照國てるくに萬藏まんぞう

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照國てるくに 萬藏まんぞう
照國てるくにまんぞう(1943ねんごろ
基礎きそ情報じょうほう
四股しこめい 照國てるくに 万藏まんぞう照國てるくに 萬藏まんぞう照國てるくに 万藏まんぞう
本名ほんみょう 大野おおの 萬藏まんぞう旧姓きゅうせいかん
愛称あいしょう さくらしょく桃色ももいろ)の音楽おんがく[1][2]
薔薇色ばらいろ交響こうきょう[2]
しろ殿堂でんどう
うご錦絵にしきえ
生年月日せいねんがっぴ 1919ねん1がつ10日とおか
ぼつ年月日ねんがっぴ (1977-03-20) 1977ねん3がつ20日はつか(58さいぼつ
出身しゅっしん 秋田あきたけん雄勝おがつぐん秋ノ宮あきのみやむら
げん秋田あきたけん湯沢ゆざわ
身長しんちょう 173cm
体重たいじゅう 161kg
BMI 53.8
所属しょぞく部屋へや 伊勢いせはま部屋へや
得意とくいわざ ひだりよっつ、り、
成績せいせき
現在げんざい番付ばんづけ 引退いんたい
最高さいこう だい38だい横綱よこづな
生涯しょうがい戦歴せんれき 318しょう112はい74きゅう(41場所ばしょ
幕内まくうち戦歴せんれき 271しょう91はい74きゅう(32場所ばしょ
優勝ゆうしょう 幕内まくうち最高さいこう優勝ゆうしょう2かい
十両じゅうりょう優勝ゆうしょう1かい
幕下まくした優勝ゆうしょう1かい
データ
はつ土俵どひょう 1935ねん1がつ場所ばしょ[1]
入幕にゅうまく 1939ねん5月場所ばしょ[1]
引退いんたい 1953ねん1がつ場所ばしょ[1]
備考びこう
金星かなぼし1個いっこ男女だんじょかわ1個いっこ
2019ねん7がつ13にち現在げんざい

照國てるくに 萬藏まんぞう(てるくに まんぞう、1919ねん1がつ10日とおか - 1977ねん3がつ20日はつか)は、秋田あきたけん雄勝おがつぐん秋ノ宮あきのみやむらげん秋田あきたけん湯沢ゆざわ出身しゅっしん伊勢いせはま部屋へや所属しょぞくした大相撲おおずもう力士りきしだい38だい横綱よこづな本名ほんみょうかん 萬藏まんぞう(すが まんぞう)で、のちに大野おおの 萬蔵まんぞう(おおの まんぞう)となる[1]

来歴らいれき[編集へんしゅう]

秋田あきた怪童かいどう入門にゅうもん[編集へんしゅう]

1919ねん1がつ10日とおか秋田あきたけん雄勝おがつぐん秋ノ宮あきのみやむら農家のうかまれ、秋ノ宮あきのみやだいいち尋常じんじょう小学校しょうがっこう卒業そつぎょう家業かぎょうである農業のうぎょう手伝てつだう。はたけ作業さぎょうったり、収穫しゅうかくした野菜やさいなどを運搬うんぱんするうちにちからき、1930ねんなつに「秋田あきた怪童かいどうあり」との評判ひょうばんきつけたはは遠縁とおえんである5だい伊勢いせはまから熱心ねっしん勧誘かんゆうされたが、入門にゅうもんいやまわり、5だい伊勢いせはま訪問ほうもんしているあいだ実家じっか近寄ちかよらなかったほどだった[2]。やがてはないの結果けっか体重たいじゅうは24かんたっしていたものの身長しんちょうが5しゃく3すんで、検査けんさ基準きじゅんの5しゃく5すんたっしなかったことから、高等こうとう小学校しょうがっこう卒業そつぎょうするまでつことが決定けっていした。しかし、1932ねん1がつ6にち勃発ぼっぱつした春秋しゅんじゅうえん事件じけん相撲すもう協会きょうかい全体ぜんたい対応たいおうせざるをなくなったため、5だい伊勢いせはま巡業じゅんぎょう余裕よゆうなどかったことから、秋田あきた怪童かいどうのことなどすっかりわすれていた。

