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とち東大とうだいひろし

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
とちひがし だいひろし
基礎きそ情報じょうほう
四股しこめい とちひがし だいひろし
本名ほんみょう 志賀しが ふとしゆう
愛称あいしょう ダイスケ、トッチー、わざおとこ
生年月日せいねんがっぴ (1976-11-09) 1976ねん11月9にち(47さい
出身しゅっしん 東京とうきょう足立あだち
身長しんちょう 180cm
体重たいじゅう 155kg
BMI 47,84
所属しょぞく部屋へや 玉ノ井たまのい部屋へや
得意とくいわざ し、みぎよっつ、り、上手じょうず
成績せいせき
現在げんざい番付ばんづけ 引退いんたい
最高さいこう ひがし大関おおぜき
生涯しょうがい戦歴せんれき 560しょう317はい169きゅう(75場所ばしょ
幕内まくうち戦歴せんれき 483しょう296はい166きゅう(63場所ばしょ
優勝ゆうしょう 幕内まくうち最高さいこう優勝ゆうしょう3かい
十両じゅうりょう優勝ゆうしょう1かい
幕下まくした優勝ゆうしょう1かい
さんだん優勝ゆうしょう1かい
じょだん優勝ゆうしょう1かい
序ノ口じょのくち優勝ゆうしょう1かい
しょう 殊勲賞しゅくんしょう3かい
敢闘かんとうしょう2かい
技能ぎのうしょう7かい
データ
はつ土俵どひょう 1994ねん11月場所ばしょ
入幕にゅうまく 1996ねん11月場所ばしょ
引退いんたい 2007ねん3がつ場所ばしょ番付ばんづけじょうでは同年どうねん5がつ場所ばしょ
引退いんたい 玉ノ井たまのい部屋へや師匠ししょう
日本にっぽん相撲すもう協会きょうかいふく理事りじ(3
2012ねん2がつ - 2018ねん3がつ
趣味しゅみ ゴルフ
備考びこう
金星かなぼし4あけぼの1個いっこ貴乃花たかのはな2武蔵丸むさしまる1個いっこ
2018ねん3月26にち現在げんざい

とちひがし だいひろし(とちあずま だいすけ、1976ねん昭和しょうわ51ねん11月9にち - )は、東京とうきょう足立あだち出身しゅっしん出生しゅっしょう東京とうきょう墨田すみだ)で玉ノ井たまのい部屋へや所属しょぞくしたもと大相撲おおずもう力士りきし本名ほんみょう志賀しが ふとしゆう(しが だいすけ)。現在げんざい年寄としより・14だい玉ノ井たまのい最高さいこうひがし大関おおぜき現役げんえき時代じだい体格たいかく身長しんちょう180cm、体重たいじゅう155kg。得意とくいしゅは、おっつけハズはたき、いなし、みぎよっつ、り、上手じょうず血液けつえきがたはAがた星座せいざさそり趣味しゅみわかころラジコン大関おおぜき昇進しょうしんゴルフ

来歴らいれき

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26連勝れんしょうかくだん優勝ゆうしょう

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13だい玉ノ井たまのい親方おやかた関脇せきわけとちひがし)の次男じなんとして、東京とうきょう墨田すみだまれる。小学生しょうがくせい時代じだい野球やきゅう水泳すいえい熱中ねっちゅうし、はらたつとく巨人きょじん)からおくられたサインりのグローブ当時とうじ宝物ほうもつであった。小学校しょうがっこう6年生ねんせいとき相撲すもう転向てんこうし、明大めいだい中野なかの中学校ちゅうがっこう進学しんがくして相撲すもう入部にゅうぶした。しかし当初とうしょからだかたく、あしひろげて上半身じょうはんしんゆかにつけるまたりもできず、中学ちゅうがくまでは全国ぜんこくレベルのちからはなかった。[1][2]

ちちには高校こうこう横綱よこづなになることを角界かくかいりの条件じょうけんにされ、明大めいだい中野なかの高校こうこう3年生ねんせいとき見事みごと高校こうこう横綱よこづなかがやき、高校こうこう在学ざいがくちゅう1994ねん平成へいせい6ねん)11月場所ばしょちち師匠ししょう玉ノ井たまのい部屋へや入門にゅうもんして本名ほんみょう志賀しが四股しこめいはつ土俵どひょうんだ。序ノ口じょのくち場所ばしょまえ稽古けいこひだりひざいた1995ねん平成へいせい7ねん)1がつ場所ばしょ前半ぜんはん休場きゅうじょうしたが、8にちの4ばん相撲すもうから出場しゅつじょうしてのこり4ばん全勝ぜんしょうしてこの場所ばしょを4しょう0はい3きゅうとした。まわしをってげる相撲すもう得意とくいだったが「いま相撲すもうではまたけがをする。まわしをらないでおっつける相撲すもうにしないとだめだ」と反省はんせい[1]師匠ししょうからも「まわしにこだわるな」とわれた[3]げでまわ相撲すもうから、わきかためて相撲すもうえた。けがを教訓きょうくんに、母校ぼこう先輩せんぱい3代目だいめ若乃花わかのはな見習みならった。[3][4]そこからかい進撃しんげきはじまり、同年どうねん3がつ場所ばしょ序ノ口じょのくち7せん全勝ぜんしょう優勝ゆうしょう同年どうねん5がつ場所ばしょじょだん7せん全勝ぜんしょう優勝ゆうしょう同年どうねん7がつ場所ばしょさんだん7せん全勝ぜんしょう優勝ゆうしょう幕下まくした昇進しょうしんした同年どうねん9がつ場所ばしょの1ばん相撲すもう白星しろぼしまで26連勝れんしょうかざった[2]

この場所ばしょは3しょう4はいわり入門にゅうもん以来いらいはじめてしたが、同年どうねん11がつ場所ばしょは7せん全勝ぜんしょう優勝ゆうしょう1996ねん平成へいせい8ねん)1がつ場所ばしょでは幕下まくした3まいで5しょう2はい同年どうねん3がつ場所ばしょでは幕下まくした2まいで5しょう2はい好成績こうせいせきをおさめ、同年どうねん5がつ場所ばしょにははつ土俵どひょうからわずか所要しょよう8場所ばしょじゅうりょう昇進しょうしんするとともに、ちち四股しこめいでもあったとちひがし改名かいめいした。十両じゅうりょうでも同年どうねん5がつ場所ばしょ、7がつ場所ばしょは10しょう5はい連続れんぞくけた勝利しょうりげ、同年どうねん9がつ場所ばしょ初日しょにちから10連勝れんしょうなみにのり12しょう3はいじゅうりょう優勝ゆうしょうたし、同年どうねん11がつ場所ばしょにははやくもしん入幕にゅうまくたした。序ノ口じょのくちからじゅうりょうまで全段ぜんだん優勝ゆうしょうをしたのは、史上しじょう3にんであった[2]

入幕にゅうまくはやくから「大関おおぜき候補こうほ」として期待きたいあつめ、しん入幕にゅうまくの11月場所ばしょでは初日しょにちから5連勝れんしょうをするなど10しょう5はい単独たんどく次点じてん)の好成績こうせいせきをおさめて敢闘かんとうしょう受賞じゅしょうした。[注釈ちゅうしゃく 1]よく1997ねん平成へいせい9ねん)5がつ場所ばしょで11しょう4はい好成績こうせいせきげて敢闘かんとうしょう受賞じゅしょう、7がつ場所ばしょにはわずか入幕にゅうまく5場所ばしょしんさんやく(小結こむすび)に昇進しょうしん。2大関おおぜきち9しょう6はいして技能ぎのうしょう獲得かくとく同年どうねん9がつ場所ばしょしん関脇せきわけあけぼのち10しょう5はいけた勝利しょうりげて2場所ばしょ連続れんぞく技能ぎのうしょう(3場所ばしょ連続れんぞくさんしょう受賞じゅしょう)を受賞じゅしょう[2]た。

いなしてから左右さゆうからのおっつけ[3]まえまわいてからのげなど、そのくちはベテラン力士りきしから若手わかてらしく正面しょうめんからぶつかってこないのでやりつらいとわれるほどわざ多彩たさいであった。

大関おおぜきへの挑戦ちょうせん

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しかし、ここからとちひがし苦闘くとうはじまる。ひがし関脇せきわけ番付ばんづけげた1997ねん11月場所ばしょでは右足みぎあし捻挫ねんざで7しょう8はいし、よく1998ねん平成へいせい10ねん)3がつ場所ばしょ右肩みぎかた剥離はくり骨折こっせつのため6にちから途中とちゅう休場きゅうじょうよく5がつ場所ばしょ公傷こうしょう休場きゅうじょう。この剥離はくり骨折こっせつ重症じゅうしょうで、関脇せきわけ復帰ふっきまでやく1ねんはんようすることになった。1999ねん秋場所あきばしょ初日しょにちから2にち連続れんぞく金星きんぼし獲得かくとく殊勲賞しゅくんしょう九州きゅうしゅう場所ばしょも2場所ばしょ連続れんぞく貴乃花たかのはな技能ぎのうしょう2000ねん平成へいせい12ねん)7がつ場所ばしょは5場所ばしょ連続れんぞく関脇せきわけ在位ざいいとなり、2横綱よこづな3大関おおぜきち12しょう3はい優勝ゆうしょう次点じてんという好成績こうせいせきをおさめて5かい技能ぎのうしょう受賞じゅしょうした。ちにった大関おおぜき挑戦ちょうせん場所ばしょとなった同年どうねん9がつ場所ばしょは、右肩みぎかた関節かんせつ脱臼だっきゅうのため6にちから途中とちゅう休場きゅうじょうよく11がつ場所ばしょ公傷こうしょう休場きゅうじょう度重たびかさなる怪我けがいた[2]

