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若乃花わかのはなみき (初代しょだい)

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若乃花わかのはなみき (初代しょだい)
若乃花わかのはな(1961ねん
基礎きそ情報じょうほう
四股しこめい 若ノ花わかのはな 義美よしみ若ノ花わかのはな 勝治かつじ若乃花わかのはな 勝治かつじ若乃花わかのはな みき
本名ほんみょう 花田はなた 勝治かつじ
愛称あいしょう オオカミ、土俵どひょうおに[1]
生年月日せいねんがっぴ (1928-03-16) 1928ねん3月16にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (2010-09-01) 2010ねん9月1にち(82さいぼつ
出身しゅっしん 日本の旗 日本にっぽん青森あおもりけん弘前ひろさき青女子あおなご
身長しんちょう 179cm
体重たいじゅう 107kg
BMI 33.40
所属しょぞく部屋へや しょせき部屋へやしば田山たやま部屋へやはなかご部屋へや
得意とくいわざ ひだりよっつ、上手じょうずげ、もど
成績せいせき
現在げんざい番付ばんづけ 引退いんたい
最高さいこう だい45だい横綱よこづな
生涯しょうがい戦歴せんれき 593しょう253はい70きゅう4ふん(65場所ばしょ
幕内まくうち戦歴せんれき 546しょう235はい4ふん55きゅう(57場所ばしょ
優勝ゆうしょう 幕内まくうち最高さいこう優勝ゆうしょう10かい
さんだん優勝ゆうしょう1かい
じょだん優勝ゆうしょう1かい
しょう 殊勲賞しゅくんしょう2かい
敢闘かんとうしょう2かい
技能ぎのうしょう1かい
データ
はつ土俵どひょう 1946ねん11月場所ばしょ[1]
入幕にゅうまく 1950ねん1がつ場所ばしょ[1]
引退いんたい 1962ねん5月場所ばしょ[1]
引退いんたい 二子山ふたごやま部屋へや師匠ししょう
日本にっぽん相撲すもう協会きょうかいだい6だい理事りじちょう
趣味しゅみ 映画えいが[2]
備考びこう
金星かなぼし6(羽黒山はぐろさん2ひがし富士ふじ2千代ちよやま2)
2014ねん3月22にち現在げんざい

初代しょだい 若乃花わかのはな みき(わかのはな かんじ)、1928ねん昭和しょうわ3ねん3月16にち - 2010ねん平成へいせい22ねん9月1にち)は、青森あおもりけん弘前ひろさき青女子あおなご(あおなご)出身しゅっしんで、入門にゅうもん当時とうじしょせき部屋へや1953ねんはなかご部屋へや独立どくりつとともに移籍いせき)に所属しょぞくした大相撲おおずもう力士りきしだい45だい横綱よこづな本名ほんみょう花田はなた 勝治かつじ(はなだ かつじ。身長しんちょう179cm、体重たいじゅう107kgで、血液けつえきがたはBがた弘前ひろさき名誉めいよ市民しみん通称つうしょう土俵どひょうおにばれ、戦後せんごさい軽量けいりょう横綱よこづな[3]である。 引退いんたい二子山ふたごやま部屋へや創設そうせつし、のちおとうとでもある大関おおぜき初代しょだいたかはな(のち藤島ふじしま二子山ふたごやま)、横綱よこづな2代目だいめ若乃花わかのはな(のちあいだかき)、横綱よこづなりゅうさと(のち鳴戸なると)、大関おおぜきわか嶋津しまづ(のちまつしょせき)らをそだて、日本にっぽん相撲すもう協会きょうかい理事りじちょうつとめた[1]

だい65だい横綱よこづな2代目だいめ貴乃花たかのはな(のちいちだい年寄としより貴乃花たかのはな親方おやかたげんタレント)とだい66だい横綱よこづな3代目だいめ若乃花わかのはな(のち藤島ふじしまげん実業じつぎょうタレント花田はなたとらじょう)の二人ふたりおいにあたる。 愛人あいじん関係かんけいにあった韓国かんこくじん女性じょせいとのあいだ息子むすこ藤島ふじしま部屋へや入門にゅうもんし、1989ねん3がつはつ土俵どひょうわか剛志ごうし四股しこめい幕下まくしたまで昇進しょうしんした(1997ねん1がつ引退いんたい[ちゅう 1]。 

来歴らいれき[編集へんしゅう]

誕生たんじょうから入門にゅうもんまで[編集へんしゅう]

青森あおもりのリンゴえん農家のうかに10にん兄弟きょうだい長男ちょうなんとしてまれた。1934ねん室戸むろと台風たいふうのため作物さくもつ全滅ぜんめつして一家いっか破産はさん状態じょうたい北海道ほっかいどう室蘭むろらん移住いじゅうした[4]沖仲仕おきなかしなどの力仕事ちからしごと従事じゅうじし、戦争せんそう傷痍軍人しょういぐんじんになったちちわって家計かけいささえた。普通ふつうおとこが70 - 110kgの鉄鉱てっこうせき石炭せきたんかつぐところを国民こくみん学校がっこう卒業そつぎょうしたばかりの花田はなたは150kgをかついでなん往復おうふくし、荷物にもつおもさが200kgにたっするなどのち相撲すもう発揮はっきする身体しんたい能力のうりょく片鱗へんりんせた。大人おとなばいかせ一方いっぽうで、鉱石こうせきはいっているタンクにちて「んでくのはこういう気持きもちか」とおもうこともあり、3000ボルト電圧でんあつれてあたまをハンマーでなぐられたようにばされたこともあるなど、入門にゅうもんまえからなん生死せいしさかいをさまよう経験けいけんをしていた[5]

1946ねん大関おおぜき佐賀さがはなしょせき一門いちもん巡業じゅんぎょうもよおされた相撲すもう大会たいかいりで参加さんか本職ほんしょく力士りきしすうめいたおした。当時とうじ花田はなた長身ちょうしんであったが体重たいじゅうは70kgぐらいと推定すいていされ、本職ほんしょく力士りきしたおしたとはいえ自分じぶんよりはるかに体格たいかく人間にんげんにはかなわず、当時とうじ花田はなた草相撲くさずもうたおした経験けいけんのある人物じんぶつなかには、復員ふくいんしてきたばかりでのちにJRA顕彰けんしょうマルゼンスキー生産せいさんし、もとスピードスケート選手せんしゅ参議院さんぎいん議員ぎいん橋本はしもと聖子せいこ実父じっぷでもある橋本はしもと善吉ぜんきちもいた[ちゅう 2]

本職ほんしょく力士りきしたおしたことがだいうみ(のちの師匠ししょうはなかご)のまり、はたらうしないたくない父親ちちおや反対はんたいって上京じょうきょうし、杉並すぎなみ真盛しんぜいてら間借まがりしていたしょせき部屋へやだいうみ内弟子うちでしとして入門にゅうもんした。条件じょうけんは「3ねん関取せきとりになれなければかえる」というものだったという。当初とうしょ70kg程度ていど軽量けいりょうであったため力士りきしとしては無理むりではないかと周囲しゅうい不安ふあんされていたが、だいうみ自身じしん内弟子うちでしにするとうしたてになって特別とくべつ入門にゅうもんみとめた[6]。「若ノ花わかのはな」の四股しこめいだいうみわかときゆずられたもの。このため後年こうねん、「若ノ花わかのはな若乃花わかのはな全部ぜんぶ何人なんにんか」という問題もんだいりざたされた。もちろん、かれ初代しょだいとするすうほう一般いっぱんてきではあるが、自身じしんは「師匠ししょう初代しょだい自分じぶん代目だいめ」とかぞえていた。

入門にゅうもん[編集へんしゅう]

入門にゅうもんは「しょ一門いちもんあら稽古けいこ」でちからけた。当時とうじ部屋へや幕内まくうちは、神風かみかぜ力道山りきどうざん佐賀さがはな琴錦ことにしきなど分家ぶんけ独立どくりつ念頭ねんとういて内弟子うちでしきびしくきたえていたものおおく、稽古けいこ本場所ほんばしょさながらの様子ようすであった[4]入門にゅうもん直後ちょくご開催かいさいされた双葉ふたばさん引退いんたい相撲すもうを3かいから見学けんがくすると、うえから世紀せいきだい横綱よこづな意外いがいちいさくえて、ちいさい身体しんたい自分じぶんでも努力どりょくすればやれるのではと奮起ふんきした[7]もっとかれをしごいたのはのちプロレスりする力道山りきどうざんで、成績せいせき不振ふしんおちいった場所ばしょ景気けいきけに兄弟子あにでしきんはま蕎麦そばべにこうとしたところ、力道山りきどうざんつかり夜逃よにげと勘違かんちがいされてけられた[8]。あるとき、あまりのもう稽古けいこ土俵どひょうったままてなくなったが、それでも容赦ようしゃがなく、このままではころされると力道山りきどうざんずねにかみ[4]まわ姿すがたのまま部屋へやから脱走だっそうしてちかくの隅田川すみだがわんだ。のちのプロレスラー力道山りきどうざんのトレードマークであるくろタイツは、このとき古傷ふるきずかくすためともいう[9]本人ほんにん力道山りきどうざんからの援助えんじょおしえはにしみたと述懐じゅっかいしている。

のち大関おおぜきとなるきんはまとの稽古けいこすさまじいものだったという。当時とうじ高砂たかさごしょせき合同ごうどう巡業じゅんぎょうつことがおおかったので、ひがし富士ふじにも可愛かわいがられた。かがみさともまた若ノ花わかのはなによく稽古けいこをつけていた。

1946ねん11月場所ばしょはつ土俵どひょうからかくだん優勝ゆうしょうちか成績せいせきで、1949ねん5月場所ばしょ家族かぞく約束やくそくした3ねんよりやく半年はんとしはやじゅうりょう昇進しょうしんしょせき一門いちもん創始そうししゃであるだい師匠ししょうたまにしきおくられた[7]。このあいだはじめて番付ばんづけった1947ねん5月場所ばしょで1だけしたが(2しょう3はい)、その幕内まくうち上位じょうい進出しんしゅつするまですことはなかった。

大兵だいひょう相手あいてにもがっぷりよっつで対抗たいこうする力士りきしであった[1]下半身かはんしんつよさ、とくひざのバネに独特どくとくのものがあり、「能力のうりょく」とあだされた。あし筋肉きんにくかた見事みごとであり、これは室蘭むろらん時代じだい舟板ふないたうえでの労役ろうえきによるところがおおきいとされる。その必殺ひっさつわざとして名高なだかい「もど[1]実際じっさいった体験たいけんしゃである鳴門なるとかいなどが、「腕力わんりょくでなく、下半身かはんしんからのちからてられるかんじ」と証言しょうげんしている。たわらあしがかかってもそれ以上いじょううしろにがらない足腰あしこしして「かかとにがある」とひょうされたこともある[2]本来ほんらいひだりよっつであったが、上位じょういかお地位ちいになってからはみぎわきかた先輩せんぱい横綱よこづな千代ちよやま攻略こうりゃくするためにみぎしを研究けんきゅう。1953ねん1がつ場所ばしょ千代ちよやませんはそれがこうそうした一番いちばんわれる[10]

この「能力のうりょく」のほかに、わかは「オオカミ」のあだがあった。一説いっせつ力道山りきどうざんずねいたさい様子ようすがオオカミのようだったからともう。のちに「ウルフ」のあだ千代ちよ富士ふじ出世しゅっせするさいにこのあだがクローズアップされた。角界かくかいには“動物どうぶつのあだくと出世しゅっせする”といういいつたえがあるが、若ノ花わかのはなはそのいいつたえを証明しょうめいするかのように番付ばんづけげていった。

1953ねん師匠ししょうだいうみ引退いんたいともしょせき部屋へやから独立どくりつし、はなかご部屋へや独立どくりつ当初とうしょしば田山たやま部屋へや)を創設そうせつするとそれにしたがうが、当初とうしょしょう部屋へやゆえの苦労くろうえなかった。巡業じゅんぎょうさき見付みつからず、「日本一にっぽんいち貧乏びんぼう部屋へや」とわれながら辺鄙へんぴ土地とちかけて部屋へやわかしゅ相手あいてむね稽古けいこ延々えんえんつづけたという。

大関おおぜき昇進しょうしん[編集へんしゅう]

