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将軍しょうぐん

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将軍しょうぐん(しょうぐん)は、比較的ひかくてきおおきな軍隊ぐんたい指揮しきかんあたえられる官職かんしょくおよび称号しょうごうひとつ、また軍閥ぐんばつ指導しどうしゃ地位ちいでもある。称号しょうごうとしての将軍しょうぐん将軍しょうぐんごうともいう。

ふるくから東洋とうようにおける軍隊ぐんたい指揮しきかん役職やくしょくめいひとつであった。外交がいこうじょうまたは軍隊ぐんたいない敬称けいしょうとしては閣下かっかもちいられる。なお、古代こだい中国ちゅうごくでは「将軍しょうぐん皇帝こうてい任命にんめいされた官職かんしょく」「しょう王侯おうこう地方ちほう領主りょうしゅ任命にんめいされた官職かんしょく」と区別くべつされている。

語源ごげん[編集へんしゅう]

将軍しょうぐん中国ちゅうごくにおいて発祥はっしょうしたかたりであるが、その意味いみ文字通もじどおり、「ぐんはたひきいる」ことであり、軍勢ぐんぜい指揮しきする司令しれいかんかんめいとして使用しようされたのがはじまりである。その用例ようれいふるくは春秋しゅんじゅう時代じだいにまで確認かくにんすることができる。のちに「司馬しば」にわって軍隊ぐんたい指揮しきかん名称めいしょうとしてもちいられるようになる。かんでは将軍しょうぐんしょく常設じょうせつではなく、臨時りんじかんとしてにんぜられた。

4世紀せいき〜6世紀せいきには、高句麗こうくり百済くだらしんやまとなどの諸国しょこく中国ちゅうごく王朝おうちょう南朝なんちょうそうほか)と外交がいこうむすび、より位階いかいたか将軍しょうぐんごうもとめてきそった。

中国ちゅうごく歴代れきだい王朝おうちょうにおける将軍しょうぐんごう序列じょれつ[編集へんしゅう]

武官ぶかんへの将軍しょうぐんごうかん前漢ぜんかん以降いこう顕著けんちょとなる。はただい以前いぜん大将軍だいしょうぐんぜん将軍しょうぐんひだり将軍しょうぐんみぎ将軍しょうぐんこう将軍しょうぐんへん将軍しょうぐんひえ将軍しょうぐん程度ていどであった。前漢ぜんかんたけみかど以降いこう驃騎将軍しょうぐんくるま将軍しょうぐんまもる将軍しょうぐんといったたか地位ちいをもつ「じゅうごう将軍しょうぐん中国語ちゅうごくごばん」と、役割やくわり軍事ぐんじてき功績こうせきしめ称号しょうごうけた「ざつごう将軍しょうぐん」があらわれた。じゅうごう将軍しょうぐん将軍しょうぐん開府かいふし、さらに政治せいじ関与かんよすることもあった。かんだいにはだい・驃騎・くるままもる四方しほうぜん左右さゆう)だけだったが、さんこく時代じだい以降いこうよんせい将軍しょうぐん中国語ちゅうごくごばんよん鎮将ぐん中国語ちゅうごくごばんよんやす将軍しょうぐん中国語ちゅうごくごばんよんひら将軍しょうぐん中国語ちゅうごくごばんじゅうごう将軍しょうぐんくわわった。前者ぜんしゃ朝廷ちょうていにあって政治せいじ参加さんかするなか朝廷ちょうてい将軍しょうぐん後者こうしゃ外征がいせい任地にんちにあって治安ちあん担当たんとうするそと朝廷ちょうてい将軍しょうぐんとする分類ぶんるい方法ほうほう中国語ちゅうごくごばんがある。これらはかく王朝おうちょうによって制度せいど差異さいがあり、また後世こうせい便宜べんぎてき分類ぶんるいしたものであり一律いちりつではない。

上段じょうだん称号しょうごうほど、また左側ひだりがわ称号しょうごうほど、かくじょうとなる[1]

