安藝あきうみ節男せつお

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安藝あきうみ 節男せつお
安藝あきうみ 節男せつお
中央ちゅうおうにあるのは安藝あきうみ直筆じきひつサイン
基礎きそ情報じょうほう
四股しこめい 安藝あきうみ 節男せつお
本名ほんみょう 永田ながた 節男せつお
愛称あいしょう 一番いちばん相撲すもう名人めいじん
近代きんだい相撲すもうはな
生年月日せいねんがっぴ 1914ねん5月30にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1979-03-25) 1979ねん3月25にち(64さいぼつ
出身しゅっしん 広島ひろしまけん広島ひろしま宇品うじなまち
げん広島ひろしまみなみ宇品御幸うじなみゆき
身長しんちょう 177cm
体重たいじゅう 128kg
BMI 40.86
所属しょぞく部屋へや 出羽海でわのうみ部屋へや
得意とくいわざ ひだりよっつ、り、そと
成績せいせき
現在げんざい番付ばんづけ 引退いんたい
最高さいこう だい37だい横綱よこづな
生涯しょうがい戦歴せんれき 209しょう101はい38きゅう(32場所ばしょ
幕内まくうち戦歴せんれき 142しょう59はい38きゅう(18場所ばしょ
優勝ゆうしょう 幕内まくうち最高さいこう優勝ゆうしょう1かい
序ノ口じょのくち優勝ゆうしょう1かい
データ
はつ土俵どひょう 1932ねん2がつ場所ばしょ
入幕にゅうまく 1938ねん11月場所ばしょ
引退いんたい 1946ねん11月場所ばしょ
引退いんたい 料理りょうりてん洋品ようひんてん・アパート経営けいえい
備考びこう
金星かなぼし1個いっこ双葉ふたばさん1個いっこ
2013ねん6月9にち現在げんざい

安藝あきうみ 節男せつお(あきのうみ せつお、1914ねん5月30にち - 1979ねん3月25にち)は、広島ひろしまけん広島ひろしま宇品うじなまちげん広島ひろしまみなみ宇品御幸うじなみゆき出身しゅっしん出羽海でわのうみ部屋へや所属しょぞくした大相撲おおずもう力士りきしだい37だい横綱よこづな本名ほんみょう永田ながた 節男せつお(ながた たかお)。

そう葉山はやま定次さだじの70連勝れんしょう阻止そしした「世紀せいき一番いちばん」でられる[1]四股しこめいは「せつお」だが、本名ほんみょうは「たかお」とむ。

経歴けいれき

打倒だとう双葉ふたば

出羽海でわのうみ部屋へや関取せきとりしゅひだりから九州きゅうしゅうさんこまさと笠置山かさぎやまにしき華山かざん安藝あきうみ(1937ねん

食料しょくりょうひんしょういえまれ、宇品うじな尋常じんじょう高等こうとう小学校しょうがっこう卒業そつぎょう家業かぎょう手伝てつだう。1931ねん市内しない開催かいさいされた関西かんさい中学校ちゅうがっこう相撲すもう選手権せんしゅけん観戦かんせんしたところ、ふじしまにスカウトされて角界かくかいり。1932ねん2がつ場所ばしょ出羽海でわのうみ部屋へやから“永田ながた”の四股しこめいはつ土俵どひょうむ。じょだんで「安藝あきうみ」と改名かいめいすると、順調じゅんちょう昇進しょうしんして1936ねん1がつ場所ばしょしんじゅうりょう1938ねん1がつ場所ばしょでは、23さいしん入幕にゅうまくたした[2]