1955ねん秋場所あきばしょ千代ちよやまける

1955ねん9月場所ばしょ西にし関脇せきわけで10しょう4はい1ふん。この1引分ひきわけ横綱よこづな千代ちよやまみずなおけい17ふん15びょうおよ前代未聞ぜんだいみもん大相撲おおずもうすえだった。この相撲すもう評価ひょうかされ、場所ばしょ関脇せきわけまつのぼるとも大関おおぜき昇進しょうしんする[2]昇進しょうしんまえ3場所ばしょ通算つうさんぼしは28しょう引分ひきわけが2かいあるので事実じじつじょう29にひとしいが)なので、現在げんざい目安めやすえばあま昇進しょうしんだったことになる。当人とうにん大関おおぜきになれるとはおもいもよらず、番付ばんづけ編成へんせい会議かいぎあさ家族かぞくとともに旅行りょこうかけようとしたところを、新聞しんぶん記者きしゃ[ちゅう 3]められたという逸話いつわのこる。あわてて伝達でんたつしきけつけたことと当時とうじ昇進しょうしん伝達でんたつしき口上こうじょう定型ていけいしていなかったことがかさなって大関おおぜき昇進しょうしん伝達でんたつしきでは「ありがたくおけします」とのみはっして推挙すいきょじょうけたという[11]。1955ねん11月にはちち死去しきょし、はは懇願こんがんされて室蘭むろらん家族かぞくった。こうして室蘭むろらん家族かぞく6にん自身じしん家族かぞく4にんわせて10にん生活せいかつしん大関おおぜきとなった自身じしんかたにのしかかった[4]。しかし、しん大関おおぜき1956ねん1がつ場所ばしょの2大関おおぜきなか優勝ゆうしょうした横綱よこづなきょうさとに1しょうの13しょう2はい大関おおぜき推挙すいきょ失敗しっぱいではなかったことをみずか証明しょうめいしてみせた(ちなみに同時どうじ大関おおぜき昇進しょうしんしたまつのぼるのちに3場所ばしょ連続れんぞく大関おおぜき陥落かんらくすることになるが、大関おおぜき陥落かんらく決定けっていとなる黒星くろぼしけたのは若乃花わかのはなである)。

1956ねん夏場所なつばしょはつ優勝ゆうしょう優勝ゆうしょうパレード

よく3がつ場所ばしょ場所ばしょも12しょう3はい優勝ゆうしょう決定けっていせん出場しゅつじょう出場しゅつじょうしゃ関脇せきわけあさしおひがし前頭まえがしら15まいわか羽黒はぐろで、これは昭和しょうわまれで最初さいしょ幕内まくうち優勝ゆうしょうあらそ決定けっていせんともなった[ちゅう 4]若ノ花わかのはなわか羽黒はぐろにはったがあさしおやぶれ、あさしおがそのままわか羽黒はぐろにも連勝れんしょうして優勝ゆうしょうめた。つぎの5がつ場所ばしょも12しょう3はい前頭まえがしら9まいだいあきらとのこれも昭和しょうわまれ同士どうしとなる決定けっていせんせいしてはつ優勝ゆうしょうあさしおおくれることいち場所ばしょ2人ふたり昭和しょうわまれの幕内まくうち優勝ゆうしょう力士りきしになった。両国りょうこくはなれてやま優勝旗ゆうしょうきはこばれたのははじめてのことで、青梅おうめ街道かいどうにはすうじゅうまん見学けんがくしゃあつまったことで都電とでんはストップ、 若ノ花わかのはなせたオープンカーは、新宿しんじゅく西口にしぐちから阿佐ヶ谷あさがやはなかご部屋へやまで3あいだかかるほどの大騒おおさわぎとなった[12][13]

よく9がつ場所ばしょ横綱よこづなをかけたが、場所ばしょまえ長男ちょうなんちゃんこなべをひっくりかえして火傷かしょうくなるという悲運ひうん見舞みまわれる[4]稽古けいこどころではなく本場所ほんばしょ出場しゅつじょうあやぶまれたが出場しゅつじょう強行きょうこう愛児あいじしるした数珠じゅずをさげて場所ばしょりし、支度したく部屋へやでほとんど一言ひとことはっしないその姿すがた鬼気ききせまるものであった。みずりの苦戦くせんいられることのおおかった前頭まえがしら5まい出羽でわにしき[ちゅう 5]をあっというるなど初日しょにちから12連勝れんしょう連続れんぞく優勝ゆうしょう横綱よこづな確実かくじつ、あるいは全勝ぜんしょう優勝ゆうしょうなるかとおもわれたが、ひらたももせんえん発症はっしょう高熱こうねつおそわれ13にち休場きゅうじょう千秋楽せんしゅうらくには出場しゅつじょう意欲いよく横綱よこづなとちにしきわりまれたが当日とうじつ病状びょうじょう悪化あっかしてやむなくやす不戦敗ふせんぱい結局けっきょく12しょう2はい1きゅう(2はいはいずれも不戦敗ふせんぱい[ちゅう 6])にわる。つなりはゆめえたが、皮肉ひにくにもこの悲劇ひげきが「数珠じゅずをさげためい力士りきし」として若ノ花わかのはな人気にんきをさらにたかめた。よく1957ねんには日活にっかつ映画えいが若ノ花わかのはな物語ものがたり土俵どひょうおに』を制作せいさく若ノ花わかのはな自身じしん出演しゅつえんした。先輩せんぱい横綱よこづな羽黒山はぐろさんは「若ノ花わかのはななおれたのは全盛期ぜんせいき頂点ちょうてんにあったからこそであり、これがもしくだざかでの出来事できごとならガタガタとちていった」という趣旨しゅしのコメントをのこしている[14]

映画えいが若ノ花わかのはな物語ものがたり土俵どひょうおに』(1956ねん)に出演しゅつえんした若乃花わかのはなうえ

同年どうねん9がつ場所ばしょより「若乃花わかのはな」に改名かいめい画数かくすううらないですすめてくれるひとがあったのと、愛児あいじいち周忌しゅうき心機一転しんきいってんをはかるためとわれている。

1957ねん11月場所ばしょは12しょう3はい優勝ゆうしょう次点じてんで、よく1958ねん1がつ場所ばしょは13しょう2はいで2かい優勝ゆうしょうたし、場所ばしょだい45だい横綱よこづな推挙すいきょされる。この1がつ場所ばしょ直前ちょくぜん横綱よこづな審議しんぎ委員いいんかい横綱よこづな推薦すいせん内規ないきさだめていて、その適用てきようだい1ごうとなった。この審議しんぎでは、7にん委員いいんのうち舟橋ふなばし聖一せいいちが「大関おおぜき場所ばしょ連続れんぞく優勝ゆうしょうした場合ばあい」という原則げんそくくずしたくないとして強硬きょうこう反対はんたいし、委員いいん舟橋ふなばし説得せっとくにかかり[ちゅう 7]最終さいしゅうてき委員いいんちょう酒井さかい忠正ただまさ裁定さいてい一任いちにんするというかたち舟橋ふなばし[15]翌日よくじつ番付ばんづけ編成へんせい会議かいぎ酒井さかい出席しゅっせきして横綱よこづな推薦すいせん答申とうしんした。昭和しょうわまれで最初さいしょ、かつ戦後せんごはつ土俵どひょうんだ最初さいしょ横綱よこづなである[ちゅう 8]昇進しょうしん口上こうじょうは「横綱よこづなとしてずかしくない相撲すもうります」であった[16]

横綱よこづな力士りきしちがって降格こうかくゆるされない地位ちいであり、せば引退いんたい以外いがいみちはないため、自分じぶんやしなうべき家族かぞくのことをかんがえて、推挙すいきょけるべきかどうか、かなりなやんだという(大関おおぜき以下いか力士りきししてもそのとき実力じつりょく見合みあった番付ばんづけ比較的ひかくてきなが現役げんえきつづけることができるが、それは横綱よこづなにはゆるされず、横綱よこづなせば引退いんたいのみである)[4]

横綱よこづな昇進しょうしん[編集へんしゅう]

若乃花わかのはな横綱よこづな推挙すいきょけることにしたが、問題もんだいがあった。横綱よこづな自分じぶん専用せんようさんそろ化粧廻けしょうまわ新調しんちょうされるまでは一門いちもん先輩せんぱい横綱よこづなからりるのが通例つうれいだが、しょせき一門いちもんからはたまにしき以来いらいじつに20ねんぶりの横綱よこづな、しかもたまにしきぞろいの化粧廻けしょうまわしは戦時せんじちゅう空襲くうしゅうけてしまって使用しよう不能ふのうであるばかりか、こまったことに土俵入どひょういりを指導しどうする先輩せんぱい横綱よこづな一門いちもんにはいなかった。横綱よこづな昇進しょうしんさいしてどうしたらいかわからずにいた若乃花わかのはなたすけたのは、理事りじちょう時津風ときつかぜ[ちゅう 9]とその弟子でしきょうさとだった。事情じじょうった時津風ときつかぜみずか土俵入どひょういりの指導しどうけてくれたばかりか、戦災せんさい唯一ゆいいつけずに完全かんぜんかたちのこっていた自身じしんさんそろえの化粧廻けしょうまわしをすというけいらいをしてくれた[ちゅう 10]

とちわか時代じだい[編集へんしゅう]

とちにしき若乃花わかのはなりょう者共ものども入門にゅうもん当初とうしょ親方おやかたしゅから「じゅうりょうから、せいぜい小結こむすびまで」と予想よそうされるなど出世しゅっせたいする期待きたい凡百ぼんぴゃくのものであった[17]。のちのかしわおおとりあけぼのとうと入幕にゅうまくまえから注目ちゅうもくあつめたのにたいして、とちわかせん角界かくかい背負せおってたつ看板かんばんカードになると予想よそうしたものすくなかった[ちゅう 11]1950ねん9月場所ばしょではとちにしきひがし前頭まえがしら3まい若乃花わかのはなひがし4まい番付ばんづけならびながら取組とりくみまれなかった。それでも、1951ねん5月場所ばしょはつ対決たいけつがいきなりのだい勝負しょうぶつぎ対戦たいせんみずりのすえばんなおしと、とちにしきとの取組とりくみつねだい熱戦ねっせんであった。わざいとしのぎいではげしく土俵どひょううごまわ両雄りょうゆう姿すがたはたちまちファンを魅了みりょうし、当時とうじ登場とうじょうしたテレビの魅力みりょく発揮はっきするのにもふさわしいものであった。きた富士ふじによると、とちわか取組とりくみたいがために30まんえん(2016ねん時点じてん貨幣かへい価値かちで200まんえん相当そうとう)でダフからチケットをったひとがいるほどである[18]

はつ土俵どひょうおそかったこともあって、番付ばんづけめんではつねとちにしきうえおこなっており、大関おおぜき横綱よこづなとも、つねしいところでとちにしきのためにほしとしてのがしてきた。一方いっぽうとちにしきにとってもなん全勝ぜんしょう優勝ゆうしょうはばまれた相手あいてである。大関おおぜき昇進しょうしんはつ優勝ゆうしょうともとちにしき休場きゅうじょう対戦たいせんのなかった場所ばしょで、優勝ゆうしょう昇進しょうしんのかかる相撲すもう若乃花わかのはながはじめてとちにしきったのは、横綱よこづな昇進しょうしんめた1958ねん1がつ場所ばしょでのことだった。おたがいに横綱よこづなとなってからも、この最大さいだいのライバルとつねめい勝負しょうぶ展開てんかいとくとし6場所ばしょとなった1958ねん以降いこうまい場所ばしょのように2人ふたり優勝ゆうしょうい、戦後せんご最初さいしょ黄金おうごんである「とちわか時代じだい」を実現じつげんする。現在げんざいでもこの2人ふたりできずきあげた一時いちじだいたいする評価ひょうかたかく、これを上回うわまわるものはまだない(あさしお大内山おおうちやまなどつよくて個性こせいてき力士りきし多数たすういたこともふくめて)とかんがえるひとおおい。

1958ねん7がつ場所ばしょ千秋楽せんしゅうらくとちにしきあいほし対決たいけつおこなったが、1909ねん6がつ場所ばしょ優勝ゆうしょうがく制度せいど開始かいし以降いこう横綱よこづな同士どうし千秋楽せんしゅうらくしょうほし対決たいけつ史上しじょうはつ[19]。この一番いちばんは、立合たちあいサッとひだりよっつ、とちにしきさきみぎ上手じょうずってそのままがっぷりよっつ。とちにしきめたものの、若乃花わかのはななんなくのこすとからだひらき、ひだり下手へたからひねりながらの強烈きょうれつみぎ上手じょうずげで若乃花わかのはな勝利しょうり[19]

1959ねん5月場所ばしょ初日しょにちから14連勝れんしょうとちにしき千秋楽せんしゅうらくくだして優勝ゆうしょう決定けっていせんみ、逆転ぎゃくてん優勝ゆうしょう。これは史上しじょうはじめてのケースだった。

