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足利あしかが義詮よしあきら

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足利あしかが 義詮よしあきら
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ末期まっき室町むろまち時代ときよ前期ぜんき(南北なんぼくあさ時代じだい中期ちゅうき)
生誕せいたん もととく2ねん6月18にち1330ねん7がつ4にち
死没しぼつ 貞治さだはる6ねん12月7にち1367ねん12月28にち[1]
改名かいめい 千寿せんじゅおう幼名ようみょう)→義詮よしあきら
別名べつめい 坊門ぼうもん殿でん
戒名かいみょう たからかたみいん殿どのどうけんみずやま[2]
墓所はかしょ 神奈川かながわけん鎌倉かまくら浄妙寺じょうみょうじ光明院こうみょういん[3]
神奈川かながわけん鎌倉かまくら瑞泉寺ずいせんじ[3]
神奈川かながわけん鎌倉かまくら円覚寺えんかくじ黄梅おうばいいん[3]
つて京都きょうと京都きょうと右京うきょう嵯峨野さがのたからかたみいん
つて静岡しずおかけん三島みしま川原かわはらだにたからきょういん
官位かんい したがえしたひだり馬頭めずしたがえよんしたひだり近衛このえ中将ちゅうじょうしたがえさん征夷大将軍せいいたいしょうぐんせいけん大納言だいなごんおくしたがえいち左大臣さだいじん
幕府ばくふ 鎌倉かまくら幕府ばくふ室町むろまち幕府ばくふ だい2だい征夷大将軍せいいたいしょうぐん
主君しゅくん 足利尊氏あしかがたかうじ後光ごこうげん天皇てんのう
氏族しぞく 足利あしかが足利あしかが将軍家しょうぐんけ
父母ちちはは ちち足利尊氏あしかがたかうじはは赤橋あかばし登子たかこ
兄弟きょうだい たけわかまる直冬ただふゆ義詮よしあきら基氏もとうじづるおうほか
つま 正室せいしつ渋川しぶかわ幸子さちこ
側室そくしつきの良子りょうこ
千寿せんじゅおう義満よしみつまんかいかしわにわきよし廷用むねたからきょうてら殿どの
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足利あしかが 義詮よしあきら(あしかが よしあきら)は、室町むろまち時代ときよ南北なんぼくあさ時代じだい)の室町むろまち幕府ばくふだい2だい征夷大将軍せいいたいしょうぐん[4]初代しょだい将軍しょうぐん足利尊氏あしかがたかうじ三男さんなん[注釈ちゅうしゃく 1]はは鎌倉かまくら幕府ばくふ最後さいご執権しっけん北条ほうじょう守時もりときいもうと正室せいしつ赤橋あかばし登子たかこ登子たかことしては長男ちょうなん)。姓名せいめいみなもと義詮よしあきら

生涯しょうがい

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幼少ようしょうから将軍しょうぐん就任しゅうにんまで

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せいけい2ねん1333ねん)、伯耆ほうきこく船上山せんじょうさんにて挙兵きょへいした後醍醐ごだいご上皇じょうこう討伐とうばつのためにちちこう尊氏たかうじ)が鎌倉かまくら幕府ばくふぐんそう大将たいしょうとして上洛じょうらくしたさいはは登子たかことともに北条ほうじょう人質ひとじちとして鎌倉かまくらかれた。

たかし丹波たんばこく幕府ばくふ反旗はんきひるがえし、京都きょうとろく探題たんだい攻略こうりゃくすると、おさな千寿せんずおう義詮よしあきら)は足利あしかが家臣かしんされ鎌倉かまくら脱出だっしゅつし、新田にった義貞よしさだ軍勢ぐんぜい合流ごうりゅう鎌倉かまくらめに参加さんかした。このさいせん寿ことぶきおうは、ちち名代なだいとして、家臣かしんらの補佐ほさにより、鎌倉かまくら参加さんか武士ぶしたいぐんちゅうじょうはつし、のち足利あしかが武家ぶけ棟梁とうりょうとして認知にんちされる端緒たんしょつくる。そして、これが新田にった義貞よしさだ足利尊氏あしかがたかうじ関係かんけい悪化あっかするもととなる。たてたけし新政しんせいでは、叔父おじ直義ただよしささえられて鎌倉かまくらかれ、たかしたてたけし政権せいけんから離反りはんすると、ちちとともに南朝なんちょうたたかい、おも鎌倉かまくらにおいて関東かんとう統治とうちした。

