桃井ももいただしつね

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
桃井ももいただしつね
本朝ほんちょうひゃくしょうでん』より
(こちらではいみなを「なをつね」とんでいる)
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ南北なんぼくあさ時代じだい室町むろまち時代ときよ
生誕せいたん しょう
死没しぼつ 天授てんじゅ2ねん/永和えいわ2ねん6月2にち1376ねん6月27にち)?
改名かいめい さだじきはつ)→ちょくつね
別名べつめい みちこう
戒名かいみょう 興国寺こうこくじ殿どのじんさわそうただしだい禅定ぜんじょうもん 青山あおやま慈仙
墓所はかしょ 富山とやまけん富山とやま群馬ぐんまけん北群馬きたぐんまぐん吉岡よしおかまち
神奈川かながわけん横浜よこはま港北こうほく(いずれも伝承でんしょう
官位かんい 兵庫ひょうごすけ駿河するがまもる播磨はりままもる刑部おさかべ大輔だいすけたま正大せいだい
したがえじょうしたがえよんじょう
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ伊賀いが若狭わかさ越中えっちゅう守護しゅご引付ひきつけあたまじん
主君しゅくん 足利尊氏あしかがたかうじ直義ただよし直冬ただふゆ基氏もとうじ義詮よしあきら
氏族しぞく みなもとせい桃井ももい
父母ちちはは ちち桃井ももいさだよりゆき
兄弟きょうだい さだじきちょくつね直信なおのぶ桃井ももい直弘なおひろ
直和なおかずちょく直久なおひさ直政なおまさかんただしちょくふじ橋本はしもとただしやすせいくも禅師ぜんじ国泰寺くにたいじ住持じゅうじ)、養子ようし直弘なおひろ
テンプレートを表示ひょうじ

桃井ももい ただしつね(もものい ただつね)は、南北なんぼくあさ時代じだい武将ぶしょう守護しゅご大名だいみょう足利あしかが一門いちもん家臣かしんちち桃井ももいさだよりゆきおとうと直信なおのぶちょくあらわ直和なおかずちょく直久なおひさ直政なおまさかんただしちょくふじ橋本はしもとただしやすせいくも禅師ぜんじえつ中国ちゅうごく国泰寺くにたいじ住持じゅうじ)、養子ようし直弘なおひろ

桃井ももい下野げや足利あしかが支族しぞくで、上野うえのこく群馬ぐんまぐん桃井ももい現在げんざい群馬ぐんまけん榛東しんとうむら旧名きゅうめい桃井ももいむら)を苗字みょうじとする。 桃井ももい一族いちぞく新田にった義貞よしさだ鎌倉かまくらめに従軍じゅうぐんしたが、たてたけし新政しんせい崩壊ほうかい南朝なんちょう北朝ほくちょう双方そうほう分裂ぶんれつして南北なんぼくあさ動乱どうらんむかえた。桃井ももいただしつね直信なおのぶ兄弟きょうだいきた朝方あさがた有力ゆうりょく武将ぶしょうとしてせた。

いみなみについて[編集へんしゅう]

いみな実名じつめい)である「ちょくつね」のみは、『太平たいへい関係かんけい書物しょもつや『本朝ほんちょうひゃくしょうでん』(画像がぞう参照さんしょう)など、後世こうせい創作そうさくぶつでは「なおつね」とされることもあるが、『若狭わかさこく守護しゅごしょく次第しだい[1]なかに「桃井ももい駿河するがまもる忠常ただつね」、『若狭わかさこく今富いまとみめい領主りょうしゅ次第しだい[1]なかに「桃井ももい駿河するがまもるちゅうけい」と、いずれも誤記ごきではあるものの、「ただつね」とんでいたことがうかが[2]、『国史こくしだい辞典じてん』でももりしげるあかつきが「ちょくつねくんみは『若狭わかさこく守護しゅごしょく次第しだい』によって「ただつね」とするのが妥当だとうかんがえられる」との見解けんかいしめしている[3]。また、関東かんとうにおいて足利あしかがかたとして活動かつどうしていた茂木もきともせい茂木もき)のぐんちゅうじょうに「桃井ももい兵庫ひょうごすけさだただし」なる人物じんぶつたてたけし4ねん1337ねん9月18にちづけふくじょうしるしている[4]が、その花押かおうどう5ねん1338ねん7がつ4にちづけ書状しょじょう[5]なかちょくつね花押かおう同一どういつであることから、さだひたちょくつねどう一人物いちじんぶつであり、たてたけし4ねん9がつ18にちからよく5ねん7がつ4にちあいだに「さだただし」から「ちょくつね」に改名かいめいしたことが判明はんめいしている[6]阪田さかた雄一ゆういちによれば、このあいだたてたけし5ねん2がつ28にちに、伊勢いせから奈良ならはいった北畠きたばたけ顕家あきいえぐん奈良なら般若はんにゃざかたたかやぶったにもかかわらず、高師直こうのもろなおにその軍功ぐんこう無視むしされたので、たいする足利あしかが直義ただよしとうへの旗幟きしあきらかにし、それにともなって直義ただよし(ただよし)のへんいみなたまわって改名かいめいしたといい[2]前述ぜんじゅつのように当時とうじ史料しりょうで「ただつね」とまれていたことはこのことを裏付うらづけるものとえる。なお、「ちょく」のみについては、おとうとたちや息子むすこたちにも同様どうようのことがえる。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

