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東宝とうほう

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東宝とうほう株式会社かぶしきがいしゃ
TOHO CO., LTD.
種類しゅるい 株式会社かぶしきがいしゃ
機関きかん設計せっけい 監査かんさとう委員いいんかい設置せっち会社かいしゃ[1]
市場いちば情報じょうほう
東証とうしょうプライム 9602
1949ねん5がつ16にち上場じょうじょう
ぶくしょう 9602
1949ねん7がつ1にち上場じょうじょう
本社ほんしゃ所在地しょざいち 日本の旗 日本にっぽん
100-8415
東京とうきょう千代田ちよだ有楽町ゆうらくちょういち丁目ちょうめ2ばん2ごう
東宝とうほう日比谷ひびやビル10かいから12かい
北緯ほくい3540ふん23.0びょう 東経とうけい13945ふん35.8びょう / 北緯ほくい35.673056 東経とうけい139.759944 / 35.673056; 139.759944座標ざひょう: 北緯ほくい3540ふん23.0びょう 東経とうけい13945ふん35.8びょう / 北緯ほくい35.673056 東経とうけい139.759944 / 35.673056; 139.759944
設立せつりつ 1932ねん昭和しょうわ7ねん8がつ12にち
株式会社かぶしきがいしゃ東京とうきょう宝塚劇場たからづかげきじょう
業種ぎょうしゅ 情報じょうほう通信つうしんぎょう
法人ほうじん番号ばんごう 3010001008708 ウィキデータを編集
事業じぎょう内容ないよう
  • 映画えいが事業じぎょう
  • 映像えいぞう事業じぎょう
  • 演劇えんげき事業じぎょう
  • 不動産ふどうさん事業じぎょう
代表だいひょうしゃ
資本しほんきん
  • 103おく5500まんえん
  • (2024ねん2がつ29にち現在げんざい[2]
発行済はっこうずみ株式かぶしき総数そうすう
  • 1おく8649まん0633かぶ
  • (2024ねん2がつ29にち現在げんざい[2]
売上うりあげだか
  • 連結れんけつ: 2833おく4700まんえん
  • 単独たんどく: 1503おく1400まんえん
  • (2024ねん2がつ[2]
営業えいぎょう利益りえき
  • 連結れんけつ: 592おく5100まんえん
  • 単独たんどく: 352おく9100まんえん
  • (2024ねん2がつ[2]
経常けいじょう利益りえき
  • 連結れんけつ: 630おく2400まんえん
  • 単独たんどく: 436おく8700まんえん
  • (2024ねん2がつ[2]
じゅん利益りえき
  • 連結れんけつ: 467おく6900まんえん
  • 単独たんどく: 349おく5900まんえん
  • (2024ねん2がつ[2]
純資産じゅんしさん
  • 連結れんけつ: 4847おく5500まんえん
  • 単独たんどく: 3397おく1100まんえん
  • (2024ねん2がつ29にち現在げんざい[2]
そう資産しさん
  • 連結れんけつ: 6158おく2600まんえん
  • 単独たんどく: 5075おく3100まんえん
  • (2024ねん2がつ29にち現在げんざい[2]
従業じゅうぎょう員数いんずう
  • 連結れんけつ: 3,617にん
  • 単独たんどく: 401にん
  • (2024ねん2がつ29にち現在げんざい[2]
決算けっさん 2がつ末日まつじつ
会計かいけい監査かんさじん 有限ゆうげん責任せきにん監査かんさ法人ほうじんトーマツ[2]
主要しゅよう株主かぶぬし
主要しゅよう子会社こがいしゃ
関係かんけいする人物じんぶつ
外部がいぶリンク www.toho.co.jp ウィキデータを編集
特記とっき事項じこう1943ねん12月に東宝とうほう株式会社かぶしきがいしゃ商号しょうごう変更へんこう
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東宝とうほう株式会社かぶしきがいしゃ(とうほう、えい: TOHO CO., LTD.[3])は、大阪おおさか阪急はんきゅう阪神はんしんホールディングス持分もちぶんほう適用てきよう会社かいしゃで、映画えいが演劇えんげき製作せいさく配給はいきゅう興行こうぎょう不動産ふどうさんぎょうおこな日本にっぽん企業きぎょう

本社ほんしゃ東京とうきょう千代田ちよだ有楽町ゆうらくちょういち丁目ちょうめ2ばん2ごう東宝とうほう日比谷ひびやビル日本にっぽん映画えいが会社かいしゃ御三家ごさんけ」のうち、連結れんけつ売上うりあげだか最大さいだい規模きぼ日経にっけい平均へいきん株価かぶか構成こうせい銘柄めいがらひと[4]

2022ねん現在げんざい、2つの直営ちょくえい演劇えんげき劇場げきじょう帝国ていこく劇場げきじょう新館しんかんシアタークリエ)を保有ほゆうする。阪急はんきゅう阪神はんしんホールディングス(阪急電鉄はんきゅうでんてつ阪神電気鉄道はんしんでんきてつどう)、エイチ・ツー・オー リテイリング阪急百貨店はんきゅうひゃっかてん阪神百貨店はんしんひゃっかてん)とともに、阪急はんきゅう阪神はんしん東宝とうほうグループ中核ちゅうかく企業きぎょうである(きゅう阪急はんきゅう東宝とうほうグループ)。

阪急はんきゅう阪神はんしん東宝とうほうグループ同様どうように、三和さんわグループきゅう三和銀行さんわぎんこうけい)のメンバーであるが、阪急電鉄はんきゅうでんてつことなり三水さんずいかいには参加さんかせず、みどりかいのみに参加さんかしている[5]

歴史れきし

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発足ほっそくきゅう成長せいちょう

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1932ねん8がつ阪神はんしん急行きゅうこう電鉄でんてつ現在げんざい阪急電鉄はんきゅうでんてつ)の小林こばやし一三かずみによって、演劇えんげき映画えいが興行こうぎょうしゅたる目的もくてきとして株式会社かぶしきがいしゃ東京とうきょう宝塚劇場たからづかげきじょう設立せつりつ1934ねん東京とうきょう宝塚劇場たからづかげきじょう開場かいじょうのちゆう楽座らくざ日本にっぽん劇場げきじょう帝国ていこく劇場げきじょう所有しょゆうし、日比谷ひびや一帯いったい傘下さんかおさめ、浅草あさくさ手中しゅちゅうおさめる松竹しょうちくとともに、東京とうきょう興行こうぎょうかい二分にぶんするにいたる。

一方いっぽう会社かいしゃ設立せつりつ前年ぜんねん創設そうせつされた、トーキーシステムの開発かいはつおこな写真しゃしん化学かがく研究所けんきゅうじょ(Photo Chemical Laboratory、通称つうしょう PCL)は、1937ねん関連かんれん会社かいしゃJO合併がっぺいし、東宝とうほう映画えいがとなる。1943ねん8がつ30にち東宝とうほう映画えいが合併がっぺいし、映画えいが製作せいさく配給はいきゅう興行こうぎょうおよび演劇えんげき興行こうぎょう一貫いっかん経営けいえいし、同年どうねん12がつ10日とおか社名しゃめい東宝とうほうあらためた[6][7][注釈ちゅうしゃく 1]。PCLにはだい日本にっぽん麦酒びーるなども出資しゅっししており[注釈ちゅうしゃく 2]東宝とうほう発足ほっそく当初とうしょから、従来じゅうらい市井しせい興行こうぎょうからスタートした映画えいが会社かいしゃとは一線いっせんかくする、財界ざいかいきもいりの近代きんだい企業きぎょうとして期待きたい注目ちゅうもく、そして反発はんぱつあつめた。なお、その名前なまえ由来ゆらいは「東京とうきょう宝塚たからづか」のりゃくである。