たかしによる幕府ばくふ開府かいふ足利あしかが執事しつじである高師直こうのもろなおたかしおとうと直義ただよし対立たいりつ激化げきかしてかんおう擾乱じょうらんこり、じき謀反ぼうほんにより直義ただよし失脚しっきゃくすると、義詮よしあきら京都きょうともどされ、直義ただよしわり幕府ばくふ政務せいむまかされる。

かんおう2ねん正平しょうへい6ねん/1351ねん)10がつには、たかし直義ただよし対抗たいこうするため義詮よしあきらとも南朝なんちょう降伏ごうぶくし、11月に年号ねんごう南朝なんちょうの「正平しょうへい」に統一とういつする正平しょうへい一統いっとうおこなわれる。翌年よくねんみなみ朝方あさがた北畠きたばたけ親房ちかふさ楠木くすのき正儀まさよしらが京都きょうと侵攻しんこうすると、義詮よしあきらきょうのがれて近江おうみこく避難ひなんした結果けっかひかりげん光明こうみょうたかしこう天皇てんのうの3上皇じょうこうおよび皇太子こうたいしちょくじん親王しんのううばわれたが、かんおう年号ねんごう復活ふっかつさせるとともにへいつのって京都きょうと奪還だっかんし、三種さんしゅ神器じんぎのない状態じょうたいあらたに後光ごこうげん天皇てんのう即位そくい実現じつげんさせる。また、文和ふみかず2ねん1353ねん)6がつ文和ふみかず4ねん1355ねん)1がつにも異母いぼけい直冬ただふゆ山名やまならの攻勢こうせいにより、一時いちじてき京都きょうとうばわれている。

将軍しょうぐん就任しゅうにん

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足利あしかが義詮よしあきらぞう[5]等持院とうじいん木像もくぞう模写もしゃしたもの

のべぶん3ねん1358ねん)4がつみことぼっし、12月に義詮よしあきら征夷大将軍せいいたいしょうぐん任命にんめいされる。このころには中国ちゅうごく地方ちほう山名やまな大内おおうちなどが向背こうはいさだまらず、九州きゅうしゅうではなつけ親王しんのうなどの南朝なんちょう勢力せいりょく健在けんざいであった。早速さっそく河内かわうち紀伊きい出兵しゅっぺいして南朝なんちょうぐん交戦こうせん赤坂あかさかじょうなどをとすが、一方いっぽう幕府ばくふないでは、のべぶん6ねん1361ねん)に細川ほそかわきよし畠山はたけやま国清くにきよ対立たいりつした仁木にき義長よしなが南朝なんちょうり、さらに執事しつじ管領かんりょう)のきよしまでもが佐々木ささきみちほまれ讒言ざんげんのために離反りはんして南朝なんちょうるなど権力けんりょく抗争こうそうえず、そのすきいてみなみ朝方あさがた一時いちじ京都きょうと奪還だっかんするなど政権せいけん流動的りゅうどうてきであった。しかし、細川ほそかわきよし畠山はたけやま国清くにきよほろぼされ、かんやすし2ねん(1362ねん)7がつきよし失脚しっきゃく以来いらい空席くうせきとなっていた管領かんりょうしょく斯波しばよししょう任命にんめいする。

