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渡島ととうこく

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渡島ととうこく範囲はんい(1869/08/15)

渡島ととうこく(おしまのくに)は、大宝たいほう律令りつりょうくにぐんさとせい踏襲とうしゅう戊辰戦争ぼしんせんそうはこかん戦争せんそう終結しゅうけつ直後ちょくご制定せいていされた日本にっぽん地方ちほう区分くぶんくにひとつである。別称べっしょうわたししゅう(としゅう)。北海道ほっかいどう (れいせい)ふくまれた。国名こくめい北海道ほっかいどう旧称きゅうしょうあるいは北海道ほっかいどうくちしている「渡島ととう(わたりしま)」という言葉ことばみは南部なんぶ津軽つがるひとたちがこのを「おしま」とんだことに由来ゆらいみちみなみ位置いちし、現在げんざい渡島ととう総合そうごう振興しんこうきょく管内かんない檜山ひやま振興しんこうきょく管内かんないのそれぞれ南部なんぶひがし現在げんざい八雲やくもまちのうちきゅう落部おちべむら以南いなん西にしおなじくきゅう熊石くまいしまち以南いなん)にあたる。

領域りょういき[編集へんしゅう]

1869ねん明治めいじ2ねん)の制定せいてい領域りょういきは、現在げんざい北海道ほっかいどう渡島ととう総合そうごう振興しんこうきょく檜山ひやま振興しんこうきょく管内かんないから下記かきのぞいた区域くいき相当そうとうする。

沿革えんかく[編集へんしゅう]

ここでは渡島ととうこく成立せいりつまでについても記述きじゅつする。

日本書紀にほんしょき』によると、蝦夷えぞ征討せいとうさかんであった飛鳥あすか時代ときよひとし明天めいてんすめらぎのころ、阿倍比羅夫あべのひらふによる遠征えんせいがしばしばおこなわれ、ヒグマ献上けんじょうしたとあることから、渡島ととうこくいきにもおとずれたとのせつがある。このころにはすでに本州ほんしゅう北海道ほっかいどうとのあいだ交流こうりゅうがあったとられているが、10世紀せいき中葉ちゅうようから11世紀せいき後葉こうようにかけて渡島ととう半島はんとう日本海にほんかいがわではこすぶん文化ぶんか本州ほんしゅう土師器はじき文化ぶんか混合こんごうてき文化ぶんかである青苗あおなえ文化ぶんか展開てんかいしていた。青苗あおなえ文化ぶんかじんこす文人ぶんじん同様どうよう狩猟しゅりょう採集さいしゅう従事じゅうじするだけでなく、鉄器てっき生産せいさんしたり、こすぶん社会しゃかい東北とうほく北部ほくぶとの商品しょうひん交換こうかんをなかだちし、本州ほんしゅうじん婚姻こんいんむすぶこともあったと推測すいそくされる。その鎌倉かまくら末期まっきの14世紀せいき初頭しょとうには、蝦夷えぞ一類いちるいであるわたりとうという集団しゅうだんみちみなみ津軽つがるあいだ往来おうらいして交易こうえきおこなっていたという(『諏訪すわ大明神だいみょうじん絵詞えことば』にしるされた当時とうじ伝聞でんぶん)。わたりとう来歴らいれきについては、本州ほんしゅうから北海道ほっかいどうわたった和人わじん土着どちゃくしたもの(海保かいほ嶺夫みねお)、本州ほんしゅうのプロトアイヌ(齋藤さいとうあつし)、みちみなみ先住民せんじゅうみんすなわちアイヌ本州ほんしゅうから和人わじん混合こんごうした状況じょうきょう菊池きくち勇夫いさお)、青苗あおなえ文化ぶんかじん後裔こうえいそのもの(瀬川せかわ拓郎たくろう)など諸説しょせつあるが、わたりとうみちみなみ住民じゅうみんとみる立場たちばからは、渡島ととう半島はんとう松前まさきをひとつの拠点きょてんとしていたとかんがえられる。鎌倉かまくら時代じだい蝦夷えぞ沙汰さたしょく蝦夷えぞ代官だいかんとしてとくむねいえの「東夷あずまえびす成敗せいばい」すなわち蝦夷えぞ統括とうかつ現地げんち代行だいこうし、室町むろまち時代じだいにはほん将軍しょうぐんしょうして北方ほっぽう交易こうえき掌握しょうあくしていた安藤あんどうは、みちみなみわたりとう被官ひかん関係かんけいむすぶこともあったと想定そうていされる。たからおさむ元年がんねんにはみなもとよりゆき家臣かしん荒木あらき大学だいがく発見はっけんしたとされる知内しりうち温泉おんせんひらけしている。