1940ねん10月1にち東宝とうほうけいぜん劇団げきだん東宝とうほう国民こくみん演劇えんげきだん移動いどうたい発展はってんてき解消かいしょう古川ふるかわロッパエノケン東宝とうほう舞踏ぶとうたい東宝とうほう名人めいじんかいなどがそれぞれ移動いどう演劇えんげきはん結成けっせいして、地方ちほうのうやま漁村ぎょそん工場こうじょうにも巡回じゅんかいすることとなった。宝塚歌劇団たからづかかげきだん宝塚たからづか音楽おんがく奉仕ほうしたいとして健全けんぜん娯楽ごらく提供ていきょうするとともに、いそがしいときには勤労きんろう奉仕ほうしおこな体制たいせいった[8]だい世界せかい大戦たいせん突入とつにゅうすると東京とうきょう宝塚たからづか劇場げきじょう日本にっぽん劇場げきじょう風船ふうせんばくだん工場こうじょうとなり、戦後せんご東京とうきょう宝塚劇場たからづかげきじょう進駐軍しんちゅうぐん専用せんようアーニー・パイル劇場げきじょう改名かいめいされ、10年間ねんかん観客かんきゃくとしての日本人にっぽんじん立入禁止たちいりきんしとなるなど、歴史れきし証人しょうにんえんずることになる。

はやし長二ちょうじろう事件じけん

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東宝とうほう設立せつりつ天下てんか二枚目にまいめこと松竹しょうちくはやしちょう二郎じろうをはじめ、おおくのスターをおどろくほどの高給こうきゅう他社たしゃからいた。

1937ねん11月12にちちょう二郎じろうが、ひだり顔面がんめんみみからはなもとにかけてななめにりつけられ、骨膜こつまくたっする重傷じゅうしょうう。犯人はんにんのヤクザ松本まつもとつね[注釈ちゅうしゃく 3]は、同年どうねんあきちょう二郎じろう松竹しょうちくから東宝とうほう移籍いせきしたことから、松竹しょうちくけい新興しんこうキネマ京都きょうと撮影さつえい所長しょちょう永田ながた雅一まさいちらに教唆きょうさされ、犯行はんこうにおよんだものと判明はんめいした。

松本まつもとはこの事件じけん実刑じっけいけたが、のち刊行かんこうした自伝じでん「みなさんありがとう」において「犯行はんこう荷担かたんしていない」と表明ひょうめいしている。事件じけんちょう二郎じろうはこの松竹しょうちくかえし、本名ほんみょう長谷川はせがわ一夫かずお名乗なのるようになった。

プロデューサーシステム

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東宝とうほう資本しほんとPCLの技術ぎじゅつうえ映画えいが興行こうぎょうめん変化へんかをもたらしたのは、製作せいさくにおける予算よさん人的じんてき資源しげん管理かんりおこなうプロデューサー・システムの本格ほんかくてき導入どうにゅうであり、これをもたらしたのがアメリカがえりのもり岩雄いわおとされる[9][10]松竹しょうちく城戸きど四郎しろう日活にっかつ根岸ねぎし寛一かんいちならしょうされるもりだが、この分野ぶんやにおける足跡あしあとおおきい。

東宝とうほうはPCL時代じだいより民主みんしゅてき社風しゃふうられ、監督かんとくだいスターでも個室こしつがなく、大物おおものたいしても「さん」けや「ちゃん」けであった。巨匠きょしょう監督かんとく部下ぶか助監督じょかんとくもない俳優はいゆうを「さん」けや「ちゃん」けでんだ。また東宝とうほう映画えいが会社かいしゃヤクザっぽい親方おやかた子方こかた気質きしつ歌舞伎かぶき因習いんしゅうきずった封建ほうけんてき体質たいしつ公然こうぜん批判ひはんし、他社たしゃのようにスタッフや俳優はいゆう縁故えんこ採用さいようたよるのではなく、公募こうぼ戦前せんぜんよりおこな優秀ゆうしゅう人材じんざいた。しかし獲得かくとくした優秀ゆうしゅう人材じんざい戦後せんご東宝とうほう争議そうぎ中心ちゅうしんメンバーとなったため、のち縁故えんこ採用さいよう強化きょうか権力けんりょくさからわない人材じんざいれる傾向けいこうわっていった。

東宝とうほう争議そうぎとその混乱こんらん

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1946ねんから1950ねんにかけて経営けいえいしゃ労働ろうどう組合くみあい対立たいりつ激化げきかし、そんな最中さいちゅう1948ねん3月4にち本社ほんしゃ東宝とうほう文芸ぶんげいビルに移転いてん。だが同年どうねん6がつ1にちには撮影さつえいしょ占拠せんきょした組合くみあいいん排除はいじょするため、警視庁けいしちょう予備よびたいては占領せんりょうぐん戦車せんしゃ戦闘せんとうまで出動しゅつどうするさわぎになる。これが「なかったのは軍艦ぐんかんだけ」とわれた東宝とうほう争議そうぎである[9][11]

このあいだ大河内おおこうち伝次郎でんじろう長谷川はせがわ一夫かずお入江いりえたか山田やまだ五十鈴いすず藤田ふじたすすむ黒川くろかわ弥太郎やたろうはら節子せつこ高峰たかみね秀子ひでこ山根やまね寿子ひさこ花井はない蘭子らんこじゅうだいスターが結成けっせいしたじゅうにんはたかいと、はん左翼さよく渡辺わたなべ邦男くにおをはじめとする有名ゆうめい監督かんとく大半たいはんは、1948ねん4がつ26にちだいさん組合くみあいによって設立せつりつされたしん東宝とうほう(4がつ26にちには系列けいれつ会社かいしゃ国際こくさい放映ほうえい設立せつりつ)で活動かつどうすることになる[11]。そのため東宝とうほう再建さいけん不能ふのうわれ、1949ねん3がつ15にち映画えいが制作せいさくしん東宝とうほうまかせ、東宝とうほう配給はいきゅう部門ぶもんのみ方針ほうしん真剣しんけん協議きょうぎされたこともあった。

だいスターやだい監督かんとくがごっそりめたことで、入社にゅうしゃしたての三船みふね敏郎としおらがすぐに主役しゅやくとして抜擢ばってきされ、わか監督かんとく活躍かつやくやすい状況じょうきょうになった。残留ざんりゅうぐみイコール左翼さよくてきという単純たんじゅん色分いろわけはできないが、共産きょうさん党員とういんおおくは放逐ほうちくされ、しん東宝とうほうはまもなく東宝とうほう絶縁ぜつえんして独立どくりつ会社かいしゃとなったため、比較的ひかくてきリベラルだが政治せいじには深入ふかいりしなかった人材じんざいおおのこることになる。しん東宝とうほう独立どくりつ文芸ぶんげい映画えいが路線ろせん不振ふしん経営けいえいがすぐに悪化あっかしん社長しゃちょうむかえた大蔵おおくらみつぎてい予算よさん通俗つうぞく映画えいが路線ろせん一時いちじてきなおしたものの、1961ねん倒産とうさん市川いちかわこんなど一部いちぶのスターや監督かんとくはそれよりはる以前いぜん完全かんぜん独立どくりつ前後ぜんご東宝とうほう復帰ふっきしていた[注釈ちゅうしゃく 4]