公傷こうしょうけの2001ねん平成へいせい13ねん)1がつ場所ばしょは、10しょうげてよく場所ばしょにははやくもさんやく復帰ふっきした。同年どうねん3がつ場所ばしょ小結こむすびで1横綱よこづな3大関おおぜきち9しょう6はいとして3かい殊勲賞しゅくんしょう同年どうねん7がつ場所ばしょ関脇せきわけで1横綱よこづな2大関おおぜきち10しょう5はいと6かい技能ぎのうしょう獲得かくとくした。同年どうねん9がつ場所ばしょは12しょう3はい優勝ゆうしょう次点じてん完全かんぜん復帰ふっきしたが、立合たちあからいきなり変化へんかする注文ちゅうもん相撲すもうが4ばんもあったため、さんしょう候補こうほからははずれてしまった。

しかし、2かい大関おおぜき挑戦ちょうせん場所ばしょとなった同年どうねん11がつ場所ばしょでは、それまでなんかい批判ひはんびてきた立合たちあ変化へんかいちせることなく初日しょにちから7連勝れんしょう後半こうはんせんはい優勝ゆうしょうあらそいからいち後退こうたい、14にち横綱よこづな武蔵丸むさしまるせんあし強打きょうだするアクシデントに見舞みまわれる。それでも翌日よくじつ千秋楽せんしゅうらく大関おおぜき武双山むそうやません勝利しょうりおさめて、12しょう3はい成績せいせき連続れんぞく優勝ゆうしょう次点じてん、7かい技能ぎのうしょうさんしょう受賞じゅしょう12かい)を獲得かくとくする。それとともに、すべ関脇せきわけ地位ちいで3場所ばしょ合計ごうけい34しょうげ、ようやく念願ねんがん大関おおぜき昇進しょうしんめたのであった[2][5]なん怪我けが影響えいきょうがあってなかだい関取せきとりをたせず、入幕にゅうまくから大関おおぜき昇進しょうしんまでは5ねん歳月さいげつようした。本人ほんにんのちに、この場所ばしょには最後さいごだい関取せきとりのつもりでいどんでいたとかえっている[6]大関おおぜき昇進しょうしん伝達でんたつしきでは、口上こうじょうに「努力どりょく精進しょうじん」の文言もんごん使用しようしている[7]

大関おおぜき昇進しょうしん関脇せきわけさい陥落かんらく史上しじょうはつ大関おおぜき特例とくれいさい復帰ふっき

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しん大関おおぜき2002ねん平成へいせい14ねん)1がつ場所ばしょでは初日しょにちから11連勝れんしょうどう場所ばしょ千秋楽せんしゅうらくむすびの一番いちばんまえほんりでは、大関おおぜき千代ちよ大海たいかい勝利しょうりして、13しょう2はい同士どうし優勝ゆうしょう決定けっていせん突入とつにゅう。そして決定けっていせんでも千代ちよ大海たいかいいの変化へんかくだして、自身じしんはつとなる悲願ひがん幕内まくうち最高さいこう優勝ゆうしょう達成たっせい[5]一躍いちやく横綱よこづな候補こうほ」へとおどた。しかし、2002ねん5がつ場所ばしょ13にち魁皇かいおうとの取組とりくみちゅうかた負傷ふしょうすると休場きゅうじょうつづき、2003ねん7がつ場所ばしょでは7しょう8はい皆勤かいきんしをきっするなど1ねん以上いじょうわた不振ふしんおちいるが、2003ねん11月場所ばしょでは13しょう2はい好成績こうせいせき復活ふっかつ優勝ゆうしょう(2かい)。しかしつなりのチャンスをかせず(2002ねん3がつ場所ばしょと2004ねん1がつ場所ばしょつなりにいどむも失敗しっぱい)、その元々もともとたいかたいためもあってかふたた怪我けが多発たはつし、それにより2004ねん平成へいせい16ねん)7がつ場所ばしょ2005ねん平成へいせい17ねん)1がつ場所ばしょに、大関おおぜきから2かい関脇せきわけ陥落かんらくする屈辱くつじょくあじわう[2]。しかし、2かいとも関脇せきわけ地位ちいで10しょう以上いじょう好成績こうせいせきをあげて、かく1場所ばしょ大関おおぜき特例とくれい復帰ふっきたした。なお大関おおぜき陥落かんらくのち大関おおぜきに2かえいた力士りきしとちひがし大相撲おおずもう史上しじょうはじめてで、2021ねんれい3ねん現在げんざいとちひがしただいちにんのみである。なお、大関おおぜき昇進しょうしんころからすでのう梗塞こうそく予兆よちょうである頭痛ずつう時々ときどき発生はっせいしていたが、この時期じき健康けんこう診断しんだんでは異常いじょう指摘してきされず、本人ほんにんも「一時いちじてきなもの」と我慢がまんしていた[5]

わかころから稽古けいこおにであったが、かた筋肉きんにくをつける稽古けいこのしすぎで故障こしょうまねいているため、稽古けいこりょうおさえたらどうかと指摘してきけた。そのためからだやすませながら稽古けいこをするとともに大相撲おおずもうてきしたやわらかい筋肉きんにく肉体にくたい改造かいぞうをしたことがこうそうし、2006ねん平成へいせい18ねん)1がつ場所ばしょでは14しょう1はい好成績こうせいせきで13場所ばしょぶり3度目どめ幕内まくうち最高さいこう優勝ゆうしょうたした[2]。なお、このとちひがし優勝ゆうしょう最後さいご同年どうねん3がつ場所ばしょ以降いこう2016ねん平成へいせい28ねん)の初場所はつばしょにおいてきんすすむきく優勝ゆうしょうするまで日本にっぽん出身しゅっしん力士りきし幕内まくうち最高さいこう優勝ゆうしょうは10年間ねんかんなかった(いわゆる「ウィンブルドン現象げんしょう」とわれる)[注釈ちゅうしゃく 2]

横綱よこづな昇進しょうしん期待きたいされた同年どうねん3がつ場所ばしょでは、序盤じょばんにおける下位かい力士りきしへのりこぼしがたたり優勝ゆうしょうのが横綱よこづな昇進しょうしん見送みおくられた。ただし、終盤しゅうばん大関おおぜき昇進しょうしん確実かくじつ関脇せきわけはくほう優勝ゆうしょうした横綱よこづなあさあおりゅうほんわり土俵どひょうやぶっての12しょう3はいという内容ないよう評価ひょうかされて、よく5がつ場所ばしょ横綱よこづな昇進しょうしん可能かのうせいのこした[2]。3月場所ばしょちゅうあしいためてしまい、5月場所ばしょではさら怪我けが悪化あっかしてひだりひざ半月はんつきばん損傷そんしょうにより7にちから途中とちゅう休場きゅうじょうまれた。あさあおりゅう一人ひとり横綱よこづなになってひさしいこともあり、3だい若乃花わかのはな以来いらい8ねんぶりの日本人にっぽんじん横綱よこづな誕生たんじょうおおくの相撲すもうファンに期待きたいされ、また当時とうじ全盛ぜんせいほこっていたあさあおりゅう唯一ゆいいつまともにわたえる日本人にっぽんじん力士りきしだったため、横綱よこづな審議しんぎ委員いいんかいも「13しょうなら昇進しょうしんさせてもいし、12しょうでも優勝ゆうしょうなら検討けんとうする価値かちはある」とかなりあまめの昇進しょうしん基準きじゅん提示ていじしていたが、それにこたえることはできなかった。

怪我けが多発たはつのう梗塞こうそく引退いんたい

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2006ねん平成へいせい18ねん)7がつ場所ばしょは、つなりから一転いってん自身じしん7度目どめ大関おおぜき角番かどばんとなった。それでも初日しょにちから7連勝れんしょう給金きゅうきん相撲すもうとなった8にち対戦たいせん相手あいておおとり前日ぜんじつ取組とりくみにカメラマンに暴行ぼうこう事件じけんこしたため3日間にちかん出場しゅつじょう停止ていしとなり、幸運こううんにも不戦勝ふせんしょうにより角番かどばんだっした。しかし9にちからは元気げんきがなくなり、さらに11にち横綱よこづなあさあおりゅうとの取組とりくみ土俵どひょうひざ強打きょうだ負傷ふしょうしてしまった。結局けっきょくこの場所ばしょは8連勝れんしょうのち7連敗れんぱいというちん記録きろくのこした。

よく9がつ場所ばしょは、いためたひざ影響えいきょう初日しょにちから3連敗れんぱいしたが、そのなおし9しょう6はいした。つぎの11月場所ばしょでは、9にちまで8しょう1はいあさあおりゅういち番手ばんてとして期待きたいされたが、10日とおか出島でじまとの取組とりくみ古傷ふるきずひざ強打きょうだ、さらに親指おやゆび剥離はくり骨折こっせつして心配しんぱいされたが10しょう5はい同年どうねん3がつ場所ばしょ以来いらいけた勝利しょうり記録きろくした。しかし場所ばしょひざ状態じょうたいおもわしくなく、12月20にち内視鏡ないしきょうもちいたひだりひざのクリーニング手術しゅじゅつ軟骨なんこつ除去じょきょおよ半月はんつきばん一部いちぶ切除せつじょ)をおこなった。

