曖昧あいまい回避かいひ]歌沢うたざわとらみぎ衛門えもんなど
はしうた小唄こうた 64 都々逸どどいつ」「大津おおつ[133]」「さのさ[134]」「うみ晏寺」「びんのほつれ」「御所車ごしょぐるま」※なお次項じこうに「俚謡りよう」のがあるが、はしうた小唄こうたに「かもみどりこうたかし[135]」「しおらいふし[136]」「仙台せんだいぶし[137]」「木曽きそたかし」「大島おおしまたかし[138]」などが混載こんさいされている。
俚謡りよう 64 安来やすぎぶしさん津島つしま勝子かつこ[139]、「いそたかし関根せきね安中あんなか[140]、「追分おいわけ」「八木やぎたかし」など
歌舞伎かぶきげき 43 あずかはなしじょう浮名うきなよこくし尾上おがみ梅幸ばいこうなど
映画えいが説明せつめい 10 アントニーとクレオパトラ染井そめい三郎さぶろう[141]ほか
太神楽だいかぐら

阿呆陀羅経あほだらきょう

11 伊勢いせ音頭おんどうめ坊主ぼうずなど
落語らくご 28 そこつ長屋ながや柳家やなぎやさんなど
浪花節なにわぶし 207 東家あずまやらくつばめ吉田よしだ奈良丸ならまるてんちゅうのきくもがつ篠田しのだみのる桃中軒とうちゅうけん雲右衛門くもえもんなど
義太夫ぎだゆう 74 寺子屋てらこや竹本たけもと南部なんぶ太夫たゆうなど

ラジオの登場とうじょう戦時せんじ協力きょうりょく

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日本にっぽん放送ほうそう協会きょうかい発足ほっそく

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ラジオ放送ほうそうはじまると、1925ねん大正たいしょう14ねん演芸えんげいひとつとしてはじめてラジオに登場とうじょう。5月15にち試験しけん放送ほうそうちゅう大阪おおさか放送ほうそうきょく(BK)に宮川みやがわまつやすし浪花節なにわぶし関東かんとう開局かいきょくから3ヶ月かげつおくれでAKに春日しゅんじつてい清吉せいきち登場とうじょうする。[142][注釈ちゅうしゃく 44]

つき. 種目しゅもく 題名だいめい 出演しゅつえんしゃ
3.2 落語らくご おんなのりんき やなぎていひだりたのし
3.5 講談こうだん 大瀬おおせなかば五郎ごろう 神田かんだはくやま
3.11 映画えいが物語ものがたり 無情むじょう 熊岡くまおか天童てんどう
4.14 民謡みんよう 追分節おいわけぶし 小林こばやし孝江たかえ
6.8 浪花節なにわぶし 柳生やぎゅうぶたかさ 春日しゅんじつてい清吉せいきち
6.13 浪花節なにわぶし 荒木あらきひがしくだ 浪花なにわちんほうきち

[143] [144]

回数かいすう 演題えんだい 回数かいすう 演題えんだい 回数かいすう 演題えんだい
82 大石おおいし内蔵助くらのすけ 28 慶安けいあん太平たいへい 14 堅田かただ
. 南部なんぶざか(20かい 28 清水次郎長しみずのじろちょう 14 太閤たいこう
. 山鹿やまが護送ごそう(14かい 25 塩原しおばら多助たすけ 13 天保てんぽうろくはなせん
. 山科やましなつま子別こわかれ(14かい 24 伊達だて騒動そうどう . かわ内山うちやま宗俊むねとし(7かい
. 大石東おおいしひがしくだり(7かい . 伊達だてだい評定ひょうじょう(11かい 13 明石あかし切捨きりすて
. 久馬きゅうまくすり献上けんじょう(6かい 23 水戸黄門みとこうもん 13 安宅あたかせき
38 堀部ほりべ安兵衛やすべえ 22 夕立ゆうだちかんろう 12 夕立ゆうだちかんろう
. 安兵衛やすべえ婿むこいれ(12かい 21 寛永かんえいさん馬術ばじゅつ 11 加賀かが騒動そうどう
. 孝子こうし迷の印籠いんろう(9かい . あいだかきたいら九郎くろう(6かい 11 だい西郷さいごう
22 赤埴あかはに源蔵げんぞう 19 てん保水ほすい滸伝 11 明治めいじ裁判さいばん
21 天野あまの利兵衛りへえ 19 つぼざか霊験れいけん 11 五郎ごろう正宗まさむねつたえ
304 義士ぎしでん関係かんけい総計そうけい 18 金比羅こんぴら利生りしょう 10 成田なりた利生りしょう
68 乃木のぎ将軍しょうぐん 18 柳田やなぎだかくこれしん 10 ぐみ辰五郎たつごろう
. 辻占つじうらり(11かい 17 国定くにさだ忠治ただはる 10 小金井こがねい小次郎こじろう
. 塩原しおばら温泉おんせん(5かい 17 ゆうてん吉松きちまつ 10 はたずいいん長兵衛ちょうべえ
39 寛政かんせい力士りきしでん 16 桜川さくらがわ五郎ごろうぞう 10 柳生やぎゅう日記にっき
. たに風情ふぜい角力すもう(6かい 16 有馬ありまねこ騒動そうどう[145] . 柳生やぎゅうぶたかさ(5かい
. 雷電らいでん(20かい 16 安中あんなかくさ三郎さぶろう 10 荒木あらき又右衛門またえもん
. えつうみ勇蔵ゆうぞう(5かい 15 紀国屋きのくにや 10 源平げんぺい盛衰せいすい
30 佐倉さくら義民ぎみんでん 15 たちばな 英夫ひでお 10 関取せきとりせんりょうのぼり
30 大岡おおおか政談せいだん 14 ひだり 甚五郎じんごろう .
. 越後えちご伝吉でんきち(10かい 14 召集令しょうしゅうれい .

昭和しょうわ初期しょきのラジオの浪曲ろうきょく演題えんだい参考さんこう提示ていじする。これはさんきょく時代じだいのあと、全国ぜんこく中継ちゅうけい可能かのうになった昭和しょうわ4ねんから7ねんまでのかく放送ほうそうきょく合計ごうけいである[146]

その日本にっぽん放送ほうそう協会きょうかい(のちのNHK)ネットワークの完成かんせい浪花節なにわぶし人気にんき全国ぜんこくてきひろまる。

地方ちほう いち さん よん
関東かんとう 浪花節なにわぶし 講談こうだん 落語らくご人情噺にんじょうばなし 琵琶びわ 里謡りよう民謡みんよう
関西かんさい 浪花節なにわぶし 落語らくご人情噺にんじょうばなし 講談こうだん 琵琶びわ 義太夫ぎだゆう
東海とうかい 浪花節なにわぶし 義太夫ぎだゆう 落語らくご人情噺にんじょうばなし 講談こうだん 琵琶びわ
中国ちゅうごく 浪花節なにわぶし 琵琶びわ 義太夫ぎだゆう 謡曲ようきょく 里謡りよう民謡みんよう
九州きゅうしゅう 浪花節なにわぶし 謡曲ようきょく 義太夫ぎだゆう 琵琶びわ ラジオドラマ
東北とうほく 浪花節なにわぶし 里謡りよう民謡みんよう 講談こうだん 琵琶びわ 謡曲ようきょく
北海道ほっかいどう 浪花節なにわぶし 里謡りよう民謡みんよう 謡曲ようきょく 琵琶びわ 講談こうだん

浪曲ろうきょく昭和しょうわ初年しょねんにおいては庶民しょみん支持しじされ、1932ねん昭和しょうわ7ねん)に実施じっしされた「全国ぜんこくラジオ調査ちょうさ」では、ラジオ聴取ちょうしゅしゃこの番組ばんぐみだいいち浪曲ろうきょくで、全体ぜんたいの57パーセントをめた[147]肉弾にくだんさん勇士ゆうし事件じけんきると、熱狂ねっきょうなか芸能げいのうさききそうように寿ことぶき木米きよねわかさん代目だいめ吉田よしだ奈良丸ならまる初代しょだい木村きむら友衛ともえなどがいちはやくレコードをする[注釈ちゅうしゃく 45]昭和しょうわ9ねんごろから浪花節なにわぶし慰問いもんはじめたという[148]。この時期じき東家あずまやらくつばめ校長こうちょうとして、日本にっぽん浪曲ろうきょく学校がっこう[149][150]設立せつりつされ、のちの三波みなみ春夫はるお入学にゅうがくしている[151]。 「忠君ちゅうくん愛国あいこく」「義理ぎり人情にんじょう[27]賛美さんびした演題えんだい国民こくみん教化きょうか利用りようされる。より一層いっそうラジオで放送ほうそうされ[152]七五調しちごちょうった平易へいいふし調ちょう軽快けいかいなセリフ(啖呵たんか)がもてはやされて、庶民しょみん人気にんきはくした。浪花なにわちんあや太郎たろうつぼざか霊験れいけん代目だいめ広沢ひろさわ虎造とらぞう清水次郎長しみずのじろちょうでん代目だいめ玉川たまがわ勝太郎かつたろうてん保水ほすい滸伝、寿ことぶき木米きよねわか佐渡さど情話じょうわ三門みかどひろしうた観音かんのんけい初代しょだい春日井かすがいうめうぐいす赤城あかぎ子守こもりうたなどが次々つぎつぎ一世いっせい風靡ふうび[153]戦前せんぜんまで全盛ぜんせいむかえる。

[参考さんこう]そうレコード制作せいさく枚数まいすう
昭和しょうわ12ねん7がつ1にち昭和しょうわ13ねん6がつ末日まつじつ統計とうけい
単位たんいまんまい見込みこみ過去かこ手持てもりさばきぶんふくむ)
メーカー そう制作せいさく枚数まいすう 売上うりあげ見込みこみ枚数まいすう
コロムビア 603 601
ビクター 418 337
ポリドール 339 260
テイチク 226 220
キング 143 88
タイヘイ 201 130
アサヒ 41 46
ショウチク 85 85
コッカ 37 31
福永ふくなが 32 30
コムパル 3 3
ニッポン 8 6
合計ごうけい 2136 1836
1ヶ月かげつ平均へいきん 178 153

原典げんてん:『出版しゅっぱん警察けいさつほうだい113ごう、1938ねん昭和しょうわ13ねん)9がつ出典しゅってん:『近代きんだい日本にっぽん芸能げいのう年表ねんぴょう 』p.190

また、二代目天中軒雲月戦後せんご伊丹いたみ秀子ひでこ改名かいめい)のななしょくこえ[154]で「杉野すぎの兵曹へいそうちょうつま」や「きゅうだんはは」がだいヒットする。当時とうじ軍人ぐんじん政治せいじ浪曲ろうきょくきがおおく、歴代れきだい総理そうり大臣だいじん趣味しゅみ浪花節なにわぶし相場そうばまっていたという。れいとしてはやしずくじゅうろうなど[155]

一人ひとり一芸いちげい」「個人こじんげい」と巷間こうかんいわれるほど、浪曲ろうきょく各自かくじふし個性こせい人気にんき知名度ちめいど、さらに収入しゅうにゅう直結ちょっけつし、浪曲ろうきょく寄席よせ東京とうきょうにおいて、徐々じょじょつづけ、次代じだい育成いくせい機能きのう戦中せんちゅうに、音羽おとわから浅草あさくさかねしゃいちけんぐらいになる。一方いっぽうレコードやラジオによる全国ぜんこくてき知名度ちめいど獲得かくとく収入しゅうにゅう浜町はまちょう明治めいじ京橋きょうばし新富しんとみ京都きょうと南座みなみざ大阪おおさか道頓堀どうとんぼりかくなど以前いぜんより馴染なじみの劇場げきじょうだけでなく、銀座ぎんざ歌舞伎座かぶきざ[156]をはじめとした一流いちりゅうだい劇場げきじょうでの独演どくえんかい浪曲ろうきょく大会たいかい[157]でのだい収入しゅうにゅう知名度ちめいどかした地方ちほう地方ちほう巡業じゅんぎょうといったのち演歌えんかにも類似るいじした構造こうぞうがあらわになる。

浪花節なにわぶし同様どうよう演題えんだいち、大家たいかがラジオ出演しゅつえんかさねた講談こうだん[158]や、きんえんじ落語らくご[159]などにより時節柄じせつがら下火したびになるが、戦後せんごおおきく復活ふっかつ興隆こうりゅうする落語らくご戦中せんちゅうには講談こうだん落語らくご協会きょうかいとして統合とうごうされる)とは対照たいしょうてきに、当時とうじ最新さいしん新興しんこう芸能げいのうであった漫才まんざいなどとともにもてはやされ(わらわしたいなどの慰問いもんだん隆盛りゅうせいむかえる。

軍事ぐんじ協力きょうりょく愛国あいこく浪曲ろうきょく

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1940ねん昭和しょうわ15ねん)8がつ16にち広沢ひろさわ虎造とらぞう映画えいが出演しゅつえん問題もんだいめぐっての、浅草あさくさ田島たじままち殺傷さっしょう事件じけんは、浪曲ろうきょく伝統でんとう生活せいかつちゅうの、もっと悪質あくしつぞくする部分ぶぶんのあらわれとてよい[160][161][注釈ちゅうしゃく 46][162]総動員そうどういん体制たいせいなか戦争せんそう協力きょうりょく促進そくしん企図きと国威こくい発揚はつようのために「浪曲ろうきょく向上こうじょうかい」(1941ねん5がつ27にち発足ほっそく斎藤さいとうりゅう会長かいちょう[163])が結成けっせいされ、おおくの浪曲ろうきょく作家さっか動員どういんされる。愛国あいこく浪曲ろうきょく情報じょうほうきょく大政たいせい翼賛よくさんかいきもいりで続々ぞくぞくつくられることとなる[164]

1940ねん11月26にち-28にち(3日間にちかん明治めいじ
1940ねん11月26にち-29にち(4日間にちかん浅草あさくさ松竹しょうちく
1940ねん11月28にち-29にち(2日間にちかん横浜よこはま宝塚劇場たからづかげきじょう
1940ねん12がつ下旬げじゅん 大阪おおさか中座ちゅうざ

愛国あいこく浪曲ろうきょくは、それまでとかく低俗ていぞく下品げひんなものとされてきたことへの対抗たいこうする路線ろせん延長線えんちょうせんじょうにあり[189]ひとつの集大成しゅうたいせいでもあった。また、軍事ぐんじものをりにしないタイプの浪曲ろうきょく総動員そうどういんをかけるかたちひらかれた。こころみはおおむ定着ていちゃくせず[190]、しかし結果けっかてき浪曲ろうきょくは、さき大戦たいせん積極せっきょくてき加担かたんした芸能げいのう[191]としても記憶きおくされた[192][193][194]

まるうち帝国ていこく劇場げきじょうは、情報じょうほうきょく講堂こうどうとして接収せっしゅうされ[195][196]1941ねん昭和しょうわ16ねん)1がつ30にち愛国あいこく浪曲ろうきょく試聴しちょうかい[197][198]。1942ねん5がつ軍用ぐんよう献納けんのう浪曲ろうきょく大会たいかい[199]浪曲ろうきょく動員どういん協議きょうぎかい浪曲ろうきょく作家さっか協会きょうかい結成けっせいて、浪曲ろうきょく向上こうじょうかい情報じょうほうきょく・NHKの後援こうえんのもとに1942ねん10月1にち国民こくみん浪曲ろうきょくしょう設定せっていする[200]。また1943ねん昭和しょうわ18ねん)12月30にち帝劇ていげきで「芸能げいのう従軍じゅうぐん壮行そうこう 浪曲ろうきょく大会たいかい[注釈ちゅうしゃく 48]出演しゅつえん春日井かすがいうめうぐいす広沢ひろさわ虎造とらぞううめちゅうのきうぐいすわらわ寿ひさし木米きよねわか[201]戦中せんちゅうの1943ねんには、浪曲ろうきょくかずはピークをむかえ、東京とうきょうだけでやくせんめい全国ぜんこくてきには3せんめいちかくいた[202]という。要約ようやくである。より詳細しょうさいただ二郎じろう実録じつろく浪曲ろうきょく』 p.95-141(1940ねんから1945ねん敗戦はいせんまで)を参照さんしょうのこと。1945ねん昭和しょうわ20ねん)5がつ、「いちおく憤激ふんげきべいえい撃滅げきめつ浪曲ろうきょく[注釈ちゅうしゃく 49]台本だいほん発表はっぴょう、これらの新作しんさくおおくはNHKの国民こくみん浪曲ろうきょくとして放送ほうそうされ、レコードされた[203]

戦後せんご復活ふっかつ民放みんぽう発足ほっそくによるラジオ浪曲ろうきょくのブーム

[編集へんしゅう]

1945ねん昭和しょうわ20ねん太平洋戦争たいへいようせんそう敗戦はいせん一転いってんGHQに「ぜん時代じだいてき反動はんどうてき」と演芸えんげい同様どうよううとまれる存在そんざいとなる[204][注釈ちゅうしゃく 50]。しかし、その体制たいせいでも地方ちほう巡業じゅんぎょう中心ちゅうしんにした大家たいかは「所得しょとく番付ばんづけ」におおがお[205]など、のう漁村ぎょそん中心ちゅうしん根強ねづよ人気にんき[206]維持いじする。