貞治さだはる2ねん1363ねん)には大内おおうち山名やまな幕府ばくふ帰参きさんして政権せいけん安定あんていしはじめ、仁木にき義長よしなが桃井ももいただしつね石塔せきとう頼房よりふさ幕府ばくふ帰参きさんし、南朝なんちょうとの講和こうわすすんでいた。同年どうねん義詮よしあきら執奏しっそうにより、勅撰ちょくせん和歌集わかしゅうの19番目ばんめにあたる『しん拾遺しゅうい和歌集わかしゅう』は後光ごこうげん天皇てんのうより綸旨りんじくだった。貞治さだはる4ねん1365ねん)2がつには三条さんじょう坊門ぼうもん万里小路まりこうじ新邸しんていうつっている。このあいだ義詮よしあきら訴訟そしょう制度せいど整備せいび着手ちゃくしゅし、評定ひょうじょうしゅ引付ひきつけしゅ縮小しゅくしょうして将軍しょうぐん親裁しんさいけん拡大かくだいはかった(御前ごぜん沙汰さた)。園城寺おんじょうじ南禅寺なんぜんじあらそいでは、今川いまがわ貞世さだよめいじて園城寺おんじょうじ管理かんりする逢坂おうさかせきなどをやぶ却させた。

貞治さだはる5ねん1366ねん)に斯波しば一時いちじ失脚しっきゃくすると、細川ほそかわよりゆきこれ管領かんりょう任命にんめいした(貞治さだはるへん)。

貞治さだはる6ねん1367ねん)11月、側室そくしつきの良子りょうことのあいだまれた幼少ようしょう嫡男ちゃくなん義満よしみつ細川ほそかわよりゆきこれたくし、12月7にちやまいにより死去しきょした。享年きょうねん38[2]の2にちまえ鼻血はなぢ多量たりょう噴出ふんしゅつしたと、三条さんじょうこうただし日記にっきこう愚昧ぐまい』はつたえている。なお、同年どうねん4がつ26にちにはおとうと基氏もとうじ義詮よしあきら先立さきだって死去しきょしている。

間際まぎわ天龍寺てんりゅうじはるみょう等持寺とうじじ黙庵もくあんしゅうさとしたらい漱などの心身しんしんきよめる仏事ぶつじおこない、義詮よしあきら看取みとった(どうしゅうしん空華くうげ老師ろうし日用にちよう工夫くふうしゅう[3])。遺骨いこつ神奈川かながわけん鎌倉かまくら浄妙寺じょうみょうじ光明院こうみょういんおさめられ、神奈川かながわけん鎌倉かまくら瑞泉寺ずいせんじおよび神奈川かながわけん鎌倉かまくら円覚寺えんかくじ黄梅おうばいいん分骨ぶんこつ許可きょかされた[6]。そのてら義詮よしあきら遺命いめいにないとして分骨ぶんこつ許可きょかされなかった[6]。なお、京都きょうと京都きょうと右京うきょう嵯峨野さがのたからかたみいんおよび善入山せんにゅうやまたからかたみいんおよび静岡しずおかけん三島みしまたからきょういんにも墓標ぼひょう存在そんざいするが、史実しじつとしては不明ふめいである。

通称つうしょう邸宅ていたく

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三条さんじょう坊門ぼうもん邸宅ていたくいとなんだため「坊門ぼうもん殿でん」とばれた。また、室町むろまちあらわから「はなてい」を別邸べっていとした。のちに「はなてい」は足利あしかがよりたかしこう上皇じょうこう献上けんじょうされ仙洞せんとう御所ごしょとなったが、だい3だい将軍しょうぐん義満よしみつふたた皇室こうしつから「はなてい」をゆず御所ごしょとした。にいうはな御所ごしょである。

かんれき

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日付ひづけ旧暦きゅうれき

西暦せいれき 南朝なんちょう 北朝ほくちょう 月日つきひ 内容ないよう
1335ねん たてたけし2ねん 4がつ7にち したがえしたじょす。
1344ねん 興国こうこく5ねん かんひさし3ねん 3月16にち せいした昇叙しょうじょ
3月18にち ひだり馬頭めず任官にんかん
1347ねん 正平しょうへい2ねん 貞和さだかず3ねん 12月3にち したがえよんした昇叙しょうじょ
1350ねん 正平しょうへい5ねん かんおう元年がんねん 8がつ22にち 参議さんぎ補任ほにんし、ひだり近衛このえ中将ちゅうじょう兼任けんにん
1356ねん 正平しょうへい11ねん のべぶん元年がんねん 8がつ23にち したがえさん昇叙しょうじょ参議さんぎひだり近衛このえ中将ちゅうじょう如元。
1359ねん 正平しょうへい13ねん のべぶん3ねん 12月18にち 征夷大将軍せいいたいしょうぐん宣下せんげ
1359ねん 正平しょうへい14ねん のべぶん4ねん 2がつ4にち 武蔵むさしもり兼任けんにん
1363ねん 正平しょうへい18ねん 貞治さだはる2ねん 1がつ28にち けん大納言だいなごん転任てんにん
7がつ29にち したがえ昇叙しょうじょけん大納言だいなごん如元。
1367ねん 正平しょうへい22ねん 貞治さだはる6ねん 1がつ5にち せい昇叙しょうじょ
12月7にち 薨去こうきょ
1368ねん 正平しょうへい22ねん 貞治さだはる6ねん 12月20にち おくしたがえいち左大臣さだいじん

