かがみさと喜代治きよじ

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かがみさと 喜代治きよじ
1955ねん9がつ場所ばしょ優勝ゆうしょうし、賜杯しはいかがみさと
基礎きそ情報じょうほう
四股しこめい かがみさと 喜代治きよじ
本名ほんみょう 奥山おくやま 喜代治きよじ
愛称あいしょう ダルマさん
生年月日せいねんがっぴ 1923ねん4がつ30にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (2004-02-29) 2004ねん2がつ29にち(80さいぼつ
出身しゅっしん 青森あおもりけん三戸さんのへぐん川村かわむら
げん三戸さんのへまち
身長しんちょう 176cm
体重たいじゅう 165kg
BMI 53.26
所属しょぞく部屋へや 粂川くめかわ部屋へや双葉ふたばさん相撲すもう道場どうじょう
時津風ときつかぜ部屋へや
得意とくいわざ みぎよっつ、り、上手じょうず
成績せいせき
現在げんざい番付ばんづけ 引退いんたい
最高さいこう だい42だい横綱よこづな
生涯しょうがい戦歴せんれき 415しょう189はい28きゅう(50場所ばしょ
幕内まくうち戦歴せんれき 360しょう163はい28きゅう(38場所ばしょ
優勝ゆうしょう 幕内まくうち最高さいこう優勝ゆうしょう4かい
さんだん優勝ゆうしょう1かい
じょだん優勝ゆうしょう1かい
しょう 殊勲賞しゅくんしょう1かい敢闘かんとうしょう1かい
データ
はつ土俵どひょう 1941ねん1がつ場所ばしょ[1]
入幕にゅうまく 1947ねん6がつ場所ばしょ[1]
引退いんたい 1958ねん1がつ場所ばしょ[1]
備考びこう
金星きんぼし2ぜん田山たやま英五郎えいごろう1個いっこひがし富士ふじ欽壹1個いっこ
2015ねん9がつ2にち現在げんざい

かがみさと 喜代治きよじ(かがみさと きよじ、1923ねん4がつ30にち - 2004ねん2がつ29にち)は、青森あおもりけん三戸さんのへぐん川村かわむらげん三戸さんのへまち出身しゅっしん時津風ときつかぜ部屋へや入門にゅうもん粂川くめかわ部屋へや)に所属しょぞくした大相撲おおずもう力士りきしだい42だい横綱よこづな本名ほんみょう奥山おくやま 喜世きよ(おくやま きよじ)[1]

来歴らいれき[編集へんしゅう]

入門にゅうもんまえ[編集へんしゅう]

1923ねん青森あおもりけん三戸さんのへぐん川村かわむらげん三戸さんのへまち)で農家のうかいとな家庭かてい三男さんなんとしてまれる。出生しゅっしょう体重たいじゅうが8000gにもなる大変たいへん怪童かいどうで、地元じもとではすぐに評判ひょうばんとなった[2]はやくに父親ちちおやくしてからは母親ははおや家業かぎょう手伝てつだっていたが、評判ひょうばんいた同郷どうきょうもと大関おおぜきである粂川くめかわから熱心ねっしん勧誘かんゆうされ入門にゅうもん1941ねん1がつ場所ばしょ粂川くめかわ部屋へやからはつ土俵どひょうんだ。かがみさと四股しこめい粂川くめかわ現役げんえきめい鏡岩かがみいわ」に由来ゆらいする。入門にゅうもんまえには粂川くめかわ使つかいが「東京とうきょう見物けんぶつへ」と旅費りょひ30えん現在げんざいの10まんえん相当そうとう)を強引ごういんわたしたため、それを返済へんさいしにははとも部屋へやかうとおおいによろこんだ粂川くめかわ熱心ねっしん説得せっとく母子ぼしへの丁重ていちょうなもてなしがっており、これが入門にゅうもんとなった。故郷こきょうには大相撲おおずもうすすんだものの中途半端ちゅうとはんぱでやめてかえって、それで正業せいぎょうかず田舎いなか相撲すもうってらしていた人物じんぶつおおく、それをたりにしていた両親りょうしん親戚しんせきがいたため、もし奥山おくやま相撲すもうってもそのような末路まつろをたどるのではないかと親族しんぞくから反対はんたいされていた。入門にゅうもんさい家族かぞくからは「いや、喜代治きよじ相撲すもうになって、三日みっか我慢がまんできるか」などといわれたが、中途半端ちゅうとはんぱなままめてかえってくると家族かぞくなどに顔向かおむけできないため必死ひっし相撲すもうはげもうと決意けついした[3]