1951ねん昭和しょうわ26ねん)の民放みんぽうラジオ登場とうじょうともに、その根強ねづよ大衆たいしゅうてき人気にんきから、代目だいめ広沢ひろさわ虎造とらぞう俗称ぞくしょう虎造とらぞうアワー[207]や、新進しんしん浪曲ろうきょく国友くにともただしの「ぜにがた平次へいじ[注釈ちゅうしゃく 51]代目だいめ広沢ひろさわきくはるの「姿すがた三四郎さんしろう」などの連続れんぞく浪曲ろうきょく番組ばんぐみ素人しろうと浪曲ろうきょくのど自慢じまん番組ばんぐみラジオ東京とうきょう浪曲ろうきょく天狗てんぐ道場どうじょうなど)が続々ぞくぞく編成へんせいされ、全国ぜんこく放送ほうそうNHKんだラジオ浪曲ろうきょくのブームとして昭和しょうわ30年代ねんだい初頭しょとうふたた最盛さいせいむかえる。大阪おおさかでは先行せんこうする民間みんかん放送ほうそう2しゃ熾烈しれつあらそいをするなか共同きょうどうでNHKをふくめた聴取ちょうしゅりつ調査ちょうさおこなわれ、ABC(朝日放送あさひほうそう)「漫才まんざい学校がっこう」57.5%.NJB(のちの毎日放送まいにちほうそう)「浪曲ろうきょくごもくめし」44.8%.どうNJB「浪曲ろうきょく演芸えんげいかい」41.3%.と漫才まんざいならんで浪曲ろうきょく大人気だいにんき当時とうじこのみがわかる。トップ20にはABCが9ほん、NJB8ほん、NHK3ほんはいっていてすで民間みんかん放送ほうそうがNHKを凌駕りょうがしていた[注釈ちゅうしゃく 52]

番組ばんぐみめい 放送ほうそうきょく 聴取ちょうしゅりつ
浪曲ろうきょく天狗てんぐ道場どうじょう ラジオ東京とうきょう 23.8%
浪曲ろうきょく学校がっこう 文化放送ぶんかほうそう 12.8%
つき 浪曲ろうきょくじゅうはちばんしゅう ラジオ東京とうきょう 11.4%
うたのパラダイス ラジオ東京とうきょう 10.3%
歌謡かようベストテン 文化放送ぶんかほうそう 10.0%
浪曲ろうきょく次郎じろうちょうでん ラジオ東京とうきょう 9.8%
わたし貴方あなたみっつのうた 文化放送ぶんかほうそう 9.6%
うた風車かざぐるま ラジオ東京とうきょう 9.4%
浪曲ろうきょく歌合戦うたがっせん 文化放送ぶんかほうそう 9.2%[208]

民放みんぽうラジオ番組ばんぐみ聴取ちょうしゅりつベストテンに5つもランクインする[209]。「浪曲ろうきょく天狗てんぐ道場どうじょう」は1957年度ねんど昭和しょうわ32ねん)にだんトツの聴取ちょうしゅりつ23.8%を記録きろくする。ふたたびおちゃあいだ席巻せっけんし、巷間こうかんで「銭湯せんとうけば、虎造とらぞうの『〽たびゆけば』を真似まねしたこえ湯船ゆぶねかならこえる」とわれたのは戦後せんごのこの時期じきであった。また当時とうじどもはみな、虎造とらぞうの「〽旅行りょこうけば~」や代目だいめ玉川たまがわ勝太郎かつたろうの「〽利根りこんかわふうたもとに」といった外題げだいけをっていた[210]

昭和しょうわ30年代ねんだい中頃なかごろまでは、どんなちいさいまちにも劇場げきじょうがあり、ほとんどは映画えいがかんである。まちによっては芝居しばい小屋こやもあった。芝居しばい小屋こやがなくても映画えいがかんには芝居しばいがかかったり、浪花節なにわぶし浪曲ろうきょく)や流行りゅうこう公演こうえんがおこなわれたりもしていた。公民館こうみんかん体育館たいいくかんなどでも、よくそういう芸能げいのう公演こうえんがあった[211]。レコード吹込ふきこみやNHK・民放みんぽうラジオ・映画えいがというメディアに露出ろしゅつするいちにぎりの浪曲ろうきょく人気にんき集中しゅうちゅうする一方いっぽう、この時期じきにもまだ浪曲ろうきょく門付かどづをしたという証言しょうげん複数ふくすうある[212][213][注釈ちゅうしゃく 53]など、ラジオ浪曲ろうきょくのブームにらない大半たいはん浪曲ろうきょくは、高度こうど成長せいちょう開始かいしとともに衰退すいたいしていく[注釈ちゅうしゃく 54]

銀座ぎんざ歌舞伎座かぶきざ[214]大阪おおさか文楽ぶんらく浅草あさくさ国際こくさい劇場げきじょうなどだい劇場げきじょう戦前せんぜんつづき「浪曲ろうきょく大会たいかい」が定期ていきてきひらかれるなどする。

衰退すいたい

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西暦せいれき 民放みんぽうR
きょくすう
ラジオ
普及ふきゅうりつ
民放みんぽうT
きょくすう
テレビ
普及ふきゅうりつ
1951 9 58.6% - -
1952 21 63.6% - -
1953 45 70.4% 1 0.1%
1954 59 75.2% 1 0.3%
1955 62 73.8% 2 0.9%
1956 80 77.8% 4 2.3%
1957 88 81.2% 6 5.1%
1958 100 81.3% 27 11.0%
1959 104 74.7% 47 23.1%
1960 115 57.2% 61 33.2%
1961 124 45.8% 82 49.5%

[215]

このあたりは、同時どうじ平行へいこうてき記述きじゅつするため、注意ちゅういされたい。 民放みんぽう発足ほっそくともにはじまった最後さいごだいブーム、ラジオ浪曲ろうきょくのブームは急激きゅうげきラジオばなで、10ねんほどるが、NHKはねばづよいサポートをつづけ、現在げんざいまでつづくラジオ番組ばんぐみ浪曲ろうきょくじゅうはちばん」だけでなく、台本だいほん作家さっか若手わかて浪曲ろうきょく育成いくせい機能きのうまでを一時いちじになうようになり、新作しんさく発表はっぴょうすう一時いちじてきえた。毎月まいつき公演こうえんかたち開催かいさいしていたNHK浪曲ろうきょく研究けんきゅうかいは17年間ねんかん歴史れきしかさね、1972ねん昭和しょうわ47ねん)3がつ25にち終了しゅうりょうした。後継こうけいとして「NHK東西とうざい浪曲ろうきょく大会たいかい」を開催かいさい

歌謡かよう浪曲ろうきょくスタイルだい流行りゅうこうはあったものの(1972ねん昭和しょうわ47ねん)には二葉ふたば百合子ゆりこんだ「岸壁がんぺきはは」がロングヒット)、戦後せんご寄席よせ大阪おおさかでは、空襲くうしゅうからかろうじてのこった飛田ひだすじ天王寺てんのうじかん今里いまさと双葉ふたばかんきゅうじょうわかはるかんのみのこり、東京とうきょうすべくなり、東京とうきょう1952ねん昭和しょうわ27ねん)8がつ上野うえのさくらてい」、1955ねん昭和しょうわ30ねん)8がつ13にち南千住みなみせんじゅぐりともてい」が唯一ゆいいつ浪曲ろうきょく寄席よせとして開場かいじょうするが、ながくはつづかなかった。1955ねん昭和しょうわ30ねん開業かいぎょう船橋ふなばしヘルスセンターをはじめとした、各地かくち健康けんこうランドでの巡業じゅんぎょうや、「福祉ふくし浪曲ろうきょく大会たいかい」などの地方ちほうでの浪曲ろうきょく大会たいかい老人ろうじんホーム慰問いもん[216]などがおも活動かつどう範囲はんいとなる。民音みんおん労音ろうおんもこのころ地区ちくごとに浪曲ろうきょく大会たいかいひらいている。浅草あさくさ木馬もくばかん改装かいそうし、1970ねん昭和しょうわ45ねん)5がつ上席じょうせきからついに定席じょうせきし「木馬亭もくばてい」として安定あんていするまでは、東家あずまや浦太郎うらたろうや、四代目天中軒雲月木村きむらわかまもる松平まつだいらこく十郎じゅうろう戦後せんご四天王してんのうをはじめとした大家たいかつづ健在けんざいだが、若手わかて将来しょうらいせいというてんでは苦境くきょうつづいた[217]

関西かんさいにおいても、初代しょだい京山きょうやま幸枝ゆきえわか冨士ふじつきさかえ戦後せんご入門にゅうもんぐみ初代しょだい真山まやま一郎いちろう代目だいめ春野はるの百合子ゆりこが「関西かんさい戦後せんご四天王してんのう」として活躍かつやくしたが、一足ひとあしおくれでおな状況じょうきょうになる。すで寄席よせはなくなり、昭和しょうわ50年代ねんだい関西かんさい浪曲ろうきょく中心ちゅうしんとして浪曲ろうきょく大会たいかいひらかれた道頓堀どうとんぼり朝日あさひ1984ねん昭和しょうわ59ねん)2がつ閉鎖へいさされ[218]戦後せんごながらく浪花節なにわぶし舞台ぶたいにのせていた道頓堀どうとんぼり最後さいごひとつ、中座ちゅうざ1999ねん10月の「浪曲ろうきょくわか興行こうぎょう」をもって閉鎖へいさされた。

バブル崩壊ほうかい少々しょうしょう復活ふっかつきざしがえている。玉川たまがわ福太郎ふくたろう証言しょうげんによれば、バブル崩壊ほうかい浪曲ろうきょく志望しぼうする若者わかもの急増きゅうぞう曲師きょくし不足ふそくする事態じたいになったという[219]

しん時代じだい

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生活せいかつなか三味線しゃみせん音色ねいろこえる環境かんきょうがいつのえていくなか、ききてである浪曲ろうきょく(や主題しゅだい世界せかいかん共通きょうつうする時代じだいげき演歌えんかなど)に馴染なじみのある世代せだいてき最後さいごかたまり(昭和しょうわ30年代ねんだいまでにまれ、ラジオ番組ばんぐみ馴染なじんだ世代せだい、つまりおおむ団塊だんかい世代せだいまで)の退場たいじょう間近まぢかせまり、一人ひとり隆盛りゅうせいたも落語らくごかいくらべ、浪曲ろうきょく自体じたい将来しょうらいあやぶまれている。講談こうだん同様どうよう浪曲ろうきょくにおいても徐々じょじょ女性じょせい入門にゅうもんしゃ中心ちゅうしんとなる。関東かんとうでは玉川たまがわ福太郎ふくたろう[220]からつぎ国本くにもと武春たけはる入門にゅうもんするまで15年間ねんかん、そのつづ男性だんせい浪曲ろうきょくとして玉川たまがわふとしぶく福太郎ふくたろう入門にゅうもんするまでも25ねんというなが空白くうはく期間きかんがある[注釈ちゅうしゃく 55]などのボトルネック状態じょうたいがあった[注釈ちゅうしゃく 56]がそこはだっしている。

しかし、浪曲ろうきょく未来みらいかんがえるうえ唯一ゆいいつ希望きぼうぶにふさわしい孤軍こぐん奮闘ふんとうせていた国本くにもと武春たけはるが2015ねんまつ突如とつじょくなり[221]武春たけはるイズムを若手わかて浪曲ろうきょくたち[注釈ちゅうしゃく 57]正念場しょうねんばおとずれている[223]。そのなかあたまひとしているのが先述せんじゅつ玉川たまがわふとしぶく[224]で、ふとしぶく従来じゅうらい活動かつどう並行へいこうして落語らくご春風しゅんぷうていのぼりふとし内輪うちわとなったことで落語らくご芸術げいじゅつ協会きょうかいにも所属しょぞくすることとなり、新宿しんじゅく末廣すえひろていなどの落語らくご定席じょうせき寄席よせへの出演しゅつえんえたことで認知にんちたかまり、おなじくげいきょう所属しょぞくである講談こうだんろく代目だいめ神田かんだはくやまとも期待きたいあつめる存在そんざいとなっている[225]ふとしぶくにも2022ねん以降いこう弟子でしあらたに複数ふくすう入門にゅうもんしており、加入かにゅうしているげいきょう定席じょうせき寄席よせ中心ちゅうしん前座ぜんざ修行しゅぎょうとする[注釈ちゅうしゃく 58]など、さらに次代じだい浪曲ろうきょく育成いくせいにも並行へいこうしてつとめることになった。また、ふとしぶくげいきょう入会にゅうかいにより、げいきょう所属しょぞくしていない浪曲ろうきょく不定期ふていきではあるがげいきょう定席じょうせき寄席よせおも新宿しんじゅく末廣すえひろてい)へかおけされる機会きかいえつつあったが、このうち玉川たまがわ奈々ななぶくさん代目だいめ広沢ひろさわきくはる国本くにもとはる乃の3めいふとしぶくつづいて2024ねん5がつ落語らくご芸術げいじゅつ協会きょうかい正会員せいかいいん色物いろもの芸人げいにん)として加入かにゅうした[227]。また落語らくご協会きょうかい定席じょうせき興行こうぎょうでも、2024ねん4がつ上席じょうせき鈴本すずもと演芸えんげいじょうひる主任しゅにんじゅういち代目だいめ金原かなはらちんせい金原かなはらちんしょううませい日替ひがわり)にはなわたりちとせ春日井かすがいうめひかり門下もんか日本にっぽん浪曲ろうきょく協会きょうかい参与さんよ)が出演しゅつえん[228]するなど、落語らくご中心ちゅうしんとした定席じょうせきへの進出しんしゅつ散見さんけんされるようになった。

一方いっぽう上方かみがた浪曲ろうきょくかいでは2024ねん7がつ代目だいめ京山きょうざん幸枝ゆきえわかが、重要じゅうよう無形むけい文化財ぶんかざい保持ほじしゃ(いわゆる「人間にんげん国宝こくほう」)に認定にんていするよう、文化ぶんか審議しんぎかいから文部もんぶ科学かがく大臣だいじん答申とうしんされた。認定にんていされれば浪曲ろうきょく浪曲ろうきょくかたり)の分野ぶんやでははつの「人間にんげん国宝こくほう認定にんていとなる[注釈ちゅうしゃく 59][229]

一方いっぽう浪曲ろうきょくかい全体ぜんたい課題かだいとなっている深刻しんこく曲師きょくし不足ふそくたいするさくとして「iPad浪曲ろうきょく」を発案はつあんし、実演じつえんするうごきもある[230]

こえふし・タンカ

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とおくまでつたわる大音おおと(だいおん。ひびわたおおきなこえ)がうえとされ、必然ひつぜんてきどうごえ(どうごえ)=しろごえ(しらごえ)=さびごえ(さびごえ)=いわゆる塩辛声しおからごえ=ダミごえ=しわがれごえ[注釈ちゅうしゃく 60]うなこと浪曲ろうきょくであった。どうごえは、ホーミーのように倍音ばいおんゆたかな発声はっせい[231][注釈ちゅうしゃく 61]特徴とくちょうてきこえつくるために、のどからるような修業しゅうぎょうんだという苦労くろうだん多々たたてくる[232][233][234]。この特徴とくちょうづけるこえには科学かがくてき根拠こんきょ現時点げんじてん[235]音声おんせいがくからのアプローチが必要ひつようである。

旧来きゅうらいからのこえ典型てんけいとして寿ことぶき木米きよねわか初代しょだい春日井かすがいうめうぐいすげることができる[236][注釈ちゅうしゃく 62]

が、マイク発達はったつして以降いこうは、必須ひっすではなくなり、しょうおと(しょうおん。マイクなしでは寄席よせ後方こうほうまでとどかないようなちいさなこえ)であってもその才能さいのうかされるようになる。木村きむらわかまもるのように、上声じょうせい(うわごえ)を使つかこと主流しゅりゅうとなり、三門みかどひろしのように、裏声うらごえたくみに特長とくちょうにしたものさえもいる [237]。これをかしたひと広沢ひろさわ虎造とらぞう_(2代目だいめ)がいた。

また、広沢ひろさわひさごみぎ衛門えもんのように自他じたどもみとめる悪声あくせいであっても、それ以外いがい部分ぶぶんみがつづけ、ブレイクすることもあった。かつてはのど酷使こくしたたり、舞台ぶたい使つかこえなくなり引退いんたいしたり、のこった啖呵たんかのうまさを活用かつようしてまれに講談こうだんてんじるものもあった(れい:一心いっしんてい辰雄たつお初代しょだい木村きむら友衛ともえ)。

おな演題えんだいおな台本だいほんであっても、もとみにするか、ふしをつけてうたうかなど浪曲ろうきょく演出えんしゅつ次第しだい(または、そのこえ出方でかた体調たいちょう)でおおきくえることも可能かのうである。

稽古けいことして「こえ調しらべ」(こえしらべ)をおこなう。三味線しゃみせん音色ねいろ無意味むいみ歌詞かしせて、浪曲ろうきょく練習れんしゅうおこな[238][239][240][注釈ちゅうしゃく 63]

なになにしてなにとやら
なにからなにまでなにとやら
モノがモノしてモノとやら
モノからモノまでモノとやら[241]