墓所はかしょ肖像しょうぞう木像もくぞう

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墓所はかしょ
法名ほうみょうたから篋院みず山道さんどうけん墓所はかしょ京都きょうと京都きょうときた萬年山はねやま等持院とうじいん。また、京都きょうと京都きょうと右京うきょう善入山せんにゅうやまたからかたみいん静岡しずおかけん三島みしま川原ケ谷かわはらがや福山ふくやまたからきょういんにも伝承でんしょうがある。
肖像しょうぞう
たからかたみいんほん束帯そくたい姿すがた重要じゅうよう文化財ぶんかざい
記録きろくじょうでは義詮よしあきら画像がぞうはいくつか確認かくにんできるが、現在げんざいそういいつたえられている作品さくひんは、これ以外いがいほとんどい。美術びじゅつ学者がくしゃ米倉よねくら迪夫みちおは、神護かんごてらさんぞう国宝こくほう)のひとつ「つて藤原ふじわらひかりのうぞう」について、足利あしかが義詮よしあきらぞうとする新説しんせつとなえている。でんひかりのうぞう容貌ようぼう等持院とうじいんぞう酷似こくじしており、共通きょうつう紙型しけいもと制作せいさくされた可能かのうせいたかいことが根拠こんきょである。また日本にっぽん中世ちゅうせい史家しか黒田くろだ日出男ひでおは、米倉よねくら論旨ろんし当時とうじ政治せいじ状況じょうきょうをふまえて、神護かんごてらさんぞうのうちとくにセットせい明瞭めいりょうでん源頼朝みなもとのよりともぞうでん平重盛たいらのしげもりぞうがそれぞれ足利あしかが直義ただよしぞう足利尊氏あしかがたかうじぞうとすると、のこりのでんひかりのうぞう義詮よしあきらぞうとしかかんがえられない、とろんじている[7]一方いっぽう従来じゅうらいたからかたみ院本いんぽんについてると、どう作品さくひん発見はっけんされ義詮よしあきらぞうとされたのは意外いがいあたらしく、戦後せんごになって日本にっぽん学者がくしゃ赤松あかまつ俊秀としひでによって紹介しょうかいされてからである[8]。しかし、たからかたみ院本いんぽん面貌めんぼう表現ひょうげん比較ひかくすると、等持院とうじいんぞうやあるいはつてこうのうぞうよりも、安国寺あんこくじにあるたかしぞうとの共通きょうつうせいかんじられる。また、たからかたみいん幕末ばくまつ一時いちじまったくの廃寺はいじになり、義詮よしあきらぞう大正たいしょう8ねん1917ねん)にたからかたみいん再興さいこうされたときからもたらされた蓋然性がいぜんせいたかいことから、たからかたみ院本いんぽん義詮よしあきらではなくたかしぞうである可能かのうせい指摘してきされている[9]
木像もくぞう
等持院とうじいんぞう鑁阿てらぞう瑞泉寺ずいせんじぞう
等持院とうじいんぞうは、幕末ばくまつ尊皇そんのう攘夷じょういにより尊氏たかうじ義満よしみつ木像もくぞうわせて三条さんじょう河原かわら梟首きょうしゅされたことでられる(足利あしかがさんだい木像もくぞう梟首きょうしゅ事件じけん)。

