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植木うえきひとし

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
うえき ひとし
植木うえき ひとし
植木 等
1963ねん。『HEIBON MELODY』ないキングレコード広告こうこく
本名ほんみょう 植木うえき ひとし
べつ名義めいぎ ハリー植木うえき[1]
生年月日せいねんがっぴ (1927-02-25) 1927ねん2がつ25にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (2007-03-27) 2007ねん3月27にち(80さいぼつ
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん愛知あいちけん名古屋なごや
死没しぼつ 日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう
身長しんちょう 165 cm
血液けつえきがた ABがた
職業しょくぎょう コメディアン
歌手かしゅ
俳優はいゆう
タレント
ジャンル 映画えいが
バラエティ番組ばんぐみ
テレビドラマ
舞台ぶたい
活動かつどう期間きかん 1946ねん - 2007ねん
配偶はいぐうしゃ あり
著名ちょめい家族かぞく 比呂ひろ公一こういち長男ちょうなん
植木うえき裕子ゆうこさんじょ
おも作品さくひん
テレビドラマ
植木うえきとうのそれけドンドン
名古屋なごや嫁入よめい物語ものがたり
だい空港くうこう'92
しん空港くうこう物語ものがたり
おれたちの世直よなお強盗ごうとう

映画えいが
無責任むせきにんおとこ』シリーズ
喜劇きげき 泥棒どろぼうだい家族かぞく 天下でんか

喜劇きげき ここからはじまる物語ものがたり
あいしのチィパッパ』
しんよろこびもかなしみもいく歳月さいげつ
 
受賞じゅしょう
日本にっぽんアカデミーしょう
最優秀さいゆうしゅう助演じょえん男優だんゆうしょう
1987ねんしんよろこびもかなしみもいく歳月さいげつ
ブルーリボンしょう
そのしょう
キネマ旬報きねまじゅんぽうベスト・テン
助演じょえん男優だんゆうしょう
1987ねんしんよろこびもかなしみもいく歳月さいげつ
毎日まいにち映画えいがコンクール
男優だんゆう助演じょえんしょう
1987ねんしんよろこびもかなしみもいく歳月さいげつ
あいしのチィパッパ』
日刊にっかんスポーツ映画えいが大賞たいしょう
助演じょえん男優だんゆうしょう
1996ねんあした
備考びこう
紫綬褒章しじゅほうしょう1993ねん
くんよんとう旭日きょくじつしょう綬章じゅしょう1999ねん
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植木うえき ひとし(うえき ひとし、本名ほんみょうおなじ、1927ねん昭和しょうわ2ねん2がつ25にち[注釈ちゅうしゃく 1] - 2007ねん平成へいせい19ねん3月27にち)は、日本にっぽん俳優はいゆうコメディアン歌手かしゅギタリストタレント。「ハナはじめとクレージーキャッツ」のメンバー。仲間なかまないでの愛称あいしょうは「ボンさん」「植木うえき」「植木うえきやん」。

長男ちょうなん作曲さっきょく比呂ひろ公一こういちいもうとおっと部落ぶらく問題もんだい研究けんきゅうしゃ川村かわむらよし二郎じろう御木本みきもと幸吉こうきちは、父方ちちかた祖母そぼ親類しんるいにあたる[2]

来歴らいれき[編集へんしゅう]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

ちち影響えいきょう[編集へんしゅう]

植木うえきとう父親ちちおやであるとおるまこと(てつじょう)は、かつててっすけ名乗なのっており、わかころキリスト教徒きりすときょうとであった。のち浄土真宗じょうどしんしゅうひとつである真宗しんしゅう大谷おおや常念寺じょうねんじ住職じゅうしょくとなる。たいへんな社会しゃかいてき正義せいぎかんぬしで、差別さべつ部落ぶらく出身しゅっしんではないが「自分じぶん部落ぶらくみんではないとおもうことが、すでに相手あいて差別さべつしていることだ」とべて、水平すいへい運動うんどう参加さんかした。治安ちあん維持いじほう違反いはんつみわれてなんとなく投獄とうごくをされても、積極せっきょくてきはん差別さべつ反戦はんせんつらぬいて運動うんどう戦後せんご日本にっぽん共産党きょうさんとう入党にゅうとうし、60ねん安保あんぽのデモたいにも参加さんかするというような「行動こうどうする僧侶そうりょ」だった。ただし、ちちは「謹厳きんげん実直じっちょく」なだけの人物じんぶつではなく、息子むすことうからると「支離滅裂しりめつれつ」で、義太夫ぎだゆうかたりになろうとしたこともあり、「いわば蕩児とうじでもあった」という[8]

ひとし少年しょうねん時代じだいには、ステテコいちちょうてっまこととうてらの「仏様ほとけさま」のまえれてき、物差ものさしでそのあたまはたきながら「このおといてみろ。きんピカだけれどもなかだ。こんなものをおがんでもどうにかなるとおもったらだい間違まちがいだぞ」とさとしたという[9]。「ひとし」という名前なまえは、社会しゃかい運動うんどうかおっていたちちが「平等びょうどう」にちなんでづけた。少年しょうねん時代じだいひとしは、投獄とうごくされたちちわって僧衣そういまと檀家だんかをまわるという生活せいかつおくっている。その経験けいけんもあってか、1993ねんハナはじめくなったさい、その葬儀そうぎにおいてみずか読経どきょうした。また、代表だいひょうさくニッポン無責任むせきにん時代じだい』でも、植木うえきえんじる主人公しゅじんこう当初とうしょ香典こうでん泥棒どろぼう」と設定せっていされていたが、「てらせがれ」としてえられなかったのか、みずか設定せっていえ、「香典こうでん泥棒どろぼうかぎりなくちか人物じんぶつ」というやくになっている[9]

素顔すがお植木うえきとう[編集へんしゅう]

