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志賀しがきよしりん

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志賀しが きよしりん(しが の せいりん、なま没年ぼつねんしょう)は、奈良なら時代じだい力士りきし行司ぎょうじ最高さいこうさい

相撲すもう吉田よしだつかさかく行司ぎょうじつたわる『相撲すもう傳書でんしょ』『相撲すもうこうほん』『相撲すもうしきとう登場とうじょうする。その記述きじゅつでは、奈良なら時代じだい726ねんかみひさし3ねん)に、近江おうみこくから朝廷ちょうてい出仕しゅっしし、相撲すもうわざ四十八手しじゅうはって礼法れいほうと「く・なぐる・」のさんきんしゅ制定せいていすること聖武天皇しょうむてんのう奏上そうじょうした人物じんぶつとされる。一方いっぽうで、の『ぞく日本にっぽん』などの史書ししょ記述きじゅつがないことから、架空かくう人物じんぶつであるともいわれる。

現在げんざい滋賀しがけん大津おおつ木戸きど地区ちく出身しゅっしんともいわれ、どう地区ちくには、志賀しがきよしりんはかとされるものや石碑せきひがあり、現在げんざいしんりんパークばれる公園こうえんがあり、しんりんパークない設置せっちされた説明せつめいばんには、つぎのようにかれている。(大意たいい

志賀しがきよしりんは、「近江おうみこく志賀しかさと志賀しがきよしはやしうんヘルしゃ」と『相撲すもうしき』(吉田よしだつかさ家蔵かぞう)にあり、本町ほんまち木戸きど出身しゅっしんだといわれている。また、相撲すもう吉田よしだ伝承でんしょうによると734ねん天平てんぺい6ねん)にさだめられた「相撲すもうぶし」の立案りつあんたずさわり、相撲すもう公認こうにん作法さほうつくったひとで、国技こくぎ相撲すもう行司ぎょうじ始祖しそつたえられている。

相撲すもうふるくはちからくらべや神事しんじとされた。『日本書紀にほんしょき』には7世紀せいき旧暦きゅうれき7がつおこなわれた宮中きゅうちゅう相撲すもう記事きじがある。また、『ぞく日本にっぽん』に719ねん養老ようろう3ねん)、7がつ宮中きゅうちゅう相撲すもうぶし担当たんとうする「抜出ぬけで」が任命にんめいされたとある。7がつ7にち七夕たなばた)の宮中きゅうちゅう行事ぎょうじとしての相撲すもうぶしかいがなされたが、志賀しがきよしりんは、それまで明確めいかく作法さほう土俵どひょうもなく、生死せいしけた闘技とうぎであったものを「く、る、なぐる」のさんわざきんしゅとし、による「なげ」、あしによる「かけ」、こしによる「ひねり」、あたまによる「そり」の四手よつで基本きほんに、おのおのじゅうまりしゅし、相撲すもうよんじゅうはちとした相撲すもう確立かくりつ第一人者だいいちにんしゃである。

志賀しがきよしりん死後しご志賀しか行事ぎょうじいえとして代々だいだいつとめ、その家名かめいたかかったが、平安へいあん時代じだい末期まっき相撲すもう中断ちゅうだんしたときに断絶だんぜつし、相撲すもう吉田よしだ吉田よしだつかさ)にうつり、吉田よしだから木村きむらしきもりにより継承けいしょうされている。

1918ねん大正たいしょう7ねん)、板垣いたがき退助たいすけ碑文ひぶん志賀しがきよしりん埋骨まいこついしぶみしんりん顕彰けんしょうかいによっててられた。

2005ねん平成へいせい17ねん3月7にちに、高砂たかさご親方おやかたもと大関おおぜきあさしお)とだい68だい横綱よこづなあさあおりゅうらが、滋賀しがけん志賀しかまち当時とうじ)の志賀しがきよしりん墓碑ぼひ参拝さんぱいした。

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