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タイ の田植 たう え。東南 とうなん アジア の稲作 いなさく では1ヘクタールに満 み たない水田 すいでん でも、田植 たう え、除草 じょそう 、収穫 しゅうかく に農業 のうぎょう 労働 ろうどう 者 しゃ が雇用 こよう されることが多 おお い
ミャンマー の水田 すいでん における農作業 のうさぎょう
稲作 いなさく (いなさく)とは、イネ (稲 いね )を栽培 さいばい することである。収穫 しゅうかく 後 ご の稲 いね からは、米 べい 、米糠 こめぬか (ぬか)、籾殻 もみがら (もみがら)、藁 わら (わら)がとれるが、主 おも に米 べい を得 え るため稲作 いなさく が行 おこな われている。
稲 いね の栽培 さいばい には水田 すいでん や畑 はたけ が利用 りよう され、それぞれの環境 かんきょう や需要 じゅよう にあった品種 ひんしゅ が用 もちい られる。水田 すいでん での栽培 さいばい は水稲 すいとう (すいとう)、畑地 はたち の栽培 さいばい は陸稲 おかぼ (りくとう、おかぼ)とよばれる。栽培 さいばい 品種 ひんしゅ は大 おお きくジャポニカ米 まい とインディカ米 まい に分 わ けることができ、ジャポニカ米 まい はさらに熱帯 ねったい ジャポニカ(ジャバニカ米 まい )と温帯 おんたい ジャポニカに区分 くぶん される。形状 けいじょう によっても、短 たん 粒 つぶ 種 しゅ 、中粒種 ちゅうりゅうしゅ 、長粒種 ちょうりゅうしゅ に分類 ぶんるい される。ジャポニカ米 まい は短 たん 粒 つぶ 種 しゅ で、インディカ米 まい は長粒種 ちょうりゅうしゅ とされるが、長粒種 ちょうりゅうしゅ のジャポニカ米 まい も存在 そんざい するため正確 せいかく ではない。
現在 げんざい は、北緯 ほくい 50度 ど から南緯 なんい 35度 ど の範囲 はんい にある世界 せかい 各 かく 地域 ちいき で栽培 さいばい されている。米 べい 生産 せいさん の約 やく 90%をアジア が占 し め、アジア以外 いがい では南 みなみ アメリカ のブラジル やコロンビア 、アフリカ のエジプト やセネガル 、マダガスカル でも稲作 いなさく が行 おこな われている。
稲作 いなさく が広 ひろ く行 おこな われた理由 りゆう として、
米 べい の味 あじ が優 すぐ れており、かつ脱穀 だっこく ・精米 せいまい ・調理 ちょうり が比較的 ひかくてき 容易 ようい である[1] 。
イネは連作 れんさく が可能 かのう で他 ほか の作物 さくもつ よりも生産 せいさん 性 せい が高 たか く、収穫 しゅうかく が安定 あんてい している(特 とく に水田 すいでん はその要素 ようそ が強 つよ い)[1] 。
施肥 せひ 反応 はんのう (適切 てきせつ に肥料 ひりょう を与 あた えた場合 ばあい の収量 しゅうりょう 増加 ぞうか )が他 た の作物 さくもつ に比 くら べて高 たか く、反対 はんたい に無 む 肥料 ひりょう で栽培 さいばい した場合 ばあい でも収量 しゅうりょう の減少 げんしょう が少 すく ない[1] 。
水田 すいでん の場合 ばあい には野菜 やさい ・魚介 ぎょかい 類 るい の供給 きょうきゅう 源 げん にもなり得 え た(『史記 しき 』貨殖 かしょく 列伝 れつでん の「稲 いね を飯 めし し魚 ぎょ を羹 あつもの にす……果 はて 隋 ずい 蠃蛤、賈を待 ま たずしてたれり」は、水田 すいでん から稲 いね だけでなく魚 さかな やタニシも瓜 ふり も得 え られるので商人 しょうにん の販売 はんばい が不要 ふよう であったと解 ほぐ される)[2] 。
などが考 かんが えられている[3] 。