植木うえき自身じしんを、少年しょうねん時代じだいおおくの苦労くろうをしたわりに、不思議ふしぎ大変たいへんあかるい性格せいかくであることはみとめているが、それ以外いがいはどちらかというと頑固がんこで、こだわりや責任せきにんかんつよ人間にんげんであるとべている。『植木うえきとうデラックス』でゲストのさだまさしが、「無責任むせきにんおとこ」を「植木うえきさんが無理矢理むりやりつくりになったキャラクター」とべたところ、植木うえきは「そうなんだよ、世間せけんはあれがだとおもっているんだ」とわらっていた。黒柳くろやなぎ徹子てつこ植木うえきを「ゆう責任せきにんおとこ(うせきにんおとこ)」とひょうした。

植木うえき人気にんき絶頂ぜっちょうびとけん運転うんてんしゅとしてせっした小松こまつ政夫まさお証言しょうげんによれば、植木うえきは『仕方しかたばなし[注釈ちゅうしゃく 3]達人たつじんげるトークが得意とくいだったが、基本きほんてき物静ものしずかで生真面目きまじめであり、いちあたまごなしに怒鳴どなられたことがなかった。ただじょあそびやギャンブルはきらい、そのてん大変たいへんきびしく指導しどうされたという。「貧乏人びんぼうにんせがれ」を自称じしょうしており、もらった給料きゅうりょう小遣こづかだいのぞいてすべて夫人ふじんわたす、食事しょくじも「どんぞこでも平気へいきだ」とかたっていたことを裏付うらづけるように、毎日まいにちおなじおかずでも不満ふまんわないくらいだった[注釈ちゅうしゃく 4]さけまなかったが、これは体質たいしつてきにアルコールをけず奈良漬ならづけでも酩酊めいていしかねないくらいだったためで、本人ほんにんさけんでえるひとがうらやましいとらしていた[注釈ちゅうしゃく 5]小松こまつ採用さいようしたばかりのころ小松こまつさけたしなむとった植木うえきは、自宅じたくのサイドボードのかざものした、もらものウイスキーをさして「きなものをんでいいから」とすすめ、小松こまつきな銘柄めいがらこたえると、ふうるやビールグラスに「カポカポカポ…」と並々なみなみそそぎ、「さぁみなさい」としたという。さすがにこまはてて「親父おやじさん、みずこおりはありませんか?」とたずねると、「なんだおまえさけむのにそんなものがいるのか」と、おどろいたという。下戸げこゆえにさけかたらなかったことからこったエピソードである。

そんな真面目まじめ性格せいかくであるから「スーダラぶし」の楽譜がくふをはじめてわたされたときには、「このきょくうたうと自分じぶん人生じんせいわってしまうのでは」と真剣しんけんなやんだ。父親ちちおや相談そうだんすると「どんなうたなんだ?」というので植木うえきはスーダラぶしうたってみた。はげしい正義せいぎかんぬしちちまえうたったあまりにふざけた歌詞かし激怒げきどされるとおもいきや、ちちは「すばらしい!」となみだながさんばかりに感動かんどうした。唖然あぜんとするひとし理由りゆうたずねると、「この歌詞かし浄土真宗じょうどしんしゅう宗祖しゅうそ親鸞しんらん聖人せいじんおしえそのものだ。親鸞しんらんさまは90さいまできられて、あれをやっちゃいけない、これをやっちゃいけない、そういうことを最後さいごまでみんなやっちゃった。人類じんるいきているかぎり、このわかっちゃいるけどやめられないという生活せいかつはなくならない。これこそ親鸞しんらん聖人せいじんおしえなのだ。そういうものを人類じんるい真理しんりというんだ。上出来じょうできだ。がんばってこい!」とさとされ、植木うえきうたうことを決意けついした。このエピソードは、植木うえき歌手かしゅとしてきていくうえ生涯しょうがいささえになったという。

ただし、植木うえきには生真面目きまじめながらも独特どくとく雰囲気ふんいきがあった。日常にちじょう座談ざだんについては左記さき小松こまつ証言しょうげん以外いがいにも、交友こうゆうがあった小林こばやし信彦のぶひこ評伝ひょうでん植木うえきとう藤山ふじやま寛美ひろみ』で「無責任むせきにんおとことは別種べっしゅのおかしさがあった」とべ、さらにあの独特どくとく高笑たかわらいは「植木うえき本来ほんらいのモノ」であったという。また性格せいかくあかるさも成功せいこうまえ貧乏びんぼう時代じだいからのもので、小林こばやしは「私生活しせいかつがわからなかった」という[9]小松こまつ紹介しょうかい植木うえきった伊東いとう四朗しろうはゴルフにったさいのエピソードとして「植木うえきさんはずっと世間せけんばなしをしたままアドレスしてった。あんなひとたことない」[注釈ちゅうしゃく 6][注釈ちゅうしゃく 7]犬塚いぬづかひろしは「植木うえき基本きほんてき物静ものしずかで生真面目きまじめだった。でも初対面しょたいめんは、それこそ無責任むせきにんおとこみたいに『よぉっ!』とあらわれて、こっちがあっけにとられているのをしり名乗なのりもしないで自分じぶんった落語らくごはなしをオチまでした」とかなり破天荒はてんこうめんがあったことを証言しょうげんしている。

植木うえき自身じしんは「おとこみち自分じぶんひらけ」という気持きもちから、長男ちょうなん廣司こうじが「植木うえき浩史こうじ」の歌手かしゅデビューをしたとき一切いっさいのバックアップをしなかった[注釈ちゅうしゃく 8]。その長男ちょうなんのち作曲さっきょく転向てんこう、「比呂ひろ公一こういち名義めいぎでCMソングなどを中心ちゅうしん活動かつどうしている。NHK-BSハイビジョン特集とくしゅう放送ほうそうされた『スーダラ伝説でんせつ 植木うえきとう ゆめべつづけたおとこ』では終盤しゅうばん比呂ひろが、クレージーのメンバー、犬塚いぬづかひろしたにあきら桜井さくらいセンリにも参加さんかしてもらい、『スーダラぶし』のインストゥルメンタルきょく収録しゅうろくし、ちち植木うえき贈呈ぞうていする場面ばめん登場とうじょうするが、試聴しちょうには「うれしいねぇ」と一言いちげんつぶやき、うるませている。