2007ねん平成へいせい19ねん)1がつ場所ばしょは、手術しゅじゅつ2にちには退院たいいんしていち週間しゅうかんには稽古けいこ再開さいかいしたが、ひざ違和感いわかんのこっており十分じゅうぶん稽古けいこめない状態じょうたいと、出場しゅつじょう微妙びみょう状況じょうきょうなか感覚かんかくもどすためと強行きょうこう出場しゅつじょうした。しかしながらひざりがかず、初日しょにちきんすすむきく、2にちおおとりにあっというあいだられた。さらには中日ちゅうにちから4連敗れんぱいするなどからだれもわるく、13にちまった。大関おおぜき地位ちいでの皆勤かいきんしは、2003ねん平成へいせい15ねん)7がつ場所ばしょ以来いらい自身じしん2度目どめであった。最終さいしゅうてきに5しょう10はい幕内まくうちはじめてのけた黒星くろぼしわった。

8度目どめ角番かどばんとなったつぎの3がつ場所ばしょは、場所ばしょまえ「5にちまでに2しょうできなければ、その時点じてん引退いんたいする」という意向いこうあきらかにしてファンを心配しんぱいさせたが、初日しょにちから7連勝れんしょうし10にちして角番かどばん脱出だっしゅつした。しかし、場所ばしょ途中とちゅうから高血圧こうけつあつはげしい頭痛ずつうなやまされ、11にちあさあおりゅうせん結果けっかてきにこれがとちひがし現役げんえき最後さいご一番いちばんとなる)の取組とりくみよく12にちに「高血圧こうけつあつ」(当時とうじ最高さいこう血圧けつあつ数値すうちが200以上いじょうだったという)の診断しんだんしょ提出ていしゅつ途中とちゅう休場きゅうじょう急遽きゅうきょ入院にゅういんした。ちち玉ノ井たまのい親方おやかた会見かいけんで「クモまく出血しゅっけつうたがいもあって心配しんぱいだ」とコメントし、容態ようだい気遣きづかわれた。

この時点じてん診断しんだんでは、過去かこ自然しぜん治癒ちゆしていたのう梗塞こうそくあと発見はっけんされたが、それ以外いがいにはのう異常いじょうられなかった。そこで、血圧けつあつげる投薬とうやく療法りょうほうにより一旦いったん回復かいふくして退院たいいんした。そのとちひがし本人ほんにんいわく「めるなんて一言ひとことっていない」とかたっていたが、3がつ場所ばしょ巡業じゅんぎょう大事だいじをとって土俵入どひょういだけの参加さんかとなった。同年どうねん4がつ26にちにはのうふくめた内臓ないぞうなどの精密せいみつ検査けんさけるためさい入院にゅういんし、同年どうねん5がつ場所ばしょ休場きゅうじょうすることが濃厚のうこうになっていた。そして検査けんさ結果けっか医者いしゃから「このまま相撲すもうつづけたらのう梗塞こうそく再発さいはつさせるどころか、生命せいめい危険きけん最悪さいあくつながる可能かのうせいだいとう宣告せんこくされたため、これ以上いじょう現役げんえき続行ぞっこうするのは不可能ふかのう診断しんだんされた[8]とちひがし最後さいごまで現役げんえきへの意欲いよくせたものの病気びょうきにはてず、同年どうねん5がつ場所ばしょ開催かいさい直前ちょくぜん5月7にち引退いんたい正式せいしき発表はっぴょうした[2][9]当時とうじ前述ぜんじゅつ病気びょうきことがあまりられていなかったこともあり、突然とつぜん引退いんたいおどろ関係かんけいしゃやファンもおおかったという。なお大関おおぜき在位ざいいすうは30場所ばしょ番付ばんづけじょうは31場所ばしょ)、北葉きたばさんならんで当時とうじ史上しじょう11タイ(現在げんざい13タイ)の記録きろくだった。

現役げんえき引退いんたい

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土俵どひょう審判しんぱんつとめる玉ノ井たまのい親方おやかた(2018ねん9がつ9にち撮影さつえい

現役げんえき引退いんたいは、年寄としよりとちひがし襲名しゅうめいして玉ノ井たまのい部屋へや部屋へや親方おやかたとして後進こうしん指導しどうたった(大関おおぜき引退いんたい3年間ねんかん現役げんえき四股しこめいのまま年寄としよりとして協会きょうかい残留ざんりゅうすることができるが、1997ねん平成へいせい9ねん)5がつ制度せいど改正かいせい以来いらい大関おおぜきとしてはじめてその特権とっけん利用りようした)[注釈ちゅうしゃく 3]引退いんたい相撲すもう断髪だんぱつしきは、2008ねん平成へいせい20ねん)2がつ2にち両国りょうこく国技こくぎかんおこなわれた。

とちひがし引退いんたい後程のちほどなくしてのう梗塞こうそく治療ちりょう再発さいはつ防止ぼうし目的もくてきで、食事しょくじ療法りょうほうかる運動うんどう歩行ほこう)などで減量げんりょう敢行かんこうし、現在げんざい体重たいじゅうは90kgだいまでとした。また部屋へや料理りょうりするちゃんこなべ塩分えんぶんやカロリーが高価こうかため現役げんえき力士りきしらと一切いっさいべず、現在げんざい高血圧こうけつあつのう梗塞こうそく予防よぼうするくすり毎日まいにち服用ふくようちゅうとのことである[10]

ちちであり師匠ししょうでもある13だい玉ノ井たまのい親方おやかた2009ねん平成へいせい21ねん9月2にち停年ていねん定年ていねん退職たいしょくとなったため、よく9がつ3にちづけ年寄としより・14だい玉ノ井たまのい襲名しゅうめいするとともに玉ノ井たまのい部屋へや継承けいしょうした。2012ねん平成へいせい24ねん)1がつ、35さいという異例いれいわかさで日本にっぽん相撲すもう協会きょうかいふく理事りじ当選とうせん事業じぎょうふく部長ぶちょう広報こうほうふく部長ぶちょう警備けいび本部ほんぶふく部長ぶちょう歴任れきにんした。2018ねん平成へいせい30ねん)の役員やくいん選挙せんきょには立候補りっこうほしなかったためふく理事りじから委員いいん降格こうかくとなり、4がつ職務しょくむ分掌ぶんしょうでは審判しんぱん委員いいん任命にんめいされた。

2013ねん平成へいせい25ねん)1がつ場所ばしょまえしん弟子でし検査けんさばく本名ほんみょう伊藤いとうばく)の身長しんちょう測定そくてい担当たんとうしており、背伸せのびを敢行かんこうした結果けっかとして普段ふだん160cmしかない身長しんちょうを167cmまでかせいだばくかんして「にならなかった。ゆめをサポートしたいから」とはなしていた。 [11]このれいのように、とちひがし身長しんちょう基準きじゅんたいして柔軟じゅうなん姿勢しせい検査けんさおこな傾向けいこうがある。そのも、2016ねん1がつ場所ばしょまえしん弟子でし検査けんさ実測じっそく161cmのしん弟子でし背伸せのびをすると「大丈夫だいじょうぶだから」と制止せいしし、そのまま「167cm」あつかいとする目溢めこぼしをおこなっていた[12]

2020ねん5がつ時点じてんで28にん所属しょぞく力士りきし部屋へやにおりぜん45部屋へやちゅう3番目ばんめ大所たいしょたいとなっていたなか同年どうねん5がつ場所ばしょ新型しんがたコロナウイルス感染かんせん拡大かくだい中止ちゅうしになったさい師匠ししょうとして「いまなか本当ほんとう大変たいへん時期じき。しっかり基礎きそ運動うんどうをやって、うまくコンディションをつくっていってあげたいです。」とコメント[13]

2021ねん1がつ場所ばしょひがし白龍はくりゅうじゅうりょう昇進しょうしんし、子飼こがいからはつ関取せきとりとなった。

くち

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力士りきしとしてはけっしてめぐまれた体格たいかくぬしではなかったが、多彩たさいわざち、とくあたまげながらわきめて相手あいてげる左右さゆうのおっつけはとちひがし代名詞だいめいしだった。ぜんまわしをいてからの上手じょうずやタイミングのいいなし、まわしをるのも得意とくい。このように技能ぎのう力士りきしとして素質そしつ非常ひじょうたか一方いっぽう立合たちあ変化へんか上位じょうい力士りきしとしてはたか頻度ひんど使用しようすることがあり、ときとして優勝ゆうしょう決定けっていせんなどのだい一番いちばんでも躊躇ちゅうちょせずに変化へんかおこない、それがイメージをわるくさせることもあった。[注釈ちゅうしゃく 4]だい11かい横綱よこづな審議しんぎ委員いいんかい稽古けいこ総見そうけんの『どすこいFM』で「ここだからいますけど、わたし貴乃花たかのはなよりとちひがしほうつよいとおもっていた」ととちひがし評価ひょうかする敷島しきしま[注釈ちゅうしゃく 5]も「稽古けいこじょう自分じぶんかたちてるようにならないと、本番ほんばんでもてませんよ」というとちひがし意見いけんたいして「稽古けいこじょう自分じぶんかたちでやってたなんていますけど、そんなワケないですよ。優勝ゆうしょう決定けっていせん変化へんかするようなひとですよ」と反発はんぱつするなどその策士さくしぶりを表現ひょうげんしたことがある。