日本にっぽん映画えいが黄金おうごん時代じだい

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1950年代ねんだいむかえた日本にっぽん映画えいが黄金おうごん時代じだいさいし、1957ねんからは「東宝とうほうスコープ」を採用さいようし、『七人しちにんさむらい』や『かくとりでさん悪人あくにん』などの黒澤くろさわあきら作品さくひんや『ゴジラ』や『モスラ』などの円谷つぶらや英二えいじによる特撮とくさつ作品さくひんはじめとするしょ作品さくひんによって隆盛りゅうせい[12]映画えいが斜陽化しゃようかはじまった1960年代ねんだいにもクレージー映画えいがわか大将たいしょうシリーズでヒットをばす。また、社長しゃちょうシリーズ駅前えきまえシリーズ[注釈ちゅうしゃく 5]など安定あんていしたプログラムピクチャー路線ろせんっていたこともつよみであった。財界ざいかい優良ゆうりょう企業きぎょうらしく健全けんぜん市民しみんしょく、モダニズムを鮮明せんめい作品さくひんカラーとし、日本にっぽん映画えいが暴力ぼうりょく猟奇りょうき、エロティシズムに傾斜けいしゃしていくなかでも東宝とうほうはそれらの路線ろせんとは一線いっせんかくし、距離きょりいた。上記じょうきのシリーズぶつ定着ていちゃくするまえ現代げんだいアクションぶつ得意とくいとし、後年こうねんも『殺人さつじんきょう時代じだい』、『100はつ100なか』などの異色いしょくさく名残なごりのこす。これらは興行こうぎょうてきにはびなかったが、そのさい上映じょうえいでカルトてき人気にんきほこった。

1959ねんにはニッポン放送にっぽんほうそう文化放送ぶんかほうそう松竹しょうちく大映だいえいともフジテレビ開局かいきょく。テレビにも本格ほんかくてき進出しんしゅつする。

映画えいが製作せいさく部門ぶもん大幅おおはば縮小しゅくしょう

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1960年代ねんだいから映画えいが斜陽しゃよう産業さんぎょうわれるようになり、東宝とうほう顕著けんちょ観客かんきゃく減少げんしょうなやんでいたが、だい規模きぼ量産りょうさん体制たいせい他社たしゃともたもっていた。しかしカラーテレビの普及ふきゅう本格ほんかくした1970年代ねんだいになると観客かんきゃく減少げんしょうはさらに深刻しんこく状況じょうきょうとなり、大映だいえい倒産とうさん日活にっかつポルノ路線ろせん転向てんこう東宝とうほうもこの危機ききだっするため、前述ぜんじゅつ東宝とうほうよんだい喜劇きげきシリーズをすべ終了しゅうりょうするなど1972ねん本社ほんしゃでの映画えいが製作せいさく停止ていししゃ協定きょうてい終焉しゅうえんする。製作せいさく部門ぶもん分離ぶんり独立どくりつさせて発足ほっそくした「東宝とうほう映像えいぞう」(現在げんざい東宝とうほう映像えいぞう美術びじゅつ設立せつりつ1971ねん社長しゃちょう田中たなか友幸ともゆき[13]傍系ぼうけい会社かいしゃの「東京とうきょう映画えいが」(のちの東京とうきょう映画えいがしんしゃ設立せつりつ1983ねん社長しゃちょう川上かわかみりゅういち)、「東宝とうほう映画えいが」(設立せつりつ1971ねん社長しゃちょう藤本ふじもと真澄ますみ)、あらたに設立せつりつした製作せいさく会社かいしゃ芸苑げいえんしゃ」(設立せつりつ1972ねん社長しゃちょう佐藤さとう一郎いちろう)、「あおとうしゃ」(社長しゃちょう堀場ほりばしん)を5つのかくとした製作せいさく体制たいせいえた[14]。しかし、東宝とうほう映画えいがとしすうほん芸苑げいえんしゃ東宝とうほう映像えいぞうとし1、2ほんしか稼働かどうせず、外部がいぶからの買取かいとり作品さくひん委託いたく引受ひきう作品さくひん配給はいきゅうちかられ、自社じしゃ興行こうぎょうもう維持いじするかたち転換てんかんする。

本社ほんしゃでの映画えいが製作せいさく停止ていししたのちは、映画えいが配給はいきゅう不動産ふどうさん部門ぶもん芸能げいのう事務所じむしょである東宝とうほう芸能げいのうじくあしうつしながら経営けいえい合理ごうりすすめた。ただし阪急はんきゅうグループとしてのイメージや、えきからちかいち等地とうち座席ざせきすうおお一流いちりゅう映画えいがかんおおつため、同業どうぎょう他社たしゃのようなポルノ映画えいがヤクザ映画えいが製作せいさくおこなわず、そのような外部がいぶせい作品さくひん配給はいきゅうすることもすくなかった。この時期じき、「東宝とうほう映画館えいがかんなら家族かぞくれやアベックでも安心あんしん」といったイメージを死守ししゅしたことは、後年こうねんまでつづ東宝とうほう繁栄はんえい伏線ふくせんとなった。1969ねん - 1978ねん東宝とうほうチャンピオンまつりとして子供こども映画えいが上映じょうえいした。しかし予算よさんてきには非常ひじょうにタイトとなり、評価ひょうかたか山本やまもと迪夫みちお監督かんとく怪奇かいき映画えいがおおくは2ほんどうつまみつくられており、ゴジラシリーズでは音楽おんがくぐるみ使つかまわしが多用たようされるようになった。

映画えいが製作せいさく本数ほんすうったぶん、テレビ奮闘ふんとう目立めだつようになり、『太陽たいようにほえろ!』、『おれたちは天使てんしだ!』などがヒット。テレビ作品さくひん収録しゅうろくは70年代ねんだいまではきぬた撮影さつえいしょ使用しようせずに国際こくさい放映ほうえい円谷つぶらやプロ制作せいさく協力きょうりょくのクレジットでまご発注はっちゅうした。スタジオをたない円谷つぶらやプロの場合ばあい東京とうきょう美術びじゅつセンターなどの傍系ぼうけいスタジオを使用しようした。東宝とうほう配給はいきゅう劇場げきじょう映画えいが実際じっさい大映だいえい京都きょうと撮影さつえいしょかちプロダクション作品さくひんなど)や日活にっかつ撮影さつえいしょ石原いしはらプロモーションホリプロ作品さくひんなど)で製作せいさくするものがえた[注釈ちゅうしゃく 6]ため、きぬた撮影さつえいしょ急速きゅうそく稼働かどうりつ低下ていか人員じんいん離散りさんした。1977ねんには、ベテランの映画えいが監督かんとくである岡本おかもと喜八きはち堀川ほりかわ弘通ひろみちりょう監督かんとく解雇かいこした。

それでも1980年代ねんだいなかばまでは、東宝とうほうシンデレラコンテスト出身しゅっしんしゃ東宝とうほう芸能げいのう所属しょぞく人気にんきアイドルとなった斉藤さいとう由貴ゆき沢口さわぐち靖子やすこ主演しゅえんアイドル映画えいが東宝とうほう映画えいが製作せいさくするなど、独立どくりつプロダクション程度ていど活動かつどう継続けいぞく。この時期じきからはアニメーション製作せいさくにも関与かんよするようになる。

こののちバブル景気けいきとなり、にちげき渋谷しぶや東宝とうほう会館かいかん日比谷ひびや映画えいが劇場げきじょうゆう楽座らくざ梅田うめだ劇場げきじょう北野きたの劇場げきじょうなどがえられ映画えいが興業こうぎょう以外いがいもおこなうふくあい施設しせつとなり、資産しさん価値かち増加ぞうかさせた。