その一方いっぽうすえむすめ植木うえき裕子ゆうこバレリーナとなり、ドイツを中心ちゅうしん活動かつどうして日本にっぽんむすめ公演こうえんするとき舞台ぶたいをよくったり、むすめ一緒いっしょ舞台ぶたいくことを関係かんけいしゃかたったりしていたという[10]

学生がくせい時代じだい[編集へんしゅう]

学生がくせい時代じだい陸上りくじょう選手せんしゅで、高校こうこう時代じだいには100mを11びょう4ではしった。大学だいがく時代じだいには東洋大学とうようだいがく陸上りくじょう競技きょうぎ所属しょぞくし、関東かんとう学生がくせい陸上りくじょう競技きょうぎ対校たいこう選手権せんしゅけん大会たいかいにも出場しゅつじょうしている。そのえんで、のち植木うえき母校ぼこう東洋大学とうようだいがく陸上りくじょう名誉めいよ顧問こもん、「箱根はこね駅伝えきでん優勝ゆうしょうさせるかい」の会長かいちょうつとめていた。また、東洋大学とうようだいがく相撲すもう後援こうえん会長かいちょうけていた。そうしたかたわらで、この時代じだいにはすでにバンドボーイのアルバイトにせいしていた。

バンドマン[編集へんしゅう]

大学だいがく卒業そつぎょうしバンドマンとしてあゆはじめると同時どうじに、ソプラノ歌手かしゅ平山ひらやま美智子みちこイタリアなが在住ざいじゅうし、当地とうち現代げんだい音楽おんがく作曲さっきょくジャチント・シェルシとのコラボレーションでられる)に声楽せいがく発声はっせいまなんだ。

ギターをはじめたころに、教則きょうそくほん必死ひっし独学どくがくした努力どりょくこうそうして、どんな楽譜がくふはつみるめるようになる。当時とうじのジャズギタリストには楽譜がくふめないものおおかったといい、この技術ぎじゅつわれ、デューク・オクテットに採用さいようまった。ひだりひじでリズムをりながらの演奏えんそう特徴とくちょう

バンドマン時代じだいに、守安もりやすさち太郎たろう穐吉敏子としこジョージ川口かわぐち渡辺わたなべ貞夫さだおといったジャズ・ミュージシャンたちとセッションもしており、横浜よこはまジャズかい伝説でんせつわれるジャズクラブ『モカンボ』でおこなわれた「モカンボ・ジャム・セッション」(1954ねん)では守安もりやす渡辺わたなべ澤田さわだ駿しゅんわれ宮沢みやざわあきららととも参加さんかした[11]

黄金おうごん時代じだい[編集へんしゅう]

1962ねん

国民こくみんてきスターとして人気にんきあつめた1960年代ねんだい活躍かつやく中心ちゅうしんは『植木うえきひとしショー』をはじめとするバラエティ番組ばんぐみや、『無責任むせきにんシリーズ』『日本一にっぽんいちおとこシリーズ』など東宝とうほう映画えいがであった。高度こうど経済けいざい成長せいちょう時代じだい象徴しょうちょうするコメディアンとして1960年代ねんだい一世いっせい風靡ふうびし、ギャグもきょくをヒットした。

映画えいがかんしては、最初さいしょはスーダラぶしだいヒットをけて大映だいえいで2ほん映画えいがつくられたが、こちらでの植木うえきやクレージーキャッツは主役しゅやく川崎かわさき敬三けいぞう川口かわぐちひろしはなえる脇役わきやく、ゲスト出演しゅつえんであり、植木うえき主役しゅやくえんじさせたいと熱望ねつぼうする渡辺わたなべプロダクション社長しゃちょう渡辺わたなべすすむみずからのあし企画きかくまわった結果けっか東宝とうほうからゴー・サインがされる。そしてつくられた2さくニッポン無責任むせきにん時代じだい』『ニッポン無責任むせきにん野郎やろう』は、「無責任むせきにん」という流行りゅうこうとともに当時とうじ社会しゃかい現象げんしょうとなった。

この無責任むせきにんおとこ破天荒はてんこうなキャラクターについて、植木うえき後年こうねん「『ニッポン無責任むせきにん時代じだい』の古澤ふるさわ憲吾けんご監督かんとくにはまず“わらってみろ”とわれてなんわらってみたがOKがず、そのうちいかした監督かんとくから“植木うえきくんきみえんじようとしているこのおとこ異常いじょうなんだよ!”とわれ、それでれてキャラが出来上できあがった」と回想かいそうしている[注釈ちゅうしゃく 9][注釈ちゅうしゃく 10]

その、『ニッポン無責任むせきにん時代じだい』の初期しょき企画きかくてた脚本きゃくほん田波たなみ靖男やすおマンネリ化まんねりかたいする危機ききかんや、当時とうじ東宝とうほう製作せいさく本部ほんぶちょうだった藤本ふじもと真澄ますみ意向いこうもあって、植木うえきえんじるキャラクターも無責任むせきにんがたからゆうげん実行じっこうがたのスーパー・サラリーマンへと方針ほうしん転換てんかんしていくことになり、「『無責任むせきにん』シリーズ」は「『日本一にっぽんいちおとこ』シリーズ」へと変化へんかげる。一方いっぽう同時どうじ進行しんこう製作せいさくされていたクレージーキャッツ全体ぜんたい主人公しゅじんこうとした「『クレージー作戦さくせん』シリーズ」においては、田波たなみ自身じしんが「無責任むせきにんへのアンチテーゼ」とする『クレージー作戦さくせん くたばれ!無責任むせきにん』(1963ねん)も製作せいさくされた。