生年せいねんしょう足利尊氏あしかがたかうじしたがい、のべもと元年がんねん/たてたけし3ねん1336ねんごろ下野げや上三川かみのかわしろ箕輪みのわじょう(国分寺こくぶんじまち)を拠点きょてんたたかい、のべもと2ねん/たてたけし4ねん1337ねん7がつ)にはしょう山荘さんそううちおつつま(乙女おとめ)、しん(間々田ままだ)で北朝ほくちょうかた小山こやま助力じょりょくするために派遣はけんされたぐんかん桃井ももいさだただしとして史料しりょうにあらわれる。 また高師冬こうのもろふゆらととも常陸ひたち関城せきじょう北畠きたばたけ顕家あきいえ南朝なんちょうぜい合戦かっせんしている。12月には南朝なんちょうぐん鎌倉かまくら杉本すぎもと合戦かっせん関東かんとう執事しつじ斯波しば家長かちょう壊滅かいめつさせたさいさだじききた朝方あさがた武将ぶしょうらと鎌倉かまくらからのがれている。

北朝ほくちょうかたとして[編集へんしゅう]

のべもと3ねん/こよみおう元年がんねん1338ねん正月しょうがつ23にち青野原あおのはらたたかにもくわわり、南都なんと(奈良なら)で高師直こうのもろなお軍配ぐんばいとして土岐ときよりゆきとおとも顕家あきいえぐんやぶり、河内かわうち敗走はいそうさせた。さらに同年どうねん2がつ28にち奈良なら般若はんにゃざかたたかいではおとうと直信なおのぶとも顕家あきいえぐん迎撃げいげきし、きょうへの進入しんにゅう阻止そしした。このさい桃井ももい兄弟きょうだい奮戦ふんせんしたきょう人々ひとびとは「桃井ももいづか」とんだという(『太平たいへい』)。同年どうねん若狭わかさ守護しゅごとなり、若狭わかさこく旅立たびだまえのべもと4ねん/こよみおう2ねん1339ねん領地りょうちのあった武蔵むさしこく榛沢はんざわぐん深谷ふかや)に赤城山あかぎやま多門院たもんいんぶくおうてら別名べつめい福王寺ふくおうじ)を朝恵あさえ僧都そうず開山かいさんをした。

興国こうこく元年がんねん/こよみおう3ねん1340ねんごろ伊賀いが守護しゅご、ついで興国こうこく5ねん/かんひさし3ねん1344ねん)に越中えっちゅう守護しゅご補任ほにんされた。越中えっちゅうしょうしろ千代ちよさまじょうぬの市城いちしろ津毛つげじょうきずき、越中えっちゅう支配しはい拠点きょてんとした。

興国こうこく2ねん/こよみおう4ねん1341ねん3月24にち出雲いずもこく隠岐おきこく守護しゅご塩冶えんや高貞たかさだ京都きょうと出奔しゅっぽんすると、足利あしかが直義ただよしによって山名やまなとも追討ついとうぐん主将しゅしょうえらばれ、数日すうじつのうちにこうさだ自害じがいみ、討伐とうばつ成功せいこうさせた(『もりこよみおう4ねん3がつ25にちじょうおよび同月どうげつ29にちじょう[7]

かんおう擾乱じょうらん直義ただよし急先鋒きゅうせんぽう[編集へんしゅう]