室町むろまち時代ときよころには、渡島ととうこくいきみちみなみじゅうかんをはじめとする和人わじん拠点きょてんきずかれていた。応仁おうにんらんのちょうどじゅうねんまえ康正こうせい3ねん長禄ちょうろく元年がんねんコシャマインの蜂起ほうきがおこり和人わじん窮地きゅうちおちいったが、花沢はなざわかん館主かんしゅ蠣崎かきざきしげるうえこく守護しゅご)の客将かくしょう武田たけだ信広のぶひろ松前まさき)がコシャマイン親子おやこ危機ききだっした。18世紀せいき編纂へんさんされた松前まさきはん史書ししょ福山ふくやま』には、松前まさきつたわるどうすずめだいかわらすずりはこのあいだ文明ぶんめい17ねんきたえびす樺太からふとアイヌ)からもたらされたものとの伝承でんしょうしるされている。そのも、えいただし9ねんショヤ(庶野しょや)、コウジ(訇時)兄弟きょうだいひきいる蝦夷えぞ蜂起ほうきするなどたたかいが散発さんぱつしたが、武田たけだ信広のぶひろ嫡男ちゃくなん蠣崎かきざき光広みつひろとその義広よしひろ平定へいてい和人わじん豪族ごうぞく統一とういつもすすみ、蠣崎かきざき支配しはいけん確立かくりつしてゆく。ぶんろく元年がんねん蠣崎かきざきけいひろ豊臣とよとみ秀吉ひでよしから蝦夷えぞとうしゅとして承認しょうにんされ安東あんどうから名実めいじつともに独立どくりつ以降いこう松前まさき名乗なのるようになる。

江戸えど時代じだいはいると松前まさきはん成立せいりつ。このころ、松前まさきしろもと福山ふくやまかんきずかれている。松前まさきはん蝦夷えぞとの交易こうえき独占どくせんけんみとめられており、蝦夷えぞ各地かくちもうけた場所ばしょばれる知行ちぎょう松前まさきはん家臣かしん蝦夷えぞアイヌ)との交易こうえきおこなっていた。運上うんじょうでは撫育ぶいく政策せいさくとしてオムシャなどもおこなわれた。漁場ぎょじょう状況じょうきょうについては北海道ほっかいどうにおけるニシンりょう参照さんしょうされたい。和人わじんであった渡島ととうこくいきには茅部かやべぐん相当そうとうする地域ちいき寛政かんせい12ねんまではこかんろく場所ばしょひらかれていた。

  • はこかんろく場所ばしょ(いずれも茅部かやべぐん
小安おやす場所ばしょ・・・げん函館はこだて戸井とい小安おやす地区ちく周辺しゅうへん
戸井とい場所ばしょ・・・げん函館はこだて戸井とい地区ちく周辺しゅうへん
尻岸内しりきしない場所ばしょ・・・げん函館はこだて恵山えさん地区ちく周辺しゅうへん
尾札部おさつべ場所ばしょ・・・げん函館はこだて南茅部みなみかやべ地区ちく周辺しゅうへん
茅部かやべ場所ばしょ・・・げん茅部かやべぐん
野田のだつい場所ばしょ・・・きゅう落部おちべむらげんうみぐん八雲やくもまち野田生のだおい周辺しゅうへん