応召おうしょう打倒だとうひがし富士ふじ[編集へんしゅう]

しん弟子でし検査けんささい不動ふどうがん東海とうかい体格たいかくて、「これはとても駄目だめだ」と自信じしんうしなった[3]しん弟子でし時代じだい部屋へや弟子でしすうが25、26にん程度ていどであったが、かがみさと入門にゅうもん当時とうじ粂川くめかわ部屋へやは「南部なんぶ部屋へや」とわれるほど粂川くめかわ親方おやかたかがみさと同郷どうきょうである南部なんぶ地方ちほう出身しゅっしんおおかったため、兄弟子あにでしたちに可愛かわいがられ心強こころづよかったという[4]

1942ねん双葉ふたばさん相撲すもう道場どうじょう発足ほっそくしたさいに、粂川くめかわかがみさとふく弟子でし全員ぜんいん双葉ふたばさんゆずったために粂川くめかわ部屋へやから双葉ふたばさん相撲すもう道場どうじょう移籍いせきした。1943ねん昭和しょうわ18ねん)5がつには、あらしお部屋へや甲山こうざん部屋へやじゅうやま部屋へや双葉ふたばさん相撲すもう道場どうじょう糾合きゅうごうされたので[5]一遍いっぺん弟子でしが50にん程度ていどになった。移籍いせき直後ちょくご1944ねん9月に応召おうしょうされて弘前ひろさきだい69連隊れんたい入隊にゅうたいしたが、当時とうじ風潮ふうちょうがあったにせよ、かがみさとにとって戦地せんち殉死じゅんしして靖国神社やすくにじんじゃまつられるのはあこがれであったという[3]。あるばれて双葉ふたばさん - ひがし富士ふじ欽壹せん実況じっきょう放送ほうそうかせてくれたが、この取組とりくみ師匠ししょうとなった双葉ふたばさんやぶれたのをいて、なみだながしながら「打倒だとうひがし冨士ふじ」をちかった[2]終戦しゅうせん敗戦はいせん影響えいきょう相撲すもう人気にんき低迷ていめいし、角界かくかい存続そんぞくあやぶまれた状況じょうきょうであったので、いちは30にん程度ていどにまで部屋へや力士りきしかずっていた。1947ねん弟弟子おとうとでしそうりゅう入門にゅうもんした当初とうしょは40にんはいなかったという[6]。1956ねんにはすでぼっしていたはちきょうという力士りきしとはおもがあり、あるとき稽古けいこしてやるからい」とわれて土俵どひょうがったら最初さいしょけてくれたが、いい気持きもちで稽古けいこをしているとだんだんとはちきょう本気ほんきになり、そのつよさにかがみさといやになってしまったという。うみしゅうやまというさんだん力士りきしかがみさと角界かくかいりしてはじめて稽古けいこ相手あいてをしてくれた相手あいてであり、しん弟子でし時代じだいにはたなかったとかえりつつも、1956ねん時点じてんではいまだにさんだんとどまっていながら「自分じぶんさんだんじゅうすうねんっているのだぞ」と自慢じまんしているうみしゅうやまはなしわらいながらしていた[3]びととしては12だい時津風ときつかぜ担当たんとうしたが、関取せきとりになると大内山おおうちやまびとにした[3]部屋へや力士りきしおお時期じきには人数にんずうてきにもさんばん稽古けいこおこな余裕よゆうはなかったため、形式けいしきさるいでわかしゅ稽古けいこんでいた[3]入門にゅうもんしたばかりはとにかくすように指導しどうされた[7]

大関おおぜき昇進しょうしん[編集へんしゅう]