当時とうじ出羽海でわのうみ部屋へやでは、「打倒だとう双葉ふたば」を目指めざして場所ばしょごとに作戦さくせん会議かいぎひらいたという。そのなかから「どうやら双葉ふたばさんみぎかれるのをいやがる」「無理むりとうげをって体勢たいせいくずすこともあるので、そこをすくうかあしけるかしてはどうか」という作戦さくせん笠置山かさぎやま勝一かついち中心ちゅうしんまれた。笠置山かさぎやま当時とうじとしては非常ひじょうめずらしい大卒だいそつ早稲田大学わせだだいがく卒業そつぎょう)の「インテリ力士りきし」で、笠置山かさぎやま自身じしんあらわした「横綱よこづな双葉ふたばさんろん」でもげられた。また、それまでなん双葉ふたばさん対戦たいせんしたことのある力士りきしでは弱点じゃくてんられていることもあり、入幕にゅうまくしてはつ上位じょうい挑戦ちょうせんであり、かつ前年ぜんねん満州まんしゅう巡業じゅんぎょう双葉ふたばさんから稽古けいこ相手あいて指名しめいされながらも体調たいちょう不良ふりょうことわり、そのよるのうちに入院にゅういん盲腸炎もうちょうえんだとつたわる)して、結果けっかてき稽古けいこでもんだことのない安藝あきうみが「打倒だとう双葉ふたば」の期待きたいになうことになった[2]

世紀せいき一番いちばん

1939ねん1がつ場所ばしょ4にち(1939ねん1がつ15にち)、軍配ぐんばいかえるやっかけた安藝あきうみあたまげながらった。双葉ふたばさん小刻こきざみにかえして応戦おうせんし、得意とくいみぎしにみぎのぞかせてきた。ひだりしでがろうとかんがえていた安藝あきうみ目論見もくろみはずれたが、ぎゃく右前みぎまえふんどしってがるかたはいった。りょうまわしをれない双葉ふたばさん強引ごういんみぎからすくったが、ぎゃくこしびた。

土俵どひょう力士りきしまりの笠置山かさぎやま心中しんちゅうの、「いまだ、いまだ!」と絶叫ぜっきょうしたという。なかなか安藝あきうみあしばず、後年こうねん「あれだけ入念にゅうねん作戦さくせんって、まさにそのとおりになってもなかなかおもどおりにかないから相撲すもうわからない。あの安藝あきうみをしてそうなのだから…」と述懐じゅっかいしたが、ついにそのひだりがいけで双葉ふたばさん牙城がじょうくずし、かいすくとうと双葉ふたばさん右足みぎあしんだ瞬間しゅんかん安藝あきうみ左足ひだりあしんだ。ぐらついた双葉ふたばさんけられたあしはらって起死回生きしかいせいみぎ下手へたつが、安藝あきうみ右足みぎあし一本いっぽんでこらえてからだびせ、つい双葉ふたばさん土俵どひょう中央ちゅうおうたおれた。

世紀せいき一瞬いっしゅんに、両國りょうこく國技こくぎかんだいてつかさだい歓声かんせいによってふるえたという。この取組とりくみのラジオ実況じっきょう担当たんとうしていた和田わだしんけんは、うしろのせきひかえていた山本やまもとあきらに「双葉ふたばたしかにけましたね?」とかえ確認かくにんしたのち、「双葉ふたばはいる!双葉ふたばはいる!双葉ふたばはいる!とき昭和しょうわ14ねん1がつ15にち旭日きょくじつ昇天しょうてんまさに69連勝れんしょう、70連勝れんしょう目指めざして躍進やくしんする双葉ふたばさん出羽でわ一門いちもん新鋭しんえい安藝あきうみくっす!双葉ふたば、70連勝れんしょうならず!まさに70、古来こらいやはりまれなり!」と絶叫ぜっきょうした。