南朝なんちょうそうにおける将軍しょうぐんごう序列じょれつひんまで)
しな 将軍しょうぐんごう
一品いっぴん 大将軍だいしょうぐん
ひん 驃騎・くるままもるしょ大将軍だいしょうぐん
三品みしな よんせいせいひがしせいみなみせい西にしせいきた
よん鎮(鎮東・鎮南・鎮西ちんぜい・鎮北)
ちゅうぐん・鎮軍・なでぐん
よんやす安東あんどうあんみなみ安西あんざいやすきた
よんたいらひらひがしたいらみなみひら西にしひらきた
まえひだりみぎのち
せいとりこかんむりぐん・輔国・りゅう
よんひん ひだりまもるみぎまもる・驍騎・ゆうげき
ひだりぐんみぎぐんぜんぐんこうぐん
やすしついたち
たてたけしたけし・奮威・あげたけしこう
たてたけしたけし・奮武・あげたけしこう
ひん せきしゃつよしいしゆみ
鷹揚おうよう折衝せっしょうけいしゃあげれつやすしとおざいかんふくしのげこう

3世紀せいき〜7世紀せいきひがしアジア諸国しょこくによる中国ちゅうごく王朝おうちょう授与じゅよ将軍しょうぐんごう序列じょれつ[編集へんしゅう]

3世紀せいき〜7世紀せいき中国ちゅうごく王朝おうちょう外交がいこう交渉こうしょうったひがしアジア諸国しょこくは、国主こくしゅたいして「おうごうとともに、(1)軍事ぐんじ指揮しきかんとしての管轄かんかつ領域りょういきひろさ、(2)将軍しょうぐんごう格付かくづけなどにかんして、より上位じょうい称号しょうごうもとめてせめぎった。
(1)管轄かんかつ領域りょういきについて: とく◯◯しょ軍事ぐんじ ◯◯に管轄かんかつする地域ちいき名称めいしょうはいる。

とくやまと百済くだらしんにんはたかん・慕韓ななこくしょ軍事ぐんじ」(「やまとおう」の一部いちぶが「かり授」(=自称じしょう)した管轄かんかつ領域りょういき
みやこただし百済くだらしょ軍事ぐんじ」(歴代れきだい百済くだらおうじょただされた管轄かんかつ領域りょういき
とく営州しょ軍事ぐんじ」(高句麗こうくり長寿ちょうじゅおうが413ねんそうから「じょせい」された管轄かんかつ領域りょういき

(2)3世紀せいき〜7世紀せいき中国ちゅうごく歴代れきだい政権せいけんは、中国ちゅうごく軍事ぐんじ指揮しきかん授与じゅよするのと同一どういつカテゴリーの将軍しょうぐんごうを、近隣きんりん諸国しょこくしょ民族みんぞく君主くんしゅたちに授与じゅよした。

ひがしアジア各国かっこくにおける将軍しょうぐんごうのランク上昇じょうしょう事例じれい
国名こくめい 将軍しょうぐんごう上昇じょうしょう
高句麗こうくり 南朝なんちょう授与じゅよせいひがし将軍しょうぐんせい東大とうだい将軍しょうぐんくるま大将軍だいしょうぐんなでぐん(ひがし)大将軍だいしょうぐんやすしひがし将軍しょうぐん
北朝ほくちょう授与じゅよせいひがし将軍しょうぐんくるま大将軍だいしょうぐん安東あんどう将軍しょうぐん→驃騎大将軍だいしょうぐん大将軍だいしょうぐん
百済くだら  鎮東将軍しょうぐん→鎮東大将軍だいしょうぐん
やまと  安東あんどう将軍しょうぐん安東あんどう大将軍だいしょうぐん→鎮東大将軍だいしょうぐんせい東大とうだい将軍しょうぐん
 輔国将軍しょうぐん
吐谷渾  せい西にし将軍しょうぐん

4世紀せいき〜7世紀せいきやまと百済くだら高句麗こうくりしん・渤海のおう臣下しんかたちがけた将軍しょうぐんごう[編集へんしゅう]