正平しょうへい5ねん/かんおう元年がんねん1350ねん)に関東かんとうでは南朝なんちょう勢力せいりょくが討滅されたころから室町むろまち幕府ばくふない尊氏たかうじ執事しつじ高師直こうのもろなおたかしおとうと直義ただよしとのあいだ対立たいりつがおこり、10月には武力ぶりょく衝突しょうとつ発展はってんしていった。(かんおう擾乱じょうらん)。兄弟きょうだいである桃井ももい直信なおのぶ高師直こうのもろなおにより所領しょりょうあてがわれた[注釈ちゅうしゃく 1]ことが史料しりょうにみえ、直義ただよしかたからみことかた武将ぶしょうへのみの勧誘かんゆう工作こうさくおこなわれたとみられる。

ちょくつね直義ただよし有力ゆうりょく武将ぶしょうとして北陸ほくりくから入京にゅうきょうしてよく正平しょうへい6ねん/かんおう2ねん1351ねん)の打出浜うちではまたたか尊氏たかうじ高師直こうのもろなおらをい、引付ひきつけあたまじん補任ほにんされた。しかしたかし直義ただよしこうそう再発さいはつすると、ふたたひそかに上野うえのこくもどり、勢多せたぐんなえとうしろきずき、(赤城山あかぎやまふもと拠点きょてんみことかたたたかった。出身しゅっしん桃井ももい庄一しょういちたい一族いちぞくみことかた桃井ももい義盛よしもり領地りょうちとなっていたため拠点きょてんにできず、近隣きんりん寺社じしゃ勢力せいりょく榛名はるな神社じんじゃ社家しゃけみことかた味方みかたしていたため急峻きゅうしゅんがけにある赤城あかぎ山麓さんろくったとかんがえられる。

正平しょうへい6ねん/かんおう2ねん1351ねん正月しょうがつ15にちには直義ただよしぞくして越中えっちゅうへいひきいて京都きょうとはいり、足利あしかが義詮よしあきらたたかう。また上野うえのこくもどちょく義方ぎほう長尾ちょうび大膳だいぜんとともに上野うえのこく那波なばしょう伊勢崎いせざき名和なわ)近辺きんぺん利根川とねがわあたりでみことかた宇都宮うつのみや氏綱うじつな芳賀はがぜん益子ましこさだただし山上やまかみ佐野さのらとたたかうもやぶれ、信濃しなのこく撤兵てっぺいした。11月に駿河するがこく薩埵やまで、12月には相模さがみこくかわしりたかしぐんとの決戦けっせんのぞむも、直義ただよしやぶれる。降伏ごうぶくした直義ただよし翌年よくねん2がつ鎌倉かまくらぼっすると、ちょくつね守護しゅごこく越中えっちゅう潜伏せんぷくして再起さいきはかった。

はんまく洛中らくちゅう占拠せんきょ[編集へんしゅう]

正平しょうへい10ねん/文和ふみかず4ねん1355ねん)、山名やまならとともに直義ただよし養子ようしみこと庶子しょし足利あしかが直冬ただふゆ擁立ようりつし、はん幕府ばくふ武将ぶしょう南朝なんちょう勢力せいりょくである越後えちごこくみなみ朝方あさがたをまとめていた新田にった義宗よしむねらとむすび、足利あしかが義詮よしあきらまもきょう侵攻しんこうする。

12月に真冬まふゆ越前えちぜんえて山城やましろこくはい如意嶽にょいがだけじんして山崎やまざきたたかい、東寺とうじなど洛中らくちゅうはげしい攻防こうぼうせん展開てんかいした。義詮よしあきら近江おうみのがれると一時いちじてき洛中らくちゅう占拠せんきょしたが、ふたた勢力せいりょくかえした義詮よしあきら京都きょうとわれた。

正平しょうへい17ねん/貞治さだはる元年がんねん1361ねん)6がつには信濃しなのよりえつちゅういたりよしみのへいあつめて加賀かが富樫とかしかいめる。以後いご信濃しなの越中えっちゅう合戦かっせんつづけたが、勢力せいりょく衰退すいたいけられず、鎌倉かまくら下向げこうして鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかが基氏もとうじ保護ほごけた。

南朝なんちょう帰順きじゅん[編集へんしゅう]

