とち木山きやま守也もりや

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とち木山きやま 守也もりや
横綱よこづな土俵入どひょういりをおこな栃木とちぎさん(1919ねんごろ
基礎きそ情報じょうほう
四股しこめい 栃木とちぎさん せんなりとち木山きやま 守也もりや
本名ほんみょう 中田なかた 守也もりや旧姓きゅうせい横田よこた
愛称あいしょう 出羽海でわのうみ部屋へや三羽烏さんばがらす
古今ここんじゅうすぐる
生年月日せいねんがっぴ 1892ねん2がつ5にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1959-10-03) 1959ねん10月3にち(67さいぼつ
出身しゅっしん 栃木とちぎけん下都賀しもつがぐん赤麻あかまむら
げん栃木とちぎけん栃木とちぎ藤岡ふじおかまち赤麻あかま
身長しんちょう 172cm
体重たいじゅう 104kg
BMI 35.15
所属しょぞく部屋へや 出羽海でわのうみ部屋へや
得意とくいわざ はず
成績せいせき
現在げんざい番付ばんづけ 引退いんたい
最高さいこう だい27だい横綱よこづな
生涯しょうがい戦歴せんれき 197しょう26はい7ふん4あずか24きゅう(30場所ばしょ
幕内まくうち戦歴せんれき 166しょう23はい7ふん4あずか24きゅう(22場所ばしょ
優勝ゆうしょう 幕内まくうち最高さいこう優勝ゆうしょう9かい
幕下まくした優勝ゆうしょう1かい
データ
はつ土俵どひょう 1911ねん2がつ場所ばしょ
入幕にゅうまく 1915ねん1がつ場所ばしょ
引退いんたい 1925ねん5月場所ばしょ
備考びこう
金星かなぼし2おおとり2
2019ねん7がつ13にち現在げんざい

とち木山きやま 守也もりや(とちぎやま もりや、1892ねん2がつ5にち - 1959ねん10月3にち)は、栃木とちぎけん下都賀しもつがぐん赤麻あかまむらげん栃木とちぎけん栃木とちぎ藤岡ふじおかまち赤麻あかま出身しゅっしん出羽海でわのうみ部屋へや所属しょぞくした大相撲おおずもう力士りきしだい27だい横綱よこづな本名ほんみょう中田なかた 守也もりや(なかた もりや)(旧姓きゅうせい横田よこた)。

来歴らいれき[編集へんしゅう]

つまのこして単身たんしん上京じょうきょう[編集へんしゅう]

1892ねん2がつ5にち栃木とちぎけん下都賀しもつがぐんげん栃木とちぎけん栃木とちぎ藤岡ふじおかまち赤麻あかま)の農家のうか長男ちょうなんとしてまれる。おそくに誕生たんじょうした男子だんしだったことで「いえててしい」とのねがいから“守也もりや”と名付なづけられた。幼少ようしょうから家業かぎょう手伝てつだいつつ漢学かんがくじゅくかよいながら、自宅じたく近所きんじょにあった岩船いわふねさんいし人力じんりきトロッコで渡良瀬川わたらせがわはこ仕事しごと従事じゅうじし、強健きょうけんからだになる。17さい結婚けっこんするが、18さいとき妊娠にんしんちゅうだったつまのこして上京じょうきょうし、出羽でわ海部かいふ入門にゅうもんする。歴代れきだい横綱よこづななかで、みずか志願しがんして角界かくかいりしたもの非常ひじょうめずらしい。入門にゅうもん動機どうきとしては「鉱毒こうどくによっておとろえる郷里きょうり絶望ぜつぼうした」とも「おやめた許婚きょこんしゃ性格せいかくわなかった」ともわれるが、栃木とちぎさん自身じしん入門にゅうもん経緯けいい最期さいごまではなさなかったためはっきりしていない。

近代きんだい最強さいきょう力士りきし」へ[編集へんしゅう]

1911ねん2がつ場所ばしょ序ノ口じょのくちはつ土俵どひょうむとらずのまま番付ばんづけげ、1913ねん5月場所ばしょ幕下まくしたまで21連勝れんしょう記録きろくした。入幕にゅうまくまでにきっした黒星くろぼしわずか3[ちゅう 1]のスピード出世しゅっせだったにもかかわらず、栃木とちぎさん軽量けいりょうさから出羽でわうみからもほとんどかえりみられず、幕下まくしたにあがったころ稽古けいこじょうで「あのさいの(栃木とちぎさん)、えらくつよいが、あんなのうちの部屋へやにいたか?」とわれたという逸話いつわがある。

しん小結こむすび昇進しょうしんした1916ねん5月場所ばしょ8にち当時とうじ56連勝れんしょうちゅうだった太刀たちさんみねみぎもんをもろしから一気いっき殊勲しゅくんほし[1][2][3]号外ごうがいるなど東京とうきょうちゅう大騒おおさわぎとなった[ちゅう 2]栃木とちぎさん勝利しょうりして花道かどうげる途中とちゅう背中せなかひゃくえん紙幣しへいが2まいられ[4][5]いちばん祝儀しゅうぎが1まん2せんえん当時とうじ)にたっしたが、場所ばしょ仲間なかまれて豪遊ごうゆうしたためにわずか3にち使つかたしたという。