人物じんぶつ

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足利あしかが義詮よしあきら木像もくぞう等持院とうじいん

古典こてん太平たいへい』では、他者たしゃ口車くちぐるまりやすく酒色しゅしょくおぼれた愚鈍ぐどん人物じんぶつとしてえがかれているが、実際じっさいにはちちみこと不在ふざいさい半済はんせいれいはっして武家ぶけ経済けいざいりょく確保かくほする一方いっぽう異母いぼけい直冬ただふゆからの侵攻しんこうにより幕府ばくふ窮地きゅうちおちいったさいも、神南じんなんたたかから京都きょうとちゅうでの合戦かっせんでこれをやぶるなど、内政ないせい軍略ぐんりゃく功績こうせきのこしている。さらに細川ほそかわきよし失脚しっきゃく斯波しば一時いちじ失脚しっきゃく貞治さだはるへん)にじょうじて、守護しゅご勢力せいりょく抑制よくせい中央ちゅうおう将軍しょうぐん権力けんりょくたかめるなどの政治せいじりょく発揮はっきしている。また義詮よしあきら時代じだい大内おおうち弘世ひろよ山名やまな有力ゆうりょく守護しゅごをはじめ、仁木にき義長よしなが桃井ももいただしつね石塔せきとう頼房よりふさ幕府ばくふ帰参きさんしており、その治世ちせい南北なんぼくあさ動乱どうらんをほぼ終熄しゅうそくさせて幕府ばくふ政治せいじ安定あんていをもたらしたことも無視むしできない。奥州おうしゅうには石橋いしばしとうよしを、九州きゅうしゅうには斯波しばけい渋川しぶかわ義行よしゆき派遣はけんしたが、九州きゅうしゅう平定へいてい実現じつげんしなかった。『太平たいへい』は、義詮よしあきらぼっ細川ほそかわよりゆきこれ管領かんりょう就任しゅうにんするあきらまきだいさんじゅうなな)で物語ものがたりえている。

尊氏たかうじ同様どうよう文人ぶんじんでもあり、連歌れんが和歌わかおお後世こうせいつたわっているほか貞治さだはる6ねん1367ねん)3がつには京都きょうとしん玉津島たまつしま神社じんじゃにおいてしん玉津島たまつしましゃ歌合うたあわせひらいている。また、尾道おのみち天寧寺てんねいじ建立こんりゅうした。

正室せいしつ足利あしかが一族いちぞく渋川しぶかわ幸子さちこであるが、彼女かのじょとのあいだまれた男子だんしはや逝している。そのしばらくめぐまれず、跡継あとつぎをたいためか不明ふめいであるが、公家くげむすめ天皇てんのうつかえる女官にょかんなどおおくの女性じょせいまじわり、義詮よしあきら腎虚じんきょになって寿命じゅみょうちぢめたとわれている。

伝説でんせつ

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楠木くすのき正行まさゆきとの関係かんけい

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義詮よしあきら遺言ゆいごんに「自分じぶん逝去せいきょ、かねており敬慕けいぼしていたかん林寺はやしじ現在げんざい善入山せんにゅうやまたからかたみいん)の楠木くすのき正行まさゆき楠木くすのき正成まさしげ長男ちょうなんで「小楠公しょうなんこう」と尊称そんしょうされる)のはかかたわらでねむらせたまえ」とあり、遺言ゆいごんどおり正行まさゆきはか五輪ごりん石塔せきとう)のとなりはかたからかたみしるしとう)がてられた、という伝説でんせつがある。

これは永和えいわ3ねん1377ねん)4がつたから篋院だいせい院主いんじゅけいしるしたとしょうする記事きじもとづく[3]。しかし、南北なんぼくあさ時代じだい専門せんもんとする研究けんきゅうしゃ藤田ふじた精一せいいちは、以下いかてんからこの伝説でんせつ疑問ぎもんげかけている[3]