4世紀せいき〜6世紀せいき中国ちゅうごく周辺しゅうへん諸国しょこくでは、君主くんしゅ代替だいがわりごとに中国ちゅうごく使者ししゃ派遣はけんし、君主くんしゅ所属しょぞくする「おうごう軍事ぐんじ指揮しきかんとしての管轄かんかつ領域りょういき将軍しょうぐんごうとうのセットについて更新こうしんし、また配下はいか豪族ごうぞく官僚かんりょうのための「将軍しょうぐん称号しょうごう」と「幕府ばくふ(=将軍しょうぐん)に所属しょぞくする文官ぶんかん称号しょうごう」をもとめ、それを配下はいか分配ぶんぱいすることにより、国内こくない統制とうせいしようとした[2]。(→官制かんせい

やまと百済くだら高句麗こうくりしんひとし中国ちゅうごくおくった国書こくしょなかには「かり〜」または「わたししょ〜」としょうして、君主くんしゅとその配下はいか授与じゅよ希望きぼうする称号しょうごう列挙れっきょ提示ていじされているのを確認かくにんできるものがられる。中国ちゅうごく王朝おうちょうがわでは、称号しょうごうのランクアップをししぶり、先代せんだい君主くんしゅ称号しょうごう踏襲とうしゅうするのが通例つうれいであった。中国ちゅうごく王朝おうちょうが、近隣きんりん諸国しょこく君主くんしゅ臣下しんか称号しょうごう認定にんていすることを「じょせい」としょうする[2]