横綱よこづなあさあおりゅうに10しょう15はい大関おおぜきはくほうとちひがし引退いんたい直後ちょくご横綱よこづな昇進しょうしん)に5しょう8はい(そのうち2はい不戦敗ふせんぱい)、きんおうしゅうに5しょう6はいやすあらた日馬くさま富士ふじとちひがし引退いんたい横綱よこづな昇進しょうしん)に5しょう1はい外国がいこく人力じんりきにもけをらず、なかでも当時とうじ全盛期ぜんせいきほこっていた横綱よこづなあさあおりゅうにまともにたたかえる唯一ゆいいつ日本人にっぽんじん力士りきしであり、横綱よこづな昇進しょうしんへの期待きたいたかかった。しかしながら、怪我けがおおいことも影響えいきょうして、つなりのチャンスをかせず実現じつげん出来できなかった。たいちょうあおりゅうせんの10しょうわかさとならんで幕内まくうち力士りきしでははくほう(13しょう)、魁皇かいおう(12しょう)にいで3番目ばんめおおい。

略歴りゃくれき

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  • 1976ねん昭和しょうわ51ねん) - もと関脇せきわけとちひがし次男じなんとしてまれる
  • 1994ねん平成へいせい6ねん)11月場所ばしょ - はつ土俵どひょう四股しこめい本名ほんみょう志賀しがふとしゆう
  • 1995ねん平成へいせい7ねん)3がつ場所ばしょ - 7せん全勝ぜんしょう序ノ口じょのくち優勝ゆうしょう
  • 1995ねん5がつ場所ばしょ - 7せん全勝ぜんしょうじょだん優勝ゆうしょう
  • 1995ねん7がつ場所ばしょ - 7せん全勝ぜんしょうさんだん優勝ゆうしょう
  • 1995ねん9がつ場所ばしょ - 幕下まくした昇進しょうしん、3しょう4はいはつ土俵どひょう以来いらいはつ
  • 1995ねん11月場所ばしょ - 7せん全勝ぜんしょう幕下まくした優勝ゆうしょう
  • 1996ねん5がつ場所ばしょ - しんじゅうりょうあらたとち東大とうだいひろし
  • 1996ねん9がつ場所ばしょ - 西にしじゅうりょう3まいで12しょう3はい十両じゅうりょう優勝ゆうしょう
  • 1996ねん11月場所ばしょ - しん入幕にゅうまく、10しょう5はい好成績こうせいせきはつさんしょうである殊勲賞しゅくんしょう受賞じゅしょう
  • 1997ねん平成へいせい9ねん)7がつ場所ばしょ - しん小結こむすび
  • 1997ねん9がつ場所ばしょ - しん関脇せきわけ
  • 1998ねん平成へいせい10ねん)3がつ場所ばしょ - 右肩みぎかた剥離はくり骨折こっせつのため6にちから途中とちゅう休場きゅうじょうよく場所ばしょ公傷こうしょう休場きゅうじょう
  • 2000ねん平成へいせい12ねん)9がつ場所ばしょ - 右肩みぎかた関節かんせつ脱臼だっきゅうのため6にちから途中とちゅう休場きゅうじょうよく場所ばしょ公傷こうしょう休場きゅうじょう
  • 2001ねん平成へいせい13ねん)11月場所ばしょ - 12しょう3はい直近ちょっきん3場所ばしょすべ関脇せきわけ地位ちい合計ごうけい34しょう大関おおぜき昇進しょうしんたす
  • 2002ねん1がつ場所ばしょ - しん大関おおぜき場所ばしょ自身じしんはつ幕内まくうち最高さいこう優勝ゆうしょう羽黒山はぐろさん以来いらい史上しじょう2にん序ノ口じょのくちから幕内まくうちまで全段ぜんだん優勝ゆうしょう)、しん大関おおぜき優勝ゆうしょう清國きよくに以来いらい7にんで、若貴わかたか兄弟きょうだいつづ親子おやこ幕内まくうち最高さいこう優勝ゆうしょうでもある
  • 2002ねん7がつ場所ばしょ - 左上ひだりうえ腕骨わんこつきれはなれ骨折こっせつのため5にちから途中とちゅう休場きゅうじょうよく場所ばしょ公傷こうしょう休場きゅうじょう
  • 2002ねん11月場所ばしょ - はつ角番かどばん
  • 2003ねん平成へいせい15ねん)1がつ場所ばしょ - 左肩ひだりかた関節かんせつ脱臼だっきゅうのため6にちから途中とちゅう休場きゅうじょうよく場所ばしょ公傷こうしょう休場きゅうじょう
  • 2003ねん5がつ場所ばしょ - 2度目どめ角番かどばん
  • 2003ねん7がつ場所ばしょ - 15日間にちかん皆勤かいきんするもし(7しょう8はい
  • 2003ねん9がつ場所ばしょ - 3度目どめ角番かどばん
  • 2003ねん11月場所ばしょ - 2度目どめ幕内まくうち最高さいこう優勝ゆうしょう(13しょう2はい
  • 2004ねん平成へいせい16ねん)3がつ場所ばしょ - 左肩ひだりかた骨折こっせつのため3にちから途中とちゅう休場きゅうじょう
  • 2004ねん5がつ場所ばしょ - 4度目どめ角番かどばん全休ぜんきゅう大関おおぜき陥落かんらく
  • 2004ねん7がつ場所ばしょ - 関脇せきわけ、10しょう大関おおぜき特例とくれい復帰ふっきたす
  • 2004ねん9がつ場所ばしょ - 大関おおぜき復活ふっかつ、3にち旭天鵬きょくてんほうせん幕内まくうちでははつとなるつきひざやぶれたさいみぎひざ半月はんつきばん損傷そんしょうし4にちから途中とちゅう休場きゅうじょう
  • 2004ねん11月場所ばしょ - 5度目どめ角番かどばん左肩ひだりかた骨折こっせつのため6にちから途中とちゅう休場きゅうじょうで2度目どめ大関おおぜき陥落かんらく
  • 2005ねん平成へいせい17ねん)1がつ場所ばしょ - 関脇せきわけ、11しょうげ2度目どめ大関おおぜき特例とくれい復帰ふっきたす。現行げんこう大関おおぜき特例とくれい復帰ふっき制度せいどで、関脇せきわけ陥落かんらく場所ばしょでの11しょう以上いじょうと2度目どめ大関おおぜきさい昇進しょうしんとも史上しじょうはつ
  • 2005ねん3がつ場所ばしょ - 大関おおぜきさい復活ふっかつ
  • 2005ねん11月場所ばしょ - 3にちまさやませんやぶれたさいみぎわきばらいため4にちから途中とちゅう休場きゅうじょう
  • 2006ねん1がつ場所ばしょ - 6度目どめ角番かどばんは14しょう1はい好成績こうせいせきで13場所ばしょぶり3度目どめ幕内まくうち最高さいこう優勝ゆうしょう
  • 2006ねん3がつ場所ばしょ - つな場所ばしょ失敗しっぱいするも12しょうげ、次場すばしょへそのゆめつな
  • 2006ねん5がつ場所ばしょ - 2にちあさあかりゅうせんひだりひざ半月はんつきばん損傷そんしょうし7にちから途中とちゅう休場きゅうじょう
  • 2006ねん7がつ場所ばしょ - 7度目どめ角番かどばん
  • 2007ねん1がつ場所ばしょ - 怪我けがしての出場しゅつじょう。15日間にちかん皆勤かいきんするもし(5しょう10はい
  • 2007ねん3がつ場所ばしょ - 8度目どめ角番かどばん10日とおか角番かどばん脱出だっしゅつするも、12にちからは高血圧こうけつあつにより途中とちゅう休場きゅうじょう
  • 2007ねん5がつ7にち - 5月場所ばしょ直前ちょくぜん現役げんえき引退いんたい正式せいしき発表はっぴょう年寄としよりとちひがし襲名しゅうめい
  • 2009ねん9がつ3にち - 年寄としより:14だい玉ノ井たまのい襲名しゅうめい玉ノ井たまのい部屋へや師匠ししょう継承けいしょう
  • 2012ねん1がつ30にち - 日本にっぽん相撲すもう協会きょうかいふく理事りじ立候補りっこうほし、投票とうひょう当選とうせん
  • 2017ねん5がつ場所ばしょ - スポーツニッポン専属せんぞく評論ひょうろん就任しゅうにん[14]

おも成績せいせき

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記録きろく

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  • 通算つうさん成績せいせき:560しょう317はい169きゅう(75場所ばしょ) 勝率しょうりつ.639
  • 幕内まくうち成績せいせき:483しょう296はい166きゅう(63場所ばしょ) 勝率しょうりつ.620
  • 大関おおぜき成績せいせき:207しょう125はい118きゅう (30場所ばしょ) 勝率しょうりつ.623
  • 大関おおぜき在位ざいい:30場所ばしょ番付ばんづけじょうは31場所ばしょ
  • さんやく在位ざいい:22場所ばしょ関脇せきわけ17場所ばしょ小結こむすび5場所ばしょ
  • 幕内まくうち在位ざいい:63場所ばしょ番付ばんづけじょうは64場所ばしょ
  • 通算つうさん幕内まくうち連続れんぞく記録きろく:9場所ばしょ(2001ねん1がつ場所ばしょ〜2002ねん5がつ場所ばしょ
  • 幕内まくうち2けた連続れんぞく勝利しょうり記録きろく:6場所ばしょ(2001ねん7がつ場所ばしょ〜2002ねん5がつ場所ばしょ
  • 連勝れんしょう記録きろく:26(1995ねん1がつ場所ばしょ8にち〜1995ねん9がつ場所ばしょ2にち序ノ口じょのくち幕下まくした時代じだい
  • かくだん優勝ゆうしょう
    • 幕内まくうち最高さいこう優勝ゆうしょう:3かい(2002ねん1がつ場所ばしょ、2003ねん11月場所ばしょ、2006ねん1がつ場所ばしょ
    • 十両じゅうりょう優勝ゆうしょう:1かい(1996ねん9がつ場所ばしょ
    • 幕下まくした優勝ゆうしょう:1かい(1995ねん11月場所ばしょ
    • さんだん優勝ゆうしょう:1かい(1995ねん7がつ場所ばしょ
    • じょだん優勝ゆうしょう:1かい(1995ねん5がつ場所ばしょ
    • 序ノ口じょのくち優勝ゆうしょう:1かい(1995ねん3がつ場所ばしょ
  • さんしょう:12かい
    • 殊勲賞しゅくんしょう:3かい(1998ねん1がつ場所ばしょ、1999ねん9がつ場所ばしょ、2001ねん3がつ場所ばしょ
    • 敢闘かんとうしょう:2かい(1996ねん11月場所ばしょ、1997ねん5がつ場所ばしょ
    • 技能ぎのうしょう:7かい(1997ねん7がつ場所ばしょ、1997ねん9がつ場所ばしょ、1998ねん11月場所ばしょ、1999ねん11月場所ばしょ、2000ねん7がつ場所ばしょ、2001ねん7がつ場所ばしょ、2001ねん11月場所ばしょ
  • 金星かなぼし:4あけぼの1個いっこ貴乃花たかのはな2武蔵丸むさしまる1個いっこ