かくて安藝あきうみ双葉ふたばさんの70連勝れんしょう阻止そしし、一躍いちやく英雄えいゆうとなる。一番いちばんのち行司ぎょうじ部屋へや紋付もんつき着替きがえて、ニュース映画えいがようのインタビューをけて國技こくぎかんたが、部屋へやまで通常つうじょう徒歩とほ5ふんのところ、この双葉ふたばさんたおした英雄えいゆう一目いちもくようとめかけた大観たいかんしゅにもまれたことで部屋へやまで30ふんもかかり、到着とうちゃく足元あしもとると雪駄せった片方かたがたえていたという。故郷こきょう広島ひろしまには「オカアサンカツタ」の電報でんぽうち、実家じっかには直接ちょくせつ電話でんわをして勝利しょうり報告ほうこくした(実家じっかではラジオで勝利しょうりほういた家族かぞくが、全員ぜんいん万歳ばんざいしている写真しゃしん新聞しんぶんった)。このとき出羽海でわのうみや、入門にゅうもんとき世話せわになったふじしまからは、「ってめられるより、けてさわがれるようになれ」とさとされた。出羽海でわのうみ部屋へやまえでは安藝あきうみたさの観衆かんしゅうよるおそくまでまっていたため、安藝あきうみ部屋へやの2かいから観衆かんしゅうこえなんった[3]

この「世紀せいき一番いちばん」は大相撲おおずもう史上しじょう最初さいしょ号外ごうがいとしてつたえられたとわれているが、この号外ごうがい紙面しめん現存げんそんしない。

横綱よこづな昇進しょうしん

はつ優勝ゆうしょう(1940ねん

双葉ふたばさんった自分じぶんがみっともない相撲すもうれない」と稽古けいこはげ[1]1940ねん1がつ場所ばしょ関脇せきわけ昇進しょうしん同年どうねん5がつ場所ばしょ、14しょう1はいはつ優勝ゆうしょうした(優勝ゆうしょうはこの1かいだけ)。場所ばしょどう部屋へやしま奈良ならおとこ同時どうじ大関おおぜき昇進しょうしんした[1]

1942ねん5月場所ばしょ番付ばんづけ編成へんせいかい全会ぜんかい一致いっちをもって照國てるくに萬藏まんぞう同時どうじ横綱よこづな推薦すいせん同年どうねん6がつ8にち横綱よこづな仮免許かりめんきょ授与じゅよしきしん横綱よこづなとしてはつ土俵入どひょういりがおこなわれた[4]昇進しょうしん直後ちょくご横綱よこづなになれたのは、あの一番いちばんがあったからです」と述懐じゅっかいした一方いっぽうで、なにとかもう一度いちどいどんだ双葉ふたばさんには、その9連敗れんぱい二度にどてなかった[1][2]現役げんえきとおして唯一ゆいいつ金星かなぼし双葉ふたばさんたおした一番いちばんだった。また横綱よこづな時代じだいにはいち優勝ゆうしょうできておらず、実質じっしつ最終さいしゅう場所ばしょになった1945ねん11月場所ばしょにはおおとり宮城みやぎさん男女だんじょかわつづいて史上しじょう4にんとなる横綱よこづなとしての皆勤かいきんという不名誉ふめいよ記録きろくのこすなど、横綱よこづなとしては大成たいせいしなかったが、幕内まくうち在位ざいい18場所ばしょ皆勤かいきんしてしたのはこの1945ねん11月場所ばしょ双葉ふたばさんたおした1939ねん1がつ場所ばしょだけだった[2]つぎの1946ねん11月場所ばしょ全休ぜんきゅうし、この場所ばしょかぎりで現役げんえき引退いんたいした。

引退いんたい晩年ばんねん

引退いんたいふじしまむすめ結婚けっこんし、年寄としより不知火しらぬひ襲名しゅうめいのち藤嶋ふじしま継承けいしょう)して、相撲すもう協会きょうかい理事りじ就任しゅうにんした。当然とうぜん次期じき出羽海でわのうみ有力ゆうりょく候補こうほだったが、1953ねん自身じしん経営けいえいしていた「ちゃんこ安藝あき」の地下ちかキャバレー出店しゅってんさせて出羽海でわのうみいかりをったことが致命ちめいてきになり、その自身じしん離婚りこん問題もんだいにより平年へいねんよせ降格こうかくされると1954ねんをもって廃業はいぎょうした[2]問題もんだいとなった「ちゃんこ安藝あき」はほどくして手放てばなさざるをなくなった。

