武道ぶどう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
流鏑馬やぶさめ武田たけだりゅう
弓術きゅうじゅつ日置ひおきりゅう
居合いあいじゅつ無雙むそうしんでん英信えいしんりゅう
つえじゅつ神道しんとう夢想むそうりゅう

武道ぶどう(こぶどう)とは、"明治維新めいじいしん以前いぜん成立せいりつした武芸ぶげい武士ぶし中心ちゅうしんとして発展はってんした技芸ぎげい)のうち、技術ぎじゅつ体系たいけいされたもの"、すなわち、室町むろまち時代ときよから剣術けんじゅつ柔術じゅうじゅつ槍術そうじゅつ弓術きゅうじゅつ砲術ほうじゅつなどがそれぞれ様々さまざま流派りゅうはとして技術ぎじゅつ体系たいけいされていったため、一部いちぶ家伝かでんやいいつたえをふくむ)古代こだい中世ちゅうせい前期ぜんき発祥はっしょうとされる流派りゅうはのぞき、おおむ室町むろまち時代じだい以降いこう武芸ぶげい[1]明治めいじ時代じだい以降いこう武道ぶどうという総称そうしょう確立かくりつし、現代げんだい武道ぶどう明確めいかく区別くべつする場合ばあい武道ぶどうばれるようになった。日本にっぽん伝統でんとうてきな、徒手としゅもしくは鈍器どんき刃物はもの火器かきなどの武具ぶぐ使用しようほうや、水泳すいえい乗馬じょうばなど戦闘せんとうかかわる技術ぎじゅつ体系たいけいしたものの総称そうしょう日本にっぽん伝統でんとう芸能げいのうひとつにもかぞえられる。日本にっぽん武術ぶじゅつ古流こりゅう武術ぶじゅつ武術ぶじゅつもほぼ同義どうぎ武芸ぶげい武術ぶじゅつ兵法ひょうほうなどの類義語るいぎごもある。対義語たいぎご現代げんだい武道ぶどう

現代げんだい武道ぶどう体育たいいくてき見地けんちからの心身しんしん鍛錬たんれん目的もくてきとし、スポーツ系統けいとう競技きょうぎ試合しあい重視じゅうしして技術ぎじゅつ体系たいけい構築こうちくしているのにたいし(れい柔道じゅうどう剣道けんどう)、武道ぶどう基本きほんてき試合しあいでの勝敗しょうはい目的もくてきとせず(流派りゅうはによっては他流たりゅう試合しあいきんじていた)、合戦かっせん決闘けっとう護身ごしんや、戦闘せんとう使命しめいたすための心身しんしん鍛錬たんれん本来ほんらい目的もくてきとされていた。そのため、危険きけんであるとして現代げんだい武道ぶどうからのぞかれた技法ぎほう各種かくしゅかく武器ぶき薬方やくほう呪術じゅじゅつ流派りゅうはによってはふくまれている場合ばあいがある。

相撲すもうは、現代げんだい武道ぶどうひとつにはかぞえられているものの、江戸えど時代じだい以前いぜん相撲すもう武道ぶどうふくまれるかというと、けっして明瞭めいりょうではない。ただし武家ぶけ相撲すもうは、相撲すもうなかでももっと武道ぶどう定義ていぎかさなった形態けいたいえる。

琉球りゅうきゅう武術ぶじゅつ空手からては、武道ぶどうとして分類ぶんるいされたり武道ぶどう団体だんたい所属しょぞくしていることもあるが、これらは中国ちゅうごく武術ぶじゅつからの影響えいきょうおおきい琉球りゅうきゅう王国おうこく独自どくじ武術ぶじゅつであり、本土ほんどのそれとは異質いしつ技術ぎじゅつ体系たいけいゆうしているため、ほんこう定義ていぎする武道ぶどうとは別個べっことしてかんがえる。

概要がいよう[編集へんしゅう]

武道ぶどうは、戦闘せんとう技術ぎじゅつという大義名分たいぎめいぶんのもと、一種いっしゅ教養きょうよう学問がくもん芸能げいのうとして、古来こらいからその価値かちみとめられており、武家ぶけ文化ぶんかになとして重要じゅうよう役割やくわりたしてきた。神道しんとう仏教ぶっきょう禅宗ぜんしゅう密教みっきょう)、儒教じゅきょう道教どうきょうなどの宗教しゅうきょうかん武技ぶぎ根幹こんかんである生体せいたい力学りきがく融合ゆうごうし、武士ぶし生活せいかつ規範きはんである「武士ぶしどう」の中核ちゅうかくささえた。

理想りそう古典こてんてきかたちかた)にもとめそれを重視じゅうし保守ほしゅする姿勢しせいを「みやび」とし、古典こてんてきかたちとらわれずあらたなかたち創造そうぞうする姿勢しせいを「ぞく」とするならば、武道ぶどうは、古典こてんてき文芸ぶんげい能楽のうがく影響えいきょうけて、戦闘せんとうという極端きょくたんな「ぞく」をだっして「みやび」の性格せいかく付与ふよされており、「みち」としての文化ぶんかてき価値かち見出みいだしている[2]

入門にゅうもん血判けっぱん起請文きしょうもんなどにしめされるように、武道ぶどう厳格げんかく格式かくしきたか閉鎖へいさてき排他はいたてき様相ようそうていすることがおおい。しかしその一方いっぽうでは、たん武士ぶし藩校はんこうなどでまな義務ぎむ教育きょういく一環いっかんとして、あるいは農民のうみん町人ちょうにん余暇よかたしなレクリエーションとして(ただし禁令きんれいされたこともある)といった、現代げんだいでいう学校がっこう体育たいいく趣味しゅみちかいような敷居しきいひくいちめんみとめられた。

武士ぶし表芸おもてげいは、とおせんじゅつ弓術きゅうじゅつから、白兵戦はくへいせんじゅつ薙刀なぎなたじゅつ槍術そうじゅつ剣術けんじゅつへと時代じだいごとに変化へんかした。武道ぶどう定義ていぎである室町むろまち時代じだい以降いこう武芸ぶげいでは、兵法ひょうほうさんだい源流げんりゅうをはじめとする剣術けんじゅつ表芸おもてげいとなっていった。

歴史れきし[編集へんしゅう]

古代こだい[編集へんしゅう]

埴輪はにわ 挂甲武人ぶじん』(古墳こふん時代じだい

弥生やよい時代じだいよろいけんほこゆみ埴輪はにわなどの出土しゅつどひんや、『古事記こじき』、『日本書紀にほんしょき』などの日本にっぽん神話しんわけんほこかたなゆみなど武器ぶき記述きじゅつがあることから、なんらかの武技ぶぎ存在そんざいしていたものとおもわれるが詳細しょうさい不明ふめいである。古墳こふん時代じだい埴輪はにわ 挂甲武人ぶじん甲冑かっちゅうにつけ、ゆみ太刀たち装備そうびしている。また太刀たちひだりこしげている。和人わじんがわ記述きじゅつから蝦夷えぞ狩猟しゅりょうつちかった騎射きしゃ主体しゅたいに、わらび手刀てがたなのような刀剣とうけん使用しようしており、あつかうための武技ぶぎもあったと推察すいさつされるが詳細しょうさい不明ふめいである。騎射きしゃについては俘囚ふしゅうとおして和人わじんつたわると、武士ぶしにより戦闘せんとう技術ぎじゅつとして洗練せんれんされていったとされる。

日本書紀にほんしょき』では当麻とうまはや捔力(すまひ)勝負しょうぶした野見のみ宿禰すくねわざ応酬おうしゅうたたかい、最後さいごたおれたそく宿禰すくねこしられてんだという記述きじゅつがあり、この時代じだいの捔力が相撲すもう起源きげんとするせつもある。これは現代げんだい相撲すもう大相撲おおずもうアマチュア相撲すもう)とはルールがことなるものである。『日本書紀にほんしょき』の天智天皇てんぢてんのうには、7ねんあき7がつ「于時近江おうみこくこうたけし」すなわち近江おうみこくこうじたとある。

また『古事記こじき』などの思想しそうてき文化ぶんかてき視点してんから、弓矢ゆみや威儀いぎしめ行装こうそうとしておも位置いちめていたとかんがえられ、その日本にっぽん古代こだいからの弓矢ゆみやへの威徳いとく思想しそうと、中国ちゅうごく弓矢ゆみやにおける「をもって、君子くんしあらそいとなす。」というれい思想しそうれいから、朝廷ちょうてい行事ぎょうじとしての「れい」の誕生たんじょうした。その武家ぶけ時代じだいには弓矢ゆみやつうじたれい思想しそうがうまれ、やがて日本にっぽん固有こゆう武家ぶけ思想しそうむすびついていくことになる[3]

中世ちゅうせい[編集へんしゅう]

天下てんかけん」のうちのいちり『童子どうじきり』(平安へいあん時代じだい

これまで日本にっぽん支配しはいしていた貴族きぞくわるように、武士ぶしあらたに台頭たいとうするようになる。合戦かっせん主役しゅやくゆみであると同時どうじ中世ちゅうせい全期ぜんきとおした武士ぶし象徴しょうちょうであったが、一方いっぽう時代じだいくだるごとに白兵戦はくへいせん比率ひりつえていき、そのおもて武器ぶき太刀たち野太刀のだち)・薙刀なぎなた、さらにやり変化へんかしていった[4]