やまとおうとその臣下しんかさずかった将軍しょうぐんごう
西暦せいれき おうめい臣下しんかめい 将軍しょうぐんごうかり 将軍しょうぐんごう南朝なんちょうじょただし 備考びこう
421ねん やまとさん   安東あんどう将軍しょうぐん[3]
438ねん やまとめずらし 安東あんどう大将軍だいしょうぐん  安東あんどう将軍しょうぐん[4]
 〃 やまとずい(王族おうぞく)   ひら西にし将軍しょうぐん[5]
 〃 (やまとずいふく臣下しんか13にんに) ひら西にし将軍しょうぐんせいとりこ将軍しょうぐんかんむりぐん将軍しょうぐん・輔国将軍しょうぐんなど[5]
443ねん やまとずみ   安東あんどう将軍しょうぐん[6]
451ねん やまとずみ 安東あんどう大将軍だいしょうぐん 昇格しょうかくせず)[7]
462ねん やまときょう世子せいし   安東あんどう将軍しょうぐん[8]
478ねん やまとたけし 安東あんどう大将軍だいしょうぐん 安東あんどう大将軍だいしょうぐん[9]
479ねん やまとたけし   鎮東大将軍だいしょうぐん[10] ひとしによる一方いっぽうてきな陞爵の可能かのうせい[11]
502ねん やまとたけし   せい東大とうだい将軍しょうぐん[12] りょうによる一方いっぽうてきな陞爵の可能かのうせい[12]
百済くだらおうとその臣下しんかさずかった将軍しょうぐんごう
西暦せいれき おうめい臣下しんかめい 将軍しょうぐんごうかり 将軍しょうぐんごう南朝なんちょうじょただし 備考びこう
372ねん   鎮東将軍しょうぐん[13]
416ねん うつ   鎮東将軍しょうぐん[14]
421ねん うつ   鎮東大将軍だいしょうぐん[15]
457ねん 餘慶よけい   鎮東大将軍だいしょうぐん[16]
458ねん 王族おうぞく くだりかんむりぐん将軍しょうぐん  かんむりぐん将軍しょうぐん[17]
こん王族おうぞく くだりせいとりこ将軍しょうぐん  せいとりこ将軍しょうぐん[17]
ぼけ王族おうぞく くだりせいとりこ将軍しょうぐん せいとりこ将軍しょうぐん[17]
王族おうぞく くだり輔国将軍しょうぐん 輔国将軍しょうぐん[17]
乂(王族おうぞく くだり輔国将軍しょうぐん 輔国将軍しょうぐん[17]
沐衿 くだりりゅう驤将ぐん りゅう驤将ぐん[18]
爵(王族おうぞく くだりりゅう驤将ぐん りゅう驤将ぐん[18]
りゅう王族おうぞく くだりやすしさく将軍しょうぐん やすしさく将軍しょうぐん[18]
糜貴 くだりやすしさく将軍しょうぐん やすしさく将軍しょうぐん[18]
于西 くだりけん武将ぶしょうぐん たてたけし将軍しょうぐん[18]
婁(王族おうぞく くだりけん武将ぶしょうぐん たてたけし将軍しょうぐん[5]
502ねん だい   せい東大とうだい将軍しょうぐん[12] りょうによる一方いっぽうてきな陞爵の可能かのうせい[12]
521ねん たかし   やすし東大とうだい将軍しょうぐん
524ねん あきら   綏東大将軍だいしょうぐん
570ねん あきら   くるま大将軍だいしょうぐん
高句麗こうくりおうとその臣下しんかさずかった将軍しょうぐんごう
西暦せいれき おうめい臣下しんかめい 将軍しょうぐんごうかり 将軍しょうぐんごう南朝なんちょうじょただし 将軍しょうぐんごう北朝ほくちょうじょせい 備考びこう
413ねん こう   せいひがし将軍しょうぐん[19] あずますすむより。
417ねん こう   せい東大とうだい将軍しょうぐん[15] そうより。
435ねん こう   せいひがし将軍しょうぐん[20] きたたかしより。
463ねん こうきょれん   くるま大将軍だいしょうぐん[21] そうより。
492ねん こうくも   せいひがし将軍しょうぐんりょうまもる東夷あずまえびすちゅうろうしょう きたたかしより。
492ねん こうくも せい東大とうだい将軍しょうぐん りょうより。
502ねん こうくも   くるま大将軍だいしょうぐん[12] はりより。
508ねん こうくも   なでぐんひがし大将軍だいしょうぐん はりより。
520ねん こうくも   くるま大将軍だいしょうぐん きたたかしより、死後しご追贈ついぞう
520ねん こうきょうやす   安東あんどう将軍しょうぐんりょうまもる東夷あずまえびすこうじょう きたたかしより
520ねん こうきょうやす やすしひがし将軍しょうぐん はりより
534ねん こうたからのべ   りょうまもる東夷あずまえびすこうじょう きたたかしより
534ねん こうたからのべ やすしひがし将軍しょうぐん はりより
550ねん こう平成へいせい   驃騎大将軍だいしょうぐんりょうまもる東夷あずまえびすこうじょう きたひとしより
560ねん こう陽成ようぜい   りょうまもる東夷あずまえびすこうじょう きたひとしによる。
562ねん こう陽成ようぜい   やすしひがし将軍しょうぐん ひねによる。
577ねん こう陽成ようぜい   大将軍だいしょうぐん きたあまねによる。
581ねん こう陽成ようぜい   大将軍だいしょうぐん ずいによる。
しんおうとその臣下しんかさずかった将軍しょうぐんごう
西暦せいれき おうめい臣下しんかめい 将軍しょうぐんごうかり 将軍しょうぐんごうじょただし 備考びこう
648ねん 金文きんぶんおう     ひだりたけまもる将軍しょうぐん とうによる。きむ春秋しゅんじゅう
674ねん きむひとしぶん   みぎ驍衛員外いんがい大将軍だいしょうぐん とうによる。おうおとうと
675ねん かねほうさとし   みぎ驍衛員外いんがい大将軍だいしょうぐん とうによる。おうきむひとしぶんあに
687ねん きむさとしひろし     輔国大将軍だいしょうぐんぎょうひだりひょう韜尉大将軍だいしょうぐん たけあまねによる。
702ねん きむきょうこう   輔国大将軍だいしょうぐんぎょうひだりひょう韜尉大将軍だいしょうぐん とうによる。
713ねん きむきょうこう   驃騎将軍しょうぐん特進とくしんぎょうひだりたけしまもる大将軍だいしょうぐんぐん とうによる。
  以降いこう歴代れきだい将軍しょうぐんごうけず。
渤海おうとその臣下しんかさずかった将軍しょうぐんごう
西暦せいれき おうめい臣下しんかめい 将軍しょうぐんごうかり 将軍しょうぐんごうじょただし 備考びこう
692ねん だい祚栄   ひだり驍衛大将軍だいしょうぐん とうによる。
719ねん 大門おおもんげい   ひだり驍衛将軍しょうぐん とうによる。おうおとうととう亡命ぼうめい
737ねん だい欽茂   ひだり驍衛大将軍だいしょうぐん とうによる。
794ねん だいかさ   みぎ驍衛大将軍だいしょうぐん とうによる。
  だいかさ璘のとき君主くんしゅ称号しょうごうが「ぐんおう」から「国王こくおう」へ
すすみ、それにともな付随ふずいする官職かんしょく爵位しゃくいとくしょく
ども格上かくあげされ、以降いこう歴代れきだい国王こくおう」は「将軍しょうぐんごう
わり文官ぶんかんしょくさずかるようになった。