廃業はいぎょう東京とうきょう八重洲やえす相撲すもう料理りょうりてん東中野ひがしなかのでアパート、きた鎌倉かまくら洋品ようひんてん経営けいえいし、大相撲おおずもう中継ちゅうけいのゲスト解説かいせつ度々どど登場とうじょうした。1974ねん還暦かんれきむかえたが、還暦かんれき土俵入どひょういおこなわれず、使用しようする予定よていだったあかつな所持しょじ不明ふめいである。1979ねん3がつ25にちうっけつせい心不全しんふぜんのため鎌倉かまくら病院びょういん死去しきょした。64さいぼつ

人物じんぶつ

  • 双葉ふたばさんには連勝れんしょうストップの一番いちばん二度にどてなかったがつね善戦ぜんせんし、たまにしきさんみぎもん現役げんえきから照國てるくに台頭たいとうまで、双葉ふたばさん全盛期ぜんせいき完全かんぜんなライバル不在ふざいになってしまうことをふせいだ。本人ほんにんいわく「双葉ふたばやませき相手あいてだれでもわらぬ相撲すもうったひとだが、自分じぶんたいしてだけは特別とくべつ感情かんじょうがあるようにかんじた」とい、後々あとあとまでこれをほこりにしていた。
  • ひだりよっつを得意とくいとし、ぜんふんどしってがりみぎおっつけながらめる速攻そっこう相撲すもうげもあり一番いちばん相撲すもう名人めいじんともばれた。非力ひりきだったが「相手あいてはみんなウジちゅうだとおもって土俵どひょうのぼった」と後年こうねん自身じしんかたるほどけんつよ人物じんぶつでもあった。
  • 出羽でわにしき著書ちょしょでは「あるとし岡山おかやま巡業じゅんぎょう飛付とびつけにんきをおこなったさい参加さんかしていた土着どちゃくのヤクザがなんかされてもしぶとく挑戦ちょうせんつづけるため泉州せんしゅうさん久義ひさよし[5]手厳てきびしく土俵どひょうたたけたが、これが原因げんいんとなって見物けんぶつせき仲間なかまいかだい乱闘らんとうになった。乱闘らんとうおさまってからヤクザがななはちにん安藝あきうみ支度したく部屋へやに『いちばんさき問題もんだいをおこしたわかものわたせ』とったが、安藝あきうみは『わかものわたすことはできない。だがんであやまらすだけでいいならそうしよう。しかしゆびいちほんふれたら承知しょうちしないぞ』と返答へんとうし、問答もんどうのすえこうがれてあやまることではなしがついた」という逸話いつわあつかわれている。安藝あきうみつよさをあらわ逸話いつわである[6]
  • 作家さっか小島こじま貞二ていじは、力士りきし時代じだい安藝あきうみびとつとめていた。安藝あきうみには風呂ふろがりのさいからだかたわるいといきなりなぐられたことなどがあり、人間にんげんてきには心酔しんすいできない部分ぶぶんがあったという。また、出羽海でわのうみ部屋へや歴代れきだい横綱よこづながくならなかで、廃業はいぎょう安藝あきうみがくだけが、その不行跡ふぎょうせき立腹りっぷくした出羽海でわのうみ指示しじはずされていたことも証言しょうげんしている。さらに、晩年ばんねん不遇ふぐうなかで、現役げんえき時代じだい双葉ふたばさんせんかんする座談ざだんかいやインタビューにはかなら出席しゅっせきし、きとかがやかせてその模様もようかたり、追憶ついおく世界せかいきる安藝あきうみ姿すがたたいしては「なんとも形容けいようしがたかった」とかえっている[7]
  • 神風かみかぜ正一しょういち安藝あきうみ横綱よこづな時代じだい取組とりくみ館内かんない入浴にゅうよくしたときに「横綱よこづなよりさき風呂ふろはいった」としてなぐられたという。安藝あきうみはやいタイプであったことはたしかである。
  • 相撲すもう評論ひょうろん杉山すぎやまかつら四郎しろうは、晩年ばんねん安藝あきうみへの取材しゅざいを3かいおこなっていた。親方おやかた時代じだいからはじめた料理りょうりてん経営けいえいでやりぶり発揮はっきしていた安藝あきうみへのインタビューは「あたま回転かいてんはやく、はなしをしていて気持きもちがよかった」とする反面はんめん、「才人さいじんでやりすぎて、相撲すもう社会しゃかいみずわなかったのではないか」とも分析ぶんせきしている。このてんについて杉山すぎやまは、岳父がくふ出羽海でわのうみとの確執かくしつが、自身じしん離婚りこん問題もんだいだけでなく、親方おやかたたちの労働ろうどう組合くみあいたる「明朗めいろうかい」という組織そしき運営うんえいしていたため印象いんしょうたれなかったということも指摘してきしている[8]