また、合戦かっせんこうそうらずとも日常にちじょうてきころいが発生はっせいしたといわれ、武士ぶし貴族きぞくはじめとするあらゆる人々ひとびと些細ささいなきっかけで激高げっこうし、武器ぶきって友人ゆうじん部下ぶかふくめた人々ひとびと殺傷さっしょうした[5]

平安へいあん時代じだい[編集へんしゅう]

和名わみょう類聚るいじゅうしょう』には『古布こふこころざし宇知(こぶしうち)』という武術ぶじゅつめいえる。

平安へいあん時代じだいではいち基本きほんであり、騎射きしゃによりう「せん(やいくさ)」からはじまり、きると接近せっきんして太刀たち薙刀なぎなたなどの打物うちものたたか接近せっきんしての馬上まけせん移行いこう最後さいご相手あいてくびるためはうまりてたたかう「せん(かちいくさ)」で勝敗しょうはいけっした。このためあらゆる間合まあいでたたか技能ぎのう必要ひつようとなった。

鎌倉かまくら時代ときよ[編集へんしゅう]

武士ぶしみち武芸ぶげい)は弓術きゅうじゅつ馬術ばじゅつ基本きほんとする「弓馬きゅうばみち」とされ、騎射きしゃさんぶつのような鍛錬たんれんほうされた。この時代じだいでも合戦かっせん騎射きしゃはじまるが、もとえがいたでは騎兵きへい密集みっしゅうさせ集団しゅうだん突撃とつげきする様子ようすもあり、集団しゅうだんせん考慮こうりょされるようになったとかんがえられている。

曾我そが兄弟きょうだいかたき有名ゆうめいな『曽我そが物語ものがたり』などでは、現代げんだい相撲すもうことなる武芸ぶげいとしての相撲すもう武士ぶしによりおこなわれたことが記述きじゅつされている。この武家ぶけ相撲すもうのちすたれ、相撲すもう伝書でんしょ江戸えど時代じだい初期しょき関口せきぐちりゅう柔術じゅうじゅつ伝書でんしょなどにうかがえるのみである[6]

室町むろまち戦国せんごく時代じだい[編集へんしゅう]

いわゆる兵法ひょうほうさんだい源流げんりゅうかげりゅう神道しんとうりゅうねんりゅう)がおこった。なかでも神道しんとうりゅうめししのただしは、それまでまったかたちかった日本にっぽん武芸ぶげい世界せかい百般ひゃっぱんわたかたち原型げんけいつくったことから、「日本にっぽん兵法ひょうほう中興ちゅうこう」とされている。またそれらの影響えいきょうしんかげりゅうしん当流とうりゅう一刀いっとうりゅう中条ちゅうじょうりゅうひとし派生はせいして一挙いっきょけんみちひろまった。柔術じゅうじゅつけい武術ぶじゅつとしては竹内たけうちりゅう成立せいりつした。武芸ぶげいについても、のううたのようにげいとみなされ理論りろん確立かくりつ深化しんかすすめられた。武芸ぶげいせんいちおこな兵法ひょうほうみちあゆものたちがあらわれ、武者むしゃ修行しゅぎょう隆盛りゅうせいした。またかれらのなかには自流じりゅう上覧じょうらんきょうしたものもいた。

近世きんせい[編集へんしゅう]

柳生やぎゅうしんかげりゅう

武術ぶじゅつ様々さまざま流派りゅうはは、戦国せんごく時代じだいにおいて形成けいせいされたものはすくなく、おおくがむしろ戦乱せんらんおさまった江戸えど時代じだい発展はってんした。まくはん体制たいせいのなかでかくはん指南しなんやくもうけたり、特定とくてい流儀りゅうぎ流儀りゅうぎとめりゅう)として指定していするなどした。

江戸えど時代じだい[編集へんしゅう]

江戸えど幕府ばくふ成立せいりつにより断続だんぞくてききていた内戦ないせんおさまり、初期しょきにおいてはいま戦乱せんらん気風きふうのこっていたものの、そのやく250ねんにもわた平和へいわ時代じだいへと突入とつにゅうしていくことになる。

戦闘せんとう技術ぎじゅつ武士ぶしどう理念りねん禅宗ぜんしゅう密教みっきょう思想しそう密接みっせつつながり(れいけんぜん一致いっち)、武術ぶじゅつひとあやめるための「じゅつ」ではなく、人格じんかく形成けいせいのための「みち」として本格ほんかくてきとらえられていくようになった。文武ぶんぶ両面りょうめん融合ゆうごうしたことで「武道ぶどう」の基本きほんてき概念がいねん確立かくりつし、武道ぶどう理想りそうてき武士ぶしぞう形成けいせい手段しゅだんとして研究けんきゅう習得しゅうとくされるようになる[7]。また流派りゅうは細分さいぶん芸道げいどうがより顕著けんちょられるようになり、それまでにあった戦国せんごくかおのこ殺伐さつばつとしたたけほね流派りゅうはにも礼法れいほう積極せっきょくてき摂取せっしゅされ、所作しょさ洗練せんれんされるなどして、様式ようしきがなされていった。

しかしながらかくりゅうとも相互そうご交流こうりゅうこころみることなく、むしろ他流たりゅう試合しあい厳禁げんきんして封鎖ふうさてき排他はいたてきであった。その弊害へいがいとして、ぎた形式けいしき主義しゅぎながれて一部いちぶはなほう華美かび)もられるようになった。そこで18世紀せいきなかば、はなほうながれをるかのごとあらわれたのが、剣術けんじゅつにおける稽古けいこであった。この方向ほうこうせい武芸ぶげいにも波及はきゅうし(柔術じゅうじゅつ槍術そうじゅつにおける乱取らんど稽古けいこ導入どうにゅうなど)、理論りろん技術ぎじゅつ研鑽けんさん気運きうんたかまった。そして松平まつだいら定信さだのぶによる寛政かんせい改革かいかくもまた、その気運きうんおおきく伸長しんちょう発展はってんさせた。江戸えど市中しちゅう文武ぶんぶ師家しかしょじょう調査ちょうさ報告ほうこく)をめいじ、内容ないようのいかがわしいもの、技術ぎじゅつ未熟みじゅくなものに指南しなん禁止きんしめいじたり、しょ武芸ぶげい上覧じょうらん復活ふっかつさせるなどした。また一方いっぽう武術ぶじゅつ武士ぶし以外いがいにも積極せっきょくてき開放かいほうされ、町人ちょうにん農民のうみんにとって余暇よかたのしみともなり、都市とし農村のうそん地帯ちたいひろおこなわれるようになった。ただしこれにたいして、幕府ばくふ関東かんとう取締とりしまりやく設置せっちした1805ねん文化ぶんか2ねん)に、農民のうみんあいだ武芸ぶげい稽古けいこ禁圧きんあつするれいしている。

幕末ばくまつ剣術けんじゅつ稽古けいこ道具どうぐ試合しあい方法ほうほう共通きょうつうしていき、現代げんだい武道ぶどうへとつながっていく。(F・ベアト撮影さつえい

19世紀せいきになると、本土ほんどへの外国がいこくせん接近せっきん相次あいつぎ、武芸ぶげい教育きょういくへの関心かんしんたかまる。はん営の武芸ぶげい稽古けいこじょう演武えんぶじょう設置せっちするところ増加ぞうかしたほか、全国ぜんこく武者むしゃ修行しゅぎょう他流たりゅう試合しあい武術ぶじゅつ留学りゅうがく流行りゅうこうはじめ、各地かくち師範しはんをまとめた書物しょもつ発刊はっかんされるなどした。様々さまざま流儀りゅうぎ交流こうりゅうおこなわれ、剣術けんじゅつ槍術そうじゅつ柔術じゅうじゅつなどで稽古けいこおもかたち稽古けいこしたがえとなっていき、稽古けいこ道具どうぐ試合しあい方法ほうほう共通きょうつうしていった。また、幕末ばくまつ志士ししたちのおおくが江戸えど有名ゆうめい道場どうじょう江戸えどさん大道だいどうじょうひとし)でまなび、全国ぜんこく人脈じんみゃくひろげていったれいからわかるように、武術ぶじゅつ道場どうじょうは、学問がくもんしょおなじように、ある意味いみサロンてき役目やくめたすようになっていった。

このように様々さまざま経緯けいい辿たどりながらも、「実力じつりょく地位ちい名声めいせいのある流派りゅうはのみがのこる」とった「弱肉強食じゃくにくきょうしょくてき競争きょうそう原理げんりは、げい同様どうよう武芸ぶげい分野ぶんやにおいてもはたらかず、がたじょう流派りゅうは増加ぞうかしていき、そのかず幕末ばくまつまでにすうひゃく(あるいはせん)をえたとわれる。

明治めいじ大正たいしょう時代じだい[編集へんしゅう]

明治維新めいじいしん[編集へんしゅう]