よく1917ねん1がつ場所ばしょしん関脇せきわけとなると6しょう3はい1きゅう[ちゅう 3]し、大関おおぜきだいにしき一郎いちろう全勝ぜんしょう優勝ゆうしょう場所ばしょ横綱よこづな昇進しょうしんめた。こうなるとおなへん大関おおぜき不在ふざいになってしまうため、栃木とちぎさん同時どうじ大関おおぜき昇進しょうしんたす。これは2019ねん現在げんざいまで、どう部屋へや力士りきし横綱よこづな大関おおぜき同時どうじ昇進しょうしんたした最後さいごれいになっている[ちゅう 4]

1917ねん5月場所ばしょ大関おおぜき1918ねん5月場所ばしょ横綱よこづな昇進しょうしんはさんで1919ねん1がつ場所ばしょまで5連覇れんぱ達成たっせいする[ちゅう 5]。この大関おおぜき昇進しょうしん場所ばしょはつ優勝ゆうしょうで、それから5場所ばしょ連続れんぞく優勝ゆうしょうれて合計ごうけい9かい優勝ゆうしょうげている[1]大関おおぜき昇進しょうしんはほぼすべての場所ばしょ優勝ゆうしょうあらそいにくわわり、風邪かぜ途中とちゅう休場きゅうじょうした1場所ばしょのぞいて9場所ばしょ優勝ゆうしょう、6場所ばしょはんほし優勝ゆうしょう次点じてんのこる1場所ばしょ優勝ゆうしょう力士りきしとのあいだはんほし優勝ゆうしょう次点じてん力士りきしはさんで1しょうの3相当そうとうだった。1920ねん5月場所ばしょは8しょう1ふん1あずかながら、優勝ゆうしょうしゃは9しょう1はいだいにしき翌年よくねん1がつ場所ばしょ無敗むはいだったがあずかり1つのだいにしき優勝ゆうしょうしている。幕内まくうち勝率しょうりつは.878だが、横綱よこづな在位ざいいちゅう勝率しょうりつは.935である。栃木とちぎさん以降いこう横綱よこづなでの最終さいしゅう勝率しょうりつが9わりえたものておらず、この安定あんていかんをもって近代きんだい最強さいきょう力士りきし意見いけんおお[4]

横綱よこづな土俵入どひょういげた四股しこあしもどさい両足りょうあし化粧廻けしょうまわはさまることが目立めだっていたようであり、はらていないことでこうなりがちであったという分析ぶんせき存在そんざいする[6]

突然とつぜん引退いんたい発表はっぴょう[編集へんしゅう]

1924ねん1がつ場所ばしょから1925ねん1がつ場所ばしょまで3場所ばしょ連続れんぞく優勝ゆうしょうのちつぎの5がつ場所ばしょ直前ちょくぜん突然とつぜん引退いんたい表明ひょうめいする[1]引退いんたい理由りゆうについては、横綱よこづなとして3連覇れんぱしながらちょういずるのままとされた番付ばんづけめんでの不満ふまん[ちゅう 6]頭髪とうはつおとろえをにして[ちゅう 7]などの諸説しょせつがあるが、本人ほんにんは「ちからおとろえてからめるのは本意ほんいではない。いまはなだとおもうから」とだけかたった。

この引退いんたいは、「おとろえをかんじさせないあざやかなぎわ」として、現在げんざいまで横綱よこづなのあるべき姿すがたとしてよくれいかれる。しかし、1923ねん9月1にち発生はっせいした関東大震災かんとうだいしんさいによって国技こくぎかん損失そんしつするなど相撲すもうかい苦難くなん時期じきにあった当時とうじ第一人者だいいちにんしゃ突然とつぜん引退いんたいには角界かくかい全体ぜんたいのことより自身じしん美意識びいしき優先ゆうせんした身勝手みがって引退いんたい」との批判ひはんつよかった[よう出典しゅってん]。まだこの時期じき西にしうみ嘉治よしはるろうつねはなひろしの2横綱よこづな存在そんざいしていたが栃木とちぎさん2人ふたりより圧倒的あっとうてきつよく、周囲しゅういだれしも栃木とちぎさん引退いんたいには断固だんこ反対はんたいなかにはまだ5ねんつとまるとのこえまであった。

名門めいもん春日野かすがの部屋へや創立そうりつ[編集へんしゅう]