この項目 こうもく では、稲 いね の栽培 さいばい 史 し である稲作 いなさく の起源 きげん について説明 せつめい しています。植物 しょくぶつ としてのイネの起源 きげん については「イネ 」をご覧 らん ください。
インド の田植 たう え
イラン 北部 ほくぶ 、マーザンダラーン州 しゅう の田植 たう え
ブラジル 南東 なんとう 部 ぶ サンパウロ州 しゅう パライーバ渓谷 けいこく の水田 すいでん
インドネシア 、ジャワ島 じゃわとう の牛 うし 耕田 こうだ
ネパール の田植 たう え
稲作 いなさく の起源 きげん 地 ち は、栽培 さいばい イネOryza sativa 1083品種 ひんしゅ とその起源 きげん 種 しゅ とされる野生 やせい イネO. rufipogon 446系統 けいとう [4] [5]
などのゲノム解析 かいせき や考古学 こうこがく 的 てき な調査 ちょうさ により、約 やく 1万 まん 年 ねん 前 まえ の中国 ちゅうごく の珠江 たまえ 中 ちゅう 流域 りゅういき [4] あるいは長江 ながえ 流域 りゅういき [6] と考 かんが えられている。
かつては雲南 うんなん 省 しょう の遺跡 いせき から発掘 はっくつ された4400年 ねん 前 まえ の試料 しりょう や遺伝 いでん 情報 じょうほう の多様 たよう 性 せい といった状況 じょうきょう から雲南 うんなん 省 しょう 周辺 しゅうへん からインド アッサム州 しゅう 周辺 しゅうへん にかけての地域 ちいき が発祥 はっしょう 地 ち とされていた[4] [7] [8] 。
ゲノム解析 かいせき の結果 けっか と、遺跡 いせき から発掘 はっくつ されたイネの遺物 いぶつ から、まず野生 やせい イネから熱帯 ねったい ジャポニカ祖先 そせん 系統 けいとう が栽培 さいばい 化 か され、それに異 こと なる野生 やせい 系統 けいとう が複 ふく 数 すう 回 かい 交配 こうはい してインディカ組成 そせい 系統 けいとう が生 しょう じ、熱帯 ねったい ジャポニカ祖先 そせん 系統 けいとう に人為 じんい 選択 せんたく が加 くわ わって温帯 おんたい ジャポニカ祖先 そせん 系統 けいとう が生 う まれたと考 かんが えられている[9] 。長江 ちょうこう 流域 りゅういき にある草鞋 わらじ 山 やま 遺跡 いせき のプラント・オパール 分析 ぶんせき によれば、約 やく 6000年 ねん 前 まえ にその地 ち ではジャポニカ米 まい が栽培 さいばい されており、インディカ米 まい の出現 しゅつげん はずっと下 くだ る[10] 。ゲノム解析 かいせき の結果 けっか から、白米 はくまい 化 か は野生 やせい イネが熱帯 ねったい ジャポニカ祖先 そせん 系統 けいとう に栽培 さいばい 化 か される過程 かてい で生 しょう じ、紫 むらさき 黒米 くろごめ と餅 もち 米 まい は熱帯 ねったい ジャポニカ祖先 そせん 系統 けいとう から生 しょう じたと考 かんが えられている[9] 。
中国 ちゅうごく では紀元前 きげんぜん 6000年 ねん から紀元前 きげんぜん 3000年 ねん までの栽培 さいばい 痕跡 こんせき は黄河 こうが 流域 りゅういき を北限 ほくげん とした地域 ちいき に限 かぎ られている。紀元前 きげんぜん 3000年 ねん 以降 いこう 山東 さんとう 半島 はんとう 先端 せんたん 部 ぶ にまで分布 ぶんぷ した。