1888ねん明治めいじ21ねんごろ警視庁けいしちょう武術ぶじゅつ世話ぜわかけ集合しゅうごう写真しゃしん

明治維新めいじいしん文明開化ぶんめいかいかなか武術ぶじゅつ時代遅じだいおくれとだんぜられ衰退すいたいした。武術ぶじゅつたちは撃剣げっけん興行こうぎょうひとし見世物みせもの興行こうぎょうおこな武術ぶじゅつ振興しんこうしようとした。また反乱はんらんこすものもいたという。明治めいじ10ねん1877ねん)の西南せいなん戦争せんそう警視庁けいしちょう抜刀ばっとうたい剣術けんじゅつもちいて白兵戦はくへいせん優位ゆういたたかった影響えいきょうにより、その警察けいさつ武術ぶじゅつ世話ぜわかけ創設そうせつされ、絶滅ぜつめつ危機ききだっせられたとされる。また、当初とうしょフランスしき剣術けんじゅつ採用さいようしていた陸軍りくぐんのち日本にっぽんしき軍刀ぐんとうじゅつ銃剣じゅうけんじゅつ制定せいていした。しかし、兵器へいき戦術せんじゅつ進歩しんぽによって活躍かつやくうしなわれていった。

現代げんだい武道ぶどう誕生たんじょう[編集へんしゅう]

だい日本にっぽん武徳ぶとくかい柔道じゅうどうがた制定せいてい委員いいん集合しゅうごう写真しゃしん

明治めいじ15ねん1882ねん)、嘉納かのう治五郎じごろうあたらしく柔道じゅうどう創設そうせつした。教育きょういくものであった嘉納かのう思想しそう武道ぶどうつよ影響えいきょうあたえた。明治めいじ28ねん1895ねん)には各種かくしゅ武道ぶどう総本山そうほんざんとなるだい日本にっぽん武徳ぶとくかい設立せつりつされ、日本にっぽん武道ぶどうかい統括とうかつするようになっていった。おおくの地方ちほう流派りゅうはだい日本にっぽん武徳ぶとくかい加盟かめいして剣道けんどう柔道じゅうどうれ、伝来でんらいかたち口伝くでんおきてひとし伝承でんしょう徐々じょじょうしなわれていった。

大正たいしょう3ねん警視総監けいしそうかん西久保にしくぼ弘道ひろみちは、警察けいさつ訓練くんれんしょでの講話こうわ武道ぶどう講話こうわ』(警察けいさつ協会きょうかい北海道ほっかいどう支部しぶ 1915ねん)において武術ぶじゅつ名称めいしょうを「じゅつ」でなく「みち」でなければならないとした。理由りゆうは、「じゅつ」という技術ぎじゅつ上達じょうたつのみに終始しゅうしし、「礼儀れいぎ」は無用むようかんがえることになるのでよくなく、「たけ」は技術ぎじゅつでないという観念かんねん明確めいかくにするため、であった[8]大正たいしょう8ねん1がつ29にち西久保にしくぼだい日本にっぽん武徳ぶとくかいふく会長かいちょう武術ぶじゅつ専門せんもん学校がっこうちょうになり、名称めいしょう変更へんこう主張しゅちょう同年どうねん5がつ15にちつね議員ぎいんかい武術ぶじゅつ専門せんもん学校がっこう武道ぶどう専門せんもん学校がっこう変更へんこう承認しょうにん同年どうねん8がつ1にち文部省もんぶしょう認可にんか。これ以後いご武徳ぶとくかいかく支部しぶで「武道ぶどう」をもちいることとされた。その背景はいけいについて、福島大学ふくしまだいがく教授きょうじゅ中村なかむら民雄たみお筑波大学つくばだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ渡辺わたなべ一郎いちろうらの研究けんきゅうによると、武術ぶじゅつ興行こうぎょうなどをおこな堕落だらくした(とみなされた)武術ぶじゅつ区別くべつするために、教育きょういくてき有用ゆうよう真剣しんけん修行しゅぎょうという意味いみで「武道ぶどう」という名称めいしょうもちいたのであるという[9]

昭和しょうわ時代じだい[編集へんしゅう]

だい世界せかい大戦たいせん太平洋戦争たいへいようせんそう)により、沢山たくさん流派りゅうはにおいて継承けいしょうしゃ戦死せんしするなどの原因げんいんからしつでん伝承でんしょう途絶とだえ、うしなわれること)したという。また、昭和しょうわ20ねん1945ねん日本にっぽん降伏ごうぶく連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんそう司令しれい(GHQ)指令しれいによりだい日本にっぽん武徳ぶとくかい解散かいさんし、武道ぶどう組織そしきてき活動かつどう禁止きんしされた(講和こうわ成立せいりつ1953ねん再興さいこう)。これにより、剣道けんどうたわわ競技きょうぎえたように、武道ぶどう戦闘せんとう技術ぎじゅついろ払拭ふっしょくしたスポーツとして復興ふっこうはかることとなった。

現代げんだい[編集へんしゅう]

現代げんだい伝承でんしょうされている武道ぶどうは、古式こしき形態けいたいまもりつつも時代じだいわせて変化へんかしているれいおおい。なかには現代げんだい武道ぶどうしたところもあるが、現代げんだいにおいても様々さまざまかたちがれている。日本にっぽん武道ぶどう協会きょうかい日本にっぽん武道ぶどう振興しんこうかいをはじめとして、おおくの団体だんたい武道ぶどう保存ほぞん振興しんこうちからそそいでおり、都道府県とどうふけん市町村しちょうそん無形むけい文化財ぶんかざい指定していされている流派りゅうはすくなくない。近年きんねんでは、インバウンド増加ぞうかにより自国じこく文化ぶんかふたたつめなおうごきが各界かくかいあらわれはじめているなか情報じょうほう技術ぎじゅつ発達はったつあいまって、武道ぶどう認知にんち徐々じょじょ回復かいふくしつつある。それに付随ふずいするようにして国内外こくないがいからの関心かんしんたかくなり、すうせんにん規模きぼ門人もんじんかかえる流派りゅうはや、海外かいがい複数ふくすう稽古けいこじょう流派りゅうはすくなくない。また武術ぶじゅつ研究けんきゅう甲野こうのぜんらによって、武道ぶどう古式こしき身体しんたい運用うんよう介護かいご現場げんば現代げんだいスポーツに応用おうようさせるみもおこなわれており、注目ちゅうもくあつめている。

しかし現在げんざいでも一子相伝いっしそうでんとされるようなちいさな流派りゅうはでは、大々的だいだいてき道場どうじょうかまえたりせず一族いちぞくだけで伝承でんしょうされてきているため、時代じだい状況じょうきょううつわりのなかで、つぎ世代せだいぐべき人間にんげんがいなければ容易ようい途絶とだえてしまう。流儀りゅうぎ宣伝せんでんすることがないので、極端きょくたんれいでは親族しんぞく葬儀そうぎ参列さんれつしてはじめて「なにやら一族いちぞく武術ぶじゅつがあって、くなったひとはその継承けいしょうしゃだった」ことをるなどの事例じれいかれる。また伝承でんしょう方法ほうほうかんする問題もんだいもあり、形骸けいがい危惧きぐされている(詳細しょうさい#宗家そうけ家元いえもと参照さんしょう)。

くわえて近年きんねんでは、剣舞けんぶとの混同こんどうや、漫画まんがアニメゲームなど一部いちぶサブカルチャーられる歪曲わいきょくされた日本にっぽん文化ぶんかぞう殺陣さつじん影響えいきょうなどから、せることにとくしたまったことなる技術ぎじゅつ創作そうさく武術ぶじゅつ場合ばあいによっては捏造ねつぞう流派りゅうは)が、"本来ほんらい武道ぶどう"として若者わかもの外国がいこくじん誤解ごかいされる事例じれいがあり、その錯綜さくそう懸念けねんされる。なお1990年代ねんだい以降いこうオカルトブームやサブカルチャー隆盛りゅうせいオタク文化ぶんか)の影響えいきょうから、武道ぶどう中国ちゅうごく武術ぶじゅつ同様どうよう空想くうそうてきちょう自然しぜんてき方向ほうこうかたむき、そういった嗜好しこうったものたいして門戸もんこひろげたふしがある。

武道ぶどうにおける「かたち[編集へんしゅう]

剣道けんどうがた演武えんぶする中山なかやま博道ひろみちみぎ)と高野たかのたすく三郎さぶろうひだり

武道ぶどうではかたち稽古けいこ基本きほんとし、なが歴史れきしなか生死せいしさかいえてぎょうじてきた先人せんじんの「じゅつわざ集積しゅうせき」「しん集積しゅうせき」であるかたちかえ稽古けいこすることによって、心身しんしん鍛錬たんれん目指めざ[10][11]

かたちは、流行りゅうこう世相せそう、また個性こせいよくをも超越ちょうえつした、無色むしょく無臭むしゅう文化ぶんかてき所産しょさんであり、すうひゃくねんあるいはすうせんねんにもわたって変化へんかすることなく継承けいしょうされる、物質ぶっしつてき記憶きおく媒体ばいたいである。そこに物理ぶつりてき劣化れっか機能きのうてき劣化れっか陳腐ちんぷ)は存在そんざいしないため、「いにしえ〈いにしへ〉を稽〈かむがへ〉る」こと(→稽古けいこ)を可能かのうにさせている。

趣旨しゅし[編集へんしゅう]

その趣旨しゅしは、

古人こじん所作しょさきょうるは、其道すじをしらしめんがため也。ゆえに其所さくえき簡にして其中にいたりふくめり。 — 『ねこみょうじゅつ』(1727ねん

しるされるように、運動うんどう技術ぎじゅつ定型ていけいすることによって、合理ごうりてきに、無駄むだなく、確実かくじつ伝授でんじゅ可能かのうとさせることである[12]

