桃井ももい直弘なおひろ

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桃井ももい直弘なおひろ
時代じだい 南北なんぼくあさ時代じだい
別名べつめい 播磨はりままもる信濃しなのまもる二郎じろうまた二郎じろう
官位かんい 中務なかつかさしょう
氏族しぞく 清和せいわはじめ足利あしかがながれ
父母ちちはは ちち桃井ももいさだよりゆきはは秋山あきやま兵庫ひょうごかい常忠じょうちゅうむすめ
養父ようふ桃井ももいただしつね実兄じっけい
ちょくなおつねひろし
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桃井ももい 直弘なおひろ(もものい ただひろ)は、南北なんぼくあさ時代じだいえつ中国ちゅうごく武将ぶしょう足利あしかが一門いちもん[1]

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

ちち桃井ももいさだよりゆき死後しご幼少ようしょうであったことから、あにである桃井ももいただしつね三男さんなんとしてそだてられた。かんやすしさんねん(1362ねん)、ちょくつね加賀かが能登のとへと侵攻しんこうしたさい石動山せきどうさん天平てんぴょうてらもったが、能登のと守護しゅご吉見よしみ降伏ごうぶく。そのおうやす3ねん(1370)松倉まつくらしろ陥落かんらくさいにしたとも、足利あしかが義詮よしあきらいのちによりゆるされたともつたわる[2]墓所はかしょ興国寺こうこくじ

逸話いつわ[編集へんしゅう]

富山とやまけん高岡たかおか西大寺さいだいじは、代々だいだい住職じゅうしょく桃井ももい名乗なのり、桃井ももいただしつね三男さんなんつねみこと開闢かいびゃくした寺院じいんで、てらもんは、つねみことちょくつね三男さんなんであったことから、さんかりとしたとされ、直弘なおひろつねみこと比定ひていされる。

また、ちょくつねみぎけんあたまであったことから、その養子ようしとなった直弘なおひろ子孫しそん代々だいだいみぎ馬頭めず名乗なのり、室町むろまち幕府ばくふ外様とざましゅ桃井ももいみぎ馬頭めずれっせられた可能かのうせいがある[3]

子孫しそん[編集へんしゅう]

  • 桃井ももいしょうただし近衛このえすすむかんおうながさんねん越中えっちゅう長沢ながそ討死うちじに
  • 桃井ももいつねひろし加賀かがかい大善だいぜんあきら実在じつざいしょう
  • 桃井ももいしょうまごみぎ馬頭めず
  • 桃井ももい直之なおゆきまごみぎ馬頭めず
  • にちたかしまご法華宗ほっけしゅうほんもんはちひん
  • 桃井ももいただしかいさいわいわかまい創始そうししゃ一説いっせつ直弘なおひろ子孫しそんつたわる。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 桃井ももい龍一りゅういち清和せいわ源氏げんじみゆきわか桃井ももい系譜けいふ
  2. ^ 松山まつやま充宏みつひろかんおう擾乱じょうらん以後いご桃井ももい動静どうせい奉公ほうこうしゅ番頭ばんがしら桃井ももいについて-』えつちゅうだんかい富山とやまだん
  3. ^ 木下きのしたさとし室町むろまち幕府ばくふ外様とざましゅ奉公ほうこうしゅ』(どうなりしゃ中世ちゅうせい選書せんしょ