1960ねん3がつ場所ばしょでは、ともに14連勝れんしょう同士どうし千秋楽せんしゅうらく対戦たいせん。これも史上しじょうはつとなる横綱よこづな同士どうしによる千秋楽せんしゅうらく全勝ぜんしょう対決たいけつせいして、はつ全勝ぜんしょう優勝ゆうしょう達成たっせい当時とうじこの取組とりくみは「相撲すもうはじまって以来いらい世紀せいき決戦けっせん」とわれた。この決戦けっせん前夜ぜんや若乃花わかのはな緊張きんちょう不安ふあんでどうしてもかず、すこしでも気分きぶんをまぎらわそうと映画えいがかんかった。なかはいると、やけにおおきなからだをした人物じんぶつまえせきすわっている、あたままげがあったのでもしやとおもったらとちにしきだったという。これをて、とちにしき自分じぶんおなじように不安ふあん気持きもちなのだとった若乃花わかのはなは、すっかり緊張きんちょうけて気分きぶんらくになり、翌日よくじついた気持きもちで決戦けっせんのぞむことができ、見事みごと勝利しょうりをつかむことができたという[20]後日ごじつだんとして、このとき映画えいがは、若乃花わかのはなは「西部せいぶげきだった」とい、とちにしきは「ドイツ恋愛れんあい映画えいがだった」と、証言しょうげんちがっている。一説いっせつにはジョン・ウェインの『アラモ』だったのではないか[ちゅう 12]とされている。とちわかはともに優勝ゆうしょう10かい全勝ぜんしょう1かい連勝れんしょう記録きろく24。直接ちょくせつ対戦たいせんでも若乃花わかのはなの15しょう19はいだが、うち1はい前述ぜんじゅつの1956ねん9がつ場所ばしょ不戦敗ふせんぱいであり、若乃花わかのはなにはほかに決定けっていせんでの1しょうがあって、これらをまえると実質じっしつ16しょう18はいとほぼ互角ごかくだった。大関おおぜき昇進しょうしんまでは11しょう4はい成績せいせき最高さいこうだったが、大関おおぜき昇進しょうしん以後いご皆勤かいきんした場所ばしょすべケタのぼしのこし、大関おおぜき時代じだい勝率しょうりつが.785、横綱よこづな時代じだいには.794と地位ちいがるにつれてつよみをしていった。

しかし、わすれてはならないのが、どう時代じだい横綱よこづなったあさしお存在そんざいである。1956ねん3がつ場所ばしょ最初さいしょ優勝ゆうしょう決定けっていせん進出しんしゅつさいに、関脇せきわけだったあさしお当時とうじ)にやぶれてから、微妙びみょうなところであさしおえんがあった。1958ねん11月場所ばしょには、12しょう1はい1ふんむかえた千秋楽せんしゅうらく、13しょう1はい大関おおぜきあさしお対戦たいせんてば3連覇れんぱと(結果けっかてきに)ぜん6場所ばしょ制覇せいはをなしとげるところだったが、やぶれてしまう。1958ねん9がつ場所ばしょはつ全勝ぜんしょう優勝ゆうしょう目指めざ千秋楽せんしゅうらくあさしお対戦たいせんしたがやぶれてしまい、優勝ゆうしょうこそすでまっていたがゆめ全勝ぜんしょうはばまれた。1959ねん5がつ場所ばしょ千秋楽せんしゅうらくとちにしきほんわり決定けっていせん連勝れんしょう逆転ぎゃくてん優勝ゆうしょうとなったのは、じつは13にち若乃花わかのはなあさしおやぶれて1はいとなったからであるし、1960ねん3がつ場所ばしょ全勝ぜんしょう対決たいけつも、あさしお途中とちゅう休場きゅうじょうしたことによって両者りょうしゃ対戦たいせん千秋楽せんしゅうらくになったため[ちゅう 13]である。このようにかげ存在そんざいいられたあさしおあってこそ、とちわか時代じだい際立きわだっていたとることもできる。

とちわか ぜん対戦たいせん一覧いちらん[編集へんしゅう]

とちわか両雄りょうゆう対戦たいせんは、1951ねん5がつ場所ばしょから1960ねん3がつ場所ばしょの40場所ばしょあいだで34かい実現じつげんとちにしき1不戦勝ふせんしょうふくむ)し、千秋楽せんしゅうらく両者りょうしゃ優勝ゆうしょう圏内けんない対戦たいせんが5かい(うち、あいほし決戦けっせんが2かい)あった。また両者りょうしゃ相撲すもうは、みずりになることがおおかった。

千秋楽せんしゅうらく太字ふとじ)は、千秋楽せんしゅうらくむすびの一番いちばんしめす。

場所ばしょ 対戦たいせん とちにしき勝敗しょうはい
(通算つうさん成績せいせき
若乃花わかのはな勝敗しょうはい
通算つうさん成績せいせき
優勝ゆうしょう力士りきし 備考びこう
1951ねん5がつ場所ばしょ 8にち ●(0) ○(1) 千代ちよやま はつ対戦たいせん
1951ねん9がつ場所ばしょ 12にち ○(1) ●(1) ひがし富士ふじ
1952ねん1がつ場所ばしょ 12にち ●(1) ○(2) 羽黒山はぐろさん
1952ねん5がつ場所ばしょ 6にち ○(2) ●(2) ひがし富士ふじ
1952ねん9がつ場所ばしょ - - - とちにしき(1) 対戦たいせんなし。
1953ねん1がつ場所ばしょ 初日しょにち ○(3) ●(2) かがみさと とちにしきしん大関おおぜき
1953ねん3がつ場所ばしょ 7にち ○(4) ●(2) とちにしき(2)
1953ねん5がつ場所ばしょ 4にち ○(5) ●(2) 時津とぎつさん
1953ねん9がつ場所ばしょ 3にち ●(5) ○(3) ひがし富士ふじ
1954ねん1がつ場所ばしょ 10日とおか ●(5) ○(4) よし葉山はやま
1954ねん3がつ場所ばしょ 11にち ●(5) ○(5) 三根みつねさん
1954ねん5がつ場所ばしょ 12にち ○(6) ●(5) とちにしき(3)
1954ねん9がつ場所ばしょ 14にち ○(7) ●(5) とちにしき(4)
1955ねん1がつ場所ばしょ 12にち ●(7) ○(6) 千代ちよやま とちにしきしん横綱よこづな
1955ねん3がつ場所ばしょ 千秋楽せんしゅうらく ○(8) ●(6) 千代ちよやま
1955ねん5がつ場所ばしょ 12にち ○(9) ●(6) とちにしき(5)
1955ねん9がつ場所ばしょ - - - かがみさと とちにしき休場きゅうじょうにより対戦たいせんなし。
1956ねん1がつ場所ばしょ 9にち ○(10) ●(6) かがみさと 若ノ花わかのはな当時とうじしん大関おおぜき
1956ねん3がつ場所ばしょ 千秋楽せんしゅうらく ●(10) ○(7) あさしお
1956ねん5がつ場所ばしょ - - - 若ノ花わかのはな(1) とちにしき休場きゅうじょうにより対戦たいせんなし。
1956ねん9がつ場所ばしょ 千秋楽せんしゅうらく □(11) ■(7) かがみさと
1957ねん1がつ場所ばしょ 14にち ○(12) ●(7) 千代ちよやま
1957ねん3がつ場所ばしょ 千秋楽せんしゅうらく ●(12) ○(8) あさしお
1957ねん5がつ場所ばしょ 12にち ○(13) ●(8) やすねんやま
1957ねん9がつ場所ばしょ 13にち ○(14) ●(8) とちにしき(6)
1957ねん11月場所ばしょ 14にち ○(15) ●(8) 玉乃たまのうみ
1958ねん1がつ場所ばしょ 14にち ●(15) ○(9) 若乃花わかのはな(2)
1958ねん3がつ場所ばしょ 14にち ●(15) ○(10) あさしお 若乃花わかのはなしん横綱よこづな
1958ねん5がつ場所ばしょ 14にち ○(16) ●(10) とちにしき(7)
1958ねん7がつ場所ばしょ 千秋楽せんしゅうらく ●(16) ○(11) 若乃花わかのはな(3) 千秋楽せんしゅうらく2はい同士どうししょうほし決戦けっせん
1958ねん9がつ場所ばしょ - - - 若乃花わかのはな(4) とちにしき休場きゅうじょうにより対戦たいせんなし。
1958ねん11月場所ばしょ - - - あさしお とちにしき休場きゅうじょうにより対戦たいせんなし。
1959ねん1がつ場所ばしょ 千秋楽せんしゅうらく ●(16) ○(12) 若乃花わかのはな(5)
1959ねん3がつ場所ばしょ 千秋楽せんしゅうらく ○(17) ●(12) とちにしき(8) 千秋楽せんしゅうらくとちにしき1はい若乃花わかのはな2はい対戦たいせん
1959ねん5がつ場所ばしょ 千秋楽せんしゅうらく ●(17) ○(13) 若乃花わかのはな(6) 千秋楽せんしゅうらくとちにしき全勝ぜんしょう若乃花わかのはな1はい対戦たいせん 優勝ゆうしょう決定けっていせん若乃花わかのはな勝利しょうり
1959ねん7がつ場所ばしょ 千秋楽せんしゅうらく ○(18) ●(13) とちにしき(9)
1959ねん9がつ場所ばしょ 千秋楽せんしゅうらく ●(18) ○(14) 若乃花わかのはな(7) 千秋楽せんしゅうらくとちにしき2はい若乃花わかのはな1はい対戦たいせん 
1959ねん11月場所ばしょ 千秋楽せんしゅうらく ○(19) ●(14) わか羽黒はぐろ 千秋楽せんしゅうらく両者りょうしゃ3はい対戦たいせん とちにしき勝利しょうり千秋楽せんしゅうらく対決たいけつ年間ねんかん最多さいたかちけた対戦たいせんであった)。
1960ねん1がつ場所ばしょ - - - とちにしき(10) 若乃花わかのはな休場きゅうじょうにより対戦たいせんなし。
1960ねん3がつ場所ばしょ 千秋楽せんしゅうらく ●(19) ○(15) 若乃花わかのはな(8) 千秋楽せんしゅうらく全勝ぜんしょう同士どうしあいほし決戦けっせん 最後さいごとちわか対戦たいせん
  • 若乃花わかのはな横綱よこづな昇進しょうしんまえまで(1958ねん1がつ場所ばしょまで)の対戦たいせん成績せいせきは、とちにしきの15しょう9はい
  • 両者りょうしゃ横綱よこづな同士どうし対戦たいせん成績せいせき(1958ねん3がつ場所ばしょ以降いこう)は、若乃花わかのはなの6しょう4はい

現役げんえき末期まっきから引退いんたいまで[編集へんしゅう]

とちにしき引退いんたい直後ちょくごは3場所ばしょ連続れんぞくで13しょう2はい、2優勝ゆうしょうたすなど、とちわか拮抗きっこう時代じだいから第一人者だいいちにんしゃとしていち時代じだいきずくかとおもわれた。しかし1960ねん11月場所ばしょを9にちから途中とちゅう休場きゅうじょうよく場所ばしょこそ12しょう3はい健在けんざいしめしたものの、その優勝ゆうしょうあらそいにからむこともなくなっていき、11しょう前後ぜんこう成績せいせきおおくなる。体力たいりょくてきおとろえというより、とちにしきというライバルをうしな気力きりょくりがなくなったことがおおきかったという。新鋭しんえい柏戸かしわどするど出足であしおびやかされることもえ、その大関おおぜき昇進しょうしんまえまでは若乃花わかのはなの4しょう2はいたいして大関おおぜき昇進しょうしんは2しょう4はいと、わかちから台頭たいとうにもされはじめた。

このように「土俵どひょうおに」とわれた若乃花わかのはな引退いんたい決意けついしたのは、1962ねん1がつ場所ばしょのちだい49だい横綱よこづなとなる関脇せきわけとちうみけた相撲すもうであった。たおれそうになったらあししてけたほうがましとかんがえるほど土俵どひょうたおれることを極端きょくたんきらっていた若乃花わかのはなが、とちうみ見事みごと連続れんぞくわざ手繰てぐとしとし一瞬いっしゅんのうちにす)で土俵どひょう中央ちゅうおうころがされたのだった。「なにしろ、それまで土俵どひょうなかでこけたことはかったからねぇ。それをやられたんで、こりゃいかんとおもった」と若乃花わかのはなかたったという。

1962ねん5月1にちはなかご部屋へや記者きしゃ会見かいけんひらき『昭和しょうわ37ねん5がつ場所ばしょ土俵どひょうがらず、体力たいりょく限界げんかい』を理由りゆう現役げんえき引退いんたいすることを表明ひょうめいした[21]

横綱よこづなとして最後さいごの9場所ばしょ優勝ゆうしょうなしでの引退いんたいは、とちにしきのそれと比較ひかくされ批判ひはんもあったが、現役げんえきちゅうからまい鑑札かんさつ春日野かすがの部屋へや継承けいしょうしていたとちにしきちが引退いんたい独立どくりつそなえなくてはいけなかったこと、後輩こうはい横綱よこづなあさしおこうたくすには安定あんていかんいていたこと[ちゅう 14]などの事情じじょうがあってのものだった。