その結果けっか作品さくひんによっては古典こてんてき熱血ねっけつサラリーマンぞうかおのぞかせるようになり、小林こばやし信彦のぶひこ初期しょき作品さくひん支持しじしゃ作品さくひんてき低迷ていめい批判ひはんされるようになる。ただし、小林こばやしは1963ねんから渡辺わたなべプロダクションでクレージーキャッツのブレーンをつとめるようになり、身内みうちとして「とにかくつくればあたる」状態じょうたいになった植木うえき・クレージー映画えいがを「冷静れいせいにみて批評ひひょうすることができない」といている。

1960年代ねんだい後半こうはんになると、連戦れんせん連勝れんしょう爆発ばくはつてきヒットをけて「クレージーシリーズ」が大作たいさくしていったのにたいして、植木うえき主演しゅえんの「『日本一にっぽんいちおとこ』シリーズ」は、佐々木ささきまもる早坂はやさかあきらなどの新進しんしん脚本きゃくほん須川すがわ栄三えいざのような時代じだいせい如実にょじつ反映はんえいする監督かんとく参加さんかもあり、全共闘ぜんきょうとう時代じだい反映はんえいしてシニカルで風刺ふうしいたものとなっていく。1960年代ねんだいまつには徐々じょじょ動員どういんりょく低下ていかし、ザ・ドリフターズのブレイクも影響えいきょうして、植木うえき東宝とうほう映画えいが主演しゅえん1971ねんの『日本一にっぽんいちのショックおとこ』でめとなる。このシリーズ最後さいご作品さくひんは、加藤茶かとうちゃとのコンビ主演しゅえんさくであった[注釈ちゅうしゃく 11]

性格せいかく俳優はいゆうとしての開花かいか[編集へんしゅう]

性格せいかく俳優はいゆうへの転機てんきは、1977ねん東京とうきょう宝塚劇場たからづかげきじょう公演こうえん王将おうしょう』で坂田さかた三吉さんきちえんじたことだった。「役者やくしゃとして年齢ねんれいてきにも経済けいざいてきにもラクをしたがりそうな時期じきだったので、これはいかん、それをえるためには冒険ぼうけんを」[12] という意気込いきごみでのぞんだものだった。

以降いこうは、舞台ぶたい出演しゅつえんもクレージーキャッツとしての公演こうえん・ライブにわって、単独たんどくでの演劇えんげき主演しゅえん助演じょえんえていく。1970年代ねんだいから80年代ねんだい初頭しょとうにかけては時代じだいげきコメディ『大江戸おおえどさんもんオペラ』や、悪徳あくとく政治せいじ暗躍あんやくする『にぎにぎ』などの喜劇きげき作品さくひん主演しゅえんしたほか、たにあきらひきいるコミックバンド『スーパーマーケット』とのジョイントショーなど数々かずかず作品さくひん出演しゅつえんした。『シカゴ』日本にっぽん初演しょえん(1983ねん)でのインチキ弁護士べんごし・ビリーやくのように、無責任むせきにんおとこ延長線えんちょうせんじょうひらいたしん境地きょうちすくなくない。

1985ねんには「東宝とうほう撮影さつえいしょでいつもすれちがっていて、そのたび映画えいがしいとおもっていたのに機会きかいめぐまれなかった」とかた黒澤くろさわあきら熱烈ねつれつなラブコールをけて、『らん』に助演じょえんした。また、木下きのしためぐみかい監督かんとくの『しんよろこびもかなしみもいく歳月さいげつ』(1986ねん)では、日本にっぽんアカデミーしょう助演じょえん男優だんゆうしょう受賞じゅしょう。ただし、喜劇きげき俳優はいゆうとしてのイメージをてたわけではなく、1984ねんには当時とうじ気鋭きえい若手わかてだった石井いしいさとしわた小林こばやしよしのり原案げんあん映画えいがした異色いしょくコメディ『ぎゃく噴射ふんしゃ家族かぞく』に出演しゅつえんする。この映画えいがではアナーキーな老人ろうじんやくえんじて、主題歌しゅだいかぎゃく噴射ふんしゃ家族かぞく借景しゃっけい』を共演きょうえん小林こばやし克也かつやうた活躍かつやくせた。晩年ばんねん小林こばやし製薬せいやくのCMでも、クレージー時代じだい髣髴ほうふつさせる高笑たかわらいを披露ひろうしている。

1990ねんには長年ながねん在籍ざいせきしていた東芝とうしばEMIとの契約けいやくれ、当時とうじ実質じっしつじょう子会社こがいしゃであったファンハウス移籍いせきしたことが転機てんきとなり、クレージー時代じだいからのヒットきょくをメドレーにしたリバイバルシングル『スーダラ伝説でんせつ』がだいヒットし、オリコンベスト10りをたした。そしてこのとしNHK紅白こうはく歌合戦うたがっせんにも久々ひさびさ出場しゅつじょうした(この紅白こうはくでのうたかたについて、「だってうたいながらわらってたでしょ? あんなものを紅白こうはくで…」と、後日ごじつみずからをいましめていた)。

また、1993ねんからは明治めいじでのさかい正章まさあき座長ざちょう公演こうえんへの客演きゃくえん恒例こうれいし(1996ねんのみ単独たんどく主演しゅえん大江戸おおえどまぐれ稼業かぎょう』)、2002ねんまで出演しゅつえんしたほか、中日ちゅうにち劇場げきじょうで『名古屋なごや嫁入よめい物語ものがたり』の舞台ぶたいばんおなじく2002ねんまでつづけた。