かたち稽古けいこには「もりやぶはなれ真行草しんぎょうそう)」の理念りねんがあり、その終着しゅうちゃくとして「はなれくさ)」によってしん流儀りゅうぎ勃興ぼっこう精神せいしんせいへの移行いこううながす。武道ぶどうにおいては、初伝しょでんにはじまり、極意ごくい秘伝ひでんいたることにおいて、かたち姿すがたひょういきからおくいきたっする。さらにそのさき概念がいねんとして、"「わざ」はし、超越ちょうえつされて精神せいしんいきいたること"を至極しごくとすることを、かく流派りゅうは目録もくろく兵法ひょうほうしょとう伝書でんしょ示唆しさしている(禅宗ぜんしゅう影響えいきょうおおきい)[13]。「わざ」の稽古けいこにはじまり、「わざ」をみずからのうちおさめ、境地きょうちへとかっていく。そこにへの志向しこうせいと「わざ」をおさめる内面ないめんせいとの合致がっちという特徴とくちょう析出せきしゅつされる[13]。つまり、かたち付随ふずいして道理どうりいをもとめる心的しんてき要素ようそ育成いくせいされ、「わざ」のうえ品位ひんい人格じんかくそなえる道筋みちすじともなっている[14]

なお平和へいわ江戸えど時代じだいにおいては、短慮たんりょ血気けっきはしるということは、自分じぶん一身いっしんのみならずいえはんほろぼすことにもなりかねないため、むしろしずめることが重視じゅうしされ、武士ぶしとして大切たいせつなのは 「閑かなつよみ」をそなえるものだというように武士ぶしどう転換てんかんしていった。そうしたなかで、かたち意義いぎとして、沈静ちんせい沈着ちんちゃく冷静れいせいという要素ようそのぞまれるようになったいちめんがある[15]

かたち姿すがたとして、初伝しょでんがその流儀りゅうぎ基本きほん習得しゅうとくするためにられたシンプルかつ変化へんかんだかたちであり、ちゅうでんかたちいたるとそのはげしさ・複雑ふくざつさがし、そして極意ごくい秘伝ひでんといったおくかたちになると一転いってんして静的せいてき要素ようそつよくなる、といった流派りゅうはおおく、それは#芸術げいじゅつせいべる「抑制よくせい美的びてき規範きはん」につうずる観念かんねんである[14]。また初伝しょでんは、「ひょう」であるとともに「奥義おうぎ」であるともわれる。それは、あるひとつのかたち自体じたいひょういきからおくいきへの内的ないてき変化へんかであり、ちゅうでん以降いこうを、初伝しょでん応用おうよう発展はってんとし、ひょうかたち千変万化せんぺんばんかさせるための道筋みちすじとして位置付いちづけているがゆえ変化へんかである(狭義きょうぎの「もりやぶはなれ」)。実際じっさい初伝しょでんなか極意ごくい一手いってふくまれている流派りゅうはすくなくない。

かたち実戦じっせん模擬もぎとした場合ばあい前述ぜんじゅつのように初心しょしんから奥義おうぎ極意ごくい秘伝ひでん)へとつらなる手合てあいがあるということ自体じたい現実げんじつてきなものとなり、実戦じっせんにおけるふくあいてきな、かたち以外いがいうごきや変化へんかには対応たいおうしきれないという欠点けってん露呈ろていし、形骸けいがいそのものとなる[16]。しかしながら、かたち種々しゅじゅ実戦じっせんてき闘争とうそう形態けいたいなかから次第しだい合理ごうり合法ごうほうされ定型ていけいされたものであるから、本来ほんらい実戦じっせん使つかわれるべきかたちが、初心しょしんから奥義おうぎへと段階だんかいてき階層かいそうてきになっているということは、その現実げんじつせいそのものがかたち理論りろんせい証明しょうめいするものとみなさなければならない[ちゅう 1][16]

いわばかたちは、暗黙あんもく経験けいけん身体しんたい)が極限きょくげんまで形式けいしきされた「理論りろん」として、そこに存在そんざいしているのであり、さらにいいかえれば、かたちとして想定そうていされた状況じょうきょうがどれだけ不合理ふごうりなものであっても、そのなか要求ようきゅうされるからださばきや技術ぎじゅつには、わずかな合理ごうりせいゆるされないということである[17]

芸術げいじゅつせい[編集へんしゅう]

古伝こでん武芸ぶげいにおけるかたちは、いわゆる芸術げいじゅつ作品さくひん位置いちするものであり、作品さくひんにはその内容ないようにおいて精神せいしんてき側面そくめん裏付うらづけられたかたち開示かいじされている[13]

かたち構造こうぞうとして、個々ここ研鑽けんさんされた動作どうさ技法ぎほう(=機能きのう)とかたち全体ぜんたいリズム(=様式ようしき)がその「よし」を表面ひょうめんさせている。動作どうさ技法ぎほうには、「無常むじょう刹那せつな)」「みやび」「幽玄ゆうげん」「しぶ」「」「余情よじょうざんこころ」といった、神道しんとうかんぜん思想しそうから影響えいきょうけた日本にっぽん特有とくゆう美意識びいしきぜられており、流儀りゅうぎめい流儀りゅうぎかたちめいにまでその美意識びいしき見受みうけられる[18]。またリズムは、拍子ひょうし調子ちょうし強弱きょうじゃく緩急かんきゅう序破急じょはきゅう)、あるいは間合まあいのことであるが、武道ぶどうでは"がた習得しゅうとくするさい部分ぶぶんてき反復はんぷく練習れんしゅうこのまれない"とわれるほどに[19]、その概念がいねん重要じゅうよう位置付いちづけとなっている(なお「はやさ」とはまったことなるべつ概念がいねんである)。

いわばこれらは、機能きのう形式けいしきうちめてしまい、さりげないうごきのなか無限むげんちからめつつも、素朴そぼくしずけさをもとめるという「抑制よくせい美的びてき規範きはん」がうごいている(ぜん影響えいきょうおおきい)[20]。それぞれの展開てんかいのなかに無駄むだうごきがけずられて余白よはくとしての空間くうかんである間合まあいがみとめられる[21]。これは、いわば水墨すいぼくにおける本質ほんしつきわめた結果けっかとしての余白よはくとらえられ、これによって本質ほんしつのみが象徴しょうちょうてき際立きわだつことになる(本質ほんしつ[21]。ここに、「わざ」が習熟しゅうじゅくしてゆくにつれて、現象げんしょうとしてあらわれる運動うんどうにすっきりとした簡潔かんけつなものにならなければならないという、簡潔かんけつさに「よし」を見出みいだ日本人にっぽんじん美意識びいしき作用さようしている[20]

このように、つよさやインパクトといった"量的りょうてき"要素ようそではなく、"質的しつてき"要素ようそとしての運動うんどう簡潔かんけつせいめ・え、ながれるような運動うんどう流動りゅうどうせいといった、文芸ぶんげい能楽のうがくにおいて形成けいせいされた「抑制よくせい美的びてき規範きはん」を、武芸ぶげいうち文化ぶんかてき価値かち創造そうぞうしたわけである[2]。しかし武芸ぶげい発生はっせいげんはあくまでもたたかえわざであること、そして対人たいじんせいがその基本きほんにあることから、武道ぶどうにおけるかたちはただうごきが洗練せんれんされていてうつくしいという「抑制よくせい美的びてき規範きはん」だけにはおさまらない特徴とくちょうっている[2]かたちている第三者だいさんしゃ観照かんしょうしゃ)よりも、まずたたか相手あいてたいして「わざがく」ことが肝要かんようとなる。つまり、「せいからどう」への転換てんかんとして「いきおい」のある爆発ばくはつてきなエネルギーの発出はっしゅつ、そして「わざ」の「のび」から「え」への運動うんどう顕現けんげん、「わざ」の終末しゅうまつにはつぎ局面きょくめんそなえるために、ふたたび「どうからせい」へとふく必要ひつようがある[2]観照かんしょうしゃがわかられば、この「せいからどう」への爆発ばくはつてき転換てんかんと、どうちゅうの「のび」、そして終局しゅうきょくにおける「え」から「め」への「せい」への転換てんかんと「収束しゅうそく」。そのあいだ際立きわだつ「わざ」のあじ・ダイナミックさが、武芸ぶげいにおけるかたちとして演出えんしゅつされている[2]

また「抑制よくせい美的びてき規範きはん」は、目的もくてきにかない、効率こうりつてき経済けいざいてき方向ほうこう傾斜けいしゃしていくという本来ほんらいの「技術ぎじゅつ傾斜けいしゃせい」という性質せいしつすらも抑制よくせいしている傾向けいこうにある[2]。すなわち"なにでもいいからてばよい"という目的もくてきとその目的もくてきたいする効率こうりつせい犠牲ぎせいにしてまでも、"見事みごとうつくしくつこと"を目指めざ方向ほうこうかっていく傾向けいこうがあるということであり、それは現代げんだい武道ぶどう試合しあいにおける「一本いっぽん」という概念がいねんにも影響えいきょうあたえている[2]

懸念けねん[編集へんしゅう]

武道ぶどうにおけるかたち稽古けいこは、けっしてかたち習得しゅうとくそのものが修行しゅぎょう最終さいしゅう目的もくてきではない。それを如何いか応用おうようし、実戦じっせんかすかが問題もんだいとなる[12]

