吉田よしだつかさ

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常陸山ひたちやまひだり)と2だいうめだにみぎ)に立合たちあ指導しどうする23せい吉田よしだ追風おいかぜ中央ちゅうおう明治めいじ36ねん(1903)11月2にち熊本くまもと吉田よしだつかさ自宅じたく相撲すもうじょう

吉田よしだつかさ(よしだつかさけ)は、現在げんざいまで800ねん以上いじょう歴史れきしつ、相撲すもうつかさ家元いえもとである。

歴史れきし[編集へんしゅう]

吉田よしだのはじまり[編集へんしゅう]

朝廷ちょうていさんぶし一角いっかくをしめるのが「相撲すもうぶしかい」である。このふしかいにおいて相撲すもうしき指導しどうし、行司ぎょうじ始祖しそとされる人物じんぶつ志賀しがきよしりんである。志賀しかかれ死後しご代々だいだい行司ぎょうじいえつとめていた。そのふしかい相撲すもう中断ちゅうだんとともにそのいえ断絶だんぜつした。志賀しか途絶とだえたのち同家どうけがれてきた故実こじつ伝書でんしょは、吉田よしだ初代しょだい吉田よしだゆたかもりつぎがれた。相撲すもうぶしかいは、平安へいあん中期ちゅうき以降いこう相撲すもう召合」とばれ規模きぼ縮小しゅくしょうされ、もと3ねん1158ねん)とうけたまわやす4ねん1174ねん)を最後さいご廃絶はいぜつしたが、吉田よしだ文治ぶんじ2ねん1188ねん)6がつ吉田よしだ始祖しそ吉田よしだゆたかもり朝廷ちょうてい相撲すもうぶしかい復興ふっこうさいして、後鳥羽ごとば天皇てんのうされ、相撲すもう行事ぎょうじかんめいぜられ「獅子王ししおう団扇うちわ」「木剣ぼっけん」をたまわり、その追風おいかぜ」をたまわったことからその歴史れきしはじまる。

吉田よしだ家中興かちゅうこう13だい追風おいかぜ吉田よしだ長助ちょうすけ[編集へんしゅう]

えいろく元年がんねん1558ねん正親町おおぎまち天皇てんのう相撲すもうぶしかい復興ふっこうすることになり13だい追風おいかぜ吉田よしだ長助ちょうすけ召出めしだし、行事ぎょうじかんめい無事ぶじにそのつとめをたし、しょうとして「マカロウ」団扇うちわみことのりたまものした。つづいてもとかめ2ねん1571ねん関白かんぱくじょうはれりょうから「一味いちみ清風せいふう」の団扇うちわ、また関白かんぱく近衛このえはるからしき使用しようするための「鳥帽子えぼし唐衣からぎぬよんぶくはかま」をさづけられた。さらにから人馬じんばから「網代あじろさく団扇うちわ」がおくられた。天正てんしょう年中ねんじゅう1573ねん - )には織田おだ信長のぶながされ、信長のぶながのぞみによってはじめて相撲すもう団扇うちわわり采配さいはいもちいた。恩賞おんしょうとして信長のぶながより「団扇うちわ」をおくられた。その豊臣とよとみ秀吉ひでよしまねかれ行司ぎょうじつとさんきりもんきざんだ「日月じつげつ団扇うちわ」を授与じゅよされた。また慶長けいちょう年中ねんじゅう1596ねん - )に徳川とくがわ家康いえやすまねかれて江戸えどくだ武家ぶけ相撲すもうぶんまわししきさだめ「葡萄ぶどう団扇うちわ」を授与じゅよされ、相撲すもうでそれまでのさんばんいちとく一番いちばん勝負しょうぶとし、せきゆみわきつるゆいかちしょうあたえることにした。(このこと現在げんざい大相撲おおずもう千秋楽せんしゅうらくむすまえさんばんみの懸賞けんしょうとして継承けいしょうされている)

吉田よしだ15だい追風おいかぜ吉田よしだ長助ちょうすけ肥後ひご細川ほそかわはん武家ぶけ奉公ぼうこうする[編集へんしゅう]