ふし(フシ)

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広義こうぎの)フシとは、日本にっぽんにおける水泳すいえいのスタートぜんアナウンス、大相撲おおずもうしや行司ぎょうじこえのように、場所ばしょでも意識いしきすることなく使つかわれているものである[242]現在げんざい浪曲ろうきょくでは大別たいべつすると関西かんさいふし関東かんとうふし、(中京ちゅうきょうふしで)みっつにけられる。浪曲ろうきょくふし曲師きょくし調しらべつるおとだか曲師きょくしすフレーズの基本形きほんけいなど、すべてことなる。

  • 関西かんさいぶし一番いちばんふるく、かれぶしばれた。てい調子ちょうし(またはみず調子ちょうし)ともう。ベンベンとひくい。
  • 関東節かんとうぶしは、高調子たかちょうしともいい、三味線しゃみせん調子ちょうしが「カンカンカン」とたかく、哀切あいせつ悲壮ひそうかんただよう。三味線しゃみせんとしては単純たんじゅん
  • 中京ちゅうきょうぶしは、関東節かんとうぶし関西かんさいぶし上手うまくミックスしたかたち。アクセントとしてよく利用りようされる[243][244]。)

元来がんらい浪曲ろうきょくのフシはどくりゅうのものであって、原則げんそくとして師匠ししょうのフシは継承けいしょうしない[245][246][29][注釈ちゅうしゃく 64]。よって「一人ひとりいちせつ」というほどこまかい節回ふしまわしはことなる。各々おのおのが、浪曲ろうきょく民謡みんよう伝統でんとう芸能げいのうかられるなど、特徴とくちょうてきな「独自どくじ基礎きそきょく」とぶべきふし調ちょうメリスマ[247]小節しょうせつ、コブシである)を曲師きょくしともつくげる。関東節かんとうぶし関西かんさいぶしはあくまで基本きほんふし調ちょう(ふしちょう)、目安めやすである。

代表だいひょうてきなところでは、佐渡さわたりおけされ、哀調あいちょう特徴とくちょう名作めいさく佐渡さど情話じょうわつくげたべいわかふし寿ことぶき木米きよねわか関東節かんとうぶし中京ちゅうきょうぶしをミックスして虎造とらぞうぶしつくり、たりげい清水次郎長しみずのじろちょうでんえんじた代目だいめ広沢ひろさわ虎造とらぞう[注釈ちゅうしゃく 65]てい調子ちょうし主流しゅりゅう関西かんさいぶしのなかで、高音こうおんでノリのよいテンポの幸枝ゆきえわかふしつくり、「河内かわうちじゅうにんり」や「ひだり甚五郎じんごろう」をえんじ、戦後せんご浪曲ろうきょくかいささえた初代しょだい京山きょうやま幸枝ゆきえわか中京ちゅうきょうぶしでは、浪曲ろうきょく新内しんないぶしをミックス して三門みかどたかしつくり「うた観音かんのんけい」をえんじた三門みかどひろしげられる。また、天才てんさい少年しょうねん浪曲ろうきょく初代しょだいてんちゅうのきくもがつから女性じょせい浪曲ろうきょく2代目だいめてんちゅうのきくもがつがれた、あかるく平易へいいくもがつぶし[248]が、のちにすうおおくの女流じょりゅう浪曲ろうきょくふしづくりの土台どだいとなる[249][250]例外れいがいとして関東節かんとうぶし二葉ふたば百合子ゆりこがいる[251]

キッカケ、道中どうちゅうけ、うれいぶし、セメぶしかれぶし、バラシなどについては、こちらを参照さんしょうのこと。さわ孝子たかこ公認こうにんページ|浪曲ろうきょく辞典じてん解説かいせつ:大西おおにし信行のぶゆき

おおまかにいって、関西かんさいぶしふしかせること主眼しゅがんをおき、関東節かんとうぶしはタンカをかせる傾向けいこうつよい。

経緯けいいから、関東かんとうにも関西かんさいぶし系譜けいふ一派いっぱがおり、現在げんざいは、関西かんさいには関西かんさいぶしのみ、関東かんとうには関東節かんとうぶし関西かんさいぶしがいる。東西とうざい相互そうご特徴とくちょうれることも徐々じょじょすすみ、三波みなみ春夫はるおによれば中京ちゅうきょうぶしが「現在げんざい主流しゅりゅうとなって」[252]おり、じゅん関東節かんとうぶしじゅん関西かんさいぶしといえる存在そんざい現在げんざいすくない[253]

啖呵たんか(タンカ)

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タンカとは、本来ほんらいたたけるような言葉ことば使づかいをす。きはふし主体しゅたい、タンカがわらいの部分ぶぶんおもあつかう。 浪花なみはなぶしてき主題しゅだい共通きょうつうする[254]とらさん」など、実演じつえん販売はんばいでお馴染なじみの啖呵たんかうり(たんかばい)と同様どうよう用法ようほうから、いまたんふしのつかない部分ぶぶんす。全盛期ぜんせいきには「ケレンはトリをれない」とわれる[255]など、タンカみ(タンカを得意とくいとするもの)は傍流ぼうりゅうあつかいされた。ケレンは、浪曲ろうきょくにおいては歌舞伎かぶき用語ようごとはちが意味いみち、「滑稽こっけい」とほぼ同義どうぎである[256]

とく得意とくいとしたのは関西かんさいのケレンみの浪曲ろうきょく東京とうきょうてん落語らくご定席じょうせきつづけた「落語らくご浪曲ろうきょく」の代目だいめ広沢ひろさわきくはる悪声あくせいであったが滑稽こっけい晩年ばんねんにブレイクした広沢ひろさわひさごみぎ衛門えもん歯切はぎれのあかるくときにボヤキ口調くちょうはいるケレンが魅力みりょく京山きょうやま幸枝ゆきえわか[よう曖昧あいまい回避かいひ]ふくまれる)、ふるくは「ふし奈良丸ならまる啖呵たんか辰雄たつおこえのいいのが雲右衛門くもえもん[257][258]」とならしょうされた一心いっしんてい辰雄たつおのちのどいためて講談こうだん転出てんしゅつ服部はっとりしん名乗なのる)、おなじく江戸えど愛嬌あいきょうのある小気味こきみ啖呵たんかおおきな魅力みりょくであった代目だいめ広沢ひろさわ虎造とらぞう江戸前えどまえのタンカとえばもう一人ひとり、「灰神楽はいかぐら三太郎さんたろう」の初代しょだい相模さがみ太郎たろうげられる。

衰退すいたいはいると、おなみだ頂戴ちょうだいよりわらいの要素ようそがより重視じゅうしされるようになり、広沢ひろさわひさごみぎ衛門えもん明治めいじ演題えんだいっさげブレイクしたころからひとつの潮流ちょうりゅうとして明確めいかくになる[259][260][261]

とくにタンカは落語らくご講談こうだん共通きょうつうてんおおいが、浪曲ろうきょく曲師きょくしいのとしてフレーズ[注釈ちゅうしゃく 66]はさみ、印象いんしょうことなる。

浪曲ろうきょく構成こうせい

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一席いっせきいち完結かんけつ端物はもの)から、好評こうひょう場合ばあいはなしふくらませて、なんだん[注釈ちゅうしゃく 67]にもわたるながいシリーズぶつつくられた。時間じかんにするといちせきは30ふんにまとめられている。しかしかつては、雲右衛門くもえもん舞台ぶたいにおけるいちせき1あいだじゃくにわたる長講ちょうこうや、ぎゃくSPレコードむために3ふんごとの細切こまぎれにまとめられたものも多数たすうあり、融通無碍ゆうずうむげゆえに演芸えんげいなかではメディア対応たいおう素早すばやく、いちはやいレコードみに重宝ちょうほうされた[262]

現在げんざいは、寄席よせ連日れんじつ出演しゅつえん常態じょうたいでない、ラジオでも単独たんどく浪曲ろうきょく番組ばんぐみがなくなってひさしいなど、口演こうえん形態けいたい変化へんかにより、物語ものがたりのハイライト部分ぶぶんみばかりになり、シリーズぶつとおしであじわう「連続れんぞくみ」をあじわう機会きかい極端きょくたんすくなくなっている[263]いまでもおなじみのめの台詞せりふ「ちょうど時間じかんとなりました」は、今日きょうではあまりけるものではくなった[264][注釈ちゅうしゃく 68]

寄席よせ大会たいかいなどの正式せいしきにおいては、まずマイクで演者えんじゃ紹介しょうかいがあったのち、まくひら浪曲ろうきょく登場とうじょうする。あいさつがあったのち[注釈ちゅうしゃく 69]演題えんだいはいる。拍子木ひょうしぎり、曲師きょくしはじしをかなでる。

冒頭ぼうとう部分ぶぶんはゲダイ(外題げだい解題かいだいしもだいけ、またはヒョウダイ(表題ひょうだい標題ひょうだい[注釈ちゅうしゃく 70]ぶ。

きゃくから期待きたいめ、こえがかかることもある(ってました!、たっぷり!、めい調子ちょうし!など)[265][注釈ちゅうしゃく 71]

浪曲ろうきょく衣装いしょう舞台ぶたいセット

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舞台ぶたいがる浪曲ろうきょく和服わふく姿すがたであり、正装せいそうとしてとくはかまおおもちいる[注釈ちゅうしゃく 72][266]

えんじるとき舞台ぶたいのセットはまず舞台ぶたい中央ちゅうおう浪曲ろうきょくうしろにきむ屏風びょうぶく。そのまえこしぐらいのたかさのちいさめのテーブルをき、えんじだいとする[267]。そのうえに、はなやかな特製とくせいのテーブルかけ[注釈ちゅうしゃく 73]をかけてある。真後まうしろにもたれのなが椅子いすがあり、演者えんじゃおおくはちながらえんじている[注釈ちゅうしゃく 74]

観客かんきゃくから右手みぎてほう曲師きょくしすわっている。現在げんざい曲師きょくし定席じょうせきなど正式せいしき舞台ぶたいでは衝立ついたてはさんで観客かんきゃくからえないようになっており、なかでは正面しょうめん浪曲ろうきょくよこからせいたいしてすわっている。が「き」ときゃくまえくスタイルも少数しょうすうだがある[注釈ちゅうしゃく 75][注釈ちゅうしゃく 76]

高座こうざ座布団ざぶとんすわかたる「すわ高座こうざ」(現在げんざい文楽ぶんらくかたりとほぼおなじスタイル)[注釈ちゅうしゃく 77]は、前身ぜんしんである芸能げいのうの「説経せっきょう浄瑠璃じょうるり」、「デロレン祭文さいぶん」などからつづき、雲右衛門くもえもん以前いぜんには主流しゅりゅうであった。雲右衛門くもえもんにより演説えんぜつスタイルが主流しゅりゅうになったのちにも、落語らくご定席じょうせきおも活躍かつやくであった広沢ひろさわきくはるなど[注釈ちゅうしゃく 78]現在げんざいいたるまでときおりることができる[注釈ちゅうしゃく 79][42]

浪曲ろうきょく代表だいひょうてき演題えんだい外題げだい

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武芸ぶげいぶつ出世しゅっせぶつ任侠にんきょうぶつさんしゃくぶつともいう)、悲恋ひれんぶつ、ケレンぶつ(おわらい)など多種たしゅ多様たようである。とく赤穂あこう義士ぎしでん忠臣蔵ちゅうしんぐら)ものは派生はせいする人気にんき演題えんだい外伝がいでん)が非常ひじょうおおく、義士ぎしでんいちジャンルをしている。大別たいべつすると、武士ぶしどう鼓舞こぶするような内容ないようきむふすまぶつ(きんぶすまもの)と、(広義こうぎの)世話物せわもの(せわもの)にかれる[269]

講談こうだん成立せいりつから講釈こうしゃくダネをフシけすることでおおきく発展はってんした[270])、落語らくご文芸ぶんげい作品さくひん歌舞伎かぶき浄瑠璃じょうるり、ニュースなど題材だいざい多様たようである[269]

文句もんく言葉ことば自分じぶんつくるのが本来ほんらい姿すがたで、作詞さくし役割やくわり作曲さっきょく役割やくわり実演じつえんねる[29](フシけ)。国友くにともただし河北かわきた省一しょういち筆名ひつめい)など。野口のぐちはじめどう東家あずまやらくうら筆名ひつめい)、鈴木すずき啓之ひろゆき三門みかどひろし)、池上いけがみいさむ広沢ひろさわきくはる)、小島こじまよしろう広沢ひろさわひさごみぎ衛門えもん)、阪口さかぐちさんゆめ天龍てんりゅう三郎さぶろう)のさく脚色きゃくしょくのように浪曲ろうきょくがネタを場合ばあいもある。雲右衛門くもえもんころからレコード会社かいしゃにより、原作げんさくとして長谷川はせがわしん行友ゆきとも李風りふう尾崎おざき士郎しろう子母沢しもざわひろしなど。正岡まさおかひろしや、はた喜代司きよし本多ほんだあきら小菅こすが一夫かずお萩原はぎはら四朗しろう水野みずの春三しゅんさん水野みずの草庵そうあん)、秩父ちちぶ重剛しげたけ中川なかがわ明徳あきのり室町むろまちきょうかい房前ふさざき智光ともみつ木村きむらまなぶ内山うちやまそう十郎じゅうろうしば清之きよゆき大西おおにし信行のぶゆき現在げんざい芦川あしかわあつしたいら稲田いなだ和浩かずひろのように、浪曲ろうきょく台本だいほんがける作家さっかもいる[注釈ちゅうしゃく 80]

文芸ぶんげい浪曲ろうきょく酒井さかいくも初代しょだいはやしはくざる端緒たんしょで、菊池きくちひろし恩讐おんしゅう彼方かなた」やいずみ鏡花きょうかたき白糸しらいと」など文芸ぶんげい作品さくひん浪曲ろうきょくされた。それまでけていると指摘してきされつづけた藝術げいじゅつてきかおりを浪曲ろうきょく世界せかいくわえた。女流じょりゅう浪曲ろうきょくにその芸風げいふうがれている。

また、演目えんもく東西とうざい交流こうりゅうはやくからすすんでおり、関西かんさい浪曲ろうきょく関東かんとう舞台ぶたい演題えんだいをするケースがおおいがそのぎゃく演題えんだいもある。

以下いか浪曲ろうきょく代表だいひょうてきとされる演目えんもくである。みぎはその作品さくひん代表だいひょうてき演者えんじゃ(または現在げんざいきやすい演者えんじゃ[271]

このジャンルけは便宜べんぎてきなものである。出征しゅっせいして戦死せんしし、靖国神社やすくにじんじゃまつられた息子むすこへの心情しんじょうをうたった「親子おやこぶつ」で「戦争せんそうぶつ」である「きゅうだんはは」など。

任侠にんきょうぶつさんしゃくぶつ
股旅またたびぶつ[277]
白浪しらなみぶつ
世話物せわもの悲恋ひれん・スキャンダル)
出世しゅっせぶつ
武芸ぶげいぶつ
いえ騒動そうどうぶつきむふすまぶつ
赤穂あこう義士ぎしでん
戦争せんそうぶつ
親子おやこぶつ
相撲すもうぶつ
歌舞伎かぶきぶつ
浄瑠璃じょうるりぶつ
滑稽こっけいぶつ(ケレン、おわらい)
落語らくごぶつ
怪談かいだん怪奇かいきぶつ
その

歌謡かよう浪曲ろうきょく

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歌謡かよう浪曲ろうきょくとは、伴奏ばんそう三味線しゃみせんでなく洋楽ようがくで、よりうたうことを重視じゅうしした、浪曲ろうきょく歌謡かようきょくなかあいだてき形態けいたいである。浪曲ろうきょくのもともとっていた自在じざいせい融通ゆうずうせいによりまれ、戦後せんご高度こうど成長せいちょうおおきくふくらみ、主流しゅりゅうとなっていった。

先駆せんくとして、戦前せんぜん宮川みやがわまつやす実演じつえんした洋楽ようがく使つからく浪曲ろうきょくこころみや、「なみ謡曲ようきょく芙蓉ふようのきうららはな洋楽ようがく伴奏ばんそうえんじた初代しょだい筑波つくば武蔵むさしなど。戦中せんちゅうになると軍歌ぐんかりの浪曲ろうきょくとなり、木村きむらわかまもるの「歌謡かよう浪曲ろうきょく」が放送ほうそうきょく企画きかく放送ほうそうされる[303]戦後せんごになると「歌謡かようぶし」を各人かくじん創設そうせつする[304]

1957ねん昭和しょうわ32ねん)、当時とうじ若手わかて浪曲ろうきょくであった三波みなみ春夫はるお村田むらた英雄ひでおは、しくも同年どうねんに、伴奏ばんそう洋楽ようがくでよりうたうことを重視じゅうしした歌謡かようきょく(のちに演歌えんか)の世界せかい転進てんしん[305]、そのレパートリーとして歌謡かよう浪曲ろうきょくうたうようになる[306]

歌謡かよう浪曲ろうきょく定義ていぎむずかしいが、浪曲ろうきょくなか歌謡かようきょく一部いちぶむものと、浪曲ろうきょくをオーケストラ伴奏ばんそうで「うたう」(げいたいまったわらないが歌謡かようきょくわせてこの表現ひょうげん)ものをどちらも歌謡かよう浪曲ろうきょく[307]