引退いんたいは、養父ようふである木村きむら宗四郎そうしろうかぶであった年寄としより春日野かすがの(8だい)を襲名しゅうめいした。当時とうじは「分家ぶんけゆるさず」の不文ふぶんりつがあった出羽でわ海部かいふから例外れいがいてき独立どくりつゆるされ、春日野かすがの部屋へや創立そうりつした。不文ふぶんりつ作者さくしゃ常陸山ひたちやま唯一ゆいいつみとめた例外れいがいで、養父ようふ名跡みょうせきぐものであると同時どうじ栃木とちぎさん自身じしん人物じんぶつてきたか評価ひょうかしていたためだった[7]独立どくりつ以降いこうさかんに出羽海でわのうみ部屋へや稽古けいこじょうし、たんなる本家ほんけ分家ぶんけ以上いじょう親密しんみつ関係かんけいきずいていった[7]。1922ねん常陸山ひたちやまぼっして後継こうけい問題もんだいをめぐって紛糾ふんきゅうしたおりには出羽海でわのうみ後継こうけい有力ゆうりょく候補こうほなされたが、すでに独立どくりつゆるされているだからと一番いちばん退しりぞいた。引退いんたいの1926ねん3がつからやく1年間ねんかん欧米おうべい巡遊じゅんゆう出発しゅっぱつした。

引退いんたい1925ねん11月、だい1かい明治めいじ神宮じんぐう例祭れいさい奉祝ほうしゅく全日本ぜんにほん力士りきしせんけん大会たいかい年寄としより春日野かすがのとして出場しゅつじょうし、準決勝じゅんけっしょう決勝けっしょう現役げんえき横綱よこづなであるつねはな西にしうみ嘉治よしはるろう(3だい)を連破れんぱして優勝ゆうしょうたした。1931ねんの「だい1かいだい日本にっぽん相撲すもうせんけん」にも参加さんか引退いんたいからすでに6ねん経過けいかしていたことから周囲しゅうい予想よそうたかくはなかったが自慢じまん怪力かいりきするどくち健在けんざいで、大関おおぜきたまにしき三右衛門さんえもん関脇せきわけ天竜てんりゅう三郎さぶろう現役げんえきさんやく相次あいついでやぶって優勝ゆうしょうした[1]。「たまにしきらには以前いぜんから稽古けいこをつけていて、そのくちっていたのではないか」「現役げんえき力士りきしがわ遠慮えんりょがあったのではないか」などの意見いけんもあるが、ともかく栃木とちぎさん引退いんたいおとろえによるものではかったことを証明しょうめいしてみせたかたちだった。また13しゃく土俵どひょう時代じだいいち時代じだいきずいた栃木とちぎさん現在げんざいおなじ15しゃく土俵どひょうでもわらずつよかったという意味いみでもこの逸話いつわ重要じゅうよう意味いみつ。

1932ねん1がつきた春秋しゅんじゅうえん事件じけんでは、取締とりしまりじんそう辞職じしょくのちけて協会きょうかい取締とりしまり就任しゅうにんし、兄弟子あにでしだが年下としした出羽海でわのうみつねはな)を補佐ほさした。[ちゅう 8]

春日野かすがの部屋へや創立そうりつさせた当初とうしょは、相模さがみがわただしのべ横綱よこづな間違まちがしともわれたが関脇せきわけまり、鹿しかしまひろしおこしもすぐさんやく昇進しょうしんできるとわれたが現役げんえき死亡しぼうするなど、弟子でしそだたず困難こんなんつづきだった。しかし、戦後せんごとちにしき横綱よこづな昇進しょうしんさせるなど晩年ばんねんにぎやかな様相ようそうていした。このほかのち幕内まくうち代表だいひょうする力士りきし成長せいちょうするとちうみあきらよしみとち光正みつまさこれ栃木とちぎさん存命ぞんめい入門にゅうもんである。

晩年ばんねん[編集へんしゅう]

1952ねん5月31にちには、蔵前くらまえ仮設かせつ国技こくぎかんあかつなめて露払つゆはらいに藤島ふじしま太刀持たちもちに現役げんえき横綱よこづな羽黒山はぐろさん政司せいじしたがえて還暦かんれき土俵入どひょうい披露ひろうした。1958ねん日本にっぽん相撲すもう協会きょうかい決定けっていした停年ていねんせい実施じっしともない1961ねん停年ていねん決定けっていしていたが[ちゅう 9]1959ねん10月3にち脳血栓のうけっせんのため死去しきょ。67さいぼつ没後ぼつご政府せいふより相撲すもうかいはつとなるくんよんとう瑞宝章ずいほうしょう追贈ついぞうされたほか、年寄としより春日野かすがの春日野かすがの部屋へやとちにしき清隆きよたかまい鑑札かんさつ継承けいしょうした。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

全盛期ぜんせいきくち[編集へんしゅう]

太刀たちやま強烈きょうれつ対抗たいこうしてみがいた出足であしするど相撲すもう最大さいだい特徴とくちょうである。天竜てんりゅうは「立合たちあいに自分じぶん用心ようじんしていないと(栃木とちぎさんの)出足であし自分じぶんくび電気でんきはしっていためるほど」という。さきべたような怪力かいりき右手みぎてけられた相手あいては、栃木とちぎさん怪力かいりきうでられるのではないかとおもったという。ききてひだりはずしは栃木とちぎさん十八番じゅうはちばんで、みぎけ・ひだりはずしのかたになれば盤石ばんじゃくだった[4]