かたち稽古けいこにおいてもっと懸念けねんされるてんは、

後世こうせい所作しょさせんとして、うさぎすればかくすると、色々いろいろこと(わざ)をこしらへ、たくみきわめ、古人こじん不足ふそくとし、才覚さいかくもちいひ、はては所作しょさくらべといふものになり、たくみつきていかんともすることなし。 — 『ねこみょうじゅつ』(1727ねん

とあるように、修行しゅぎょう本来ほんらい意味いみ見失みうしなった結果けっかとして、所作しょさ執着しゅうちゃくし、かたち中身なかみがなくなる「形骸けいがい」である[12]

そこで剣術けんじゅつ柔術じゅうじゅつ槍術そうじゅつなどでは、かたち稽古けいこにおけるこの形骸けいがい懸念けねん払拭ふっしょくすることを目的もくてきとして、江戸えど時代じだい中期ちゅうき稽古けいこ乱取らんど稽古けいこ)が導入どうにゅうされた。そしてかたちあいおぼえ、試合しあいわざまえみがく、という役割やくわり分化ぶんかられるようになった[15]。しかし、のちにこれらの試合しあい形式けいしきがことのほか隆盛りゅうせいしたことで、かたち稽古けいこおろかにする流派りゅうはあらわれるようになるなど、本末転倒ほんまつてんとう事態じたいむことにもなる(くわしくは#江戸えど時代じだい参照さんしょう)。この修行しゅぎょう方法ほうほう変化へんかについては、当時とうじ一刀いっとうりゅううちにおいて、その得失とくしつ議論ぎろんされたことでもられている[22]

その西洋せいようスポーツ輸入ゆにゅうされると、これらの試合しあい形式けいしき現代げんだい武道ぶどうとしてあらたな地位ちい獲得かくとくし、競技きょうぎ一途いっと辿たどった。現在げんざいでは、一部いちぶ流派りゅうはのぞき、試合しあい形式けいしき武道ぶどう分離ぶんりされたにひとしい。

伝承でんしょう方法ほうほう[編集へんしゅう]

しんかげりゅう兵法ひょうほう目録もくろくごと柳生やぎゅう宗厳むねよし能楽のうがく金春こんぱるりゅうだいろくじゅうさんせい金春こんぱる七郎しちろうしょうあたえた伝書でんしょとされる(1601ねん))

武道ぶどうおおくは、技術ぎじゅつ進歩しんぽ段階だんかい人格じんかく各種かくしゅゆるしを発行はっこうした。れいとして、天然てんねんしんりゅう剣術けんじゅつでは、まず切紙きりかみ免許めんきょいで目録もくろくちゅう極意ごくい免許めんきょ指南しなん免許めんきょという順番じゅんばんであり、かく段階だんかいかたち目録もくろく流儀りゅうぎ秘訣ひけつ流儀りゅうぎ由来ゆらいなどがかれた伝書でんしょあたえられた。指南しなん免許めんきょもの独立どくりつし、あらたな師匠ししょうとなることができた。

またおおくの流派りゅうはでは入門にゅうもん入門にゅうもん儀式ぎしきおこない、流儀りゅうぎおきてかれた誓詞せいし血判けっぱんをおこっていた(起請文きしょうもん)。誓詞せいし内容ないようおおくの流派りゅうは共通きょうつうしており、免許めんきょるまでしん兄弟きょうだいといえども流儀りゅうぎ内容ないようおしえない、許可きょかずに指導しどうしない、他流たりゅう批判ひはんをおこなわない、天下てんか政道せいどうまもひとしであり、最後さいご以上いじょうちかいをやぶったものには神罰しんばつくだるとかれていた。また現代げんだい武道ぶどうおおられる号令ごうれいによる集団しゅうだん指導しどうはおこなわれず、もっぱら個人こじん指導しどうであった。現在げんざいでは古来こらいのままの伝授でんじゅ形式けいしき墨守ぼくしゅしている流派りゅうはすくなくなり、現代げんだい武道ぶどうてきだんきゅうせい集団しゅうだん指導しどう方法ほうほうれている流派りゅうは存在そんざいする。

また本来ほんらい門外不出もんがいふしゅつえども、現代げんだいにおいて流儀りゅうぎ内容ないようかく必要ひつようせいうすれているため、流儀りゅうぎ宣伝せんでん技術ぎじゅつ研究けんきゅう推進すいしんなどの目的もくてきから、書籍しょせき映像えいぞうなどでその内容ないよういを詳細しょうさい公開こうかいしている流派りゅうはすくなくない。そのため、あくまでも勝手かって流儀りゅうぎ直伝じきでん名乗なのったり他人たにん指導しどうしたりしないことを条件じょうけんとしたうえで、特定とくてい流儀りゅうぎ入門にゅうもんせず(師匠ししょうにつかず)個人こじんてき流儀りゅうぎまなぶことは、容認ようにんされている傾向けいこうにある。このかたちパブリックドメインともえる傾向けいこうは、ふるくは明治めいじ初期しょき警視けいしりゅう制定せいていされたころからられている。

宗家そうけ家元いえもと[編集へんしゅう]

基本きほんてきには、武道ぶどう指導しどうしゃである一人ひとり師匠ししょう一子相伝いっしそうでんするとうことはめずらしく、おおくの師範しはんそだてる場合ばあいおおかった(ただしある段階だんかい以上いじょう一族いちぞくちかしいものにのみつたえる場合ばあいられた)。指南しなん許可きょかれば自由じゆう弟子でしっておしえていとする流派りゅうはや、免許めんきょ発行はっこうしていが、師匠ししょう許可きょか必要ひつようがあるとする流派りゅうはなど様々さまざまであった。ただ実際じっさい現代げんだいちが全国ぜんこくてき組織そしきつくることが困難こんなんであり、江戸えどまなんだものとく指導しどう許可きょかずに故郷こきょう指導しどうしたれいられた。以上いじょう理由りゆうにより○○りゅうなどとしてどう一流いちりゅうおおくのがうまれた。

明治維新めいじいしんとく戦後せんご交通こうつう通信つうしん発展はってんおおくの流派りゅうは衰退すいたい同流どうりゅうすくなくなったことにより、武道ぶどう世界せかいでも宗家そうけ家元いえもと制度せいどひろまり、全国ぜんこくてき組織そしきつくられるれいられる。この制度せいど普及ふきゅうにより、おおくの流派りゅうはでは一流いちりゅういち系統けいとうにつきいち団体だんたいとし全国ぜんこく支部しぶ展開てんかいするという手法しゅほうられ、宗家そうけによる師伝しでん直伝じきでんをもとに作法さほう技術ぎじゅつ統一とういつはかられている。日本にっぽん武道ぶどう協会きょうかいでは、武道ぶどう保存ほぞん発展はってん貢献こうけんした宗家そうけやそれにひとしい師範代しはんだいたいして、武道ぶどう功労こうろうしゃ表彰ひょうしょう授与じゅよしているなど、武道ぶどうにおいても宗家そうけは、その流儀りゅうぎ歴史れきしせい正伝せいでんせい担保たんぽされるための重要じゅうよう役割やくわりとなっている(ただし俗悪ぞくあく権威けんい主義しゅぎおちいいり、形骸けいがい進行しんこうする危険きけんせいもある)。

しかしその一方いっぽうでは、どう一流いちりゅうべつ系統けいとう同意どういずに一方いっぽうてき宗家そうけ名乗なのったり、所属しょぞく流派りゅうは許可きょかずに分派ぶんぱしてあらたな団体だんたい創設そうせつする、正式せいしき免許めんきょあたえられていない(あるいは破門はもんされた)にもかかわらず勝手かって流儀りゅうぎ指導しどうするなどの問題もんだいすくなからず発生はっせいしている。これらのなかには技術ぎじゅつレベルの圧倒的あっとうてき低下ていか露見ろけんしたり、ぎゃくべつ系統けいとう批判ひはん平然へいぜんおこなわれていることもある。とく居合いあいじゅつ英信えいしんりゅう系統けいとうでは、昭和しょうわに、一部いちぶ継承けいしょうあらそいが勃発ぼっぱつしたことや、居合いあいどう誕生たんじょう事態じたい複雑ふくざつしたことにより、その傾向けいこう顕著けんちょである。

これらをふせぐために、あらたな制度せいど導入どうにゅうするれいもある。たとえば天真てんしん正伝せいでん香取かとり神道しんとうりゅう本部ほんぶ系統けいとう)では、"許可きょかなく香取かとり神道しんとうりゅう名乗なのり、道場どうじょうひら段位だんい免状めんじょう巻物まきもの発行はっこうする事例じれいこうたず、また香取かとり神道しんとうりゅうかたなるものを教授きょうじゅしているために、技術ぎじゅつてき水準すいじゅん明確めいかくにし、正確せいかくかた伝承でんしょうする一環いっかん"として、平成へいせい29ねんに「審査しんさ制度せいど」を導入どうにゅうした[23]

武術ぶじゅつ・スポーツとのちが[編集へんしゅう]

剣道けんどう たい フェンシング

武術ぶじゅつとのちが[編集へんしゅう]

日本にっぽん武道ぶどうなか中国ちゅうごく武術ぶじゅつ要素ようそ指摘してきする研究けんきゅうもあるが、その影響えいきょう一部いちぶであり、基本きほんてきには国内こくない風土ふうど時代じだい状況じょうきょうなかではぐくまれたものとするのが一般いっぱんてき見解けんかいである。