従来 じゅうらい 、紀元前 きげんぜん 5~4世紀 せいき 頃 ごろ に水田 すいでん 稲作 いなさく から始 はじ まったとされていたが、現在 げんざい は、縄文 じょうもん 時代 じだい 後 こう 晩期 ばんき (約 やく 3000–4000年 ねん 前 まえ )には水田 すいでん 稲作 いなさく が行 おこな われていた可能 かのう 性 せい が高 たか いと考 かんが えられている[11] 。水田 すいでん 稲作 いなさく の伝来 でんらい 経路 けいろ としては、山東 さんとう 半島 はんとう から黄海 こうかい を横断 おうだん し朝鮮半島 ちょうせんはんとう を経 へ て日本 にっぽん に伝来 でんらい した経路 けいろ が有力 ゆうりょく とされる[12] が、詳細 しょうさい は後述 こうじゅつ する。近年 きんねん は、水田 すいでん 稲作 いなさく 伝来 でんらい 以前 いぜん からの熱帯 ねったい ジャポニカ種 たね の陸稲 おかぼ 栽培 さいばい の可能 かのう 性 せい が指摘 してき されるようになったが、決定的 けっていてき な証拠 しょうこ は発見 はっけん されていない。これも詳細 しょうさい は後述 こうじゅつ する。
無文 むもん 土器 どき 時代 じだい 前期 ぜんき にあたる平壌 ぴょんやん 市 し 南京 なんきん 里 さと 遺跡 いせき で発見 はっけん されたイネが最古 さいこ であるが、陸稲 おかぼ であった可能 かのう 性 せい が高 たか いとされる。水田 すいでん 稲作 いなさく に関 かん しては朝鮮半島 ちょうせんはんとう 南部 なんぶ では、3100年 ねん 前 まえ の水田 すいでん 跡 あと が慶尚南道 けいしょうなんどう 蔚山 うるさん ・オクキョン遺跡 いせき から、2500年 ねん 前 まえ の水田 すいでん 跡 あと が松 まつ 菊 きく 里 さと 遺跡 いせき で見 み つかっている。
古代 こだい の東 ひがし アジアにおける結核 けっかく は稲作 いなさく 文化 ぶんか とセットで中国 ちゅうごく から広 ひろ まったと考 かんが えられている[13] [14] [15] 。
2019年 ねん 時点 じてん では、中国 ちゅうごく ・朝鮮半島 ちょうせんはんとう ・日本 にっぽん 列島 れっとう から出土 しゅつど した人骨 じんこつ にある結核 けっかく による脊椎 せきつい カリエス の痕跡 こんせき の年代 ねんだい と場所 ばしょ の関係 かんけい から、結核 けっかく と稲作 いなさく 文化 ぶんか は長江 ちょうこう 流域 りゅういき にある広富 ひろとみ 林 りん 遺跡 いせき (現在 げんざい の上海 しゃんはい 市 し )の付近 ふきん から日本 にっぽん に伝播 でんぱ した可能 かのう 性 せい が示唆 しさ されている[14] [15] 。
東南 とうなん アジア 、南 みなみ アジア へは紀元前 きげんぜん 2500年 ねん 以降 いこう に広 ひろ まった[16] 。その担 にな い手 て はオーストロネシア語族 ごぞく を話 はな すハプログループO-M95 (Y染色 せんしょく 体 たい ) に属 ぞく する人々 ひとびと と考 かんが えられる[17] 。
東南 とうなん アジアにおいても、稲作 いなさく 文化 ぶんか と同時 どうじ に結核 けっかく も伝播 でんぱ したという指摘 してき がある[15] 。
トルコ へは中央 ちゅうおう アジアから乾燥 かんそう に比較的 ひかくてき 強 つよ い陸稲 おかぼ が伝 つた えられたと考 かんが える説 せつ や、インド からペルシャ を経由 けいゆ し水稲 すいとう が伝 つた えられたと考 かんが える説 せつ などがあるが、十分 じゅうぶん に研究 けんきゅう されておらず未 み 解明 かいめい である[18] 。
栽培 さいばい 史 し の解明 かいめい は不十分 ふじゅうぶん とされているが、現在 げんざい のアフリカ で栽培 さいばい されているイネは、地域 ちいき 固有 こゆう の栽培 さいばい 稲 いね (アフリカイネ Oryza glaberrima )とアジアから導入 どうにゅう された栽培 さいばい 稲 いね (アジアイネ Oryza sativa )である[19] 。アフリカイネの栽培 さいばい 開始 かいし 時期 じき には諸説 しょせつ 有 あ り2000年 ねん から3000年 ねん 前 まえ に、西 にし アフリカマリ共和 きょうわ 国 こく のニジェール川 がわ 内陸 ないりく 三角州 さんかくす で栽培 さいばい 化 か され、周辺 しゅうへん 国 こく のセネガル 、ガンビア 、ギニアビサウ の沿岸 えんがん 部 ぶ 、シエラレオネ へと拡散 かくさん したとされている[20] 。