1949ねん10がつ場所ばしょ前頭まえがしら筆頭ひっとうまで番付ばんづけげ、ひがし富士ふじ欽壹から金星かなぼしげておんかえ[2]。この場所ばしょは12しょう3はい好成績こうせいせきで、さんしょう制定せいていはつ複数ふくすう受賞じゅしょう殊勲賞しゅくんしょう敢闘かんとうしょう)で1950ねん1がつ場所ばしょから関脇せきわけ昇進しょうしん[2]。1950ねん5がつ場所ばしょからよく1951ねん1がつ場所ばしょけて9しょう、8しょう、11しょうという成績せいせきげ、大関おおぜき昇進しょうしんした。1950年代ねんだいから1970年代ねんだいにかけていちおう目安めやすとして「直前ちょくぜん3場所ばしょ合計ごうけい30しょう前後ぜんこう」という昇進しょうしん基準きじゅん存在そんざいしていた[8]が、そのなかでも3場所ばしょ合計ごうけい28しょうという成績せいせきでの昇進しょうしん非常ひじょう幸運こううんなケースとえる。

横綱よこづな昇進しょうしん[編集へんしゅう]

1953ねん初場所はつばしょ優勝ゆうしょうし、時津風ときつかぜひだり)にいわいざけわれるかがみさと(1953ねん1がつ26にち

1953ねん1がつ場所ばしょを14しょう1はいはつ優勝ゆうしょうたしたことで場所ばしょ理事りじかいおよび番付ばんづけ編成へんせい会議かいぎ横綱よこづな推薦すいせんまったが、このとき横綱よこづな審議しんぎ委員いいんかい開催かいさいされなかったために横綱よこづな昇進しょうしんはいったんしとなった[9][10]理事りじかい直後ちょくご協会きょうかい役員やくいん横審よこしん委員いいん個別こべつ訪問ほうもんして意向いこううかがったが、ぜん委員いいんが「個人こじんてき賛否さんぴはいえない。審議しんぎかいひらいたうえで回答かいとうしたい」[9]こたえたため、「相撲すもうはじまって以来いらい不手際ふてぎわ[9]審議しんぎかいをナメた」[11]協会きょうかい批判ひはんされた。理事りじかいから2にち開催かいさいされた緊急きんきゅう横審よこしんでは時期じき尚早しょうそうろん賛否さんぴかれたが、大関おおぜきとしての成績せいせき横綱よこづなとしての将来しょうらいせい評価ひょうかし、結果けっかとしては横審よこしんかがみさと横綱よこづな昇進しょうしんみとめた[12]

番付ばんづけじょうかがみさと昇進しょうしんすると5横綱よこづなという非常ひじょうにバランスのわる状態じょうたいとなることを察知さっちした照國てるくに萬藏まんぞうが1がつ場所ばしょ14にち引退いんたい表明ひょうめいした[2]が、羽黒山はぐろさん政司せいじひがし冨士ふじ千代ちよやま雅信まさのぶかがみさと照國てるくにの5横綱よこづなならんでいる写真しゃしん存在そんざいする。横綱よこづな土俵入どひょうい双葉ふたばさん直伝じきでんだが、幕下まくした時代じだいひざ故障こしょう影響えいきょうもあって双葉ふたばさん完全かんぜん再現さいげんとはいかなかったものの、土俵入どひょういりは「うご錦絵にしきえ」とばれて人気にんきたかかった[2]よし葉山はやまじゅんとの取組とりくみは、明治めいじ時代じだい後期こうきに「うめ常陸ひたち時代ときよ」とばれ、相撲すもう黄金おうごんきずいたうめ谷藤たにふじ太郎たろう常陸ひたち山谷さんやみぎもん対決たいけつ彷彿ほうふつとさせた。