かり授」は、受封がわ希望きぼうする称号しょうごう、「じょせい」は中国ちゅうごくがわ実際じっさい授与じゅよした称号しょうごう

近代きんだい以降いこう軍隊ぐんたいにおける将軍しょうぐん[編集へんしゅう]

近代きんだい以降いこう軍隊ぐんたいでは、陸軍りくぐん空軍くうぐん海兵かいへいたい将官しょうかん階級かいきゅうとしては、じゅんしょう (Brigadier General) 、少将しょうしょう (Major General) 、中将ちゅうじょう (Lieutenant General) 、大将たいしょう (General) が存在そんざいする(英語えいご表記ひょうきアメリカぐん場合ばあい)。また将官しょうかんうえ元帥げんすいアメリカ陸軍りくぐん場合ばあいは General of the Army)が存在そんざいする。ただしびかけや表記ひょうきさい呼称こしょうとしては、じゅんしょうから大将たいしょう元帥げんすいまでひっくるめて Generalもちいられる。この将官しょうかんをひっくるめた呼称こしょう佐官さかんではないが詳細しょうさい階級かいきゅう不明ふめい場合ばあい)としての General和訳わやくとして将軍しょうぐんもちいられる。具体ぐたいてきには、XXXX なる名前なまえ将官しょうかんを、XXXX 将軍しょうぐん とう表記ひょうきする。たとえばダグラス・マッカーサー階級かいきゅう陸軍りくぐん元帥げんすい (General of the Army) であり、日本語にほんごでは「マッカーサー元帥げんすい」と呼称こしょうされることおおいが、英語えいご呼称こしょうでは General MacArthur であり、これをそのままやくした場合ばあいは「マッカーサー将軍しょうぐん」となる。アメリカのテレビ作品さくひん邦題ほうだいとして「パットン将軍しょうぐん」「将軍しょうぐんアイク」なる言葉ことば使つかわれている(ただしこれはアメリカぐん場合ばあいであり、元帥げんすいかんしてはヨーロッパ各国かっこくでは Marshallかたり使つかっているくにおおい。そういったくにでは大将たいしょうからじゅんしょうまでをひっくるめた呼称こしょう将軍しょうぐんであり、元帥げんすい将軍しょうぐんとは別個べっこものとしてあつかわれる)。

海軍かいぐんにおける将官しょうかん呼称こしょうAdmiral であり、これの和訳わやくは「提督ていとく」であるが、日本にっぽんでは海軍かいぐん場合ばあいなぞらえすすむ少将しょうしょう中将ちゅうじょう大将たいしょう陸軍りくぐんなどとおな階級かいきゅうもちいるため、海軍かいぐんにおける将官しょうかん呼称こしょうとしても「将軍しょうぐん」をもちいる場合ばあいがある。たとえば上村うえむら彦之すすむ日本にっぽん海軍かいぐん軍人ぐんじん最終さいしゅう階級かいきゅう海軍かいぐん大将たいしょう)の渾名あだなは「船乗ふなの将軍しょうぐん」である。