死去しきょ[編集へんしゅう]

晩年ばんねん肺気腫はいきしゅ前立腺ぜんりつせんがんわずらいながらもテレビドラマ映画えいが中心ちゅうしん仕事しごとつづけていたが、2007ねん3月27にち呼吸こきゅう不全ふぜんのため東京とうきょう都内とない病院びょういん死去しきょした。80さいだった。法名ほうみょうたかららくいんしゃくひとしあきら」。

遺作いさく映画えいがでは2007ねん公開こうかい舞妓まいこHaaaan!!!』での西陣にしじん会長かいちょう斉藤さいとう老人ろうじんやく、テレビドラマでは2006ねん日本にほんテレビ放送ほうそう『ひめゆりたいおな戦火せんかきた少女しょうじょ記録きろく 最後さいごのナイチンゲール』となった。

葬儀そうぎ植木うえき意思いし身内みうちだけの密葬みっそうとしておこなわれ、クレージーキャッツの一員いちいんだったたにあきら犬塚いぬづかひろし桜井さくらいセンリや、植木うえきびとてコメディアンになった小松こまつ政夫まさお参列さんれつした。臨終りんじゅうさい小松こまつ植木うえき着物きもの着替きがえさせるなど、びととして最後さいご仕事しごとつとめた[注釈ちゅうしゃく 12]本葬ほんそうは、おわかれのかいというかたち4がつ27にち東京とうきょうみなと青山あおやま葬儀そうぎしょで「植木うえきひとしさん ゆめをありがとう さよならのかい」としておこなわれ、2,000にん参列さんれつした。葬儀そうぎ委員いいんちょうたに犬塚いぬづか桜井さくらいの3にん共同きょうどうつとめ、弔辞ちょうじ小松こまつ加藤茶かとうちゃすぎやまこういち松任谷まつとうや由実ゆみもと内閣ないかく総理そうり大臣だいじんもり喜朗よしろうらがげた。また、渡辺わたなべ貞夫さだおがサックスを演奏えんそうし、ミッキー・カーチス内田うちだ裕也ゆうや弔辞ちょうじのち松任谷まつとうやまじえて祭壇さいだんまえで『スーダラぶし』を即興そっきょううたった。にははま美枝みえ伊東いとう四朗しろう水前寺すいぜんじ清子きよこ仲本なかもと工事こうじ大山おおやまのぶ中山なかやま秀征ひでゆき吉田よしだ栄作えいさくケーシー高峰こうほう大竹おおたけまこと大橋おおはし巨泉きょせん清水しみずアキラびとだった島崎しまざき俊郎としおなどが参列さんれつした。

2007ねん5月14にちには母校ぼこう東洋大学とうようだいがく主催しゅさいの「植木うえきひとしさんとおわかれするかい」がおこなわれ、総長そうちょう塩川正十郎しおかわまさじゅうろうはじめとする300めい学校がっこう関係かんけいしゃ参列さんれつして植木うえきしのんだ[13]

植木うえき最後さいご愛車あいしゃであった日産にっさん・シーマFY33がたは、ところジョージ遺族いぞくからゆずけ、「世田谷せたがやベース」にて保管ほかんされている。ところはドラマ『オヨビでないやつ!』では親子おやこやく共演きょうえんするなど親交しんこうふかく、植木うえきのことを「おとうさん」としたっていた。

おもなギャグ[編集へんしゅう]

  • 「おびでない?……おびでない、ね。こりゃまた失礼しつれいいたしました!」(『シャボンだまホリデー』より)
植木うえきは「当時とうじ植木うえきの)びとをしていた小松こまつ政夫まさおばれ、あやまって出番でばん以外いがいのコーナーに登場とうじょうしたさい植木うえきはっしたアドリブもとネタ」と紹介しょうかいしていたが、小松こまつ植木うえき死後しごわたし運転うんてんしゅになるまえからあったギャグだ」「親父おやじさんはそんな間違まちがえをするひとではない。わたしるためにっていたのを自分じぶんしんんでしまったのだろう」[注釈ちゅうしゃく 13]べている。
  • 「なんである?アイデアル」(「アイデアルかさ」のCMで使つかわれたギャグ)
  • 「これでイーヘラ?」(ヴィックスの鼻炎びえんやく「インヘラー」のCMからまれたギャグ。しかしインヘラーは覚醒剤かくせいざい成分せいぶんふくまれていたため後年こうねん日本にっぽんでの販売はんばい中止ちゅうしになった。現在げんざいおな名称めいしょう吸入きゅうにゅうがある)
  • このさいカアちゃんとわかれよう 」(1971ねん大塚おおつか食品しょくひん「ボンシチュー」(ボンカレーのシチューばん)のCMで使つかわれたギャグ。CMのままのフレーズをれた楽曲がっきょくがレコード同名どうめいのドラマまで制作せいさくされた)
  • 「ハイ!それまでヨ」
  • かっちゃいるけど、やめられねぇ」(『スーダラぶし』より)

おも出演しゅつえん[編集へんしゅう]

映画えいが[編集へんしゅう]

テレビドラマ[編集へんしゅう]

バラエティ番組ばんぐみ[編集へんしゅう]

[編集へんしゅう]

CM[編集へんしゅう]

舞台ぶたい[編集へんしゅう]

ほか多数たすう

ディスコグラフィー(ソロ名義めいぎ[編集へんしゅう]

シングル[編集へんしゅう]