エピソード

  • 優勝ゆうしょうは1かいだが、これは関脇せきわけ時代じだいの1940ねん5がつ場所ばしょ、14しょう1はい記録きろくしたものだった。なお、この場所ばしょ双葉ふたばさんが11にちまでに4はいし、「信念しんねん歯車はぐるまくるった」と引退いんたい表明ひょうめい(のち撤回てっかい)した場所ばしょである。ほかにも大関おおぜき時代じだいの1942ねん5がつ場所ばしょは14にちまで13しょう1はい優勝ゆうしょうあらそいの首位しゅいにいたが、千秋楽せんしゅうらくに2はい双葉ふたばさんやぶれ、当時とうじ上位じょうい優勝ゆうしょう制度せいどのために優勝ゆうしょう双葉ふたばさんにさらわれた。
  • どういう理由りゆうなのかは不明ふめいだが、1944ねん以降いこう引退いんたいまでぎゃくったつなめていた。
  • 安藝あきうみ実家じっかは、広島ひろしま海岸かいがん沿い、宇品うじなこうちかくにあった。戦時せんじちゅう大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん兵隊へいたいすべてこのみなとから外地がいちおくられた。実家じっかでは母親ははおやながらく駄菓子だがしいとなみ、近所きんじょ子供こどもたちまりとなっていたが、広島ひろしま高速こうそく3号線ごうせん建設けんせつによる退きでこわされた。
  • 双葉ふたばさんの69連勝れんしょうちゅう漫画まんが近藤こんどう日出にっしゅつづくり新聞しんぶんで「今日きょう双葉ふたばさんいどもの」との連載れんさいっていて、場所ばしょちゅう双葉ふたばさん対戦たいせんする力士りきし取材しゅざいしていた。1939ねん1がつ場所ばしょ初日しょにち双葉ふたばさん対戦たいせん相手あいてだったしま近藤こんどう取材しゅざいこたえて「オレなんかダメだが、うちの安藝あきうみ面白おもしろいよ」とかたったことは、のちに「世紀せいき予言よげん」とかたぐさになった。
  • 双葉ふたばさん連勝れんしょうめた当時とうじのフィーバーぶりについて、「ひいきのひとが、けんついたいえをほうびにくれたよ」とかたっていた[8]
  • 1975ねん11月場所ばしょ横綱よこづな昇進しょうしんがかかっていたたかはな利彰としあきについては「まずダメだね。横綱よこづなになったら1場所ばしょか2場所ばしょ引退いんたいですよ。ならんぽうがいいとおもう。人気にんきのあるいい大関おおぜきでいたほうがいい、そうおもうがね」とひょうしており、結果けっかとして大関おおぜき在位ざいい50場所ばしょめい大関おおぜきとしてのこしたたかはな未来みらい予言よげんしていた[8]
  • 出羽海でわのうみ一門いちもん後輩こうはいでもあるきたうみさとしみつる相撲すもう多用たようすることに『横綱よこづな相撲すもうとしてはいかがなものか』とした批判ひはんがあったなかで、「えがあるから安定あんていしている。優勝ゆうしょうもできる。あれでいいんですよ」としきりに評価ひょうかしていたという[8]
  • だい世界せかい大戦たいせん終戦しゅうせん以前いぜん横綱よこづな昇進しょうしんしたもと力士りきしとしては最後さいご存命ぞんめいしゃであった。
  • むすめもと宝塚歌劇団たからづかかげきだん52期生きせいつね花代はなだい現在げんざい相撲すもう茶屋ちゃやはくゆたか」の女将おかみ)。