このときいたって朝廷ちょうていぶしかい相撲すもうひさしくおこなわれず、長助ちょうすけいえどう失墜しっつい危惧きぐし、関白かんぱく二条にじょうひかりたいら武家ぶけ奉公ほうこううちねがいしたところ、朝命ちょうめいあって許可きょかされ、寛文ひろふみ元年がんねん1661ねん肥後ひご3だい藩主はんしゅ細川ほそかわつな武家ぶけ奉公ぼうこうした。この細川ほそかわつなだい相撲すもう愛好あいこう木組きぐみ(おてこぐみ)という相撲すもう屋敷やしきさだめ、おおくの力士りきし輩出はいしゅつした。そのなか不知火しらぬいだくみぎ衛門えもん不知火しらぬひひかりみぎ衛門えもん二人ふたり横綱よこづながいた。そして江戸えど大坂おおさか京都きょうと相撲すもう集団しゅうだん江戸えど相撲すもう年寄としより中心ちゅうしんとして格式かくしき正当せいとうせい吉田よしだもとめるうごきがははじまった。吉田よしだ相撲すもう集団しゅうだん本格ほんかくてき故実こじつ授与じゅよするようになったのは16だい追風おいかぜ吉田よしだ善左衛門ぜんざえもんからである。とおる14ねん1729ねん)3がつ伊勢海いせのうみ太夫たゆう熊本くまもとて「故実こじつ門人もんじんおよび「しきせつ」を授与じゅよされ、あわせて相撲すもう全般ぜんぱん故実こじつ伝授でんじゅされた。おなじく綾川あやかわ五郎ごろう代目だいめ横綱よこづな)に故実こじつ門人もんじん授与じゅよ。そして寛延かんえい2ねん1749ねん)8がつ、5代目だいめ木村きむらしょうすけ軍配ぐんばいそういろぼううえ草履ぞうり免許めんきょじょう授与じゅよされ、江戸えど目代もくだいめいじられている。そして同年どうねん丸山まるやまけんふとし左衛門さえもん横綱よこづな授与じゅよせりの記述きじゅつあり、さん代目だいめ横綱よこづな)に故実こじつ門人もんじん授与じゅよ。このように相撲すもう会所かいしょ役員やくいん行司ぎょうじをはじめ、もと力士りきし親方おやかたたちが続々ぞくぞく吉田よしだ門人もんじんになっていった。

吉田よしだ19だい追風おいかぜ吉田よしだ善左衛門ぜんざえもん横綱よこづな」を考案こうあん相撲すもう諸式しょしきすべてを制定せいていする[編集へんしゅう]

天明てんめい6ねん1786ねん)19だい追風おいかぜは「吉田よしだ追風おいかぜ」という行司ぎょうじ最高さいこう地位ちい確立かくりつし、全国ぜんこく行司ぎょうじいえ統制とうせいした。木村きむらしょうすけ木村きむらたいら一門いちもんはいうまでもなくその門流もんりゅうであるしきもり関西かんさい岩井いわい吉田よしだ追風おいかぜ門弟もんていとして行司ぎょうじかい確立かくりつ統制とうせいされたのである。故実こじつ門人もんじんくわえられた行司ぎょうじ吉田よしだ藩主はんしゅ細川ほそかわひとし許可きょか吉田よしだ追風おいかぜ帯刀たいとうゆるし、あわせて細川ほそかわ陣羽織じんばおり授与じゅよした。とくたて行司ぎょうじとしての帯刀たいとう吉田よしだ追風おいかぜ直門じきもんじんとしての威厳いげんたもつもので、相撲すもうでのちがいで切腹せっぷくする意味いみではない。(現在げんざい相撲すもう放送ほうそうふく間違まちがってかたられている)そして19だい追風おいかぜ相撲すもうかいに「横綱よこづな」を考案こうあん出現しゅつげんさせ免許めんきょしたばかりでなく、将軍しょうぐん上覧じょうらん相撲すもう様式ようしき武家ぶけ相撲すもう勧進かんじん相撲すもうなどの様式ようしき作法さほうなど今日きょう相撲すもう様式ようしきは19だい追風おいかぜによって確立かくりつ制定せいていされたものである。また江戸えど大坂おおさか京都きょうと相撲すもう会所かいしょ統制とうせいし、寛政かんせい元年がんねん1789ねん)11月19にち江戸えど細川ほそかわ藩邸はんてい谷風たにかぜ梶之助かじのすけしょう野川のがわ喜三郎きさぶろうに「横綱よこづな」を免許めんきょし「故実こじつ門人もんじん」を授与じゅよした。それから寛政かんせい3ねんどう6ねん両度りょうどにわたり、11だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家斉いえなりむかえて上覧じょうらん相撲すもうおこなわれた。その挙行きょこう内容ないよう荘重そうちょうきわめたものでかい上覧じょうらんとも19だい追風おいかぜ祭主さいしゅとなりかたひらけかた開口かいこう木村きむらしょうじょしきもり伊之助いのすけわき行司ぎょうじしたがおこなったのはいうまでもない。(このとき19だい追風おいかぜかた開口かいこう連綿れんめん現在げんざい大相撲おおずもう初日しょにち前日ぜんじつおこなわれる土俵どひょうまつりのかた開口かいこうがれている)そして興行こうぎょうとしての勧進かんじん相撲すもう伝統でんとう格式かくしきあたえて継続けいぞくさせたのが歴代れきだい吉田よしだ追風おいかぜであった。この巧妙こうみょう象徴しょうちょうされた原点げんてん相撲すもう故実こじつ家元いえもと吉田よしだ追風おいかぜ勧進かんじん相撲すもう参画さんかくからはじまったのである。それから時代じだいがって横綱よこづなをめぐって京都きょうと五条ごじょう吉田よしだあいだ紛争ふんそうしょうじ、文政ぶんせい6ねん1823ねん玉垣たまがきがくじょ柏戸かしわど利助としすけ横綱よこづな授与じゅよした五条ごじょう京都きょうと公家くげ相撲すもう故実こじついえ標榜ひょうぼうし、横綱よこづなさま注連縄しめなわむらさき化粧けしょうまわしを免許めんきょすることで吉田よしだ対抗たいこうしようとした。しかし小身しょうしん分家ぶんけ武家ぶけ対抗たいこうして、肥大ひだいしたさん相撲すもう組織そしき精力せいりょくてき指導しどう牽引けんいんするエネルギーをわせておらず、結局けっきょく大藩たいはん細川ほそかわ背景はいけいとした吉田よしだ権威けんい屈服くっぷくした。そして江戸えど相撲すもう会所かいしょ文政ぶんせい11ねん1828ねん)20だい追風おいかぜおしえをうべきさい入門にゅうもんたし、徳川とくがわ幕府ばくふからあらためて「本朝ほんちょう相撲すもう」たる由緒ゆいしょ承認しょうにんされたのである。

