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上野うえのこく

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上野うえのこく

-上野うえのこく
-東山ひがしやまみち
別称べっしょう うえしゅう(じょうしゅう)
うえ(じょうもう・かみつけ)
うえ(かみつけの・かみつけぬ)
所属しょぞく 東山ひがしやまみち
相当そうとう領域りょういき 群馬ぐんまけん[注釈ちゅうしゃく 1]
しょもと
国力こくりょく うえこくのち大国たいこく[注釈ちゅうしゃく 2]
距離きょり 遠国おんごく
ぐんさとかず 14ぐん102さと
国内こくない主要しゅよう施設しせつ
上野うえの国府こくふ 群馬ぐんまけん前橋まえばし
上野うえの国分寺こくぶんじ 群馬ぐんまけん前橋まえばし高崎たかさき上野うえの国分寺こくぶんじあと
上野うえの国分こくぶ尼寺あまでら 群馬ぐんまけん前橋まえばし高崎たかさき
一宮いちのみや 一之宮いちのみやぬきぜん神社じんじゃ群馬ぐんまけん富岡とみおか
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上野うえのこく(こうずけのくに[1]、かみつけぬのくに、かみつけののくに、かみつけのくに)は、かつて日本にっぽんれいせいこくひとつ。東山ひがしやまみちぞくする。おおむね現在げんざい群馬ぐんまけんにあたる。別名べつめいは、うえしゅう(じょうしゅう)、うえ(かみつけの・かみつけぬ)、うえ(じょうもう・かみつけ)など。

上野うえの」の由来ゆらい[編集へんしゅう]

もう地域ちいき変遷へんせん
4世紀せいきごろ?もう
 
 
 
 
 
 
 
 
5世紀せいきまつごろ?うえ下毛しもげ那須なす
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7世紀せいきまつうえこく下毛しもげこく
 
 
 
 
8世紀せいき初頭しょとう上野うえのこく下野げやこく
 
 
 
 
 
 
 
 
現在げんざい
都道府県とどうふけん
群馬ぐんまけん栃木とちぎけん

古代こだい関東かんとうには「もう(けの/けぬ)」および「那須なす(なす)」とばれる地域ちいきと、それぞれを拠点きょてんとする政治せいじ勢力せいりょく存在そんざいした。そして前者ぜんしゃうえした二分にぶんされて「うえ(かみつけの/かみつけぬ)」「下毛しもげ(しもつけの/しもつけぬ)」となったといわれる[2][3]もうこりについては、『常陸ひたちこく風土記ふどき』によると筑波つくばはもともとくにであるといい、このくにもう同一どういつかはしょうだが、「もうかわ」は筑波つくば西部せいぶぐん境界きょうかいとある。また『ぞく日本にっぽん』ではもう野川のがわふるくから常陸ひたちこく下総しもうさこく境界きょうかいであるとしるされているなど、もうもう野川のがわ現在げんざい鬼怒川きぬがわ)のふかかかわりがうかがわれる。『上野うえの名跡みょうせきこころざし』では下野げやこく河内かわちぐん衣川きぬがわさともうという名称めいしょう由来ゆらい推察すいさつされている。

国名こくめい上下じょうげについては、上総かずさこく下総しもうさこくなどと同様どうよういちこくを「うえ」と「した」に二分にぶんしたものとされるが、備・えつ・筑・ゆたかこえとうのように前後ぜんごけられたくにとのちがいはしょうである[4]。またこの分裂ぶんれつ史書ししょ詳細しょうさい不明ふめいで、ふるくから議論ぎろんがある(「もう#もう分裂ぶんれつ」を参照さんしょう)。

大宝たいほう律令りつりょう』の制定せいていにおいても、うえは「うえこく(かみつけの/かみつけぬ)」としてれいせいこくの1つにさだめられた[5]。そのうえこく下毛しもげこく国名こくめいは「上野うえのこく」・「下野げやこく」とあらためられた。このさい、「」のえたものの「こうずのくに」としてみにその名残なごりをとどめている。「うえ(じょうもう)」という別称べっしょういまでももちいられている。なお「かみつけ」からの転訛てんかであるが、みは慣用かんようてきに「こうづけ」でなく、よっ仮名がな混同こんどうにより(現代げんだい仮名遣かなづかいでは)「こうずけ」とられて表記ひょうきされる。