ラジオ浪曲ろうきょく全盛ぜんせいぎ、小屋こや自体じたいかずった寄席よせおなじくった通常つうじょう巡業じゅんぎょうより、一流いちりゅう大家たいかばかりが競演きょうえんすることがりの大会たいかい形式けいしき興行こうぎょう地方ちほうでもえてきた、そのごろをさかい若手わかて修業しゅうぎょうする機会きかい急速きゅうそくうしなわれていく。スタンスのかたはさまざまで、女流じょりゅうでは天津てんしん羽衣はごろも二葉ふたば百合子ゆりこなどのおおきななが自体じたいがほぼ歌謡かよう浪曲ろうきょくそのものであった。浪花節なにわぶし歌謡かよう浪曲ろうきょくとおして現在げんざい演歌えんかつよ影響えいきょうあたえた。

また男性だんせいでは、関西かんさい真山まやま一郎いちろう一門いちもんが、浪曲ろうきょくかいなかで「演歌えんか浪曲ろうきょく」としょうした歌謡かよう浪曲ろうきょくもっぱえんじている[308]など現在げんざいも、東西とうざい高座こうざ歌謡かよう浪曲ろうきょくスタイルを披露ひろうする浪曲ろうきょくはいる。

浪曲ろうきょく周辺しゅうへん影響えいきょう

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全盛期ぜんせいき芸能げいのうかい戦時せんじ体制たいせいまれた言葉ことばである[309][310])の王様おうさまひょうされたこともあり[311]、その影響えいきょう広範囲こうはんいおよぶ。そのよう一昔ひとむかしまえサブカル[312]たとえられる。

河内かわうち音頭おんど

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河内かわうち音頭おんど浪曲ろうきょく密接みっせつ関係かんけいつ。現在げんざい関西かんさい浪曲ろうきょく多数たすう音頭取おんどとりとして参加さんかし、渾然一体こんぜんいったいとなっている[313][注釈ちゅうしゃく 82]河内かわうち音頭おんどからの浪曲ろうきょくりもある(れい2代目だいめ真山まやま一郎いちろう)。その代表だいひょうさくとして初代しょだい京山きょうやま幸枝ゆきえわかの「河内かわうち音頭おんど河内かわうちじゅうにん」がある[314]毎年まいとし開催かいさいされている錦糸きんしまち河内かわち音頭おんどだい盆踊ぼんおどで、関東かんとうはつ目見めみえとなるひともおり、貴重きちょう機会きかいとなる。

ふしげき映画えいがのタナ

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一人ひとりではなくにん以上いじょうひとつの演目えんもく分担ぶんたんしてかたる「浪曲ろうきょく」はいまでも口演こうえんされる[315]役柄やくがらるなど、ふしげき前駆ぜんく形態けいたいともされる。

ふしかたりで物語ものがたりまわ浪花節なにわぶし形式けいしきは、現在げんざい歌舞伎かぶき文楽ぶんらくにおける義太夫ぎだゆうかたち代替だいたいのように使つかわれ、剣劇けんげきとも現在げんざい大衆たいしゅう演劇えんげきのルーツのひとつ、浪花節なにわぶしげき=「ふしげき[316][317]が、ながらくえんじられていた[318]だい舞台ぶたいでの名手めいしゅとしてコメディアンさかい駿しゅん玉川たまがわ良一りょういち芦屋あしや雁之助がんのすけがいる[319][注釈ちゅうしゃく 83]とくさかんだったのは九州きゅうしゅうで、だい歌舞伎かぶき役者やくしゃでも義太夫ぎだゆうわりに浪花節なにわぶし使つかわなければ、きゃく納得なっとくしなかったという[317]地方ちほうまわりの一座いちざに、れない浪曲ろうきょく帯同たいどう上演じょうえんされた[320]最盛さいせい敗戦はいせん直前ちょくぜん[注釈ちゅうしゃく 84]である。大衆たいしゅう演劇えんげき俳優はいゆうさわ竜二りゅうじちちは「桃中軒とうちゅうけんくも富士ふじ」というで、浪曲ろうきょくから大衆たいしゅう演劇えんげきながれたのもそのいちれいである。

派生はせいして、浪花節なにわぶし無声むせい映画えいが活弁かつべんわりに使つか連鎖れんさげきまれた。吉本興業よしもとこうぎょう一時期いちじき推進すいしんした映画えいが興行こうぎょう路線ろせん[321][322]なか、「浪曲ろうきょくトーキー」をした。アメリカで有名ゆうめいになり、のち帰国きこくした桃中軒とうちゅうけんなみみぎ衛門えもん[323](とうちゅうけん なみえもん)は、同様どうよう弁士べんしとして活躍かつやくし、アメリカ市民しみんけん取得しゅとく活動かつどうしていた。映画えいがカポネおおいに」の主人公しゅじんこうかれがモデルである[324]

これらは1957ねん昭和しょうわ32ねん異色いしょくさく舞台ぶたい「きりしとほろじょう人伝ひとづて」につながっていく。武智たけち鉄二てつじ演出えんしゅつ浪曲ろうきょく木村きむらわかまもる国友くにともただしまくごと分担ぶんたん)が物語ものがたり進行しんこうあやつ人形にんぎょう役者やくしゃ共演きょうえんする舞台ぶたいであった[325]同様どうよう浪曲ろうきょくミュージカルが民音みんおん制作せいさくでいくつかつくられている。

日本にっぽん映画えいがかえ映画えいがされてやまない素材そざいが「忠臣蔵ちゅうしんぐら」と「清水次郎長しみずのじろちょう」であったように、興行こうぎょうてん共通きょうつうする部分ぶぶんっていた浪花節なにわぶし[326]、トーキー初期しょきから「ふしげき」のタナみの立場たちばで「浪曲ろうきょく映画えいが」もさか[327]で、「佐渡さど情話じょうわ」(1934ねん公開こうかい)、「石松いしまつ夢道むどうなか」(1940ねん公開こうかい)、虎造とらぞう出演しゅつえんさせた「次郎じろうちょう三国志さんごくし」シリーズ(東宝とうほうばん。1952ねん - 公開こうかい)、「浪曲ろうきょく子守こもりうた」(1966ねん公開こうかい)などがある。なか役者やくしゃとしても活躍かつやくした虎造とらぞう[注釈ちゅうしゃく 85]は、浪曲ろうきょくわくをもえた最大さいだいきゅうのスターだったのである。浪曲ろうきょく映画えいがはこれ以外いがいにもプログラムピクチャーとして[注釈ちゅうしゃく 86]数多かずおお制作せいさくされ(いちれいとして、1960-1961ねん自社じしゃ製作せいさく時代じだいげき黄金おうごん東映とうえいだい番線ばんせんとして公開こうかいされただい東映とうえいのラインナップにもおお浪曲ろうきょく馴染なじみの主題しゅだいられる)、寿ことぶき木米きよねわか代目だいめくもがつ伊丹いたみ秀子ひでこ)などが複数ふくすう映画えいが出演しゅつえんしている[328]ふしげき近年きんねん日本にっぽん浪曲ろうきょく協会きょうかいのイベントで東家あずまや一太郎いちたろうがかけている。

演歌えんか

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大正たいしょう昭和しょうわ流行りゅうこう戦中せんちゅう軍歌ぐんか基本きほん西洋せいよう音階おんかいのメジャー旋律せんりつ使つかったきょくおおかった。それが、歌謡かよう浪曲ろうきょく以降いこう旋律せんりつ、マイナー音階おんかいが(流行りゅうこう→)歌謡かようきょくおおもちいられるようになり、演歌えんかにつながる[329]三波みなみ春夫はるお村田むらた英雄ひでおの2めいのち演歌えんかりょう巨頭きょとう)をはじめとした若手わかて浪曲ろうきょくたち浪曲ろうきょくかいった[305]が、それぞれに浪曲ろうきょく随時ずいじげる。とく三波みなみ春夫はるお劇場げきじょう閑散かんさんである毎年まいとし8がつ歌舞伎座かぶきざでの座長ざちょう公演こうえんけ、20ねん連続れんぞく公演こうえんをする[330][331]1984ねん昭和しょうわ59ねん)、木村きむら友衛ともえ代目だいめ演歌えんかレコード[注釈ちゅうしゃく 87]浪花節なにわぶしだよ人生じんせい」は、細川ほそかわたかし水前寺すいぜんじ清子きよこなどと競作きょうさくとなりだいヒットをする。2009ねん平成へいせい21ねん)には、股旅またたびぶつ得意とくいとする氷川ひかわきよしの「浪曲ろうきょくいちだい」がヒットした。また浪曲ろうきょく演歌えんか歌手かしゅ兼任けんにん、レコードリリースするれいいまだにおおい。浪曲ろうきょくとされるひと入門にゅうもんした演歌えんか歌手かしゅとしては、中村なかむら美律子みつこなどがいる。 浪曲ろうきょく影響えいきょうあきらかな中期ちゅうき以降いこううたえた美空みそらひばり畠山はたけやまみどり幼少ようしょう浪曲ろうきょく民謡みんようのスパルタ訓練くんれんおこな独特どくとくのうなりぶし[332]りにしたみやこはるみ影響えいきょう公言こうげんするれい八代やしろ亜紀あきがある。ぶし演歌えんか島倉しまくら千代子ちよこ水前寺すいぜんじ清子きよこまで浪花節なにわぶし影響えいきょう指摘してきされている[333]

レコード

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浪曲ろうきょくのレコードは、浪花なにわちん愛造あいぞう以降いこう大変たいへんおおくの吹込ふきこみがあり日本にっぽんでのレコード普及ふきゅういつにする[334]日本にっぽん高度こうど成長せいちょうにあたる、浪曲ろうきょく衰退すいたいはいると浪曲ろうきょくでデビューをして人気にんきしゃになってもレコード発売はつばいがされないことがえ(ぎゃくえばそれまでおおくの浪曲ろうきょく録音ろくおんがレコードした[335] )、昭和しょうわ40年代ねんだい関西かんさいローオンレコード[336]昭和しょうわ50年代ねんだい東京とうきょうベルボアレコード設立せつりつされ、独立どくりつレーベルとして活動かつどうをした。戦前せんぜんから戦中せんちゅうのレコード初発しょはつ状況じょうきょう近代きんだい日本にっぽん芸能げいのう年表ねんぴょうしたくわしい[337]

民謡みんよう

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津軽つがる三味線しゃみせん小原おはらたかし[注釈ちゅうしゃく 88]には浪曲ろうきょくつぼざか霊験れいけん」をれた演題えんだいがある。また安来やすぎぶしのアンコに浪曲ろうきょくれたのは、曲師きょくし山本やまもと太一たいち存在そんざいおおきいという[338]

また、浪花節なにわぶしでテーブルかけが標準ひょうじゅんてきになるほど流行りゅうこうした影響えいきょうで、その全国ぜんこくてき流行りゅうこうした八木やぎたかし安来やすぎぶし河内かわうち音頭おんど津軽つがる三味線しゃみせんぎゃく輸入ゆにゅうかたち山形やまがたけんデロレン祭文さいぶんでもテーブルかけがつくられた[339]

ラジオの浪曲ろうきょく

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ラジオでは1925ねん大正たいしょう14ねん東京放送とうきょうほうそうきょく (JOAK)の開局かいきょく3ヶ月かげつから出演しゅつえん[注釈ちゅうしゃく 44][142]日本にっぽん軍国ぐんこくともないその比重ひじゅう[340]戦後せんご民放みんぽうラジオが続々ぞくぞく発足ほっそくすると、人気にんき効率こうりつ費用ひようたい効果こうか)にけたスポンサーの要請ようせいで、浪曲ろうきょく番組ばんぐみ大量たいりょう制作せいさくした[341]くわしくは歴史れきしふし参照さんしょうのこと。また、レコード会社かいしゃへの専属せんぞく契約けいやくじゅんじた、民放みんぽう(ラジオ創世そうせい)への専属せんぞく制度せいど浪曲ろうきょくかぎらず、演芸えんげいさかい全体ぜんたい民放みんぽうからNHKにまでもひろがった[342]

朝日放送あさひほうそうの「おはよう浪曲ろうきょく」はなが歴史れきしえた。[343] ラジオの日本にっぽんでの放送ほうそう開始かいし直前ちょくぜんからだい世界せかい大戦たいせんの1952ねんまでの(浪花節なにわぶし以外いがいふくめた)かく芸能げいのう放送ほうそう記録きろくは、『日本にっぽん近代きんだい芸能げいのう年表ねんぴょうした』p.74-147にくわしい。

テレビと浪曲ろうきょく

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NHKは、現在げんざいいたるまで継続けいぞくてき本格ほんかく浪曲ろうきょくつづけている。 それ以外いがい本格ほんかくてき浪曲ろうきょくげた番組ばんぐみかずきわめてすくない。近年きんねんではとし2かい、NHK初夏しょか浪曲ろうきょく大会たいかい浪曲ろうきょく特選とくせんなつ)とふゆのスタジオ録画ろくが浪曲ろうきょく特選とくせんふゆ)のがあるのみである。朝日放送あさひほうそうの「おはよう浪曲ろうきょく」はテレビばんがあったが終了しゅうりょうしている[注釈ちゅうしゃく 89]過去かこには浅草あさくさ木馬亭もくばてい収録しゅうろくおこなわれた二葉ふたば百合子ゆりこ玉川たまがわ良一りょういち司会しかい東京とうきょう12チャンネルなみだ浪曲ろうきょく劇場げきじょう」があった。それ以前いぜんには素人しろうとのど自慢じまんとして民放みんぽうテレビ創成そうせいKRTテレビ(のTBSテレビ)浪曲ろうきょく天狗てんぐ道場どうじょう」やのちフジテレビテレビ浪曲ろうきょく道場どうじょう」など[注釈ちゅうしゃく 90]。「浪曲ろうきょくうごきがいからテレビきではない」との定評ていひょう[344]

こども

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こどもけに浪曲ろうきょくしたしませる機会きかいとしては、フジテレビひらけ!ポンキッキ」にて、玉川たまがわカルテットかぞかたをその芸風げいふうそのままにつたえたことがある[345]。ややときをおいて2000ねん4がつ - 9月、「アニメ浪曲ろうきょく紀行きこう 清水次郎長しみずのじろちょうでん」が毎日放送まいにちほうそうをキーきょくにして放映ほうえいされた。また、2001ねん浪曲ろうきょく絵本えほんとして「ねぎぼうずのあさたろう」が発売はつばいされた。国本くにもと武春たけはる協力きょうりょく長谷川はせがわしんおもわせる股旅またたびぶつになっている。2008ねんにはアニメテレビ朝日てれびあさひ系列けいれつ放映ほうえいされた。近年きんねんではNHK教育きょういくテレビにほんごであそぼ」のうなりやベベンやく国本くにもと武春たけはるえんじた。以上いじょうのように、国本くにもと武春たけはるが、浪曲ろうきょく将来しょうらいかんがえるなかで、こどもけの活動かつどう継続けいぞくして重視じゅうししたのはあきらかで、のちつづもの登場とうじょうたれる。

色物いろもの演芸えんげいとコント・バラエティ番組ばんぐみ

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色物いろもの演芸えんげい世界せかいでは、浪曲ろうきょくものまね(とくふしまねとぶ)[注釈ちゅうしゃく 91][注釈ちゅうしゃく 92]の、ふるくは浮世うきよてい信楽しがらき(うきよてい しがらき)[346][347][注釈ちゅうしゃく 93]戦後せんごまで活躍かつやくした前田まえだ勝之助かつのすけ[348][349]隅田すみた梅若うめわか(すみだ うめわか)[348](どちらもラジオ浪曲ろうきょく天狗てんぐ道場どうじょう指南しなんやくつとめたことでも有名ゆうめい)、浮世うきよていくもこころぼう[350]には浪曲ろうきょく修行しゅぎょう経験けいけん有無うむかかわらず、よく舞台ぶたいえんじられた[351]先駆せんくとして井口いぐちしずなみ虎造とらぞうぶし[352]れた「地球ちきゅううえあさがくる」のボーイズ川田かわた義雄よしお[353]、「歌謡かよう浪曲ろうきょくカルテット」とうたっていた玉川たまがわカルテットすでしていたよん代目だいめ宮川みやがわ左近さこん結成けっせいした宮川みやがわ左近さこんショー浪曲ろうきょく漫才まんざいとして(砂川すなかわ捨丸などの音曲おんぎょくまんさい系譜けいふ色濃いろこかたちで)転出てんしゅつした浪曲ろうきょくタイヘイトリオなど多数たすうである[305]浪曲ろうきょくはテレビ番組ばんぐみ形式けいしきとしては成功せいこうせず、しかしバラエティ番組ばんぐみとしては「巨泉こいずみ×ぜんゲバゲバ90ふん!」の度肝どぎもく「アッとおどろくタメゴロー[354]」、「オレたちひょうきんぞく」にてアダモステかたきさるてい きた)、鬼瓦おにがわらけんづくり浪曲ろうきょくをモチーフに使つか[355]、テレビ印象いんしょうのこしている。

