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しょう野川のがわ喜三郎きさぶろう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
しょう野川のがわ 喜三郎きさぶろう
しょう野川のがわ喜三郎きさぶろうひだり
基礎きそ情報じょうほう
四股しこめい 小野川おのがわざいすけ(2代目だいめ)、しょう野川のがわ喜三郎きさぶろう
本名ほんみょう 川村かわむら喜三郞きさぶろう生来せいらい)、しょう野川のがわ喜三郎きさぶろう
生年月日せいねんがっぴ 1758ねん
ぼつ年月日ねんがっぴ 1806ねん4がつ30にち(48さいぼつ
出身しゅっしん 近江おうみこく滋賀しがぐん大津おおつ京町きょうまちげん滋賀しがけん大津おおつ京町きょうまち [gm 1]
身長しんちょう 176cm[1] または 178cm[2]
体重たいじゅう 116kg[1] または 135kg[2]
所属しょぞく部屋へや 小野川おのがわ部屋へや
成績せいせき
現在げんざい番付ばんづけ 引退いんたい
最高さいこう だい5だい横綱よこづな
幕内まくうち戦歴せんれき 144しょう13はい4ふん10あずか340きゅう(23場所ばしょ
優勝ゆうしょう 優勝ゆうしょう相当そうとう成績せいせき7かい
データ
はつ土俵どひょう 1776ねん
引退いんたい 1797ねん
備考びこう
2013ねん7がつ28にち現在げんざい

しょう野川のがわ 喜三郎きさぶろう(おのがわ きさぶろう、1758ねんたかられき8ねん[3]異説いせつでは1761ねんたかられき11ねん[4]]〉- 1806ねん4がつ30にち文化ぶんか3ねん3月12にち〉)[3]は、江戸えど時代じだい中期ちゅうき大相撲おおずもう力士りきし[3]だい5だい横綱よこづな[3])。近江おうみこく滋賀しがぐん大津おおつ京町きょうまちまくはん体制たいせいした公儀こうぎ御料ごりょうしゅう大津おおつ京町きょうまちげん滋賀しがけん大津おおつ京町きょうまち出身しゅっしん小野川おのがわ部屋へや所属しょぞくした。生来せいらい本名ほんみょう川村かわむら 喜三郎きさぶろう(かわむら - )[3]養子ようしになってのちは しょう野川のがわ 喜三郎きさぶろうべつ四股しこめいとして、からいだ 小野川おのがわ ざいすけ( - さいすけ)がある。

谷風たにかぜ梶之助かじのすけとともに寛政かんせい勧進かんじん相撲すもう繁栄はんえい貢献こうけんした[3]古今ここんじゅうすぐる一人ひとり

来歴らいれき[編集へんしゅう]

琵琶湖びわこ南西なんせいほとりさかえる大津おおつまちまれた川村かわむら喜三郎きさぶろうは、ながじて、頭取とうどり[* 1]小野川おのがわざいすけ初代しょだい小野川おのがわで、初代しょだい小野川おのがわざいすけ)の養子ようしとなり、安永やすなが5ねん1776ねん)、大坂おおさか相撲すもうはつ土俵どひょうんだ。安永やすなが8ねん1779ねん)には江戸えど相撲すもう合流ごうりゅうして[5]だん筆頭ひっとう現在げんざいじゅうりょう相当そうとう)にされる[5]ともに、久留くるべいはん摂津せっつ有馬ありま)のかかとなり[1]赤羽根あかばね武蔵むさしこく荏原えばらぐん三田みた町内ちょうない現在げんざいしばあか)の全域ぜんいきめていた[6]摂津せっつ有馬ありま江戸えど上屋敷かみやしき久留くるべいはん江戸えど上屋敷かみやしき現在げんざい東京とうきょうみなと三田みた1-4に所在しょざいした[gm 2]ない小野川おのがわ部屋へやひらかれた[1]