とおる16ねん1731ねん)、国後くなしりおよび択捉えとろふ首長しゅちょうらが松前まさき藩主はんしゅのもとをおとずれ、献上けんじょうひんおくった。ウイマム[* 1]交易こうえきである。 田沼たぬま意次おきつぐ時代じだい天明てんめい6ねん2がつ佐藤さとうげん六郎ろくろう幕府ばくふ提出ていしゅつした蝦夷えぞ調査ちょうさ報告ほうこくしょ(「蝦夷えぞ是迄これまで見聞けんぶんつかまつこうおもむきさるじょうこう書付かきつけ」『蝦夷えぞいちけん)で、蝦夷えぞ穀物こくもつ栽培さいばいきんじており、上川かみかわぐんいきでアイヌが米作べいさくすると、和人わじんもみたね没収ぼっしゅうつぐないさせた、と記載きさい参考さんこう:奄美あまみ群島ぐんとう歴史れきし#近世きんせい)。山中さんちゅうひえあわ栽培さいばいするものもいたという[1]事実じじつ貞享ていきょう2ねんから水田すいでんのあった亀田かめだぐんいきだい野村のむら周辺しゅうへんなど一部いちぶ例外れいがいのぞき、ほとんど米作べいさくおこなわれていなかった。渡島ととうこくいきをはじめとする松前まさきはん所領しょりょうでは、当初とうしょくら入地いりじ以外いがい蝦夷えぞおよ和人わじんにおいてきゅう相当そうとうするものとして漁場ぎょじょうおよび蝦夷えぞとの交易こうえき地域ちいきであるしょうじょう場所ばしょ)をもうけ、そこでの交易こうえきけん知行ちぎょうとして家臣かしん分与ぶんよするしょうじょう場所ばしょ知行ちぎょうせいおこなわれていたが、のち交易こうえきけんそのものを「場所ばしょ請負人うけおいにん」の名目めいもく商人しょうにん代行だいこうさせて知行ちぎょうぬし一定いってい運上うんじょうきんるという場所ばしょ請負うけおいせい移行いこうしていった。

江戸えど時代じだいから明治めいじ時代じだい初頭しょとうにかけての渡島ととうこく交通こうつうについて、陸上りくじょう交通こうつう[2]では奥州おうしゅう街道かいどうわき街道かいどうである松前まさきみち仙台せんだいから津軽海峡つがるかいきょうはさんで松前まさきはこかんまで、また松前まさきから上ノ国かみのくに江差えさし方面ほうめんへは小砂子ちいさご(ちいさご)山道さんどうが、木古内きこないから上ノ国かみのくにまでは木古内きこない山道さんどうが、はこかんから茅部かやべとうげとお鷲ノ木わしのき方面ほうめんいたみち国道こくどう5ごう前身ぜんしん)などがつうじていた。このほか幕末ばくまつになると福山ふくやま-上ノ国かみのくにあいだ山道さんどう江差えさしはこかんむすうずら山道さんどう(大野おおのえつ)従来じゅうらい茅部かやべとうげよりも距離きょりみじか藤山ふじやま-軍川いくさがわあいだ軍川いくさがわ新道しんどうなどが開削かいさくされている。また、渡島ととう国内こくない河川かせんには藩政はんせい時代じだいからはい使おけけんまでのあいだ17箇所かしょ渡船場とせんばすうがありわたぶねなども運行うんこうされていた。 海上かいじょう交通こうつう畿内きない瀬戸内せとうち地域ちいき山陰さんいん北陸ほくりく奥羽おううといった日本海にほんかいがわ地域ちいきなどとのあいだ北前きたまえせん航路こうろひらかれ、物流ぶつりゅうさかんにおこなわれた。

江戸えど時代じだい初期しょき寛永かんえい17ねん亀田かめだぐんいき茅部かやべぐんいきにまたがる駒ヶ岳こまがたけやまたい崩壊ほうかいともな噴火ふんかがありだい津波つなみ発生はっせい内浦湾うちうらわん対岸たいがん胆振いぶりこくいき多数たすう死者ししゃている。またこの噴火ふんか寛永かんえいだい飢饉ききんにも影響えいきょうあたえた。うけたまわおう2ねんにはかわ温泉おんせん発見はっけんされている。元禄げんろく7ねんにも駒ケ岳こまがたけ噴火ふんか、このときは火砕流かさいりゅうともなうものであった。(死者ししゃ行方ゆくえ不明ふめいしゃは、700にん以上いじょうといわれている。)