アジアイネの伝来 でんらい 以前 いぜん のアフリカでは、野生 やせい 化 か していたアフリカイネの祖先 そせん 種 しゅ と考 かんが えられる一 いち 年生 ねんせい 種 しゅ O. barthii と多年生 たねんせい 種 しゅ O. longistaminata などが利用 りよう されていた。近代 きんだい 稲作 いなさく が普及 ふきゅう する以前 いぜん は、アフリカイネの浮稲型 がた や陸稲 おかぼ 型 がた 、アジアイネの水稲 すいとう 型 がた 、陸稲 おかぼ 型 がた が栽培 さいばい 地 ち に合 あ わせ選択 せんたく 栽培 さいばい されていた。植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい されていた時代 じだい は品種 ひんしゅ 改良 かいりょう も行 おこな われず稲作 いなさく 技術 ぎじゅつ に大 おお きな発展 はってん は無 な く、旧来 きゅうらい の栽培 さいばい 方式 ほうしき で行 おこな われた。また、利水 りすい 潅漑 かんがい 施設 しせつ が整備 せいび される以前 いぜん は陸稲 おかぼ 型 がた が70%程度 ていど であった。植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい が終 お わり、利水 りすい 潅漑 かんがい 施設 しせつ が整備 せいび されると低 てい 収量 しゅうりょう で脱 だっ 粒 つぶ しやすいアフリカイネは敬遠 けいえん されアジアイネに急速 きゅうそく に置 お き換 か わった[19] 。1970年代 ねんだい 以降 いこう になると、組織 そしき 的 てき なアジアイネの栽培 さいばい 技術 ぎじゅつ 改良 かいりょう と普及 ふきゅう が進 すす み生産 せいさん 量 りょう は増大 ぞうだい した。更 さら に、1990年代 ねんだい 以降 いこう はアフリカイネの遺伝 いでん 的 てき 多様 たよう 性 せい も注目 ちゅうもく される様 よう になり、鉄 てつ 過剰 かじょう 障害 しょうがい 耐 たい 性 せい 、耐 たい 病 びょう 性 せい の高 たか さを高 こう 収量 しゅうりょう 性 せい のアジアイネに取 と り込 こ んだ新 しん 品種 ひんしゅ ネリカ 米 べい が開発 かいはつ された[21] [22] 。ネリカ米 まい の特性 とくせい 試験 しけん を行 おこな った藤巻 ふじまき ら(2008)は[23] 、陸稲 おかぼ 品種 ひんしゅ の「トヨハタモチ」と比較 ひかく しネリカ米 まい の耐 たい 乾性 かんせい は同等 どうとう であるが耐 たい 塩性 えんせい に劣 おと っていると報告 ほうこく している[23] 。
イタリア、ミラノ近郊 きんこう の水田 すいでん
ロ ろ ーマ帝国 まていこく 崩壊 ほうかい 後 ご の7世紀 せいき から8世紀 せいき にムーア人 じん によってイベリア半島 はんとう にもたらされ、バレンシア 近郊 きんこう で栽培 さいばい が始 はじ まった。しばらく後 のち にはシチリア島 とう に伝播 でんぱ し、15世紀 せいき にはイタリアのミラノ 近郊 きんこう のポー河 かわ 流域 りゅういき で、主 おも に粘 ねば りけの少 すく ないインディカ種 しゅ の水田 すいでん 稲作 いなさく が行 おこな われる[24] [25] 。