1955ねん9月場所ばしょ1956ねん1がつ場所ばしょ連覇れんぱたし、同年どうねん9がつ場所ばしょにも優勝ゆうしょうたす。1956ねん1がつ場所ばしょ千秋楽せんしゅうらくづるみねとの優勝ゆうしょう決定けっていせんでは、みぎよっつからあたまけ、ててきたづるみねたいし、かがみさと後退こうたいしながら左上ひだりうえしゅって反撃はんげき上手じょうずげからこう正面しょうめんった[13]。4かい優勝ゆうしょうすべて14しょう1はいで、「つぎこそは全勝ぜんしょう優勝ゆうしょうを」とっていたが最後さいごまでたせなかった。それでも千代ちよやまよし葉山はやまとちにしき清隆きよたか若乃花わかのはなみきといった上位じょういじんとの対戦たいせんはいずれもしており、実力じつりょくのあるところを証明しょうめいしている。

現役げんえき引退いんたい[編集へんしゅう]

1958ねん1がつ場所ばしょ中日ちゅうにちよし葉山はやまじゅん輔が引退いんたいすると、この場所ばしょで5しょう3はい不振ふしんだったかがみさとへマスコミが殺到さっとうした。かがみさとは「横綱よこづな責任せきにんたせなければめる」と発言はつげんしたところ、朝日新聞あさひしんぶん記者きしゃから「責任せきにんとは具体ぐたいてきにどういうことか?」[14]とききかえされたため、「10ばんてないとき」とうっかり発言はつげんしてしまった[2]かがみさと結局けっきょく13にちやぶれて6はいとなり、目標もくひょうかたった10しょう不可能ふかのうになったが、のこりは勝利しょうりして9しょう6はいとしてとどまった。周囲しゅういからはまだれるとのこえおおかったが、中日ちゅうにちでうっかり発言はつげんしたとお場所ばしょ引退いんたい表明ひょうめいし、いちだい年寄としよりかがみさと」を襲名しゅうめいして後進こうしん指導しどうたる。その粂川くめかわ、のちに立田たったがわ名跡みょうせき襲名しゅうめいした。

引退いんたい晩年ばんねん[編集へんしゅう]

1968ねん12月16にち時津風ときつかぜくなると一時いちじてき時津風ときつかぜ襲名しゅうめいしたが、翌年よくねんいちがつ場所ばしょ先代せんだい遺志いし先代せんだい夫人ふじんからつたえられ[ちゅう 1][2]引退いんたいあいだもないにしきとう時津風ときつかぜ継承けいしょうみずからはふたた立田たったがわもどった。その2ねん師匠ししょうさん回忌かいき法要ほうよう自分じぶんたちにらされないまますでおこなわれていたのをって一門いちもん11だい井筒いづつ相談そうだん[15]立田たったさんじゅうやまふく年寄としより4めいれて立田たったがわ部屋へや創立そうりつして独立どくりつした。最初さいしょ関取せきとりそだたずに部屋へや消滅しょうめつ危機ききもあったが、停年ていねん退職たいしょく直前ちょくぜんもり乃里おも関取せきとり昇進しょうしんさせて危機きき回避かいひさせた。

日本にっぽん相撲すもう協会きょうかいでは、引退いんたいから2ねん1960ねんから理事りじ就任しゅうにん福岡ふくおか場所ばしょ部長ぶちょうとうつとめていたが、後述こうじゅつのう梗塞こうそくたおれた影響えいきょうで、1978ねん役員やくいん改選かいせん役員やくいん待遇たいぐう退しりぞき、そのまま停年ていねんまでつとめた。

1983ねん4がつまん60さいむかえたが、そのすうねんまえのう梗塞こうそくたおれ、一命いちめいめたがその影響えいきょうしばらリハビリ専念せんねんちゅうのため、還暦かんれき土俵入どひょういおこなわれなかった。ただあかつなっており、誕生たんじょう当日とうじつ赤色あかいろ羽織はおり着用ちゃくようしていわった。それから5ねん1988ねん4がつ日本にっぽん相撲すもう協会きょうかいもと横綱よこづなとしてははじめて停年ていねん退職たいしょくし、その両国りょうこくでマンション「かがみキャッスル」を経営けいえいしたほか、「かがみさといちだい」をあらわした。