落語らくご

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3代目だいめさんゆうていえんの「浪曲ろうきょく社長しゃちょう」のように、ぎゃく浪曲ろうきょくから落語らくご影響えいきょうあたえた作品さくひんもある。浪曲ろうきょく落語らくご時折ときおりられ、田舎回いなかまわなまりのひど浪曲ろうきょく滑稽こっけいげた5代目だいめ古今ここんていこころざしなま落語らくご夕立ゆうだちかんろう[356][注釈ちゅうしゃく 94]当時とうじ浪曲ろうきょくたいするあく印象いんしょういまつたえる。9代目だいめ入船亭扇橋いりふねていせんきょう2代目だいめ広沢ひろさわ虎造とらぞう入門にゅうもんしようとしたところから芸界げいかい履歴りれきをスタートさせた。甚五郎じんごろうもののネタは、講談こうだんから題材だいざいった2代目だいめ広沢ひろさわきくはるのよくえんじた「落語らくご浪曲ろうきょく」から、落語らくご3代目だいめかつら三木助みきすけのネタになった。立川談志たてかわだんし子供こども時分じぶんから浪曲ろうきょくきだっただけでなく、実際じっさいいくつかのネタは浪曲ろうきょくから仕入しいれている[357]2代目だいめ快楽かいらくていブラック代表だいひょうさくひとつ「英国えいこく密航みっこう」は広沢ひろさわひさごみぎ衛門えもん浪曲ろうきょく落語らくごしたものである[358][359]大阪おおさかでは、わらいぶくていぶくわらい改作かいさく浪曲ろうきょくヤクザ」[360]近年きんねんでもさんゆうてい白鳥はくちょうさくながれのぶたでん」シリーズ(任侠にんきょう流山ながれやま動物どうぶつえんぜん10だんは、2代目だいめ広沢ひろさわ虎造とらぞうの「清水次郎長しみずのじろちょうでん」からの影響えいきょう公言こうげんするなど、浪曲ろうきょくへのオマージュあふれた作品さくひんで、柳家やなぎやたかし太郎たろう柳家やなぎやさんさんえんじている。また春野はるの恵子けいこみずひめ玉川たまがわふとしぶくによりそれぞれフシけ(浪曲ろうきょく)され共有きょうゆうしている。すで講談こうだんもされ、(落語らくご経由けいゆではあるが)浪曲ろうきょくてき主題しゅだい講談こうだんへのぎゃく輸入ゆにゅうというめずらしい事態じたいきている、ともえる。

漫画まんが・コミックとのかかわり

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マンガ、「ONE PIECE(ワンピース)」は作者さくしゃ尾田おだ栄一郎えいいちろう虎造とらぞう次郎じろうちょうでんきながら執筆しっぴつしているとわれ、作中さくちゅうにも影響えいきょう色濃いろこ[361][362][363]くなったさくらももこの「ちびまるちゃん」は当初とうしょ自伝じでんてき性格せいかく色濃いろこいマンガであった。作者さくしゃきゅう清水しみず出身しゅっしんということで、祖父そふともぞう影響えいきょう主人公しゅじんこうのまる浪曲ろうきょく落語らくごきである[364][注釈ちゅうしゃく 95]

原爆げんばくマンガとして有名ゆうめいはだしのゲン作者さくしゃこのみで、作中さくちゅう浪曲ろうきょくがたびたび登場とうじょうする(あや太郎たろうよねわか虎造とらぞう[365][366]

その

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1979ねん昭和しょうわ54ねん)、田中たなかしょうじつあきら小説しょうせつ浪曲ろうきょく朝日あさひまるはなし』などで直木賞なおきしょう受賞じゅしょうした[367]

浪曲ろうきょく目指めざした」れいは、演歌えんかかいほかにも植木うえきひとしちちとおるまこと、アナウンサーの小島こじま一慶いっけいなど、いまだに時折ときおりエピソードが披露ひろうされるほどある。

日本にっぽんにおける)シャンソン女王じょおうとして後世こうせいにものこ宝塚歌劇団たからづかかげきだん出身しゅっしん越路こしじ吹雪ふぶきは、舞台ぶたいで2代目だいめ広沢ひろさわ虎造とらぞう次郎じろうちょうでんふし真似まねもり石松ひかげのかずら)を披露ひろうしたことをきっかけとして、注目ちゅうもくあつめていくようになる[368]

寺山てらやま修司しゅうじによるアングラ劇団げきだん演劇えんげき実験じっけんしつ天井てんじょう桟敷さじき[369]の「見世物みせもの復権ふっけん」をうたった旗揚はたあげは「浪花節なにわぶしによる一幕ひとまく 青森あおもりけんのせむしおとこ」である[370]1983ねん寺山てらやま没後ぼつごパルコ劇場げきじょう再演さいえんあり[371]美輪みわ明宏あきひろ国本くにもと武春たけはる[372]木村きむらかつ千代ちよ[373]出演しゅつえん

国本くにもと武春たけはる活動かつどう両輪りょうりんのもう一方いっぽうである「三味線しゃみせんロック」→「三味線しゃみせんがたり」がある[374]本人ほんにんくなったが、浪曲ろうきょくなかには浪曲ろうきょくジャンルを同時どうじ平行へいこうてき活動かつどうするものあらわはじめてきている[375]

また、労働ろうどうしゃけの音楽おんがく演芸えんげい)のちかさから、たびたび接近せっきんしてきたブルース浪曲ろうきょくは(川田かわた義雄よしおの「浪曲ろうきょくセントルイスブルース」、八代やしろ亜紀あき[376]国本くにもと武春たけはる、2代目だいめ京山きょうざん幸枝ゆきえわかなど)結局けっきょくいまいたっている。

電気でんきグルーヴきょく浪曲ろうきょくインベダー」[377][378]はこの世代せだい浪曲ろうきょく受容じゅようぶり(認知にんちさい(きわ)で「よくわからない」けど、和風わふう演歌えんかてきなもの)を端的たんてきあらわす。

ライブコマースは、2017ねん日本にっぽんにおける認知にんち元年がんねんだが、ヒラキ_(芸能げいのう)同様どうようぜにおこなわれる。

みなとしょうゆきは「クラシカ浪曲ろうきょく」として「ベートーヴェン一代記いちだいきより 歓喜かんきうた」をかたひとししん機軸きじく注目ちゅうもくあつめている[379]

ちんどんから浪曲ろうきょくとなったみなとしょうそめ、そのひとちまでをったドキュメンタリー映画えいが絶唱ぜっしょう浪曲ろうきょくストーリー」が川上かわかみアチカ監督かんとくにより撮影さつえいされ、1あいだ51ぶん作品さくひんとして完成かんせい公開こうかいされた[380]

おも浪曲ろうきょく

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おおきな名前なまえについては、そのにあやかりげい継承けいしょうするために襲名しゅうめいすること名跡みょうせき)がある。浪曲ろうきょく名跡みょうせき一覧いちらん参照さんしょうのこと。ぎゃく本名ほんみょう(または本名ほんみょう一部いちぶ)を使用しようすることもあった。新興しんこう芸能げいのうであった時期じき演芸えんげい同様どうように、師弟してい関係かんけい固定こていされておらず、師匠ししょう遍歴へんれきするものや、師匠ししょうしの独立独歩どくりつどっぽものもいた。また、曲師きょくし裏方うらかたマネージャーまたは「支配人しはいにん」)とのてん出入でいり歴史れきしてきおおさ、戦後せんごにおいての演歌えんか民謡みんよう歌手かしゅ色物いろもの演芸えんげいとの比較的ひかくてき自由じゆう特筆とくひつあたいする[注釈ちゅうしゃく 96]現在げんざい浪曲ろうきょく落語らくごのように徒弟とてい制度せいどととのい、3ねん以上いじょう年季奉公ねんきぼうこう、1ねん御礼おれい奉公ほうこう一般いっぱんてきである(江戸えど落語らくごのようなふた現在げんざいはない)。節目ふしめとして名披露目なびろめ年季ねんきけ)があり、いち人前にんまえというあつかいにわる。

もともと浪花節なにわぶしは、演芸えんげいくらべても女性じょせい進出しんしゅつはやく、成立せいりつまえ江戸えど末期まっきから曲師きょくしはもちろんすで女流じょりゅうもおり、明治めいじ大正たいしょうには女流じょりゅう浪曲ろうきょくだんがいくつも結成けっせいされ巡業じゅんぎょう好評こうひょうていた[381]。そのようなところから戦前せんぜんより、著名ちょめい初代しょだい春野はるの百合子ゆりこ冨士ふじ月子げっし二代目天中軒雲月戦後せんごには天津てんしん羽衣はごろも二葉ふたば百合子ゆりこ代目だいめ春野はるの百合子ゆりこ登場とうじょうする。のち浪曲ろうきょくへの入門にゅうもんしゃ全体ぜんたいなか女性じょせいかたよりだし、近年きんねん講談こうだん同様どうよう現役げんえき浪曲ろうきょく男女だんじょ逆転ぎゃくてんする状況じょうきょうになっている。

明治めいじより大相撲おおずもう真似まねた「浪曲ろうきょく番付ばんづけ」が多数たすう発行はっこうされ配布はいふされた。地方ちほう巡業じゅんぎょうをするさい活用かつようされ、当時とうじけの一端いったんは覗うことができる[382][383]

東西とうざい交流こうりゅうおおく、ひがしめいばん九州きゅうしゅうあいだ拠点きょてんうつものは、演芸えんげいくらべても、(浪曲ろうきょく曲師きょくしともに)ふるくからおおい。

現役げんえき浪曲ろうきょくについては日本にっぽん浪曲ろうきょく協会きょうかい浪曲ろうきょく親友しんゆう協会きょうかい浪曲ろうきょく一覧いちらん、または浪曲ろうきょく一覧いちらん参照さんしょうのこと。[384]


五十音ごじゅうおんじゅん

関東かんとう浪曲ろうきょく

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関西かんさい浪曲ろうきょく

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中京ちゅうきょう浪曲ろうきょく

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中京ちゅうきょう浪曲ろうきょく、というよりおも関東かんとう進出しんしゅつしていった中京ちゅうきょうぶし一覧いちらんである。

九州きゅうしゅう浪曲ろうきょく

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九州きゅうしゅう出身しゅっしん九州きゅうしゅうしょくつよだい看板かんばん浪曲ろうきょく一覧いちらんになる。ぶし祭文さいぶんばれていた土壌どじょうがあり、雲右衛門くもえもんのちよしとういち調ちょうのち)に九州きゅうしゅう出身しゅっしん浪曲ろうきょくおお[403]中京ちゅうきょう地区ちくおなじく、かれらは関西かんさい関東かんとうさらなる活躍かつやくもとめてうつっていった。地回じまわりの浪曲ろうきょく九州きゅうしゅうにはとくおおく、きょうなみかい結成けっせい基盤きばんにもなった。

(* よしとういち調ちょう[404]

浪曲ろうきょく所属しょぞく団体だんたい

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関東かんとう関西かんさい代表だいひょうする上記じょうき2団体だんたいのほか、過去かこには(きょうなみかい→)西日本にしにほん浪曲ろうきょくかい福岡ふくおかにあった。また、戦時せんじ総動員そうどういん体制たいせいなか統合とうごうされるかたち団体だんたい日本にっぽん浪曲ろうきょくかい」が敗戦はいせんまでの1年間ねんかん存在そんざいした。戦後せんご中京ちゅうきょう浪曲ろうきょく協会きょうかい名古屋なごや存在そんざいした。

ニセ浪曲ろうきょく

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浪曲ろうきょくという分野ぶんや自体じたいおとろえ、情報じょうほう環境かんきょう飛躍ひやくてき発展はってんともに、ニセ浪曲ろうきょく存在そんざい風化ふうかしてきているが、渾然一体こんぜんいったい[405]として浪花節なにわぶしかたり/浪曲ろうきょくとしての正統せいとうせい[注釈ちゅうしゃく 97]がさほど重要じゅうようでなかった時代じだい天狗てんぐれん無名むめい浪曲ろうきょくが、有名ゆうめい浪曲ろうきょくから名前なまえ拝借はいしゃくし、「ニセ浪曲ろうきょく」として巡業じゅんぎょうしてまわることが度々たびたびられた[406][407][408]れいとして村田むらた英雄ひでお少年しょうねん酒井さかいくも無断むだん名乗なのった時期じきがある)[409][410]真鍋まなべによれば、「キク・ヨム・マネル」というゆるやかな連結れんけつ実践じっせんなかで、素人しろうと大量たいりょうされ、プロ裸足はだしのセミ・プロが「回路かいろ」としてされていった(民放みんぽうにものこ浪曲ろうきょく天狗てんぐ道場どうじょうはこういった土壌どじょうもとまれた番組ばんぐみ、プレ・カラオケべる)。 「ひがしさんひかり[注釈ちゅうしゃく 98][411]名乗なのるなど、松平まつだいらこく十郎じゅうろう名前なまえかかわつづけた[412]ニセ物にせもの騒動そうどうがあった大木おおき伸夫のぶお五月さつき一朗いちろう談話だんわで「春日かすがどんぶりうめうぐいす」と変名へんめい名乗なのったはなしをしている[413]観客かんきゃく受容じゅようとしては、戦後せんご)の西部せいぶげきはやちガンマンとして「来日らいにち」・実演じつえんしたケニー・ダンカン、やプロレスビートたけし言及げんきゅうし、いま記憶きおくのこる「エノケソ」[414][415]エノケン偽物にせもの)につうそこする。

寄席よせ

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現在げんざい

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過去かこ主要しゅよう寄席よせ浪曲ろうきょく定席じょうせき中心ちゅうしん

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  • 京山きょうやまてい - 四谷よつや山本やまもとちん京山きょうやまだいきょう改名かいめい。(M39山本やまもとちん
  • 虎丸とらまるてい - 初代しょだい虎丸とらまる東京とうきょう進出しんしゅつのために同郷どうきょう人間にんげんつくる。小菅こすが一夫かずおれば、浅草あさくさざるわかまち
  • 神田かんだにしきてるかん - 貸席かしせき日本にっぽん映画えいが登場とうじょうする。浪花節なにわぶしはつ合同ごうどう演芸えんげいかい会場かいじょう
  • だいろじ - 東京とうきょう日本橋にほんばしあしまち大円だいえんあさだいみせ明治めいじ30ねんごろ浪花節なにわぶしおおす。
  • 都川つかわてい - 本所ほんじょがいまちげん墨田すみだ石原いしはら
  • 市場いちばてい - 東京とうきょう神田美土代かんだみとしろまち3-1。またのを「ほん市場いちば」。せきぬし奥津おくつ万吉まんきち関西かんさい(から進出しんしゅつ拠点きょてんあいしんしゃから神田かんだぐみへ。凱旋がいせん雲右衛門くもえもん買収ばいしゅう改装かいそうしたのち神田かんだ入道にゅうどうかん[416]くも没後ぼつごさん代目だいめ鼈甲べっこうとき虎丸とらまるわたり「民衆みんしゅう」。定員ていいんは700にん寄席よせとしては巨大きょだいレベル。(M39)(T15)(現在げんざいベルサール神田かんだかく位置いち
  • しん恵比寿えびすてい - 東京とうきょう浅草あさくさちんや横丁よこちょう[417]明治めいじ24ねんちく浪花なにわてい駒吉こまきち中心ちゅうしんとする関東かんとう拠点きょてん午前ごぜん10からよる11まで、毎日まいにち営業えいぎょう1人ひとり時間じかん40ふんきょう盛会せいかいから浅草あさくさぐみへ。せきすう257[418]せきぬし中沢なかざわ源之助げんのすけ大正たいしょう3ねんまで営業えいぎょう確認かくにん[419]
  • さらてい - 東京とうきょうしば関西かんさいぐみ拠点きょてんひとつ。しばさら40。のちに「まんもりかん」。
  • 栄寿えいじゅてい - しばがらすもり 愛造あいぞう美声びせい講談こうだん』の看板かんばん(M39)
  • 東京とうきょうてい - 日本橋にほんばしみなみ伝馬てんままち34。愛造あいぞう変調へんちょうたした場所ばしょ漫語まんご
  • 天満てんま国光くにみつせきほんせき(くにみつせき) - 明治めいじ16ねんかれぶし定席じょうせきとしてできた天満てんま天神てんじんうら吉川よしかわかん改称かいしょう[420]はらそう兵衛ひょうえ定員ていいん400にん[421]だい大戦たいせん空襲くうしゅうけた。
  • 松島まつしま広沢ひろさわかん - 広沢ひろさわ虎吉とらきち井上いのうえはるゆめ経営けいえいしチェーンした。220せき[421]吉本よしもと買収ばいしゅうされる。
  • せんにちまえあいしんてい(またはあいしんかん) - 大阪おおさか市内しない各地かくちだいいちみなみせんにちまえ、200せき)からだいよんまである寄席よせチェーンであった。ぬし井谷いたに亀之助かめのすけ終戦しゅうせんまえ初代しょだい吉川よしかわ秋水しゅうすいおとうと南条なんじょうはじめ館主かんしゅ[421]1910ねん明治めいじ43ねん)10がつむすめ義太夫ぎだゆう大阪おおさかにおける一番いちばん定席じょうせき播重せき買収ばいしゅうだいあいしんてい改名かいめいするが、つづむすめ義太夫ぎだゆう興行こうぎょう[422]。その曲折きょくせつがあり[423][424]昭和しょうわ4ねんの「入場にゅうじょうりょう調査ちょうさ」では浪花節なにわぶしでカウントされ[425]、そのころ浪花節なにわぶし定席じょうせきわる[426]
  • 喜楽きらくせき - さかい広沢ひろさわひさごみぎ衛門えもん初舞台はつぶたいせき
  • 寿ことぶきてい - 横浜よこはま伊勢佐木いせざきまちせきがい伊勢佐木いせざきまち方面ほうめん縄張なわばりとする沢野さわの巳之助みのすけ経営けいえい
  • やまてい-青山あおやまどおり(げん246)沿い(M39)
  • 廣川ひろかわちん - 深川ふかがわ冨吉とみきちまち(M39)
  • 浪花なにわかん - 深川ふかがわ富川とみかわまち(M39)(T15)
  • さくらかん - 深川ふかがわ黒江くろえまち(M39)(T15)
  • 広尾ひろおちん - 麻布まふ広尾ひろお(M39)(T15)
  • ぶくづち - 麻布まふ宮下みやげまち(M39)(T15)
  • おうぎてい - 日本橋にほんばし人形にんぎょうまち
  • 浦安うらやすてい - 千葉ちばけんみなみ葛飾かつしかぐん浦安うらやすまちげん浦安うらやす堀江ほりえ185番地ばんち許可きょか番号ばんごう1ごう明治めいじ43ねん間口まぐち5あいだ奥行おくゆき8あいだ定員ていいん350めい[427]山本やまもと周五郎しゅうごろうの『あおべか物語ものがたり』にあるうらかすていのモデル[428]漁師りょうしまちきゃく気性きしょうあらいことでられ[429]近所きんじょにあるさきんじてあったが許可きょかの「堀川ほりかわちん」→もなくけて、1910ねんえた「演技えんぎかん」(定員ていいん600めい)とともに、浪曲ろうきょくかぎらずデロレン祭文さいぶん落語らくごなどもおこなわれた。昭和しょうわ40ねんこわ[430]
  • はながんてい - 本所ほんじょ緑町みどりちょう(M3)(T15)終戦しゅうせんまで。
  • かねしゃてい - 東京とうきょう浅草あさくさ一流いちりゅうつど講釈こうしゃくじょうだったが昭和しょうわ11ねんくれ浪花節なにわぶしせきわった。浅草あさくさ1-40-5[431]
  • 住吉すみよしちん - みなみ條文じょうぶんわか三波みなみ春夫はるお)デビューの[432]
  • ぐりともてい - 南千住みなみせんじゅコツどおり。戦後せんご、ラジオ東京とうきょう浪曲ろうきょく天狗てんぐ道場どうじょう」ヒットの時期じき浪曲ろうきょく定席じょうせきとしてけるが時期じきみじかい。