江戸えど時代じだい中期ちゅうきひろし元年がんねん大島おおしま噴火ふんか津波つなみ発生はっせい熊石くまいしから松前まさきにかけておおくの犠牲ぎせいしゃている。松前まさきはん公式こうしき記録きろくでは1467にん死亡しぼうおよ行方ゆくえ不明ふめいむらごと消滅しょうめつした場所ばしょもあるため、一説いっせつには、2000にん~3000にん以上いじょうとも。寛政かんせい元年がんねんクナシリ・メナシのたたかい(寛政かんせい蝦夷えぞらんのちらん平定へいてい尽力じんりょくしたアイヌおつめい(お味方みかた蝦夷えぞ)たちが松前まさきおもむき、藩主はんしゅにウィマムした。このときかれらを題材だいざいとしたえびす酋列ぞう蠣崎かきざきひびきさく)がえがかれている。

江戸えど時代じだい後期こうきとおる2ねん2がつ江戸えど幕府ばくふはこかん蝦夷えぞ奉行ぶぎょうく。これはおおやけ御料ごりょうとなっていたひがし蝦夷えぞ管轄かんかつした。同年どうねん5がつ蝦夷えぞ奉行ぶぎょうはこかん奉行ぶぎょう改称かいしょう文化ぶんか4ねん渡島ととうこくいき西にし蝦夷えぞなどもおおやけ御料ごりょうとされたため松前まさきはん陸奥みちのくこく岩代いわしろこく伊達だてぐん梁川はしかわに9せんせきうたてふうじ梁川はしかわはん)、はこかん奉行ぶぎょう松前まさき奉行ぶぎょうあらた松前まさきき、東北とうほくしょはん警固けいごたった[3]が、文政ぶんせい4ねんおおやけ御料ごりょうとなっていた渡島ととうこくいき蝦夷えぞなどを松前まさきはんりょうふく松前まさき復帰ふっき。これにともな松前まさき奉行ぶぎょうはいした。ひろし3ねん亀田かめだぐんいき東端ひがしばた恵山えさん水蒸気すいじょうき爆発ばくはつともなどろりゅう発生はっせい犠牲ぎせいしゃている。安政あんせい元年がんねんには外国がいこくせんたいする警固けいごのため松前まさきはんによって上磯かみいそぐんいき戸切とぎり陣屋じんやきずかれたが、安政あんせい2ねんはこかん開港かいこうなどの影響えいきょうで、渡島ととうこくいき乙部おとべむら以北いほく木古内きこないむら以東いとうふたたおおやけ御料ごりょうとされはこかんはこかん奉行ぶぎょうかれた。奉行ぶぎょうあずかしょ」の警固けいごは、爾志にしぐん乙部おとべむら以北いほく津軽つがるはん上磯かみいそぐん亀田かめだぐん西部せいぶ松前まさきはん亀田かめだぐん東部とうぶ茅部かやべぐん南部なんぶはんおこなった。その翌年よくねんふたた駒ケ岳こまがたけ火砕流かさいりゅうともな噴火ふんか蝦夷えぞ松前まさきかぎ通用つうようであったはこかん通宝つうほう発行はっこうされた。また、安政あんせい6~7ねんにはみる温泉おんせん発見はっけんされている。元治もとはる元年がんねんはこかん奉行ぶぎょうしょ五稜郭ごりょうかくうつした。