1934ねんふゆに5だい伊勢いせはまいちぎょう湯沢ゆざわ巡業じゅんぎょうしたさいに、秋田あきた怪童かいどうのことをおもし、巡業じゅんぎょう合間あいま怪童かいどうもとふたた出向でむいた。今度こんどまったまわることがく、怪童かいどうちちくなった直後ちょくごだったことで家計かけいくるしく、みずからの体格たいかくかす仕事しごときたいとかんがえていたため、もう反対はんたいするはは強引ごういんって伊勢いせはま部屋へや入門にゅうもんした[2]

はつ土俵どひょう~スピード出世しゅっせ[編集へんしゅう]

1935ねん1がつ場所ばしょはつ土俵どひょうむ。四股しこめいは、同郷どうきょうどう部屋へや國光くにみつ鉄太郎てつたろうぎゃくにしたのがもとであるという[2]最初さいしょはなかなか番付ばんづけがらず苦労くろうしていたが、はた瀬川せかわくに七郎しちろうからエビオスじょう服用ふくようすすめられてからつよくなり、以降いこう伊勢いせヶ濵との二人三脚ににんさんきゃく指導しどう順調じゅんちょう出世しゅっせした。

当時とうじ史上しじょう最年少さいねんしょう記録きろくすべ更新こうしんしたまま、1939ねん5月場所ばしょしん入幕にゅうまくたすと、その場所ばしょを11しょう4はい好成績こうせいせき注目ちゅうもくされる。場所ばしょ虫垂炎ちゅうすいえん悪化あっかさせたことで手術しゅじゅつける必要ひつようわれ、一時いちじ生命せいめい危機ききひんするもはは上京じょうきょうして看病かんびょうしたおかげで1週間しゅうかん昏睡こんすい状態じょうたいから意識いしきもどし、4ヶ月かげつ入院にゅういん見事みごと回復かいふくする[2]退院たいいん巡業じゅんぎょうではふさがりきらない傷口きずぐちにガーゼをてながら土俵どひょうった[3]よく場所ばしょ男女だんじょ川登かわのぼりさんから金星かなぼしうばって12しょう3はい好成績こうせいせきげると、わず所要しょよう2場所ばしょ小結こむすびして関脇せきわけ昇進しょうしんした。照國てるくにかい進撃しんげきまることをらず、その3場所ばしょを11しょう4はい・12しょう3はい・13しょう2はいとして大関おおぜき昇進しょうしん。22さい0かげつでの大関おおぜき昇進しょうしん当時とうじとしては史上しじょう最年少さいねんしょう[1]とくに1941ねん1がつ場所ばしょはは脳溢血のういっけつ逝去せいきょした心労しんろう風邪かぜかかり40ねつしたなかでの活躍かつやくであった[3][2]しん大関おおぜきでも12しょう3はい好成績こうせいせきげた。

関脇せきわけ時代じだい照國てるくに(1941ねんごろ

大関おおぜき2場所ばしょとなった1942ねん5月場所ばしょ番付ばんづけ照國てるくにはそれまでそう葉山はやま定次さだじおな片屋かたやにいたが、この場所ばしょ反対はんたいがわまわされていたため、本人ほんにんいわく「こっち(反対はんたいがわ)にまわったら双葉ふたばやまたないと横綱よこづなになれない。でも自分じぶんには到底とうていてそうにない」と弱音よわねいていた[ちゅう 1]が、14にちにその双葉ふたばさん下手へたたおして12しょう2はいとするが、当時とうじは「番付ばんづけ上位じょうい優勝ゆうしょう制度せいど」が存在そんざいした時代じだいだったため、千秋楽せんしゅうらくむかえた時点じてんちょういずる大関おおぜき照國てるくにには優勝ゆうしょう可能かのうせいかった。結局けっきょく、この場所ばしょ優勝ゆうしょうせい大関おおぜきである安藝あきうみ節男せつお(1はい)と双葉ふたばさん(2はい)の対戦たいせんまることになり、双葉ふたばさん勝利しょうりして両者りょうしゃとも13しょう2はい番付ばんづけ上位じょうい優勝ゆうしょう制度せいどによって双葉ふたばさん優勝ゆうしょうした。照國てるくにぜん田山たやま英五郎えいごろうたおして13しょう2はいで、安藝あきうみ優勝ゆうしょう同点どうてんとした[2]

最年少さいねんしょう横綱よこづな[編集へんしゅう]