天明てんめい2ねん1782ねん)3がつ場所ばしょ7にちには、いまだんであった小野川おのがわが、大関おおぜき谷風たにかぜ(2代目だいめ谷風たにかぜ梶之助かじのすけ)の63連勝れんしょうめる殊勲しゅくんほしげた。取組とりくみ内容ないようは、いていなしたのち、わたやぶっている[4]とき狂歌きょうか大田おおた南畝なんぽしょく山人さんじん)は、このだい番狂ばんくるわせを「谷風たにかぜはまけたまけたと小野川おのがわかつをよりねのたか沙汰ざた」とんでいる[4][5]。これ以降いこうりょう力士りきし取組とりくみ相撲すもう史上しじょうのこめい勝負しょうぶとして現在げんざいまでかたがれている。その功績こうせきにより、将軍しょうぐん徳川とくがわ家斉いえなり上覧じょうらん相撲すもうそなえて[5]寛政かんせい元年がんねん1789ねん)11月場所ばしょの7にちに、吉田よしだつかさから大関おおぜき谷風たにかぜ関脇せきわけ小野川おのがわとも横綱よこづな免許めんきょ授与じゅよされた[5]事実じじつじょう、これが現在げんざいまでがれている横綱よこづな制度せいどはじまりである[1]。かくして寛政かんせい3ねん6月11にち1791ねん7がつ11にち)にこう両国りょうこく回向えこういん現在げんざい東京とうきょう墨田すみだ両国りょうこく2‐8‐10に所在しょざい境内けいだい開催かいさいされた上覧じょうらん相撲すもうでは、家斉いえなり要請ようせいけて谷風たにかぜ小野川おのがわせん特別とくべつまれ、りょう力士りきし以前いぜんわらない熱戦ねっせんひろげて家斉いえなりよろこばせた。

寛政かんせい4ねん1792ねん)3がつ場所ばしょからは欠場けつじょうおおくなり、寛政かんせい9ねん1797ねん)の10がつ場所ばしょ最後さいご引退いんたいした。

とおる元年がんねん1801ねん)、であり義父ぎふであった初代しょだい小野川おのがわざいすけ死去しきょ。それからおよそ5ねん文化ぶんか3ねん3月12にち1806ねん4がつ30にち)、しょう野川のがわ喜三郎きさぶろう江戸えど死去しきょした[1]満年齢まんねんれいでおよそ48さいぼつかえりざかしてぼっしたという通説つうせつあやまりである[1]

なお、しょう野川のがわ喜三郎きさぶろうぼっしたのち阿武あぶ松緑しょうろくこれすけ横綱よこづな免許めんきょ授与じゅよされるまでのあいだ、すなわち、文化ぶんか3ねん3月13にち1806ねん5月1にち)から文政ぶんせい11ねん2がつ1828ねん3がつごろ)までのやく22年間ねんかん存命ぞんめいちゅう横綱よこづな経験けいけんしゃ1人ひとりもいない状態じょうたいになっていた。これは、事実じじつじょう成立せいりつから現在げんざい(2021ねん)までの横綱よこづな制度せいどぜんにおいて唯一ゆいいつれいとなっている。もっとも、その期間きかんちゅう横綱よこづなあたいする力士りきし輩出はいしゅつされなかったというわけではなく、文政ぶんせい6ねん1823ねん)に柏戸かしわど利助としすけ4代目だいめ玉垣たまがきがくすけ五条ごじょうから横綱よこづな免許めんきょ授与じゅよ同時どうじ打診だしんされながらも、吉田よしだつかさ遠慮えんりょしてとも辞退じたいしている。

初代しょだい小野川おのがわざいすけはじまる「小野川おのがわ」というしょう野川のがわ喜三郎きさぶろう(2代目だいめ小野川おのがわざいすけ)の没後ぼつごなががれ、2021ねんれい3ねん下半期しもはんき現在げんざい日本にっぽん相撲すもう協会きょうかい所有しょゆうする年寄としより名跡みょうせきひとつにかぞえられている。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