1990年代ねんだい以降いこう

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1990年代ねんだいはいると、自社じしゃ株式会社かぶしきがいしゃ東宝とうほう映画えいが)での邦画ほうが製作せいさくは「ゴジラ シリーズ」をのぞおこなわれなくなり、おもテレビ局てれびきょく[注釈ちゅうしゃく 7]外部がいぶプロダクションが製作せいさくした映画えいが配給はいきゅうし、成功せいこうおさめた。

2000ねん以降いこうは、ワーナー・マイカル・シネマズ優位ゆういっていたシネコン市場いちば本格ほんかくてき参入さんにゅうし、2003ねんヴァージン・シネマズ・ジャパン株式会社かぶしきがいしゃげんTOHOシネマズ株式会社かぶしきがいしゃ)の買収ばいしゅうで、グループ企業きぎょうのスクリーンすうではだい1ほこっていた[注釈ちゅうしゃく 8]

その日本にっぽん映画えいがかい興行こうぎょうかい不動ふどう地歩ちほつづけ、現在げんざいいたっている。製作せいさく会社かいしゃテレビ局てれびきょくおおい)もだい予算よさんをかけた自信じしんさく興行こうぎょうつよ東宝とうほう配給はいきゅう委託いたくし、それがまた数字すうじげるというこう循環じゅんかんかさなった結果けっか平成へいせい以降いこう一人ひとり状態じょうたい定着ていちゃく、21世紀せいきにはさらに独走どくそうはばひろげた。1980年代ねんだい前半ぜんはんまでライバルとしてってきた東映とうえい松竹しょうちく[注釈ちゅうしゃく 9]とも、いまでは大差たいさしている。

また、かつて映画えいがかん用地ようちとして購入こうにゅうした全国ぜんこくいち等地とうち物件ぶっけん賃貸ちんたい中心ちゅうしんとする不動産ふどうさん事業じぎょうも、営業えいぎょう利益りえきのうちやく4わりめ、地味じみではあるが、業績ぎょうせきしたささえする安定あんていした重要じゅうよう事業じぎょうになっている[15]

なお同社どうしゃ大手おおて映画えいが会社かいしゃとしては唯一ゆいいつ撮影さつえいしょ出身しゅっしん社長しゃちょう存在そんざいしなかったが[注釈ちゅうしゃく 10]、2002ねんはつのプロデューサー経験けいけんしゃ[注釈ちゅうしゃく 11]として高井たかい英幸ひでゆき社長しゃちょう就任しゅうにんした。

近年きんねんは、東宝とうほう本体ほんたい製作せいさく委員いいんかい参加さんかするなど、映画えいが製作せいさくにおいて積極せっきょくてき姿勢しせいをとっている。またきぬた撮影さつえいしょ空洞くうどう技術ぎじゅつ伝承でんしょう中断ちゅうだん危機ききかんってレンタル展開てんかい積極せっきょく単独たんどく出資しゅっしでの「東宝とうほう映画えいが」はほぼえたものの、製作せいさく参加さんか配給はいきゅう撮影さつえいしょ供給きょうきゅうといったかたち東宝とうほうカラーをし、まも方向ほうこうためされつつある。

2013ねんには『アニメ事業じぎょうしつ』を新設しんせつ同時どうじ自社じしゃ音楽おんがくレーベルもげ、自社じしゃ企画きかくでのアニメ事業じぎょう強化きょうかしている[16]

2020ねん12月1にち東宝とうほう映画えいがと、東宝とうほうスタジオを管理かんりする「東宝とうほうスタジオサービス」を統合とうごうし「TOHOスタジオ株式会社かぶしきがいしゃ」を設立せつりつ当該とうがい会社かいしゃ撮影さつえいしょ管理かんりとプロダクションの両方りょうほうおこない、制作せいさく準備じゅんびから撮影さつえい仕上しあげまでをワンストップで提供ていきょうできる体制たいせいとなる。

2023ねん12月6にち子会社こがいしゃである東京楽天地とうきょうらくてんち株式かぶしき公開こうかい買付かいつ(TOB)をおこなうことを発表はっぴょうした。同月どうげつ7にちから2024ねん1がつ24にちまで実施じっしする。TOB成立せいりつのこりの株式かぶしきについても取得しゅとくし、同社どうしゃ完全かんぜん子会社こがいしゃ[17](2024ねん4がつ2にち東京とうきょう証券しょうけん取引とりひきしょプライム市場いちば上場じょうじょう廃止はいし)。

2024ねん6がつ19にちづけサイエンスSARUぜん株式かぶしき取得しゅとく子会社こがいしゃ予定よてい[18]

主要しゅよう映画えいが作品さくひん

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主要しゅようテレビ作品さくひん

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1960年代ねんだい

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1970年代ねんだい

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1980年代ねんだい

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1990年代ねんだい

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2000年代ねんだい

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2010年代ねんだい

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関連かんれん人物じんぶつ

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歴代れきだい会長かいちょう

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歴代れきだい社長しゃちょう

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  1. 1943ねん12がつ10日とおか - 1947ねん3がつ9にち大澤おおさわ善夫よしお
  2. 1947ねん3がつ10日とおか - 12月22にち田辺たなべまる
  3. 1947ねん12月26にち - 1949ねん9がつ25にち渡辺わたなべ銕蔵
  4. 1949ねん9がつ26にち - 1950ねん9がつ27にち米本よねもと卯吉うきち
  5. 1950ねん9がつ28にち - 1951ねん9がつ27にち小林こばやし富佐ふさゆう
  6. 1951ねん9がつ28にち - 1955ねん9がつ19にち小林こばやし一三かずみ
  7. 1955ねん9がつ20日はつか - 1957ねん10がつ1にち小林こばやし富佐ふさゆう
  8. 1957ねん10がつ5にち - 1966ねん9がつ23にち清水しみずみやび
  9. 1966ねん9がつ24にち - 1974ねん8がつ12にち松岡まつおか辰郎たつろう
  10. 1974ねん8がつ22にち - 1977ねん5がつ24にち清水しみずみやび
  11. 1977ねん5がつ25にち - 1995ねん5がつ24にち松岡まつおかいさお
  12. 1995ねん5がつ25にち - 2002ねん5がつ22にち石田いしだ敏彦としひこ
  13. 2002ねん5がつ23にち - 2011ねん5がつ25にち高井たかい英幸ひでゆき
  14. 2011ねん5がつ26にち - 2022ねん5がつ25にち島谷しまたに能成よしなり
  15. 2022ねん5がつ26にち - 現職げんしょく松岡まつおか宏泰ひろやす

役員やくいん

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2024ねん5がつ23にち現在げんざい
  • 代表だいひょう取締役とりしまりやく会長かいちょう: 島谷しまたに能成よしなり
  • 代表だいひょう取締役とりしまりやく社長しゃちょう 社長しゃちょう執行しっこう役員やくいん: 松岡まつおか宏泰ひろやす
  • 取締役とりしまりやくふく社長しゃちょう執行しっこう役員やくいん: 太古たこ伸幸のぶゆき
  • 取締役とりしまりやく専務せんむ執行しっこう役員やくいん: 市川南いちかわみなみ
  • 取締役とりしまりやく: すみ和夫かずお
  • 常勤じょうきん監査かんさとう委員いいん: 緒方おがた栄一えいいち
  • 取締役とりしまりやく監査かんさとう委員いいん独立どくりつ社外しゃがい取締役とりしまりやく): 安藤あんどうとも折井おりい雅子まさこ大越おおこしいづみ
  • 常務じょうむ執行しっこう役員やくいん: 瀬田せだ一彦かずひこ池田いけだ篤郎とくろう大田おおた圭二けいじ
  • 上席じょうせき執行しっこう役員やくいん: 池田いけだ隆之たかゆき加藤かとうようそく和田わだかおる一郎いちろう本多ほんだ太郎たろう
  • 執行しっこう役員やくいん: 宇田うだ典弘のりひろ福田ふくだ明宏あきひろ吉田よしだたかしこう上田うえだ太地たいち植田うえだ浩史こうじ山中やまなか一孝かずたか