みについて、『和名わみょうしょう』には「さんまめかい乃」、『万葉集まんようしゅう』には「可美かみつとむ」「可美かみ」などがられる。どうしゅうとう国名こくめいまれた12しゅのうち11しゅまでは末尾まつびを「つとむ(ヌ)」とんでいるのにたいし「乃(ノ)」としているのは1しゅのみで[6]奈良なら時代じだいころまでは「かみつけぬ」後世こうせいに「かみつけの」とみがわったものと推定すいていされている。さらに、「よし」については「ウ」とも[注釈ちゅうしゃく 3]、「ウ」のつぎみはにごることがおおく「ヅ」となりなまって「ノ」をはぶき「カウヅケ」となったとの解釈かいしゃくがある[7]。そして、「かう〔kau〕重母音じゅうぼいん」→「こー〔kɔː〕(ちょう母音ぼいんえんくちびるしたはんこう母音ぼいん)」のように変化へんかしていったものとおもわれる。

つとむ」のみの解釈かいしゃくについては「つとむ」は万葉仮名まんようがなの「ノ(かぶとるい)」であるとし、「けぬ」は江戸えど時代じだい以来いらいあやまったみとするせつもある[8][9][10][11]。ただし、万葉集まんようしゅうでは「つとむ」はもとより「」についても「ヌ」のみにてているれいもあるため、「もう」を「けの」または「けぬ」とするれいすくなからずられる[2][12][13]

藤原ふじわらみやあと出土しゅつど木簡もっかんなかには「うえこくしゃひょう桃井ももいさと」の記載きさいられる[14]

沿革えんかく[編集へんしゅう]

日本書紀にほんしょき』によると、うえ国造くにのみやつこうえくんたかしかみ天皇てんのう長子ちょうし東国とうごく統治とうちにんじられた豊城とよきにゅう彦命とするとされる[15]。また上野うえの日本にっぽんたけたかし蝦夷えぞ平定へいていにち高見こうけんこくから西南せいなん常陸ひたちこくもどって甲斐かいこくいたり、そのきたにあってしたがわない信濃しなのおよびこしせいするため武蔵むさしおよび上野うえの経由けいゆしてうすざかのぼうすほう東南とうなん見下みおろして「われ嬬者耶」とったことでられる[15]

また、しょではうえくん仁徳天皇にんとくてんのう御世みよしんたたか捕虜ほりょたといい、またその天智天皇てんぢてんのう御世みよには百済くだらしんめられたさい百済くだら軍事ぐんじてき支援しえんするため朝鮮半島ちょうせんはんとうつかわされたという[15]。このあいだ推古天皇すいこてんのう9ねん601ねん)9がつ8にちにはしんひと間諜かんちょうしゃである迦摩おお対馬つしまとらえられ上野うえの配流はいるされており[15]上野うえのこく朝鮮半島ちょうせんはんとうふる時期じきからふかかかわりをゆうしていたことがうかがわれる。「国造くにのみやつこ本紀ほんぎ」では仁徳じんとくあさ下毛しもげ国造くにのみやつこぶんおけされたとされる。

和銅わどう4ねん(711ねん)に甘楽かんらぐん(かむらのこほり)の(おりも)・かんきゅう(からしな)・矢田やた(やた)・大家たいか(おおや)の4さと緑野りょくやぐん(みとののこほり)の武美たけみ1さと片岡かたおかぐん(かたおかのこほり)のやまとう(やまな)1さとけい6さとかくぐんから分離ぶんりされ多胡たごぐん(たごのこほり)が新設しんせつされ[16]倭名わみょう類聚るいじゅうしょう成立せいりつには碓氷うすい(うすひ)・片岡かたおか(かたおか)・甘楽かんら(かむら)・多胡たご(たご)・緑野りょくや(みとの)・(なは)・群馬ぐんま(くるま)・吾妻あづま(あかつま)・利根とね(とね)・勢多せた(せた)・(さゐ)・新田にった(にふた)・山田やまだ(やまた)・邑楽おうら(おはらき)のけい14ぐんがあった(『倭名わみょう類聚るいじゅうしょう』)。

親王しんのう任国にんごく統治とうち時代じだい[編集へんしゅう]