まずその代表だいひょうてき特徴とくちょうとして、動作どうさ骨盤こつばん東洋とうよう医学いがくにおける丹田たんでん)を中心ちゅうしん派生はせいしているというてんがある[24][25]。これは日本にっぽんかぎらず西洋せいよう以外いがい地域ちいきにおける伝統でんとう舞踊ぶよう武術ぶじゅつでは比較的ひかくてきおおられる特徴とくちょうであるが、なかでも日本にっぽんのそれらはとく顕著けんちょ部類ぶるいぞくし(歩法ほほう明瞭めいりょう)、からだじく方向ほうこうにおける重心じゅうしん位置いち非常ひじょうひくい。

「かつての日本にっぽん武術ぶじゅつには現代げんだい運動うんどう理論りろんではあつかわれてこなかった身体しんたい操作そうさ心理しんり操作そうさによる身体しんたい技法ぎほうつたえられている」として武道ぶどう動作どうさ技法ぎほう研究けんきゅうされることもあり[26]甲野こうのぜんはその第一人者だいいちにんしゃである。甲野こうの武道ぶどうにおける身体しんたい操作そうさ特徴とくちょうを「ねじらない、うねらない、めない(、らない、らない)」ところにあると指摘してきしている(ただし甲野こうのいわく、「正確せいかくにいえばねじらないように、うねらないように、タメをすくなくということで、まったねじったり、うねったりしていないわけではありません」ともしている)[27][28]

また武道ぶどうでは、武具ぶぐ使用しよう基本きほんとしていることもおおきな特徴とくちょうである。それは、日本にっぽんにおける古来こらいからの武具ぶぐたいする畏敬いけいたかさや、武具ぶぐ製造せいぞう技術ぎじゅつ鍛冶たんや技術ぎじゅつたかさ、帯刀たいとうという武士ぶし文化ぶんかにより、武具ぶぐたいする信頼しんらいたかかったことにおおきく関連かんれんしている。ただし日本にっぽん武具ぶぐは、殺傷さっしょうりょく防御ぼうぎょりょくたか一方いっぽうで、比較的ひかくてき重量じゅうりょうがあり、くわえて、日本人にっぽんじん元来がんらい華奢きゃしゃ体格たいかくである。そのため、必要ひつよう最小限さいしょうげんちから効率こうりつてき身体しんたいうごかす・武器ぶきあつかう・相手あいてくずすことに修行しゅぎょう重点じゅうてんかれている。

身体しんたい重心じゅうしんひくさもあいまって、やわらかくねる、かろやかなステップをむ、などの動作どうさ基本きほんてきにはられず、武器ぶきぜん方向ほうこう素早すばやまわすような派手はでうごきもすくない。またわざすくない傾向けいこうにある。弓術きゅうじゅつしゃ居合いあいじゅつ座業ざぎょう柔術じゅうじゅつりなどは、手足てあしうごきを制限せいげんすることにより必要ひつよう最小限さいしょうげんちから身体しんたいうごかすことをまなぶ、日本にっぽん独自どくじ修行しゅぎょう方法ほうほうである。また前記ぜんき身体しんたい操作そうさかる武器ぶきあつか棒術ぼうじゅつつえじゅつ)などにも派生はせいしており、ほぼおな武器ぶきあつか他国たこく棒術ぼうじゅつおおくとは、うごきが質的しつてきことなっている。それは#芸術げいじゅつせいべた「抑制よくせい美的びてき規範きはん」にもつうずる、一見いっけんすると地味じみともえるような、素朴そぼくしずけさのあるうごきである。

なお武道ぶどう成立せいりつする以前いぜん南北なんぼくあさ時代じだい以前いぜん)の白兵戦はくへいせんにおいては、技術ぎじゅつ以上いじょうにまず、敏捷びんしょうせいいた古式こしき甲冑かっちゅう着用ちゃくようした状態じょうたい長大ちょうだい武器ぶきまわせる体力たいりょく筋力きんりょくもとめられており、それは基本きほんてきには武道ぶどう相容あいいれない発想はっそうであった。ただし示現じげんりゅう薬丸やくまるあらわりゅうなどに代表だいひょうされる一部いちぶ流派りゅうはでは、ぎゃくにこの発想はっそうから見出みいだされた究極きゅうきょくかたちつたえている。

素手すででの攻撃こうげきについては、武具ぶぐ使用しよう前提ぜんていとしたうえで、武器ぶきてたり脇差わきざしなどをった戦闘せんとう終盤しゅうばん状態じょうたい、すなわち至近しきん距離きょりせまり、相手あいて身体しんたいつかむなどのいわゆる「い」を想定そうていしている。そのため、徒手としゅ武術ぶじゅつでは当身あてみ以上いじょうくずおおふくまれており、それが"やわら"じゅつばれるようになった由来ゆらいでもある。またそのために受身うけみは、徒手としゅにおいて身体しんたいてきダメージを軽減けいげんするための重要じゅうよう技法ぎほうとなっている。

騎士きし西洋せいよう剣術けんじゅつのように、その伝承でんしょうおもになったのが支配しはい階級かいきゅう武士ぶしであったため、格式かくしき比較的ひかくてきたかかったことも武道ぶどう特色とくしょくである。武道ぶどう将軍しょうぐんいえ大名だいみょういえに「流儀りゅうぎ」としてまなばれていたことや、「武芸ぶげい上覧じょうらん」という旗本はたもと藩主はんしゅたいして武技ぶぎ披露ひろうする文化ぶんか存在そんざいしたことは、その格式かくしきたかさをしめ事例じれいひとつである。剣道けんどう中野なかのはちじゅうは、剣術けんじゅつから現代げんだい剣道けんどうへの推移すいいについて、「剣道けんどうというものは、承知しょうちのように武士ぶし階級かいきゅうさかんな封建ほうけん時代じだいそだったもので、それがだんだんと発展はってんしてきて民主みんしゅまとになったといっても、まだそのような気分きぶんけきれぬところがおおくある。『おれ剣道けんどうをやっているのだ、おれはほかのものよりいいものをやっているのだ』という貴族きぞくてきな、あるいは武士ぶしてき気持きもち多分たぶんのこっていたとおもうのです」とべている[29]

つてけい[ちゅう 2]正確せいかくてん特徴とくちょうてきである。もちろん、ながれ伝説でんせつじょう著名ちょめい人物じんぶつ仮託かたくしている、創始そうししゃ不明ふめいあるいはその存在そんざい証明しょうめいできない、といった場合ばあいについては、武道ぶどうけっして例外れいがいではない。しかしながら、現在げんざいつたわる武道ぶどう流派りゅうは大半たいはんが、すくなくとも江戸えど時代じだいまでそのつてけい正確せいかく辿たどることが可能かのうであり、このような事例じれい世界せかい各国かっこく存在そんざいする伝統でんとう武術ぶじゅつなかでも稀有けうである。前述ぜんじゅつしたようにおも武士ぶしによってその伝承でんしょうになわれていたことや、伝書でんしょ目録もくろく)の授与じゅよという慣習かんしゅうがあったこと、近世きんせい当時とうじ識字しきじりつたか水準すいじゅんであったことなどが、その理由りゆうとしてかんがえられる。日本にっぽん武術ぶじゅつ研究けんきゅう綿谷わたやゆきは、1969ねんに『武芸ぶげい流派りゅうはだい事典じてん』を出版しゅっぱんし、史実しじつとしてのこすうひゃくもの武道ぶどう流派りゅうは体系たいけいてきにまとめあげたが、それは伝承でんしょう全般ぜんぱんてき正確せいかくでなければ不可能ふかのう所業しょぎょうであったともえる。

礼法れいほうおもきを傾向けいこうは、日本にっぽん文化ぶんかにはかなら見受みうけられる、ひろ周知しゅうちされた特徴とくちょうひとつである。なかでも武道ぶどうにおける礼法れいほうは、おおくの流派りゅうはかたちなかれられ、技法ぎほう同様どうよう研鑽けんさん習得しゅうとく継承けいしょうされているというてん特徴とくちょうてきであり、それは神仏しんぶつ先人せんじん)や武具ぶぐへのれいをもふく儀式ぎしきてき側面そくめんつよい。

全体ぜんたいとおして、能楽のうがく歌舞伎かぶき日本にっぽん舞踊ぶようなどの伝統でんとう芸能げいのう共通きょうつうした動作どうさられることがおおいが、それは、日本人にっぽんじん独自どくじ身体しんたいてき特徴とくちょう身体しんたい操作そうさ美的びてき感覚かんかく宗教しゅうきょうかん、また相互そうご交流こうりゅうのためともわれる。なお、日本人にっぽんじん身体しんたいてき特徴とくちょうとして「骨盤こつばんかたぶけ」がげられており、かかと重心じゅうしん猫背ねこぜになりやすい傾向けいこうにあるとされるが、現代げんだいつたわる武道ぶどう伝統でんとう芸能げいのうでは、「骨盤こつばんかたぶけ」は一般いっぱんてきにはこのまれない姿勢しせいであるため、これら芸道げいどう身体しんたい操作そうさをかつての日常にちじょう動作どうさ延長えんちょうとしてとらえてはならないとする意見いけんもある。

スポーツとのちが[編集へんしゅう]