場所ばしょべつ成績せいせき

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とち東大とうだいひろし[15]
いちがつ場所ばしょ
初場所はつばしょ東京とうきょう
さんがつ場所ばしょ
春場所はるばしょ大阪おおさか
五月ごがつ場所ばしょ
夏場所なつばしょ東京とうきょう
なながつ場所ばしょ
名古屋なごや場所ばしょ愛知あいち
九月場所くがつばしょ
秋場所あきばしょ東京とうきょう
十一月じゅういちがつ場所ばしょ
九州きゅうしゅう場所ばしょ福岡ふくおか
1994ねん
平成へいせい6ねん
x x x x x ぜん相撲すもう
1995ねん
平成へいせい7ねん
西にし序ノ口じょのくち47まい
4–0–3 
ひがし序ノ口じょのくち3まい
優勝ゆうしょう
7–0
ひがしじょだん20まい
優勝ゆうしょう
7–0
ひがしさんだん32まい
優勝ゆうしょう
7–0
ひがし幕下まくした23まい
3–4 
西にし幕下まくした31まい
優勝ゆうしょう
7–0
1996ねん
平成へいせい8ねん
西にし幕下まくした3まい
5–2 
ひがし幕下まくした2まい
5–2 
ひがしじゅうりょう12まい
10–5 
ひがしじゅうりょう6まい
10–5 
西にしじゅうりょう3まい
優勝ゆうしょう
12–3
西前にしまえあたま15まい
10–5
1997ねん
平成へいせい9ねん
西前にしまえあたま10まい
9–6 
西前にしまえあたま4まい
6–9 
ひがし前頭まえがしら6まい
11–4
西にし小結こむすび2
9–6
わざ
西にし関脇せきわけ
10–5
わざ
ひがし関脇せきわけ
7–8 
1998ねん
平成へいせい10ねん
西にし関脇せきわけ
11–4
こと
ひがし関脇せきわけ
2–4–9[注釈ちゅうしゃく 6] 
西前にしまえあたま5まい
休場きゅうじょう[注釈ちゅうしゃく 7]
0–0–15
西前にしまえあたま5まい
8–7
西前にしまえあたま筆頭ひっとう
8–7 
ひがし前頭まえがしら筆頭ひっとう
10–5
わざ
1999ねん
平成へいせい11ねん
西にし小結こむすび
9–6 
ひがし小結こむすび
8–7 
ひがし小結こむすび
10–5 
ひがし関脇せきわけ2
6–9 
ひがし前頭まえがしら筆頭ひっとう
10–5
こと
西にし関脇せきわけ
10–5
わざ
2000ねん
平成へいせい12ねん
西にし関脇せきわけ
8–7 
西にし関脇せきわけ2
8–7 
西にし関脇せきわけ
9–6 
西にし関脇せきわけ
12–3
わざ
ひがし関脇せきわけ
2–4–9[注釈ちゅうしゃく 8] 
西前にしまえあたま4まい
休場きゅうじょう[注釈ちゅうしゃく 7]
0–0–15
2001ねん
平成へいせい13ねん
西前にしまえあたま4まい
10–5 
ひがし小結こむすび
9–6
こと
西にし関脇せきわけ
9–6 
ひがし関脇せきわけ
10–5
わざ
ひがし関脇せきわけ
12–3 
ひがし関脇せきわけ
12–3
わざ
2002ねん
平成へいせい14ねん
西にし大関おおぜき2
13–2[注釈ちゅうしゃく 9] 
東大とうだいせき1
10–5 
西にし大関おおぜき1
10–5 
東大とうだいせき2
3–2–10[注釈ちゅうしゃく 10] 
西にし大関おおぜき1
休場きゅうじょう[注釈ちゅうしゃく 7]
0–0–15
東大とうだいせき3
8–7[注釈ちゅうしゃく 11] 
2003ねん
平成へいせい15ねん
東大とうだいせき2
0–6–9[注釈ちゅうしゃく 12] 
西にし大関おおぜき1
休場きゅうじょう[注釈ちゅうしゃく 7]
0–0–15
西にし大関おおぜき2
8–7[注釈ちゅうしゃく 11] 
西にし大関おおぜき2
7–8 
西にし大関おおぜき2
10–5[注釈ちゅうしゃく 11] 
西にし大関おおぜき1
13–2 
2004ねん
平成へいせい16ねん
東大とうだいせき1
9–6 
東大とうだいせき2
0–3–12[注釈ちゅうしゃく 13] 
西にし大関おおぜき2
休場きゅうじょう[注釈ちゅうしゃく 11]
0–0–15
西にし関脇せきわけ2
10–5[注釈ちゅうしゃく 14] 
西にし大関おおぜき2
2–2–11[注釈ちゅうしゃく 15][注釈ちゅうしゃく 16] 
西にし大関おおぜき2
3–3–9[注釈ちゅうしゃく 11][注釈ちゅうしゃく 17] 
2005ねん
平成へいせい17ねん
西にし関脇せきわけ2
11–4[注釈ちゅうしゃく 18] 
西にし大関おおぜき2
10–5[注釈ちゅうしゃく 19] 
西にし大関おおぜき1
12–3 
東大とうだいせき1
9–6 
西にし大関おおぜき1
10–5 
東大とうだいせき1
2–2–11[注釈ちゅうしゃく 20] 
2006ねん
平成へいせい18ねん
東大とうだいせき2
14–1[注釈ちゅうしゃく 11] 
東大とうだいせき1
12–3 
東大とうだいせき1
2–5–8[注釈ちゅうしゃく 21] 
西にし大関おおぜき3
8–7[注釈ちゅうしゃく 11] 
西にし大関おおぜき3
9–6 
東大とうだいせき2
10–5 
2007ねん
平成へいせい19ねん
西にし大関おおぜき1
5–10 
西にし大関おおぜき3
8–4–3[注釈ちゅうしゃく 11][注釈ちゅうしゃく 22] 
西にし大関おおぜき2
引退いんたい
––[注釈ちゅうしゃく 23]
x x x
かくらん数字すうじは、「ち-け-休場きゅうじょう」をしめす。    優勝ゆうしょう 引退いんたい 休場きゅうじょう じゅうりょう 幕下まくした
さんしょう=敢闘かんとうしょうこと=殊勲賞しゅくんしょうわざ=技能ぎのうしょう     その=金星かなぼし
番付ばんづけ階級かいきゅう幕内まくうち - じゅうりょう - 幕下まくした - さんだん - じょだん - 序ノ口じょのくち
幕内まくうち序列じょれつ横綱よこづな - 大関おおぜき - 関脇せきわけ - 小結こむすび - 前頭まえがしら(「#数字すうじ」は各位かくいない序列じょれつ


おも力士りきしとの幕内まくうち対戦たいせん成績せいせき

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力士りきしめい かちすう 負数ふすう 力士りきしめい かちすう 負数ふすう 力士りきしめい かちすう 負数ふすう 力士りきしめい かちすう 負数ふすう
あおいいつきさん 2 2 安芸乃島あきのしま 13 6 あけぼの 4 9 あさあおりゅう 10 15
あさあかりゅう 2 1 あさ乃翔 1 1 あさ乃若 1 1 あさひゆたか 4 1
安美やすみにしき 4 3 岩木山いわきやま 9 3 小城おぎにしき 4 1 魁皇かいおう 13(1) 22(1)
うみおおとり 4 0 かき 7 1 春日しゅんじつおう 1 0 いわおゆう 3 0
まれぜいさと 5 0 きた勝鬨かちどき 1 0 旭鷲山きょくしゅうざん 16 5(1) 旭天鵬きょくてんほう 15 10
剣晃けんこう 1 1 五城ごじょうろう 1 0 黒海こっかい 10 2 琴稲妻こといなづま 2 1
きんおうしゅう 5 6 きんすすむきく 3 2 琴錦ことにしき 7 5 きんわか 14 4
琴別府ことべっぷ 1 0 きん光喜みつよし 10 14(1) 琴龍ことりゅう 6 2 小錦こにしき 3 0
敷島しきしま 5 0 しもおおとり 1 1 だいいたり 2 1 大善だいぜん 2 0
だい飛翔ひしょう 2 0 貴闘力たかとうりき 15 4 貴ノ浪たかのなみ 14 16(1) 貴乃花たかのはな 5 16
りゅう乃若 3 4 高見たかみもり 7 3 ごうふう 1 0 たま春日しゅんじつ 9 2
玉乃たまのとう 17 1 千代ちよ大海たいかい 18* 16(1) 千代ちよ天山あまやま 3 1 出島でじま 25 9
寺尾てらお 2(1) 0 たたかえきば 12(1) 1 時津とぎつかい 4 1 どき天空てんくう 3 2(1)
土佐とさうみ 18 16 とち乃洋 21 4 とち乃花 2 0 とち乃和 1 0
はくほう 5 8(2) 白露しらつゆやま 2 0 はましま 2 0 追風おいかぜうみ 4(1) 2(1)
瑠都 1(1) 1 日馬くさま富士ふじ 5 1 肥後ひごうみ 5 2 普天ふてんおう 2 1
ゆたかしょう 1 0 きたかちりょく 5 2 三杉里みすぎさと 1 0 水戸みといずみ 1 0
みなと富士ふじ 0 2 まさやま 19 16(1) 武蔵丸むさしまる 8 16 武双山むそうやま 18 7
ちからさくら 2 1 おおとり 6(1) 2 わかさと 14 10 若乃花わかのはな 4 8
和歌わか乃山 4 1