正平しょうへい22ねん/貞治さだはる6ねん1367ねん)、はじめぼっするとちょくつね出家しゅっけ上洛じょうらくして足利あしかが義詮よしあきら帰順きじゅんした。そして斯波しば高経たかつねしょう父子ふし失脚しっきゃく貞治さだはるへん)にともない、おとうと直信なおのぶえつちゅう守護しゅごされた。しかしよく正平しょうへい23ねん/おうやす元年がんねん1368ねん)、斯波しばよししょう幕政ばくせい復帰ふっきとも直信なおのぶ越中えっちゅう守護しゅごかれ、ちょくつねふたた越中えっちゅうはん幕府ばくふ軍事ぐんじ行動こうどう開始かいしする。この期間きかんにも南朝なんちょう帰順きじゅんしている。

正平しょうへい24ねん/おうやす2ねん1369ねん)4がつ12にち能登のとはいり、吉見よしみ氏頼うじよりぞくはたよりゆきあきら伊予いよ入道にゅうどうらとたたかう。

建徳けんとく2ねん/おうやす4ねん1371ねん)7がつちょくつねあね小路しょうじ家綱いえつな支援しえんけて飛騨ひだから越中えっちゅう礪波となみぐん進出しんしゅつし、幕府ばくふかたえつ中国ちゅうごく守護しゅご斯波しばよししょう加賀かがこく守護しゅご富樫とかしあきら能登のと守護しゅご吉見よしみ氏頼うじよりらと婦負ねいぐん長沢ながさわ現在げんざい富山とやまけん富山とやま長沢ながさわ)でちょくつねかた長沢ながさわ(土岐とき)一族いちぞくらととも合戦かっせんおこなったが大敗たいはい。さらにそう(富山とやまけん高岡たかおか)のたたかいでも敗北はいぼくし、同年どうねん8がつおなじく南朝なんちょうかた飛騨ひだ国司こくしあね小路こうじいんつなたよりに飛騨ひだこく撤兵てっぺい以後いご消息しょうそく不明ふめいとなった。

最期さいご[編集へんしゅう]