13世紀 せいき にはフランスに伝 つた わり、カマルグ にて稲作 いなさく が行 おこな われた(カマルグの稲作 いなさく (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) )。元 もと は飼料 しりょう 用 よう として生産 せいさん されていたが、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう の食糧難 しょくりょうなん で人 ひと も食 た べるようになり、フランス領 りょう インドシナ から稲作 いなさく 技術 ぎじゅつ を導入 どうにゅう し品質 ひんしつ が向上 こうじょう した。フランスでの米 べい 生産 せいさん の98%を担 にな う[26] 。
16 - 17世紀 せいき にはスペイン人 じん 、ポルトガル人 じん により南北 なんぼく アメリカ大陸 あめりかたいりく に持 も ち込 こ まれ、プランテーション 作物 さくもつ となった。
この
節 ふし の
加筆 かひつ が
望 のぞ まれています。
(2014年 ねん 2月 がつ )
イネの栽培 さいばい がはじまっていたと確実視 かくじつし されるのは、水田 すいでん 遺構 いこう が発見 はっけん されている縄文 じょうもん 時代 じだい 晩期 ばんき から弥生 やよい 時代 じだい 前期 ぜんき であり、現在 げんざい まで主要 しゅよう な穀類 こくるい のひとつとしてイネは連綿 れんめん と栽培 さいばい され続 つづ けている。
日本 にっぽん 列島 れっとう における稲作 いなさく は弥生 やよい 時代 じだい に始 はじ まるというのが近代 きんだい 以降 いこう 20世紀 せいき 末 まつ まで歴史 れきし 学 がく の定説 ていせつ だった。宮城 みやぎ 県 けん の枡形 ますがた 囲 かこえ 貝塚 かいづか の土器 どき の底 そこ に籾 もみ の圧 あつ 痕 こん が付 つ いていたことを拠 よ り所 どころ にした、1925年 ねん の山内 やまうち 清男 きよお の論文 ろんぶん 「石器 せっき 時代 じだい にも稲 いね あり」が縄文 じょうもん 稲作 いなさく を指摘 してき していたが[28] 、後 のち に山内 やまうち は縄文 じょうもん 時代 じだい の稲作 いなさく には否定 ひてい 的 てき になった[29] 。しかし、1988年 ねん には、縄文 じょうもん 時代 じだい 後期 こうき から晩期 ばんき にあたる青森 あおもり 県 けん の風張 かざはり 遺跡 いせき で、約 やく 2800年 ねん 前 まえ と推定 すいてい される米 べい 粒 つぶ がみつかった[30] [31] 。さらに、近年 きんねん 、縄文 じょうもん 時代 じだい 後期 こうき かそれ以前 いぜん から稲 いね を含 ふく む農耕 のうこう があったとする説 せつ がまた唱 とな えられている。
縄文 じょうもん 時代 じだい の土 ど 層 そう の土壌 どじょう 中 ちゅう からイネのプラント・オパール (植物 しょくぶつ 珪酸 けいさん 体 たい 化石 かせき )が発見 はっけん され、縄文 じょうもん 時代 じだい から上層 じょうそう の土壌 どじょう でイネ属 ぞく 花粉 かふん が増加 ぞうか していることは、縄文 じょうもん 稲作 いなさく と整合 せいごう 的 てき である。プラント・オパールは採取 さいしゅ した層 そう 位 い から年代 ねんだい を特定 とくてい することができ、2013年 ねん にはプラント・オパール自体 じたい の年代 ねんだい を測定 そくてい する方法 ほうほう が開発 かいはつ されている[32] [33] 。縄文 じょうもん 時代 じだい 晩期 ばんき の宮崎 みやざき 県 けん 桑田 くわた 遺跡 いせき の土壌 どじょう からジャポニカ種 しゅ のプラント・オパールが得 え られた[34] 。鹿児島大学 かごしまだいがく 構内 こうない 遺跡 いせき からは縄文 じょうもん 時代 じだい 中期 ちゅうき の土 ど 層 そう からプラント・オパールが得 え られ、これが最古 さいこ のものとなる[35] 。千葉 ちば 県 けん 八千代 やちよ 市 し 新川 しんかわ 低地 ていち のボーリング調査 ちょうさ では3700年 ねん 前 まえ の土 ど 層 そう からイネ属 ぞく 花粉 かふん が出現 しゅつげん している[36] 。