吉田よしだつかさ日本にっぽん相撲すもう協会きょうかい相撲すもう会所かいしょ[編集へんしゅう]

明治めいじ時代じだい

国技こくぎ相撲すもう危機きき突破とっぱした23だい追風おいかぜ吉田よしだよしもん

明治めいじ相撲すもう存続そんぞく危機ききすくったのは23だい追風おいかぜ吉田よしだよしもんである。明治めいじ10ねん1877ねん西南せいなん戦争せんそうこり、22さいぜんもん熊本くまもと士族しぞくたい一員いちいんとして西郷さいごう隆盛たかもり加担かたんたたかい、やぶれて熊本くまもとかえった。明治維新めいじいしん欧化おうか万能ばんのう風潮ふうちょうみながら、あらゆる伝統でんとう慣習かんしゅう破壊はかいしようとした時代じだい明治めいじ6ねん1873ねん)7がつ10日とおか太政大臣だじょうだいじん三条さんじょう実美みみによる「たがえしき詿違」が公布こうふされ、とりわけ相撲すもうは「衆人しゅうじん環視かんしなかはだかになってまこと野蛮やばんきわまるもので国辱こくじょくだ」というろんしん政府せいふ官僚かんりょうからもがり、もはや相撲すもうれい旧式きゅうしきかえりみるものはなく、あるものは角力すもうばかりといった有様ありさまになった。そしてあらたなけとして明治めいじ11ねん1878ねん)2がつ5日大にちだい警視けいし川路かわじ利良としよしより「かくてい並行へいこう取締とりしまり興行こうぎょうじょう取締とりしまり規則きそく」が公布こうふされ、さらにきびしい規則きそくがとられた。そこで明治めいじ15ねん1882ねん)4がつあらためて相撲すもう廃止はいしろんふんとぼけし、そのめにたっしたぜんもん上京じょうきょうし、相撲すもう会所かいしょ年寄としより伊勢海いせのうみ太夫たゆう以下いか年寄としより行司ぎょうじなどを呼出よびだ今後こんごかなら旧例きゅうれい故実こじつおもんじ準拠じゅんきょすべきことを契約けいやくさせ、まず相撲すもうかい内部ないぶ統制とうせいしそして警視総監けいしそうかん樺山かばやまたいし、相撲すもう廃止はいし無謀むぼう不都合ふつごうきわまりないことをせる覚悟かくごをもって、海江田かいえだ信義のぶよしきゅう薩摩さつま藩士はんし)、後藤ごとう象二しょうじろうきゅう土佐とさ藩士はんし)、井上いのうえあつし大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう草案そうあんしゃ)に応援おうえんもとめ、さんげつのにじむような直談判じかだんぱんかさねた結果けっか同年どうねん7がつ4にちつい樺山かばやまよりつぎのような許可きょかもらった。「書面しょめんなにおもむきしゃとうちょうなりぶんまわしさわこうよりどころごと」つまり「なん規則きそくれるようなことはない」というたっしを交付こうふされ古式こしき相撲すもう許可きょかあたえられたのである。おもえばそのとき相撲すもうにとって危機一髪ききいっぱつぜんもん必死ひっし防衛ぼうえい活動かつどうがなかったら古式こしき相撲すもうなにもなかったであろう。そのぜんもん助言じょげんしたが相撲すもう会所かいしょ独裁どくさい運営うんえいあらため、それまでの役職やくしょくであった「筆頭ひっとう」「ふでわき」などの名称めいしょう明治めいじ16ねん1883ねん)5がつ場所ばしょから「取締とりしまり」「ふく取締とりしまり」などに変更へんこうした。そして吉田よしだ追風おいかぜ故実こじつもとづき行司ぎょうじ木村きむらには軍配ぐんばいうえから把持はじさせ(かげす)、しきもりにはしたから把持はじさせ(す)ることを厳格げんかく徹底てっていさせた。また明治めいじ31ねん(1809)12だい横綱よこづなであったじんまく久五郎きゅうごろう熊本くまもとぜんもんたずねてた。東京とうきょう富岡八幡宮とみおかはちまんぐうに「横綱よこづな力士りきし」を建立こんりゅうするために「横綱よこづな記念きねん建設けんせつ趣旨しゅし」「横綱よこづな記念きねん」を持参じさんし、歴代れきだい横綱よこづな順位じゅんい免許めんきょ月日つきひうてきた。そのいしぶみ明治めいじ33ねん(1900)設立せつりつされた。