  • 記事きじ文体ぶんたい書風しょふう南北なんぼくあさ時代じだいのものとわず、けい本人ほんにんしるとはかんがえられない[3]
  • 自称じしょうけい記事きじでは楠木くすのき正行まさゆき正平しょうへい3ねん(1348ねん)1がつ5にち黙庵もくあんしゅうさとしたから篋院だいいちせい院主いんじゅ)に参禅さんぜんし、その翌日よくじつ(6にち)に戦死せんししたとするが、史実しじつとしては1がつ5にちちゅう四條畷しじょうなわてたたか戦死せんししており、日付ひづけ一致いっちしない[3]
  • 義詮よしあきら黙庵もくあん崇敬すうけいしており、間際まぎわなに後事こうじたくしたのはいち史料しりょうから確認かくにんできる(どうしゅうしん空華くうげ老師ろうし日用にちよう工夫くふうしゅう[3])。ただし、自称じしょうけい記事きじでは、のずっとまえのある、たまたま義詮よしあきら黙庵もくあん正行まさゆき話題わだいおよんだのを、黙庵もくあん義詮よしあきら死後しごおもして遺言ゆいごん実行じっこうしたとしており、史実しじつ状況じょうきょう一致いっちしない[3]
  • そもそも義詮よしあきら遺骨いこつおさめられたのは鎌倉かまくら浄妙寺じょうみょうじ光明こうみょういんである[6]鎌倉かまくら瑞泉寺ずいせんじ円覚寺えんかくじ黄梅おうばいいん分骨ぶんこつ許可きょかされたが、それ以外いがいてら遺命いめいにないとして分骨ぶんこつ却下きゃっかされている[6]したがって、善入山せんにゅうやまたからかたみいん足利あしかが義詮よしあきら遺骨いこつ存在そんざいしない。

ただ、足利あしかが将軍家しょうぐんけ楠木くすのき敬慕けいぼしていたのは、足利あしかがりの史書ししょ梅松うめまつろん』で楠木くすのき正成まさしげが「賢才けんさい武略ぶりゃく」として英雄えいゆうされていることなどから事実じじつである。義詮よしあきらだいいちせい院主いんじゅ黙庵もくあん崇敬すうけいしていたこともあり、そうした経緯けいいからこの伝説でんせつしょうじた可能かのうせいはある。

一方いっぽう足利あしかが将軍家しょうぐんけ仏教ぶっきょう寺院じいんかかわりを研究けんきゅうしている研究けんきゅうしゃ高鳥たかとりれんによれば、たからかたみいん元々もともと義詮よしあきらこうしょ焼香しょうこうする場所ばしょ)として等持院とうじいんない設置せっちされていたが、足利あしかが義政よしまさ時代じだい等持院とうじいんたかしこうしょ相国寺しょうこくじ創建そうけんしゃである義満よしみつ以降いこう歴代れきだいこうしょさだめられたために義詮よしあきらこうしょであるたからかたみいん等持院とうじいんそと移転いてんさせることになった。また、文正ふみまさ元年がんねん1466ねん)に実施じっしされた義詮よしあきらひゃくねん等持院とうじいんがわ資金しきん不足ふそく義政よしまさ自弁じべん開催かいさいせざるをなかったことも、義政よしまさ義詮よしあきらのための独立どくりつした寺院じいん必要ひつようせいかんじさせたという。そのさい義詮よしあきら崇敬すうけいする黙庵もくあんしゅうさとしがいた善入寺ぜんにゅうじかん林寺はやしじ)が注目ちゅうもくされ、足利あしかが将軍家しょうぐんけ庇護ひご引換ひきかえ善入寺ぜんにゅうじ施設しせつ義詮よしあきらこうしょ転用てんようされ、てらめいたからかたみいん改称かいしょうされて事実じじつじょう統合とうごうされたとされる[10]高鳥たかとりせつによれば、義詮よしあきらたからかたみいんかん林寺はやしじ善入寺ぜんにゅうじ)の直接的ちょくせつてき関係かんけいは、義詮よしあきらから100ねんった足利あしかが義政よしまさ宗教しゅうきょう政策せいさく産物さんぶつぎないことになる。

系譜けいふ

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足利あしかが義詮よしあきら系譜けいふ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. 足利あしかがよりゆき
 
 
 
 
 
 
 