みぎ相手あいてひだりひじつかんでひねげてからひだりあさのぞかせてかえすと、こしったまますりあしすご出足であし一点張いってんばりである。そのすりあしによって土俵どひょう土煙つちけむりい、勝負しょうぶまったのちには栃木とちぎさんのすりあしによって出来でき鉄道てつどうレールのようなほん平行へいこうせんがくっきりのこったという。自身じしん相手あいてのまわしをらないかわりに相手あいてにも自身じしんのまわしをらせなかったが、もし相手あいてられればかならってからめにはいった。このように栃木とちぎさんはずしの完成かんせいしゃともわれ、天竜てんりゅうも「相撲すもうかた完全かんぜんにつけた力士りきし栃木とちぎさん最後さいごだろう」とみとめるほど、近代きんだい相撲すもう開祖かいそともひょうされる。

幕内まくうちで2以上いじょう対戦たいせんした力士りきし通算つうさんしたのは太刀たちさん(1しょう2はい)と2だいあさしお(1しょう3はい)だけ[ちゅう 10]である。あさしおには5連覇れんぱちゅう唯一ゆいいつ黒星くろぼし[ちゅう 11]けられたが、これがければ栃木とちぎさんは54連勝れんしょう達成たっせいしていた。にはきよし瀬川せかわ敬之助けいのすけ苦手にがてとし、大関おおぜき昇進しょうしん唯一ゆいいつ2はい(6しょう)しているほか、2ふん1あずかがある。

一方いっぽうおおとりたに五郎ごろうには滅法めっぽうつよく、はつ顔合かおあわせから2場所ばしょ連続れんぞく金星かなぼしうばうなど5しょう1はいとカモにし、3だい西にしうみには3しょう1ふんだいにしきつねはなとはどう部屋へや所属しょぞくしていたことから本場所ほんばしょでの対戦たいせんかったが、稽古けいこでの力量りきりょう歴然れきぜんだったという。この両者りょうしゃとは1922ねんおこなわれた大坂おおさか相撲すもうとの合同ごうどうによる「だい1回国かいこく大相撲おおずもう」(出身しゅっしんべつ東西とうざいかれての対抗たいこうせん)で対戦たいせんし、とくに9にちだいにしきとの全勝ぜんしょう同士どうし取組とりくみ事実じじつじょう優勝ゆうしょう決定けっていせんとして注目ちゅうもくされ、開催かいさい大阪おおさかということもあって「大阪おおさか出身しゅっしんだいにしきはなたせるのではないか」との周囲しゅうい予想よそうもあったが、あっさり勝利しょうり千秋楽せんしゅうらく(10にち)はつねはなやぶって全勝ぜんしょう優勝ゆうしょうたした。

しの速攻そっこう横綱よこづな土俵入どひょういにもあらわれ、非常ひじょうはやいものだった。このはやさは弟子でしであるとちにしきがれた。

栃木とちぎさん体重たいじゅう[編集へんしゅう]

19さいすでに19かん(71kg)、20さいで20かん(75kg)、21さいでは21かん(79kg)と年齢ねんれい貫目かんめおな数字すうじえていき、27さいで27かん(101kg)になった。巡業じゅんぎょうからかえって、稽古けいこ過多かたで27かんになると稽古けいこりょうらし、場所ばしょ初日しょにちにはかならず「27かん500(103kg)」丁度ちょうど調整ちょうせいする。場所ばしょ一息ひといきいたことで28かん(105kg)になると、「身体しんたいあせまった」とってはもう稽古けいこあせしぼし、体重たいじゅうが27かん下回したまわれば稽古けいこりょうらして増量ぞうりょうさせるなど、本場所ほんばしょちゅうかなら自己じこベストである「27かん500」を維持いじしていた。とちにしきは「身体しんたいちいさくても本当ほんとうつよかった横綱よこづなは(自分じぶんなかでは)3にん師匠ししょうである栃木とちぎさん若乃花わかのはな千代ちよ富士ふじだけだ」と、相撲すもう協会きょうかい理事りじちょうつとめていた当時とうじかたっている。

体重たいじゅう103kg(27かん500)は歴代れきだい横綱よこづなでもさい軽量けいりょうで、上記じょうき逸話いつわなどから小兵こひょう力士りきしのイメージがつよいが、当時とうじ体重たいじゅうが100kg未満みまん力士りきし大半たいはんであったため、ちゅうりょうきゅうといえる体躯たいくだった。栃木とちぎさんの5連覇れんぱちゅう対戦たいせんのあった19にん関取せきとりなかで、やく半分はんぶんの9にんが90kgだい力士りきしだった。本人ほんにん小島こじま貞二ていじとの対談たいだんで「現役げんえき当時とうじは30かんあれば巨漢きょかん力士りきしだったから自分じぶんちいさいとかんじたことはなかった」と発言はつげんしたことがある。しかし、その栃木とちぎさんも100kgをえる体重たいじゅうであり、歴代れきだい横綱よこづななか体重たいじゅうが100kg未満みまんもの存在そんざいしない。