西洋せいようスポーツとの形式けいしきてきちがいとしては、#懸念けねんにおいてもべたが、競技きょうぎ本旨ほんしとしていないてんげられる。このてんについては、ふるくから賛否さんぴ両論りょうろんであった。武道ぶどうかたち稽古けいこ主軸しゅじくとした自由じゆう応用おうようせいける修行しゅぎょう形式けいしきは、形骸けいがいしやすく、使つかによっては無用むよう長物ちょうぶつともなり危険きけんせいがある。しかしその一方いっぽうでは、他者たしゃ優劣ゆうれつきそうことを修行しゅぎょう本旨ほんしとしなかったからこそ、芸術げいじゅつ分野ぶんや宗教しゅうきょう観念かんねん密接みっせつつながり、洗練せんれんされ、「武芸ぶげい」「武道ぶどう」としょうされるまでにその価値かちたかめたともえる。

もちろん武道ぶどうには、騎射きしゃさんぶつとお他流たりゅう試合しあい竹刀しない稽古けいこ乱取らんどなど、ふるくから競技きょうぎ形式けいしき修行しゅぎょう方法ほうほう存在そんざいしたが、あくまでも競技きょうぎとは無縁むえんかたち稽古けいこ前提ぜんていとしたうえでの修行しゅぎょうであった。ただし、竹刀しない稽古けいこ乱取らんどりは、当初とうしょかたち稽古けいこ補完ほかんてき役割やくわりであったものの、のち主客しゅかく逆転ぎゃくてんし、そして現代げんだい武道ぶどうへと推移すいいしていったことは、さきべたとおりである。

現代げんだい武道ぶどうは、徐々じょじょかく種目しゅもくオリンピック競技きょうぎ追加ついかされていくなど、競技きょうぎ偏重へんちょうになったことで本格ほんかくてきなスポーツささやかれている。かたち稽古けいこいまおおくの種目しゅもく基礎きそとなっているが、それまでもが競技きょうぎのうちにまれており(演武えんぶによる試合しあい)、その偏重へんちょうせいがうかがえる。なおだい日本にっぽん武徳ぶとくかい時代じだい武道ぶどうは、指導しどうしゃみな武道ぶどうしょ流派りゅうはおさめていたため、いま競技きょうぎたいして否定ひていてき意見いけん大半たいはんめており、流派りゅうはという概念がいねん消失しょうしつしたといえども、武道ぶどうとのちがいはさほどなかった。

海外かいがいから武道ぶどう[編集へんしゅう]

中里なかさと介山かいざん著書ちょしょ日本にっぽん武術ぶじゅつ神妙しんみょうつづけ)』(1936ねん)には、以下いか文章ぶんしょう引用いんようされている[30]

かず寇のさかんなりしころあきらしょう記文きぶんのうちにいわく、やまとやつがたなふるうことかみわかし、ひとこれをのぞめば輒ち懼れてはしる、そのちょうずるところものかたなほうのみ、そのとりくちばしじゅうるいこれなおへいごときなり、弓矢ゆみやならなおおこれわがへいごとく、このそとことしょうするにるものなし、ただやまとせいころせこのむ、一家いっか一刀いっとうたくわえざるものなく、わらわにしてこれをならたけしにしてこれにせいし。 — 『揮刀如神』(明朝みょうちょう

あらわした人物じんぶつ詳細しょうさいについては明記めいきされていないが、あきら時代じだい中国人ちゅうごくじんから当時とうじ日本人にっぽんじんとその武術ぶじゅつについてしるされている。現代げんだいやくとしては、「日本人にっぽんじんかたなじゅつはまるでかみごとしである。我々われわれあかりへいかれらをればみながすくみごしになる。 がたなじゅつすぐれているが、かたなじゅつだけでなく道具どうぐあつかいもじゅうへい互角ごかくである。 ゆみあつかいもゆみへい互角ごかく、そのほかあらゆる兵科へいかくらべて不足ふそくつからない。 本当ほんとう日本人にっぽんじん戦闘せんとう民族みんぞくである。そのいえにはかたなたぬものはく、 子供こどもころから剣術けんじゅつきたえられはじめ、壮年そうねんいたればえなくなる」。

日本人にっぽんじんとく習練しゅうれんするものは武術ぶじゅつなり。男子だんしはすべてじゅうさいにして刀剣とうけんを佩び、これよりのち夜間やかん休憩きゅうけいするときそと腰間ようかん秋水しゅうすいだっせず、くのときと雖も、なお枕頭ちんとうにこれを安置あんちして、睡眠すいみんちゅうと雖も曾つて武事ぶじわすれざるをしめす。武器ぶきけん短剣たんけん小銃しょうじゅうあり、弓箭きゅうせんあり。そのけん精練せいれんきわめて鋭利えいりなること、これを以ってヨーロッパのけん両断りょうだんするともかたなこうなお疵痕きずあとのこさずとほどなり。日本人にっぽんじん風習ふうしゅうかくのごとくにたっとべば、彼等かれら刀剣とうけん装飾そうしょくふかくそのそそぎ、これを室内しつないにもはいれつしてだいいち修飾しゅうしょくとなす。 — ジャン・クラッセ(江戸えど時代じだい初期しょき

一方いっぽうこちらは、フランスじん宣教師せんきょうしジャン・クラッセ英語えいごばん(1618 - 1692)から当時とうじ日本人にっぽんじんとその武術ぶじゅつについてしるされている。

いずれも、日本にっぽんがたなたいして賛辞さんじおくり、また日本人にっぽんじんが「たけ」をこの人種じんしゅであるともしるしている。ただしここで両者りょうしゃべている日本人にっぽんじんとは、あきらかに武士ぶしのことであり、武士ぶし生活せいかつ様式ようしき垣間見かいまみたことで、日本人にっぽんじんみなこのような生活せいかつおくっていると勘違かんちがいしたようである(それにしても、「日本人にっぽんじんたたかいをこのむ」という同様どうよう記述きじゅつ戦前せんぜんまで多数たすうられていた)。

リュミエールしゃからいねはた勝太郎かつたろうれてきた撮影さつえい技師ぎしコンスタン・ジレルは、1897ねん京都きょうと岡崎おかざき博覧はくらん会館かいかんまえにて、当時とうじ伝承でんしょうしゃ一刀いっとうりゅう小野おの一刀いっとうりゅうとする情報じょうほうもあるが、所作しょさ北辰ほくしん一刀いっとうりゅうちかい)のかたち披露ひろうしている様子ようす映像えいぞう記録きろくした。これは日本にっぽん武術ぶじゅつおさめた映像えいぞうとして最古さいこちかく、京都きょうとうつした最古さいこ映像えいぞうでもある(著作ちょさくけん消失しょうしつしているため、YouTubeなどで閲覧えつらん可能かのう[31])。

武芸十八般ぶげいじゅうはっぱん[編集へんしゅう]

合戦かっせんたたかうための技芸ぎげい武芸ぶげいといった。これがもとになり、柔術じゅうじゅつ剣術けんじゅつなどがまれた。

武芸十八般ぶげいじゅうはっぱん」とは、もとは江戸えど時代じだい初期しょき中国ちゅうごくからつたわった言葉ことば十八般じゅうはっぱん兵器へいき)に由来ゆらいするが、近世きんせいにおいて武門ぶもんきるもの修得しゅうとくすべきとされた18種類しゅるい武技ぶぎ総称そうしょうであるという。この18の武技ぶぎ内容ないよう時代じだい集団しゅうだんによりことなっているが、おおむ下記かきの18分類ぶんるいにまとめられる。いずれにおいても弓道きゅうどう筆頭ひっとう武道ぶどうである。武士ぶし世界せかいで「弓馬きゅうばみち(きゅうばのみち)」が武道ぶどうそのものをあらわ言葉ことばであるとおり、「武士ぶしたましい」といわれる刀剣とうけん以上いじょうに、ゆみうま上位じょういにあり武道ぶどう重要じゅうようされている。また、戦国せんごく戦乱せんらんにおいてはかたなよりもやり実戦じっせんてき優位ゆういであるため上位じょういにある。1から4まではほぼ固定こていであるが、日本にっぽんおよげほう以下いかは、立場たちばにより順序じゅんじょ異同いどうがある場合ばあいがある。

  1. 弓術きゅうじゅつ半弓はんきゅうじゅつ
  2. 馬術ばじゅつ騎馬きばじゅつ軍馬ぐんばじゅつ
  3. 槍術そうじゅつ
  4. 剣術けんじゅつ
  5. みずじゅつおよげほうじゅつ)・泅水じゅつ水練すいれん・踏水じゅつ游泳ゆうえいじゅつ
  6. 居合いあいじゅつ抜刀ばっとうじゅつ
  7. 短刀たんとうじゅつ小具足こぐそく脇差わきざし小太刀こだちじゅつ
  8. じゅう手術しゅじゅつ鉄扇てっせんじゅつてつむちじゅつ
  9. ずく鋧術
  10. 含針じゅつ吹矢ふきやじゅつ
  11. 薙刀なぎなたじゅつちょうまきじゅつ
  12. 砲術ほうじゅつぼう火矢ひやじゅつ
  13. 捕手ほしゅじゅつ捕縄とりなわじゅつ
  14. 柔術じゅうじゅつじゅつ拳法けんぽうからだじゅつ組討くみうちごう
  15. つえじゅつ棒術ぼうじゅつ
  16. 鎖鎌くさりがまじゅつちぎりじゅつ分銅ふんどうくさり
  17. 錑術
  18. かくれがたじゅつ(しのび)