  1. だまっておれについて無責任むせきにんかぞうた(1964ねん11月15にち東芝とうしば音楽おんがく工業こうぎょう、TP-1021)ハナはじめとクレージーキャッツ在籍ざいせき時代じだいのソロシングル。
  2. 万葉集まんようしゅう/たそがれ忠治ただはる(1967ねん11月、東芝とうしば音楽おんがく工業こうぎょう、TP-1527)
  3. これで日本にっぽん安心あんしんだ!/スーダラぶし'79(1979ねん4がつ20日はつか東芝とうしばEMI、TP-10569)
  4. ショボクレ人生じんせい/これがおとこきるみち(1982ねん東芝とうしばEMI、T06-1008)
  5. 毎度まいど毎度まいどのおさそいに/毎度まいど毎度まいどのおさそいに(カラオケ)(1983ねん11月21にち[17]東芝とうしばEMI、TP-17564)- 植木うえきひとし&オフィスレディス名義めいぎ作詞さくし伊藤いとうアキラ作曲さっきょくはやしこば大正製薬たいしょうせいやく大正たいしょう漢方かんぽう胃腸いちょうやくCMソング
  6. スーダラ伝説でんせつ(1990ねん11月25にち、ファンハウス、FHDF-1062)このきょくで「ミュージックステーション」や「紅白こうはく歌合戦うたがっせん」に出演しゅつえん。オリコントップ10り。
  7. じゅういち世紀せいき音頭おんど/地球ちきゅう温暖おんだん進行しんこうきょく(1991ねん1がつ1にちファンハウス)「じゅういち世紀せいき音頭おんど」は三波みなみ春夫はるお作曲さっきょく。アルバム『植木うえきとうてき音楽おんがく収録しゅうろくの「しんじゅういち世紀せいき音頭おんど」ではうたでも共演きょうえん
  8. はな小父おじさん/わらえピエロ(1991ねん2がつ25にち、ファンハウス)りょうきょくともオリジナルはクレージー時代じだい録音ろくおん浜口はまぐち庫之助くらのすけ作詞さくし作曲さっきょく。「はな小父おじさん」は植木うえきをイメージしてつくられ、アルバム『ハイおよびです!!』に収録しゅうろく伊東いとうきよとの競作きょうさくもあった。
  9. 少年しょうねんゆめ銀座ぎんざイエスタディ(1991ねん5がつ25にち、ファンハウス)
  10. 今日きょうもやるぞやりぬくぞ/やせがまんぶし無責任むせきにんかぞうたハイカラばん(1991ねん11月25にち、ファンハウス)
  11. はりきりじいさんのロケン・ロール(1995ねん2がつ22にちダブル・オーレコード)- アニメ『ちびまるちゃん』エンディングテーマ、シェブ・ウーリーの『ロックをおど宇宙うちゅうじん』のカバー。
  12. サーフィン伝説でんせつ/FUN×4(1995ねん8がつ21にち、ファンハウス)

アルバム[編集へんしゅう]

  1. 植木うえきとうおおいにうたう(1963ねん2がつ東芝とうしば音楽おんがく工業こうぎょう
  2. ハイおよびです!!(1967ねん5がつ5にち東芝とうしば音楽おんがく工業こうぎょう
  3. おんな世界せかい(1971ねん
  4. スーダラ伝説でんせつ(1990ねん11月25にち、ファンハウス)[18]
  5. 植木うえきひとしザ・コンサート“いろいろあるよ、いろいろね”(1991ねん8がつ25にち、ファンハウス)MCなどもふくむライブ録音ろくおんばん。1991ねん6がつ9にち10日とおかのコンサートより。
  6. スーダラ外伝がいでん(1991ねん11月25にち、ファンハウス)[19]
  7. 植木うえきひとしてき音楽おんがく(1995ねん7がつ15にち、ファンハウス)[20]

ソノシート[編集へんしゅう]

主要しゅよう歌唱かしょうきょく[編集へんしゅう]

  • 1961ねん - スーダラぶし、こりゃシャクだった
  • 1962ねん - ドントぶしまんせつ無責任むせきにんいちだいおとこ、ハイそれまでョ、これがおとこきるみち、ショボクレ人生じんせい
  • 1963ねん - どうしてこんなにもてるんだろう、ホンダラ行進曲こうしんきょく、ギターは恋人こいびと
  • 1964ねん - 馬鹿ばかんでもなおらない、だまっておれについて無責任むせきにんかぞうた
  • 1965ねん - ゴマスリ行進曲こうしんきょくかなしきわがこころ、遺憾いかんぞんじます、だい冒険ぼうけんマーチ
  • 1966ねん - なになんだかわからないのよ、シビレぶし、それはないでショ、わらえピエロ
  • 1967ねん - はなはなでもなんはな余裕よゆうがありゃこそ、万葉集まんようしゅう、たそがれ忠治ただはる
  • 1969ねん - ウンジャラゲアッとおどろ為五郎ためごろうさけのめば
  • 1970ねん - 全国ぜんこく縦断じゅうだんっかけのブルース、おとこぶし
  • 1971ねん - このさいカアちゃんとわかれよう、こんなおんなおれがした
  • 1979ねん - これで日本にっぽん安心あんしんだ!
  • 1986ねん - 実年じつねん行進曲こうしんきょくしんまんせつ
  • 1991ねん - どこまでもそら

NHK紅白こうはく歌合戦うたがっせん出場しゅつじょうれき[編集へんしゅう]

年度ねんど 放送ほうそうかい かい 曲目きょくもく 対戦たいせん相手あいて 備考びこう
1962ねん だい13かい はつ ハイそれまでョ くすのきトシエ 植木うえきひとし はつ出場しゅつじょう
1963ねん だい14かい 2 どうしてこんなにもてるんだろう
ホンダラ行進曲こうしんきょく[注釈ちゅうしゃく 14]
伊東いとうゆかり
えんまり
中尾なかおミエ
植木うえきとう 2かい出場しゅつじょう
1964ねん だい15かい 3 だまっておれについてこい 弘田ひろた三枝子みえこ 植木うえきとう 3かい出場しゅつじょう
1965ねん だい16かい 4 遺憾いかんぞんじます 越路こしじ吹雪ふぶき 植木うえきとう 4かい出場しゅつじょう
1990ねん だい41かい 5 スーダラ伝説でんせつ[注釈ちゅうしゃく 15] B.B.クィーンズ 植木うえきとう 5かい出場しゅつじょう
1966ねん だい17かい はつ チョット一言ひとことおおすぎる 金井かない克子かつこ ハナはじめとクレージーキャッツ はつ出場しゅつじょう
1967ねん だい18かい 2 はなはなでもなんはな 三沢みさわあけみ ハナはじめとクレージーキャッツ 2かい出場しゅつじょう