エピソード[編集へんしゅう]

入門にゅうもんまえ[編集へんしゅう]

  • 当人とうにん酒飲さけのばなしにこぼしたものとして春日野かすがの部屋へやつたわる逸話いつわでは、入門にゅうもんまえ栃木とちぎ星宮ほしみや神社じんじゃの30かんやく112.5kg)ほどの手水ちょうずせき力試ちからだめしにげたところ、頭上ずじょうまでげることが出来できたという。このとき自分じぶんのその腕力わんりょくかしたみちすすみたいとかんがえたともいう。なお、星宮ほしみや神社じんじゃには栃木とちぎさんくなったのち1960ねん栃木とちぎさん顕彰けんしょう建立こんりゅうされた。碑文ひぶん当時とうじ時津風ときつかぜ相撲すもう協会きょうかい理事りじちょうによるものである。

現役げんえき時代じだい[編集へんしゅう]

  • うみめんしていない栃木とちぎけん出身しゅっしんのため、幼少ようしょう時代じだいうみたことがなかった。そのため、入門にゅうもんった汽車きしゃまどからはじめてうみ東京とうきょうわん)をて、「でっかいかわだなあ」と発言はつげんしたとつたわる。このとき一緒いっしょっていた兄弟子あにでし宇都宮うつのみや新八しんぱちろうは、後々あとあとまでこれをはなしたねにしていた[8]
  • 1922ねんには力士りきし出身しゅっしんべつ東西とうざいけた東西とうざい対抗たいこう相撲すもうくに大相撲おおずもう」でも優勝ゆうしょう賞金しょうきん郷里きょうり寄付きふした[9]
  • 当時とうじとしては非常ひじょうめずらしい左利ひだりきだったが、指導しどうした若者わかものあたまから「ひだりかせるためにはみぎつよくしろ」とわれ、それをまもってつよくなったとつたわる。その怪力かいりきつたえる逸話いつわとして、あき収穫しゅうかく巡業じゅんぎょうえきはしほうべいたわら(60kg)が三角さんかくやまんであった。あるあめ栃木とちぎさん左手ひだりてかさち、高下駄たかげたいたまま右手みぎてなわつかんでなかたわらき、そのままひじげずにげ、また三角さんかくやまなかんでおいたという。
  • 当時とうじ出羽海でわのうみ部屋へやには、たまにしきさんみぎもん(1938ねん現役げんえきのまま死亡しぼう)のように部屋へやからあづけられた力士りきし大勢おおぜいいたが、栃木とちぎさんはそういった力士りきしにも区別くべつなく稽古けいこけていた。たまにしきはそのとき恩義おんぎから生涯しょうがい栃木とちぎさんにはあたまがらなかったとされる。また、出羽でわだけ文治郎ぶんじろうのように力士りきし稽古けいこしたがらない巨漢きょかん力士りきしとの稽古けいこ積極せっきょくてきおこなった。

親方おやかた晩年ばんねん[編集へんしゅう]