最期さいごかんしては、いくつかの伝承でんしょうつたわる。

もと播磨はりま隠棲いんせいせつ=(上野うえのこく群馬ぐんまぐん桃井ももいさと周辺しゅうへん
吉岡よしおかまちふみ榛東しんとうむら同様どうよう内容ないよう紹介しょうかいされている。
群馬ぐんまけん吉岡よしおかまちにはもと播磨はりまという地名ちめいがあり、ちょくつねがいたという。地元じもとつたわるはなしとして、正平しょうへい21ねん(1366ねん)9がつえつ中国ちゅうごく斯波しばよししょうらとのたたかいで大敗たいはいしてしまい、再起さいきかなわず故郷こきょう上野うえのこくかえり、旧領きゅうりょう桃井ももいそう近辺きんぺん隠棲いんせいしたともいわれている。
現地げんち付近ふきんにはさんこく街道かいどう沿がわ桃井ももいづかでん桃井ももいただしつねはか)とばれるふる五輪ごりんとう2がのこり、ひとつはちょくつね、もうひとつはちょくつね奥方おくがたはかといわれる。五輪ごりんとうにみだりにれたりするとなにかしらのたたりやわざわいがあるとのことで、地元じもと住民じゅうみんおそあがめられ、現在げんざい丁重ていちょうまつられている。
ちょくつねはかとして信憑しんぴょうせいたかいとかんがえられているものの、現在げんざい周辺しゅうへん住宅じゅうたく耕作こうさくになり、遺跡いせき現存げんそんしていない。
松倉まつくらしろ病死びょうしせつ=(えつ中国ちゅうごく新川しんかわぐん松倉まつくらさと鹿熊かくま
魚津うおづ紹介しょうかいされている。
地元じもとつたわるはなしとして正平しょうへい21ねん9がつえつ中国ちゅうごく斯波しばよししょうとのたたかいで大敗たいはいし、松倉まつくらしろ富山とやまけん魚津うおづ)にのがれて病死びょうしした。その斯波しばよししょうによってしろ落城らくじょうしたという。こちらではちょくつねはかのこっていない。(魚津うおづ古今ここん)
まただいひさし年間ねんかん上野うえのこく金山かなやまじょう横瀬よこせやすししげる法名ほうみょうむねとら)の客将かくしょうとなっていた、河内かわうちこくからくすのき掃部(入道にゅうどうなりかん)という武士ぶし横瀬よこせ家臣かしんらから祖先そせん功績こうせきはなしいてあらわしたといわれる『新田にった家臣かしん裔記』という書物しょもつには足利あしかが直義ただよし死後しご南朝なんちょうかたくみした桃井ももいについての記述きじゅつがあり、桃井ももいただしつねえつ中国ちゅうごく松倉まつくらじょう病死びょうししていたというむね記載きさいしている。
岩瀬いわせしろ自害じがいせつ=(えつ中国ちゅうごく婦負ねいぐん西にし岩瀬いわせ
富山とやま県立けんりつ図書館としょかんくらの『西にし岩瀬いわせ郷土きょうど』、『四方しほう郷土きょうど史話しわ』(布目ぬのめ久三きゅうぞうちょ)に、富山とやま藩士はんし野崎のさき伝助でんすけえつ中国ちゅうごく伝承でんしょう撰述せんじゅつした『喚起かんきいずみたちろく』の記録きろくとして紹介しょうかいされている。
現在げんざい岩瀬いわせしろのあった場所ばしょには江戸えど時代じだい初期しょき再建さいけんされたうみぜんてらというてらつ(富山とやま西にし岩瀬いわせていせき)。慶長けいちょう末期まっきまでにいちてらはなくなっていたとつたわる。周辺しゅうへんには耕作こうさく墓地ぼちになっており遺跡いせきはない。
この岩瀬いわせじょう越中えっちゅう守護しゅご斯波しばよししょうとのたたかいにやぶれたちょくつねのがれ、ここもめたてられてちからおよばず、嫡子ちゃくし権太郎けんたろう直政なおまさよんなんかんただし桃井ももいぬい殿どのすけ庸治ようじおにいちじゅうろう泰弘やすひろ岩瀬いわせ城主じょうしゅ小出こいでけいぐん畠山はたけやま重弘しげひろらとまくらなら自害じがいをかけた。
このさい直久なおひさしろから脱出だっしゅつし、ちょくつねくびり、放生津ほうじょうづ富山とやまけん射水いみず)にげて、かいのやまほうむった。のちここに「柳井やないいん」(りゅうせんいん)とばれたてら実在じつざいしたとあるが、関連かんれんする史跡しせきのこっておらず信憑しんぴょうせいひくい。
うみぜんてらにはちょくつね形見がたみわれた「ももひゃく夜露よつゆ」という太刀たちと「ももはなよろい」というよろい寺宝じほうとしてあった。ちょくつね子孫しそん岩瀬いわせ近隣きんりんにおり、弘治こうじ年間ねんかんえつ中国ちゅうごく能登のとこくより畠山はたけやま義則よしのり乱入らんにゅうし、日蓮宗にちれんしゅう改宗かいしゅういたため、これに反発はんぱつした寺院じいん土豪どごうむらまでが弾圧だんあつされた。これをおそれてちょくつね子孫しそん武蔵むさしこくわらびまでのがれたという。このさい寺宝じほうももはなよろい』がされた。埼玉さいたまけん戸田とだ上戸田かみとだにある瑞光ずいこうさんうみぜんてら明治めいじ時代じだい住職じゅうしょく越谷こしがやたいしゅん)はそのわかれたてらつたえる。
長沢ながさわたたか討死うちじにせつ=(えつ中国ちゅうごく婦負ねいぐん長沢ながさわ
大山おおやままち紹介しょうかいされている。
越中えっちゅう守護しゅご斯波しばよししょうとのたたかいにおいてやぶれ、直和なおかずしたとつたわるが、実際じっさいちょくつねした。根拠こんきょはないものの、その史料しりょう登場とうじょうしないことなどから、んだとかんがえられている。またこのさい飛騨ひだ退しりぞいたのは直和なおかずとも。

子女しじょ[編集へんしゅう]