戊辰戦争ぼしんせんそうのころ、慶応けいおう4ねん明治めいじしん政府せいふによってはこかん奉行ぶぎょうはこかん裁判所さいばんしょはこかん)がかれ、また、松前まさきはんかんじょううつかんはんとなる。かんはんは、はこかんわん海戦かいせんなどのおこなわれたはこかん戦争せんそうきゅう幕府ばくふぐん蝦夷えぞ共和きょうわこく)とたたかっている。蝦夷えぞ共和きょうわこく外国がいこくとの条約じょうやくむすんでいたため、ガルトネル開墾かいこん条約じょうやく事件じけん原因げんいんともなった。はこかん戦争せんそう終結しゅうけつはこかんけんきゅうはこかん)ははいされあらたに開拓かいたく使はこかんかれた。

国内こくない施設しせつ[編集へんしゅう]

寺院じいん[編集へんしゅう]

嘉吉よしきち3ねん開山かいさんされた檜山ひやまぐんうえこくてらにある本堂ほんどうは、現存げんそんするなか北海道ほっかいどう最古さいこ建築けんちくぶつである。このほか室町むろまち時代ときよ後志しりべこく奥尻おくしりぐんよりうつった津軽つがるぐんほうげんてら江戸えど時代じだい開山かいさんしたりゅうくもいん真宗しんしゅう大谷おおや函館はこだて別院べついん、その爾志にしぐんかどあきらあん法蔵寺ほうぞうじ無量寺むりょうじなどがある。

神社じんじゃ[編集へんしゅう]

渡島ととうこくへの和人わじん進出しんしゅつふるく、それぞれ北海道ほっかいどう最古さいこ神社じんじゃ姥神うばがみ大神宮だいじんぐうふねたましい神社じんじゃ鎌倉かまくら時代ときよ以前いぜんの、函館はこだて八幡宮はちまんぐう伊勢神宮いせじんぐう御霊みたまぶんまつしたとつたわる山上さんじょう大神宮だいじんぐう室町むろまち時代ときよ創建そうけん伊勢神宮いせじんぐう大麻たいま(おさつ)をまつるとつたわる徳山とくやま大神宮だいじんぐう安土あづち桃山ももやま時代じだいには存在そんざいしていた。

総社そうじゃ一宮いちのみや以下いか

姥神うばがみ大神宮だいじんぐう徳山とくやま大神宮だいじんぐう渡島ととうこく一宮いちのみやしょうされ、また函館はこだて八幡宮はちまんぐうはかつての蝦夷えぞ総社そうじゃである。

地域ちいき[編集へんしゅう]

ぐん[編集へんしゅう]

渡島ととうこく以下いかの7ぐん構成こうせいされた。

江戸えど時代じだいはん[編集へんしゅう]

人口じんこう[編集へんしゅう]

明治めいじ5ねん(1872ねん)の人口じんこうは、7まん5830にんかぞえ、北海道ほっかいどう人口じんこうの6わりたっしていた。 その人口じんこうについては渡島ととう総合そうごう振興しんこうきょく#人口じんこう参照さんしょう

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

守護しゅご[編集へんしゅう]

室町むろまち時代じだいおもなものをげる。しげる別館べっかん大館おおだて花沢はなざわかん拠点きょてんとしていた。

したこく守護しゅごしげる別館べっかん館主かんしゅ[編集へんしゅう]

松前まさき守護しゅご大館おおだて館主かんしゅ[編集へんしゅう]

うえこく守護しゅご花沢はなざわかん館主かんしゅ[編集へんしゅう]

渡島ととうこく合戦かっせん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ ウイマムとは朝貢ちょうこう交易こうえき儀礼ぎれいで、アイヌ交易こうえき意味いみする。松前まさきはんでは「目見まみ」といい、藩主はんしゅ役人やくにんへの謁見えっけんとともにおこなわれた。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 千島ちしま列島れっとうをめぐる日本にっぽんとロシア 秋月あきづき俊幸としゆき ISBN 978-4832933866
  2. ^ 北海道ほっかいどう道路どうろ北海道庁ほっかいどうちょう 大正たいしょう14ねん(1925ねん)6がつ10日とおか出版しゅっぱん
  3. ^ 秋田あきたけん公文書こうぶんしょかん企画きかくてん 秋田あきたはん海防かいぼう警備けいび

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]