日本にっぽん[編集へんしゅう]

古代こだい[編集へんしゅう]

日本にっぽんでは日本書紀にほんしょき記述きじゅつする時代じだいから使つかわれている。中国ちゅうごく南北なんぼくあさ時代じだい史書ししょには、やまとおう南朝なんちょう皇帝こうていから安東あんどう大将軍だいしょうぐんなどの将軍しょうぐんごうけたり、自称じしょうしたという記録きろくがある。なお、将軍しょうぐん和語わごくんずる場合ばあいは「いくさのかみ」である。

日本にっぽん律令制りつりょうせいでは、ぐんぼうれい24じょう将軍しょうぐん規定きていがある。それによれば、将帥しょうすい出征しゅっせいするときへいいちまんにん以上いじょうなら将軍しょうぐんいちにんふく将軍しょうぐん二人ふたりく。また、三軍さんぐんごとに大将軍だいしょうぐん一人ひとりく。しかし実際じっさい任命にんめいはこのへいすうにはもとづかず、とく大将軍だいしょうぐんした複数ふくすう将軍しょうぐんくという形態けいたいいちもとられなかった。将軍しょうぐん原則げんそくとして臨時りんじ任命にんめいであり、任命にんめいされた事態じたいは、ひがし蝦夷えぞたいする遠征えんせい南西なんせい隼人はやと外国がいこくたいする遠征えんせい天皇てんのう行幸ぎょうこう護衛ごえい外国がいこく使節しせつ蝦夷えぞ隼人はやと迎接げいせつよっつである。かく将軍しょうぐんはそれぞれことなる称号しょうごうかんし、たんなる「将軍しょうぐん」だけのかんめいはなかった。例示れいじすれば、たい蝦夷えぞせんでは陸奥むつ鎮東将軍しょうぐんせい越後えちご蝦夷えぞ将軍しょうぐんせい狄将ぐんせいひがし将軍しょうぐんせいえびす将軍しょうぐんなど、たい隼人はやとせんでは討卑賊将ぞくしょうぐんせい隼人はやと節度せつど大将軍だいしょうぐん外国がいこくにはせいしん大将軍だいしょうぐんなど、行幸ぎょうこう迎接げいせつではひだり将軍しょうぐんみぎ将軍しょうぐん御前ごぜん騎兵きへい将軍しょうぐん騎兵きへい将軍しょうぐん騎兵きへい大将軍だいしょうぐんなどである。ただいち常設じょうせつされたのが鎮守ちんじゅ将軍しょうぐんのち鎮守ちんじゅ将軍しょうぐん)で、蝦夷えぞたいする防備ぼうびについた。

常置じょうちされた武官ぶかんには近衛府このえふ兵衛ひょうえがあり、とく顕官けんかんである近衛このえ大将たいしょうは「将軍しょうぐん」とばれた[22]唐名とうみょうには「親衛しんえい大将軍だいしょうぐん羽林はばやし大将軍だいしょうぐんせんうし大将軍だいしょうぐんからきば大将軍だいしょうぐん」がある。また兵衛ひょうえ次官じかんである兵衛ひょうえ唐名とうみょうも「たけまもる将軍しょうぐん」である[22]

中世ちゅうせい[編集へんしゅう]

東国とうごく武家ぶけ政権せいけんきずいたみなもと頼朝よりともは、みぎ近衛このえ大将たいしょう辞任じにんしてからのち、「大将軍だいしょうぐん」の地位ちいのぞんだ[22]頼朝よりとも要請ようせいけた朝廷ちょうてい先例せんれい調査ちょうさし、1192ねん征夷大将軍せいいたいしょうぐんにんじた。頼朝よりとも継承けいしょうしゃである鎌倉かまくら幕府ばくふ将軍しょうぐん代々だいだい征夷大将軍せいいたいしょうぐんしょくにあり、将軍しょうぐんしょくにんじられなかったため、将軍しょうぐん征夷大将軍せいいたいしょうぐん略称りゃくしょうとして通用つうようされるようになった。将軍しょうぐん武士ぶし頂点ちょうてんにある存在そんざいとして認識にんしきされるようになり、御所ごしょ尊称そんしょうされるようになっていった。