  • 息子むすこ
    • 桃井ももい直和なおかず
    • 桃井ももい直久なおひさ次男じなんつたわる。通称つうしょう大炊おおいすけ。『喚起かんきいずみたちろく』のみに記載きさいされている人物じんぶつ実在じつざいしょう
    • 桃井ももい直政なおまさ直久なおひさおとうとつたわる。『喚起かんきいずみたちろく』のみに記載きさいされている人物じんぶつ実在じつざいしょう
    • 桃井ももいただし
    • 橋本はしもとただしやす橋本はしもとしょうし、幕末ばくまつ橋本はしもとひだりないじきやす苗裔びょうえいしょうした。
    • 桃井ももいかんただしよんなんつたわる。通称つうしょう七郎しちろう、またはかんただし(やすのり)。『喚起かんきいずみたちろく』に記載きさいされている人物じんぶつ実在じつざいしょうだが、西にし岩瀬いわせ郷土きょうどにはこま山本やまもと山北やまきた住人じゅうにん田島たじまかんかいよし左衛門さえもん先祖せんぞしるされる。
    • 桃井ももい直弘なおひろちょくつね末弟ばっていではあるが、養子ようしとして処遇しょぐうされたとつたわる。
    • 桃井ももいただしふじろくなんつたわる。はは黒瀬くろせ時重ときしげおんな通称つうしょう小次郎こじろう主税しゅぜいかいちょくもと。『喚起かんきいずみたちろく』のみに記載きさいされている人物じんぶつ実在じつざいしょう
    • せいくも禅師ぜんじ高岡たかおか国泰寺こくたいじ住持じゅうじ

関連かんれん史跡しせき[編集へんしゅう]

奈良ならけん

  • 桃井ももいづか般若はんにゃざか

ちょくつね関連かんれんする寺院じいんちょくつね毘沙門天びしゃもんてん不動明王ふどうみょうおう薬師如来やくしにょらい崇敬すうけいしたとつたえ、おも真義しんぎ真言宗しんごんしゅう天台宗てんだいしゅう宗派しゅうは寺院じいんおおい。

群馬ぐんまけん

  • 金剛寺こんごうじ天台宗てんだいしゅう 群馬ぐんまけん吉岡よしおかまち南下なんか
    桃井ももいただしつね家臣かしん主従しゅうじゅう供養くようしたとつたわる五輪ごりんとうたからかたみしるしとう複数ふくすうのこされている。由来ゆらいしょう。(吉岡よしおかまち教育きょういく委員いいんかい指定してい史跡しせき)
  • 新光しんこう太平山たいへいざん善昌よしまさてら真言宗しんごんしゅう 群馬ぐんまけん桐生きりゅう新里にいさと新川しんかわ
    もと大同だいどうてらというで、新田にった義貞よしさだ藤島ふじしまたたかいでんだのち、その執事しつじであった船田ふなだ義昌よしまさ供養くようのために剃髪ていはつしててらんだ。のちに善昌よしまさてらばれる。
    足利あしかがかたとの壮絶そうぜつたたかいで最期さいごげて、南朝なんちょう尽力じんりょくした新田にった一族いちぞく家臣かしん供養くようしたさいにともにしるされた戒名かいみょうのこる。史料しりょうあらわれない一族いちぞく名前なまえ散見さんけんされるなかに 桃井ももい播磨はりままもるちょくつね青山あおやま慈仙 (戒名かいみょう) としるされている。
  • 桃井ももいづかでん桃井ももいしょうつね)(群馬ぐんまけん桐生きりゅう新里にいさと新川しんかわ
    新田にった義貞よしさだ従者じゅうしゃであった桃井ももいしょうつねは、足利あしかがかたとのたたかいでくなった新田にった義貞よしさだくびたずさかえり、善昌よしまさてら住職じゅうしょく義貞よしさだくびたくして善昌よしまさてらちかくのいしうえ自害じがいした。そのいし桃井ももい腹切はらきせきばれる。江戸えど時代じだいにはおみやがあったとされる。現在げんざいちかくにあった江戸えど時代じだい墓石はかいしならべていてある。

