公方くぼう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

公方くぼう(くぼう)は、まえ近代きんだい日本にっぽんにおいて、国家こっかかんするおおやけ(おおやけ)のことを体現たいげんする方面ほうめんおよび国家こっかてき統治とうちけん、すなわちふる時代じだい天皇てんのうやその朝廷ちょうてい鎌倉かまくら時代ときよ室町むろまち時代ときよ将軍しょうぐん起源きげんする言葉ことばである。とく室町むろまち時代じだい後半こうはんには、将軍しょうぐん公権力こうけんりょく代行だいこうしゃとして君臨くんりんした足利あしかが将軍家しょうぐんけ一族いちぞくもの肩書かたがきとしてもちいられた。公方くぼう称号しょうごう公方くぼうごうという。また、将軍しょうぐん公方くぼう敬称けいしょうとして御所ごしょごうもちいられた[1]

沿革えんかく[編集へんしゅう]

公方くぼうごう発生はっせい[編集へんしゅう]

おおやけ中国ちゅうごくにおいてわたし内包ないほうする観念かんねんであり、日本にっぽんうところのみん国家こっか総合そうごうする意味いみがあった。日本語にほんごではこの変化へんかし、「おおやけ」は「わたし」をふくまない観念かんねん国家こっかあつか領分りょうぶん意味いみするかたりとなり、わたし対義語たいぎごとなった。このような観念かんねんは「滅私めっし奉公ほうこう」「五公五民ごこうごみん」「公私こうし混同こんどう」といったもちかたにあらわれている。

このような感覚かんかくから、古代こだいには日本にっぽんという国家こっか一身いっしん体現たいげんする存在そんざいである天皇てんのうしめ表現ひょうげんとして「おおやけ」という言葉ことば使つかわれ、天皇てんのうやそのいえ朝廷ちょうていを「公家くげ(こうけ)」あるいは「公方くぼう」と呼称こしょうする慣習かんしゅうまれた。

とく荘園しょうえんなどの私的してき所領しょりょうひろがりをせた平安へいあん時代じだい後期こうき以後いごには、国家こっかてき統治とうちけん強調きょうちょうするためにももちいられた。相対そうたいてき朝廷ちょうてい権力けんりょく低下ていかした鎌倉かまくら時代ときよ以後いごには、荘園しょうえんおおやけりょういちえん支配しはい実現じつげんさせた本所ほんじょ寺社じしゃ公家くげ)や武家ぶけなどが、その土地とち統治とうちけん保持ほじしゃとして「公方くぼう」と名乗なのれい登場とうじょうした。

さらに鎌倉かまくら幕府ばくふにおいても弘安ひろやす6ねん1283ねんごろより、執権しっけん北条ほうじょうとくむね御内おんうちじん御内おんうち御領ごりょう対抗たいこうして、皇族こうぞく将軍しょうぐんを「公方くぼう」・御家人ごけにんを「公方くぼう人々ひとびと」・関東かんとう御領ごりょうを「公方くぼう御領ごりょう」と呼称こしょうする規定きてい成立せいりつする。これは、皇族こうぞく将軍しょうぐん執権しっけん北条ほうじょう時宗じしゅうようして幕政ばくせい改革かいかくした安達あだち泰盛やすもりが、北条ほうじょう私的してき権力けんりょく幕政ばくせいへの介入かいにゅう抑制よくせいするために、幕府ばくふ主権しゅけん征夷大将軍せいいたいしょうぐんとその主従しゅうじゅう関係かんけいにある御家人ごけにんにあることをしめすために採用さいようしたといわれている。

室町むろまち幕府ばくふの「公方くぼう[編集へんしゅう]