大坂おおさか相撲すもう協会きょうかい破門はもん

明治めいじ38ねん4がつ大坂おおさか相撲すもう協会きょうかい若島わかしま権四郎けんしろう横綱よこづな免許めんきょしたが、巡業じゅんぎょうちゅうだい怪我けが引退いんたいしたので、すぐにつぎ横綱よこづなとして大木たいぼく戸森ともりみぎ衛門えもん横綱よこづな免許めんきょねがいを23だい追風おいかぜぜんもん申請しんせいしたが、まだ気品きひんとぼしく、時期じきがまだはやいとして却下きゃっかした。ところが大阪おおさか相撲すもう協会きょうかいでは勝手かってだい木戸きど横綱よこづな免許めんきょしてしまった。そのことが吉田よしだつたわると大阪おおさか相撲すもう協会きょうかい処置しょち吉田よしだ存在そんざい無視むしし、名誉めいよある相撲すもうどう最高さいこう権威けんい冒涜ぼうとくするものであると、大坂おおさか相撲すもう協会きょうかい破門はもんするむね通知つうちした。3ねんばかりたった明治めいじ45ねん(1912)大阪おおさか相撲すもう協会きょうかい東京とうきょう相撲すもう協会きょうかい京都きょうと相撲すもう協会きょうかい代表だいひょううちそろって熊本くまもと謝罪しゃざいしたので、帰参きさんみとよく12がつ大木たいぼく戸森ともりみぎ衛門えもん正式せいしき横綱よこづな免許めんきょじょう授与じゅよした。

相撲すもう協会きょうかい訓告くんこくはっする

23だい追風おいかぜぜんもんうめだに常陸山ひたちやま黄金おうごんなどで相撲すもう隆盛りゅうせいになってきたのをよろこ反面はんめん大阪おおさか相撲すもう協会きょうかい問題もんだいからせっかく心血しんけつそそいできずきあげた相撲すもうどうを、いまにしてこれに一段いちだん粛清しゅくせいくわえなければ、斯道しどう衰退すいたいをもたらす要因よういんとなることを危惧きぐし、明治めいじ41ねん(1908)6がつ9にちきゅうだん靖国神社やすくにじんじゃ拝殿はいでん相撲すもう協会きょうかい年寄としより幕内まくうちじゅうりょう以上いじょう力士りきしならびに行司ぎょうじ免許めんきょそう参集さんしゅうもとめ、一同いちどう列座れつざなかぜんもん訓告くんこくはっしそれをげ、そのぶん相撲すもう協会きょうかい取締とりしまりかみなりけん太夫たゆう交付こうふし、さらに相撲すもうどうのため相撲すもう関係かんけいしゃ心構こころがまえと責任せきにんくところがあった。

両国りょうこく国技こくぎかん開館かいかん

明治めいじ42ねん6がつ2にち両国りょうこく国技こくぎかん新築しんちく落成らくせいし、相撲すもう協会きょうかいから23だい追風おいかぜ吉田よしだよしもん開館かいかんしき臨席りんせきうてきた。上京じょうきょうただちに伊勢海いせのうみたくはいべつしつつくり、木村きむらしょうじょしきもり伊之助いのすけともなって3日間にちかんべつ潔斎けっさいをなし、開館かいかんしき前夜ぜんや午前ごぜん3家伝かでん地鎮祭じちんさい木村きむらしょうじょしきもり伊之助いのすけわき行司ぎょうじ執行しっこうした。こののち取締とりしまりかみなりぜんもん常設じょうせつかん名称めいしょうを「国技こくぎかん」と決定けっていしたいむねつたえていた。開館かいかんしきで23だい追風おいかぜぜんもん前夜ぜんやおな鳥帽子えぼし狩衣かりぎぬ姿すがた木村きむらしょうじょしきもり伊之助いのすけわきしたがかた開口かいこうかたひら祝詞のりとほうじた。そして祭服さいふくあらため、唐衣からぎぬよんぶくはかまちゃくし、常陸山ひたちやま梅ケ谷うめがたにりょう横綱よこづなによるさんだんかまえを相撲すもうはじめて披露ひろうした。この開館かいかんしき委員いいんちょう板垣いたがき退助たいすけ伯爵はくしゃくであった。