富山とやまけん

  • 太平山たいへいざん興国寺こうこくじ曹洞宗そうとうしゅう国泰寺こくたいじ 富山とやまぬの
    興国こうこく6ねん建立こんりゅう越中えっちゅう守護しゅごであったちょくつね開基かいきつたえる。
    開基かいきとうに「興國寺こうこくじ殿どのじんさわそうただしだい禅定ぜんじょうもん 天授てんじゅねんへいたつろくがつにち」ときざむ(位牌いはいには直和なおかず法名ほうみょうきょうぜんいん殿どのせいはし直光なおみつ禅定ぜんじょうもんちょくつねつま法名ほうみょうほうれいいん殿どの桂月けいげつ妙法みょうほう禅定ぜんじょうあまのこる)。
  • 富山とやま牧野まきの五輪ごりんとう墓所はかしょ富山とやま指定してい文化財ぶんかざい
    んぼのなかにある。ちょくつね一族いちぞくらのはかが5、6のこる。はか手前てまえには桃井ももいかね突田(かねつきだ)とばれ、中世ちゅうせいにはかね突櫓があったとつたわる。
  • 医王山いおうぜんひがしやくてら(もと真言宗しんごんしゅう 牧野まきのてらとも、富山とやま牧野まきの
    ちょくつね帰依きえしていた。
    戦禍せんかにあいてら名前なまえわった。
    放生津ほうじょうづ射水いみず近隣きんりん地名ちめい牧野ぼくや由来ゆらいする。
    牧野まきの五輪ごりんとう墓所はかしょてら眼下がんか目前もくぜんにある。
  • 五穀ごこくやまりゅうだかてら(もと真言宗しんごんしゅう 龍興寺りゅうこうじとも 富山とやま月岡つきおかまち
    ちょくつね帰依きえ祈願きがんてらにしている。
    いちせき五輪ごりんとう板碑いたび
    またきゅう寺地てらじには墓地ぼちがあり、歴代れきだい住職じゅうしょくにまじりちょくつねはかしょうする五輪ごりんとうがあるとされていたが、きゅう寺地てらち整備せいびされたあと行方ゆくえ不明ふめいのままである。
  • 月岡つきおかさん円城えんじょういん真言宗しんごんしゅう 富山とやま月岡つきおかまち
    ちょくつね伽藍がらん建立こんりゅうしたとつたわる。
    以前いぜんりゅうだかてら塔頭たっちゅうであった。

神奈川かながわけん 

末裔まつえい[編集へんしゅう]

有名ゆうめいなものに江戸えど時代じだいになってからつくられた伝承でんしょうによれば、ちょくつねまご直和なおかず)にたる桃井ももいただしかいさいわいわかまい創始そうししゃともつたえられる[8]法華宗ほっけしゅうほん門流もんりゅう開祖かいそにちたかしちょくつね後裔こうえいつたえられる。

富山とやまけん富山とやまぬの桃井ももい能登のと守護しゅご畠山はたけやま被官ひかん輪島わじま拠点きょてんいた温井ぬくいちょくつね(まさしくは直信なおのぶ)の末裔まつえい自称じしょうしたという。埼玉さいたまけん戸田とだ上戸田かみとだ金子かねこしのちょくつね末裔まつえいしょうした。また、富山大学とやまだいがく教授きょうじゅ倫理りんりがくせんもん杉本すぎもと新平しんぺい桃井ももいただしつね末裔まつえいとされる[9]

画像がぞうしゅう[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 正木まさき文書ぶんしょ新田にった岩松いわまつ文書ぶんしょないかんおう元年がんねん1350ねん)12月23にちづけの『高師直こうのもろなお奉書ほうしょ』に岩松いわまつただしこく安堵あんどじょう世良田せらだ右京うきょうあきらつづいて桃井ももい刑部おさかべ大輔だいすけ直信なおのぶ)の名前なまえがある。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b ぐんしょ類従るいじゅうだいよん所収しょしゅう
  2. ^ a b 阪田さかた、1994ねん、p.1。
  3. ^ 国史こくしだい辞典じてんだい13かん854ぺーじ桃井ももいただしつね」のこう執筆しっぴつ森茂もりもあかつき)。
  4. ^ だい日本にっぽん史料しりょうろくよん p.112、『茂木もき文書ぶんしょ』。
  5. ^ だい日本にっぽん史料しりょうろくよん p.847、『明通あけどおりてら文書ぶんしょ』。
  6. ^ だい日本にっぽん史料しりょうろくよん p.112、『花押かおうかがみ』なな P.228。
  7. ^ だい日本にっぽん史料しりょう』6へん6さつ694–696ぺーじ.
  8. ^ 国史こくしだい辞典じてんだい13かん853-854ぺーじ桃井ももいみゆきわかまる」のこう執筆しっぴつ池田いけだ廣司こうじ)。
  9. ^ 富山新聞社とやましんぶんしゃ へん越中えっちゅうひゃくいえ上巻じょうかん〉』北国きたぐに出版しゅっぱんしゃ、1973ねん、299,300ぺーじASIN B000J9DA86 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]