脚注きゃくちゅう

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浪花節なにわぶしまたは浪花節なにわぶしてき使用しようれい

  1. ^ 「SF作品さくひん本質ほんしつ意外いがい浪花節なにわぶしなのではないかとおもいました」。プロダクション・アイジー石川いしかわ光久みつひさ社長しゃちょうインタビュー『日経にっけいMJ』2017ねん1がつ4にち
  2. ^ しかし、熊本県立大学くまもとけんりつだいがく理事りじちょうひゃく旗頭はたがしら(いおきべ)しん近代きんだい日本にっぽん政治せいじ外交がいこう)は昭和しょうわ天皇てんのうかんがかたを「浪花節なにわぶし」とたとえる。「退位たいいさせるのは責任せきにんがあったからであり、責任せきにんがあった私人しじんとなれば戦犯せんぱんのナンバーワンとしてされる」とはなす。木戸きどの「封印ふういん」は当然とうぜんだった。『毎日新聞まいにちしんぶん東京とうきょう朝刊ちょうかん2017ねん1がつ5にち3ぺーじこう皇室こうしつ憲法けんぽうあゆむ/7」。
  3. ^ 音楽おんがく主人公しゅじんこうたちがあるまち情景じょうけい浪花節なにわぶしてきかたづいたりしない人間にんげん関係かんけい。さまざまな場面ばめん独特どくとくかわいたにおいがふっとただよう」。『読売新聞よみうりしんぶん東京とうきょう夕刊ゆうかん2017ねん1がつ27にち11ぺーじ映画えいが破門はもん ふたりのヤクビョーガミ=松竹しょうちくほか あじのある「迷コンビ」。