ただし、攪拌により上層 じょうそう から下層 かそう への混入 こんにゅう が懸念 けねん されるため、土壌 どじょう データは証拠 しょうこ として積極 せっきょく 的 てき に採用 さいよう しない研究 けんきゅう 者 しゃ もいる[35] 。イネのプラント・オパールは20–60ミクロンと小 ちい さく、土壌 どじょう 中 ちゅう の生物 せいぶつ や植物 しょくぶつ の根 ね 系 けい などの攪拌によって下層 かそう に入 はい りこむこともあるため、即座 そくざ に発見 はっけん 土 ど 層 そう の年代 ねんだい を栽培 さいばい の時期 じき とすることはできない。鹿児島 かごしま 県 けん の遺跡 いせき では12,000年 ねん 前 まえ の薩摩 さつま 火山灰 かざんばい の下層 かそう からイネのプラント・オパールが検出 けんしゅつ されており、発見 はっけん 土 ど 層 そう の年代 ねんだい を栽培 さいばい の時期 じき とすると、稲作 いなさく 起源 きげん 地 ち と想定 そうてい されている中国 ちゅうごく 長江 ちょうこう 流域 りゅういき よりも古 ふる い年代 ねんだい となってしまう[37] 。岡山 おかやま 県 けん の朝寝 あさね 鼻 はな 貝塚 かいづか から約 やく 6000年 ねん 前 まえ のイネのプラント・オパールが見 み つかっているが、同時 どうじ にコムギのプラント・オパールも検出 けんしゅつ されており、コムギも中国 ちゅうごく よりも遥 はる かに年代 ねんだい が遡 さかのぼ ることになってしまう。
縄文 じょうもん 稲作 いなさく の有力 ゆうりょく な考古学 こうこがく 的 てき 証拠 しょうこ は、イネ籾 もみ の土器 どき 圧 あつ 痕 こん と、土器 どき 胎土 中 なか のプラント・オパールである。1991年 ねん に、縄文 じょうもん 時代 じだい 後期 こうき (約 やく 4000–3000年 ねん 前 まえ )に属 ぞく する岡山 おかやま 県 けん 南溝手 みなみみぞて 遺跡 いせき の土器 どき に籾 もみ の痕 あと が発見 はっけん された[38] [39] 。縄文 じょうもん 時代 じだい 中期 ちゅうき (約 やく 5000–4000年 ねん 前 まえ )に属 ぞく する岡山 おかやま 県 けん 美甘 みかも 村 むら 姫 ひめ 笹原 ささはら 遺跡 いせき の土器 どき 胎土内 ない 、後期 こうき に属 ぞく する南溝手 みなみみぞて 遺跡 いせき や岡山 おかやま 県 けん 津島 つしま 岡 おか 大 だい 遺跡 いせき の土器 どき 胎土内 ない から、イネのプラント・オパールが発見 はっけん された[40] 。土壌 どじょう 中 ちゅう のプラント・オパールには、攪乱 かくらん による混入 こんにゅう の可能 かのう 性 せい もある[41] が、砕 くだ いた土器 どき の中 なか から出 で たプラント・オパールは、他 た の土 ど 層 そう から入 はい り込 こ んだものではなく、原料 げんりょう の土 ど に制作 せいさく 時 じ から混 ま じっていたと考 かんが えられる[42] 。さらに、土器 どき の生地 きじ となった粘土 ねんど 中 ちゅう にイネの葉 は が含 ふく まれていたということになるが、籾 もみ と異 こと なりイネの葉 は を他 た 地域 ちいき からわざわざ持 も ち込 こ む必要 ひつよう は考 かんが えられない[38] 。