上野うえのこくは、はじめうえこくだったが、ひろしひとし2ねん811ねん)、大国たいこく変更へんこうとなる(『日本にっぽん』)[17]てんちょう3ねん826ねん)、上野うえのこく常陸ひたちこく上総かずさこくは、親王しんのう皇族こうぞく)が国守くにもり任命にんめいされる親王しんのう任国にんごくとなった(『類聚るいじゅうさんだいかく』)[17]。このため、上野うえのかい実際じっさい政務せいむにあたった[17]りょう産地さんちとして勅旨ちょくしまきがおかれた。

全国ぜんこくに10あまりしか現存げんそんしない奈良なら時代じだい以前いぜん石碑せきひのうち、3つが多胡たごぐんにある。藤原ふじわらみや木簡もっかんには、うえこく表記ひょうき国衙こくがのあった国府こくふ群馬ぐんまぐんにあった。現在げんざい前橋まえばし元総社もとそうじゃまち付近ふきん推定すいていされているが、その遺跡いせき所在しょざい確認かくにんするにはいたっていない。その周辺しゅうへんには国分寺こくぶんじあと国分こくぶ寺跡てらあと総社そうじゃ神社じんじゃがある。

武士ぶし進出しんしゅつ[編集へんしゅう]

てんけい年間ねんかん関東かんとう東部とうぶ内乱ないらんこした平将門たいらのまさかど上野うえの国府こくふとし、一時いちじ上野うえのこく支配しはいするが、藤原ふじわらしげるきょうによってられた。しゅうきょう子孫しそん上野うえの各地かくち進出しんしゅつし、ふちめい吾妻あづま薗田そのだ大胡おおご山上さんじょうなどの一族いちぞくかれ、有力ゆうりょく武士ぶしだんとして成長せいちょうした。

12世紀せいき初頭しょとうてんひとし元年がんねん1108ねん)、浅間あさまさん噴火ふんかにより、上野うえのこくいちえん農耕のうこう甚大じんだい被害ひがいけた。荒廃こうはいした耕地こうちは、在地ざいち領主りょうしゅだい規模きぼさい開発かいはつによってわたしりょうとなり、その権益けんえきまもるために中央ちゅうおう貴族きぞく寄進きしんされ、荘園しょうえん成立せいりつする。上野うえのこく荘園しょうえんとして、八幡やはたそうふちめいそう土井どいいずるかさそう佐貫さぬきそう吾妻あづまそう新田にったそうや、伊勢神宮いせじんぐう御厨みくりやとして玉村たまむら御厨みくりや細井ほそい御厨みくりや邑楽おうら御厨みくりやがみえる。これらの荘園しょうえん開発かいはつ成功せいこうしたのはしゅうきょうりゅう藤原ふじわらや、しん勢力せいりょくとして進出しんしゅつしたみなもと義重よししげはじまる新田にったであった。

守護しゅご統治とうち時代じだい[編集へんしゅう]

鎌倉かまくら幕府ばくふ[編集へんしゅう]

うけたまわ4ねん(1180ねん)にみなもと頼朝よりとも相模さがみこく鎌倉かまくらはい武家ぶけ政権せいけん樹立じゅりつすると、みなもと義重よししげ自立じりつ目指めざ抵抗ていこうするが、最後さいごには頼朝よりとも軍門ぐんもんくだった。また、藤原ふじわらしげるきょう系譜けいふふじせい足利あしかが足利あしかがしゅんつなは、頼朝よりともこうして没落ぼつらくした。

こうして上野うえのこく鎌倉かまくら幕府ばくふ秩序ちつじょてられた。守護しゅごとなったのは安達あだちであり、弘安ひろやす8ねん1285ねん)の霜月しもづき騒動そうどう安達あだち泰盛やすもり没落ぼつらくするまで、上野うえのこく支配しはいつづけた。その守護しゅご幕府ばくふ滅亡めつぼうまで北条ほうじょうとく宗家そうけであった。そのしたに、上野うえの武士ぶしだん御家人ごけにんとして鎌倉かまくら出仕しゅっしした。御家人ごけにんとしては、新田にった一族いちぞくをはじめ、佐貫さぬき大胡おおご山上さんじょう沼田ぬまた吾妻あづまふちめいがみえる。