おもなプロデューサー

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おも監督かんとく

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おも脚本きゃくほん

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おも音楽家おんがくか

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おもなカメラマン

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おも俳優はいゆう男性だんせい

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おも俳優はいゆう女性じょせい

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映画えいがかん

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東京とうきょう名古屋なごや大阪おおさか京都きょうと主要しゅようかんをかつては直営ちょくえいとして経営けいえいしていた。1990年代ねんだい末期まっき以降いこう本社ほんしゃ地区ちく東宝とうほうサービスセンターに、関西かんさい地区ちく東宝とうほうビル管理かんりに、中部ちゅうぶ地区ちく中部ちゅうぶ東宝とうほう運営うんえい委託いたく。2006ねん以降いこう東宝とうほうグループの映画えいが興行こうぎょうをTOHOシネマズに集約しゅうやくすることになったため、現在げんざい東宝とうほう直営ちょくえいかん存在そんざいしない。以下いか東宝とうほう直営ちょくえいかんとして閉館へいかんした映画えいがかんしめす。傍系ぼうけい映画えいが興行こうぎょう会社かいしゃ経営けいえいしていた映画えいがかん六部ろくぶ興行こうぎょうを、TOHOシネマズに移管いかんした映画えいがかんTOHOシネマズ参照さんしょうのこと。

本社ほんしゃ地区ちく

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  • 宝塚たからづか会館かいかん東京とうきょう千代田ちよだ有楽町ゆうらくちょう1-12)<1934ねん1がつ1にち開館かいかん、1997ねん12月29にち閉館へいかん>
    • 東京とうきょう宝塚劇場たからづかげきじょう宝塚たからづか会館かいかん 1かい)<1934ねん1がつ1にち開館かいかん、1997ねん12月29にち閉館へいかん>
    • スカラ座すからざ宝塚たからづか会館かいかん 4かい)<1940ねん4がつ16にち開館かいかん、1955ねん7がつ13にち改装かいそう、1997ねん12月29にち閉館へいかん>
    • 東宝とうほう演芸えんげいじょう宝塚たからづか会館かいかん 5かい)<1938ねん9がつ23にち開館かいかん、1955ねん8がつ1にち改装かいそう、1997ねん12月29にち閉館へいかん>
      • スカラ座すからざ当初とうしょ名称めいしょう東宝とうほうよんかい劇場げきじょう東宝とうほう演芸えんげいじょう当初とうしょ名称めいしょう東宝とうほうしょう劇場げきじょう。それぞれ改装かいそう改称かいしょうしている。東京とうきょう宝塚劇場たからづかげきじょう戦時せんじちゅう風船ふうせんばくだん工場こうじょうとして使つかわれた。戦後せんごはGHQに接収せっしゅう(1945ねん12月24にち - 1955ねん1がつ26にち)され、アーニー・パイル・シアター(1946ねん2がつ24にち - 1955ねん1がつ26にち)と改称かいしょうされた。
  • にちげき会館かいかん東京とうきょう千代田ちよだ有楽町ゆうらくちょう2-5-1)<1933ねん12月24にち開館かいかん、1981ねん2がつ22にち閉館へいかん>
    • 日本にっぽん劇場げきじょうにちげき会館かいかん 1かい)<1933ねん12月24にち開館かいかん、1981ねん2がつ22にち閉館へいかん>
    • にちげきミュージックホール(にちげき会館かいかん 5かい)<1952ねん3がつ17にち開館かいかん、1981ねん2がつ22にち閉館へいかん>
    • まるうち東宝とうほう劇場げきじょうにちげき会館かいかん 地下ちか1かい)<1955ねん2がつ10日とおか開館かいかん、1981ねん2がつ22にち閉館へいかん>
    • にちげき文化ぶんか劇場げきじょうにちげき会館かいかん 地下ちか1かい)<1935ねん12月30にち開館かいかん、1955ねん8がつ12にち改装かいそう、1981ねん2がつ22にち閉館へいかん>
      • 当初とうしょ日本にっぽん映画えいが劇場げきじょう株式会社かぶしきがいしゃ所有しょゆうだったが、1934ねん3がつ14にちより直営ちょくえい興行こうぎょう開始かいしし、その同社どうしゃ吸収きゅうしゅう合併がっぺい所有しょゆうけんた。戦時せんじちゅう風船ふうせんばくだん工場こうじょうとして使つかわれた。まるうち東宝とうほう劇場げきじょう戦後せんご地下ちかぞうゆか工事こうじにより開館かいかんした。にちげき文化ぶんか劇場げきじょう当初とうしょニュース映画えいが専門せんもんかんだいいち地下ちか劇場げきじょう戦後せんご改装かいそうにちげきニュース劇場げきじょうとなり、さらに改称かいしょうされげき文化ぶんか劇場げきじょうとなった。1984ねん10がつ6にちにちげき朝日新聞あさひしんぶんきゅう東京とうきょう本社ほんしゃ跡地あとち有楽町ゆうらくちょうセンタービル通称つうしょう有楽町ゆうらくちょうマリオン)がオープンした。きゅうにちげき現在げんざい有楽町ゆうらくちょう阪急はんきゅうがわにTOHOシネマズげきがある。
  • 日比谷ひびや映画えいが劇場げきじょう東京とうきょう千代田ちよだ有楽町ゆうらくちょう1-2-2)<1934ねん2がつ1にち開館かいかん、1984ねん10がつ31にち閉館へいかん>
    • 閉館へいかん先駆さきがけて、東宝とうほう邦画ほうがけい封切ふうきりかん千代田ちよだ劇場げきじょう」は洋画ようがロードショーかん日比谷ひびや映画えいが」としてリニューアルオープン(ただし「劇場げきじょう」ははずしている)。
  • ゆう楽座らくざ東京とうきょう千代田ちよだ有楽町ゆうらくちょう1-2-2)<1935ねん6がつ7にち開館かいかん、1984ねん10がつ31にち閉館へいかん>
    • 当初とうしょ演劇えんげきよう劇場げきじょうであったが、1951ねん1がつ1にち映画えいがかん改装かいそうした。2005ねん4がつ9にち、「ニュー東宝とうほうシネマ」がゆう楽座らくざ名称めいしょう復活ふっかつさせリニューアルオープン。現在げんざいかんめいは「TOHOシネマズゆう楽座らくざ」。1987ねん10がつ3にち日比谷ひびや映画えいが劇場げきじょうゆう楽座らくざ跡地あとち東宝とうほう日比谷ひびやビル(通称つうしょう日比谷ひびやシャンテ)がオープンした。
  • 東宝とうほう会館かいかん東京とうきょう千代田ちよだ有楽町ゆうらくちょう1-2-1)<1957ねん4がつ14にち開館かいかん、2005ねん4がつ8にち閉館へいかん>
    • 芸術座げいじゅつざ東宝とうほう会館かいかん 4かい)<1957ねん4がつ14にち開館かいかん、2005ねん3がつ27にち閉館へいかん>
    • 日比谷ひびや映画えいが東宝とうほう会館かいかん 1かい)<1957ねん4がつ14にち開館かいかん、2005ねん4がつ8にち閉館へいかん>
    • みゆき初代しょだい)(東宝とうほう会館かいかん 地下ちか)<1957ねん4がつ14にち開館かいかん、2005ねん3がつ31にち閉館へいかん>
      • 日比谷ひびや映画えいが当初とうしょ東宝とうほう邦画ほうがけい封切ふうきりかん千代田ちよだ劇場げきじょう」として開館かいかん。1984ねん10がつ31にち閉館へいかんする日比谷ひびや映画えいが劇場げきじょう名称めいしょう同年どうねん10がつ27にち日比谷ひびや映画えいが改称かいしょうした。みゆきは1971ねん2がつ1にち日本にっぽんはつとなるノンリワインド映写機えいしゃき導入どうにゅうしている。閉館へいかんよく4がつ1にちスカラ座すからざ2がみゆき名称めいしょういだ。現在げんざいかんめいが「TOHOシネマズみゆき」に変更へんこうされている。2007ねん10がつ跡地あとち東宝とうほうシアタークリエビルがオープンした。
  • 渋谷しぶや東宝とうほう会館かいかん東京とうきょう渋谷しぶや道玄坂どうげんざか2-6-17)<1936ねん11月1にち開館かいかん、1989ねん2がつ26にち閉館へいかん>
    • 渋谷しぶや東宝とうほう劇場げきじょう渋谷しぶや東宝とうほう会館かいかん 1かい)<1936ねん11月1にち開館かいかん、1989ねん2がつ26にち閉館へいかん>
    • 渋谷しぶやスカラ座すからざ渋谷しぶや東宝とうほう会館かいかん 4かい)<1989ねん2がつ26にち閉館へいかん>
    • 渋谷しぶや文化ぶんか劇場げきじょう渋谷しぶや東宝とうほう会館かいかん 地下ちか)<1952ねん11月17にち開館かいかん、1989ねん2がつ26にち閉館へいかん>
      • 当初とうしょ東横映画とうよこえいが劇場げきじょうであったが、1944ねん9がつ1にち渋谷しぶや東宝とうほう劇場げきじょう改称かいしょうしている。渋谷しぶや文化ぶんか劇場げきじょうのみ1952ねん6がつ9にち設立せつりつされた株式会社かぶしきがいしゃ渋谷しぶや文化ぶんか劇場げきじょう経営けいえい運営うんえいしていた。1991ねん7がつ6にち跡地あとちしぶひがしシネタワーが開館かいかんした。2011ねん7がつ15にちTOHOシネマズ渋谷しぶやとしてリニューアルオープンした。
  • 新宿しんじゅく東宝とうほう会館かいかん東京とうきょう新宿しんじゅく歌舞伎町かぶきちょう1-19-2)<1969ねん10がつ31にち開館かいかん、2008ねん11月7にち>
    • 新宿しんじゅくプラザ劇場げきじょう新宿しんじゅく東宝とうほう会館かいかん 1かい)<1969ねん10がつ31にち開館かいかん、2008ねん11月7にち>
  • ニュー東宝とうほうシネマ2(東京とうきょう千代田ちよだ有楽町ゆうらくちょう2-2-3、ニユートーキヨービル地下ちか1かい)<1957ねん5がつ開館かいかん、1995ねん6がつ閉館へいかん>
    • 大映だいえい封切ふうきりかんスキヤバシ映画えいが」として開館かいかん大映だいえいけいのチェーンマスターとして機能きのうしたが、同社どうしゃ経営けいえい破綻はたん制作せいさく配給はいきゅうからの撤退てったいともない、東宝とうほう洋画ようがけい転換てんかんうえ1972ねん5がつ上記じょうきかんめい変更へんこう。シネマ2の閉館へいかんさい、「ニュー東宝とうほうシネマ1(オープン当時とうじかんめいは『ニュー東宝とうほう』)」は「ニュー東宝とうほうシネマ現在げんざいのTOHOシネマズゆう楽座らくざ)」にかんめい変更へんこうした。現在げんざい跡地あとちにはイタリアンレストラン「VINO VITA」数寄屋橋すきやばし本店ほんてん地下ちか1かいてんカクテルバー「BAR・B」がいれてんしている。
  • 渋谷しぶや宝塚劇場たからづかげきじょう東京とうきょう渋谷しぶや宇田川うだがわまち21-6)<1959ねん7がつ8にち開館かいかん、1997ねん5がつ30にち閉館へいかん>
    • 1999ねん12月18にち跡地あとちふくあい商業しょうぎょうビル「QFRONT」がオープンし、どうビルの7かい渋谷しぶやシネフロントが開館かいかんした。
  • 上野うえの東宝とうほう劇場げきじょう東京とうきょう台東たいとう上野公園うえのこうえん1-51)<1954ねん12月13にち開館かいかん、2003ねん8がつ31にち閉館へいかん>
  • 上野うえの宝塚劇場たからづかげきじょう東京とうきょう台東たいとう上野公園うえのこうえん1-52)<1954ねん12月13にち開館かいかん、2003ねん8がつ31にち閉館へいかん>
    • 2005ねん4がつ上野うえの東宝とうほう劇場げきじょう上野うえの宝塚劇場たからづかげきじょう跡地あとち飲食いんしょく店舗てんぽビル「上野うえのバンブーガーデン(正式せいしき名称めいしょう東宝とうほう上野うえのビル)」がオープンした。