上記じょうき以外いがい武芸ぶげいちょうがまじんにしじゅつなど)は武芸ぶげい一覧いちらん参照さんしょう

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 初心しょしん奥義おうぎなどと区別くべつすることにかぎらず、技法ぎほう段階だんかいてき階層かいそうてき存在そんざいしているという、その現実げんじつせいそのものが重要じゅうようである。兵法ひょうほう宮本みやもと武蔵むさしは、『五輪ごりんしょ ふうまき』のなかで、「実戦じっせんにおいておくひょう極意ごくい秘伝ひでんなどというものは存在そんざいしないのであるから、流儀りゅうぎでは技法ぎほうにそのような区別くべつをせず、各人かくじん技量ぎりょうわせて教授きょうじゅしていく(意訳いやく)」と持論じろん展開てんかいしているが、その教授きょうじゅ方法ほうほう段階だんかいてき階層かいそうてきであることにわりはなかった。
  2. ^ ここでいう「つてけい」とは、だれによって創始そうしされたか(あるいは分派ぶんぱしたか)、歴代れきだい伝承でんしょうしゃ名前なまえ判明はんめいしているか、どこで伝承でんしょうされていたか、などである。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 大阪教育大学おおさかきょういくだいがく大阪教育大学おおさかきょういくだいがく紀要きよう, だい46かん, だい2ごう」(1998)p.304
  2. ^ a b c d e f g 湯浅ゆあさあきら, 大保木おおふき輝雄てるお, 酒井さかい利信としのぶ剣道けんどう専門せんもん分科ぶんかかい企画きかく 講演こうえんかい武道ぶどう伝統でんとうせいについてかんがえる」』(武道ぶどうがく研究けんきゅう, 2017ねん49かん3ごう, p.261-280)p.270-272
  3. ^ 弓道きゅうどう歴史れきし全日本ぜんにほん弓道きゅうどう連盟れんめい
  4. ^ 近藤こんどう好和よしかず武具ぶぐ日本にっぽん平凡社へいぼんしゃ新書しんしょ
  5. ^ 細川ほそかわ重男しげお頼朝よりとも武士ぶしだん歴史れきし新書しんしょ
  6. ^ 中世ちゅうせい相撲すもう武芸ぶげいとしての相撲すもう相撲すもう興行こうぎょうこり[リンク]
  7. ^ 木村きむら吉次よしじ体育たいいく・スポーツ概論がいろん』(2001ねん市村いちむら出版しゅっぱん)p.67
  8. ^ 西久保にしくぼ武道ぶどうくん
  9. ^ 中村なかむら民雄たみお史料しりょう近代きんだい剣道けんどう』、島津しまつ書房しょぼう
  10. ^ 日本にっぽん武道ぶどう協会きょうかい日本にっぽん武道ぶどう総覧そうらん』(1989ねん, 島津しまつ書房しょぼう)p.15
  11. ^ 小佐野おさのあつし日本にっぽん伝統でんとう武術ぶじゅつ真諦しんたい』(1989ねん, あいりゅうどう)p.253
  12. ^ a b c 人間にんげん教育きょういくとしてのけんみち辿たどだいかい がた稽古けいこ竹刀しない稽古けいこ その2全日本ぜんにほん剣道けんどう連盟れんめい
  13. ^ a b c 平木ひらきしげる古伝こでん武藝ぶげいがた生成せいせい徳性とくせいについて -神道しんとう夢想むそうりゅうつえじゅつ視点してんとして-」(國士舘大學こくしかんだいがく武徳ぶとく紀要きよう (30), 95-106, 2014-03, 國士舘大學こくしかんだいがく武道ぶどう徳育とくいく研究所けんきゅうじょ)p.100
  14. ^ a b 平木ひらきしげる日本にっぽん古傳こでん藝術げいじゅつ表現ひょうげんにおける余白よはくについて -日本にっぽん神道しんとう夢想むそうりゅうつえじゅつ-」(國士舘大學こくしかんだいがく武徳ぶとく紀要きよう (33), 25-45, 2017-03, 國士舘大學こくしかんだいがく武道ぶどう徳育とくいく研究所けんきゅうじょ)p.37-38
  15. ^ a b すぎこう正敏まさとし, 大矢おおやみのる, 佐藤さとう成明しげあき平成へいせい16年度ねんど 日本にっぽん武道ぶどう学会がっかい 剣道けんどう専門せんもん分科ぶんかかい だいいちかい指導しどうほう研究けんきゅうかい報告ほうこく」(武道ぶどうがく研究けんきゅう37-(3):43-53, 2005〈剣道けんどう専門せんもん分科ぶんかかい〉, p.44
  16. ^ a b 黒田くろだ鉄山てつざん古流こりゅう武術ぶじゅつにおけるうごき([武道たけみち・スポーツ科学かがく]研究所けんきゅうじょ共催きょうさい 人体じんたい学会がっかいだい17かい大会たいかい うごきから身体しんたい人間にんげん可能かのうせいさぐる)」(武道たけみち・スポーツ科学かがく研究所けんきゅうじょ年報ねんぽう (13), 178-180, 2007, 国際武道大学こくさいぶどうだいがく)p.179
  17. ^ 黒田くろだ鉄山てつざん居合いあいじゅつ精義せいぎ』(1991, たけし神社じんじゃ)p.29
  18. ^ 平木ひらきしげる日本にっぽん古傳こでん藝術げいじゅつ表現ひょうげんにおける余白よはくについて -日本にっぽん神道しんとう夢想むそうりゅうつえじゅつ-」(國士舘大學こくしかんだいがく武徳ぶとく紀要きよう (33), 25-45, 2017-03, 國士舘大學こくしかんだいがく武道ぶどう徳育とくいく研究所けんきゅうじょ)p.44
  19. ^ 日本武道館にほんぶどうかんへん日本にっぽん武道ぶどう』(2007ねんスボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ)p.97
  20. ^ a b 湯浅ゆあさあきら武道ぶどうにおける技術ぎじゅつかんについて」(武道ぶどうがく研究けんきゅう, 1978ねん11かん2ごう, p.35-36)p.36
  21. ^ a b 平木ひらきしげる日本にっぽん古傳こでん藝術げいじゅつ表現ひょうげんにおける余白よはくについて -日本にっぽん神道しんとう夢想むそうりゅうつえじゅつ-」(國士舘大學こくしかんだいがく武徳ぶとく紀要きよう (33), 25-45, 2017-03, 國士舘大學こくしかんだいがく武道ぶどう徳育とくいく研究所けんきゅうじょ)p.34
  22. ^ 長尾ながおすすむ近世きんせい後期こうきにおける剣術けんじゅつ修行しゅぎょうろんかんするいち考察こうさつ -弘前ひろさき藩士はんし山鹿やまがこうあつしちょ『たよりくさ』の分析ぶんせき中心ちゅうしんに-」(明治大学めいじだいがく教養きょうよう論集ろんしゅう, 305:121-141, 1998)
  23. ^ 伝授でんじゅ体系たいけい天真てんしん正伝せいでん香取かとり神道しんとうりゅう
  24. ^ 梅若うめわかはじめとく河野こうのさとしきよしのう日本人にっぽんじんりょく <武術ぶじゅつ整体せいたい研究けんきゅうく、能楽のうがく身体しんたいめられたいにしえ知恵ちえ能力のうりょく>』(2008ねん、BABジャパン)p.110 - 111
  25. ^ 長野ながのたかし也「武術ぶじゅつ奥義おうぎ身体しんたい操作そうさ」(バイオメカニズム学会がっかい, Vol.29, No.3, 2005)p.132
  26. ^ 長野ながのたかし也「武術ぶじゅつ奥義おうぎ身体しんたい操作そうさ」(バイオメカニズム学会がっかい, Vol.29, No.3, 2005)p.129
  27. ^ 福島ふくしまひろし彦、かたふち美穂子みほこ『「教科きょうか体育たいいく」における武術ぶじゅつ身体しんたいみさおほう有効ゆうこうせい限定げんていせい』(和歌山大学わかやまだいがく教育きょういく学部がくぶ紀要きよう 教育きょういく科学かがく 61, 29-36, 2011-02)p.30
  28. ^ 手島てじま直美なおみ脇田わきた裕久ひろひさ武術ぶじゅつにおける位置いちエネルギーを利用りようした前進ぜんしん動作どうさ効果こうか」(三重大学みえだいがく教育きょういく学部がくぶ研究けんきゅう紀要きよう 57, 21-31, 2006)p.21
  29. ^ 庄子しょうこそうひかり剣道けんどうひゃくねん』646ぺーじ時事通信社じじつうしんしゃ
  30. ^ 中原なかはら介山かいざん日本にっぽん武術ぶじゅつ神妙しんみょう復刻ふっこくばん)』(平成へいせい28ねん角川かどかわ文庫ぶんこ)p.424, 427
  31. ^ [1]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

天覧てんらん試合しあい台覧たいらん試合しあい御前ごぜん試合しあい[編集へんしゅう]

武芸ぶげいしょ[編集へんしゅう]

武道ぶどう研究けんきゅう[編集へんしゅう]

武術ぶじゅつ研究けんきゅう[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]