審査しんさいん

  • 1993ねんだい44かい)に出演しゅつえん。このとし紫綬褒章しじゅほうしょう受章じゅしょう

書籍しょせき[編集へんしゅう]

  • 植木うえきとうでん 「わかっちゃいるけど、やめられない!」(戸井といじゅうがつがインタビューをおこなかたちでまとめられたはつ評伝ひょうでん

えんじた俳優はいゆう[編集へんしゅう]

影響えいきょう[編集へんしゅう]

サザンオールスターズ桑田くわた佳祐けいすけは『シャボンだまホリデー』につよ影響えいきょうけ「自分じぶんあこがれは植木うえきとうです」とデビュー当時とうじから公言こうげんしている[21]2007ねんにはかんコーヒーWONDAアフターショット』(アサヒ飲料いんりょう)のテレビコマーシャルにて『日本一にっぽんいちのゴマすりおとこ』の映像えいぞう合成ごうせいするかたち共演きょうえんたし、「NUMBER WONDA GIRL ~こいするワンダ~」にせて「元気げんきでゆこう」のけをおどった[22]

無責任むせきにんいちだいおとこ』はおおくのひと影響えいきょうあたえており、タモリはこのうた座右ざゆうめいとし、ビートたけしはこのうた人生じんせいかんえられたとべている[23]小林こばやし信彦のぶひこは「(はじめてこのうたいたときの)ショックをわすれることができない」と回想かいそうしている[24]

あしたのジョー』のなかで、主人公しゅじんこう矢吹やぶきたけは「おれ植木うえきとうのファンでね…」とかたっている。げきちゅうでの植木うえきのキャラクターは「無責任むせきにんおとこ」としてえがかれている。

弟子でし[編集へんしゅう]

びとけん運転うんてんしゅからの小松こまつ政夫まさお唯一ゆいいつ弟子でし小松こまつ運転うんてんしゅとして採用さいようされたさい「おとうさんをはやくにくされたそうだが、これからはぼくちちおもえばいい」とこえをかけたことがきっかけのきずな信頼しんらい生涯しょうがいつうじたものだった。

