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きんはま貞雄さだお

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
きんヶ濵 貞雄さだお
1959ねんごろ
基礎きそ情報じょうほう
四股しこめい 宇草 貞雄さだおきんヶ濵 貞雄さだお
本名ほんみょう 宇草 貞雄さだお
生年月日せいねんがっぴ 1927ねん10がつ10日とおか
ぼつ年月日ねんがっぴ (1981-06-07) 1981ねん6月7にち(53さいぼつ
出身しゅっしん 香川かがわけん三豊みとよぐん現在げんざい観音寺かんおんじ
身長しんちょう 177cm
体重たいじゅう 117kg
BMI 37.35
所属しょぞく部屋へや しょせき部屋へや佐渡さどだけ部屋へや
得意とくいわざ ひだりよっつ、うちけ、上手じょうず
成績せいせき
現在げんざい番付ばんづけ 引退いんたい
最高さいこう ひがし大関おおぜき
生涯しょうがい戦歴せんれき 500しょう384はい92きゅう(69場所ばしょ
幕内まくうち戦歴せんれき 441しょう352はい92きゅう(59場所ばしょ
優勝ゆうしょう 十両じゅうりょう優勝ゆうしょう1かい
しょう 殊勲賞しゅくんしょう2かい
敢闘かんとうしょう1かい
技能ぎのうしょう5かい
データ
はつ土俵どひょう 1945ねん11月場所ばしょ
入幕にゅうまく 1950ねん5月場所ばしょ
引退いんたい 1962ねん11月場所ばしょ
備考びこう
金星かなぼし7かがみさと1個いっこ千代ちよやま2とちにしき3よし葉山はやま1個いっこ
2019ねん7がつ3にち現在げんざい

きんヶ濵 貞雄さだお(ことがはま さだお、1927ねん10がつ10日とおか - 1981ねん6月7にち[1][2])は、香川かがわけん三豊みとよぐん現在げんざいどうけん観音寺かんおんじ出身しゅっしん出生しゅっしょう宮崎みやざきけん)で佐渡さどだけ部屋へや入門にゅうもんしょせき部屋へや)に所属しょぞくした大相撲おおずもう力士りきし本名ほんみょう宇草 貞雄さだお(うくさ さだお)。最高さいこうひがし大関おおぜき現役げんえき時代じだい体格たいかくは177cm、117kg。得意とくいしゅひだりよっつ、うち上手じょうず[3]

来歴らいれき[編集へんしゅう]

大相撲おおずもう[編集へんしゅう]

宮崎みやざきけんうま仲買人なかがいにん長男ちょうなんとしてまれ、のち香川かがわけんうつった。おさなころから大柄おおがら体格たいかくで17さいときには身長しんちょう169cmにたっした。

高等こうとう小学校しょうがっこう卒業そつぎょうすると父親ちちおや早世そうせいした影響えいきょう1944ねん9月に海軍かいぐん志願しがん、その体格たいかくから上官じょうかん見出みいだされ海軍かいぐん相撲すもう参加さんかすることになった。敗戦はいせんによりぐん解散かいさんすると故郷こきょうかえったがうにこまらないとの理由りゆう力士りきしになろうとおもい、同郷どうきょう初代しょだい琴錦ことにしき紹介しょうかいしてもらい、しょせき部屋へや入門にゅうもんした[4]1945ねん11月場所ばしょ本名ほんみょうの「宇草」ではつ土俵どひょう[3]

きんヶ濵の四股しこめいは、のち師匠ししょうとなる琴錦ことにしき海岸かいがん浜辺はまべ)にある観音寺かんおんじにちなんで、行司ぎょうじの7代目だいめしきもりにしき太夫たゆう命名めいめいした。