(カッコないかちすう負数ふすうなかめる不戦勝ふせんしょう不戦敗ふせんぱいかず。)

エピソードなど

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  • 相撲すもうはじめたきっかけは、小学生しょうがくせいのころ、野球やきゅうをやろうか相撲すもうをやろうかまよい、相撲すもうをとったといわれている。野球やきゅう玉ノ井たまのい部屋へやくさ野球やきゅうチームのレギュラー。また、もとプロ野球やきゅう監督かんとく土橋どばし正幸まさゆき星野ほしのせんいちとはおさなころから親交しんこうがあり、星野ほしのからは大関おおぜき昇進しょうしん化粧けしょうまわしがおくられている。
    • 星野ほしの父親ちちおや初代しょだいとちひがし親交しんこうがありなかかったため、自身じしん子供こどもだったころから可愛かわいがってもらっていたらしい。 
  • 本名ほんみょうの「志賀しが」から「とちひがし」に改名かいめいするさい弟子でし最高さいこう幕内まくうちの「富士ふじひがし」の四股しこめい候補こうほひとつにがっていた。
  • 序ノ口じょのくちから幕内まくうちまでのかくだん優勝ゆうしょうしている。これは横綱よこづな羽黒山はぐろさん以来いらい2にんとなる快挙かいきょである。
  • 趣味しゅみラジコンカー。20さいころに、球界きゅうかいきってのラジコンどおりであり、50さいまで現役げんえきのプロ野球やきゅう投手とうしゅつづけたもと中日ちゅうにちドラゴンズ山本やまもとあきらが、プロスポーツとホビーを両立りょうりつさせている姿すがたをTVでて、感銘かんめいけて本格ほんかくてきはじめたとう。玉ノ井たまのい部屋へやでサーキットをってレースをおこなこともある(タミヤニュース2007ねん1がつごう紹介しょうかいされている)。
  • 2000ねん3がつ場所ばしょ5にち横綱よこづな若乃花わかのはなげん実業じつぎょうタレント花田はなたとらじょう)が土俵どひょうじょう最後さいご対戦たいせんした相手あいてとなった。また2人ふたりしくも、おな明大めいだい中野なかの高校こうこう先輩せんぱい後輩こうはいというしたしい間柄あいだがらでもあった。このとちひがしやぶれたのち現役げんえき引退いんたい表明ひょうめいした若乃花わかのはなは「とちひがしつよくなったなあ」とっていたという。またったとちひがしも「これで若乃花わかのはなせき引退いんたいするんだな、とおもっていました。最後さいご対戦たいせん相手あいてになれて、とても光栄こうえいです」とかたっている。
  • だい68だいもと横綱よこづなあさあおりゅうには比較的ひかくてき相性あいしょうく、生涯しょうがい成績せいせきは10しょう15はいだった。最後さいごとちひがし万全ばんぜん状態じょうたいいこともあって5連敗れんぱいわるも、一時期いちじきしていた。あさあおりゅう自身じしんも「もっと苦手にがて相手あいてとちひがし」とかたっている。たいちょうあおりゅうせん10しょうは、はくほう(13しょう)、魁皇かいおう(12しょう)にぐ3番目ばんめぼし。そのうち2ばん得意とくい上手じょうずげであさあおりゅうやぶった。
    • しかしあさあおりゅう度重たびかさなるトラブルに責任せきにんって、2010ねん平成へいせい22ねん)1がつ場所ばしょ2がつ4にち突如とつじょ引退いんたい表明ひょうめい玉ノ井たまのい親方おやかたはこのことかんし「あれだけの横綱よこづなはいない。闘争とうそうしん柔軟じゅうなんからだすごかった。まだまだ出来できことを(1がつ場所ばしょの)優勝ゆうしょう証明しょうめいしたばかりなのに、こんながためてしまうのはとてもくやしいし、さびしい」と無念むねんさをにじませていた。
  • CM出演しゅつえんおおい。CMデビューさく日立ひたちマクセルのDVDメディアのCM。そのなかで、父親ちちおやである先代せんだいとちひがし清國きよくにやぶって優勝ゆうしょうめる一番いちばん映像えいぞうながれた。CMのなかでは、「あのときの親父おやじいま自分じぶん、どっちがつよいのか…」というセリフをはなしていた。また、キリンビバレッジのCMにも出演しゅつえんしていた。さらに最近さいきんでは、福山ふくやま雅治まさはる大関おおぜき千代ちよ大海たいかいとともにサントリーダイエット<せい>のCMにも出演しゅつえんしている。公共こうきょう広告こうこくとして地元じもと沿線えんせんとなる 日暮里にっぽり舎人とねりライナーにも起用きようされている。
  • 松任谷まつとうや由実ゆみとも親交しんこうがあり、2003ねん1がつ場所ばしょでは松任谷まつとうや由実ゆみ化粧廻けしょうまわ(デザインは2003ねん2がつ5にち発売はつばい松任谷まつとうや由実ゆみシングル雪月花せつげっか』をあしらったものデザインの詳細しょうさい)をプレゼントした[16]
    • 出会であいは1998ねん7がつ場所ばしょちゅう松任谷まつとうやはコンサートの合間あいまってこの場所ばしょ観戦かんせんおとずれ、場所ばしょちゅうよる関係かんけいしゃいだったつてで玉ノ井たまのい部屋へやおとずれ、一緒いっしょにちゃんこをべ、スナックでとちひがしがリクエストしたきょく真夏まなつよるゆめ」と「まちぶせ」をカラオケながらけでうたった。それ以来いらい交流こうりゅうがあり、引退いんたいの2008ねん断髪だんぱつしきにもてくれた[16]
  • 2006ねん1がつ23にちあさ公式こうしきブログ開設かいせつした。普天ふてんおうならび、ブログ力士りきしとしても有名ゆうめいであるが、2007ねん3がつ場所ばしょ途中とちゅう休場きゅうじょうしてからは病気びょうき療養りょうようちゅうにより更新こうしん一旦いったん途切とぎれていた。4がつ29にち久々ひさびさとちひがし本人ほんにんによる更新こうしんとなり「『引退いんたい報道ほうどう正直しょうじき困惑こんわくしていますが、今後こんごについては5月7にち発表はっぴょうします」という記載きさいまるも、その5月7にちには「ファンのみなさまへ」とだいし、記者きしゃ会見かいけん先立さきだ引退いんたい発表はっぴょうした。
  • 当時とうじ部屋へや女将おかみで、ふとしゆう母親ははおや志賀しが千夏ちなつは、おっと師匠ししょう玉ノ井たまのい親方おやかた志賀しが駿しゅんおとこ)が2009ねん9がつ定年ていねんむかえるころまで、息子むすこふとゆうには現役げんえきでいてしいとせつねがっていた。それだけに、引退いんたい決意けついした息子むすこたいして「なさけない…」「もうすこ頑張がんばれないの?」とただしたものの、ふとしゆうが「いま相撲すもうよりいのち大事だいじ。もっと長生ながいきさせてくださいよ!」「ぼく結婚けっこんもさせてもらえないんですか?」などといか口調くちょう反論はんろんすると、千夏ちなつなみだながしてそれ以上いじょうなにえなかった、という[17]
    • ちなみに、とちひがし母方ははかた家系かけい高血圧こうけつあつ遺伝いでん要素ようそがあり、それがのう梗塞こうそく発症はっしょうがねのひとつになったとみられることを、2007ねん3がつ場所ばしょちゅう入院にゅういんさい親方おやかたかしている。
  • 断髪だんぱつしき土俵どひょうじょうTUBE前田まえだわたるてるが「きずだらけのhero」を熱唱ねっしょう。その前田まえだとなりいていたとちひがしは、感極かんきわまってなみだながつづけていた。
  • 親方おやかたとしてのメディア“はつ仕事しごと”は、2007ねん5がつ場所ばしょ7にち5がつ20日はつか)のNHKテレビ大相撲おおずもう中継ちゅうけい中入なかい特別とくべつ解説かいせつしゃとして出演しゅつえん。また「サンデースポーツ」でも、みずからの引退いんたいについてかたるとともに、その注目ちゅうもく取組とりくみ丁寧ていねい解説かいせつした。
  • 引退いんたいしたさいにはまだ独身どくしんだったため、“部屋へや継承けいしょう”にさいし“女将おかみさん不在ふざい”の状態じょうたいになるのではと心配しんぱいするこえもあり、両親りょうしん関係かんけいしゃらの尽力じんりょくで2009ねんの1がつ場所ばしょ結婚けっこん不安ふあん解消かいしょうされた。
    • 将来しょうらい部屋へやちの親方おやかたになることを目指めざしている場合ばあいは、大抵たいてい現役げんえきのうちに結婚けっこんし、つまはや段階だんかいから“女将おかみさん”になるべく修行しゅぎょうするのが一般いっぱんてきであるため、つま結婚けっこんそく女将おかみさん(この場合ばあいわか女将おかみであるが)となったとちひがしのケースは非常ひじょうめずらしい。