植木うえき夫妻ふさい仲人なこうど経験けいけん小松こまつ結婚式けっこんしきただ1かいである[注釈ちゅうしゃく 16]。その師弟してい関係かんけい小松こまついわ親子おやこ関係かんけいであった[注釈ちゅうしゃく 17]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 実際じっさい生年月日せいねんがっぴ1926ねん大正たいしょう15ねん昭和しょうわ元年がんねん12月25にち詳細しょうさい植木うえきひとし#来歴らいれき参照さんしょう
  2. ^ 植木うえき周囲しゅういには2がつ25にち誕生たんじょうとしていた。小松こまつ政夫まさおちょ昭和しょうわ師弟していあい』P.49など
  3. ^ ぶり・ぶりをまじえてするはなし。また、それをれた落語らくご植木うえき勝手かって設定せっていつくってはなしふくらますのが得意とくいで、これは小松こまつやそのやからであるタモリのトークげいにも反映はんえいしている。
  4. ^ 小松こまつ中尾なかおミエ証言しょうげん
  5. ^ 小松こまつ政夫まさおちょ昭和しょうわ師弟していあい』P49-53。
  6. ^ ドラマ『植木うえきとうとのぼせもん』製作せいさく発表はっぴょう伊東いとう植木うえきおもとしてかたったもの。
  7. ^ 小松こまつ政夫まさおちょ昭和しょうわ師弟していあい』P140。
  8. ^ 歌手かしゅとしての著名ちょめい作品さくひんとしては1971ねん特撮とくさつヒーロー作品さくひんミラーマン』(円谷つぶらやプロ / フジテレビ)の主題歌しゅだいかがある。
  9. ^ 1990ねんしょうさかいいち関根せきねつとむのラジオ番組ばんぐみ『コサキン増刊ぞうかんごう』に植木うえきがゲスト出演しゅつえんしたさい発言はつげん小松こまつ政夫まさおちょ昭和しょうわ師弟していあい」P.168-170にも同様どうよう記載きさいあり。
  10. ^ なお、脚本きゃくほん田波たなみ靖男やすおによると、この「平均へいきん(たいらひとし)」にはモデルがおり、東宝とうほう社員しゃいんでもないのに会議かいぎ参加さんかして発言はつげんするへんおとこで、のちにハイジャックをして逮捕たいほされたという[9]
  11. ^ NHK-BSハイビジョン特集とくしゅう『スーダラ伝説でんせつ 植木うえきとう ゆめつづけたおとこ』における植木うえき証言しょうげんより。
  12. ^ NHK・ラジオビタミン「ときめきインタビュー」での小松こまつ発言はつげん
  13. ^ 小松こまつ政夫まさおちょ昭和しょうわ師弟していあい」P.214など
  14. ^ 『ホンダラ行進曲こうしんきょく』では、クレージーキャッツのメンバーもコーラス参加さんか
  15. ^ 『スーダラぶし』『無責任むせきにんいちだいおとこ』『ドントぶし』『だまっておれについてい』『ハイそれまでョ』のメドレー。
  16. ^ 小松こまつ政夫まさおちょ昭和しょうわ師弟していあい』P106-108。
  17. ^ 2017ねんには小松こまつ著作ちょさくである『のぼせもんやけん』を原作げんさくとする『植木うえきとうとのぼせもん』がテレビドラマされた。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 植木うえきとうショー! クレージーTV大全たいぜん』p.185
  2. ^ 戸井といじゅうがつ植木うえきとうでん「わかっちゃいるけど、やめられない!」』p.19
  3. ^ 植木うえきとうでん「わかっちゃいるけど、やめられない!」』 戸井といじゅうがつ 小学館しょうがくかん
  4. ^ 徹子てつこ部屋へや1994ねん1がつ7にち放送ほうそうぶんより
  5. ^ a b 植木うえきひとしさん死去しきょ肺気腫はいきしゅ10ねん延命えんめいこばむ”. asahi.com. (2007ねん3がつ28にち). オリジナルの2014ねん2がつ24にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://archive.is/3A57T 2014ねん2がつ24にち閲覧えつらん 
  6. ^ 植木うえきひとしさんまぼろし主演しゅえん映画えいが本日ほんじつただいま誕生たんじょう」35ねんぶりにスクリーンに復活ふっかつ! : 映画えいがニュース”. 映画えいが.com. 2021ねん1がつ18にち閲覧えつらん
  7. ^ 株式会社かぶしきがいしゃ 渡辺わたなべプロダクション:グループ会社かいしゃ一覧いちらん渡辺わたなべプロダクショングループ”. www.watanabe-group.com. 2021ねん1がつ18にち閲覧えつらん
  8. ^ 植木うえきとうゆめいつづけたおとこ—おやじてっまこと一代記いちだいき朝日あさひ文庫ぶんこ、1987ねん北畠きたばたけ清泰きよやすとの共著きょうちょ新版しんぱん2008ねん)。初刊しょかん朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1984ねんちくま文庫ぶんこ、2017ねんISBN 4480434992
  9. ^ a b c d 小林こばやし信彦のぶひこ喜劇きげきじん花束はなたばを』新潮しんちょう文庫ぶんこ
  10. ^ 植木うえき裕子ゆうこさん、ちちひとしさんDNAドイツバレエかい開花かいか. ZAKZAK. (2007ねん3がつ29にち). オリジナルの2014ねん2がつ24にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://archive.is/QCbEu 2014ねん2がつ24にち閲覧えつらん 
  11. ^ 柴田しばた浩一こういち. “だい7かい戦後せんごのその:モカンボ・セッション」”. YOKOHAMA JAZZ PROMENADE. 公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん 横浜よこはま芸術げいじゅつ文化ぶんか振興しんこう財団ざいだん. 2019ねん8がつ8にち閲覧えつらん
  12. ^ 毎日新聞まいにちしんぶんのインタビュー記事きじ(1977ねん6がつ)〜産経新聞さんけいしんぶん2007ねん5がつ2にち植木うえきとう伝説でんせつ(4)』より
  13. ^ 植木うえきひとしさんとおわかれするかい(2011ねん1がつ4にち時点じてんアーカイブ) - 東洋大学とうようだいがくニュース 2007ねん6がつ11にち発信はっしん
  14. ^ 植木うえきひとし - オリコンTV出演しゅつえん情報じょうほう
  15. ^ 東京とうきょうガス らしとデザインの40ねん 1955→1994』1996ねん2がつ1にち発行はっこう株式会社かぶしきがいしゃアーバン・コミュニケーションズ。 128ぺーじ~131ぺーじ
  16. ^ 植木うえきひとし - オリコンCM出演しゅつえん情報じょうほう
  17. ^ 「ザ 宴会えんかいソング」『読売新聞よみうりしんぶん』1983ねん12月13にちづけ夕刊ゆうかん、11めん
  18. ^ 植木うえきとう「スーダラ伝説でんせつ」 | ドリーミュージック”. dreamusic.co.jp. 2021ねん12月19にち閲覧えつらん
  19. ^ 植木うえきとう「スーダラ外伝がいでん」 | ドリーミュージック”. dreamusic.co.jp. 2021ねん12月19にち閲覧えつらん
  20. ^ 植木うえきとう植木うえきとうてき音楽おんがく」 | ドリーミュージック”. dreamusic.co.jp. 2021ねん12月19にち閲覧えつらん
  21. ^ 桑田くわた佳祐けいすけ『ただのうたじゃねえかこんなもん』P11 - 12、新潮社しんちょうしゃ、1984ねん
  22. ^ 『ワンダ アフターショット』しんTVCM 桑田くわた 佳祐けいすけ ゆめ共演きょうえん だいだん桑田くわた+植木うえきへんがつ25にち放映ほうえい開始かいしアサヒ飲料いんりょう 2007ねん9がつ21にち配信はいしん 2020ねん10がつ17にち閲覧えつらん
  23. ^ 青島あおしま幸男ゆきお『わかっちゃいるけど…シャボンだまころ文春ぶんしゅん文庫ぶんこ
  24. ^ 小林こばやし信彦のぶひこ日本にっぽん喜劇きげきじん新潮しんちょう文庫ぶんこ

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

  • 小澤おざわ道雄みちお実力じつりょく俳優はいゆうとしてさらなる飛躍ひやくげるきっかけとなった『本日ほんじつただいま誕生たんじょう』の原作げんさくしゃ
  • 穐吉敏子としこ植木うえきどう時代じだいのジャズピアニスト。クレージー参加さんか以前いぜんからの親交しんこうがあった。
  • 小松こまつ政夫まさお最初さいしょ弟子でし。1964ねん1がつから3ねん10かげつあいだ植木うえき運転うんてんしゅけんびとつとめていた。
  • 島崎しまざき俊郎としお:ハナはじめ弟子でし。1973ねん植木うえきクレージーキャッツのびととして芸能げいのうかいとうじた。

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

ウィキニュースに関連かんれん記事きじがあります。訃報ふほう 植木うえきひとし