南北なんぼくあさ時代じだい室町むろまち幕府ばくふひらいた足利尊氏あしかがたかうじ朝廷ちょうていより公方くぼうごうゆるされたことが、室町むろまち幕府ばくふ政所まんどころ執事しつじ伊勢いせ末裔まつえい江戸えど幕府ばくふ旗本はたもと伊勢いせ貞丈さだたけの『貞丈さだたけ雑記ざっき』にしるされている。しかし、たかし多分たぶん朝廷ちょうてい公家くげしょうとしての意味合いみあいがつよかった公方くぼうごう素直すなおにはよろこばなかった。たかし公方くぼうごうたまわると甲冑かっちゅうをまとうことができないとべ、辞退じたいするが、朝廷ちょうてい一旦いったんさづけたものを撤回てっかいできず、たかしあずかるかたちとなった。

以降いこう、2だい将軍しょうぐんとなった義詮よしあきら時代じだいになってももちいられることはなかった。しかし、3だい将軍しょうぐん義満よしみつ以降いこう将軍しょうぐん敬称けいしょうとして公方くぼうごう積極せっきょくてきしょうされることとなった。当初とうしょ関東かんとう管領かんりょうとして鎌倉かまくらった足利あしかが基氏もとうじも、将軍家しょうぐんけ公方くぼうしょうするようになると鎌倉かまくら公方くぼうしょうするようになった。以降いこう幕府ばくふ主宰しゅさいしゃたる将軍しょうぐんや、鎌倉かまくら公方くぼうしょうした関東かんとう足利あしかがいちぞくにより、公方くぼうごう世襲せしゅうされることとなる。鎌倉かまくら公方くぼうはさらに古河ふるかわ公方くぼう堀越ほりこし公方くぼう両家りょうけ分裂ぶんれつし、古河ふるかわ公方くぼうはさらにしょうゆみ公方くぼう分裂ぶんれつする。

その[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだいには王権おうけんをほぼすべ掌握しょうあくする将軍しょうぐん別称べっしょうとして完全かんぜん定着ていちゃくし、「公方くぼう」とえば徳川とくがわ将軍しょうぐんだけを意味いみするようになる。幕府ばくふ主宰しゅさいしゃたる武家ぶけ棟梁とうりょうは、征夷大将軍せいいたいしょうぐん宣下せんげされて敬称けいしょう上様うえさまから公方くぼうさま転化てんかすることとなり、公方くぼう朝廷ちょうてい代行だいこうしゃという意味いみつよかった。

足利あしかが一族いちぞく公方くぼう[編集へんしゅう]

将軍しょうぐんのあだ[編集へんしゅう]

公方くぼう将軍しょうぐん別称べっしょうとしてひろ使つかわれるようになったため、ときには何某なにぼう公方くぼうというように、公方くぼう揶揄やゆ批判ひはん意味いみをこめたかたりをつけたあだ庶民しょみんによってつけられてられることもあった。

べい」の漢字かんじ分解ぶんかいした「はちじゅうはち」や「八木はちぼく」から「はちじゅうはち公方くぼう」、「八木はちぼく公方くぼう」ともばれた。
  • 徳川とくがわ家重いえしげの「小便しょうべん公方くぼう
    体質たいしつ生来せいらい虚弱きょじゃく言語げんご不明瞭ふめいりょうであったことから、殿中でんちゅう小便しょうべんらしたといううわさがあった。小便しょうべんらしたかかについては不明ふめいであるが、江戸城えどじょうから上野うえの寛永寺かんえいじ出向でむ道中どうちゅうかずkm)に23箇所かしょ便所べんじょ設置せっちさせたとされ、すくなくともこの時期じき、いわゆるしき尿にょうであったことは確認かくにんできる。
  • 徳川とくがわ慶喜よしのぶの「ぶた公方くぼう
    豚肉ぶたにくこのんでしょくしたことから。大政奉還たいせいほうかん前後ぜんごまれた川柳せんりゅうに「江戸えどぶたちんされ」[2]とあり、ひろられていたことがかる。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 日本にっぽんだい辞典じてん 6』78ぺーじ
  2. ^ ちん天皇てんのうのこと。ちんちん同音どうおんであることにかけた洒落しゃれ

参照さんしょう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]