  • おな大関おおぜきとしてライバルだった魁皇かいおうとは幕内まくうちで35かい対戦たいせんし、とちひがしの13しょう22はいとちひがし魁皇かいおうどもに1つ不戦勝ふせんしょう)。2007ねん5がつ場所ばしょ直前ちょくぜんとちひがし病気びょうきによる現役げんえき断念だんねん魁皇かいおうは「まさかおれよりはや引退いんたいするとはおもわなかった」とショックだったという。それからやく4ねん大関おおぜきつとめた魁皇かいおうだが、2011ねん平成へいせい23ねん)7がつ場所ばしょかぎりで引退いんたいしたことかんし、玉ノ井たまのい親方おやかたは「ここすう場所ばしょ体力たいりょく限界げんかいかんじたが、最後さいご通算つうさん最多さいたしょう記録きろく(1047しょう)をつくったこと偉大いだいだ。ここまでなが現役げんえきつづけたのも素晴すばらしい。気持きもちのやさしい力士りきしだった」とコメントしていた。
  • 2015ねん11月20にち、「昭和しょうわだい横綱よこづな」だったきたうみ理事りじちょうが、同年どうねん11がつ場所ばしょちゅうに62さい急逝きゅうせい同日どうじつよる福岡ふくおか市内しない病院びょういん報道陣ほうどうじん対応たいおうした広報こうほうふく部長ぶちょう担当たんとう当時とうじ)の玉ノ井たまのい親方おやかたが、死因しいんは「直腸ちょくちょうがん臓器ぞうき不全ふぜん」と発表はっぴょう玉ノ井たまのいは「容体ようだい急変きゅうへん昨日きのう11月19にち)も元気げんき公務こうむをこなしていた。いきなりこういうことになって残念ざんねんなんともえない」と言葉ことばまらせ、なみだかべていた[18]
  • よく2016ねん7がつ31にちにも、おなじく「昭和しょうわだい横綱よこづな」の千代ちよ富士ふじこと13だい九重ここのえ親方おやかたが61さい膵臓すいぞうがんによりやまい逝。よく8がつ1にち巡業じゅんぎょうさき福井ふくい市内しない取材しゅざいおうじた巡業じゅんぎょうふく部長ぶちょう担当たんとう玉ノ井たまのい親方おやかたは「ぼくらの子供こどもころからスーパースター。みなあんな筋骨きんこつ隆々りゅうりゅうからだあこがれ、この世界せかいはいってきた。威厳いげんがあるほうちかくでやってこられたこと有難ありがたく、おおきなたからくした」とはなし、九重ここのえ親方おやかたいたんだ[19]
  • 2017ねん1がつ場所ばしょ悲願ひがん幕内まくうちはつ優勝ゆうしょうたし、どう場所ばしょだい72だい横綱よこづなとなったまれぜいさとだったが、しん横綱よこづな同年どうねん3がつ場所ばしょ連続れんぞく2度目どめ幕内まくうち優勝ゆうしょう達成たっせいも、13にち横綱よこづな日馬くさま富士ふじせん左上ひだりうえうでだいむねすじ部分ぶぶんだんきれだい怪我けが見舞みまわれる。その相次あいつ負傷ふしょう途中とちゅう休場きゅうじょう5かい全休ぜんきゅう4かい成績せいせき不振ふしんつづき、まれぜいさとは2019ねん1がつ場所ばしょ初日しょにちから3連敗れんぱいぜっ不調ふちょうとう場所ばしょ4にち現役げんえき引退いんたい。それにかんして玉ノ井たまのい親方おやかたは、横綱よこづなまれぜいさとたいして「仕方しかたがない。おおきな故障こしょうもあったなかで、出来できることをさい優先ゆうせんにやってきた。いというより、やりったという気持きもちではないか。よくやったとおもう」とねぎらっていた[20]
  • とちひがしはつ優勝ゆうしょうした2002ねん1がつ場所ばしょ以降いこう日本にっぽん国籍こくせき力士りきし同士どうし優勝ゆうしょう決定けっていせんは2012ねん5がつ場所ばしょ旭天鵬きょくてんほう(2004ねん帰化きか)-とち煌山まで、日本にっぽん出身しゅっしん力士りきし同士どうし優勝ゆうしょう決定けっていせんは2019ねん9がつ場所ばしょ御嶽みたけかい-景勝けいしょうまで実現じつげんしなかった。
  • 2001ねん7がつ場所ばしょあさあおりゅうとの対戦たいせんでサンドバックのようにかおられまくり、2ほんばされたうえしでけたことがある。そのようなことがあったため2001ねん11月場所ばしょは、そのとし誕生たんじょうつくってもらった「特注とくちゅう」のマウスピースを使用しようして場所ばしょいどんだほど(それまではマウスピースが微妙びみょうわなかった)。そして2002ねん1がつ場所ばしょあさあおりゅうとの対戦たいせんまたかおられまくりとちひがしはなからの流血りゅうけつひど行司ぎょうじ勝負しょうぶめたほどだが、再開さいかい今度こんどとちひがし上手じょうずげでった。名古屋なごや場所ばしょからの因縁いんねんにリベンジで決着けっちゃくをつけた。
  • 武双山むそうやま相性あいしょうく18しょう7はいだった。
  • 魁皇かいおうとは、2000ねん1がつ場所ばしょから2002ねん5がつ場所ばしょまで13連敗れんぱいしていた時期じきがある。それ以前いぜんは7しょう3はいだったが7しょう16はいに、2003ねん5がつ場所ばしょでストップさせてからは6しょう6はい(通算つうさん13しょう22はい)。
  • 武蔵丸むさしまるとは1999ねん7がつ場所ばしょまで12かい対戦たいせんし1しょう11はい相性あいしょうわるかったが、その7しょう5はい克服こくふくしていった(通算つうさん8しょう16はい)。
  • 2024ねん2がつもときばまる玉ノ井たまのい部屋へやあさ稽古けいこ取材しゅざいした動画どうがをYouTubeに公開こうかいしている。きばまるは「おしかた上手うまい」と師匠ししょうとしての14だい玉ノ井たまのいひょうしており「もとサッカー選手せんしゅみたい」と減量げんりょう成功せいこうぶりに感心かんしんしている。また、部屋へや弟子でし1人ひとりである16さいしん弟子でしができない16kgのダンベルカールを引退いんたいしてひさしいでありながらこなすなど、現役げんえき時代じだいつちかったパワーの片鱗へんりんせている。「基本きほん四股しこ鉄砲てっぽう」「こっち(ウエイトトレーニング)は2わり」というのが14だい玉ノ井たまのい指導しどう方針ほうしんで、もときばまるも「親方おやかたとおりテッポウと四股しこほどちから稽古けいこはない」「(ぼくは)ダンベルの重量じゅうりょうはスゴくがったけど、相撲すもうには(そのちからは)使つかえなかった」と自身じしん実感じっかんまじえて共感きょうかんしめした[21]
    • 同年どうねん3がつにはそのあさ稽古けいこのちゃんこちゅうもときばまるちちの13だい玉ノ井たまのい初代しょだいとちひがし鼎談ていだんした。「いま稽古けいこはどうですか?」ときばまるかれたさいには「半分はんぶんぐらいかな」とひょうしている。13だい玉ノ井たまのいは「我々われわれ時代じだいはやっぱり四股しこ」「スポーツジムなんてかった」と証言しょうげんしており、「さんだんころ(大鵬たいほうさんの)からださわりたくて」と当時とうじ巡業じゅんぎょうむねしてくれた大鵬たいほうへのあこがれをかえった。また13だいと14だい玉ノ井たまのいは「むかし巡業じゅんぎょう稽古けいこ中心ちゅうしんだった」という趣旨しゅしはなしをしている。きばまるは「いまの(稽古けいこは)自分じぶんからだ1人ひとり1にんかんがえてやってる」「ぎゃくにケガはそっちのほうる」と持論じろん展開てんかいしている[22]

改名かいめいれき

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  • 志賀しが ふとしゆう(しが だいすけ)1994ねん11月場所ばしょ - 1996ねん3がつ場所ばしょ
  • とちひがし だいひろし(とちあずま だいすけ)1996ねん5がつ場所ばしょ - 2007ねん5がつ場所ばしょ

年寄としより変遷へんせん

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  • とちひがし だいひろし(とちあずま だいすけ)2007ねん5がつ - 2009ねん9がつ
  • 玉ノ井たまのい ふとしゆう(たまのい だいすけ) 2009ねん9がつ -

メディア出演しゅつえん

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映画えいが

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  • テレビスポーツ教室きょうしつ相撲すもう土俵どひょうきわめろ!小学生しょうがくせいからはじめる相撲すもう〜」(NHK Eテレ、2014ねん10がつ5にち) - 講師こうし
  • ブラタモリ江戸えどさか両国りょうこく両国りょうこく国技こくぎかん〜」(NHK 2012ねん1がつ5にち) - 案内あんないやく
  • みんおうテレビ朝日てれびあさひ 2015ねんだい2 - 本人ほんにんやく