体躯たいく筋力きんりょくすぐれる谷風たにかぜたいして、機敏きびんなスピード相撲すもうられた[4]慎重しんちょうくち技巧ぎこう対抗たいこうした。そのために作戦さくせんてき立合たちあいもおおく、江戸えど庶民しょみん人気にんきうすかった[よう出典しゅってん]。それでも、谷風たにかぜ雷電らいでんりょう強豪きょうごう挟撃きょうげきされながら歴代れきだいいちきゅう戦績せんせきのこしたことで、現在げんざいでは「大相撲おおずもう史上しじょう最強さいきょうのナンバー2」とひょうされる。なお、雷電らいでんとは全盛期ぜんせいきぎたころ対戦たいせんしたが、江戸えどではいちてなかった。

横綱よこづな免許めんきょ授与じゅよもっと数多かずおお使用しようした四股しこめいは「しょう野川のがわ喜三郎きさぶろう」であるが、大関おおぜきとき当時とうじ横綱よこづな免許めんきょ番付ばんづけ無関係むかんけい)は「小野川おのがわざいすけ」とかれていた。

おも成績せいせき[編集へんしゅう]

  • 幕内まくうち通算つうさん成績せいせき:144しょう13はい4ふん10あずか340きゅう 勝率しょうりつ.917(23場所ばしょ[4]
  • 優勝ゆうしょう相当そうとう成績せいせき:7かい [4]

場所ばしょべつ成績せいせき[編集へんしゅう]

江戸えど相撲すもう本場所ほんばしょのみをしめす。

場所ばしょ 地位ちい 成績せいせき 備考びこう
安永やすなが8ねん(1779ねん)10がつ場所ばしょ ひがしだん1 10きゅう
安永やすなが9ねん(1780ねん)3がつ場所ばしょ ひがしだん1 6きゅう
安永やすなが9ねん(1780ねん)10がつ場所ばしょ ひがしだん5 8しょう2はい
安永やすなが10ねん(1781ねん)3がつ場所ばしょ ひがし前頭まえがしら3 5しょう1はい1あずか3きゅう
天明てんめい元年がんねん(1781ねん)10がつ場所ばしょ ひがしだん5 6しょう2はい2きゅう
天明てんめい2ねん(1782ねん)2がつ場所ばしょ ひがしだん3 5しょう1はい4きゅう 7にち谷風たにかぜ連勝れんしょうを63でめる
天明てんめい2ねん(1782ねん)10がつ場所ばしょ ひがし前頭まえがしら4 7しょう1はい1ふん1きゅう
天明てんめい3ねん(1783ねん)3がつ場所ばしょ ひがし前頭まえがしら4 5しょう0はい1あずか13きゅう 優勝ゆうしょう同点どうてん相当そうとう
天明てんめい3ねん(1783ねん)11月場所ばしょ ひがし前頭まえがしら2 6しょう0はい1ふん1あずか2きゅう
天明てんめい4ねん(1784ねん)3がつ場所ばしょ ひがし小結こむすび 6しょう2はい2あずか
天明てんめい4ねん(1784ねん)11月場所ばしょ ひがし関脇せきわけ 9しょう0はい1 優勝ゆうしょう相当そうとう