2003ねん4がつ、80さい誕生たんじょうむかえたとき、傘寿さんじゅいわいに「つぎ目標もくひょうは?」とのいにたいし「つぎは88さい米寿べいじゅ」とこたえた。三戸さんのへまちでは青森あおもりけんはつ横綱よこづなとして名誉めいよ町民ちょうみん表彰ひょうしょうけた。横綱よこづなとしてはうめ谷藤たにふじ太郎たろう (初代しょだい)(83さい3ヶ月かげつぼつ)にいで、当時とうじ史上しじょうだい2(2023ねん現在げんざい史上しじょうだい5史上しじょうだい22021ねん1がつ死去しきょしたとちうみあきらよしみの82さい10ヶ月かげつだい32010ねん9月に死去しきょした若乃花わかのはなみき (初代しょだい)の82さい5ヶ月かげつ、なお、初代しょだい若乃花わかのはなとちうみかがみさと同様どうよう青森あおもりけん出身しゅっしんである。存命ぞんめいちゅうきた富士ふじ勝昭かつあきにもかれている)の高齢こうれいで、本人ほんにんうめだにさい高齢こうれい記録きろく更新こうしん目指めざしていたが、のこり2ねん5ヶ月かげつの2004ねん2がつ29にち、80さい死去しきょかがみさとくなったことで、大正たいしょうまれの横綱よこづな経験けいけんしゃすべ鬼籍きせきはいった。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

はじめはってまえて、のこされればひだり1ほんしで速攻そっこうくちだったが、幕下まくした時代じだい不動ふどうがんさんなんとの稽古けいこひだりひざ負傷ふしょうした。再起さいきあやぶまれたが奇跡きせきてき回復かいふくし、そのみぎよっつにめるくちわった。ひがし富士ふじ欽壹にはよく稽古けいこけられていたが、応召おうしょうちゅう双葉ふたばさんひがし冨士ふじやぶれるのをると、打倒だとうひがし冨士ふじちかった。

みぎよっ得意とくい相手あいてめると太鼓腹たいこばらかしてわざふうじるのが得意とくい[1]なため、当時とうじ対戦たいせん相手あいてだった技能ぎのう力士りきし苦戦くせんした。ただし大関おおぜき時代じだい鳴門なるとかいいちぎょうとの対戦たいせんあしゆび骨折こっせつ(ただしこのとき勝利しょうりして休場きゅうじょうもしていない)して以来いらい苦手にがて意識いしきから3連敗れんぱいした。

エピソード[編集へんしゅう]

  • 1951ねん1がつ場所ばしょ大関おおぜき昇進しょうしん決定けっていしたとき自分じぶん昇進しょうしんするとはゆめにもおもっておらず、友人ゆうじん見送みおくりにやって東京とうきょうえき場内じょうない放送ほうそうで「大相撲おおずもうかがみさとさん、大関おおぜき昇進しょうしん決定けっていしましたので至急しきゅう部屋へやへおもどりください」とされ、あわてて時津風ときつかぜ部屋へやかえした。部屋へやもどると伝達でんたつ使者ししゃ本人ほんにん不在ふざいのまま部屋へや女将おかみさんがけてすでかえってしまっていた。翌日よくじつ新聞しんぶんには同時どうじ昇進しょうしんしたよし葉山はやま写真しゃしんおおきく掲載けいさいされ、よこにベタ記事きじで「かがみさとも」とかれていた。主役しゅやくかがみさと本人ほんにん不在ふざいだったので記者きしゃはみなきち葉山はやまほうってしまった結果けっかだった[16]
  • 1956ねん1がつ場所ばしょ優勝ゆうしょうしたさい優勝ゆうしょう決定けっていせん相手あいて同門どうもん弟弟子おとうとでしでかつて自身じしんびとつとめたつるみね昭男あきおであったことから、「優勝ゆうしょう半分はんぶんずつだ」とづるみね優勝ゆうしょうパレードの旗手きしゅ指名しめい、さらに1ばんかぎりでづるみね優勝旗ゆうしょうきしてみずからの居室きょしつかざることを許可きょかした。
  • 1956ねん時点じてんでは、世論せろん体罰たいばつたいしてきびしいので「無理むりへん拳骨げんこつ」は通用つうようしないと意見いけんべていた。また、戦中せんちゅう戦後せんごことなり弟子でしおお一方いっぽうあさおそいので、稽古けいこする時間じかんがあまりないとはなしていた[17]
  • だいのマスコミきらいで、現役げんえき最後さいご場所ばしょ殺到さっとうしたことでますます顕著けんちょになったという[14][2]前述ぜんじゅつのようにマスコミを一言ひとことかえしたのは最大さいだい特徴とくちょうで、引退いんたい理由りゆうには引際ひきぎわ重視じゅうしするように指導しどうされたこともあったとおもわれる。のち協会きょうかい理事りじつとめたがマスコミぎらいは相変あいかわらずで、理事りじかいでも介入かいにゅうしそうな議題ぎだいには徹底てっていして反対はんたい、さらにはみずから「マスコミはきらいだ」と発言はつげんしていた。引退いんたいした場所ばしょがった記者きしゃ退職たいしょくに、さい就職しゅうしょくした団体だんたいからの寄付きふ要請ようせいって相撲すもう協会きょうかいおとずれたさいかがみさともう反対はんたい破談はだんとなったこともある。
  • 朴訥ぼくとつ人柄ひとがら反映はんえいしてか方言ほうげんつよく、インタビュアーはかがみさと言葉ことばるのに苦労くろうしたとつたえられる。
  • 孫弟子まごでし敷島しきしま入門にゅうもんまえ自身じしんったさいに「あんなこわそうな大人おとなはじめてた」とおもっていたという。
  • 2019ねん10がつ25にち師匠ししょう双葉ふたばさん郷土きょうどである宇佐うさ自身じしんのゆかりのしな4てん自身じしん親戚しんせきによって寄贈きぞうされた[18]