素質そしつにはめぐまれなかったが大変たいへん稽古けいこ熱心ねっしん地力じりきをつけ、翌年よくねん入門にゅうもんした若ノ花わかのはなとの稽古けいこはげしさはいまでも当時とうじひとあいだかたがれている。もう稽古けいこんだきっかけは、入門にゅうもんしてあいだもない若ノ花わかのはなし、かれ元気げんきづけようととも蕎麦そばべにこうとしたところ、力道山りきどうざんから脱走だっそうしようとしたと誤解ごかいされたためだった。以来いらい力道山りきどうざんからけられ若ノ花わかのはな同様どうよういのち危険きけんかんじるほどのもう稽古けいこをさせられた[4][5]。いつまでも体重たいじゅうかるいままだったのも「稽古けいこぎるせいだ」とひょうされた(そもそも部屋へやにアンコがたがいなかったという[3])。のちによき稽古けいこ相手あいてであると同時どうじ親友しんゆうでもある若乃花わかのはな横綱よこづな昇進しょうしんすると土俵入どひょういでは太刀持たちもつとめた。きたげた赤銅しゃくどうしょく体躯たいく精悍せいかん面構つらがまえで「南海なんかいくろひょう」とあだされた[3]

1946ねん左足ひだりあし負傷ふしょう、これがきんヶ濵の運命うんめいめた。左足ひだりあしかばかせぎみにして相撲すもうるようになったが、これを有効ゆうこう利用りようする方法ほうほうかんがないけを使つかうようになった。兄弟子あにでしであるたまさくら指導しどうによりこしまわ稽古けいこおこなって威力いりょくしたが、あまりの熱心ねっしんさに負傷ふしょうして便所べんじょけなくなることさえあった。こし使つかってまわしをり、相手あいて再度さいどろうとばしたところで左足ひだりあしばしがまはらうがことくめるうちけの威力いりょくから「うちけといったらきんヶ濵、きんヶ濵といったらうちけ」とわれるようになった。うちけは1場所ばしょに5ばんぐらいしかけており、きんはまが5かい受賞じゅしょうした技能ぎのうしょうは「うちしょう」ともわれた[4][5]

関取せきとり昇進しょうしん以後いご[編集へんしゅう]

1949ねん10がつ場所ばしょじゅうりょう昇進しょうしんし、1950ねん5月場所ばしょしん入幕にゅうまく[3]1955ねんもと兄弟子あにでし佐渡さどだけ親方おやかたもと小結こむすび琴錦ことにしき)がしょせき部屋へやから独立どくりつして佐渡さどだけ部屋へや創設そうせつしたが、きんヶ濵のしょせき部屋へやから佐渡さどだけ部屋へやへの移籍いせきは、1958ねん11月場所ばしょまえ実現じつげんした。本来ほんらい部屋へや新設しんせつのタイミングでないと移籍いせきみとめられないが、看板かんばん力士りきしうしないたくなかったしょせき移籍いせきおくらせたという。

幕内まくうち上位じょうい活躍かつやくするようになり「わしうちけなどくらわん」と豪語ごうごした横綱よこづなとちにしきうちけをめた[5]さいとちにしきうち封印ふういん宣言せんげん二度にど使つかわなかった。また、きたようが「うちけがたらそとでひっくりかえしてやる」と作戦さくせんてたさいにもうちけでたおすなど、猛威もういるった。小結こむすび地位ちいにあった1957ねん1がつ場所ばしょ休場きゅうじょうして3がつ場所ばしょでは前頭まえがしら8まいまでちたがその場所ばしょで12しょう3はい好成績こうせいせきげてから好調こうちょうつづき、西にしちょういずる小結こむすび地位ちいむかえた同年どうねん5がつ場所ばしょでは12しょう3はい西にしちょういずる関脇せきわけ地位ちいむかえたよく9がつ場所ばしょでは11しょう4はいひがし関脇せきわけ地位ちいいたつぎの11月場所ばしょでは10しょう5はいという好成績こうせいせきのこし、この3場所ばしょ大関おおぜき昇進しょうしん必要ひつようだった「3場所ばしょ30しょう」という当時とうじ目安めやすよりいちまわたか成績せいせきのこしていた。

ところが直前ちょくぜん場所ばしょが10しょうまりであった理由りゆうから、昇進しょうしん見送みおくられた。1957ねんは1がつ場所ばしょ途中とちゅう休場きゅうじょうしており、これがなければ年間ねんかん最多さいたかち受賞じゅしょうできたであろうと、同年どうねん11がつおこなわれた玉乃たまのうみ太三郎たさぶろうとの対談たいだんはなしている[6]つぎ1958ねん1がつ場所ばしょではひがし関脇せきわけで11しょう4はい成績せいせきげたが、再度さいど却下きゃっかされる。それでも3場所ばしょ連続れんぞくひがし関脇せきわけ地位ちいむかえたよく3がつ場所ばしょでは、13しょう2はい好成績こうせいせきのこ大関おおぜきあさしおとの優勝ゆうしょう決定けっていせん出場しゅつじょうしくもやぶ優勝ゆうしょうのがしたが直前ちょくぜん場所ばしょだい活躍かつやくみとめられて、ようやく念願ねんがん大関おおぜき昇進しょうしんした[3]