行司ぎょうじ装束しょうぞく変更へんこうする

明治めいじ時代じだいはいると行司ぎょうじ髪型かみがた洋風ようふう影響えいきょうけ、ちょんまげから洋髪ようはつ丸刈まるがりにわった。しかしふく江戸えど時代じだいおなかみしもだった。かみなり取締とりしまり尾車びしゃ検査けんさやくはこのさい調和ちょうわのとれたふく変更へんこうしたいとのかんがえをち、23だい追風おいかぜぜんもん選定せんてい依頼いらいした。ぜんもん家伝かでん故実こじつ調しら鎌倉かまくら時代じだい吉田よしだ発生はっせいした)のよろい直垂ひたたれえらんだ。これは鎌倉かまくら武士ぶしよろいした直垂ひたたれである。そして当時とうじさむらい鳥帽子えぼしかぶらせることにした。明治めいじ43ねん(1910)夏場所なつばしょからこの装束しょうぞく統一とういつした。そしてむねよんそでよん背中せなかそで中央ちゅうおうよんよこよん合計ごうけいじゅうはち階級かいきゅうあらわすきくつづりけた。

軍配ぐんばいぼういろ階級かいきゅう表示ひょうじ

行司ぎょうじ免許めんきょ吉田よしだ追風おいかぜ専権せんけん事項じこうであるが、国技こくぎかん開設かいせつ明治めいじ42ねん)を行司ぎょうじ軍配ぐんばいぼうきくつづり胸紐むなひもくくひもなどをいろあらわした。たて行司ぎょうじ紫色むらさきいろさんやくかく緋色ひいろうえ草履ぞうり許可きょか吉田よしだ追風おいかぜ免許めんきょ以下いか幕内まくうち紅白こうはく十両じゅうりょうかく青白あおじろ幕下まくした以下いかくろ明確めいかく規定きていした。

風紀ふうきただ改革かいかく

23だい追風おいかぜぜんもんかみなり取締とりしまり国技こくぎかん開設かいせつ力士りきし芸人げいにん根性こんじょう払拭ふっしょくするために、まず土俵どひょうへの祝儀しゅうぎはな禁止きんしから着手ちゃくしゅし、品格ひんかくあるなりにするために関取せきとり絹地きぬじ紋付もんつき羽織はおりはかま場所ばしょりすること義務付ぎむづけした。これは地方ちほう巡業じゅんぎょうにおいても同様どうようである。

大正たいしょう時代じだい

呼出よびだ長谷川はせがわ勘太郎かんたろうに「てん唱」(てんしょう)の称号しょうごう授与じゅよ

相撲すもうかいのある意味いみ裏方うらかたとして豪放磊落ごうほうらいらくまわ八角はっかく部屋へやの「かん」こと長谷川はせがわ勘太郎かんたろうはちさいまめしとなり黄金おうごんごえのどおく稀代きたい呼出よびだしで「かん」が錬成れんせいのどげる常陸山ひたちやま梅ケ谷うめがたに観衆かんしゅういしれた。大正たいしょう2ねん(1913)あきには勘太郎かんたろう発案はつあんで「呼出よびだ太鼓たいこづか」」が両国りょうこく回向えこういん建碑けんぴされた。23だい追風おいかぜぜんもん大正たいしょう2ねん10がつ2にち長谷川はせがわ勘太郎かんたろう呼出よびだしとして最高さいこう名誉めいよ称号しょうごうとして「てん唱」を授与じゅよし、その業績ぎょうせきとなえた。このてん唱とは他人たにん真似まねできないねりなりのどのことを称賛しょうさんしたものである。

学生がくせい横綱よこづなに「練絹ねりぎぬ」を授与じゅよ

大正たいしょう8ねん10がつ大坂おおさか毎日新聞社まいにちしんぶんしゃはじめて全国ぜんこく学生がくせい相撲すもう選手権せんしゅけん開催かいさいすることになった。同社どうしゃ5代目だいめ社長しゃちょう本山もとやま彦一ひこいちは、熊本くまもと幼馴染おさななじみ旧知きゅうち間柄あいだがらである23だい追風おいかぜ吉田よしだよしもん大会たいかい個人こじん優勝ゆうしょうしゃ横綱よこづな授与じゅよしてしいと懇願こんがんしてきた。ぜんもん快諾かいだくし、アマチュアの横綱よこづなであることから「横綱よこづな」ではなく「練絹ねりぎぬ」としての「きぬ手綱たづな」を授与じゅよすることにした。だいいちかい個人こじん優勝ゆうしょうしゃ神戸こうべだかしょう田中たなか四郎しろうに「きぬ手綱たづな」をぜんもんから授与じゅよされた。

再建さいけん両国りょうこく国技こくぎかん開館かいかんしき

大正たいしょう9ねん(1920)1がつ15にちさき罹災りさいした国技こくぎかん再建さいけんなってその開館かいかんしきおこなわれた。この開館かいかんしきで23だい追風おいかぜ吉田よしだよしもん圧巻あっかん演出えんしゅつとして前代未聞ぜんだいみもん横綱よこづな土俵入どひょういりにさん横綱よこづな同時どうじげ、ぜんもんみずからも軍配ぐんばい把持はじして行司ぎょうじ横綱よこづなだいにしき一郎いちろう露払つゆはら横綱よこづなおおとりたに五郎ごろう太刀持たちも横綱よこづなとち木山きやま守也もりやしたがえての圧巻あっかん土俵入どひょういりを演出えんしゅつした。(このぜんもん演出えんしゅつこう引退いんたい横綱よこづな土俵入どひょういりの慣例かんれいとなった)