8. 足利あしかが家時いえとき
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. 上杉うえすぎ重房しげふさおんな
 
 
 
 
 
 
 
4. 足利あしかがさだ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. 北条ほうじょうしげる
 
 
 
 
 
 
 
9. 北条きたじょうしげるむすめ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2. 足利尊氏あしかがたかうじ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20. 上杉うえすぎ重房しげふさ
 
 
 
 
 
 
 
10. 上杉うえすぎよりゆきじゅう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
5. 上杉うえすぎ清子きよこ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1. 足利あしかが義詮よしあきら
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. 北条ほうじょうちょう
 
 
 
 
 
 
 
12. 北条ほうじょう義宗よしむね
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
6. 北条ほうじょうひさとき
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3. 赤橋あかばし登子たかこ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


義詮よしあきらへんいみなけた人物じんぶつ

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よし」の
かい」の
補足ほそく

関連かんれん作品さくひん

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テレビドラマ

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 足利あしかがちくわかまる足利あしかが直冬ただふゆという2人ふたり庶兄いで三男さんなんとされる。
  2. ^ またどう論文ろんぶんは、ほん画像がぞう紹介しょうかいすると同時どうじ義詮よしあきらぞうとして問題もんだいなしとろんじ、この論旨ろんしひろひろまっている。
  3. ^ まごよしあつし時代じだいにおいて「斯波しば代々だいだいよし』のあたえられる」[11]明確めいかくべられていることや、あにけい氏頼うじより足利尊氏あしかがたかうじ義詮よしあきらちち)、年齢ねんれいてきわりちかおいあに)のかいけいかいしょう足利あしかが義詮よしあきらよししょう義重よししげしゅまんたねまん足利あしかが義満よしみつ義詮よしあきら)から1けていることからほぼ確実かくじつとみられる。

出典しゅってん

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  1. ^ 足利あしかが義詮よしあきら』 - コトバンク
  2. ^ a b 瀬野せの 2005, p. 177.
  3. ^ a b c d e f g h i j k 藤田ふじた精一せいいちくすのき研究けんきゅう』(ぞうていよん積善せきぜんかん、1938ねん、204–206ぺーじhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1915593/204 
  4. ^ 上田うえだただしあきら津田つだ秀夫ひでお永原ながはらけい藤井ふじい松一しょういち藤原ふじわらあきら『コンサイス日本人にっぽんじんめい辞典じてん』(だい5はん三省堂さんせいどう、2009ねん 32ぺーじ
  5. ^ いにしえ類聚るいじゅう
  6. ^ a b c d 空華くうげ老師ろうし日用にちよう工夫くふうしゅう[3]
  7. ^ 黒田くろだ日出男ひでお国宝こくほう神護かんごてらさんぞうとはなにか』角川かどかわ学芸がくげい出版しゅっぱん、2012ねんISBN 978-4-04-703509-6 
  8. ^ 赤松あかまつ俊秀としひで足利あしかが肖像しょうぞういて」『美術びじゅつ研究けんきゅう』52ごう東京とうきょう文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょ、1949ねん [注釈ちゅうしゃく 2]
  9. ^ 米倉よねくら迪夫みちお足利あしかが肖像しょうぞう --たからかたみいんぞう足利あしかが義詮よしあきらぞう中心ちゅうしんに--」(栃木とちぎ県立けんりつ博物館はくぶつかん発行はっこう編集へんしゅう開館かいかんさん周年しゅうねん特別とくべつ企画きかくてん 足利尊氏あしかがたかうじ その生涯しょうがいとゆかりの名宝めいほうてん図録ずろく、2012ねんISBN 978-4-88758-069-5)。
  10. ^ 嵯峨さがたからかたみいん成立せいりつたいはじめめぐみどおり動向どうこう」『仏教ぶっきょう史学しがく研究けんきゅう』59かん2ごう、2017ねん /所収しょしゅう:高鳥たかとり足利あしかが将軍家しょうぐんけ政治せいじ秩序ちつじょ寺院じいん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2022ねん、245-248ぺーじISBN 978-4-642-02976-6 
  11. ^ まんすみじゅんきさき日記にっき

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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