大関おおぜき昇進しょうしん翌年よくねんまでは好成績こうせいせきおお横綱よこづな昇進しょうしん期待きたいされたが、以後いごやまい負傷ふしょうくるしみたせなかった。公式こうしき記録きろくされているものだけでも数多かずおおくあるが、とく右足みぎあし親指おやゆび負傷ふしょうしてからは不振ふしんつづきで、2場所ばしょ連続れんぞくしでの角番かどばんわせて3当時とうじの「大関おおぜきは3場所ばしょ連続れんぞくしで陥落かんらくする」という特権とっけんてき制度せいど活用かつようしているとまでわれるほど不振ふしんぶりだった[4]じくあしとなる右足みぎあしちからはいらなくてはきんヶ濵最大さいだい武器ぶきである左内さないけは威力いりょく発揮はっきできなくなった。めい大関おおぜきともばれる反面はんめん、この現役げんえき晩年ばんねん不調ふちょう評価ひょうかげたともわれる。

最初さいしょ角番かどばんむかえた1961ねん1がつ場所ばしょ千秋楽せんしゅうらく大関おおぜき柏戸かしわどと12しょう2はい同士どうしったほう優勝ゆうしょうあいほし決戦けっせん結果けっか敗退はいたい)までもつれたのが最後さいごひかりだった。

1962ねん11月場所ばしょ現役げんえき引退いんたい[3]し、年寄としより尾車おぐるま襲名しゅうめい

引退いんたいは、きんさくらのよき相談そうだん相手あいてとなり佐渡さどだけもと琴錦ことにしき)の死後しご部屋へやかれ継承けいしょうしてからも補佐ほさなが審判しんぱん委員いいんつとめたが、1981ねん6月7にち脳出血のうしゅっけつのため東京とうきょう新宿しんじゅくうち病院びょういん死去しきょした。53さいぼつ

没後ぼつご尾車おぐるま名跡みょうせきは、琴乃ことの富士ふじもと前頭まえがしら5)が3年間ねんかん襲名しゅうめいしたのちおな佐渡さどだけ部屋へや大関おおぜきであるきんふう継承けいしょうした。

人物じんぶつ・エピソード[編集へんしゅう]

  • 1957ねん11月場所ばしょ座談ざだんかいでは、期待きたい力士りきしとして当時とうじさんだんであった納谷なや横綱よこづな大鵬たいほう)の名前なまえげた。その座談ざだんかい出席しゅっせきしゃであった玉乃たまのうみ当時とうじ幕下まくしたであった玉響たまゆらや、きのえかた大文字おおもじなどのげた[6]
  • 1957ねん11月場所ばしょ10日とおかやすねんやまとの稽古けいこかたほねいためたが、11にちあさしおせんひかえているとき郷里きょうり香川かがわけんから応援おうえんてくれた平尾ひらおという後援こうえんしゃ玉乃たまのうみ取組とりくみてくれており、片腕かたうでがらないなかあさしお勝利しょうり平尾ひらおよろこんでなみだながし、この場所ばしょは10しょうげた[6]
  • 稽古けいこ熱心ねっしんぶりは弟弟子おとうとでしからおそれられたが、きびしい稽古けいこなかでの指導しどうけっして間違まちがってはおらず、横綱よこづなきんさくらなどもきんヶ濵にきたえられた。またきびしい反面はんめんユーモアにあふれ、弟弟子おとうとでしへの面倒めんどうさでもられた。
  • つま関脇せきわけ磐石ばんじゃくむすめ息子むすこきん宇草、のちちちおなきんヶ濵に改名かいめいちち死後しご佐渡さどだけ部屋へや入門にゅうもん1982ねん3がつ場所ばしょはつ土俵どひょう1988ねん5月場所ばしょさんだん優勝ゆうしょうたして注目ちゅうもくされたが、幕下まくしたかべをなかなかやぶれず、最高さいこうひがし幕下まくした35まい(1988ねん7がつ場所ばしょ)にとどまった。1991ねん9月場所ばしょかぎ廃業はいぎょうさんだん上位じょういながかった。
  • 同郷どうきょう中西なかにしふとしとはなかく、よくあるいたという。
  • 晩年ばんねん、60キロほどにまで体重たいじゅうちたが「やっとむかしもどった」とわらっていた。
  • 故郷こきょう香川かがわけん寺院じいん海岸かいがんてら山門さんもんには、仁王におうぞうわりに、同郷どうきょうだいごうひさあきらわかさんすぎ彰晃しょうこうとも銅像どうぞう力士りきし姿すがたっている。