だい日本にっぽん相撲すもう協会きょうかい財団ざいだん法人ほうじん

23だい追風おいかぜぜんもんからそれぞれ故実こじつ門人もんじん授与じゅよされていた出羽海でわのうみ梶之助かじのすけ入間川いりまがわ七五郎しちごろう井筒いづつ嘉次郎かじろう高砂たかさごうらろう中心ちゅうしんとなり財団ざいだん法人ほうじん設立せつりつするための趣旨しゅしぜんもん説明せつめい助言じょげんもとめてた。そして文部省もんぶしょう財団ざいだん法人ほうじん設立せつりつするにいたり、大正たいしょう14ねん(1925)9がつ30にち申請しんせいしょ提出ていしゅつし、同年どうねん12がつ28にち文部もんぶ大臣だいじん岡田おかだ良平りょうへいから認証にんしょうけた。そして要職ようしょく一部いちぶ相撲すもう協会きょうかいそとからと助言じょげんしたぜんもん意見いけんけて昭和しょうわ3ねん(1929)から相撲すもう協会きょうかい組織そしき整備せいびはじめた。      

財団ざいだん法人ほうじんだい日本にっぽん相撲すもう協会きょうかいしん役員やくいん

外部がいぶ役員やくいんとして 会長かいちょう福田ふくだ雅太郎まさたろう陸軍りくぐん大将たいしょう) 理事りじちょう広瀬ひろせ正徳まさのりもと陸軍りくぐん主計しゅけい中将ちゅうじょう) 財務ざいむ主任しゅにん西岡にしおかしず太郎たろう陸軍りくぐん大佐たいさ)が就任しゅうにんした。

昭和しょうわ時代じだい

昭和しょうわ5ねん(1930)昭和しょうわ天皇てんのう天覧てんらん相撲すもう宮中きゅうちゅうくつがえ馬場ばば

75さいになった23だい追風おいかぜぜんもん一世一代いっせいちだい光栄こうえいとしてそのしきつかさどり、祭主さいしゅとしてそのつとめをたした。

昭和しょうわ6ねん(1931)昭和しょうわ天皇てんのう天覧てんらん相撲すもう宮中きゅうちゅうくつがえ馬場ばば

この天覧てんらん契機けいき土俵どひょうひろさが13しゃくだったものを15しゃく変更へんこうしても故実こじつ問題もんだいないかとの相談そうだん入間川いりまがわ出羽海でわのうみから23だい追風おいかぜぜんもんにあり、問題もんだいないと判断はんだんしたぜんもん記者きしゃ会見かいけん発表はっぴょうした

十代木村庄之助に「松翁しょうおう」を授与じゅよ

23だい追風おいかぜぜんもんだい日本にっぽん相撲すもう協会きょうかいから襲名しゅうめい承認しょうにん申請しんせいけて、昭和しょうわ10ねん(1935)6がつ承認しょうにんしょう授与じゅよした。吉田よしだつかさがこれまでみとめた「松翁しょうおう」はにんで、最初さいしょ天保てんぽう7ねん(1836)から12ねんまで20だい追風おいかぜ吉田よしだ善左衛門ぜんざえもんゆるした8代目だいめ木村きむらしょうすけである。

◆23だい追風おいかぜ吉田よしだよしもん死去しきょ

ぜんもん昭和しょうわ14ねん(1939ねん)9がつ12にちこのった。まことにぜんもん生涯しょうがいは、相撲すもう相撲すもうすといった充実じゅうじつしたもので、そのなかには日本にっぽん世界せかいほこ伝統でんとう文化ぶんか精華せいかともいうべき、国技こくぎたる相撲すもうどう興隆こうりゅうのため、終始一貫しゅうしいっかんたたかってきたとうと歴史れきしである。ぜんもん国技こくぎとしての相撲すもうどうしんおさめ、やしない、からだととのえるという「しんからだ」の調整ちょうせい鍛錬たんれんにより手芸しゅげいおぼえ、満身まんしんちから発揮はっきし、心身しんしん鍛錬たんれんして日本人にっぽんじんとしての生命せいめい真価しんか発揚はつようし、日本にっぽん精神せいしん体現たいげんすることこそ相撲すもう根本ねもとよしであると、相撲すもう哲学てつがくいていた。日本にっぽん相撲すもう協会きょうかいたいしても「君臨くんりんすれど統治とうちはしない」という吉田よしだ追風おいかぜとしての矜持きょうじ終生しゅうせいつらぬいた。23だい追風おいかぜとして在位ざいい69ねん横綱よこづな免許めんきょ授与じゅよ明治めいじ10ねん境川さかいがわなみみぎ衛門えもんから昭和しょうわ12ねんそう葉山はやま定次さだじまで23めいで、行司ぎょうじ免許めんきょ授与じゅよ明治めいじ25ねん、15だい木村きむらしょうすけから昭和しょうわ13ねんしきもりえんぞうまで25めいかぞえた。