天明てんめい6ねん(1786ねん)3がつ場所ばしょ 出場しゅつじょう
天明てんめい6ねん(1786ねん)11月場所ばしょ ひがし関脇せきわけ 7しょう0はい3きゅう 優勝ゆうしょう相当そうとう(2)
天明てんめい7ねん(1787ねん)5がつ場所ばしょ ひがし関脇せきわけ 興行こうぎょう中止ちゅうし
天明てんめい7ねん(1787ねん)11月場所ばしょ ひがし関脇せきわけ 7しょう1はい2きゅう
天明てんめい8ねん(1788ねん)4がつ場所ばしょ ひがし関脇せきわけ 7しょう2はい1きゅう
天明てんめい8ねん(1788ねん)11月場所ばしょ ひがし関脇せきわけ 7しょう1はい1あずか1きゅう
寛政かんせい元年がんねん(1789ねん)3がつ場所ばしょ ひがし関脇せきわけ 10しょう0はい 優勝ゆうしょう相当そうとう(3)
寛政かんせい元年がんねん(1789ねん)11月場所ばしょ ひがし関脇せきわけ 8しょう0はい1ふん1あずか 優勝ゆうしょう相当そうとう(4)
7にち谷風たにかぜとともに横綱よこづな免許めんきょ
寛政かんせい2ねん(1790ねん)3がつ場所ばしょ 東大とうだいせき 8しょう0はい1 優勝ゆうしょう相当そうとう(5)
寛政かんせい2ねん(1790ねん)11月場所ばしょ 東大とうだいせき 6しょう1はい1あずか2きゅう 32連勝れんしょう
寛政かんせい3ねん(1791ねん)4がつ場所ばしょ 東大とうだいせき 8しょう0はい11きゅう 優勝ゆうしょう相当そうとう(6)
寛政かんせい3ねん(1791ねん)11月場所ばしょ 東大とうだいせき 8しょう0はい1あずか1きゅう 優勝ゆうしょう相当そうとう(7)
寛政かんせい4ねん(1792ねん)3がつ場所ばしょ 出場しゅつじょう
寛政かんせい4ねん(1792ねん)11月場所ばしょ 出場しゅつじょう
寛政かんせい5ねん(1793ねん)3がつ場所ばしょ 出場しゅつじょう
寛政かんせい5ねん(1793ねん)11月場所ばしょ 東大とうだいせき 8しょう1はい1ふん
寛政かんせい6ねん(1794ねん)3がつ場所ばしょ 東大とうだいせき 3しょう0はい7きゅう
寛政かんせい6ねん(1794ねん)11月場所ばしょ 東大とうだいせき 10きゅう
寛政かんせい7ねん(1795ねん)3がつ場所ばしょ 東大とうだいせき 4しょう0はい1きゅう
寛政かんせい7ねん(1795ねん)11月場所ばしょ 出場しゅつじょう
寛政かんせい8ねん(1796ねん)3がつ場所ばしょ 出場しゅつじょう
寛政かんせい8ねん(1796ねん)10がつ場所ばしょ 東大とうだいせき 7しょう2はい1きゅう
寛政かんせい9ねん(1797ねん)3がつ場所ばしょ 出場しゅつじょう
寛政かんせい9ねん(1797ねん)10がつ場所ばしょ 東大とうだいせき 8しょう1はい1きゅう 10日とおかにんかけ
引退いんたい