おも成績せいせき記録きろく[編集へんしゅう]

  • 通算つうさん成績せいせき:500しょう384はい92きゅう 勝率しょうりつ.566
  • 幕内まくうち成績せいせき:441しょう352はい92きゅう 勝率しょうりつ.556
  • 大関おおぜき成績せいせき:185しょう152はい83きゅう 勝率しょうりつ.549
  • 現役げんえき在位ざいい:69場所ばしょ
  • 幕内まくうち在位ざいい:59場所ばしょ
  • 大関おおぜき在位ざいい:28場所ばしょ[3]
  • さんやく在位ざいい:9場所ばしょ関脇せきわけ5場所ばしょ小結こむすび4場所ばしょ
  • さんしょう:8かい
    • 殊勲賞しゅくんしょう:2かい(1958ねん1がつ場所ばしょ、1958ねん3がつ場所ばしょ
    • 技能ぎのうしょう:5かい(1955ねん3がつ場所ばしょ、1956ねん5がつ場所ばしょ、1957ねん5がつ場所ばしょ、1957ねん9がつ場所ばしょ、1958ねん3がつ場所ばしょ
    • 敢闘かんとうしょう:1かい(1957ねん3がつ場所ばしょ
  • 雷電らいでんしょう:1かい(1958ねん3がつ場所ばしょ
  • 金星かなぼし:7かがみさと1個いっこ千代ちよやま2とちにしき3よし葉山はやま1個いっこ
  • かくだん優勝ゆうしょう
    • 十両じゅうりょう優勝ゆうしょう:1かい(1949ねん10がつ場所ばしょ

場所ばしょべつ成績せいせき[編集へんしゅう]