元弘もとひろ3ねん1333ねん)、新田にったそう生品なましな神社じんじゃ挙兵きょへいした新田にった義貞よしさだ鎌倉かまくらめ、幕府ばくふ滅亡めつぼうさせた。

室町むろまち幕府ばくふ[編集へんしゅう]

室町むろまち幕府ばくふした上野うえの守護しゅごにんじられたのは上杉うえすぎである。八幡やはたそう守護しゅごりょうとされ、守護しゅごしょ板鼻いたはなかれた。ただし、上杉うえすぎ関東かんとう管領かんりょうねて鎌倉かまくらにおり、在地ざいち支配しはい守護しゅごだい長尾ながおまかされた。長尾ながお惣社そうしゃ白井しらいいえかれ、それぞれ上野うえの国府こくふ白井しらいしろ拠点きょてんきずいた。

関東かんとう管領かんりょう統治とうち時代じだい[編集へんしゅう]

山内やまうち上杉うえすぎ統治とうち時代じだい[編集へんしゅう]

天文てんもん15ねん1546ねん)、かわえつ夜戦やせんでの上杉うえすぎ憲政のりまさかた大敗たいはい

天文てんもん21ねん1552ねん)、平井ひらいしろ北条ほうじょう氏康うじやすとされ、関東かんとう管領かんりょう上杉うえすぎ憲政のりまさ(山内やまうち上杉うえすぎ)が敗走はいそうし、越後えちごのがれた。

天正てんしょう6ねん(1578ねん)、上杉うえすぎ謙信けんしん死去しきょを以って、関東かんとう管領かんりょう統治とうちわった。

こう北条ほうじょう統治とうち時代じだい[編集へんしゅう]

えいろく年間ねんかんこう北条ほうじょう上野うえのこく領国りょうごくした。

武田たけだ統治とうち時代じだい[編集へんしゅう]

えいろく4ねん1561ねん)に甲斐かいこく武田たけだ信玄しんげんによる西上野にしうえの侵攻しんこう結果けっか西上野にしうえの甲斐かい武田たけだ支配しはいとなり、城代じょうだいいた。

武田たけだ滅亡めつぼう[編集へんしゅう]

天正てんしょう10ねん1582ねん)、武田たけだ滅亡めつぼうすると、倉賀野くらがのしゅうけい織田おだ信長のぶながかた滝川たきがわ一益かずますしたがった。

天正てんしょう10ねん1582ねん)、神流川かんながわたたかにてこう北条ほうじょう滝川たきがわ一益かずます(織田おだ)がたたかい、こう北条ほうじょうかた勝利しょうりした。

小田原おだわら征伐せいばつ[編集へんしゅう]

天正てんしょう18ねん1590ねん)、豊臣とよとみ秀吉ひでよしによる小田原おだわら征伐せいばつおこなわれると、上野うえのこく武将ぶしょう一部いちぶこう北条ほうじょう武将ぶしょうとして小田原おだわらじょう籠城ろうじょうした。

江戸えど時代じだい[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだいには、沼田ぬまたはん前橋まえばしはん安中あんなかはん高崎たかさきはん伊勢崎いせざきはんななにちはん吉井よしいはん小幡おばたはん、および館林たてばやしはんかれた。このほか明治維新めいじいしんまで実質じっしつてき命運めいうんたもつことができなかったはんとして総社そうじゃはん那波なばはん板鼻いたはなはん矢田やたはん上野うえの豊岡とよおかはん大胡おおごはん白井しらいはん青柳あおやぎはん上里見かみさとみはんおよび篠塚しのづかはんがある。

国内こくない施設しせつ[編集へんしゅう]

すべての座標ざひょうしめした地図ちず - OSM
ぜん座標ざひょう出力しゅつりょく - KML

国府こくふ[編集へんしゅう]

宮鍋みやなべ神社じんじゃ前橋まえばし元総社もとそうじゃまち
上野うえの国府こくふ推定すいてい

群馬ぐんまぐん国府こくふむらにあったとするせつ(『上野うえの名跡みょうせきこう』)があり、のちに群馬ぐんまぐんきゅう元総社もとそうじゃむら現在げんざい群馬ぐんまけん前橋まえばし元総社もとそうじゃまち付近ふきん)の蒼海そうかい城跡じょうせきとするせつ(『群馬ぐんまぐんそん』など)が定説ていせつになったが、近藤こんどう義雄よしおによる群馬ぐんまぐん大友おおともむら現在げんざい群馬ぐんまけん前橋まえばし大友おおともまち付近ふきん)のみなみ平坦へいたんとするせつ一時いちじ定説ていせつしていた[18]