おも成績せいせき[編集へんしゅう]

通算つうさん成績せいせき[編集へんしゅう]

  • 通算つうさん成績せいせき:415しょう189はい28きゅう 勝率しょうりつ.687
  • 幕内まくうち成績せいせき:360しょう163はい28きゅう 勝率しょうりつ.688
  • 大関おおぜき成績せいせき:70しょう20はい 勝率しょうりつ.778
  • 横綱よこづな成績せいせき:199しょう88はい28きゅう 勝率しょうりつ.693
  • 通算つうさん在位ざいい:50場所ばしょ
  • 幕内まくうち在位ざいい:38場所ばしょ
  • 横綱よこづな在位ざいい:21場所ばしょ
  • 大関おおぜき在位ざいい:6場所ばしょ
  • さんやく在位ざいい:4場所ばしょ関脇せきわけ4場所ばしょ小結こむすびなし)

かくだん優勝ゆうしょう[編集へんしゅう]

  • 幕内まくうち最高さいこう優勝ゆうしょう:4かい(1953ねん1がつ場所ばしょ、1955ねん9がつ場所ばしょ、1956ねん1がつ場所ばしょ・9月場所ばしょ
  • さんだん優勝ゆうしょう:1かい(1943ねん1がつ場所ばしょ
  • じょだん優勝ゆうしょう:1かい(1942ねん1がつ場所ばしょ

さんしょう金星かなぼし[編集へんしゅう]

場所ばしょべつ成績せいせき[編集へんしゅう]

かがみさと喜代治きよじ
春場所はるばしょ 夏場所なつばしょ 秋場所あきばしょ
1941ねん
昭和しょうわ16ねん
ぜん相撲すもう 西にし序ノ口じょのくち14まい
5–3 
x
1942ねん
昭和しょうわ17ねん
ひがしじょだん60まい
優勝ゆうしょう
8–0
ひがしさんだん14まい
5–3 
x
1943ねん
昭和しょうわ18ねん
西にしさんだん筆頭ひっとう
優勝ゆうしょう
8–0
ひがし幕下まくした13まい
3–5 
x
1944ねん
昭和しょうわ19ねん
西にし幕下まくした18まい
5–3 
西にし幕下まくした3まい
3–2 
西にし幕下まくした筆頭ひっとう
––
兵役へいえき
 