照國てるくに土俵入どひょういり(1943ねん

ここまで照國てるくに優勝ゆうしょう経験けいけんいが、安定あんていかんのある成績せいせき双葉ふたばさんたおしたほしわれて「事実じじつじょう優勝ゆうしょうしゃ」と判定はんていされたため、場所ばしょ安藝あきうみそろって横綱よこづな昇進しょうしん。このとき23さい4ヶ月かげつだい20だい横綱よこづなうめ谷藤たにふじ太郎たろう最年少さいねんしょう横綱よこづな記録きろくを39ねんぶりに更新こうしんした[1][ちゅう 2]

しん横綱よこづなとなった1943ねん1がつ場所ばしょは、双葉ふたばさん唯一ゆいいつ黒星くろぼしけられて14しょう1はいわり、双葉ふたばさん全勝ぜんしょうのためはつ優勝ゆうしょうのがす。その成績せいせき安定あんていしているが、だい世界せかい大戦たいせんによる食料しょくりょう事情じじょう悪化あっかくわえて敗戦はいせんによる影響えいきょうもあって体重たいじゅう激減げきげんしたり、終戦しゅうせん直後ちょくご糖尿とうにょうびょう左肩ひだりかたひだりひざ故障こしょう多発たはつして優勝ゆうしょう出来できなかった[2]東京とうきょうだい空襲くうしゅういえを3けん焼失しょうしつする、1948ねん10月には引退いんたい部屋へや新設しんせつけて土地とち購入こうにゅうするも詐欺さぎ代金だいきんじゅうばらいをいられるなど私生活しせいかつでも災難さいなん見舞みまわれた[3]

それでも1950ねん9月場所ばしょは13しょう2はいよし葉山はやまじゅんとの優勝ゆうしょう決定けっていせんせいし、横綱よこづな昇進しょうしんから8ねん悲願ひがんはつ優勝ゆうしょう達成たっせいした[1]1951ねん1がつ場所ばしょには全勝ぜんしょう優勝ゆうしょう達成たっせいし、この連覇れんぱによって「優勝ゆうしょうなき横綱よこづな」の汚名おめい返上へんじょうする[1]同時どうじに、優勝ゆうしょうがく復活ふっかつだい1ごうかざることになった[ちゅう 3]。その無傷むきずだったみぎひざ故障こしょうして優勝ゆうしょうく、1953ねん1がつ場所ばしょには糖尿とうにょうびょう悪化あっか胃潰瘍いかいようくわわって3にちから休場きゅうじょうどう場所ばしょ14にちに「回復かいふく見込みこみがない」として現役げんえき引退いんたい表明ひょうめいした[4]引退いんたい照國てるくに自発じはつてき意思いしとされたが、14にちよる横綱よこづな審議しんぎ委員いいんかい例会れいかい開催かいさいされることから、報道ほうどう機関きかんからの強硬きょうこうろんあいまって引退いんたい勧告かんこくされるものと誤解ごかいしたのではないかと横審よこしんでは指摘してきされた[5]

引退いんたい晩年ばんねん[編集へんしゅう]

引退いんたい年寄としより荒磯あらいそ襲名しゅうめいし、同時どうじ師匠ししょうからぜん弟子でしゆずけて荒磯あらいそ部屋へや看板かんばんかかげ、伊勢いせはま退職たいしょくは「伊勢いせはま」の名跡みょうせきいで伊勢いせはま部屋へや経営けいえいした。部屋へやでは稽古けいこ土俵どひょうを2めんもうける(1963ねん以降いこう[3] などのあたらしい方式ほうしきしたほか、郷里きょうり秋田あきたけん中心ちゅうしんにスカウト活動かつどうひろげ、清國きよくに勝雄かつおひらけたかし山勘やまかんはじめとして何人なんにんもの幕内まくうち力士りきしそだてた[1]伊勢いせはま部屋へや増築ぞうちくかさねた結果けっか1968ねん以降いこうは6かいてにまでたっし、3かい弟子でしさい就職しゅうしょく窓口まどぐちとなった[3]。また、日本にっぽん相撲すもう協会きょうかいでは理事りじとしてなが大阪おおさか場所ばしょ部長ぶちょう担当たんとうしたほか、9だい春日野かすがの協会きょうかい理事りじちょう就任しゅうにんするさい対立たいりつ候補こうほとして擁立ようりつするうごきがあり、予備よびせんでは春日野かすがのと1ひょうまでるが照國てるくに本人ほんにん辞退じたいしたために実現じつげんしなかった[3]