吉田よしだつかさその[編集へんしゅう]

吉田よしだ追風おいかぜとして横綱よこづな免許めんきょした160ねん最後さいご横綱よこづなひがし富士ふじ欣一きんいち

23だい追風おいかぜ吉田よしだよしもんのちいだのはその嫡孫ちゃくそん吉田よしだ長喜ながきである。昭和しょうわ24ねん1949ねん)3がつ吉田よしだつかさ相撲すもうさん神前しんぜんひがし富士ふじ欣一きんいち横綱よこづな免許めんきょしきおごそかにおこなわれた。戦後せんご期待きたいした相撲すもう時代じだいなく、経済けいざいてきもとあらし相撲すもうかいきまくり吉田よしだもこのなみこうしきれず、次第しだい難渋なんじゅうおちいった。この苦境くきょうに24だい追風おいかぜ長喜ながき努力どりょくしたが無理むりがたたって再三さいさん問題もんだいとなってしまった。昭和しょうわ25ねん1950ねん)11月12にちさかい大浜おおはま全国ぜんこく学生がくせい相撲すもう選手権せんしゅけん大会たいかい席上せきじょう24だい追風おいかぜ吉田よしだ長喜ながき引退いんたい表明ひょうめいした。このため、吉田よしだつかさわるものとして急遽きゅうきょ横綱よこづな審議しんぎ委員いいんかい設立せつりつされた。

横綱よこづな審議しんぎ委員いいんかい

昭和しょうわ25ねん1がつ横綱よこづな審議しんぎ委員いいんかい設立せつりつし、5月審議しんぎ規約きやくさだめた。これにより協会きょうかい横綱よこづなにしたい力士りきしがあると、従来じゅうらい吉田よしだつかさ横綱よこづな申請しんせいすることになっていたのであるが、以降いこう協会きょうかい横綱よこづな審議しんぎかい諮問しもんして、同意どうい協会きょうかい決定けっていすることになった。そして従来じゅうらい吉田よしだていないおこなっていた横綱よこづな免許めんきょしき明治めいじ神宮じんぐう協会きょうかい主催しゅさいする横綱よこづな推挙すいきょしきとなり、それに25だい追風おいかぜいだ吉田よしだちょうこう出席しゅっせきし、協会きょうかい理事りじちょう横綱よこづな推挙すいきょじょう吉田よしだ追風おいかぜ横綱よこづな故実こじつ門人もんじん故実こじつしょ授与じゅよすることになった。25だい追風おいかぜちょうこうがこの推挙すいきょしき横綱よこづな授与じゅよしたのは、41だい横綱よこづな千代ちよやまから59だい横綱よこづなりゅうさとまで19にんである。(千代ちよやまからあさしおまでは25だい追風おいかぜちょうこう幼少ようしょうにつき、後見人こうけんにん授与じゅよ

相撲すもうかい関係かんけい中断ちゅうだん[編集へんしゅう]

昭和しょうわ57ねん1982ねん)11月7にち吉田よしだ初代しょだい吉田よしだゆたかもりの750ねん忌辰きしんである。その750ねんさい吉田よしだつかさていない日本にっぽん相撲すもう協会きょうかい春日野かすがの理事りじちょうをはじめ、横綱よこづなきたうみ若乃花わかのはな千代ちよ富士ふじ木村きむらしょうすけしきもり伊之助いのすけらが参列さんれつし、おごそかな神事しんじしきおこなわれた。しき終了しゅうりょう春日野かすがの理事りじちょう歴代れきだい追風おいかぜねむ墓前ぼぜんあしはこんだ。その直会なおらいおこなわれ、その挨拶あいさつなかで「熊本くまもと相撲すもう博物館はくぶつかんを」という提言ていげんがあり25だい追風おいかぜ吉田よしだちょうこう奉職ほうしょくしていた熊本くまもと市役所しやくしょ退職たいしょく財団ざいだん法人ほうじん設立せつりつことになり、上京じょうきょう文部省もんぶしょう初等しょとう中等ちゅうとう教育きょういくちょう高石たかいし邦男くにお指導しどうした、ほぼその財団ざいだん設立せつりつ道筋みちすじえてとき熊本くまもと宗教しゅうきょう法人ほうじん吉田よしだつかさ職員しょくいん関係かんけいする金銭きんせん不祥事ふしょうじ発生はっせい財団ざいだん法人ほうじん設立せつりつ絶望ぜつぼうとなり25だい追風おいかぜ吉田よしだちょうこうはその代表だいひょう役員やくいんとしてぜん責任せきにんい、謹慎きんしんすることになり、財団ざいだん設立せつりつ協力きょうりょくしていただいた関係かんけいしゃ謝罪しゃざいかさねた。そして昭和しょうわ61ねん1986ねん大相撲おおずもう名古屋なごや場所ばしょぜん愛知あいちけん宿舎しゅくしゃ春日野かすがの理事りじちょうたず事情じじょう説明せつめい謝罪しゃざいおこない、そして明治めいじ神宮じんぐうでの横綱よこづな推挙すいきょしき吉田よしだ追風おいかぜ授与じゅよしてきた「横綱よこづな」の授与じゅよ当面とうめんあいだ理事りじちょう代行だいこうしていただくよう依頼いらい了承りょうしょうされた。このことはのち春日野かすがの理事りじちょうから「日本にっぽん相撲すもう協会きょうかい吉田よしだつかさ関係かんけい」については吉田よしだ内部ないぶ改善かいぜんされるまで中断ちゅうだんすることとし、そのこと日本にっぽん相撲すもう協会きょうかいから公文こうぶんしょとして吉田よしだつかさ熊本くまもと県知事けんちじ熊本くまもと市長しちょうあて提出ていしゅつされている。そして莫大ばくだい負債ふさいうことになった25だい追風おいかぜ吉田よしだちょうこうすべての財産ざいさん資産しさん処分しょぶんして、その負債ふさいすべ完済かんさいした。そして平成へいせい27ねん2015ねん)「相撲すもうさんかみ」の神霊しんれい熊本くまもとから阿蘇あそへ「かり殿しんがり遷座せんざさい」を挙行きょこう移転いてんした。25だい追風おいかぜ吉田よしだちょうこう吉田よしだつたわっている国技こくぎ相撲すもう貴重きちょう原点げんてん財産ざいさん保全ほぜん相撲すもう研究けんきゅう編纂へんさんんでいる。