関西かんさい地区ちく

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  • 梅田うめだ会館かいかん梅田うめだ劇場げきじょう梅田うめだスカラ座すからざ北野きたの劇場げきじょう北野きたのシネマ・梅田うめだ地下ちか劇場げきじょう)(大阪おおさかきた角田つのだまち7-10)<1937ねん12月9にち開館かいかん、1978ねん2がつ28にち閉館へいかん>
    • 戦後せんごもなくはGHQに接収せっしゅうされていた。
  • 南街なんがい会館かいかん南街なんがいシネプレックス - 南街なんがい劇場げきじょう南街なんがい東宝とうほう南街なんがいシネマ・南街なんがいスカラ座すからざ南街なんがい文化ぶんか劇場げきじょう)(大阪おおさか大阪おおさか中央ちゅうおう難波なんば3-8-11)<1953ねん12月18にち開館かいかん、2004ねん2がつ1にち閉館へいかん>
    • 前身ぜんしんは1938ねん開館かいかんした南街なんがい映画えいが劇場げきじょう戦後せんご改築かいちくした。2006ねん9がつ22にち跡地あとち東宝とうほう南街なんがいビルがオープンし、地下ちか1かいから7かいなんばマルイ、8かいから11かいはTOHOシネマズなんばがいれてんしている。
  • 京都きょうと宝塚たからづか会館かいかん京都きょうと宝塚劇場たからづかげきじょう京都きょうとスカラ座すからざ)(京都きょうと京都きょうと中京ちゅうきょう河原町かわらまちどおり三条さんじょうしも大黒おぐろまち58)<1935ねん10がつ開館かいかん、2006ねん1がつ29にち閉館へいかん>
    • 2008ねん4がつ25にち跡地あとちふくあい商業しょうぎょうビル「mina kyoto」がオープンした。
      前身ぜんしん: 京都きょうと宝塚劇場たからづかげきじょう(1935ねん - 1945ねん)→どう(GHQによる夜間やかん接収せっしゅう)(1945ねん10がつ27にち - 12月31にち)→ステイトサイド・シアター(GHQによる完全かんぜん接収せっしゅう)(1946ねん1がつ1にち - 1952ねん7がつ)→京都きょうと宝塚劇場たからづかげきじょう(1952ねん - 1956ねん)→京都きょうと宝塚劇場たからづかげきじょうスカラ座すからざ(1956ねん - 2006ねん
  • 京極きょうごく東宝とうほう1・2・3(京都きょうと京都きょうと中京ちゅうきょう新京極しんきょうごく四条しじょうあが仲之なかのまち534-1)<2006ねん1がつ29にち閉館へいかん>
    • 2008ねん12月11にち跡地あとちにビジネスホテル「スーパーホテル京都きょうと四条しじょう河原町かわらまち」がオープンした。
      前身ぜんしん: 三友さんゆう倶楽部くらぶ(1911ねん - 1915ねん)→三友さんゆう劇場げきじょう(1916ねん - 1945ねん)→京極きょうごく東宝とうほう劇場げきじょう(1954ねん - 1996ねん)→京極きょうごく東宝とうほう(1996ねん - 2006ねん