国府こくふいき確定かくていさせるため近藤こんどうせつもとづいて1961ねん昭和しょうわ36ねん)から尾崎おざきひだりゆうらによって発掘はっくつ調査ちょうさおこなわれたが、むしろ元総社もとそうじゃ地区ちくさい有力ゆうりょくという結論けつろんになった[18]。ただし、国府こくふいき国衙こくがあと不明ふめいのままである[18]

国分寺こくぶんじ国分こくぶ尼寺あまでら[編集へんしゅう]

神社じんじゃ[編集へんしゅう]

延喜えんぎ式内しきないしゃ

延喜えんぎしきかみめいちょう』には、大社たいしゃ33しゃ小社しょうしゃ99しゃけい1212しゃ記載きさいされている(「上野うえのこく式内しきないしゃ一覧いちらん参照さんしょう)。大社たいしゃ3しゃ以下いかしめすもので、すべ名神めいしん大社たいしゃである。

総社そうじゃ一宮いちのみや以下いか

中世ちゅうせい諸国しょこく一宮いちのみやせい基礎きそてき研究けんきゅう』にもとづく一宮いちのみや以下いか一覧いちらん[19]

安国寺あんこくじ利生りしょうとう[編集へんしゅう]

  • 安国寺あんこくじ:慈光山こうやまつねあきらいん安国寺あんこくじ高崎たかさきとおりまち) - 浄土宗じょうどしゅう本尊ほんぞん阿弥陀如来あみだにょらい

利生りしょうとうしょう

地域ちいき[編集へんしゅう]

領域りょういき[編集へんしゅう]

明治維新めいじいしん直前ちょくぜん領域りょういきは、現在げんざい桐生きりゅう一部いちぶひしまち全域ぜんいきおよび梅田うめだまちよん丁目ちょうめ一部いちぶ[注釈ちゅうしゃく 4])をのぞ群馬ぐんまけん全域ぜんいきと、栃木とちぎけん足利あしかが一部いちぶ南大みなみおおまち里矢場さとやばまち新宿しんじゅくまち藤本ふじもとまち荒金あらかねまち)に相当そうとうする。

かつて群馬ぐんまけん上野うえのこく完全かんぜん同一どういつ領域りょういきであったが、1959ねん昭和しょうわ34ねん)に栃木とちぎけんきゅう下野げやこく足利あしかがぐんひしむらが、1968ねん昭和しょうわ43ねん)に栃木とちぎけん安蘇あそぐん田沼たぬままちにゅう飛駒ひこま地区ちくがいずれも桐生きりゅう越境えっきょう合併がっぺい。また、1960ねん昭和しょうわ35ねん)に山田やまだぐん矢場やば川村かわむら一部いちぶ栃木とちぎけん足利あしかが編入へんにゅうされた結果けっか上野うえのこくとは完全かんぜんには一致いっちしなくなっている。群馬ぐんまけんほう上野うえのこくよりわずかに面積めんせきおおきくなっている。

ぐん[編集へんしゅう]

人口じんこう[編集へんしゅう]

  • 1721ねんとおる6ねん) - 56まん9550にん
  • 1750ねん寛延かんえい3ねん) - 57まん6075にん
  • 1756ねんたかられき6ねん) - 57まん9987にん
  • 1786ねん天明てんめい6ねん) - 52まん2869にん
  • 1792ねん寛政かんせい4ねん) - 51まん3915にん
  • 1798ねん寛政かんせい10ねん)- 51まん4172にん
  • 1804ねん文化ぶんか元年がんねん)- 49まん7034にん
  • 1822ねん文政ぶんせい5ねん) - 45まん6950にん
  • 1828ねん文政ぶんせい11ねん)- 46まん4226にん
  • 1834ねん天保てんぽう5ねん) - 45まん1830にん
  • 1840ねん天保てんぽう11ねん)- 42まん6073にん
  • 1846ねんひろし3ねん) - 42まん8092にん
  • 1872ねん明治めいじ5ねん) - 50まん7235にん