幕内まくうち通算つうさん546しょうは、とちにしきの513しょう更新こうしんする当時とうじ最多さいたしょう記録きろくだった[ちゅう 15]

師匠ししょうはなかごは、「わたし苦労くろうみちは、若乃花わかのはな努力どりょくみちである。若乃花わかのはなとの一心いっしん同体どうたい経営けいえいはなかご部屋へやをきずきあげた。」とべており[22]はなかご親方おやかた食料しょくりょう調達ちょうたつなど経営けいえい精力せいりょくそそぎ、稽古けいこじょうはもっぱら部屋へやあたま若乃花わかのはなが、本家ほんけしょせき部屋へや仕込しこみの「しょあら稽古けいこ」で指導しどうした[23]孫弟子まごでしにあたるたかはなは、「はなかご親方おやかたとうちの師匠ししょう若乃花わかのはな)ほどなかのいい師弟していはいない。」とべている[24]

二子山ふたごやま部屋へや創設そうせつ[編集へんしゅう]

引退いんたい同時どうじ年寄としより二子山ふたごやま襲名しゅうめいし、はなかご部屋へやから独立どくりつして近所きんじょ杉並すぎなみなりむね3丁目ちょうめげん成田東なりたひがし3丁目ちょうめ)に二子山ふたごやま部屋へやおこす。独立どくりつさいして師匠ししょうはなかごとはれて弟子でしについてはなしをつけていたので、ついてきたいと志願しがんしてもれてけない弟子でしすうめいを「おまえたちのようなよわ連中れんちゅうれていかない。自分じぶんさがしたわかものを、おれそだてるから。」とはなしてきれいな独立どくりつたした(そのなかにのちの龍虎りゅうこがいた)。はなかご部屋へやから二子山ふたごやま部屋へや分家ぶんけ独立どくりつほど円満えんまん独立どくりつめずらしかったという[13][25]部屋へやでの指導しどうきびしさは大変たいへんなもので、稽古けいこ時間じかんになってもきない弟子でしがいれば布団ふとんがしてきるまでたけほうきなぐり、それでもきなければ布団ふとんあかくなるまでなぐりつけたという。親方おやかたとしてはまだわかかったころみずからもまわしをつけて稽古けいこ土俵どひょうりて指導しどうをしたこともある。かた自由じゆうであったが、稽古けいこいちにち50ばんおこなうことを前提ぜんていとしており、技術ぎじゅつ指導しどうかんしては井筒いづつ部屋へやもと幕下まくしたかみこう実業じつぎょう村上むらかみ光昭みつあきが「素質そしつがあれば、相撲すもうかたなんか、おしえないではなっといてもにつく」と二子山ふたごやま本人ほんにんかたっていたことを座談ざだんかいかしている[26]弟子でしたちがあっさり土俵どひょうると「たわらそと千尋ちひろたにそこだとおもえ。ちたらぬんだぞ。そうおもえば、もっと頑張がんばれるはずだ」といかり、本場所ほんばしょ土俵際どひょうぎわけた力士りきしには「土俵際どひょうぎわこそ相撲すもう醍醐味だいごみじゃないか。そこでちからくバカがいるのか」と叱咤しったした[23]

一方いっぽう2代目だいめ若乃花わかのはなおな夜行やこう列車れっしゃれてきて、糖尿とうにょうびょうわずらったりゅうさとたいし、まだ幕下まくした以下いか力士りきしであったころから糖尿とうにょうびょう治療ちりょうしょくのメニューをみとめるというきわめて異例いれいけいらいをおこなひとし弟子でしおもいのいちめんもあった。おな一門いちもんこま部屋へや横綱よこづなであるだい乃国たいしては、佐渡さどだけ横綱よこづな土俵入どひょういりの指導しどうをしている最中さいちゅうに「きにやれ。横綱よこづながやれば、それが横綱よこづな土俵入どひょういりだ。」と一喝いっかつするというだいらかかつ豪快ごうかい助言じょげんおこな[27][28][ちゅう 16]1989ねん9月場所ばしょに7しょう8はい横綱よこづな皆勤かいきんしをきっしたさい引責いんせき引退いんたい慰留いりゅうするなどかなり理解りかいある態度たいどしめしていた。

実弟じっていである大関おおぜきたかはな横綱よこづなきたうみ優勝ゆうしょう決定けっていせんすえはつ優勝ゆうしょう1975ねん3がつ場所ばしょ)したさい当時とうじまだ審判しんぱんふく部長ぶちょうであったが、高砂たかさご審判しんぱん部長ぶちょうもと横綱よこづなあさしお)のいきけいらいで、優勝旗ゆうしょうき授与じゅよ代役だいやくまかされた(公式こうしきには、高砂たかさご発熱はつねつによるものとされていた)。

1972ねん役員やくいん待遇たいぐうとなり、審判しんぱんふく部長ぶちょう就任しゅうにん同職どうしょくは2つとめて、1976ねん理事りじ当選とうせんすると[ちゅう 17]巡業じゅんぎょう部長ぶちょう就任しゅうにん巡業じゅんぎょう部長ぶちょうも2つとめ、1980ねん師匠ししょうはなかご停年ていねんこうむるために理事りじ退任たいにんすると、はなかごつとめていた協会きょうかいナンバー2の事業じぎょう部長ぶちょう就任しゅうにんした。

かつてのライバル春日野かすがの理事りじちょう二子山ふたごやま重用じゅうようし、両国りょうこくしん国技こくぎかん建設けんせつころは、春日野かすがの理事りじちょう二子山ふたごやま理事りじちょう代行だいこうとして相撲すもう協会きょうかいり、幹部かんぶとちわか時代じだいとちわか政権せいけんばれた。この背景はいけいには、1974ねん春日野かすがの理事りじちょう選出せんしゅつに、しょせき伊勢ケ浜いせがはまはん出羽海でわのうみ候補こうほとして擁立ようりつしようとしたなかで、師匠ししょうはなかごともしょせきたもとかって春日野かすがの理事りじちょう誕生たんじょう支持しじして主流しゅりゅうりした経緯けいいがある[29]。ナンバー2の事業じぎょう部長ぶちょう時代じだいには理事りじちょう春日野かすがのとも両国りょうこくしん国技こくぎかんった鹿島建設かしまけんせつ社長しゃちょうに、「きょうは社長しゃちょうかしにた。横綱よこづな5にんかり(5にん力士りきしつづけざまに横綱よこづな対戦たいせんする)というのがあるが、社長しゃちょうにはとちわか2人ふたりかりです。」と交渉こうしょうし、建設けんせつを11おく5せんまんえん減額げんがくさせた[30][31]両国りょうこくしん国技こくぎかん落成らくせい当時とうじ春日野かすがの二子山ふたごやま二人ふたり追跡ついせきしたNHK特集とくしゅう『「とちわか」~しん国技こくぎかんうごかす親方おやかたたち~』というドキュメンタリー番組ばんぐみ(1985ねん1がつ13にち放送ほうそう)も制作せいさくされたこともあった[32]

しん国技こくぎかん開館かいかん直前ちょくぜん1984ねん1がつ場所ばしょから7がつ場所ばしょまでの4場所ばしょ春日野かすがの理事りじちょう長期ちょうき入院にゅういん休場きゅうじょうしたため二子山ふたごやま事業じぎょう部長ぶちょう理事りじちょう代行だいこうとして協会きょうかい挨拶あいさつ表彰ひょうしょうしき賜杯しはいはい戴を担当たんとう。1月場所ばしょりゅうさと俊英しゅんえい、3がつ場所ばしょと7がつ場所ばしょわか嶋津しまづろくおっと二子山ふたごやま弟子でし優勝ゆうしょうして師匠ししょうから弟子でしへの賜杯しはいはい戴が実現じつげんした。唯一ゆいいつ、このあいだ二子山ふたごやま弟子でし優勝ゆうしょうしなかった5がつ場所ばしょきたうみさとしみつる優勝ゆうしょうしてきたうみへの最後さいご賜杯しはいはい戴も担当たんとうした。ナンバー2の事業じぎょう部長ぶちょう就任しゅうにん以降いこう事実じじつじょう理事りじちょう代行だいこうのポジションだったが、1986ねんからは肩書かたがきにも理事りじちょう代行だいこう追加ついかされた(事業じぎょう部長ぶちょうはそのまま理事りじちょう就任しゅうにんまで継続けいぞく)。

理事りじちょう時代じだい[編集へんしゅう]

両国りょうこく国技こくぎかん完成かんせいから3ねん1988ねん2がつ春日野かすがの停年ていねんまで余力よりょくのこして、あっさり相談役そうだんやく退しりぞき、二子山ふたごやま理事りじちょう禅譲ぜんじょうした。角界かくかい保守ほしゅ本流ほんりゅうである出羽海でわのうみ一門いちもん何人なんにん就任しゅうにんした理事りじちょうに、「まんねん野党やとう」とわれたしょせき一門いちもんのしかも傍流ぼうりゅうである二子山ふたごやま理事りじちょうになったことは画期的かっきてきなことだった。現役げんえき時代じだいしょう部屋へや悲哀ひあいあじわったが、創設そうせつから部屋へやあたまとして牽引けんいんしたはなかご部屋へやみずからが創設そうせつした二子山ふたごやま部屋へや同門どうもんこま部屋へやから、二子山ふたごやま理事りじちょう就任しゅうにんする時点じてんで5横綱よこづな・3大関おおぜきをはじめ大勢おおぜい関取せきとり輩出はいしゅつして、阿佐ヶ谷あさがやぜいしょうされる一大いちだい勢力せいりょくをきずきあげ、「ひがし両国りょうこく西にし阿佐ヶ谷あさがや」とわれた大相撲おおずもう拠点きょてんそだてた立役者たてやくしゃとしての実績じっせき春日野かすがの以下いか出羽海でわのうみ一門いちもんたか評価ひょうかしたこと[13]1974ねん理事りじちょう選出せんしゅつとその春日野かすがの体制たいせいへの協力きょうりょくたいする御礼おれい将来しょうらい出羽海でわのうみ体制たいせい基盤きばん強化きょうかなどもまえ、春日野かすがの理事りじちょう禅譲ぜんじょうしたとわれる[ちゅう 18][29]理事りじちょう就任しゅうにん直後ちょくごの4がつ24にちには国技こくぎかん還暦かんれき土俵入どひょうい披露ひろうした。露払つゆはらい・鳴戸なるとだい59だい横綱よこづなたかしさと)、太刀持たちもち・あいだかきだい56だい横綱よこづな・2だい若乃花わかのはな)と、横綱よこづなそだげたみずからの弟子でししたがえた。理事りじちょうとしての業績ぎょうせきは、土俵どひょう追求ついきゅうして立合たちあ正常せいじょうつとめ、「った」の制裁せいさいきん導入どうにゅうのち廃止はいし)や行司ぎょうじに「をついて」とごえさせたことが特筆とくひつされる。

なお、春日野かすがの1990ねん1がつ場所ばしょちゅう同年どうねん1がつ10日とおか停年ていねん目前もくぜんの64さいのう梗塞こうそくにより逝去せいきょ記者きしゃ会見かいけんのぞんだ当時とうじ二子山ふたごやま理事りじちょう言葉ことばまり、「ちょっとせきはずさせてくれ」と一旦いったん退席たいせきすうふんせきもどるも「むかしおもがキューッとげて、気持きもちをかせたいんだけど…」と大粒おおつぶなみだこぼし、かつて最大さいだい好敵手こうてきしゅだった春日野かすがのしんでいた。

1991ねん11月、紫綬褒章しじゅほうしょう受章じゅしょう

クライマックスは1992ねん1がつ場所ばしょ理事りじちょう最後さいご場所ばしょおいであり孫弟子まごでしにあたる貴花田たかはなだはつ優勝ゆうしょう実弟じってい大関おおぜきたかはなはつ優勝ゆうしょうはからいとちがい、理事りじちょうとして堂々どうどうみずからの天皇てんのう賜杯しはい孫弟子まごでし授与じゅよすることができ、「ゆめのまたゆめ」とかたって理事りじちょう有終ゆうしゅうかざった。このとき感極かんきわまってなみだながしており、「おににもなみだ」とわれた。NHKの大相撲おおずもう中継ちゅうけい解説かいせつつとめていた出羽でわにしきは「うれしさや最後さいご賜杯しはいおい」とんだ。

停年ていねん直前ちょくぜんであった1993ねん1がつ場所ばしょ自身じしん二子山ふたごやま年寄としより名跡みょうせき実弟じっていたかはな藤島ふじしま交換こうかんし、同年どうねん3がつ相撲すもう協会きょうかい停年ていねん退職たいしょくした。このさい、それまでの二子山ふたごやま部屋へや藤島ふじしま部屋へや吸収きゅうしゅうされるかたちでのいわゆる「さか合併がっぺい」がおこなわれたが、二子山ふたごやま部屋へや看板かんばん自体じたい存続そんぞくした[ちゅう 19][ちゅう 20]