きんはま 貞雄さだお
春場所はるばしょ 夏場所なつばしょ 秋場所あきばしょ
1945ねん
昭和しょうわ20ねん
x x 西新にしじんじょ
0–4 
1946ねん
昭和しょうわ21ねん
x 国技こくぎかん修理しゅうり
のため中止ちゅうし
西にしじょだん21まい
5–2 
1947ねん
昭和しょうわ22ねん
x ひがしじょだん6まい
4–1 
ひがしさんだん10まい
5–1 
1948ねん
昭和しょうわ23ねん
x ひがし幕下まくした22まい
3–3 
ひがし幕下まくした21まい
5–1 
1949ねん
昭和しょうわ24ねん
ひがし幕下まくした7まい
6–6 
ひがし幕下まくした4まい
12–3 
西にしじゅうりょう11まい
優勝ゆうしょう
11–4
1950ねん
昭和しょうわ25ねん
ひがしじゅうりょう2まい
8–7 
西前にしまえあたま22まい
8–7 
西前にしまえあたま17まい
9–6 
1951ねん
昭和しょうわ26ねん
西前にしまえあたま13まい
8–7 
ひがし前頭まえがしら12まい
8–7 
ひがし前頭まえがしら7まい
6–6–3 
1952ねん
昭和しょうわ27ねん
ひがし前頭まえがしら9まい
10–5 
ひがし前頭まえがしら4まい
6–9 
西前にしまえあたま6まい
11–4 
いちがつ場所ばしょ
初場所はつばしょ東京とうきょう
さんがつ場所ばしょ
春場所はるばしょ大阪おおさか
五月ごがつ場所ばしょ
夏場所なつばしょ東京とうきょう
なながつ場所ばしょ
名古屋なごや場所ばしょ愛知あいち
九月場所くがつばしょ
秋場所あきばしょ東京とうきょう
十一月じゅういちがつ場所ばしょ
九州きゅうしゅう場所ばしょ福岡ふくおか
1953ねん
昭和しょうわ28ねん
西にし小結こむすび
5–10 
ひがし前頭まえがしら3まい
7–8
西前にしまえあたま4まい
5–10 
x ひがし前頭まえがしら7まい
7–8 
x
1954ねん
昭和しょうわ29ねん
ひがし前頭まえがしら8まい
7–8 
西前にしまえあたま9まい
9–6 
ひがし前頭まえがしら5まい
8–7 
x 西前にしまえあたま2まい
7–8 
x
1955ねん
昭和しょうわ30ねん
ひがし前頭まえがしら4まい
7–8
西前にしまえあたま5まい
10–5
わざ
ひがし前頭まえがしら筆頭ひっとう
7–8
x 西前にしまえあたま2まい
5–10 
x
1956ねん
昭和しょうわ31ねん
西前にしまえあたま6まい
10–5
ひがし前頭まえがしら筆頭ひっとう
9–6
ひがし小結こむすび
10–5
わざ
x 西にし関脇せきわけ
7–8 
x
1957ねん
昭和しょうわ32ねん
西にしちょういずる小結こむすび
1–8–6 
ひがし前頭まえがしら8まい
12–3
西にしちょういずる小結こむすび
12–3
わざ
x 西にしちょういずる関脇せきわけ
11–4
わざ
ひがし関脇せきわけ
10–5 
1958ねん
昭和しょうわ33ねん
ひがし関脇せきわけ
11–4
こと
ひがし関脇せきわけ
13–2[7]
わざこと
西にし大関おおぜき
11–4 
東大とうだいせき
10–5 
東大とうだいせき
11–4 
東大とうだいせき
10–5 
1959ねん
昭和しょうわ34ねん
西にし大関おおぜき
2–6–7 
西にし大関おおぜき
11–4 
東大とうだいせき
8–7 
東大とうだいせき
12–3 
東大とうだいせき
0–6–9 
西にし大関おおぜき
10–5 
1960ねん
昭和しょうわ35ねん
西にし大関おおぜき
9–6 
東大とうだいせき
8–7 
東大とうだいせき
3–7–5 
西にし大関おおぜき
10–5 
東大とうだいせき
6–9 
ひがしちょういずる大関おおぜき
1–6–8 
1961ねん
昭和しょうわ36ねん
西にしちょういずる大関おおぜき
12–3[8] 
西にし大関おおぜき
9–6 
ひがしちょういずる大関おおぜき
5–10 
ひがしちょういずる大関おおぜき2
0–5–10 
ひがしちょういずる大関おおぜき2
9–6[8] 
東大とうだいせき
3–7–5 
1962ねん
昭和しょうわ37ねん
西にし大関おおぜき
9–6 
東大とうだいせき
4–7–4 
西にしちょういずる大関おおぜき
休場きゅうじょう
0–0–15
ひがしちょういずる大関おおぜき2
10–5[8] 
西にし大関おおぜき
2–8–5 
ひがしちょういずる大関おおぜき2
引退いんたい
0–0–15
かくらん数字すうじは、「ち-け-休場きゅうじょう」をしめす。    優勝ゆうしょう 引退いんたい 休場きゅうじょう じゅうりょう 幕下まくした
さんしょう=敢闘かんとうしょうこと=殊勲賞しゅくんしょうわざ=技能ぎのうしょう     その=金星かなぼし
番付ばんづけ階級かいきゅう幕内まくうち - じゅうりょう - 幕下まくした - さんだん - じょだん - 序ノ口じょのくち
幕内まくうち序列じょれつ横綱よこづな - 大関おおぜき - 関脇せきわけ - 小結こむすび - 前頭まえがしら(「#数字すうじ」は各位かくいない序列じょれつ

幕内まくうち対戦たいせん成績せいせき[編集へんしゅう]

