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横瀬よこせやすししげる

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横瀬よこせやすししげる
横瀬よこせやすししげる肖像しょうぞうりゅうとくてら所蔵しょぞう
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん 文明ぶんめい18ねん1486ねん
死没しぼつ 天文てんもん14ねん9月9にち1545ねん10月14にち
別名べつめい 新六郎しんろくろう通称つうしょう)、雅楽ががくすけ
戒名かいみょう りゅうとくてらかんだけむねとら居士こじ
墓所はかしょ 群馬ぐんまけん太田おおた新田にった上江田かみえだまちりゅうとくてら
官位かんい 信濃しなのまもる
主君しゅくん 岩松いわまつ昌純まさずみじゅん
氏族しぞく 横瀬よこせ
父母ちちはは 横瀬よこせけいしげる
兄弟きょうだい やすししげるいずみはじめしげるかつしげる長尾ながお憲長のりながしつ
大胡おおごしげるせいしつ
なりしげる繁雄しげおしげあらわちょうしげる
テンプレートを表示ひょうじ

横瀬よこせ やすししげる(よこせ やすしげ)は、戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう横瀬よこせ7だい当主とうしゅ

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

文明ぶんめい18ねん1486ねん)、横瀬よこせけいしげる長男ちょうなんとして誕生たんじょう[1]

だいひさし3ねん1523ねん)に武蔵むさしこくでの須賀すか合戦かっせんちちけいしげる戦死せんししたとつたわり、このさいたいしげる負傷ふしょうしたが生存せいぞんし、家督かとく相続そうぞくして当主とうしゅとなったという記録きろくがある[2]。しかしこれは横瀬よこせによる史料しりょう解釈かいしゃくあやまりで、実際じっさい須賀すか合戦かっせん康正こうせい元年がんねん1455ねん)、戦死せんししたのはたいしげる祖父そふさだこくとされ、家督かとく相続そうぞく祖父そふくにしげるのことである[3]

岩松いわまつ昌純まさずみつかえ、筆頭ひっとう家老がろうとして専権せんけんるった。このため昌純まさずみによって排斥はいせきくわだてられたが、やすししげるぎゃく昌純まさずみ殺害さつがいして、その嫡男ちゃくなんであるじゅん岩松いわまつしん当主とうしゅ擁立ようりつし、なおも専権せんけんるった。天文てんもん14ねん1545ねん)、下野げやこく壬生みぶ合戦かっせん戦死せんしした。享年きょうねん60。あと嫡男ちゃくなんなりしげるいだ。

やすししげる時代じだい岩松いわまつ事実じじつじょう横瀬よこせ傀儡かいらいし、横瀬よこせ実質じっしつてき戦国せんごく大名だいみょうたした。なりしげるだいにはじゅん殺害さつがいして金山かなやまじょううばい、横瀬よこせ由良ゆら改姓かいせいして、名実めいじつども自立じりつ上野うえのこく国人くにびととして関東かんとう戦国せんごくにおいて重要じゅうよう存在そんざいとなっていく。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 横瀬よこせこくけいともいわれる。
  2. ^ 由良ゆら文書ぶんしょ[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]
  3. ^ 群馬ぐんまけん[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]