定年ていねん退職たいしょく[編集へんしゅう]

退職たいしょく相撲すもう博物館はくぶつかん館長かんちょう就任しゅうにんするが、1996ねん9月に二子山ふたごやま譲渡じょうときんおよそ3おくえん申告しんこくれを指摘してきされたことで辞任じにんし、相撲すもうかいからった。

現役げんえき時代じだいのライバルが還暦かんれき前後ぜんこう次々つぎつぎ逝去せいきょし、また弟子でしとしてをかけた末弟ばっていたかはな2005ねん5月に55さい先立さきだたれてしまったが、自身じしんは65さい停年ていねん無事ぶじむかえ、横綱よこづな経験けいけんしゃとしてはかがみさと(80さい10ヶ月かげつぼつ)をいて、長寿ちょうじゅだい2となった。現在げんざいは、とちうみ2021ねん1がつに82さい10ヶ月かげつ死去しきょ)が若乃花わかのはないて長寿ちょうじゅだい2となったためだい3となっている。なお、かがみさととちうみ自身じしん同様どうよう青森あおもりけん出身しゅっしんである。

二子山ふたごやま部屋へやだい1ごう関取せきとりだった二子ふたごだけ年寄としより荒磯あらいそとして停年ていねんむかえたさいのパーティーでは、「わたしおおくの弟子でしそだて、そのなかには師匠ししょうになったものおおくいるが、無事ぶじ停年ていねんむかえたのはこの荒磯あらいそがはじめてです」とコメントしている。

2010ねん9月1にち東京とうきょう新宿しんじゅく慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく病院びょういんじん細胞さいぼうがんのため死去しきょ。82さい5ヶ月かげつだった[33]。ちなみに、横綱よこづなさい高齢こうれい記録きろく初代しょだいうめだにの83さい3かげつぼつで、9かげつせまっていた[ちゅう 21]同年どうねんきた大相撲おおずもう野球やきゅう賭博とばく問題もんだい心労しんろうもあったという。

長男ちょうなんくしたのちから霊友会れいゆうかい入信にゅうしんしており、花田はなた一族いちぞく信徒しんとであるという。

2010ねん9月4にち通夜つや当日とうじつ初代しょだい若乃花わかのはなひつぎせた霊柩車れいきゅうしゃきゅう蔵前くらまえ国技こくぎかん跡地あとち両国りょうこく国技こくぎかんまわった。両国りょうこく国技こくぎかんでは日本にっぽん相撲すもう協会きょうかい幹部かんぶぜん幕内まくうち力士りきし霊柩車れいきゅうしゃ出迎でむかえて一礼いちれいした。その霊柩車れいきゅうしゃ葬儀そうぎ会場かいじょう宝仙寺ほうせんじ東京とうきょう中野なかの)へとかった。葬儀そうぎが2010ねん9月5にち宝仙寺ほうせんじおこなわれた。出棺しゅっかんさいには「ワカノハナー」や「さようなら、若乃花わかのはな」のごえをかけた600にんのファンに見守みまもられながらわかれをげた。その若乃花わかのはなみき新宿しんじゅく落合おちあい斎場さいじょう荼毘だびされた。法名ほうみょうは「たかしかちいんしゃくおさむどう(ぎしょういんしゃくちどう)」。

エピソード[編集へんしゅう]

相撲すもう関連かんれん[編集へんしゅう]

  • 入門にゅうもん当時とうじ敗戦はいせん直後ちょくご混乱こんらんなか相撲すもう人気にんきおおきくおとろえた時期じきであり、相撲すもう協会きょうかいきゅう両国りょうこく国技こくぎかんGHQ接収せっしゅうされ興行こうぎょう各地かくち転々てんてんとしておこなわれた。1947ねん6がつ場所ばしょ明治めいじ神宮じんぐう外苑がいえんおこなわれたが、そのときとなり明治めいじ神宮じんぐう野球やきゅうじょう開催かいさいされた学生がくせい野球やきゅうほうきゃくあつまるのを以来いらい、「野球やきゅう商売敵しょうばいがたき」とって、がんとして野球やきゅうはやらなかったという。
  • 小坂こさか秀二しゅうじ慶大けいだいのアメリカン・フットボールられていたTBSの新入しんにゅう社員しゃいんれて若乃花わかのはな稽古けいこせたところ、途中とちゅうでいなくなってしまった。小坂こさかがサボっているとおもしかろうとしたら、アメリカン・フットボールで相当そうとうきつい練習れんしゅうをこなしてきた新入しんにゅう社員しゃいんが、若乃花わかのはな稽古けいこがあまりのはげしいのでていられなくなりがいてしまったという[34]
  • 安西あんざいひろし東京とうきょうガス社長しゃちょう若乃花わかのはなにとって最大さいだいタニマチで、若乃花わかのはな後援こうえん会長かいちょう二子山ふたごやま部屋へや後援こうえん会長かいちょうはいずれも安西あんざいである。
  • 引退いんたい会見かいけんとき、NHKアナウンサーから横綱よこづなのあの豪快ごうかい上手じょうずとかもどられないっていうと本当ほんとうさびしいんですけどもねぇ」かれ、「まぁ、そのうちにまたますよ、そういうひとが」こたえたが、このとき、タバコをいながら会見かいけんおうじていた[35]
  • 若乃花わかのはな引退いんたい相撲すもうさいに、しのえいだんつくった相撲すもう甚句じんく若乃花わかのはな一代記いちだいき』が反響はんきょうび、これ以後いご各地かくち好角家こうかくかによる相撲すもう甚句じんく愛好あいこううごきが全国ぜんこくひろがっていったことがかたられている[36]
  • 若乃花わかのはな日本にっぽん相撲すもう協会きょうかい健康けんこう保険ほけん組合くみあい理事りじちょうつとめていた当時とうじ現役げんえき最強さいきょう横綱よこづなわれたたまうみ正洋まさひろ片男波かたおなみ)が虫垂炎ちゅうすいえん手術しゅじゅつさい出来できはい血栓けっせんもとくなった[ちゅう 22]。それをけて相撲すもう診療しんりょうしょ医師いしはやしみつるろくが「力士りきし健康けんこう診断しんだん血液けつえき検査けんさ追加ついかするべき」と若乃花わかのはな直訴じきそし、若乃花わかのはなもそれをみとめて力士りきし健康けんこう診断しんだんメニューに血液けつえき検査けんさ追加ついかされた[37]
  • 若乃花わかのはなみき (2だい)だい56だい横綱よこづな昇進しょうしん使者ししゃむかえるときいちかい広間ひろまでなく、かい部屋へやむかえた。報道陣ほうどうじん不思議ふしぎがったが、使者ししゃかえったときに「勝雄かつおてくれたかな。」とつぶやいた。その部屋へやはちゃんこなべによる火傷かしょうくなった長男ちょうなん位牌いはいいてあった部屋へやだった。
  • 1991ねんあきごろ年寄としよりしゅ関取せきとりしゅ全員ぜんいんによる緊急きんきゅう会議かいぎひらき、そこで「無気力むきりょく相撲すもう」にたいする警告けいこくおこなった[38]当時とうじ監察かんさつ委員いいんちょう役職やくしょくつとめていた出羽海でわのうみいたっては金銭きんせんのやりりにも言及げんきゅうしていた。また、1989ねん9がつ力士りきしかい会合かいごう録音ろくおんしたテープによって、日本にっぽん相撲すもう協会きょうかい事務じむ局長きょくちょう当時とうじ)の森島もりしま信一しんいちが「無気力むきりょく、いわゆる八百長やおちょうという言葉ことば一般いっぱんてきにはっていますが」と発言はつげんした事実じじつあきらかとなった。このことから当時とうじより角界かくかい内部ないぶでは「無気力むきりょく相撲すもう八百長やおちょうである」という見解けんかいっていたとも解釈かいしゃくできる[39][40]。2011ねん2がつ12にちのNHKスペシャルではおおむね「無気力むきりょく相撲すもう敢闘かんとう精神せいしんけた怠慢たいまん相撲すもう八百長やおちょう事前じぜんもうわせた不正ふせい相撲すもう」という見解けんかいされた[41]
  • 現役げんえき時代じだいのライバルであるとちにしき清隆きよたか弟子でしであるます田山たやまやすしひとしとちにしき死去しきょしてから、千賀ちかうら部屋へや創設そうせつしているが、舛田ますださん停年ていねんむかえてから部屋へや継承けいしょう(2020ねん12月に常盤山ときわやま部屋へや改称かいしょうした)したのは初代しょだい若乃花わかのはな弟子でしである隆三りゅうぞうすぎ太一たいちであり、舛田ますださん師匠ししょう時代じだいから在籍ざいせきしている弟子でしとちわか両方りょうほう孫弟子まごでしというめずらしい師弟してい関係かんけいとなった。
  • とちにしき弟子でしとのエピソードではとち乃和清隆きよたか四股しこめいをつけるさい師匠ししょうとちにしき)は自分じぶん四股しこめい出身しゅっしん和歌山わかやまから「とち和歌わか」をかんがえたがこれでは「とちわか時代じだい」とおなおんでまずいのではないかとなやんでいた。それをってたすけたのは当時とうじ事業じぎょう部長ぶちょうとして理事りじちょうであったとちにしき補佐ほさやくでもあった、ならぬ若乃花わかのはな当時とうじ二子山親方ふたごやまおやかた)であり「だったらワシの四股しこめいから乃をやるよ」という助言じょげんとち乃和となった。
  • とちにしき春日野かすがの部屋へや継承けいしょうした当初とうしょとちにしき弟子でし[ちゅう 23]であるとちうみあきらよしみ自身じしんとは同郷どうきょう偶然ぐうぜんにも苗字みょうじ一致いっち[ちゅう 24]していることから巡業じゅんぎょうけられることがおおく、これははつ上位じょういそうたりせん目前もくぜんとした時期じきからはじまったという。本人ほんにん土俵どひょうがると若乃花わかのはなかお直視ちょくしできないほど恐怖きょうふしんまれた一方いっぽう横綱よこづな威厳いげんしめすにはあれぐらいしなければならないともめていた。このかわいがりがこうそうしたのか、若乃花わかのはな引退いんたいした1962ねん5がつ場所ばしょ優勝ゆうしょうたして大関おおぜき昇進しょうしん射止いとめた。とちうみはこれについて「人生じんせいとはなにこるかわからないものです。大関おおぜきがったときでさえ102キロ。こんな小兵こひょうわたし大関おおぜき昇進しょうしんできたのです。」とかえっていた。
  • 愛弟子まなでしであるりゅうさと弟子でしにして若乃花わかのはな孫弟子まごでしでもあるまれぜいさとだい72だい横綱よこづな昇進しょうしんしたとき明治めいじ神宮じんぐうでの奉納ほうのう土俵入どひょういりにいて使用しようしたぞろいの化粧廻けしょうまわしは若乃花わかのはな現役げんえき時代じだい使用しようしたものを借用しゃくようした[42]

さけ関連かんれん[編集へんしゅう]