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

天明てんめい3ねん1783ねん刊行かんこう相撲すもうよこ大判おおばん錦絵にしきえ作品さくひん慣習かんしゅうめいには、ならびに沿った『谷風たにかぜ梶之助かじのすけ 行事ぎょうじ木村きむらしょうじょ しょう野川のがわ喜三郎きさぶろう』などもある。見合みあ谷風たにかぜひだり)・小野川おのがわみぎ)と、仕切しき行事ぎょうじ(=行司ぎょうじ)・木村きむらしょうすけえがく。時期じきてきに、この木村きむらしょうすけ谷風たにかぜ小野川おのがわ活躍かつやくした寛政かんせいめい行司ぎょうじとしてられる7代目だいめであり[* 2]、すなわちほんは、寛政かんせい勧進かんじん相撲すもういろどった傑物けつぶつそろみということになる。『ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん』は相撲すもうすぐれた作例さくれいひとつとしてほんげている[8]
しょう野川のがわ喜三郎きさぶろう土俵入どひょういえがいた相撲すもうたてばん錦絵にしきえ
  • 浮世絵うきよえ横綱よこづな伝達でんたつ 谷風たにかぜ梶之助かじのすけ しょう野川のがわ喜三郎きさぶろう
刊行かんこう時期じき不明ふめいたてばん錦絵にしきえさんまいつづけ大関おおぜき谷風たにかぜ関脇せきわけ小野川おのがわ横綱よこづな免許めんきょ授与じゅよ伝達でんたつされる儀式ぎしき[* 3]のぞんでいる土俵どひょうじょう場面ばめんえがいた相撲すもう画面がめん右手みぎて西方せいほう谷風たにかぜ画面がめん左手ひだりて東方とうほう小野川おのがわとも蹲踞そんきょしてしきのぞみ、のちに大関おおぜきとなる初代しょだい錦木にしきぎにしき木塚きづかみぎもん)が土俵どひょう中央ちゅうおうで2力士りきしめることとなる“横綱よこづな”の準備じゅんびをしている。うしろにひかえるはたて行司ぎょうじ7代目だいめ木村きむらしょうすけ
月岡つきおか芳年よしとし和漢わかんひゃく物語ものがたり しょう野川のがわ喜三郎きさぶろう[9][10][* 4]大入道おおにゅうどう轆轤首ろくろくびろくろくびけて屏風びょうぶ衝立ついたてうらからあらわれた古狸ふるだぬきこりすこしもどうじることなく煙草たばこけむりける横綱よこづなしょう野川のがわ喜三郎きさぶろう豪胆ごうたんえが[9][11]けむりらった大入道おおにゅうどうは、如何いかにもいやそうな表情ひょうじょうかおそむけている[9]
  • 怪異かいいたん有馬ありまかいねこでん
しば赤羽あかはね有馬ありま屋敷やしきねこ騒動そうどう』などともいう。小野川おのがわかか大名だいみょうである摂津せっつ有馬ありま江戸えど藩邸はんていえば、赤羽根あかばね現在げんざいしばあか)にあった江戸えど上屋敷かみやしき久留くるべいはん上屋敷かみやしき現在げんざい東京とうきょうみなと三田みた1-4に所在しょざいした[gm 2]おく座敷ざしきにおけるねこ騒動そうどう有馬ありまかいねこでん』が、「ねこさんだいはなし」などともばれる「さんだいねこ騒動そうどう」のひとつにかぞえられるほど有名ゆうめいで、藩邸はんてい警護けいごかたさむらい山村さんそん大膳だいぜん加勢かせいするかたちで、妖怪ようかい退治たいじさせるべくされた横綱よこづな小野川おのがわ活躍かつやくしている。これは幕末ばくまつひろまった怪異かいいたんで、江戸えどちゅう寄席よせ芝居しばい小屋こや上演じょうえんされて人気にんきはくした。
  • 特定とくていめい不明ふめい怪異かいいたん有馬ありま上屋敷かみやしき大入道おおにゅうどう
これも幕末ばくまつひろまった怪異かいいたんで、横綱よこづな小野川おのがわ妖怪ようかい退治たいじするはなしであるが、後述こうじゅつする浮世絵うきよえ以外いがい資料しりょうとぼしい。
浮世絵うきよえそろいぶつ和漢わかんひゃく物語ものがたり』のだい13慶応けいおう元年がんねん8がつ1865ねん9がつごろかん妖怪ようかいたて大判おおばんひがし錦絵にしきえ摂津せっつ有馬ありま江戸えど上屋敷かみやしきでは、大入道おおにゅうどう出没しゅつぼつするなど度重たびかさなる怪異かいいがあった[9]。この怪異かいい調しらべて退治たいじさせるべくされたかか力士りきし横綱よこづなしょう野川のがわ喜三郎きさぶろう[9]あらわ大入道おおにゅうどう悠然ゆうぜん対峙たいじし、いとも容易たやす退治たいじしてしまったという[9]大入道おおにゅうどう正体しょうたい古狸ふるだぬき(こり)であった[9]。この怪異かいいたん卓越たくえつした筆致ひっち視覚しかくしたのがほんさくである。■みぎ画像がぞう参照さんしょうのこと。
1896ねん明治めいじ29ねん)には、さだきょう名乗なのっていた講談こうだん・4代目だいめしんりゅうひとしさだすい一龍斎貞水早川はやかわさだすい)が『寛政かんせい力士りきしでん』を刊行かんこうした[12]。これは、寛政かんせいかざった谷風たにかぜ雷電らいでん小野川おのがわの3力士りきし中心ちゅうしんに、佐野さのさん孝心こうしん稲川いながわすけなどをえがいた講談こうだん[12]谷風たにかぜなな善根ぜんこん雷電らいでんふう小野川おのがわ雷電らいでん遺恨いこん相撲すもうなどがとく評判ひょうばんっている[12]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 江戸えど相撲すもうでいう「年寄としより」を、大坂おおさか相撲すもうでは「頭取とうどり」という。