1977ねん3がつ20日はつか春場所はるばしょ開催かいさいちゅう理事りじかいえ、大阪おおさか市内しない宿舎しゅくしゃもどった直後ちょくご突然とつぜんたおれて救急きゅうきゅう搬送はんそうされたが、急性きゅうせい心筋梗塞しんきんこうそくによって58さい急死きゅうしした。墓所はかしょ杉並すぎなみ築地つきじ本願寺ほんがんじ和田わだほり廟所びょうしょ

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

秋田あきたけん湯沢ゆざわにある照國てるくに生家せいか

だい48だい横綱よこづな大鵬たいほう幸喜ゆきよし登場とうじょう以前いぜんおおくの最年少さいねんしょう記録きろくえためい横綱よこづなである。

相撲すもう人形にんぎょうのような色白いろじろ巨体きょたい徐々じょじょあかみをしていく様子ようすとリズミカルなくちから「さくらしょく(の)音楽おんがく」とばれた[1]太鼓腹たいこばら土俵どひょうきそうなほどにひく平蜘蛛ひらぐもがた仕切しきりからのしと出足であし双葉ふたばさんでもさばくのに苦労くろうしたほどで、たい双葉ふたばさんせん成績せいせき(3しょう2はい)にもあらわれている。双葉ふたばさん横綱よこづな免許めんきょ授与じゅよされた翌年よくねん死亡しぼうしただい32だい横綱よこづなたまにしきと、横綱よこづな時代じだい休場きゅうじょうばかりだっただい33だい横綱よこづな武藏むさしさんのぞけば、双葉ふたばさん唯一ゆいいつした力士りきしである。

双葉ふたばさん横綱よこづな昇進しょうしん以降いこう、3かいやぶれたのも横綱よこづな同士どうし対戦たいせんやぶれたのも照國てるくにだけだった。重心じゅうしんひくくて足腰あしこしやわらかく、下手へたげたりすれば43かん(161kg)の体重たいじゅう相手あいてかぶさりつぶされたという。だい36だい横綱よこづな羽黒山はぐろさんには通算つうさんで6しょう8はいしているが、これは戦後せんご照國てるくに体調たいちょうくずしていた時期じき羽黒山はぐろさん全盛期ぜんせいきかさなっていた)に6連敗れんぱいしたことがひびいている。

照國てるくに肥満ひまんたいになったのは、さんだん時代じだい心臓しんぞうびょうわずらったことで医師いしからはげしい稽古けいこ制限せいげんさせられたためともわれている。

小坂こさか秀二しゅうじあらわした「昭和しょうわ横綱よこづな」によると、照国てるくに非常ひじょう慎重しんちょう人柄ひとがら相撲すもうぶりにもあらわれていたという。終戦しゅうせん直後ちょくご大阪おおさかくときには3あいだまえから東京とうきょうえきって列車れっしゃっていた。戦後せんご混乱こんらんといってもそこまでするひとはいなかったが、照國てるくにいわく「(東京とうきょう - 大阪おおさかあいだの)8あいだどおしでくことをかんがえれば、はるかにらく」。

照國てるくにかたじょうかせないのが成績せいせき安定あんていかんで、15にち皆勤かいきんして10しょう未満みまんわった場所ばしょが1いのはそうそう真似まねできるものではなく、10しょう5はいでさえ晩年ばんねんに2(うち1千秋楽せんしゅうらく不戦敗ふせんぱい記録きろくしたのみで、場所ばしょすべて11しょう以上いじょう達成たっせいしている。見方みかたによっては、戦前せんぜんまでおこなわれていた15にち皆勤かいきん場所ばしょれたまま、戦争せんそう影響えいきょうで15日間にちかん本場所ほんばしょ開催かいさいできない時期じき不調ふちょうかさなったともかんがえられる(ただし、前記ぜんきのとおり不調ふちょうそのものも戦争せんそう影響えいきょう一因いちいんだった)。

エピソード[編集へんしゅう]