吉田よしだつかさつたわる団扇うちわ伝書でんしょとう[編集へんしゅう]

  • 志賀しがからいだ相撲すもう故実こじつ伝書でんしょ後鳥羽ごとば天皇てんのうよりみことのりたまものの「獅子王ししおう団扇うちわ」・「木剣ぼっけん」・正親町おおぎまち天皇てんのうみことのりたまものの「マカロウの団扇うちわ」・関白かんぱくじょうはれりょうおおやけ下賜かしの「一味いちみ清風せいふう」の団扇うちわから人馬じんば網代あじろさく団扇うちわ」・織田おだ信長のぶなが下賜かしの「団扇うちわ」・豊臣とよとみ秀吉ひでよしおおやけ下賜かしの「日月じつげつ団扇うちわ」・徳川とくがわ家康いえやすおおやけ下賜かしの「葡萄ぶどう団扇うちわ」・寛政かんせい上覧じょうらん相撲すもう図絵ずえ上覧じょうらん相撲すもう恩賞おんしょう目録もくろく相撲すもう仏法ぶっぽうそく相撲すもう相撲すもう行司ぎょうじ大意たいいまき相撲すもう故実こじつしょ故実こじつ例式れいしきまき相撲すもうじゅうヶ條かじょうしきせつ秘伝ひでんしょ四十八手しじゅうはってでんりつ武家ぶけ相撲すもう開口かいこう勧進かんじん相撲すもううんりつぽう屋敷やしきうんりつ・そりのうんりつ四十八手しじゅうはって解説かいせつ相撲すもう来歴らいれき相撲すもうかた諸国しょこく相撲すもう大意たいいまき相撲すもう故実こじつさんヶ條かじょう相撲すもう行司ぎょうじ大意たいいまき相撲すもう秘伝ひでん横綱よこづな故実こじつ力士りきし心得こころえおきてしょ横綱よこづな歴代れきだいよこ綱紀こうき起請文きしょうもん横綱よこづな免許めんきょねがい歴代れきだい行司ぎょうじ起請文きしょうもん歴代れきだい行司ぎょうじ免許めんきょねがい・歴代れきだい追風おいかぜ肖像しょうぞう・その相撲すもう関係かんけい古文書こもんじょ資料しりょうとう多数たすう

吉田よしだつかさしるほん[編集へんしゅう]

  • 著者ちょしゃ 吉田よしだちょうこう原点げんてんかえれ〜国技こくぎ相撲すもう廃止はいし危機きき突破とっぱしたおとこ 吉田よしだつかさじゅうさんせい追風おいかぜ 吉田よしだよしもん発行はっこう 熊本くまもと出版しゅっぱん文化ぶんか会館かいかん 発売はつばい そう流出りゅうしゅつばん ISBN 978-4-915796-88-3
  • 著者ちょしゃ 吉田よしだ長喜ながき「ちからそう」19だい吉田よしだ追風おいかぜ150ねん記念きねん 昭和しょうわ42ねん10がつ8にち発行はっこう

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

関連かんれん資料しりょう[編集へんしゅう]

この記述きじゅつすべ吉田よしだつかさ所有しょゆう徳川とくがわ幕府ばくふ提出ていしゅつされた「吉田よしだ由緒ゆいしょしょ」(ひかえおよ吉田よしだ歴代れきだい追風おいかぜ備忘録びぼうろく(忘備ろくかれているものもあり)、私記しき雑記ざっき覚書おぼえがきとう詳細しょうさい閲覧えつらんし、構成こうせいしたものです。

外部がいぶ[編集へんしゅう]