力士りきしめい かちすう 負数ふすう 力士りきしめい かちすう 負数ふすう 力士りきしめい かちすう 負数ふすう 力士りきしめい かちすう 負数ふすう
愛知あいちさん 2 0 あおさと 8 1 あさしお(米川よねかわ) 11 18* ひがし富士ふじ 1 4
愛宕山あたごやま 2 0 天津てんしんふう 1 0 いずみひろし 1 0 いち乃矢 1 0
よう 1 0  いわふう 11 5 宇多川うたがわ 1 1 大岩山おおいわやま 0 1
大内山おおうちやま 9 9 大江戸おおえど 1 0 大瀬川おおせがわ 1 0 大起だいき 6 4
だいのぼる 6 1 だいあきら 16 6(1) 小城おぎはな 7 2 大蛇おろちかた 7 1
うみ乃山 1 1 甲斐かいやま 3 1 ひらけたかしさん 3 4 かがみさと 3 15
柏戸かしわど 4 9 きむ乃花 2 0 かみにしき 2 0 きたよう 14 10
北葉きたばさん 7 9(2) 清恵きよえなみ 2 3 九州きゅうしゅうにしき 2 1 くにとう 5 5
高津山こうづやま 0 2 小坂川おさかがわ 1 0 さくらこく 1 0 さくらにしき 0 1
佐田さだやま 3 2 うしおにしき 9 8 信夫山しのぶやま 16 4 しまにしき 1 1
清水しみずがわ 8 3 千代ちよやま 4 13 つねにしき 0 1 つねやま 2 3
つるみね 14 8 てるのぼる 4 3 出羽でわにしき 16 14(1) 出羽でわみなと 5 3
時津とぎつさん 13 12 どきにしき 6 1 とちにしき 7 20 とちうみ 1 3
とちひかり 16 10(1) 豊國ほうこく 0 2 ゆたかとう 1 0 名寄岩なよろいわ 3 4
鳴門なるとかい 6 5 成山なりやま 7 8 白龍はくりゅうさん 0 1 羽黒はぐろはな 3 4
羽黒山はぐろさん 19 12(1) 羽黒山はぐろさん 1 1 はねしまさん 12 5 緋縅ひおどし 1 2
備州やま 1 0 広瀬川ひろせがわ 1 1 ぶくさと 0 1 ぼうにしき 8 8
藤田ふじた 0 1 冨士ふじにしき 6 7 二瀬ふたせさん 4 2 そうりゅう 7 4
不動ふどうがん 0 2 ほしかぶと 1 0 前田川まえだがわ 2 3 ぞうさん 4 1
まつのぼる 15 8(2) 三根みつねさん 10 3 みどりこく 0 1 宮城みやぎかい 2 1
みやにしき 4 1 あきら武谷たけや 2 0 八方山はっぽうざん 1 1 豊山とよやま 1 2 
吉井よしいやま 4 2 吉田川よしだがわ 2 0 芳野よしのみね 1 0 よし葉山はやま 4 9
わか瀬川せかわ] 7 2 わか羽黒はぐろ 11 17 若葉わかばさん 8 1 わか前田まえだ 11 7
※カッコないかちすう負数ふすうなかめる不戦勝ふせんしょう不戦敗ふせんぱいかず

改名かいめいれき[編集へんしゅう]

  • 宇草 貞雄さだお(うくさ さだお)1945ねん11月場所ばしょ - 1947ねん6がつ場所ばしょ
  • きんヶ濵 貞雄さだお(ことがはま - ) 1947ねん11月場所ばしょ - 1962ねん11月場所ばしょ

年寄としより変遷へんせん[編集へんしゅう]

  • 尾車おぐるま 貞男さだお(おぐるま さだお)1962ねん11月 - 1981ねん6がつ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 人物じんぶつ物故ぶっこだい年表ねんぴょう
  2. ^ きんはま貞雄さだお』 - コトバンク
  3. ^ a b c d e f g h ベースボールマガジンしゃ大相撲おおずもう名門めいもん列伝れつでんシリーズ(2) しょせき部屋へや』p23
  4. ^ a b c d 北辰ほくしんどう出版しゅっぱん昭和しょうわ平成へいせい 大相撲おおずもうめい力士りきし100列伝れつでん』(塩澤しおざわみのるしんじ、2015ねん)60ページから61ページ
  5. ^ a b c ベースボールマガジンしゃ大相撲おおずもう戦後せんご70ねん』18ページ
  6. ^ a b c ベースボールマガジンしゃ大相撲おおずもう名門めいもん列伝れつでんシリーズ(2) しょせき部屋へや』p53-56
  7. ^ あさしお優勝ゆうしょう決定けっていせん
  8. ^ a b c 大関おおぜき角番かどばんぜん3かい

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]