  • 1935ねん5がつ場所ばしょ終了しゅうりょう師匠ししょうの5だい伊勢いせはまから「穏和おんわすぎて闘志とうしがなく見込みこみがない」として一旦いったん人員じんいん整理せいりされ、きながら帰郷ききょうする途中とちゅう両国橋りょうごくばしはた瀬川せかわたすけられる。よく1936ねん1がつ場所ばしょ帰参きさんゆるされるまできよし美川みかわとともにはた瀬川せかわいえみ、帰参きさんはた瀬川せかわから個人こじん指導しどうけていた[3]。のちにはた瀬川せかわ養子ようしとなるが、はた瀬川せかわは「(照國てるくには)わたし最高さいこう芸術げいじゅつ作品さくひん」と周囲しゅういかたったという。照國てるくには5だい伊勢いせヶ濵の縁戚えんせきだったことから、養子ようし縁組えんぐみいた5だい伊勢いせヶ濵は激怒げきどしたとつたわる。
  • 人気にんきたかかったが、それをあらわすもののなかにあだおおさがある。取組とりくみ最中さいちゅうまわゆるみやすいことから「ゆるふん」とけられたが、それでも本人ほんにんいわく「よくまるようにみずふくませかたにも注意ちゅういしてきつくめていたのだ」という。
  • 現役げんえき時代じだいに、サザエさんで「当時とうじ横綱よこづな」としてえがかれたことがあった。
  • 1944ねん5がつ横綱よこづな免除めんじょされていた勤労きんろう奉仕ほうし力士りきし代表だいひょうとして率先そっせんしておこない、みなと荷揚にあげなど重労働じゅうろうどう従事じゅうじした。
  • 1950ねん春場所はるばしょ照國てるくに羽黒山はぐろさんひがし富士ふじの3横綱よこづな途中とちゅう休場きゅうじょうして横綱よこづな批判ひはんたかまったため横綱よこづな降格こうかく制度せいどあんがまとまったが、とう現役げんえき横綱よこづな照国てるくには「ありがたい。らくれる。大関おおぜきからやりなおす」と歓迎かんげいしたそうである[6]
  • 1959ねんにはがんうたがいで入院にゅういんするも、手術しゅじゅつ病院びょういん横綱よこづな時代じだいから馴染なじみがある奈良なら神社じんじゃで3ヶ月かげつ修行しゅぎょう敢行かんこうさい検査けんさがんつからなくなりたして自然しぜん療法りょうほう成功せいこうした[3]
  • 1965ねん実施じっしされた完全かんぜん部屋へやべつそうたりせい自身じしんかねてより提唱ていしょうしていた改革かいかくあんであった[3]

おも成績せいせき[編集へんしゅう]

  • 通算つうさん成績せいせき:318しょう112はい74きゅう 勝率しょうりつ.740
  • 幕内まくうち成績せいせき:271しょう91はい74きゅう 勝率しょうりつ.749
  • 横綱よこづな成績せいせき:187しょう70はい74きゅう 勝率しょうりつ.728
  • 大関おおぜき成績せいせき:25しょう5はい 勝率しょうりつ.833
  • 通算つうさん在位ざいい:41場所ばしょ
  • 幕内まくうち在位ざいい:32場所ばしょ
  • 横綱よこづな在位ざいい:25場所ばしょ
  • 大関おおぜき在位ざいい:2場所ばしょ
  • さんやく在位ざいい:3場所ばしょ関脇せきわけ3場所ばしょ小結こむすびなし)
  • 金星かなぼし1個いっこ男女だんじょかわ1個いっこ
  • かくだん優勝ゆうしょう
    • 幕内まくうち最高さいこう優勝ゆうしょう:2かい(1950ねん9がつ場所ばしょ、1951ねん1がつ場所ばしょ全勝ぜんしょう))
    • じゅうりょう優勝ゆうしょう:1かい(1939ねん1がつ場所ばしょ
    • 幕下まくした優勝ゆうしょう:1かい(1937ねん5がつ場所ばしょ

場所ばしょべつ成績せいせき[編集へんしゅう]

照國てるくに萬藏まんぞう
春場所はるばしょ 夏場所なつばしょ 秋場所あきばしょ
1935ねん
昭和しょうわ10ねん
ぜん相撲すもう しんじょ
1–3 
x
1936ねん
昭和しょうわ11ねん
西にし序ノ口じょのくち4まい
3–3 
ひがしじょだん17まい
5–1 
x
1937ねん
昭和しょうわ12ねん
ひがしさんだん22まい
5–1 
西にし幕下まくした21まい
優勝ゆうしょう
11–2
x
1938ねん
昭和しょうわ13ねん
ひがしじゅうりょう13まい
6–7 
西にし幕下まくした筆頭ひっとう
5–2 
x
1939ねん
昭和しょうわ14ねん
ひがしじゅうりょう8まい
優勝ゆうしょう
11–2
西前にしまえあたま15まい
11–4 
x
1940ねん
昭和しょうわ15ねん
ひがし前頭まえがしら2まい
12–3
旗手きしゅ