中部ちゅうぶ地区ちく

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  • 名宝めいほう会館かいかん名宝めいほう劇場げきじょう名宝めいほうスカラ座すからざ名宝めいほうシネマ)(愛知あいちけん名古屋なごやちゅうさかえ1-2-6)<1935ねん11月3にち開館かいかん、2002ねん12月1にち閉館へいかん>
    • 2004ねん11月1にち跡地あとち名古屋なごや東宝とうほうビルがオープン、併設へいせつしてビジネスホテル「リッチモンドホテル(オープン当時とうじはロイネットホテル)名古屋なごや納屋なやきょう」がオープンした。
  • エンゼル東宝とうほう愛知あいちけん名古屋なごやなかさかえ3-15-20、松坂屋まつざかや本店ほんてん北館きただて地下ちか1かい)<1972ねん11月開館かいかん、2005ねん9がつ4にち閉館へいかん>
    • 2006ねん6がつ跡地あとち大人おとなディスコ「PLATINUM NAGOYA」がオープンした。
  • 名鉄めいてつ東宝とうほう1・2(愛知あいちけん名古屋なごや中村なかむら名駅めいえき1-2-4、名鉄めいてつバスターミナルビルない)<1967ねん6がつ開館かいかん、2006ねん2がつ24にち閉館へいかん>
    • 2006ねん10がつ25にち跡地あとちふくめて名鉄百貨店めいてつひゃっかてん本店ほんてんメンズかんとしてリニューアルオープンした。
      前身ぜんしん: 名鉄めいてつ東宝とうほう(1967ねん6がつ - 1998ねん1がつ)→改装かいそう休館きゅうかん(1998ねん1がつ - 7がつ10日とおか)→名鉄めいてつ東宝とうほう1・2(1998ねん7がつ11にち - 2006ねん2がつ24にち

映画えいが興行こうぎょう成績せいせき

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演劇えんげき

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かつては長谷川はせがわ一夫かずおをメインとした「東宝とうほう歌舞伎かぶき」などがおこなわれたほか、にちげき北野きたの劇場げきじょうでの実演じつえん歌謡かようショーなど)、宝塚歌劇たからづかかげき演芸えんげい東宝とうほう名人めいじんかいにちげきミュージックホールや南街なんがいミュージックホールでのヌードショーなど多彩たさいであった。

現在げんざいはミュージカルや商業しょうぎょう演劇えんげきおも制作せいさく興行こうぎょうしている。

おも劇場げきじょう

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東宝とうほう直営ちょくえい
東宝とうほう発祥はっしょう東京とうきょう宝塚劇場たからづかげきじょうは、現在げんざい阪急電鉄はんきゅうでんてつ宝塚歌劇団たからづかかげきだん)が経営けいえいし、舞台ぶたい制作せいさくおよび興行こうぎょうおこなっている。建物たてもの東京とうきょう宝塚たからづかビル)自体じたい東宝とうほう所有しょゆう
その

かつて存在そんざいした劇場げきじょう

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新宿しんじゅくコマ劇場げきじょうシアターアプル東宝とうほうけいなされることおおかったが、厳密げんみつには東宝とうほうではなく兄弟きょうだい会社かいしゃコマ・スタジアム経営けいえいしていた劇場げきじょうである。舞台ぶたい制作せいさく興行こうぎょう同社どうしゃによりおこなわれていたが、新聞しんぶん案内あんない広告こうこくでは「東宝とうほう演劇えんげき」としてあつかわれることがおおく、長年ながねん毎日新聞まいにちしんぶん金曜日きんようび夕刊ゆうかん東京とうきょう本社ほんしゃばん)に掲載けいさいされた東宝とうほう提供ていきょうの「東宝とうほう映画えいが演劇えんげき」の広告こうこくにも併記へいきされていた。

オープニングロゴ

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映画えいが配給はいきゅう

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中央ちゅうおうはなたれるひかり中心ちゅうしんにロゴマークがはいされ、下部かぶ文字もじで「東宝とうほう株式会社かぶしきがいしゃ」と横書よこがきされる(初期しょきのカラー作品さくひんは「東宝とうほう株式会社かぶしきがいしゃ製作せいさく」や「東宝とうほう株式会社かぶしきがいしゃ配給はいきゅう」と表記ひょうき)。東宝とうほうスコープ作品さくひんでは東宝とうほうマークの左右さゆう黄色きいろゴシックたい立体りったい処理しょりで「TOHO」「SCOPE」とはいされていた。北米ほくべい公開こうかいには東宝とうほうマークのなかに「TOHO」のアルファベットがはいり、下部かぶ社名しゃめい表記ひょうきが「TOHO COMPANY, LTD.」にわる。円谷つぶらや英二えいじによってデザイン・制作せいさくされたものであり、1992ねん創立そうりつ60周年しゅうねん以降いこうはそれまでの実写じっしゃ光学こうがく合成ごうせいによる映像えいぞうわり、CGで制作せいさくされたものが使用しようされている。2010ねん以降いこうは16:9とシネスコのオープニングロゴ統一とういつともない「東宝とうほう株式会社かぶしきがいしゃ部分ぶぶん一新いっしんされた。

メディア媒体ばいたい

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VHS
初代しょだい (1983ねん〜1991ねん)
JCGL (ジャパン コンピューター グラフィックス ラボ)によるCG映像えいぞう。ズームする球体きゅうたいから「TOHO VIDEO」がかびながら回転かいてんし、後方こうほうから「TOHO VIDEO」が中央ちゅうおう部分ぶぶんわさるとうえ発光はっこう物質ぶっしつがフラッシュし「東宝とうほう」ロゴに変化へんか、「TOHO VIDEO」部分ぶぶんかねかげはいる。映画えいが配給はいきゅう作品さくひんなど、おおくは東宝とうほうのロゴ映像えいぞうからはじまるため、CG映像えいぞうきわめてまれである。
2代目だいめ (1991ねん生産せいさん終了しゅうりょうまで)
横長よこなが球体きゅうたいによって「TOH」があらわ球体きゅうたいが「O」に変化へんかひだりにズームすると同時どうじ後方こうほうから「VIDEO」が中央ちゅうおう部分ぶぶんわさり、四角形しかっけいかこまれると「TOHO」部分ぶぶん黒文字くろもじ変化へんかする。
DVD・Blu-ray
初代しょだい(1999ねん~2009ねん
「DVD(改行かいぎょう)TOHO」の文字もじうえから回転かいてんしながら中央ちゅうおう部分ぶぶんわさり、しろ文字もじ変化へんかする。
2代目だいめ(2009ねん~)
NHKスペシャル」の2代目だいめ踏襲とうしゅうしたCG映像えいぞう無数むすうのモニターによって「TOHO」の文字もじ形成けいせいされ、四角形しかっけいかこまれると同時どうじに「Visual Entertainment」の文字もじあらわれて完成かんせいする。BGMは初代しょだいDVDを流用りゅうよう

ゲームソフト・アプリ

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1987ねんから1998ねんまではゲームソフトの販売はんばいおこなっていた。大半たいはんが『ゴジラ』および自社じしゃかかわるアニメのゲームばんだが、とくかかわりのない普通ふつうのゲームもリリース実績じっせきがある。(開発かいはつ他社たしゃによる)