  • だい1かい全日本ぜんにほん力士りきしせんけん栃木とちぎさん春日野かすがの)が優勝ゆうしょうしたときには、周囲しゅういからは「年寄としよりってどうするんだ」「相撲すもうをつぶすか」と、あるいはやかされあるいは本気ほんき叱責しっせきされたという。22だい木村きむらしょうすけは「春日野かすがのさんがあまりにもつよすぎた」とべたが、当時とうじ現役げんえき力士りきしは「非常ひじょうよわいのではないか」との疑惑ぎわくきた。翌年よくねんどう大会たいかいでは選手権せんしゅけん保持ほじしゃとして出場しゅつじょうし、トーナメントでのこったたまにしきさんばん勝負しょうぶでストレートけをきっしたが、その配慮はいりょがあった可能かのうせいがある。以降いこうだい3かい大会たいかいからは現役げんえき力士りきしのみが出場しゅつじょうすることになった。
  • 怪力かいりき親方おやかたになってからもおとろらずで、1955ねんのあるとちひかりびとうごかせなかっただい火鉢ひばち1人ひとり軽々かるがるはこんでしまった。また、引退いんたい渡米とべいしたさいにある酒場さかばんでいると、腕力わんりょく自信じしんのある酔客すいきゃく[ちゅう 12]ちからくらべをいど鉄棒てつぼうをへしげて挑発ちょうはつしたが、はらっておな鉄棒てつぼうもとのようにぐにもどしてみせ、なにわぬかおで「こうしておいたほう便利べんりなのに…」とってのけたともいう。
  • 年寄としよりとしては「このひと本当ほんとうにそんなにつよかったのか」といわれるほど、春風しゅんぷう駘蕩たいとうられた。「力士りきし寡黙かもくであれ」が美徳びとくとされた時代じだいから、「記者きしゃのむこうにすうひゃくにん読者どくしゃがいるのだから」と弟子でしたちにマスコミ対応たいおう徹底てっていした。また言葉ことばづかいなどにもきびしく、鳴門なるとかいいちぎょう徴兵ちょうへいされて出征しゅっせいするさいに「ってきます」とったのをきとがめられ、「『ってまいります』だろ?」と叱咤しったされたことを回想かいそうしている。
  • 自身じしん親方おやかた時代じだい部屋へや食糧しょくりょう事情じじょうかったといい、ちゃんこでも幕下まくしたさんだんわかしゅにも平等びょうどうわたるように階級かいきゅうべつ材料ざいりょうけ、番付ばんづけ下位かい力士りきし食糧しょくりょう事情じじょう改善かいぜんにもつとめた[10]とちうみ証言しょうげんによると、関取せきとりしゅには非常ひじょうきびしいが取的とりてきにはとてもやさしかったといい、ちょっとでも怪我けがをするととちうみ栃木とちぎさんにかけてもらった[11]
  • とちにしき横綱よこづな昇進しょうしんまったときよろこいさんでいたとちにしきかって、「今日きょうからは毎日まいにちめるときのことをかんがえてごせ」といいわたした。横綱よこづな力士りきしちがって降格こうかくゆるされない地位ちいであり、体力たいりょくおとろえて横綱よこづな地位ちい見合みあった好成績こうせいせきせなくなれば早期そうき引退いんたい以外いがい選択肢せんたくしいため、横綱よこづな昇進しょうしん決定けっていからつねに「引退いんたい」の覚悟かくごつづけていなければならないという意味いみ説教せっきょうであった。3場所ばしょ連続れんぞく優勝ゆうしょうという絶頂ぜっちょう突然とつぜん引退いんたいした過去かこ春日野かすがのからこの説教せっきょうをいいわたされたとちにしきは、それまでうわついていた気持きもちが一気いっきまったと後年こうねんかたっていた。
  • 一世いっせい風靡ふうびした横綱よこづなにしては郷里きょうり栃木とちぎけんへの寄贈きぞうひんがとてもすくなく、おおくは栃木とちぎさん没後ぼつご年寄としより春日野かすがの名跡みょうせき継承けいしょうしたとちにしき清隆きよたか名代なだいとしてったものである。
  • 10代春日野かすがのから部屋へやいだ11だい春日野かすがのは、部屋へや改修かいしゅうさい天井てんじょう扇風機せんぷうきようのコンセントがいていることにき、「夏場なつば稽古けいこ効率こうりつかんがえたんだ。あの時代じだいにねえ」と8だい春日野かすがの時代じだい先取さきどりした合理ごうりせいおどろいていた[12]

おも成績せいせき[編集へんしゅう]

  • 通算つうさん成績せいせき:197しょう26はい7ふん5あずか24きゅう 勝率しょうりつ.883
  • 通算つうさん幕内まくうち成績せいせき:166しょう23はい7ふん4あずか24きゅう 勝率しょうりつ.878
  • 横綱よこづな成績せいせき:115しょう8はい6ふん3あずか22きゅう 勝率しょうりつ.935
  • 大関おおぜき成績せいせき:19しょう1あずか 勝率しょうりつ1.000
  • 現役げんえき在位ざいい:30場所ばしょ
  • 幕内まくうち在位ざいい:22場所ばしょ
  • 横綱よこづな在位ざいい:15場所ばしょ
  • 大関おおぜき在位ざいい:2場所ばしょ
  • さんやく在位ざいい:2場所ばしょ小結こむすび1場所ばしょ関脇せきわけ1場所ばしょ
  • 金星かなぼし:2おおとりたに五郎ごろう
  • 金星かなぼし配給はいきゅう:5
    • 金星かなぼし配給はいきゅうりつ:1場所ばしょあたり0.30
  • かくだん優勝ゆうしょう
    • 幕内まくうち最高さいこう優勝ゆうしょう:9かい(1917ねん5がつ場所ばしょ、1918ねん1がつ場所ばしょ・5月場所ばしょ、1919ねん1がつ場所ばしょ・5月場所ばしょ、1923ねん1がつ場所ばしょ、1924ねん1がつ場所ばしょ・5月場所ばしょ、1925ねん1がつ場所ばしょ
    • 幕下まくした優勝ゆうしょう:1かい(1913ねん1がつ場所ばしょ

場所ばしょべつ成績せいせき[編集へんしゅう]

とち木山きやま 守也もりや
春場所はるばしょ 夏場所なつばしょ
1911ねん
明治めいじ44ねん
ぜん相撲すもう 序ノ口じょのくち29まい
5–0 
1912ねん
明治めいじ45ねん
じょだん37まい
5–0 
さんだん46まい
3–0
(1あずか)
 