ひがしちょういずる関脇せきわけ
11–4 
x
1941ねん
昭和しょうわ16ねん
西にし関脇せきわけ
12–3 
西にし関脇せきわけ
13–2
旗手きしゅ
 
x
1942ねん
昭和しょうわ17ねん
東大とうだいせき
12–3 
西にしちょういずる大関おおぜき
13–2 
x
1943ねん
昭和しょうわ18ねん
ひがしちょういずる横綱よこづな
14–1 
西にし横綱よこづな大関おおぜき
12–3 
x
1944ねん
昭和しょうわ19ねん
ひがし横綱よこづな大関おおぜき
11–4 
西にし横綱よこづな大関おおぜき
6–4 
西にし横綱よこづな
4–2–4[ちゅう 4] 
1945ねん
昭和しょうわ20ねん
x ひがし横綱よこづな
5–2 
ひがしちょういずる横綱よこづな
9–1 
1946ねん
昭和しょうわ21ねん
x 国技こくぎかん修理しゅうり
のため中止ちゅうし
ひがし横綱よこづな
3–3–7[ちゅう 5] 
1947ねん
昭和しょうわ22ねん
x 西にし横綱よこづな
7–3 
西にし横綱よこづな
7–4 
1948ねん
昭和しょうわ23ねん
x 西にし横綱よこづな
9–2 
ひがし横綱よこづな
2–5–4[ちゅう 6] 
1949ねん
昭和しょうわ24ねん
ひがし横綱よこづな
0–0–13 
ひがしちょういずる横綱よこづな
12–3 
ひがし横綱よこづな
8–2–5[ちゅう 7] 
1950ねん
昭和しょうわ25ねん
ひがしちょういずる横綱よこづな
2–2–11[ちゅう 8] 
ひがしちょういずる横綱よこづな
11–4 
ひがしちょういずる横綱よこづな
13–2 
1951ねん
昭和しょうわ26ねん
ひがし横綱よこづな
15–0 
ひがし横綱よこづな
10–5 
西にし横綱よこづな
11–4 
1952ねん
昭和しょうわ27ねん
西にし横綱よこづな
10–5 
ひがしちょういずる横綱よこづな
休場きゅうじょう[ちゅう 9]
0–0–15
西にしちょういずる横綱よこづな
6–6–3[ちゅう 10] 
1953ねん
昭和しょうわ28ねん
ひがしちょういずる横綱よこづな
引退いんたい
0–3–12[ちゅう 11]
x x
かくらん数字すうじは、「ち-け-休場きゅうじょう」をしめす。    優勝ゆうしょう 引退いんたい 休場きゅうじょう じゅうりょう 幕下まくした
さんしょう=敢闘かんとうしょうこと=殊勲賞しゅくんしょうわざ=技能ぎのうしょう     その=金星かなぼし
番付ばんづけ階級かいきゅう幕内まくうち - じゅうりょう - 幕下まくした - さんだん - じょだん - 序ノ口じょのくち
幕内まくうち序列じょれつ横綱よこづな - 大関おおぜき - 関脇せきわけ - 小結こむすび - 前頭まえがしら(「#数字すうじ」は各位かくいない序列じょれつ

おも力士りきしとの幕内まくうち対戦たいせん成績せいせき[編集へんしゅう]

力士りきしめい かちすう 負数ふすう 力士りきしめい かちすう 負数ふすう 力士りきしめい かちすう 負数ふすう
安藝あきうみ節男せつお 3 3 あさうしお太郎たろう 1 0 ひがし富士ふじ欽壹 7 5
しま奈良ならおとこ 2 1 大内山おおうちやま平吉へいきち 3 2 かがみさと喜代治きよじ 7 0
佐賀さがはな勝巳かつみ 10 7 しお海運かいうんみぎもん 4 3 千代ちよやま雅信まさのぶ 4 5
とちにしき清隆きよたか 6 2 名寄岩なよろいわ静男しずお 9 1 羽黒山はぐろさん政司せいじ 6 8
そう葉山はやま定次さだじ 3 2 ぜん田山たやま英五郎えいごろう 10 1 ぞう山大やまだい志郎しろう 4 1
まつのぼりあきらろう 0 1 三根みつねさん隆司たかし 9 8 男女だんじょ川登かわのぼりさん 2 2
よし葉山はやまじゅん 7 4 若ノ花わかのはな勝治かつじ 4 0