南北なんぼくあさ時代じだいには鎮守ちんじゅ将軍しょうぐん復活ふっかつする。南朝なんちょうかた北畠きたばたけ親房ちかふさはわが北畠きたばたけ顕家あきいえ陸奥むつまもる鎮守ちんじゅ将軍しょうぐんにんぜられるにあたり、さん以上いじょう将軍しょうぐん鎮守ちんじゅ大将軍だいしょうぐんとするように奏請そうせい。これによりあらわ鎮守ちんじゅ大将軍だいしょうぐんとして記録きろくされている。しかしみなみ朝方あさがた勢力せいりょく減退げんたいともない、室町むろまち時代ときよにおいては征夷大将軍せいいたいしょうぐんである室町むろまち幕府ばくふ将軍しょうぐん存在そんざいのみとなった。このころから将軍しょうぐんして公方くぼう呼称こしょうされるようになり、鎌倉かまくら公方くぼうなどの呼称こしょう派生はせいしている。

近世きんせい[編集へんしゅう]

江戸えど幕府ばくふ初代しょだい将軍しょうぐん徳川とくがわ家康いえやす

江戸えど時代じだいにおける将軍しょうぐん征夷大将軍せいいたいしょうぐんである江戸えど幕府ばくふ将軍しょうぐんのみであった。外交がいこう呼称こしょうとして対外たいがいてきに「日本にっぽん国王こくおう」「日本にっぽん国大こくだいくん」をしょうした場合ばあいもある。

しかし、1867ねん慶応けいおう3ねん)に江戸えど幕府ばくふの15だい将軍しょうぐん徳川とくがわ慶喜よしのぶ大政奉還たいせいほうかんおこない、王政おうせい復古ふっこだい号令ごうれいにより征夷大将軍せいいたいしょうぐんしょく廃止はいしされた。その仁和寺にんなじみやよしみあきら法親王ほうしんのう征討せいとう大将軍だいしょうぐんにんぜられたが、短期間たんきかん廃止はいしされている。西欧せいおう借用しゃくようされた shogun は、とく日本にっぽん征夷大将軍せいいたいしょうぐん言葉ことばであり、江戸えど幕府ばくふ英語えいご: Tokugawa shogunate呼称こしょうされる。

きん現代げんだい[編集へんしゅう]

明治めいじ時代じだいになって近代きんだい軍制ぐんせいかれると、士官しかんはたじょうさんとう大別たいべつされ、そのさい上位じょういしょうには大将たいしょう中将ちゅうじょう少将しょうしょうさんかいきゅうかれた。このしょくにあった軍人ぐんじんはときに将軍しょうぐんとも呼称こしょうされた。三浦みうら梧楼ごろうす「観樹みき将軍しょうぐん」、はやしずくじゅうろうす「越境えっきょう将軍しょうぐん」などがある。また外国がいこく当該とうがい階級かいきゅうにある軍人ぐんじんたいしても「将軍しょうぐん」の呼称こしょう使つかれいあらわれた。自衛隊じえいたいにおいては幕僚ばくりょうちょうたるしょうはたはた将官しょうかん存在そんざいするが、通常つうじょう将軍しょうぐんとは呼称こしょうされない。

ぜん近代きんだい中国ちゅうごくにおける将軍しょうぐん[編集へんしゅう]