1913ねん
大正たいしょう2ねん
ひがし幕下まくした49まい
優勝ゆうしょう
5–0
幕下まくした11まい
4–1 
1914ねん
大正たいしょう3ねん
西にしじゅうりょう10まい
4–1 
ひがしじゅうりょう4まい
4–1 
1915ねん
大正たいしょう4ねん
ひがし前頭まえがしら16まい
8–2 
ひがし前頭まえがしら2まい
5–4
(1引分ひきわけ)

1916ねん
大正たいしょう5ねん
ひがし前頭まえがしら筆頭ひっとう
7–3
ひがし小結こむすび
6–3–1 
1917ねん
大正たいしょう6ねん
西にし関脇せきわけ
6–3–1 
西にし大関おおぜき
9–0
(1あずか)
 
1918ねん
大正たいしょう7ねん
東大とうだいせき
10–0 
ひがしちょういずる横綱よこづな
9–1 
1919ねん
大正たいしょう8ねん
ひがし横綱よこづな
9–0–1 
ひがし横綱よこづな
10–0 
1920ねん
大正たいしょう9ねん
ひがし横綱よこづな
8–2 
西にしちょういずる横綱よこづな
8–0
(1あずか)(1引分ひきわけ)
 
1921ねん
大正たいしょう10ねん
西にしちょういずる横綱よこづな
9–0
(1あずか)
 
ひがしちょういずる横綱よこづな
9–1 
1922ねん
大正たいしょう11ねん
ひがしちょういずる横綱よこづな
8–1
(1あずか)
 
西にし横綱よこづな
7–1–1
(1引分ひきわけ)
 
1923ねん
大正たいしょう12ねん
ひがしちょういずる横綱よこづな
8–1
(1引分ひきわけ)
 
西にし横綱よこづな
1–0–9
(1引分ひきわけ)[ちゅう 13]
 
1924ねん
大正たいしょう13ねん
西にし横綱よこづな
9–0
(1引分ひきわけ)
 
ひがしちょういずる横綱よこづな
10–1 
1925ねん
大正たいしょう14ねん
ひがしちょういずる横綱よこづな
10–0
(1引分ひきわけ)
 
西にしちょういずる横綱よこづな
引退いんたい
0–0–11
かくらん数字すうじは、「ち-け-休場きゅうじょう」をしめす。    優勝ゆうしょう 引退いんたい 休場きゅうじょう じゅうりょう 幕下まくした
さんしょう=敢闘かんとうしょうこと=殊勲賞しゅくんしょうわざ=技能ぎのうしょう     その=金星かなぼし
番付ばんづけ階級かいきゅう幕内まくうち - じゅうりょう - 幕下まくした - さんだん - じょだん - 序ノ口じょのくち
幕内まくうち序列じょれつ横綱よこづな - 大関おおぜき - 関脇せきわけ - 小結こむすび - 前頭まえがしら(「#数字すうじ」は各位かくいない序列じょれつ

改名かいめいれき[編集へんしゅう]

  • 栃木とちぎさん せんなり(とちぎやま せんじょう)1911ねん2がつ場所ばしょ - 1913ねん5がつ場所ばしょ
  • とち木山きやま 守也もりや(- もりや)1914ねん1がつ場所ばしょ - 1925ねん5がつ場所ばしょ

年寄としより変遷へんせん[編集へんしゅう]