  • 関取せきとり昇進しょうしん弟弟子おとうとでしたちと夜通よどお祝杯しゅくはいをあげていて、きむりなくなり、あわててひがし富士ふじかね無心むしんをした。ひがし富士ふじとしては、前記ぜんきとお可愛かわいがっていた相手あいてであり、すぐにかねしてやってみせほうとはそれですんだが、あと相撲すもう協会きょうかいがわで「しんじゅうりょう分際ぶんざい酒代さかだいりなくなって横綱よこづな借金しゃっきんもうむとは」と問題もんだいされた。なかには除名じょめいまで主張しゅちょうする意見いけんもあったが、羽黒山はぐろさんのとりなしもあってすくわれた。「あの2人ふたりひがし富士ふじ羽黒山はぐろさん)にはあしけてられません」と後々あとあとまでかたっていたが、やがて入幕にゅうまくしてこの恩人おんじん2にんから金星かなぼしうばおんかえしている。横綱よこづなかいでは毎回まいかいさき立浪たつなみ親方おやかた羽黒山はぐろさん)にしゃくをして、「あのときたすけてくれたおかげでいま自分じぶんがいます」とっていた。ちなみにこのときもっとも強硬きょうこう厳罰げんばつ主張しゅちょうしたのが大関おおぜきしおうみで、そのしおうみにも幕内まくうちで2せん2しょうしている。
  • 無類むるい日本酒にほんしゅきであり、取組とりくみまえにはさけくちふくんでからだ霧吹きりふきをしてタオルでみがいていたという。からだあかみがかかりかおりがつく効果こうか利用りようし、土俵どひょうじょうでの華麗かれいさを演出えんしゅつするための行為こういであったとされる[43]酒豪しゅごうぶりとわせて健啖けんたんでもられ、弟弟子おとうとでしわか秩父ちちぶ博多はかた屋台やたいを3けんハシゴしては材料ざいりょうれになってさけさかなないようにしてしまったという伝説でんせつのこっている。「力士りきしはウイスキーをむとこしかるくなる」という持論じろんっており、弟子でしには日本酒にほんしゅすすめていたが自身じしんはウイスキーをむことのほうおおかった。前述ぜんじゅつとお日本酒にほんしゅほうこのんでいたが、うますぎて際限さいげんなくんでしまうという理由りゆうでウイスキーのほうおもんでいたという[44]
  • はなかご部屋へや時代じだい弟弟子おとうとでし二子山ふたごやま部屋へや弟子でし二日酔ふつかよいなどで稽古けいこおくれると、そのでは弟子でし一切いっさいとがめないわりに、いつも以上いじょうはげしい稽古けいこをつけた。その伝統でんとうだい師匠ししょうたまにしき師匠ししょうだいうみからがれた姿勢しせいだという[45]
  • 自身じしん部屋へや時代じだいかく相撲すもう部屋へやないにおける未成年みせいねん飲酒いんしゅ横行おうこうしていた背景はいけいには「さけからだつくる」という迷信めいしん角界かくかい蔓延まんえんしていたといい、当時とうじ風潮ふうちょうがあったにせよ二子山ふたごやま部屋へやではとくにそれが顕著けんちょだったとつたわる。入門にゅうもん当初とうしょ、まだ15さいにもかかわらず二子山ふたごやまによって無理むりやりさけながまれた少年しょうねんたかはな小児しょうにせい胃炎いえんにかかり、これによって生涯しょうがい肝臓かんぞう不調ふちょうなやまされた事実じじつ小説しょうせつ石井いしいだいぞうによってかされており、これは汚点おてんとして後年こうねんまでのこっている[46]

奔放ほんぽう[編集へんしゅう]

若乃花わかのはな自由じゆう奔放ほんぽういでもられており、一般いっぱん新聞紙しんぶんしせんもん文献ぶんけんかぎってもそのたね逸話いつわはいくつか確認かくにんされる。とく実弟じっていたかはなたいする理不尽りふじんかつ苛烈かれつ指導しどう有名ゆうめいである。

  • あるとき地方ちほう場所ばしょ開催かいさいちゅう整髪せいはつりょうしをわかしゅたのんだがまだあさ8みせひらいていないとかされるやいなや「なに!そういうときはみせひとたたこすんだ。それも社会しゃかい勉強べんきょうだ。それくんだ」と無理むりって周囲しゅういふるがらせたという[5]
  • 親方おやかた時代じだいのある部屋へやの2かいにボウリングのたまころがっているのをつけるなり周囲しゅうい確認かくにんもせず階下かいかげたという[47]
  • 夫人ふじんとのめは一目惚ひとめぼれである。よくあそびにっていた夫妻ふさいめいが、ある時期じきから夫妻ふさい同居どうきょはじめたので一層いっそうそのいえあししげくかようようになったという。だが相手あいて両親りょうしん若ノ花わかのはな将来しょうらいせい札付ふだつきであるかのようにだんじ、むすめ若ノ花わかのはなからはなすためにもどしてしまった。すぐさま相手あいて故郷こきょうである茨城いばらききの列車れっしゃろうと着流きながしと下駄履げたばきのままえきまでけたが、すでに終列車しゅうれっしゃ出発しゅっぱつしたのちだった。そこで貨物かもつ列車れっしゃ相手あいて故郷こきょう最寄駅もよりえきでスピードをゆるめるようにたのんで便乗びんじょうし、目的もくてきえき通過つうかする列車れっしゃからえきのホームにり、そのあし相手あいて実家じっかまでんだ[48]
  • 前述ぜんじゅつのように実弟じっていたかはなには強引ごういんさけませたことでられている。ほかにも本人ほんにん意向いこう無視むししてけんかつぎのために7かい改名かいめいしたことで、当時とうじ専門せんもん最終さいしゅう四股しこめい正確せいかく把握はあくすることに苦労くろうしたという[46]

家族かぞく[編集へんしゅう]

  • 家族かぞく親族しんぞくしあわせにめぐまれているとはがたい。横綱よこづな昇進しょうしんまえ前述ぜんじゅつとお長男ちょうなん事故死じこししており、長女ちょうじょ離婚りこん経験けいけんしている(2代目だいめ若乃花わかのはな結婚けっこんして離婚りこん[ちゅう 25]。22さい年下とししたおとうと初代しょだいたかはな自身じしん先立さきだってこのっており、おい貴乃花たかのはな、3代目だいめ若乃花わかのはな兄弟きょうだいたがいに絶縁ぜつえん状態じょうたいとなっている。また、初代しょだいたかはなおい2人ふたり離婚りこん経験けいけんした(おい2人ふたりのち再婚さいこん)。いもうと1人ひとり初代しょだいたかはなからればあね)は自身じしん弟弟子おとうとでしだいごうひさあきら結婚けっこんした。だいごう引退いんたい二子山ふたごやま部屋へやきの親方おやかたとして協会きょうかい在籍ざいせきしていたが、わかくして死去しきょしている。だいおい花田はなた優一ゆういちおい貴乃花たかのはな勘当かんどうされている。
    • とく初代しょだいたかはな一家いっか家庭かてい崩壊ほうかいかんしては、自身じしん申告しんこく問題もんだい一因いちいんとなったと分析ぶんせきする週刊しゅうかん報道ほうどうすくなくなかった。

家系かけい[編集へんしゅう]

┌○─○┬ たけさと
│   └ 吉崎よしざき
│               ┌ わか剛志ごうし
│        ┌ 若乃花わかのはな―|
│        │      └(おんな)
│     (おとこ)   ├ 若緑わかみどり     ‖(離婚りこん)
│      ‖ ─┤       若乃花わかのはな
└○─○┬ (おんな)   ├─(おんな)
    │     │  ‖
    │     │  だいごう
    │     │      ┌ 若乃花わかのはな
    │     └ たかはな――┤
    └ (おんな)          └ 貴乃花たかのはな光司こうじ
      ‖            ‖ ――花田はなた優一ゆういち
     みねこし         河野こうの景子けいこ

その[編集へんしゅう]

  • 1959ねん2がつ6にち日米にちべい親善しんぜん一環いっかんとして当時とうじのアメリカぐんのジェット戦闘せんとう搭乗とうじょう富士山ふじさん目標もくひょう東京とうきょう伊豆いず大島おおしま宇治山田うじやまだ経由けいゆ横田よこた基地きちからってかえった。現在げんざいではぐん部外ぶがいしゃ戦闘せんとう搭乗とうじょうはまずみとめられず、日米にちべい親善しんぜん優先ゆうせんした当時とうじだからこそ実現じつげん可能かのうであった[49]

おも成績せいせき[編集へんしゅう]

  • 通算つうさん成績せいせき:593しょう253はい4ふん55きゅう 勝率しょうりつ.701
  • 幕内まくうち成績せいせき:546しょう235はい4ふん55きゅう 勝率しょうりつ.699
    引分ひきわけ減少げんしょうした戦後せんご力士りきしなかにあって4ふんおお部類ぶるいはいる。そのうち3までが出羽でわにしきせんであり、のこり1前述ぜんじゅつべ17ふん15びょうもの大相撲おおずもうった千代ちよやませんである。特筆とくひつすべきは4ふんちゅう3ふんが1955ねん集中しゅうちゅうしておりじつに4場所ばしょちゅう3場所ばしょで1ふんずつ記録きろくしたこと、さらに同年どうねんの1がつ場所ばしょと3がつ場所ばしょで2場所ばしょ連続れんぞく、しかもおな出羽でわにしきせん引分ひきわけ記録きろくしたことである。
  • 大関おおぜき成績せいせき:117しょう32はい1きゅう 勝率しょうりつ.785
  • 横綱よこづな成績せいせき:254しょう66はい1ふん54きゅう 勝率しょうりつ.794
  • 現役げんえき在位ざいい:64場所ばしょ番付ばんづけじょうは65場所ばしょ
  • 幕内まくうち在位ざいい:56場所ばしょ番付ばんづけじょうは57場所ばしょ
  • 横綱よこづな在位ざいい:25場所ばしょ番付ばんづけじょうは26場所ばしょ
  • 大関おおぜき在位ざいい:10場所ばしょ
  • さんやく在位ざいい:11場所ばしょ関脇せきわけ8場所ばしょ小結こむすび3場所ばしょ
  • たい横綱よこづなせん勝利しょうり:43しょう大鵬たいほうなら歴代れきだい1タイ)
  • 年間ねんかん最多さいたしょう(1957ねん設立せつりつ):1958ねん(75しょう14はい1ふん
  • 連続れんぞく6場所ばしょ勝利しょうり:79しょう(1958ねん7がつ場所ばしょ~1959ねん5がつ場所ばしょ
  • 通算つうさん幕内まくうち連続れんぞく記録きろく:24場所ばしょ当時とうじたまにしきいで2現在げんざい歴代れきだい12、1955ねん3がつ場所ばしょ~1959ねん11月場所ばしょ
    • ただし1955ねん1がつ場所ばしょで7しょう7はい1引分ひきわけふんがあり、「しなし」の見方みかたでは、1952ねん9がつ場所ばしょ~1959ねん11月場所ばしょの34場所ばしょ現在げんざい歴代れきだいで4相当そうとう記録きろく)となる。
  • 幕内まくうち連続れんぞく2けた勝利しょうり記録きろく:22場所ばしょ当時とうじ1現在げんざい歴代れきだい5、1955ねん9がつ場所ばしょ~1959ねん11月場所ばしょ
  • 幕内まくうち12しょう以上いじょう連続れんぞく勝利しょうり記録きろく:6場所ばしょ(1958ねん7がつ場所ばしょ~1959ねん5がつ場所ばしょ

かくだん優勝ゆうしょう[編集へんしゅう]

  • 幕内まくうち最高さいこう優勝ゆうしょう:10かい (1956ねん5がつ場所ばしょ、1958ねん1がつ場所ばしょ、1958ねん7がつ場所ばしょ、1958ねん9がつ場所ばしょ、1959ねん1がつ場所ばしょ、1959ねん5がつ場所ばしょ、1959ねん9がつ場所ばしょ、1960ねん3がつ場所ばしょ、1960ねん7がつ場所ばしょ、1960ねん9がつ場所ばしょ)(全勝ぜんしょう1かい[1]
  • さんだん優勝ゆうしょう:1かい(1948ねん6がつ場所ばしょ
  • じょだん優勝ゆうしょう:1かい(1947ねん11月場所ばしょ

さんしょう金星かなぼし[編集へんしゅう]

  • さんしょう:5かい
    • 殊勲賞しゅくんしょう:2かい (1954ねん1がつ場所ばしょ、1954ねん9がつ場所ばしょ)
    • 敢闘かんとうしょう:2かい (1950ねん1がつ場所ばしょ、1951ねん1がつ場所ばしょ)
    • 技能ぎのうしょう:1かい (1955ねん9がつ場所ばしょ)
  • 金星かなぼし:6羽黒山はぐろさん2ひがし富士ふじ2千代ちよやま2

場所ばしょべつ成績せいせき[編集へんしゅう]

若乃花わかのはなみき (初代しょだい)
いちがつ場所ばしょ
初場所はつばしょ東京とうきょう
さんがつ場所ばしょ
春場所はるばしょ大阪おおさか
五月ごがつ場所ばしょ
夏場所なつばしょ東京とうきょう
なながつ場所ばしょ
名古屋なごや場所ばしょ愛知あいち
九月場所くがつばしょ
秋場所あきばしょ東京とうきょう
十一月じゅういちがつ場所ばしょ
九州きゅうしゅう場所ばしょ福岡ふくおか
1946ねん
昭和しょうわ21ねん
x x x x x ぜん相撲すもう
1947ねん
昭和しょうわ22ねん
x x 西にし序ノ口じょのくち筆頭ひっとう
2–3 
x x 西にしじょだん20まい
優勝ゆうしょう
5–1
1948ねん
昭和しょうわ23ねん
x x ひがしさんだん10まい
優勝ゆうしょう
6–0
x x 西にし幕下まくした14まい
4–2 
1949ねん
昭和しょうわ24ねん
西にし幕下まくした6まい
10–2 
x ひがしじゅうりょう8まい
9–6 
x x ひがしじゅうりょう4まい
11–4 
1950ねん
昭和しょうわ25ねん
西前にしまえあたま18まい
11–4
x ひがし前頭まえがしら9まい
10–5 
x ひがし前頭まえがしら4まい
4–11 
x
1951ねん
昭和しょうわ26ねん
ひがし前頭まえがしら7まい
11–4
x ひがし前頭まえがしら筆頭ひっとう
8–7
x ひがし小結こむすび
7–8 
x
1952ねん
昭和しょうわ27ねん
西にしちょういずる小結こむすび
5–10 
x 西前にしまえあたま4まい
5–10 
x 西前にしまえあたま9まい
10–5 
x
1953ねん
昭和しょうわ28ねん
西前にしまえあたま3まい
8–7
ひがし前頭まえがしら筆頭ひっとう
8–7
ひがし前頭まえがしら筆頭ひっとう
8–7
x 西にし小結こむすび
8–7 
x
1954ねん
昭和しょうわ29ねん
西にし関脇せきわけ
8–7
こと
ひがし関脇せきわけ
9–6 
ひがし関脇せきわけ
9–6 
x 西にし関脇せきわけ
11–4
こと
x
1955ねん
昭和しょうわ30ねん
ひがし関脇せきわけ
7–7–0
引分ひきわけ1)
 