おも成績せいせき

  • 通算つうさん成績せいせき:209しょう101はい38きゅう 勝率しょうりつ.674
  • 幕内まくうち成績せいせき:142しょう59はい38きゅう 勝率しょうりつ.706
  • 横綱よこづな成績せいせき:38しょう19はい38きゅう 勝率しょうりつ.667
  • 現役げんえき在位ざいい:32場所ばしょ
  • 幕内まくうち在位ざいい:18場所ばしょ
  • 横綱よこづな在位ざいい:8場所ばしょ
  • 大関おおぜき在位ざいい:4場所ばしょ
  • さんやく在位ざいい:2場所ばしょ関脇せきわけ2場所ばしょ小結こむすびなし)
  • 金星かなぼし1個いっこ双葉ふたばさん1個いっこ
  • かくだん優勝ゆうしょう
    • 幕内まくうち最高さいこう優勝ゆうしょう:1かい(1940ねん1がつ場所ばしょ
    • 序ノ口じょのくち優勝ゆうしょう:1かい(1932ねん10がつ場所ばしょ

場所ばしょべつ成績せいせき

安藝あきうみ節男せつお
春場所はるばしょ さんがつ場所ばしょ 夏場所なつばしょ 秋場所あきばしょ
1932ねん
昭和しょうわ7ねん
ぜん相撲すもう ぜん相撲すもう 西にし序ノ口じょのくち12まい
3–3 
西にし序ノ口じょのくち12まい
優勝ゆうしょう
6–0
1933ねん
昭和しょうわ8ねん
ひがしじょだん12まい
2–4 
x 西にしじょだん19まい
4–2 
x
1934ねん
昭和しょうわ9ねん
西にしさんだん30まい
5–1 
x ひがし幕下まくした23まい
6–5 
x
1935ねん
昭和しょうわ10ねん
西にし幕下まくした13まい
7–4 
x 西にし幕下まくした3まい
6–5 
x
1936ねん
昭和しょうわ11ねん
西にしじゅうりょう14まい
6–5 
x 西にしじゅうりょう8まい
5–6 
x
1937ねん
昭和しょうわ12ねん
西にしじゅうりょう14まい
7–4 
x ひがしじゅうりょう8まい
10–3 
x
1938ねん
昭和しょうわ13ねん
西前にしまえあたま16まい
8–5 
x 西前にしまえあたま10まい
9–4 
x
1939ねん
昭和しょうわ14ねん
西前にしまえあたま3まい
6–7
x ひがし前頭まえがしら4まい
10–5 
x
1940ねん
昭和しょうわ15ねん
西にし関脇せきわけ
10–5 
x 西にし関脇せきわけ
14–1
旗手きしゅ
 