注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 浪曲ろうきょく浪花節なにわぶし)のNDC分類ぶんるい最新さいしんの10はんいても、大衆たいしゅう芸能げいのうしたにある「779.15」である。
  2. ^ 新幹線しんかんせん以前いぜん限定げんていである。
  3. ^ 教養きょうよう主義しゅぎとは、文化ぶんか享受きょうじゅとおして人格じんかくたかめようというかんがかたである。当時とうじ日本にっぽん教養きょうよう主義しゅぎ源流げんりゅう明治めいじ時代じだい修養しゅうよう主義しゅぎであり、明治めいじ末期まっきじゅう世紀せいきはじめ)からとく高学歴こうがくれきしゃ普及ふきゅうし、高学歴こうがくれきそう自分じぶんたち一般いっぱん庶民しょみんから差別さべつしようする意識いしきから高学歴こうがくれきそう固有こゆう文化ぶんかとなっていった。差別さべつというのは自分じぶんたちをうえくわけであるから、特権とっけんというほうがわかりやすいであろう。古川ふるかわ隆久たかひさ戦時せんじ日本にっぽん映画えいが』p.25-26。
  4. ^ 荷風かふう音楽おんがく」『季刊きかん芸術げいじゅつ』12(3)p.111
  5. ^ 伝統でんとう邦楽ほうがくかいでは一般いっぱんてきである「家元いえもと制度せいど」に象徴しょうちょうされる分派ぶんぱ主義しゅぎきね正邦まさくにいち邦楽ほうがくけい作曲さっきょく体験たいけんてき発言はつげん」『科学かがく思想しそう』1976(10)p.322とは様相ようそうことにしている。
  6. ^ 現代げんだいじんからすれば「うたう」であるが、くわしくはかたりものこう説明せつめいがあるので参照さんしょうのこと。
  7. ^ 浪曲ろうきょく曲師きょくしがどう呼吸こきゅうわせて演奏えんそうしているかは国本くにもと武春たけはるってましためい調子ちょうし!』にくわしい。東家あずまやみさ(p.46-54)、岩崎いわさき節子せつこ(p.96-99)、沢村さわむら豊子とよこ(p.100-103)のこうなどを参照さんしょうのこと。
  8. ^ あい三味線しゃみせん歴史れきしてき配偶はいぐうしゃ、つまり女房にょうぼうおおかった。このケースは2024ねん時点じてん比率ひりつっているが、東家あずまや一太郎いちたろうにおける東家あずまやよしさん代目だいめ広沢ひろさわきくはるにおける広沢ひろさわよしふねなどのれい散見さんけんされる。
  9. ^ 現代げんだいかっていくなかで、高野たかの東海とうかい山本やまもと太一たいちなど男性だんせい高名こうみょう曲師きょくしもおり、また曲師きょくし不足ふそく起因きいんするフリー曲師きょくし増加ぞうかもあり、現在げんざい組合くみあわせに特別とくべつなものはない。
  10. ^ 日本にっぽん浪曲ろうきょく南北社なんぼくしゃばん(1968年刊ねんかん)p.373(中川なかがわ明徳あきのりによるあきら)は、天龍てんりゅう三郎さぶろうがギター奏者そうしゃをつけはじめたことを批判ひはんてきいており、そのころよりはじまり、一手いってほうとして京山きょうざん幸枝ゆきえわかなど上方かみがた定着ていちゃくした様子ようすがうかがえる。
  11. ^ 「コロニア浪曲ろうきょく」。細川ほそかわ頻出ひんしゅつ
  12. ^ ゆう雑誌ざっし』に転載てんさいされた「浪花節なにわぶし漫語まんご」のうえらん北村きたむらだいともえ浪花なにわひろしほう)の寄稿きこうにもあるように、ふるくから関西かんさいで「浪花節なにわぶしだから浪花なにわ大阪おおさか)」と単純たんじゅんをする傾向けいこうられる。出典しゅってん:『ゆう雑誌ざっし復刻ふっこく2かんp.882。
  13. ^ 東西とうざいさかいえた巡業じゅんぎょう的屋てきやすくない。出典しゅってん:『テキヤはどこからやってくるのか?』(ISBN 978-4334037956)p.21。
  14. ^ 日本にっぽん吹込ふきこ事始ことはじめ 1903ねんガイズバーグ・レコーディングス』にも「うかれぶしさわぎ」といういま浪花節なにわぶしとはべつ音曲おんぎょく演者えんじゃ立花りっかまどか左衛門さえもん富士ふじまつぎんちょう)の収録しゅうろくがある。おな演者えんじゃにある「浮世うきよぶし」の別称べっしょうであろう
  15. ^ どう時期じき寄席よせ登場とうじょうしたオッペケペーの浮世うきよてい○○こと川上かわかみ音二郎おとじろうむすめ義太夫ぎだゆうなどとくらべてもあきらかである。
  16. ^ 現在げんざい上野うえのえき構内こうない1882ねん明治めいじ15ねん)11月に閉鎖へいさされる。
  17. ^ 明治めいじはい火除ひよけとなる。明治めいじ23ねんには日本にっぽん鉄道てつどう貨物かもつえき用地ようちとなる。
  18. ^ 采女うねめきょうわきがあった
  19. ^ いま新橋しんばしえき日比谷ひびやくち近辺きんぺん
  20. ^ 佐竹さたけはん屋敷やしきあと現在げんざい台東たいとう台東たいとうたけまちひととくらし(台東たいとう文化財ぶんかざい調査ちょうさ報告ほうこくしょ だい18しゅう)』台東たいとう教育きょういく委員いいんかい文化ぶんか事業じぎょう体育たいいく、1995。
  21. ^ 本所ほんじょ津軽つがるはん屋敷やしきあといま墨田すみだみどり図書館としょかん近辺きんぺん
  22. ^ いずれものち周辺しゅうへん寄席よせ出来できている
  23. ^ 中村なかむら幸彦さちひこ1983p.300
  24. ^ 明治めいじ5ねんとする石谷いしがやはなつつみせつ明治めいじ10ねん以降いこうとする平林ひらばやしせつおもにある。全容ぜんようについてはしば清之きよゆき浪花節なにわぶし 東京とうきょうちゅう寄席よせめいおよ出演しゅつえんしゃ一覧いちらん』の冒頭ぼうとう参照さんしょうのこと。しかしながら「遊芸ゆうげい稼人」の歴史れきしにおける重要じゅうよう明治めいじ8年刊ねんかんしょ芸人げいにんめいろく浪花節なにわぶしはなく、それ以降いこう結成けっせいされたと具体ぐたいてき推定すいていできる。
  25. ^ ふしだん説教せっきょう演目えんもくかさなり、その影響えいきょうがうかがえる。
  26. ^ 東京とうきょう神田かんだ市場いちばてい」、浅草あさくさ雷門かみなりもんしん恵比寿えびすてい」がとも開場かいじょうするのが明治めいじ25ねん出典しゅってんしば清之きよゆき浪花節なにわぶし 東京とうきょう市内しない寄席よせめいおよ出演しゅつえんしゃ一覧いちらん』。
  27. ^ 芸人げいにん同士どうし深刻しんこく対立たいりつではなく、合併がっぺい興行こうぎょうをする場面ばめんおおくあった。
  28. ^ えた芸能げいのうとしてげた(倉田くらた喜弘よしひろなどの研究けんきゅう)。
  29. ^ 実際じっさいにはいまでいうブレーンてき役割やくわりたした。
  30. ^ この上京じょうきょうまえ佐世保させぼでの公演こうえんにんわかれ、宮崎みやざきは「白浪しらなみあん滔天とうてん」の芸名げいめいとしても使つかい、のち伊藤痴遊いとうちゆう一心いっしんてい辰雄たつお関西かんさい巡業じゅんぎょうしている。
  31. ^ 警視庁けいしちょう統計とうけいしょ』によれば当時とうじ1904ねん東京とうきょう市内しない寄席よせは135けん。1にちあたりの平均へいきん客数きゃくすうひるせき45にんよるせき73にん。それにたいし、東京とうきょう市内しない劇場げきじょうだい劇場げきじょうが7しょう劇場げきじょうが12存在そんざいし、1にちあたりの平均へいきん客数きゃくすう429にん一幕ひとまくくわえると、719にん出典しゅってん:上田うえだまなぶ日本にっぽん映画えいが草創そうそう興行こうぎょう観客かんきゃく早稲田大学わせだだいがく出版しゅっぱん、2012ねん3がつ30にちISBN 9784657120045 p.70。
  32. ^ 正岡まさおかひろし雲右衛門くもえもん以前いぜん」は『日本にっぽん浪曲ろうきょく』のプロトタイプとべる作品さくひんである。その集成しゅうせいにもある。
  33. ^ 活動かつどう写真しゃしんだい流行りゅうこう戦争せんそうえたような活動かつどう写真しゃしんがにわかに復活ふっかつし、市内しないいたところ楽隊がくたい囃子はやしにぎわしく、興行こうぎょうじょうはどこも大入おおいだい繁盛はんじょう。(中略ちゅうりゃく芝居しばいき、寄席よせき、浪花節なにわぶして」た結果けっかである。とかれる状況じょうきょうになる。原典げんてん:『東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』1908ねん8がつ24にち年表ねんぴょうp.188。
  34. ^ 三波みなみ春夫はるお歌舞伎座かぶきざ公演こうえん2ねんの1966ねん谷屋たにやたかしさく風流ふうりゅう奈良ならまるくづし』
  35. ^ これは創立そうりつあいだもない講談社こうだんしゃ速記そっきから創作そうさくいまいた路線ろせんである)にてんじる重要じゅうようなきっかけとなる
  36. ^ 講談社こうだんしゃの90ねん』には、明治めいじ44ねん講談こうだん倶楽部くらぶ創刊そうかんごうには「浪花なにわてい重松しげまつ」で速記そっき掲載けいさいがあったが、問題もんだい大正たいしょう2ねん増刊ぞうかん浪花節なにわぶしじゅうはちばん発売はつばい記念きねん浪花節なにわぶし芸者げいしゃ大会たいかいに「木村きむら重松しげまつ」で出演しゅつえんしていることが確認かくにんできる。
  37. ^ 一部いちぶ定説ていせつした「大正たいしょう6ねん12月20にちづけの『新聞しんぶん紙上しじょうはじめて使用しようされた」という事実じじついが、直後ちょくご年明としあ大正たいしょう7ねん1がつ3にちづけにはどう紙上しじょう記述きじゅつ発見はっけんできる。関西かんさいでも大正たいしょう9ねん8がつ18にちづけの『大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん』にある。そのころすで浪曲ろうきょく世界せかいを「なみかい」と記述きじゅつられ、「なみかい」の初出しょしゅつ明治めいじ41ねん6がつ15にち福岡ふくおかにちにち新聞しんぶん』よりは以前いぜん以上いじょうしば清之きよゆき新聞しんぶんにみる浪花節なにわぶし変遷へんせん明治めいじへん大正たいしょうへんでも確認かくにん可能かのう
  38. ^ 当時とうじ流行りゅうこうしていた天才てんさい少年しょうねん浪曲ろうきょく楽屋がくやえたことたいする言葉ことばだという異説いせつあり。
  39. ^ また1930ねん昭和しょうわ5ねん)10がつ浪花節なにわぶし大和魂やまとだましい国勢調査こくせいちょうさ吉田よしだ大和やまとすすむ、コロムビア。年表ねんぴょう
  40. ^ 代目だいめ東家あずまやらくゆう浜町はまちょう御殿ごてん鼈甲べっこうとき虎丸とらまる中野なかの御殿ごてん、また、初代しょだいくもがつ唐津からつだい邸宅ていたく一帯いったいが「くもつきまち」とばれていたれい戦後せんご寿ことぶき木米きよねわか伊東いとう温泉おんせん割烹かっぽう旅館りょかん「よねわかそう」など。また、大和やまとすすむ代目だいめ奈良丸ならまる)が中心ちゅうしんとなって1935ねん昭和しょうわ10ねん京都きょうと大石おおいし神社じんじゃ創建そうけんしたれいがある。
  41. ^ そのようは、うめちゅうのきうぐいすわらわ浪曲ろうきょく旅芸人たびげいにん』などにくわしい
  42. ^ に、当時とうじレコードを活用かつよう音楽おんがくおもにクラシック)の講演こうえんいまでいうレコードコンサート)をしていた田辺たなべ尚雄ひさおのエピソード。明治めいじまつねんには「地方ちほう講演こうえんは」「学校がっこう講堂こうどうでやる」。「蓄音器ちくおんきいちだい準備じゅんびたのむと「レコードは浪花節なにわぶしはしうた民謡みんよう」しかないが用意よういしときますと返事へんじされたという。はじめて交響こうきょうきょくやピアノソナタ、オルガンきょく非常ひじょうおどろきをしめしたと。田辺たなべ尚雄ひさお明治めいじ音楽おんがく物語ものがたり』p.301)
  43. ^ にち蓄は内憂ないゆう(ラジオの脅威きょうい外患がいかん電気でんき吹込ふきこめというしんシステムを利用りようした外国がいこくレコードの参入さんにゅう)をかかえていた。出典しゅってん:『昭和しょうわ演歌えんか歴史れきし』p.74欄外らんがい
  44. ^ a b 1924ねんあき常務じょうむ理事りじ就任しゅうにんした新名にいな直和なおかずした番組ばんぐみ編成へんせい方針ほうしんにより、浪花節なにわぶしはその人気にんき排除はいじょ対象たいしょうとなる。新名にいなは「放送ほうそう目的もくてきは、教養きょうよう報道ほうどう娯楽ごらく」であり「このかなえさんほんあし相俟あいまってやっていくべきものとおもうが、そのなかもっと中心ちゅうしんとなるべきものは教養きょうようである」との見解けんかい表明ひょうめいするとともに、当時とうじ根強ねづよ人気にんきほこっていた浪花節なにわぶしをはじめ、小唄こうた常磐津ときわづなどを「社会しゃかいあく」として放送ほうそうしない方針ほうしんした。このためニュースにつづいて、当初とうしょ逓信ていしんしょう想定そうていしていた伝統でんとう音楽おんがく伝統でんとう芸能げいのうのいくつかも番組ばんぐみ候補こうほから脱落だつらくした。原典げんてん:「座談ざだんかい放送ほうそう事始ことはじめ」での新名にいな証言しょうげん。『放送ほうそう文化ぶんか』1960ねん3がつごう.また浪花節なにわぶしは、宮家みやけから放送ほうそう要請ようせいがあるまでいち放送ほうそうされないほど徹底てっていして除外じょがいされていた。(日本にっぽん放送ほうそう協会きょうかいへん放送ほうそうじゅうねん資料しりょうへん日本にっぽん放送ほうそう出版しゅっぱん協会きょうかい、1977ねん出典しゅってん:した達也たつや/長木ながき誠二せいじそう力戦りきせん音楽おんがく文化ぶんか』p.198
  45. ^ 国会図書館こっかいとしょかん「れきおん」に多数たすう録音ろくおんのこされている
  46. ^ 吉川よしかわうしお江戸えどだってねえ 浪曲ろうきょく廣澤ひろさわ虎造とらぞう一代いちだい日本にっぽん放送ほうそう出版しゅっぱん協会きょうかい。1998ねん10がつ24にちISBN 978-4140053089。「だい7しょう 血煙ちけむり田島たじままち」p.168-189
  47. ^ 戦時せんじラジオのプロパガンダによる戦争せんそう責任せきにんかんがえる論文ろんぶん愛国あいこく浪曲ろうきょくが1文字もじい。
  48. ^ 大会たいかい存在そんざい自体じたい疑問符ぎもんふ
  49. ^ 存在そんざい自体じたい疑問符ぎもんふ
  50. ^ またこうひともいる。「日本にっぽんはポツダム宣言せんげんにもとづいて連合れんごうこく占領せんりょうされることになった。(中略ちゅうりゃく天皇てんのうみずか天皇てんのう人間にんげん宣言せんげんおこない、平和へいわ主義しゅぎてっし(中略ちゅうりゃく昭和しょうわ20ねん9がつ13にち、GHQの民間みんかん情報じょうほう教育きょういくきょく)からの通達つうたつにつぎのような内容ないようふくまれていた。『なお演芸えんげい放送ほうそうかんしては地方ちほう放送ほうそうおいても実施じっしするをみとめられるもこれ取扱とりあつかいづけては当分とうぶんあいだじゅん娯楽ごらくてきなるものをおもとし講談こうだん浪曲ろうきょく放送ほうそうげきとうおいても軍事ぐんじてき好戦こうせんものはなさざること』」p.238「この占領せんりょう政策せいさくによって、義理ぎり人情にんじょう義侠ぎきょう精神せいしんなどの日本にっぽん固有こゆう価値かちかん否定ひていされた。浪曲ろうきょくはこの急速きゅうそく衰退すいたいすることになった。だが、戦前せんぜん戦中せんちゅういてきた日本人にっぽんじん価値かちかんがそう簡単かんたんるものではなかった。日本人にっぽんじんそこながれる心情しんじょう世界せかい代弁だいべんする浪曲ろうきょく浪花節なにわぶしはやがて、流行りゅうこう形式けいしきりてしん境地きょうち開拓かいたく義理ぎり人情にんじょう世界せかい表現ひょうげんするようになる」p.239欄外らんがい昭和しょうわ演歌えんか歴史れきし戦後せんご民放みんぽうラジオによるラジオ浪曲ろうきょくブームを軽視けいしし、敗戦はいせんとともに浪曲ろうきょくわった、とする立場たちば
  51. ^ ぜにがた平次へいじ」(ラジオ東京とうきょう - 文化放送ぶんかほうそう)は異例いれい長期間ちょうきかんにわたる番組ばんぐみであった。脚本きゃくほんすべ国友くにとも自作じさく
  52. ^ 1.漫才まんざい学校がっこう ABC 57.5 2.浪曲ろうきょくごもくめし NJB 44.8 3.浪曲ろうきょく演芸えんげいかい NHK 41.3 4.おこの演芸えんげいかい NHK 40.3 5.明色めいしょく歌謡かようゲーム ABC 38.9 6.ラジオ浮世うきよてい ABC 38.1 7.アベック歌合戦うたがっせん NJB 38.1 8.ラジオ寄席よせ NHK 38.0 9.おしゃれクイズ ABC 36.2 10.みっつのうた NHK 35.7 11.浪曲ろうきょく名人めいじんかい ABC 35.7 12.きゅうわらわのおばあちゃん NJB 35.0 13.おわらがいろく ABC 34.8 14.アチャコの自叙伝じじょでん 34.4 15.うた二人三脚ににんさんきゃく ABC 34.4 16.おちょうさん NJB 33.3 17.おこのみヒット・メロディ ABC 32.9 18.浪曲ろうきょくシリーズ NJB 32.5 19.浪曲ろうきょくトクホンアワー ABC 31.2 20.のんき裁判さいばん NJB 31.1 (55ねん2がつ『3しゃ共同きょうどう調査ちょうさ』より) はらのり:朝日放送あさひほうそうしゃ編修へんしゅうしつ朝日放送あさひほうそうの50ねんほん』p.60 出典しゅってん:つじ一郎いちろうわたしだけの放送ほうそう』p.26。なお52.12.20に朝日放送あさひほうそうしん日本にっぽん放送ほうそう電通でんつう大阪おおさかの3しゃ共同きょうどう放送ほうそう調査ちょうさ委員いいんかいもうけ、翌年よくねん1がつ21にちから1週間しゅうかんにわたって、阪神はんしん地区ちくの「ラジオ聴取ちょうしゅじょうきょう調査ちょうさ」をおこなっている。これは民放みんぽうではじめての本格ほんかくてきマーケット・リサーチであり、調査ちょうさ対象たいしょう世帯せたいでなく個人こじんとしたのが特色とくしょくであった。『朝日放送あさひほうそうの50ねんほん』p.65
  53. ^ ながしであるが、小沢おざわ昭一しょういち日本にっぽん放浪ほうろうげい』p.352-354
  54. ^ (関西かんさいで)「昭和しょうわ20年代ねんだいなかば、浪曲ろうきょく急速きゅうそく人気にんきうしなった」と明記めいきあり。ワッハ上方かみがた上方かみがた演芸えんげい大全たいぜん』p.58
  55. ^ そのあいだ入門にゅうもんしゃがいなかったわけではないが、浪曲ろうきょくかい居続いつづ大成たいせいしたものはいない。
  56. ^ おおくの一門いちもんげいみゃく鼈甲べっこうときなど)の消滅しょうめつ悪影響あくえいきょうあらわれている。
  57. ^ おおくは大学だいがく卒業そつぎょうなど演芸えんげい同様どうよう高学歴こうがくれきすすむ。れいとして木村きむらかつ千代ちよ木村きむら松太郎まつたろう門下もんか)は10さい松太郎まつたろう入門にゅうもんし、その専修大学せんしゅうだいがく文学部ぶんがくぶ国文こくぶん卒業そつぎょうしており、学業がくぎょう並行へいこう浪曲ろうきょくとしても活動かつどうしている[222]
  58. ^ 実際じっさい一番いちばん弟子でし玉川たまがわふとし(わだい)、ばん弟子でし玉川たまがわふとし(きだい)は落語らくご芸術げいじゅつ協会きょうかい前座ぜんざとしても所属しょぞくし、とくにわふとしは2023ねん7がつ17にち浅草あさくさ演芸えんげいホールよる開口一番かいこういちばんで『阿漕あこぎうら』をえんじた(曲師きょくしふとしぶく担当たんとうする玉川たまがわみねつとめた)。ふとしぶくのツイートによれば、(落語らくご主体しゅたい東京とうきょうの)定席じょうせき寄席よせ浪曲ろうきょく前座ぜんざ開口一番かいこういちばんえんじたこと自体じたいはじめてであったという[226]
  59. ^ 演芸えんげいかいでは現在げんざいまで、江戸えど落語らくご代目だいめ柳家やなぎやさんじゅう代目だいめ柳家やなぎやしょう三治さんじろく代目だいめ街道かいどう雲助くもすけ(2024ねん7がつ現在げんざい保持ほじしゃ)、上方かみがた落語らくごさん代目だいめ桂米朝かつらべいちょう江戸えど講談こうだん六代目一龍齋貞水さん代目だいめ神田かんだまつこい(2024ねん7がつ現在げんざい保持ほじしゃ)が「人間にんげん国宝こくほう」に認定にんていされている。
  60. ^ この特徴とくちょうてきこえについては、『日本にっぽん古典こてん芸能げいのう 9 寄席よせ』p.44に中村なかむら幸彦さちひこによる説明せつめいがある。
  61. ^ 正確せいかくには、よくわれるような(理想りそうてきな)浪曲ろうきょくこえとしてのシオカラごえ・しわがれごえ・ダミごえあやまり。
  62. ^ 現在げんざい西洋せいよう音階おんかい絶対ぜったいされる状況じょうきょういての「美声びせい」とはちがう。
  63. ^ 音声おんせいファイル 32ふん00びょう付近ふきん
  64. ^ コピーげいという批判ひはんてき文脈ぶんみゃくいま使つかわれる。出典しゅってん:『東京とうきょうじん』380ごうp.43-46
  65. ^ 虎造とらぞうぶしは、とき試練しれんえて保存ほぞんかい結成けっせい活発かっぱつ活動かつどうがなされている
  66. ^ BGM 国本こくほんp.11
  67. ^ いち一段いちだん
  68. ^ それを逆手さかてったのが、初代しょだい京山きょうやま幸枝ゆきえわかたくみなげいであった。実際じっさいにはいのに「こののちつづきはレコードで」などがある。出典しゅってん国本こくほんp.84
  69. ^ 本日ほんじつのお外題げだいは」というかたち演題えんだいめい紹介しょうかいすることもおお
  70. ^ みのみ一定いっていしていて、表記ひょうきれがられる場合ばあいはカタカナで表記ひょうきするルールにもとづく
  71. ^ おも歌舞伎かぶき大向おおむこ義太夫ぎだゆう慣習かんしゅうからの移行いこうかんがえられる。
  72. ^ もちろん例外れいがいもあり、雲右衛門くもえもん入道にゅうどう姿すがた舞台ぶたいをこなしたれい同様どうよう東武とうぶぞう玉川たまがわ勝太郎かつたろう袈裟けさ姿すがた高座こうざをこなしたれいもある。
  73. ^ 芝居しばいにおける引幕ひきまく落語らくごにおけるのちまく相撲すもう化粧けしょうまわしとおなじくファンが浪曲ろうきょくおくものがあり、寄贈きぞうしゃめいしるしてあることおおい。浪曲ろうきょく個人こじん所有しょゆう国本こくほんp.137
  74. ^ さらに「浪曲ろうきょく大会たいかい」などの格式張かくしきばった舞台ぶたいになると、テーブルのりょうサイド、はなれた位置いちにさらにちいさなテーブルをき、まつ盆栽ぼんさいく。
  75. ^ 関西かんさいでは一風いっぷうていはつがつ関東かんとうでも沢村さわむら豊子とよこ佐藤さとう貴美江きみえ玉川たまがわみねが、ときおりきを披露ひろうする。
  76. ^ 曲師きょくしかくすのは、明治めいじ時代じだい活躍かつやくした桃中軒とうちゅうけん雲右衛門くもえもんが、曲師きょくしをしていたうつくしいつま観客かんきゃくねらわないようにかくしたことに由来ゆらいするという俗説ぞくせつがあるが、実際じっさいにはそれ以前いぜんよしとういち調ちょうはじめた。出典しゅってん:安田やすだはじめせいへんよしとういち調ちょう桃中軒とうちゅうけん雲右衛門くもえもん関係かんけい新聞しんぶん資料しりょう
  77. ^ 三味線しゃみせん曲師きょくしは、ついたてしにみぎとなりすわる。
  78. ^ 最初さいしょしゃくだい使つかったが、のちにはしゃくだいもなくかたった [268]
  79. ^ 落語らくごとの共演きょうえんおお玉川たまがわふとしぶくがテーブルけをすわ高座こうざようたたみ、披露ひろうしている。
  80. ^ 浪曲ろうきょく作家さっか浪曲ろうきょく研究けんきゅうねるケースが非常ひじょうおおく、その著作ちょさくすうおお
  81. ^ 京山きょうざんわかまるさく広島ひろしまけん矢野やのむらまずしい小作こさく農夫のうふ松岡まつおかのもとに召集令しょうしゅうれいくだり、病気びょうきつま幼子おさなご2にんのこ戦地せんちへ。周囲しゅういつめたく、高利貸こうりかし罵倒ばとうされてだれたすけもなく、仕事しごとさき組頭くみがしらにものこ家族かぞく世話せわことわられる。つまおっと心残こころのこりをさっして、2人ふたり子供こどもころして自分じぶんもとおくってくれとのこして自殺じさつしていた。かなしみのうちに松岡まつおか子供こどもをかけようとする間一髪かんいっぱつ、ただ一人ひとり理解りかいしゃである警官けいかんんで松岡まつおかさとす。様子ようすいていた高利貸こうりかしんでび、松岡まつおか出征しゅっせいしていく。にち戦争せんそう社会しゃかい疲弊ひへい成金なりきん出現しゅつげん痛烈つうれつ批判ひはんしたまった架空かくうはなしだが、そのリアルさゆえモデルの松岡まつおか名乗なのおとこができるほどヒット。関東かんとうでは東家あずまやらくつばめ関西かんさいではてんこうのき満月まんげつがそれぞれ脚色きゃくしょくしてぐ。出典しゅってん:ワッハ上方かみがた上方かみがた演芸えんげい大全たいぜん』p.292欄外らんがい
  82. ^ また関西かんさいテレビのふし浪曲ろうきょくジャンルの出演しゅつえんしゃとして鉄砲てっぽう光三郎こうざぶろうれられている。放送ほうそう演芸えんげいp.297。なお、あきらまつ放送ほうそう演目えんもく一覧いちらんひょうには独立どくりつして「音頭おんど」の項目こうもくがある放送ほうそう演芸えんげいp.314
  83. ^ 昭和しょうわ30ねんから50ねんごろまで、東西とうざいのコマ劇場げきじょう大勢おおぜい観客かんきゃくあつめた公演こうえんにはかならずといっていいぐらいげきちゅうげきがあった。だれでもっている芝居しばいめい場面ばめんのパロディで、コメディアンと演出えんしゅつうでのみせしょだった。げきちゅうげきにもいろんなくちがあるのだが浪曲ろうきょく(フシ)げきかならずうける定番ていばんであった。当然とうぜんのことだが浪曲ろうきょくげき浪曲ろうきょくがうまくないとおもしろく展開てんかいしない。浪曲ろうきょくがまだまださかんなころだったから、わらいものにされるためにてくれる浪曲ろうきょくなどいるわけはない。というわけでげきちゅうげき浪曲ろうきょくげきは、コメディアンで浪曲ろうきょくのできるじんがいないと成立せいりつしないから、いまではやれなくなってしまった。あのころはさかい駿しゅん見事みごとふしで、「みなとしょう柳丸やなぎまる実弟じっていだもの」とおしえてもらって納得なっとくした。玉川たまがわ良一りょういちさんはいえごうとお玉川たまがわ一門いちもんで、〽利根りこんかわふう、タモトにエレテエ・・・・・・をギャグにしていたぐらいだから浪曲ろうきょくげきはおのものだった。雁之助がんのすけさんは五条ごじょう金玉きんぎょく師匠ししょうんだ浪曲ろうきょくげき一座いちざでやっていたというから本物ほんものである。いちだけねだって雁之助がんのすけさんがげきちゅうげきで「神崎かんざき与五郎よごろうひがしくだりの」を浪曲ろうきょくげきでやってもらったことがある。 浪曲ろうきょく芦屋あしや雁之助がんのすけ 三味線しゃみせん岩崎いわさき節子せつこ 神崎かんざき与五郎よごろう宮川みやがわ大助だいすけ 茶店ちゃみせばあさん・あいだ寛平かんぺい 馬子まごうし五郎ごろう芦屋小雁あしやこがん うまあし芦屋あしやかりひらた という配役はいやくである。 沢田さわだ隆治りゅうじわたしせつ大阪おおさかテレビコメディ』p.23-24
  84. ^ 戦中せんちゅうである1943ねん昭和しょうわ18ねんまつ発表はっぴょうされただい日本にっぽん興行こうぎょう協会きょうかい全国ぜんこく統計とうけいによると、浪曲ろうきょくせんもん一座いちざは255浪曲ろうきょく漫才まんざいは49、浪曲ろうきょくおよ舞踏ぶとうは4、浪曲ろうきょくげきせんもんは41、時代じだいげき浪曲ろうきょくげきを併演するものは12。出典しゅってん:『実録じつろく 浪曲ろうきょく』p.118 ★よう確認かくにん
  85. ^ 戦前せんぜんはこちらがくわしい
  86. ^ キネマ旬報きねまじゅんぽう年間ねんかんベストテンには、戦前せんぜん浪曲ろうきょくでもおなじみの主人公しゅじんこう映画えいががいくつかランクインしているが、「浪曲ろうきょく映画えいが」は戦前せんぜん戦後せんごとおして数少かずすくない。参考さんこうサイト
  87. ^ 浪曲ろうきょくそのままのタイトル、浪曲ろうきょくでもある2代目だいめ友衛ともえのヒットきょくであるが、歌謡かよう浪曲ろうきょく特徴とくちょうそなえておらず、そのてんもあってか浪曲ろうきょく範疇はんちゅうにはられないことがおおい.
  88. ^ ほん調子ちょうしであり、浪曲ろうきょくとはことなっている
  89. ^ 司会しかい芦川あしかわあつしたいらいた『浪曲ろうきょく神髄しんずい』に放送ほうそうリストがある
  90. ^ いずれも1クール(3ヶ月かげつ程度ていどみじかいもので、テレビでも人気にんき定着ていちゃくしたとはがた
  91. ^ 浪曲ろうきょく愛好あいこうしてそのもの真似まねをやりたがるのは、農村のうそんふくめた全国ぜんこく庶民しょみんだった。『ものまねの歴史れきし』p.219
  92. ^ 浪曲ろうきょく世界せかいではまず先人せんじんふしまねからはいり、徐々じょじょ自分じぶんふし使づかいを創造そうぞうしていくのが常道じょうどうである。ふしまねは特別とくべつなものでなく、いまでも代目だいめ東家あずまや浦太郎うらたろうなど、高座こうざ余興よきょう披露ひろうする場合ばあいがある。
  93. ^ 雲右衛門くもえもん弟子でしくも太夫たゆうといったひとが、(やなぎていひだりらくさんの門下もんかになって、信楽しがらき名乗なのった。本名ほんみょう鈴木すずき政吉まさきちという。今西いまにし正蔵しょうぞうがこしらえた『墓誌ぼし』にております」出典しゅってんさんゆうていえんせい寄席よせきり絵図えず』(引用いんようしゃ補足ほそく:桃中軒とうちゅうけんくも太夫たゆうといえば東家あずまやらくつばめのことであり、おそらく芸談げいだんるいであろう)
  94. ^ 弟子でしすじたる古今ここんていこころざしん輔継承けいしょう現在げんざい寄席よせえんじることがある
  95. ^ わずもがなだが、地元じもと清水次郎長しみずのじろちょうでん虎造とらぞうもり石松ひかげのかずら連想れんそう強力きょうりょくはたらいたとおもわれる。
  96. ^ しょうぼうについては修行しゅぎょうちゅうあらわ意味いみつよく、その浪曲ろうきょくだけをあつめた大会たいかいもしばしばひらかれた。(ただ1999, p. 90)
  97. ^ 東西とうざいりょう協会きょうかい日本にっぽん浪曲ろうきょく協会きょうかい浪曲ろうきょく親友しんゆう協会きょうかい)への名前なまえ登録とうろく有無うむ
  98. ^ ひがしさんひかり本来ほんらい京山きょうざんはな千代ちよ初代しょだい春野はるの百合子ゆりこ師匠ししょう名前なまえである。