西にし関脇せきわけ
10–4–0
引分ひきわけ1)
 
西にし関脇せきわけ
8–7 
x 西にし関脇せきわけ
10–4–0
引分ひきわけ1)

わざ
x
1956ねん
昭和しょうわ31ねん
ひがしちょういずる大関おおぜき
13–2 
東大とうだいせき
12–3[ちゅう 26] 
東大とうだいせき
12–3[ちゅう 27] 
x 東大とうだいせき
12–2–1[ちゅう 28] 
x
1957ねん
昭和しょうわ32ねん
東大とうだいせき
11–4 
東大とうだいせき
10–5 
東大とうだいせき
11–4 
x 東大とうだいせき
11–4 
東大とうだいせき
12–3 
1958ねん
昭和しょうわ33ねん
東大とうだいせき
13–2 
ひがしちょういずる横綱よこづな
12–3 
西にし横綱よこづな
11–4 
ひがしちょういずる横綱よこづな
13–2 
ひがし横綱よこづな
14–1 
ひがし横綱よこづな
12–2–0
引分ひきわけ1)
 
1959ねん
昭和しょうわ34ねん
ひがし横綱よこづな
14–1 
ひがし横綱よこづな
12–3 
ひがしちょういずる横綱よこづな
14–1[ちゅう 29] 
西にし横綱よこづな大関おおぜき
11–4 
西にし横綱よこづな大関おおぜき
14–1 
ひがし横綱よこづな
11–4 
1960ねん
昭和しょうわ35ねん
西にし横綱よこづな
0–3–12[ちゅう 30] 
ひがしちょういずる横綱よこづな
15–0 
ひがし横綱よこづな
13–2 
ひがし横綱よこづな
13–2 
ひがし横綱よこづな
13–2 
ひがし横綱よこづな
5–4–6[ちゅう 31] 
1961ねん
昭和しょうわ36ねん
西にし横綱よこづな
12–3 
ひがし横綱よこづな
休場きゅうじょう
0–0–15
西にし横綱よこづな
10–5 
ひがし横綱よこづな
3–4–8[ちゅう 32] 
西にし横綱よこづな
10–5 
ひがし横綱よこづな
11–4 
1962ねん
昭和しょうわ37ねん
ひがし横綱よこづな2
11–4 
西にし横綱よこづな
0–2–13[ちゅう 33] 
ひがしちょういずる横綱よこづな
引退いんたい
––[ちゅう 34]
x x x
かくらん数字すうじは、「ち-け-休場きゅうじょう」をしめす。    優勝ゆうしょう 引退いんたい 休場きゅうじょう じゅうりょう 幕下まくした
さんしょう=敢闘かんとうしょうこと=殊勲賞しゅくんしょうわざ=技能ぎのうしょう     その=金星かなぼし
番付ばんづけ階級かいきゅう幕内まくうち - じゅうりょう - 幕下まくした - さんだん - じょだん - 序ノ口じょのくち
幕内まくうち序列じょれつ横綱よこづな - 大関おおぜき - 関脇せきわけ - 小結こむすび - 前頭まえがしら(「#数字すうじ」は各位かくいない序列じょれつ

幕内まくうち対戦たいせん成績せいせき[編集へんしゅう]

力士りきしめい かちすう 負数ふすう 力士りきしめい かちすう 負数ふすう 力士りきしめい かちすう 負数ふすう 力士りきしめい かちすう 負数ふすう
愛知あいちさん 2 2 あおさと 5 1 あさしお(米川よねかわ) 17 16* ひがし富士ふじ 3 6
愛宕山あたごやま 2 0 いち乃矢 0 1(1) いわふう 13 2 宇多川うたがわ 1 0
大岩山おおいわやま 1 1 大内山おおうちやま 12 13 大起だいき 8 1 だいのぼる 3 1
だいあきら 15* 3 小城おぎはな 7 1(1) 大蛇おろちかた 4 3 うみ乃山 1 0
甲斐かいやま 1 0 ひらけたかしさん 5 0 かがみさと 9 15(1) 柏戸かしわど 6 6
きむ乃花 1 0 きたよう 21 4 北葉きたばさん 11 3 清恵きよえなみ 4 2
九州きゅうしゅうにしき 1 0 くにとう 6 2 高津山こうづやま 1 1 小坂川おさかがわ 1 0
さくらにしき 2 0 佐田さだやま 1 3 うしおにしき 13 0 しおうみ 2 0
信夫山しのぶやま 17(1) 4 しまにしき 2 0 清水しみずがわ 11 3 千代ちよやま 8 15※
つねにしき 1 0 つねやま 4 0 つるみね 21 3 照國てるくに 0 4
てるのぼる 2 1 出羽でわにしき 20 11※※※ 出羽でわみなと 3 0 時津とぎつさん 19 9
どきにしき 4 0 とちにしき 15* 19(1) とちうみ 2 1 とちひかり 23 3
名寄岩なよろいわ 5 2 鳴門なるとかい 7 1 成山なりやま 13 1 羽黒はぐろはな 2 2
羽黒山はぐろさん 21 6 羽黒山はぐろさん 2 4 はねしまさん 12 6 緋縅ひおどし 1 0
備州やま 4 1 広瀬川ひろせがわ 5 1 ぼうにしき 13 2(1) 藤田ふじたやま 2 0 
冨士ふじにしき 6 3 二瀬ふたせさん 3 0 そうりゅう 7 3 不動ふどうがん 2 0
前田川まえだがわ 3 0 まつのぼる 22 9 三根みつねさん 15 11 みどりこく 2 0
宮城みやぎかい 1 0 みやにしき 1 0 あきら武谷たけや 1 0 八方山はっぽうざん 3 0 
山口やまぐち 0 1 吉田川よしだがわ 0 1 よし葉山はやま 10 8 わか瀬川せかわ 7 3
わか羽黒はぐろ 24* 3 若葉わかばさん 8 1 わか前田まえだ 13 6(1)
※カッコないかちすう負数ふすうなかめる不戦勝ふせんしょう不戦敗ふせんぱいかず

※さらに千代ちよやまに1つ、出羽でわにしきに3つ引分ひきわけがある。

改名かいめいれき[編集へんしゅう]

四股しこめい[編集へんしゅう]

  • 若ノ花わかのはな 義美よしみ(わかのはな よしみ):1946ねん11月場所ばしょ - 1947ねん11月場所ばしょ
  • 若ノ花わかのはな 勝治かつじ(わかのはな かつじ):1948ねん5がつ場所ばしょ - 1957ねん5がつ場所ばしょ
  • 若乃花わかのはな 勝治かつじ(わかのはな かつじ):1957ねん9がつ場所ばしょ - 1958ねん3がつ場所ばしょ
  • 若乃花わかのはな みき(わかのはな かんじ):1958ねん5がつ場所ばしょ - 1962ねん5がつ場所ばしょ

年寄としよりめい[編集へんしゅう]

  • 二子山ふたごやま 勝治かつじ(ふたごやま かつじ):1962ねん7がつ場所ばしょ - 1993ねん1がつ場所ばしょ
  • 藤島ふじしま 勝治かつじ(ふじしま かつじ):1993ねん3がつ場所ばしょ

弟子でし[編集へんしゅう]

横綱よこづな
大関おおぜき
関脇せきわけ
小結こむすび
前頭まえがしら
じゅうりょう
孫弟子まごでし
孫弟子まごでし

初代しょだい若乃花わかのはなをテーマにした作品さくひん[編集へんしゅう]

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

  • 相撲すもう : ただしいわざをまなぼう』 講談社こうだんしゃ、1972
  • しんわざからだ入門にゅうもん日本文芸社にほんぶんげいしゃ、1974
  • たかはなけた : あいおとうと栄光えいこうにおれの生涯しょうがいがある』 二見ふたみ書房しょぼう、1975
  • 人生じんせい一本いっぽん勝負しょうぶ講談社こうだんしゃ、1977
  • 人間にんげん辛抱しんぼうだ』 サンケイ出版しゅっぱん、1978
  • 土俵どひょうきて : 若乃花わかのはないちだい東京とうきょう新聞しんぶん出版しゅっぱんきょく 、1989
  • きびしくうつくしい土俵どひょうスボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ 、1989
  • 人間にんげん直言ちょくげん : 実感じっかんあるかたをつかむために』いんなあとりっぷしゃ 、1993
  • 最強さいきょう横綱よこづな わたし履歴りれきしょ 時津風ときつかぜ定次さだじ, 二子山ふたごやま勝治かつじ, 大鵬たいほう幸喜ゆきよし日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ、2006