改名かいめいれき[編集へんしゅう]

  • 照國てるくに まんぞう(てるくに まんぞう)1935ねん1がつ場所ばしょ - 1944ねん1がつ場所ばしょ
  • 照國てるくに まんぞう(てるくに まんぞう)1944ねん5がつ場所ばしょ - 1949ねん5がつ場所ばしょ
  • 照國てるくに まんぞう(てるくに まんぞう)1949ねん10がつ場所ばしょ - 1953ねん1がつ場所ばしょ

年寄としより変遷へんせん[編集へんしゅう]

  • 荒磯あらいそ まんぞう (あらいそ まんぞう)1953ねん1がつ - 1961ねん1がつ
  • 伊勢いせはま 万藏まんぞう (いせがはま -)1961ねん1がつ - 1977ねん3がつ20日はつか

著作ちょさく[編集へんしゅう]

  • 秋田あきたんだ横綱よこづな 照国てるくに物語ものがたり簗瀬やなせひとししる秋田あきたさきがけ新報しんぽう日曜にちよう連載れんさい(2011ねん4がつ - 2012ねん3がつ) ※こちらはほんこう参考さんこう資料しりょうでもある。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 当時とうじは、東西とうざいせいであり、番付ばんづけ東西とうざい画然かくぜんわかれていて、おながわ取組とりくみはなかった
  2. ^ 1961ねん9がつ場所ばしょ同時どうじ昇進しょうしん柏戸かしわどつよし大鵬たいほう幸喜ゆきよし当時とうじそれぞれ22さい9ヶ月かげつと21さい3ヶ月かげつ照國てるくに記録きろく更新こうしん。2015ねん現在げんざい記録きろくきたうみさとしみつるの21さい2ヶ月かげつ
  3. ^ このとき賜杯しはいいて優勝ゆうしょうがく全勝ぜんしょうがく)を背後はいご撮影さつえいされた写真しゃしん現存げんそんする。
  4. ^ 左肩ひだりかた関節かんせつ打撲だぼくおよ捻挫ねんざにより6にちから途中とちゅう休場きゅうじょう
  5. ^ 神経痛しんけいつう歯痛しつうにより6にちから途中とちゅう休場きゅうじょう
  6. ^ 心臓しんぞう脚気かっけにより7にちから途中とちゅう休場きゅうじょう
  7. ^ ひだりひざ関節かんせつ打撲だぼくにより10日とおかから途中とちゅう休場きゅうじょう
  8. ^ ひだりひざ関節かんせつ負傷ふしょうにより4にちから途中とちゅう休場きゅうじょう
  9. ^ みぎひざ関節かんせつ負傷ふしょう糖尿とうにょうびょう顔面がんめん神経しんけいつうにより全休ぜんきゅう
  10. ^ 糖尿とうにょうびょうにより12にちから途中とちゅう休場きゅうじょう
  11. ^ 糖尿とうにょうびょう感冒かんぼうにより3にちから途中とちゅう休場きゅうじょう

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i j k ベースボールマガジンしゃ大相撲おおずもう名門めいもん列伝れつでんシリーズ(4) 立浪たつなみ部屋へや』p30
  2. ^ a b c d e f g h i 北辰ほくしんどう出版しゅっぱん昭和しょうわ平成へいせい 大相撲おおずもうめい力士りきし100列伝れつでん』(塩澤しおざわみのるしんじ、2015ねん)32ページから33ページ
  3. ^ a b c d e f g h i 秋田あきたいさお新報しんぽう日曜にちよう連載れんさい秋田あきたんだ横綱よこづな照国てるくに物語ものがたり
  4. ^ 朝日新聞あさひしんぶん1953ねん1がつ23にちづけ社会しゃかいめん
  5. ^ 朝日新聞あさひしんぶん1953ねん1がつ24にちづけスポーツめん
  6. ^ 降格こうかく規則きそくができていたららくれた」双葉ふたばさんかした“背水はいすい重圧じゅうあつ”(1/2ページ) 日刊にっかんゲンダイDIGITAL 2023/03/17 06:00 (2023ねん3がつ18にち閲覧えつらん)

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外部がいぶリンク[編集へんしゅう]