  2. ^ 7代目だいめ明和めいわ8ねん1771ねん)に襲名しゅうめいし、寛政かんせい11ねん1799ねん)に引退いんたいしているので、時期じきてきにも番付ばんづけうえでも、谷風たにかぜ小野川おのがわせんすべさばいていることになる。寛政かんせい3ねん1791ねん)の上覧じょうらん相撲すもうさばいたたて行司ぎょうじとしても7代目だいめ有名ゆうめいである。
  3. ^ 現在げんざいおこなわれている「横綱よこづな昇進しょうしん伝達でんたつしき」とは、意味いみするところも様式ようしきおおきくことなる。
  4. ^ 和漢わかんひゃく物語ものがたり』は妖怪ようかいそろいぶつ(そろえもの)であって、だい5だい横綱よこづなえがかれてはいても相撲すもうとはがたい。
Googleマップ
  1. ^ 大津おおつ京町きょうまち地図ちず - Google マップ) ※該当がいとう地域ちいき赤色あかいろかこ表示ひょうじされる。
  2. ^ a b 久留くるべいはん 上屋敷かみやしきあと地図ちず - Google マップ) ※該当がいとう施設しせつ赤色あかいろでスポット表示ひょうじされる。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g 小学館しょうがくかん日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)』(著者ちょしゃ池田いけだ雅雄まさお). “しょう野川のがわ喜三郎きさぶろう”. コトバンク. 2019ねん9がつ1にち閲覧えつらん
  2. ^ a b 講談社こうだんしゃ『デジタルばん 日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん+Plus』. “しょう野川のがわ喜三郎きさぶろう”. コトバンク. 2019ねん9がつ1にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c d e f しょう野川のがわ喜三郎きさぶろう”. コトバンク. 2019ねん9がつ1にち閲覧えつらん
  4. ^ a b c d e f 朝日新聞あさひしんぶん出版しゅっぱんちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてん』(著者ちょしゃ水野みずの尚文なおふみ). “しょう野川のがわ喜三郎きさぶろう”. コトバンク. 2019ねん9がつ1にち閲覧えつらん
  5. ^ a b c d e 平凡社へいぼんしゃ世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん』. “しょう野川のがわ喜三郎きさぶろう”. コトバンク. 2019ねん9がつ1にち閲覧えつらん
  6. ^ 赤羽根あかばね - 錦絵にしきえたのしむ江戸えど名所めいしょ”. 公式こうしきウェブサイト. 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん. 2019ねん9がつ2にち閲覧えつらん
  7. ^ 谷風たにかぜ梶之助かじのすけしょう野川のがわ喜三郎きさぶろう行事ぎょうじ木村きむらしょうすけ - 文化ぶんか遺産いさんオンライン文化庁ぶんかちょう
  8. ^ 『ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん』. “相撲すもう”. コトバンク. 2019ねん9がつ1にち閲覧えつらん
  9. ^ a b c d e f g 月岡つきおか芳年よしとし和漢わかんひゃく物語ものがたり しょう野川のがわ喜三郎きさぶろう”. 公式こうしきウェブサイト. たばことしお博物館はくぶつかん. 2019ねん9がつ1にち閲覧えつらん
  10. ^ 和漢わかんひゃく物語ものがたり しょう野川のがわ喜三郎きさぶろう”. 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション(公式こうしきウェブサイト). 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん. 2019ねん9がつ1にち閲覧えつらん
  11. ^ しょう野川のがわ喜三郎きさぶろう和漢わかんひゃく物語ものがたり):月岡つきおか芳年よしとし”. ぞくつぼとき閑話かんわ. 個人こじんつぼとき散人さんじん) (2018ねん6がつ2にち). 2019ねん9がつ1にち閲覧えつらん
  12. ^ a b c 平凡社へいぼんしゃ世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん』. “寛政かんせい力士りきしでん”. コトバンク. 2019ねん8がつ1にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]