2020年代ねんだいよりスマートフォンようアプリケーションゲームを、「TOHO Games」というレーベルでリリースしている[19]

関連かんれん会社かいしゃ

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2024ねん2がつ29にち現在げんざい連結れんけつ子会社こがいしゃ43しゃ持分もちぶんほう適用てきよう関連かんれん会社かいしゃ3しゃである。ここでは、東京とうきょう証券しょうけん取引とりひきしょ上場じょうじょう、あるいは上場じょうじょう廃止はいしとなった連結れんけつ子会社こがいしゃ2しゃのみをげる。これ以外いがいについては「阪急はんきゅう阪神はんしん東宝とうほうグループ」の項目こうもく参照さんしょう

所有しょゆうビル

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有楽町ゆうらくちょう日比谷ひびや地区ちく

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新宿しんじゅく地区ちく

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大阪おおさか地区ちく

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 本社ほんしゃきゅう東宝とうほう映画えいががあった銀座ぎんざ7丁目ちょうめだい日本にっぽん麦酒びーる本社ほんしゃない
  2. ^ そのため、だいいちかい作品さくひんは『ほろ人生じんせい』となる。
  3. ^ 映画えいがプロデューサー。エクランしゃ日本にっぽん電波でんぱ映画えいが社長しゃちょうとして長年ながねん京都きょうと中心ちゅうしん活躍かつやくした。
  4. ^ 市川いちかわはほどなく新生しんせい日活にっかつ移籍いせき
  5. ^ これらは東宝とうほうよんだい喜劇きげきシリーズともばれている。
  6. ^ これらの映画えいが監督かんとくやメインスタッフも大映だいえいけい日活にっかつけいがほとんどである。
  7. ^ とく資本しほん関係かんけいつよいフジテレビとの提携ていけい中心ちゅうしん
  8. ^ 2019ねん現在げんざいではワーナー・マイカルの後身こうしんであるイオンシネマだい1
  9. ^ とく東映とうえいは70年代ねんだいまでは映画えいが配給はいきゅう収入しゅうにゅうでおおむね東宝とうほう上位じょうい位置いちしていていた。
  10. ^ 経営けいえいじん待遇たいぐう大物おおものプロデューサーとわれたうち、もり岩雄いわお藤本ふじもと真澄ますみふく社長しゃちょう田中たなか友幸ともゆき東宝とうほう映画えいが会長かいちょうどまり。
  11. ^ キャリアパスとしての短期間たんきかんではあるが。
  12. ^ 2023ねんはる竣工しゅんこう[1]

出典しゅってん

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  1. ^ コーポレート・ガバナンス - 東宝とうほう株式会社かぶしきがいしゃ
  2. ^ a b c d e f g h i j k 東宝とうほう株式会社かぶしきがいしゃだい135 2023ねん3がつ1にち - いたり 2024ねん2がつ29にち有価ゆうか証券しょうけん報告ほうこくしょ』(レポート)2024ねん5がつ23にち 
  3. ^ 東宝とうほう株式会社かぶしきがいしゃ 定款ていかん だい1しょうだい1じょう
  4. ^ 構成こうせい銘柄めいがら一覧いちらん日経にっけい平均へいきん株価かぶか Nikkei Inc. 2021ねん10がつ8にち閲覧えつらん
  5. ^ メンバー会社かいしゃ一覧いちらん - みどりかい
  6. ^ 東宝とうほう特撮とくさつ映画えいがぜん 1983, pp. 82–83, 「東宝とうほう特撮とくさつ映画えいが作品さくひん 前史ぜんし
  7. ^ ゴジラだい全集ぜんしゅう 1994, pp. 50–51, 「東宝とうほう特撮とくさつ映画えいが ゴジラ誕生たんじょう ゴジラ以前いぜん
  8. ^ 東宝とうほうけいぜん劇団げきだん移動いどう文化ぶんかたい結成けっせい昭和しょうわ15ねん10がつ1にち 中外ちゅうがい商業しょうぎょう新聞しんぶん昭和しょうわニュース辞典じてんだい7かん 昭和しょうわ14ねん-昭和しょうわ16ねん』p22 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  9. ^ a b ゴジラだい全集ぜんしゅう 1994, pp. 52–53, 「東宝とうほう特撮とくさつ映画えいが ゴジラ誕生たんじょう ゴジラ誕生たんじょう
  10. ^ 平成へいせいゴジラ大全たいぜん 2003, p. 17, 「プロローグ・誕生たんじょうから終焉しゅうえん田中たなか友幸ともゆきもり岩雄いわお
  11. ^ a b 平成へいせいゴジラ大全たいぜん 2003, p. 19, 「COLUMN 東宝とうほう争議そうぎとは?」
  12. ^ ゴジラだい全集ぜんしゅう 1994, pp. 56–57, 「東宝とうほう特撮とくさつ映画えいが ゴジラ誕生たんじょう ワイド路線ろせん多様たよう
  13. ^ ゴジラだい全集ぜんしゅう 1994, pp. 58–59, 「東宝とうほう特撮とくさつ映画えいが ゴジラ誕生たんじょう チャンピオンまつりの時代じだい
  14. ^ 平成へいせいゴジラ大全たいぜん 2003, p. 97, 「COLUMN 映画えいが調整ちょうせいとは?」
  15. ^ 東宝とうほうが「ちょういち等地とうち」に不動産ふどうさんっているワケ 週刊しゅうかん東洋とうよう経済けいざい 2015ねん04がつ27にち
  16. ^ 東宝とうほうがアニメ事業じぎょう本格ほんかく参入さんにゅう〜パッケージやODSも駆使くしして劇場げきじょうヒットねら オリコンスタイル 2013ねん3がつ3にちどう7がつ2にち閲覧えつらん
  17. ^ 東宝とうほう東京楽天地とうきょうらくてんちにTOB…買収ばいしゅう総額そうがく300おくえん完全かんぜん子会社こがいしゃ連携れんけい強化きょうか”. 読売新聞よみうりしんぶん (2023ねん12月6にち). 2023ねん12月7にち閲覧えつらん
  18. ^ 東宝とうほう、アニメスタジオのサイエンスSARUを買収ばいしゅう…アニメ制作せいさく能力のうりょく強化きょうか成長せいちょうちゅうのアニメ事業じぎょう拡大かくだいスピードをさらに加速かそくへ”. gamebiz. (2024ねん5がつ23にち). https://gamebiz.jp/news/386538 2024ねん5がつ24にち閲覧えつらん 
  19. ^ GODZILLA GAMES PORTAL(ゴジラスマートフォンけゲームアプリポータルサイト)

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 東宝とうほう特撮とくさつ映画えいがぜん監修かんしゅう 田中たなか友幸ともゆき東宝とうほう出版しゅっぱん事業じぎょうしつ、1983ねん12がつ10日とおかISBN 4-924609-00-5 
  • 『テレビマガジン特別とくべつ編集へんしゅう 誕生たんじょう40周年しゅうねん記念きねん ゴジラだい全集ぜんしゅう構成こうせい執筆しっぴつ:岩畠いわはた寿明としあき(エープロダクション)、赤井あかいまさしなお講談社こうだんしゃ、1994ねん9がつ1にちISBN 4-06-178417-X 
  • 平成へいせいゴジラ大全たいぜん 1984-1995』編著へんちょ 白石しらいし雅彦まさひこ、スーパーバイザー 富山とみやま省吾しょうご双葉社ふたばしゃ双葉社ふたばしゃ大全たいぜんシリーズ〉、2003ねん1がつ20日はつかISBN 4-575-29505-1 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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