1945ねん
昭和しょうわ20ねん
x 幕下まくした
3–2[ちゅう 2] 
西にしじゅうりょう11まい
7–3 
1946ねん
昭和しょうわ21ねん
x 国技こくぎかん修理しゅうり
のため中止ちゅうし
西にしじゅうりょう3まい
8–5 
1947ねん
昭和しょうわ22ねん
x ひがし前頭まえがしら14まい
7–3 
ひがし前頭まえがしら8まい
5–6 
1948ねん
昭和しょうわ23ねん
x ひがし前頭まえがしら10まい
6–5 
ひがし前頭まえがしら9まい
6–5 
1949ねん
昭和しょうわ24ねん
西前にしまえあたま7まい
8–5 
ひがし前頭まえがしら4まい
8–7 
ひがし前頭まえがしら筆頭ひっとう
12–3
こと
1950ねん
昭和しょうわ25ねん
ひがし関脇せきわけ
11–4 
ひがし関脇せきわけ
9–6 
ひがし関脇せきわけ
8–7 
1951ねん
昭和しょうわ26ねん
西にし関脇せきわけ
11–4 
西にしちょういずる大関おおぜき
10–5 
西にし大関おおぜき
12–3 
1952ねん
昭和しょうわ27ねん
東大とうだいせき
11–4 
西にし大関おおぜき
11–4 
東大とうだいせき
12–3 
いちがつ場所ばしょ
初場所はつばしょ東京とうきょう
さんがつ場所ばしょ
春場所はるばしょ大阪おおさか
五月ごがつ場所ばしょ
夏場所なつばしょ東京とうきょう
なながつ場所ばしょ
名古屋なごや場所ばしょ愛知あいち
九月場所くがつばしょ
秋場所あきばしょ東京とうきょう
十一月じゅういちがつ場所ばしょ
九州きゅうしゅう場所ばしょ福岡ふくおか
1953ねん
昭和しょうわ28ねん
東大とうだいせき
14–1 
西にし横綱よこづな
10–5 
西にし横綱よこづな
12–3 
x ひがし横綱よこづな
9–6 
x
1954ねん
昭和しょうわ29ねん
ひがしちょういずる横綱よこづな
13–2 
ひがし横綱よこづな
10–5 
ひがし横綱よこづな
11–4 
x 西にし横綱よこづな
9–6 
x
1955ねん
昭和しょうわ30ねん
ひがしちょういずる横綱よこづな
10–5 
西にし横綱よこづな2
4–5–6[ちゅう 3] 
ひがしちょういずる横綱よこづな
11–4 
x 西にし横綱よこづな
14–1 
x
1956ねん
昭和しょうわ31ねん
ひがし横綱よこづな
14–1 
ひがし横綱よこづな
8–7 
ひがしちょういずる横綱よこづな
9–6 
x 西にし横綱よこづな
14–1 
x
1957ねん
昭和しょうわ32ねん
ひがし横綱よこづな
3–5–7[ちゅう 4] 
西にしちょういずる横綱よこづな
11–4 
西にし横綱よこづな
10–5 
x 西にし横綱よこづな
8–7 
西にし横綱よこづな
休場きゅうじょう
0–0–15
1958ねん
昭和しょうわ33ねん
ひがしちょういずる横綱よこづな
引退いんたい
9–6–0
x x x x x
かくらん数字すうじは、「ち-け-休場きゅうじょう」をしめす。    優勝ゆうしょう 引退いんたい 休場きゅうじょう じゅうりょう 幕下まくした
さんしょう=敢闘かんとうしょうこと=殊勲賞しゅくんしょうわざ=技能ぎのうしょう     その=金星かなぼし
番付ばんづけ階級かいきゅう幕内まくうち - じゅうりょう - 幕下まくした - さんだん - じょだん - 序ノ口じょのくち
幕内まくうち序列じょれつ横綱よこづな - 大関おおぜき - 関脇せきわけ - 小結こむすび - 前頭まえがしら(「#数字すうじ」は各位かくいない序列じょれつ