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
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  2. ^ 出典しゅってん:小学館しょうがくかん日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)』「浪曲ろうきょく秩父ちちぶ久方ひさかた
  3. ^ 公益社こうえきしゃだん法人ほうじん浪曲ろうきょく親友しんゆう協会きょうかい浪曲ろうきょくとは」
  4. ^ 日本にっぽん浪曲ろうきょく協会きょうかい主催しゅさい度々たびたびひらかれる大会たいかいとうイベントは「わら浪花節なにわぶしvs. 浪花節なにわぶし
  5. ^ 東京とうきょうじん』380ごう、p.16
  6. ^ または浪曲ろうきょく(ろうきょくか): 三波みなみ美夕みゆきの昭和しょうわうた藝人げいにん 三波みなみ春夫はるお――戦争せんそう抑留よくりゅう貧困ひんこん五輪ごりん万博ばんぱく』(さくらしゃ、2016ねん5がつ14にち ISBN 9784865810523)p.25
  7. ^ 国本くにもと、p.43-44
  8. ^ エーピーピーカンパニー『江戸えど東京とうきょう芸能げいのう地図ちず大鑑たいかん付属ふぞく冊子さっし。p.23
  9. ^ 稲田いなだ、2014、p.123
  10. ^ 山折やまおり哲雄てつお【「うた」の精神せいしんだい3かい浪花節なにわぶし演歌えんか」『中央公論ちゅうおうこうろん』2005ねん7がつごう
  11. ^ 一時期いちじきはこのくに大衆たいしゅう演芸えんげいのトップをめ、黄金おうごん時代じだいとよばれる全盛期ぜんせいきを、なんどもくりがえしつかんだことの浪花なみはなぶしなのに、このくに知識ちしきじんからひどくうとまれさげすまれて浪花なにわぶしである」(大西おおにし、p.8)
  12. ^ 稲田いなだ、2014、p.122。おも雲右衛門くもえもんらくつばめ亜流ありゅうによる『義士ぎしでん』『乃木のぎ将軍しょうぐん』などのしつけがましさによると推測すいそくされている。
  13. ^ 定本ていほん』p.26.
  14. ^ 定本ていほん』p.25.
  15. ^ 定本ていほん』p.26.「ぶん反故ほご
  16. ^ ぼくひがしたん』で浪花節なにわぶしぎらいを明言めいげんしている。
  17. ^ a b 日本にっぽんから抹殺まっさつすべきもの」アンケートに「浪曲ろうきょく」と回答かいとう。『群像ぐんぞう』1950ねん2がつごう。(ただ1999, p. 326)
  18. ^ 1942.7.7 聖戦せいせん5周年しゅうねん楽壇がくだん総動員そうどういんだい演奏えんそうかい交響こうきょうきょく皇軍こうぐん頌歌」作詞さくし三好みよし達治たつじ作曲さっきょく山田やまだ耕筰こうさく諸井もろい三郎さぶろう山田やまだ和男かずお尾高おだかただしただし市川いちかわ都志つしはる、於国技こくぎかん主催しゅさい東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん陸海りくかいぐん軍楽隊ぐんがくたい後援こうえん陸海りくかいぐんしょう情報じょうほうきょく」ラジオ放送ほうそうされた。『日本にっぽん近代きんだい芸能げいのう年表ねんぴょう(うえ)』p.120、『した』p.299。
  19. ^ 久保田くぼた万太郎まんたろう先生せんせいは『わたし浪花なにわぶしといふものがだいいやひである』と明記めいき。(以下いかりゃく)『定本ていほん』p.26
  20. ^ 大西おおにし、p.10
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  22. ^ 清水しみずみなとの名物めいぶつは―わがしん劇団げきだんポートシミズ』
  23. ^ 久米くめひろし ラジオなんですけど:「おらおらでひとりいぐも」おひとりさま老女ろうじょなにおも TBSラジオ(2017ねん11月25にち)2020ねん6がつ22にち閲覧えつらん
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  25. ^ 典拠てんきょ:『高田たかだ文夫ふみお大衆たいしゅう芸能げいのう図鑑ずかん』(ISBN 4093798877)、『イヨッ たっぷり!: 高田たかだ文夫ふみお大衆たいしゅう芸能げいのう図鑑ずかん2』(ISBN 4093798974
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  31. ^ 日本にっぽんほこるエンターテイメント「浪曲ろうきょく」を世界せかいへ! 浪曲ろうきょく春野はるの恵子けいこがNY公演こうえんにチャレンジ!-世界せかいえるクラウドファンディングサービスCOUNTDOWN
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  50. ^ 内山うちやまそう十郎じゅうろう浪曲ろうきょく生活せいかつ』p.9。内容ないようくしぶつ芝居しばい段物だんもの、「色里いろざと名寄なよせ」「役者やくしゃづくし」「小春こはるづくし」「鎌倉山かまくらやま佐野さのかく)」「おんな盗賊とうぞく笠松かさまつとうげ)」「尾張おわりげんない明石あかし鉄砲てっぽう)」「巡礼じゅんれいごろし(八鬼山やきやまとうげ)」とうがある。
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  54. ^ 中村なかむら(1983)p.302-303。なお、1)ちょう浮連ぶし=浮れふし=チョンガレで興行こうぎょうとどけおな代表だいひょういている。2)とどけに浅草あさくさざいの「浪花節なにわぶし」の鑑札かんさつうつしがある(とどけの年月日ねんがっぴ不明ふめい)。
  55. ^ 江戸えど東京とうきょうで「ウカレブシ」の呼称こしょうでは駄目だめ理由りゆうをきちんと説明せつめいした文献ぶんけん関東かんとうがわにはひとつとしてなく、雑誌ざっし上方かみがた』144ごう(1943.(1))の「関西かんさい浪花節なにわぶし今昔こんじゃく」に「江戸えど名物めいぶつ都々逸どどいつ大津絵おおつえ甚句じんく、などが『かれぶし』として」あったためとあり、これが明確めいかく説明せつめいである。出典しゅってん:『日本にっぽん近代きんだい歌謡かよう』p.2258-2260。
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  70. ^ 吉川よしかわうしお江戸えどだってねえ 浪曲ろうきょく廣澤ひろさわ虎造とらぞう一代いちだい』(1998年刊ねんかん)p.22によれば、明治めいじ26ねんやなぎていひだりらく筆頭ひっとう落語らくご講談こうだん連合れんごうから開催かいさい強硬きょうこう反対はんたいする意見いけんたが、えんゆう仲介ちゅうかい手打てうちになったという。
  71. ^ 「○なお敗北はいぼくれいをいはば、浪花節なにわぶしといふもの、中央ちゅうおうにてはだいろじといふに折々おりおりかかるのみなりしが、このほど宴席えんせき余興よきょうにもされて、これが寄席よせ旦那だんなさま奥様おくさまくろ羽織はおりること、えてちんしからずとく」。発表はっぴょうは『太陽たいよう明治めいじ30ねん10がつごう確認かくにんみ。出典しゅってん坪内つぼうちゆうさんへん明治めいじ文学ぶんがく 15 斎藤緑雨さいとうりょくう』(筑摩書房ちくましょぼう 2002ねん)p.410。
  72. ^ 大円だいえんあさこと三遊亭圓朝さんゆうていえんちょう出演しゅつえんしただいみせである。出典しゅってん:さんゆうていえんせい寄席よせきり絵図えず』。
  73. ^ 1885ねん明治めいじ18ねん)3がつせきにははやくも美弘よしひろしゃ東一ひがしいち浪花なにわちん駒吉こまきち出演しゅつえんしている。出典しゅってんしば清之きよゆき浪花節なにわぶし 東京とうきょう市内しない寄席よせめいおよ出演しゅつえんしゃ一覧いちらん』。
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  90. ^ 派手はで宣伝せんでん相当そうとうなもので、東京とうきょうちゅうに「日本一にっぽんいち奈良丸ならまる」とビラなどで告知こくち関東かんとう浪花節なにわぶしかたりは一斉いっせい反発はんぱつしビラをたたとしてまわったという逸話いつわのこる。出典しゅってん:『定本ていほん』p.139。
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  101. ^ 奈良丸ならまるは、うつくしくかたり、うたった。大衆たいしゅうはひたすら恍惚こうこつれた。その感激かんげきが、かのささやぶしの流行りゅうこうとなった。ぞくにいう奈良丸ならまるくずしである。〽ささやささ、ささはらぬか煤竹すすたけを、大高おおだかはじめわれはしうえ浪花節なにわぶし〽あしたたるる宝船たからぶねただしこの流行りゅうこう大正たいしょう3ねん浪花節なにわぶし流行りゅうこうとしては、三河そうごえんしゃのどんどんふしおくれることすうねんである」定本ていほんp.140
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  103. ^ 日本にっぽんのうた だいいちしゅう 明治めいじ大正たいしょう』p.221によれば、最後さいご一節いっせつ奈良丸ならまる浪花節なにわぶしふし調ちょうをそのままれている。またさんばん歌詞かしつきつきた/セメント会社かいしゃうえた/東京とうきょうにゃ煙突えんとつおおいから/さぞやおつきさまけむたかろう」はのちの『炭坑たんこうぶし』のもととなった。出典しゅってん:「東京とうきょうのうた.84 奈良丸ならまるくずし」『朝日新聞あさひしんぶん』1968ねん5がつ1にち
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  233. ^ ジャンルはちがうが、以下いかいちれい。「すると先生せんせいは「まずこえ訓練くんれんをせよ」とおっしゃいました。ごうごうとちるたき、ざあざあとながれるかわ、どうどうとせるなみ、そういうものにかって、それらのおとけないこえでおけいをせよ。さんにち四日よっかこえはつぶれるが、それでもないこえでやる。そのうちのどからる。それでもまだやる。そうしてさんじゅうにちよんじゅうにちたったころになんにちなんにちもしゃべってもけっしてれないこえになる。本格ほんかくてき布教ふきょうになるならば、それにえる努力どりょくをしなければならないがどうか、というわけです」-祖父江そふえしょうねんふしだん説教せっきょうななじゅうねん』p.69
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  244. ^ 北川きたがわ純子じゅんこ日本にっぽん音楽おんがくにおける「あいだ(ま)」概念がいねん検討けんとう-浪曲ろうきょく三味線しゃみせん現場げんばから」『大阪教育大学おおさかきょういくだいがく紀要きよう だいI部門ぶもん 人文じんぶん科学かがくだい59かん大阪教育大学おおさかきょういくだいがく、1-12ぺーじISSN 038934482014ねん4がつ26にち閲覧えつらん 大阪教育大学おおさかきょういくだいがく)がある
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  256. ^ 国本こくほんp.11
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参考さんこう資料しりょう

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おも参考さんこう文献ぶんけん

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画像がぞう資料しりょう

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  • しば清之きよゆき へん日本にっぽん浪曲ろうきょくだい全集ぜんしゅう月刊げっかん浪曲ろうきょく編集へんしゅう、1989ねん4がつ全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:90006364 
  • しば清之きよゆき東西とうざい浪曲ろうきょくだい名鑑めいかん東京とうきょうかわらばん、1982ねん。NCID BA48205505 当時とうじ浪曲ろうきょく名鑑めいかん

音声おんせい資料しりょう

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  • (CD)『浪花節なにわぶし名演めいえんしゅう SPばん復刻ふっこくぜん5まい日本にほんコロムビア、2011ねん。COCJ-37011 - 15(よしとういち調ちょうの「糸入いとい講談こうだん」や、中川なかがわ明徳あきのり浪花節なにわぶし発達はったつ』で録音ろくおんされた前身ぜんしん芸能げいのう数々かずかずさい収録しゅうろくされている)
  • (CD) 小沢おざわ昭一しょういち『ドキュメント「日本にっぽん放浪ほうろうげい小沢おざわ昭一しょういちたずねたみちげいまちげいビクター、1999ねん。VICG-60231 - 37
  • (CD) 小沢おざわ昭一しょういち『またまた日本にっぽん放浪ほうろうげい ふしだん説教せっきょう 小沢おざわ昭一しょういちたずねた旅僧たびそうたちの説法せっぽう』ビクター、1999ねん。VICG-60243 - 48
  • (CD)『全集ぜんしゅう日本にっぽん吹込ふきこ事始ことはじめ 1903ねんガイズバーグ・レコーディングス』ユニバーサルミュージック、2001ねん04がつ25にち。TOCF-59061 - 71
  • (CD) 『極付きわめつきこのせつこの一番いちばん!!~めい浪曲ろうきょく関東節かんとうぶしへん~』日本にほんコロムビア、2013ねん5がつ29にち。COCJ-38024/5
  • (CD) 『極付きわめつきこのせつこの一番いちばん!!~めい浪曲ろうきょく関西かんさいぶしへん~』日本にほんコロムビア、2013ねん5がつ29にち。COCJ-38026/7
  • 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん 歴史れきしてき音源おんげん「れきおん」レコードによる浪曲ろうきょく普及ふきゅう - 歴史れきしてき貴重きちょう音源おんげんをまとめて紹介しょうかいしている。

関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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外部がいぶリンク

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