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ちなみにこの場所ばしょ最高さいこう成績せいせきは11しょうどまりであり、優勝ゆうしょうしゃである武蔵丸むさしまるくわえて同点どうてんしゃあけぼの若乃花わかのはな貴ノ浪たかのなみ魁皇かいおうの5にん該当がいとうする。また、この場所ばしょでもう1つほし上積うわづみすれば初代しょだいとちひがしそろって親子おやこで11しょう4はい優勝ゆうしょう経験けいけんというきわめてめずらしい記録きろく達成たっせいする可能かのうせいまれた。
  2. ^ ただしモンゴル出身しゅっしん旭天鵬きょくてんほうは2004ねん日本にっぽん国籍こくせき取得しゅとくし、2012ねん5がつ場所ばしょ日本にっぽん国籍こくせき保持ほじした状態じょうたい優勝ゆうしょうしている
  3. ^ それからやく7ねんの2014ねん3がつ場所ばしょちゅうきんおうしま勝紀かつのり引退いんたいして「大関おおぜき3ねん」を行使こうしした。そもそも「大関おおぜき3ねん自体じたい先代せんだい境川さかいがわ改革かいかくによってかぶ年寄としより名跡みょうせき複数ふくすう所有しょゆう禁止きんしとなったわりにもうけられた救済きゅうさい措置そちであって、現在げんざいでもかぶ出来できるだけけるというてんから近親きんしんしゃでもある年寄としよりとちひがし場合ばあい先代せんだい玉ノ井たまのい)が3ねん以内いない停年ていねんむかえる、引退いんたい名跡みょうせきが10いえある(きんおうしゅう場合ばあい)、など余程よほど確度かくどたか取得しゅとく見込みこみがかぎ理事りじかい承認しょうにんされることはない。
  4. ^ ひがし関脇せきわけむかえた2001ねん9がつ場所ばしょには12しょうげながらもこの場所ばしょ変化へんかおおかったことでさんしょう対象たいしょうからはずされた。
  5. ^ ちなみに敷島しきしまとちひがしと5かい対戦たいせんして全敗ぜんぱい
  6. ^ 右肩みぎかた関節かんせつ後方こうほう脱臼だっきゅうともなかた関節かんせつ剥離はくり骨折こっせつにより6にちから途中とちゅう休場きゅうじょう
  7. ^ a b c d 公傷こうしょう全休ぜんきゅう
  8. ^ 右肩みぎかたくさり関節かんせつ脱臼だっきゅうにより6にちから途中とちゅう休場きゅうじょう
  9. ^ 千代ちよ大海たいかい優勝ゆうしょう決定けっていせん
  10. ^ 左上ひだりうえ腕骨わんこつしょう結節けっせつきれはなれ骨折こっせつ左肩ひだりかたかぶとすじ停止ていし損傷そんしょうにより5にちから途中とちゅう休場きゅうじょう
  11. ^ a b c d e f g h 大関おおぜき角番かどばんぜん8かい
  12. ^ 左肩ひだりかた関節かんせつ脱臼だっきゅうにより6にちから途中とちゅう休場きゅうじょう
  13. ^ 左肩ひだりかたかたほう骨折こっせつにより3にちから途中とちゅう休場きゅうじょう
  14. ^ 関脇せきわけ陥落かんらく
  15. ^ 大関おおぜき特例とくれい復帰ふっき
  16. ^ みぎひざ内側うちがわがわふく靱帯じんたいおよみぎひざ半月はんつきばん損傷そんしょうにより4にちから途中とちゅう休場きゅうじょう
  17. ^ 左肩ひだりかたかぶとこつ骨折こっせつにより6にちから途中とちゅう休場きゅうじょう
  18. ^ 関脇せきわけさい陥落かんらく
  19. ^ 大関おおぜき特例とくれいさい復帰ふっき
  20. ^ 右前みぎまえのこすじ挫傷ざしょうにより4にちから途中とちゅう休場きゅうじょう
  21. ^ ひだりひざ半月はんつきばん損傷そんしょうひだりひざPCL損傷そんしょうにより7にちから途中とちゅう休場きゅうじょう
  22. ^ 高血圧こうけつあつにより12にちから途中とちゅう休場きゅうじょう
  23. ^ 5月場所ばしょ直前ちょくぜん引退いんたい表明ひょうめい

出典しゅってん

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  2. ^ a b c d e f g h i j 北辰ほくしんどう出版しゅっぱん昭和しょうわ平成へいせい 大相撲おおずもうめい力士りきし100列伝れつでん』(塩澤しおざわみのるしんじ、2015ねん)180ページから181ページ
  3. ^ a b c ベースボールマガジンしゃ大相撲おおずもう名門めいもん列伝れつでんシリーズ(1) 出羽海でわのうみ部屋へや春日野かすがの部屋へや 』(2017ねん、B・B・MOOK)
  4. ^ もと大関おおぜきとちひがし 玉ノ井たまのいふとしゆうさん]のう梗塞こうそく(2)「べるのも稽古けいこ」と大食たいしょく高血圧こうけつあつ要因よういん YOMIURI ONLINE yomiDr. 2016ねん7がつ6にち
  5. ^ a b c もと大関おおぜきとちひがし 玉ノ井たまのいふとしゆうさん]のう梗塞こうそく(3)精神せいしんてき重圧じゅうあつ頭痛ずつうにも YOMIURI ONLINE yomiDr. 2016ねん7がつ13にち
  6. ^ もととちひがし玉ノ井たまのい親方おやかたしんもっと大事だいじ自信じしんついた出稽古でげいこでの切磋琢磨せっさたくま歴代れきだい大関おおぜきかた昇進しょうしん場所ばしょ 日刊にっかんスポーツ 2023ねん7がつ1にち818ふん (2023ねん7がつ1にち閲覧えつらん)
  7. ^ 日刊にっかんスポーツ 2017ねん6がつ1にち
  8. ^ もと大関おおぜきとちひがし 玉ノ井たまのいふとしゆうさん]のう梗塞こうそく(4)医師いし宣告せんこく引退いんたい決意けついYOMIURI ONLINE yomiDr. 2016ねん7がつ20日はつか
  9. ^ 公式こうしきブログでの発表はっぴょう
  10. ^ もと大関おおぜきとちひがし 玉ノ井たまのいふとしゆうさん]のう梗塞こうそく(5)食事しょくじ運動うんどう注意ちゅうい減量げんりょうYOMIURI ONLINE yomiDr. 2016ねん7がつ27にち
  11. ^ 背伸せの上等じょうとう!1メートル60「ばく」“って”合格ごうかく 2012ねん12月27にち 06:00 Sponichi Annex
  12. ^ 自称じしょう161センチ山名やまな身長しんちょう検査けんさ懸命けんめい背伸せのび、パス 日刊にっかんスポーツ 2016ねん1がつ7にち844ふん 紙面しめんから (2023ねん3がつ22にち閲覧えつらん)
  13. ^ ほのおおおとり夏場所なつばしょ中止ちゅうし仕方しかたがない」7がつ気持きも SANSPO.COM 2020.5.4 19:41(2020ねん5がつ25にち閲覧えつらん)
  14. ^ もと大関おおぜきとちひがし玉ノ井たまのい親方おやかた夏場所なつばしょうらなう まれぜい本場所ほんばしょまでの2週間しゅうかんかぎ”. スポニチAnnex(2017ねん5がつ2にち). 2019ねん2がつ20日はつか閲覧えつらん
  15. ^ Rikishi in Juryo and Makunouchi” (English). szumo.hu. 2008ねん5がつ22にち閲覧えつらん
  16. ^ a b もと大関おおぜきとちひがし玉ノ井たまのい親方おやかたわすれない「真夏まなつよるゆめ」 松任谷まつとうや由実ゆみがカラオケでうたったあのよる 日刊にっかんスポーツ 2023ねん2がつ11にち630ふん (2023ねん2がつ11にち閲覧えつらん)
  17. ^ 月刊げっかん相撲すもう平成へいせい23ねん9がつごう掲載けいさい
  18. ^ きたうみ理事りじちょう急死きゅうし 20にちあさ入院にゅういん夕方ゆうがた容体ようだい急変きゅうへんスポニチ 2015ねん11月21にち記事きじ
  19. ^ もと横綱よこづなせんだい富士ふじ死去しきょ玉ノ井たまのい親方おやかたおおきなたからくした」産経さんけいニュース 2016ねん8がつ1にち記事きじ
  20. ^ 八角はっかく理事りじちょう「これだけ応援おうえんされた横綱よこづなはいない」まれぜいさと引退いんたいでコメント/初場所はつばしょ産経さんけいニュース 2019ねん1がつ16にち記事きじ
  21. ^ げきつまみ玉ノ井たまのい部屋へやあさ稽古けいこ/Sumo Documentary/もととちひがしもと玉ノ井たまのい親方おやかた)にせま ガガちゃんねる【GAGA CHANNEL】 2024/02/28 (2024ねん3がつ12にち閲覧えつらん)
  22. ^ 【レジェンド降臨こうりん玉ノ井たまのい部屋へやのガチちゃんこ/とちひがしおそれた力士りきし稽古けいこ真髄しんずいかた ガガちゃんねる【GAGA CHANNEL】 2024/03/06 (2024ねん3がつ12にち閲覧えつらん)

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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