  • 春日野かすがの 剛史たけし(かすがの たけし)1925ねん5がつ - 1959ねん10がつ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 栃木とちぎさんはじめて黒星くろぼしけたのは、のち大関おおぜきとなる千葉ちばヶ嵜俊だった。
  2. ^ 太刀たちやまはこれ以前いぜんにも西にしうみ嘉治よしはるろうやぶれる(1912ねん1がつ場所ばしょ8にち)までの43連勝れんしょうがあり、この西にし海戦かいせんでの敗北はいぼくければ、栃木とちぎさんやぶれるまで100連勝れんしょうしていたことになる。当時とうじ新聞しんぶんには「1912ねんはる(1がつ場所ばしょ8にち)の西にし海戦かいせん八百長やおちょう太刀たちさん、1909ねんなついかりかたたたかえ以来いらい7ねんぶりの」とほうじたものもあった。
  3. ^ 1きゅう相手あいて力士りきし休場きゅうじょうによるもの。
  4. ^ どう部屋へやから大関おおぜきにん同時どうじ昇進しょうしんしたれいとしては1962ねん7がつ場所ばしょとちうみあきらよしみとち光正みつまさこれ(ともに春日野かすがの部屋へや)のれいがある。しくも2人ふたり栃木とちぎさん弟子でしである。ただし、2人ふたり大関おおぜき昇進しょうしん栃木とちぎさん没後ぼつごで、とちにしき清隆きよたか師匠ししょうとなってから。
  5. ^ 大関おおぜき2場所ばしょはそれぞれ9しょう1あずか・10せん全勝ぜんしょうし(大関おおぜき時代じだい無敗むはいでの横綱よこづな昇進しょうしんは、のちに69連勝れんしょう達成たっせいするそう葉山はやま定次さだじのみ)。
  6. ^ 1924ねん5月場所ばしょから1925ねん5月場所ばしょまでの引退いんたいまえの3場所ばしょ番付ばんづけ栃木とちぎさんちょういずる横綱よこづなだったが、国技こくぎかん再建さいけん費用ひようとしてつねはな後援こうえんかいから多額たがく寄付きふがあったため、かれ栃木とちぎさんより優先ゆうせんしたものとされる。栃木とちぎさんたいしては番付ばんづけじょうにややおおきめの文字もじすことで「別格べっかく横綱よこづな」の意味合いみあいをあたえ、取組とりくみ編成へんせいじょうなどでもつねはなより上位じょういあつかいをけるなどの配慮はいりょはらわれた。
  7. ^ 年下とししただが兄弟子あにでしつねはなひろし後年こうねん、このうわさについて「巡業じゅんぎょうなどで栃木とちぎさんたいして『ハゲ』と野次やじぶとるからに機嫌きげんになって、その鬱憤うっぷん稽古けいこでぶつけられるのでたまったもんじゃかった」と証言しょうげんしている。
  8. ^ つねはな栃木とちぎさんより4さい年下としした栃木とちぎさん早生はやうまれなので学年がくねんは5さいちがい)で、横綱よこづな昇進しょうしん引退いんたい栃木とちぎさんよりのちため栃木とちぎさんつねはなより兄弟子あにでし誤解ごかいされがちだが、入門にゅうもんはつ土俵どひょうつねはなほうが1ねん先輩せんぱいであるためまさしくはつねはな栃木とちぎさんより兄弟子あにでしである。
  9. ^ 65さい停年ていねんまっていたため、実施じっし時点じてんで65さい以上いじょうになっていた年寄としより1961ねん1がつ1にちをもって退職たいしょくとするとまっていた。栃木とちぎさんはこの時点じてん存命ぞんめいならば68さいだったため対象たいしょうしゃにされていた。
  10. ^ 平幕ひらまく時代じだいいちだけかおったあやなみげんするどに1はい
  11. ^ に1あずか1きゅう。1きゅう対戦たいせん相手あいてであるあさしお休場きゅうじょうによるもので、現在げんざいでいう「不戦勝ふせんしょう」である。当時とうじ相手あいて力士りきし休場きゅうじょうすると、その対戦たいせん相手あいて自動的じどうてき休場きゅうじょうだった。
  12. ^ ボクシング世界せかいヘビーきゅう王者おうじゃだったジーン・タニーだったというせつがある。
  13. ^ 感冒かんぼう右肩みぎかた関節かんせつ負傷ふしょうにより2にちから途中とちゅう休場きゅうじょう

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d 大相撲おおずもう名門めいもん列伝れつでんシリーズ(1) 出羽海でわのうみ部屋へや春日野かすがの部屋へや 』p21
  2. ^ 横山よこやま健堂けんどう ちょかいしんろくじゅういち.吾輩わがはいたるだいにしき栃木とちぎさん,にち東堂とうどう,大正たいしょう5. 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション
  3. ^ つるろう主人しゅじん ちょ名人めいじん達人たつじん決死けっしだい試合しあい栃木とちぎさんつひに大剛たいごう太刀だちやまやぶる,だい日本にっぽん雄弁ゆうべんかい,大正たいしょう15. 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション
  4. ^ a b c 大相撲おおずもう名門めいもん列伝れつでんシリーズ(1) 出羽海でわのうみ部屋へや春日野かすがの部屋へや 』p39
  5. ^ 大相撲おおずもうジャーナル』2017ねん6がつごう42-43ぺーじ
  6. ^ 角力すもう雑誌ざっし大正たいしょう12ねん 7がつごう横綱よこづな土俵入どひょういりおも
  7. ^ a b 大相撲おおずもう名門めいもん列伝れつでんシリーズ(1) 出羽海でわのうみ部屋へや春日野かすがの部屋へや 』 p16
  8. ^ 相撲すもううらおもて その』p153
  9. ^ くに大相撲おおずもう
  10. ^ ◆コラム かなしい「逆縁ぎゃくえん」と「コロナ若林わかばやし哲治てつじ土俵どひょうひゃくけい時事じじドットコム”. 時事じじドットコム. 2020ねん7がつ17にち閲覧えつらん
  11. ^ 大相撲おおずもう名門めいもん列伝れつでんシリーズ(1) 出羽海でわのうみ部屋へや春日野かすがの部屋へや 』p45
  12. ^ コラム かなしい「逆縁ぎゃくえん」と「コロナ若林わかばやし哲治てつじ土俵どひょうひゃくけい(3/3ページ) 時事じじドットコム 2020.5.28(2020ねん6がつ16にち閲覧えつらん)

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]