伝記でんき[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 時津風ときつかぜ部屋へや跡目あとめ直弟子じきでし相続そうぞくさせたい」という先代せんだい夫人ふじん希望きぼうがあり、粂川くめかわ部屋へやからのあずかり弟子でしであったかがみさとはその条件じょうけん合致がっちしなかったという。時津風ときつかぜ部屋へや後援こうえんかい双葉ふたばさんかい」の笹山ささやま忠夫ただお会長かいちょう永田ながた雅一まさいちが、部屋へや土地とちるために、師匠ししょう子飼こがいの直系ちょっけい弟子でしで31さいわか豊山とよやまなら資金しきんすが、粂川くめかわ部屋へやからじょだん移籍いせきしたあずかり弟子でしで、親方おやかた平均へいきん寿命じゅみょうわか時代じだいに45さい年齢ねんれいかさねていたかがみさと後継こうけいなら資金しきんさないという意向いこうもあった。
  2. ^ 西にし筆頭ひっとうかく
  3. ^ 急性きゅうせい腎臓炎じんぞうえんにより9にちから途中とちゅう休場きゅうじょう
  4. ^ うち脱肛だっこうにより8にちから途中とちゅう休場きゅうじょう

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ大相撲おおずもう名門めいもん列伝れつでんシリーズ(5) 時津風ときつかぜ部屋へや』p22
  2. ^ a b c d e f g h i 北辰ほくしんどう出版しゅっぱん昭和しょうわ平成へいせい 大相撲おおずもうめい力士りきし100列伝れつでん』(塩澤しおざわみのるしんじ、2015ねん)46ページから47ページ
  3. ^ a b c d e f スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ大相撲おおずもう名門めいもん列伝れつでんシリーズ(5) 時津風ときつかぜ部屋へや』p57
  4. ^ かがみさと喜代治きよじかがみさといちだい 自慢じまんかかえた太鼓腹たいこばら』,p26,スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ
  5. ^ かがみさと喜代治きよじかがみさといちだい 自慢じまんかかえた太鼓腹たいこばら』,p32,スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ
  6. ^ スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ大相撲おおずもう名門めいもん列伝れつでんシリーズ(5) 時津風ときつかぜ部屋へや』p56
  7. ^ スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ大相撲おおずもう名門めいもん列伝れつでんシリーズ(5) 時津風ときつかぜ部屋へや』p58
  8. ^ 相撲すもう』2012ねん1がつごう
  9. ^ a b c 朝日新聞あさひしんぶん1953ねん1がつ26にちづけ朝刊ちょうかんスポーツめん
  10. ^ 1がつ場所ばしょ14にち横審よこしん例会れいかいひらかれたが、話題わだい引退いんたい発表はっぴょうした照國てるくにのことが中心ちゅうしんで、かがみさと横綱よこづな昇進しょうしん話題わだいとならなかった(朝日新聞あさひしんぶん1953ねん1がつ24にちづけ朝刊ちょうかん
  11. ^ 朝日新聞あさひしんぶん1953ねん1がつ27にちづけ朝刊ちょうかん
  12. ^ 朝日新聞あさひしんぶん1953ねん1がつ28にちづけ朝刊ちょうかんスポーツめん
  13. ^ スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ大相撲おおずもう名門めいもん列伝れつでんシリーズ(5) 時津風ときつかぜ部屋へや』p41
  14. ^ a b 小坂こさか秀二しゅうじ昭和しょうわ横綱よこづな」(ふゆあおしゃ
  15. ^ かがみさと喜代治きよじかがみさといちだい 自慢じまんかかえた太鼓腹たいこばら』,p137,スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ
  16. ^ かがみさと喜代治きよじかがみさといちだい 自慢じまんかかえた太鼓腹たいこばら』,p67,スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ
  17. ^ スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ大相撲おおずもう名門めいもん列伝れつでんシリーズ(5) 時津風ときつかぜ部屋へや』p58-59
  18. ^ 相撲すもう 双葉ふたばさん弟子でし横綱よこづなかがみさと手形てがたなど宇佐うさ寄贈きぞう大分おおいた毎日新聞まいにちしんぶん 会員かいいん限定げんてい有料ゆうりょう記事きじ 毎日新聞まいにちしんぶん2019ねん10がつ31にち 地方ちほうばん (2019ねん10がつ31にち閲覧えつらん