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 韓国かんこくめいぼくゆうさん。1972ねん7がつ誕生たんじょう韓国かんこく・ソウルまれ。1985ねん12月に養子ようし縁組えんぐみおこない13さい日本にっぽん移住いじゅう引退いんたいの2002ねん5がつちち初代しょだい若乃花わかのはなから認知にんちしてもらい、花田はなたかわなり名乗なのると同時どうじ帰化きか。その起業きぎょうしてにちかん往来おうらいしている。自著じちょ花田はなたかく―アボジとばせて』(主婦しゅふ生活社せいかつしゃ)では、移住いじゅうしてから民族みんぞく差別さべつけたことで素行そこうれた結果けっかとして高校こうこう進学しんがく困難こんなんになったため藤島ふじしま部屋へやせ、大相撲おおずもう時代じだいには従兄じゅうけいにあたる3代目だいめ若乃花わかのはなびとつとめていたことがかたられている。暴露ばくろ内容ないようとしては嫡外、そして韓国かんこくじんとしての境遇きょうぐういたちち初代しょだい若乃花わかのはなへのうらみがつづられており、自身じしん引退いんたいしたと同時どうじ初代しょだい若乃花わかのはなわか剛志ごうしははへの仕送しおくりをったことが認知にんちもとめる動機どうきであったともかされている。に、3代目だいめ若乃花わかのはな遺産いさん相続そうぞく放棄ほうきした背景はいけいには初代しょだい若乃花わかのはな知恵ぢえをしたというせつとなえている。叔父おじであり師匠ししょうでもあったたかはな当時とうじ女将おかみつとめていた藤田ふじた紀子のりこ従兄弟いとこの3代目だいめ若乃花わかのはな貴乃花たかのはな兄弟きょうだいへの恩義おんぎかたられている。なお、わか剛志ごうし入門にゅうもん当時とうじじつ当時とうじ相撲すもう協会きょうかい理事りじちょうかくであるという素性すじょう協会きょうかい関係かんけいしゃっていたのは身内みうちである師匠ししょう叔父おじたかはな女将おかみ藤田ふじた紀子のりこ師匠ししょう夫妻ふさい息子むすこわか剛志ごうしかられば兄弟子あにでし従兄弟いとこの3代目だいめ若乃花わかのはな貴乃花たかのはなだけで、部屋へやおよ協会きょうかい関係かんけいしゃには素性すじょう秘密ひみつになっていた。ただし、父親ちちおや協会きょうかい定年ていねん退職たいしょく相撲すもう博物館はくぶつかん館長かんちょう就任しゅうにん前後ぜんこうから父親ちちおやみずか息子むすこだとらす様子ようすがあり、おなしょ一門いちもん行司ぎょうじ花田はなたともしたしい間柄あいだがらだった29だい木村きむらしょうすけばれて小遣こづかいをいただいた(29だいしょうすけ初代しょだい若乃花わかのはな少年しょうねんおながまめしべたなかで、29だいしょうすけ弟子でし12だいしきもりにしき太夫たゆうわか剛志たけし同期どうき入門にゅうもん)エピソードがあったそうである。
  2. ^ わたし軍隊ぐんたいからもどって一番いちばん元気げんきなときだよ。若乃花わかのはな上背うわぜいはあったがせいぜい70キロだい、こっちら22~23さいで100キロちかくあってきたえにきたえていたからね。17~18さいほそっこいアンちゃんじゃてっこないよ」(横尾よこお一彦かずひこ「マルゼンスキー(1) やっぱりダービーをはしらせたかった」『ゆう駿しゅん』1994ねん8がつごう日本中央競馬会にっぽんちゅうおうけいばかい、1994ねん、p.77)
  3. ^ 当時とうじTBS大相撲おおずもう担当たんとうアナウンサー・小坂こさか秀二しゅうじ著書ちょしょとちわか時代じだい」によれば、このとき若乃花わかのはなたく玄関げんかんさき偶然ぐうぜん旅装りょそう一家いっかくわし、出発しゅっぱつめたのは小坂こさか自身じしんである。
  4. ^ 昭和しょうわまれの決定けっていせん出場しゅつじょう同年どうねん1がつ場所ばしょでのつるみねだい1ごう横綱よこづなかがみさとやぶ優勝ゆうしょう同点どうてん
  5. ^ 通算つうさん対戦たいせん成績せいせき若乃花わかのはなの20しょう11はい3ふん横綱よこづな昇進しょうしんも9しょう4はい1ふん金星きんぼしを2提供ていきょうした。
  6. ^ 実弟じっていたかはなおい貴乃花たかのはなも1場所ばしょ2不戦敗ふせんぱい記録きろくしたことがある。
  7. ^ 当時とうじ内規ないきでは横綱よこづな推薦すいせんには横審よこしん全会ぜんかい一致いっち必要ひつようであった。
  8. ^ のちにおいである3だい若乃花わかのはな昭和しょうわはつ土俵どひょうんだ最後さいご横綱よこづなとなる。
  9. ^ 厳密げんみつには時津風ときつかぜいのちけて12だい立田たったがわ指導しどうおこなったかたちである。角界かくかい伝統でんとうにより、一門いちもん横綱よこづな土俵入どひょういりを指導しどうする協会きょうかい在籍ざいせき横綱よこづな経験けいけんしゃがいないために一門いちもん行司ぎょうじ横綱よこづな土俵入どひょういりを指導しどうする場合ばあいもある。
  10. ^ このとき横綱よこづな土俵入どひょういりの指導しどうが、のち2だい若乃花わかのはな貴乃花たかのはなしょせき一門いちもんないつたわり、さらに2014ねん3がつ場所ばしょつるりゅうつたえられたことで、もと時津風ときつかぜ一門いちもん還元かんげんされた。つるりゅうさい一門いちもんないでは柏戸かしわど以来いらい45ねんぶりの横綱よこづな誕生たんじょうだったため、指導しどうする先輩せんぱい横綱よこづながおらず、貴乃花たかのはなけることになったためである。
  11. ^ 横綱よこづな昇進しょうしんしたのがともに29さい円熟えんじゅくはいったあたりであり、とちにしき場合ばあいおな出羽海でわのうみ一門いちもん千代ちよやま雅信まさのぶ自身じしんより年少ねんしょうとちにしきよりさき横綱よこづな昇進しょうしんしており、幕下まくした以下いか時代じだい千代ちよやま当初とうしょから注目ちゅうもくされていたのにたいして、とちにしきはあまり注目ちゅうもくはされていなかった。若乃花わかのはなにしても、千代ちよやまは1さい年上としうえなだけで、当初とうしょとちわかではなく千代ちよやまいち時代じだいきずくとおもわれた。そのためとちにしき若乃花わかのはなども千代ちよやま凌駕りょうがする横綱よこづなとなり、千代ちよやまほうとちわか時代じだい脇役わきやく横綱よこづなになるとは予想よそうされていなかった。
  12. ^ 参考さんこう資料しりょうKINENOTE』のそのこうそのにより、「アラモ」の日本にっぽん封切ふうき年月日ねんがっぴは1960ねん12月24にちであるため、あきらかにこれはあやまりである。
  13. ^ どう場所ばしょ横綱よこづなならびはあずまただしからとちにしきあさしお若乃花わかのはなじゅんあさしお皆勤かいきんしていたら千秋楽せんしゅうらくむすびの一番いちばんとちにしきたいちょうしおとなるのが一般いっぱんてき
  14. ^ 結局けっきょく若乃花わかのはなよりさき引退いんたいする。
  15. ^ 2018ねん現在げんざい記録きろく保持ほじしゃはくほうしょう(2018ねん9がつ場所ばしょで1000しょう到達とうたつ
  16. ^ 一方いっぽう二子山ふたごやま若乃花わかのはな)の現役げんえきちゅう土俵入どひょういりの指導しどうけた大鵬たいほう幸喜ゆきよしは「位置いちだしからわりまでの間合まあいなど文字通もじどお手取てど足取あしどりで若乃花わかのはなせき指導しどうされた」と『大鵬たいほう自伝じでん』(大鵬たいほう幸喜ゆきよしちょ、ベースボールマガジンしゃかん、1972ねん)、P120-P121にしるしている。
  17. ^ このとき理事りじ就任しゅうにん理事りじ就任しゅうにん前年ぜんねんにそれまでしょ一門いちもんから理事りじつとめていたしょせき死去しきょしてしょ一門いちもん理事りじわくきがため就任しゅうにんしたものだが、二子山ふたごやまおな阿佐ヶ谷あさがやけいには師匠ししょうはなかご理事りじ就任しゅうにんしていたため本家ほんけけい大鵬たいほうこえもあったが、しょせき部屋へや後継こうけいのゴタゴタ騒動そうどう本家ほんけけい理事りじ擁立ようりつ出来でき二子山ふたごやま就任しゅうにんして阿佐ヶ谷あさがやけいから理事りじ2人ふたり選出せんしゅつとなった。大鵬たいほう1980ねん理事りじ改選かいせんはなかごつぎ改選かいせんまでに停年ていねんひかえていたため理事りじ退任たいにんしたのをけて理事りじ就任しゅうにんした。
  18. ^ なお、二子山ふたごやまのち理事りじちょうつとめた出羽海でわのうみ境川さかいがわ理事りじちょうもと横綱よこづな佐田さだやま)とその後任こうにん時津風ときつかぜ理事りじちょうもと大関おおぜき豊山とよやま)は二子山ふたごやまよりさき理事りじ就任しゅうにんしている。(出羽海でわのうみ1974ねん時津風ときつかぜ1970ねん理事りじ就任しゅうにん)そのため二子山ふたごやま事業じぎょう部長ぶちょう時代じだい番付ばんづけとう協会きょうかい理事りじ一覧いちらん理事りじちょう以外いがい就任しゅうにんじゅん記載きさいされるためにこの2人ふたりほう二子山ふたごやまよりさき記載きさいされていたが、1986ねん二子山ふたごやま理事りじちょう代行だいこう肩書かたがきがいてからは理事りじちょうつぎ二子山ふたごやま記載きさい変更へんこうされた。(1980ねん改選かいせんから1986ねん改選かいせんまでは春日野かすがの理事りじちょうつぎ立浪たつなみもと関脇せきわけやすねんやま時津風ときつかぜおな1970ねん就任しゅうにん)、時津風ときつかぜ高砂たかさごもと横綱よこづなあさしお1972ねん就任しゅうにん)、出羽海でわのうみ二子山ふたごやまじゅん記載きさいされていた)ただし、それ以前いぜんから協会きょうかい理事りじ全員ぜんいんでの写真しゃしん撮影さつえい様々さまざま行事ぎょうじならとき春日野かすがの理事りじちょう二子山ふたごやま事業じぎょう部長ぶちょうならび、そのにそれ以外いがい理事りじ理事りじ就任しゅうにんじゅんならかたちになっていた。現在げんざい理事りじ就任しゅうにんじゅん関係かんけいしに理事りじちょう経験けいけんしゃ現職げんしょく理事りじにいなければ理事りじちょうつぎ事業じぎょう部長ぶちょう記載きさいされている。理事りじちょう経験けいけんしゃ現職げんしょく理事りじにいた場合ばあい理事りじちょう経験けいけんしゃつぎ事業じぎょう部長ぶちょうとなっている。
  19. ^ 年寄としより名跡みょうせき交換こうかんによって実弟じっていたかはな二子山ふたごやまがせたうえで、それまで二子山ふたごやま部屋へや所属しょぞくだった力士りきしなどを藤島ふじしま部屋へや建物たてもの移籍いせきさせ、看板かんばんえて「新生しんせい二子山ふたごやま部屋へやとした。きゅう二子山ふたごやま部屋へやはそのまま初代しょだい若乃花わかのはな専用せんよう自宅じたくとなった。
  20. ^ 通例つうれいでは、部屋へや存続そんぞくとして、部屋へや親方おやかたしん師匠ししょうとして継承けいしょうさせる、もしくは部屋へや内部ないぶ適任てきにんしゃがいなければおな一門いちもん親方おやかたむかれて擁立ようりつするというかたちおおい。こうした継承けいしょうかなわない場合ばあい部屋へや存続そんぞく断念だんねんし、一門いちもんないちが部屋へや力士りきしなどをまるごと移籍いせきさせることになる。そうなれば移籍いせきした力士りきしたちの所属しょぞくは、当然とうぜん移籍いせきさき部屋へやめいわるのが通常つうじょうである。しかしこの1993ねん二子山ふたごやま継承けいしょうでは、年寄としより名跡みょうせき売買ばいばい価格かかくとく高騰こうとうしていた時期じきにあって、二子山ふたごやま名跡みょうせき部屋へや本体ほんたいもスムーズに継承けいしょうさせることは困難こんなんであった。そのため、若貴わかたか全盛期ぜんせいき部屋へや隆盛りゅうせいほこっていた実弟じってい藤島ふじしま部屋へや看板かんばんえさせてまでも、二子山ふたごやま名跡みょうせき部屋へやをセットで継承けいしょうさせる結果けっかとなった。こうした苦肉くにくさくにより、一代いちだい名門めいもんにきずきあげられた二子山ふたごやま部屋へや看板かんばん維持いじされたが、皮肉ひにくにもこのことが3ねん申告しんこく発覚はっかく、そして兄弟きょうだいそろっての要職ようしょく辞任じにんにもつながった。
  21. ^ なお、初代しょだいうめだに生年月日せいねんがっぴグレゴリオれきなおした場合ばあいうめたに最後さいご誕生たんじょう若乃花わかのはな生年月日せいねんがっぴである。
  22. ^ たまうみ死去しきょは1971ねん10がつ11にち
  23. ^ 春日野かすがの部屋へやとちうみ入門にゅうもん先代せんだいとち木山きやま守也もりや師匠ししょうで、とちうみ入門にゅうもん当初とうしょとちにしき兄弟子あにでし師匠ししょう死去しきょあずかり弟子でしとしてとちにしき師匠ししょうとなった。とちにしき春日野かすがの部屋へや継承けいしょうした時点じてんでのとちうみじゅうりょうだった。当時とうじとちうみ本名ほんみょう花田はなた四股しこめいであり、とちうみ改名かいめいしたのはとちにしき師匠ししょうとなってからで、花田はなた四股しこめい自身じしんおとうとたかはな利彰としあき入幕にゅうまく当初とうしょまで名乗なのっていた。
  24. ^ ただし、とちうみ初代しょだい若乃花わかのはなおよ初代しょだいたかはなとは親戚しんせき関係かんけいではない。
  25. ^ 二男じなん花田はなたひろし東京とうきょうガス執行しっこう役員やくいんまですすみ(2018ねん)、2021ねんには同社どうしゃ硬式こうしき野球やきゅう部長ぶちょうとして都市とし対抗たいこう野球やきゅう大会たいかいはつ優勝ゆうしょうった。
  26. ^ あさしおわか羽黒はぐろ優勝ゆうしょう決定けっていせん
  27. ^ だいあきら優勝ゆうしょう決定けっていせん
  28. ^ 扁桃腺へんとうせんえんにより13にちから途中とちゅう休場きゅうじょう千秋楽せんしゅうらく不戦敗ふせんぱい
  29. ^ とちにしき優勝ゆうしょう決定けっていせん
  30. ^ 気管支きかんし肺臓はいぞうえん蓄膿症ちくのうしょうにより3にちから途中とちゅう休場きゅうじょう
  31. ^ 腰椎ようつい捻挫ねんざにより9にちから途中とちゅう休場きゅうじょう
  32. ^ 左肩ひだりかた関節かんせつえんにより7にちから途中とちゅう休場きゅうじょう
  33. ^ 急性きゅうせい肝臓かんぞうえん気管支炎きかんしえん腰椎ようついえんにより2にちから途中とちゅう休場きゅうじょう
  34. ^ 5月場所ばしょまえ引退いんたい表明ひょうめい

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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  • 相撲すもう : とちわか時代じだい名人めいじんとちにしきのう若乃花わかのはな-近代きんだい相撲すもう先駆せんくしゃたち』 ベースボールマガジンしゃ、2016
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外部がいぶリンク[編集へんしゅう]