かんだいける将軍しょうぐんぐん指揮しきかんとして必要ひつようとき皇帝こうていによりかれたもので、最上級さいじょうきゅう大将軍だいしょうぐん三公みつきみにも匹敵ひってきする重職じゅうしょくであった。そのした驃騎将軍しょうぐんまもる将軍しょうぐんくるま将軍しょうぐんがあり、そのしたうえ将軍しょうぐんふく将軍しょうぐんなど臨時りんじ任命にんめいされるざつごう将軍しょうぐんがある。のち戦乱せんらんなどによって将軍しょうぐんごう増加ぞうかし、南朝なんちょうはりたけみかど将軍しょうぐんごう整理せいりしたさいには12はんわせて125ごう分類ぶんるい整理せいりされたという。とう時代じだいには、官職かんしょくとしての将軍しょうぐんほかたけかん称号しょうごうとしての将軍しょうぐん並存へいそんした。きたそうでは、たけかん称号しょうごうとしてのみのこされ、それもかみはじめ時代じだいはいされて「大夫たいふ」「ろう」と改称かいしょうされた。もと時代じだいかん称号しょうごうとして復活ふっかつし、つづあきら時代じだいにはそうへいかんおよびその麾下きかであるぐん指揮しきかん官職かんしょくめいとしても復活ふっかつした。きよし時代じだいには臨時りんじ官職かんしょくとして大将軍だいしょうぐん設置せっちされたことがあるものの、常設じょうせつかんにおいてはそうへいかんとしての将軍しょうぐん称号しょうごうふたたはいされて、副将ふくしょう以下いかぐん指揮しきかんおよちゅうぼうはちはたへい司令しれいかん称号しょうごうとしてのこ近代きんだいいたる。

国家こっか指導しどうしゃ敬称けいしょうとしての将軍しょうぐん[編集へんしゅう]

国際こくさいてきには、軍事ぐんじ政権せいけんいちとう独裁どくさい国家こっかにおいて最高さいこう権力けんりょくしゃが、政権せいけん掌握しょうあく当時とうじ階級かいきゅう意図いとてき名乗なのったり国民こくみんあいだ流布るふしたりしているれいがある。あるいは政権せいけん獲得かくとく軍人ぐんじんとしてのキャリアの有無うむにかかわらず将官しょうかん階級かいきゅうみずからにあたえるケースもある。

れいをあげるとパナママヌエル・ノリエガイラクサダム・フセイン北朝鮮きたちょうせんきむ日成いるそんきむ正日じょんいる父子ふしなども「将軍しょうぐん」とばれていた。存命ぞんめい人物じんぶつでは北朝鮮きたちょうせんきむただしおんがそうばれている。このうちフセインときむ正日じょんいるきむただしおん父子ふし職業しょくぎょう軍人ぐんじんとしての経歴けいれきたない。きむ日成いるそんは、朝鮮ちょうせん人民じんみん革命かくめいぐん司令しれいかんとして抗日こうにちパルチザン活動かつどうひろげたが、階級かいきゅうかった。また、きむ日成いるそん階級かいきゅう朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく大元帥だいげんすいきむ正日じょんいるきむただしおん共和きょうわこく元帥げんすいきむ正日じょんいる死後しご大元帥だいげんすい追贈ついぞう)であり、将官しょうかんではなく軍事ぐんじてき指導しどうしゃ意味いみ将軍しょうぐんしょうされていた。

きむ正日じょんいるは「将軍しょうぐんさま」(장군님、チャングンニム)ともばれるが、朝鮮半島ちょうせんはんとう北朝鮮きたちょうせん韓国かんこく)では上司じょうし上位じょういしゃたいしては肩書かたがきのしたに「さま」(、ニム)をつける習慣しゅうかんがあり、朝鮮ちょうせんでは社長しゃちょうさま(サジャンニム)、部長ぶちょうさま(ブジャンニム)、先生せんせいさま(ソンセンニム)などの言葉ことば一般いっぱんてき使用しようされている。それきむ正日じょんいるもまた、その延長線えんちょうせんじょうで「将軍しょうぐんさま」とばれているだけであり、日本語にほんごでそのまま将軍しょうぐんさまとするのは適訳てきやくではないという意見いけんもある。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 河内かわうちはるじんやまとおう - 王位おうい継承けいしょう世紀せいきひがしアジア』中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ〉、2018ねん1がつ19にちISBN 4121024702 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]