出典しゅってん: 内閣ないかく統計とうけいきょくへん速水はやみとおる復刻ふっこくばん監修かんしゅう解題かいだい、『国勢調査こくせいちょうさ以前いぜん日本人にっぽんじんこう統計とうけい集成しゅうせいまき1(1992ねんおよ別巻べっかん1(1993ねん)、東洋とうよう書林しょりん

近代きんだい以降いこう沿革えんかく[編集へんしゅう]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

国司こくし[編集へんしゅう]

国司こくし天皇てんのうより叙任じょにんされ、国内こくない政治せいじごとすべてをつかさどった。

上野うえのまもる[編集へんしゅう]

日付ひづけ旧暦きゅうれき在任ざいにん期間きかんちゅう、「 」ないは、史書ししょ在任ざいにん確認かくにんできる最後さいご年月日ねんがっぴす。

上野うえの太守たいしゅ[編集へんしゅう]

上野うえのかい[編集へんしゅう]

上野うえのじょう[編集へんしゅう]

守護しゅご[編集へんしゅう]

鎌倉かまくら幕府ばくふ[編集へんしゅう]

室町むろまち幕府ばくふ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 桐生きりゅうのうち桐生きりゅうがわ以東いとうふくまない。
  2. ^ 記紀きき』・『ろく国史こくし』でのかく811ねんひろしひとし2ねん)まではうえこく以後いご大国たいこく
  3. ^ 助動詞じょどうし「む」から「う」がまれたように、「mi(み)」の「i(い)」がれて、「m(む)」になり、さらに「ウ音便うおんびん」したものと想定そうていされる。
  4. ^ おおむ桐生きりゅうがわ以東いとう

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 上野うえのこく」『国史こくしだい辞典じてん吉川弘文館よしかわこうぶんかん
  2. ^ a b 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん』(平凡社へいぼんしゃもう(けぬ)こう
  3. ^ 国造くにのみやつこほん』(『先代せんだいきゅうこと本紀ほんぎだい10かん下毛しもげ国造くにのみやつこじょう
  4. ^ レファレンス協同きょうどうデータベース - 栃木とちぎ県立けんりつ図書館としょかん回答かいとう
  5. ^ 日本にっぽん地名ちめい 群馬ぐんまけん地名ちめい』(平凡社へいぼんしゃ上野うえのこくぶし
  6. ^ 万葉集まんようしゅう』。
  7. ^ 古事記こじきでん
  8. ^ 日本にっぽん古典こてん文学ぶんがく大系たいけいほん萬葉集まんようしゅう いち』(岩波書店いわなみしょてん昭和しょうわ32ねん)。
  9. ^ 万葉集まんようしゅう検索けんさくシステム山口大学やまぐちだいがく教育きょういく学部がくぶ)、佐佐木ささき信綱のぶつなしんくん萬葉集まんようしゅう』(岩波いわなみ文庫ぶんこ参照さんしょう
  10. ^ 大辞林だいじりん』(だいさんはんもうこう
  11. ^ 熊倉くまくら浩靖ひろやす古代こだい東国とうごく王者おうじゃ じょう研究けんきゅう 2008ねん改訂かいてい増補ぞうほばん』(雄山閣ゆうざんかく)p.5。
  12. ^ 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ、ニッポニカ・プラス(小学館しょうがくかん
  13. ^ 大辞泉だいじせん(JapanKnowledge)
  14. ^ 国史こくしだい辞典じてん』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん上野うえのこくこう
  15. ^ a b c d 日本書紀にほんしょき
  16. ^ ぞく日本にっぽん
  17. ^ a b c 太田おおた 1997, p. 3.
  18. ^ a b c 金沢かなざわ清則きよのり. “上野うえの国府こくふとその付近ふきん東山ひがしやまみち、および群馬ぐんまえきについて”. 2022ねん10がつ23にち閲覧えつらん
  19. ^ 中世ちゅうせい諸国しょこく一宮いちのみやせい基礎きそてき研究けんきゅう』(岩田いわた書院しょいん、2000ねん)pp. 276-283。
  20. ^ 吉井よしいはんりょうの「きゅうこう旧領きゅうりょう取調とりしらべちょう」の記載きさい岩鼻いわはなけんほんこうでは「角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん」の記述きじゅつによる。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]