x
1941ねん
昭和しょうわ16ねん
東大とうだいせき
12–3 
x 東大とうだいせき
9–6 
x
1942ねん
昭和しょうわ17ねん
西にしちょういずる大関おおぜき
13–2 
x 西にし大関おおぜき
13–2 
x
1943ねん
昭和しょうわ18ねん
ひがし横綱よこづな大関おおぜき
12–3 
x 西にしちょういずる横綱よこづな
11–4 
x
1944ねん
昭和しょうわ19ねん
ひがしちょういずる横綱よこづな
休場きゅうじょう
0–0–15
x 西にしちょういずる横綱よこづな
5–5 
西にしちょういずる横綱よこづな
0–0–10 
1945ねん
昭和しょうわ20ねん
x x ひがしちょういずる横綱よこづな
6–1 
ひがし横綱よこづな
4–6 
1946ねん
昭和しょうわ21ねん
x x 国技こくぎかん修理しゅうり
のため中止ちゅうし
西にし横綱よこづな
引退いんたい
0–0–13
かくらん数字すうじは、「ち-け-休場きゅうじょう」をしめす。    優勝ゆうしょう 引退いんたい 休場きゅうじょう じゅうりょう 幕下まくした
さんしょう=敢闘かんとうしょうこと=殊勲賞しゅくんしょうわざ=技能ぎのうしょう     その=金星かなぼし
番付ばんづけ階級かいきゅう幕内まくうち - じゅうりょう - 幕下まくした - さんだん - じょだん - 序ノ口じょのくち
幕内まくうち序列じょれつ横綱よこづな - 大関おおぜき - 関脇せきわけ - 小結こむすび - 前頭まえがしら(「#数字すうじ」は各位かくいない序列じょれつ

おも力士りきしとの幕内まくうち対戦たいせん成績せいせき

力士りきしめい かちすう 負数ふすう 力士りきしめい かちすう 負数ふすう 力士りきしめい かちすう 負数ふすう
ひがし富士ふじ欽壹 2 0 鏡岩かがみいわ善四郎ぜんしろう 1 1 佐賀さがはな勝巳かつみ 9 1
照國てるくに万藏まんぞう 3 3 名寄岩なよろいわ静男しずお 9 4 羽黒山はぐろさん政司せいじ 5 7
そう葉山はやま定次さだじ 1 9 ぜん田山たやま英五郎えいごろう 2 4 三根みつねさん隆司たかし 2 1
男女だんじょ川登かわのぼりさん 0 2

脚注きゃくちゅう

  1. ^ a b c d ベースボールマガジンしゃ大相撲おおずもう名門めいもん列伝れつでんシリーズ(1) 出羽海でわのうみ部屋へや春日野かすがの部屋へや 』(2017ねん、B・B・MOOK)p22
  2. ^ a b c d e 北辰ほくしんどう出版しゅっぱん昭和しょうわ平成へいせい 大相撲おおずもうめい力士りきし100列伝れつでん』(塩澤しおざわみのるしんじ、2015ねん)28ページから29ページ
  3. ^ 相撲すもう別冊べっさつ夏季かきごう 36ページ 2016ねん
  4. ^ りょう横綱よこづなはつ土俵入どひょういり(昭和しょうわ17ねん6がつ8にち朝日新聞あさひしんぶん)『昭和しょうわニュース辞典じてんだい8かん 昭和しょうわ17ねん/昭和しょうわ20ねん』p6 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  5. ^ 1940年代ねんだい活躍かつやくした春日野かすがの部屋へやもと西にしじゅうりょう2まい引退いんたいいち時期じき年寄としより千田せんだがわ襲名しゅうめいした。
  6. ^ もと出羽でわにしき田子たつこうら忠雄ただお名義めいぎ土俵どひょうすなっている~なみだわらい・じゅうねん生活せいかつ記録きろく~』いちみずしゃ
  7. ^ 工藤くどう美代子みよこ一人ひとりさみしき双葉ふたばさん』1991ねんちくま文庫ぶんこ、175-177ぺーじ
  8. ^ a b c d 古今ここん横綱よこづなだい事典じてん』1986ねん読売新聞社よみうりしんぶんしゃ、120ぺーじ

関連かんれん項目こうもく

外部がいぶリンク