しかし、これらについても疑問 ぎもん 視 し する研究 けんきゅう 者 しゃ もいる。土器 どき の年代 ねんだい に対 たい し疑問 ぎもん が出 だ されており[43] 、籾 もみ や米 べい 粒 つぶ は外 そと から持 も ち込 こ まれた可能 かのう 性 せい もあり[44] 、籾 もみ の土器 どき 圧 あつ 痕 こん は本当 ほんとう にイネか断定 だんてい できない場合 ばあい があり[43] 、土器 どき 胎土中 ちゅう のプラント・オパールも検出 けんしゅつ できる量 りょう が僅 わず かでコンタミネーションの懸念 けねん は払拭 ふっしょく できない[45] 。多方面 たほうめん からの分析 ぶんせき が必要 ひつよう と指摘 してき されている[43] 。また、縄文 じょうもん 稲作 いなさく が行 おこな われたとするのであれば、稲作 いなさく らしい農具 のうぐ や水田 すいでん を伴 ともな わない栽培 さいばい 方法 ほうほう を考 かんが えなければならない。稲作 いなさく にともなう農具 のうぐ や水田 すいでん 址 し が見 み つかり、確実 かくじつ に稲作 いなさく がはじまったと言 い えるのは縄文 じょうもん 時代 じだい 晩期 ばんき 後半 こうはん 以降 いこう である[43] 。これは弥生 やよい 時代 じだい の稲作 いなさく と連続 れんぞく したもので、本 ほん 項目 こうもく でいう縄文 じょうもん 稲作 いなさく には、縄文 じょうもん 晩期 ばんき 後半 こうはん は含 ふく めない[46] 。
農具 のうぐ を用 もち いない稲作 いなさく として、畑 はたけ での陸稲 おかぼ 栽培 さいばい [47] 、特 とく に焼畑 やきばた 農業 のうぎょう が注目 ちゅうもく されている[48] 。弥生 やよい 時代 じだい に、現在 げんざい まで引 ひ き継 つ がれる水稲 すいとう 系 けい の温帯 おんたい ジャポニカではなく、陸稲 おかぼ が多 おお い熱帯 ねったい ジャポニカが栽培 さいばい されていた可能 かのう 性 せい が高 たか いことが指摘 してき されている[49] 。しかし、陸稲 おかぼ 栽培 さいばい を示 しめ す遺構 いこう などは発見 はっけん されておらず、熱帯 ねったい ジャポニカも水田 すいでん 耕作 こうさく が可能 かのう なため陸稲 おかぼ 栽培 さいばい が行 おこな われたことを強 つよ くは示 しめ さない[35] 。陸稲 おかぼ 栽培 さいばい が行 おこな われていたとしても、他 た の雑穀 ざっこく との混作 こんさく や「焼畑 やきばた の稲作 いなさく 」あるいは「水陸 すいりく 未 み 分化 ぶんか 」であり、広 ひろ い面積 めんせき が田 た に占 し められたり、ひとつの場所 ばしょ が長期 ちょうき にわたって耕 たがや されるという環境 かんきょう にはなかった[50] と考 かんが えられる。
イネ(水稲 すいとう および陸稲 おかぼ )の日本 にっぽん 本土 ほんど への伝来 でんらい に関 かん しては、(1)朝鮮半島 ちょうせんはんとう 経由 けいゆ 説 せつ ((1a)華北 かほく から陸 りく 伝 づた いに朝鮮半島 ちょうせんはんとう を縦断 じゅうだん 、(1b)山東 さんとう 半島 はんとう から黄海 こうかい を渡 わた り遼東 りゃおとん 半島 はんとう を経由 けいゆ し朝鮮半島 ちょうせんはんとう を縦断 じゅうだん 、(1c)山東 さんとう 半島 はんとう から黄海 こうかい を渡 わた り朝鮮半島 ちょうせんはんとう 南西 なんせい 海岸 かいがん から南下 なんか )、(2)江南 こうなん 説 せつ (直接 ちょくせつ ルート)、(3)南方 みなかた 経由 けいゆ 説 せつ の3説 せつ [51] [52] ないし5説 せつ があり、山東 さんとう 半島 はんとう から黄海 こうかい を横断 おうだん し朝鮮半島 ちょうせんはんとう を経 へ て日本 にっぽん に伝来 でんらい した経路 けいろ が有力 ゆうりょく とされる[12] が、2023年 ねん 現在 げんざい の農林水産省 のうりんすいさんしょう の最新 さいしん の公式 こうしき 見解 けんかい では「朝鮮半島 ちょうせんはんとう 南部 なんぶ を経由 けいゆ したという説 せつ 、または、中国 ちゅうごく の江南 こうなん 地方 ちほう あたりから直接 ちょくせつ 伝 つた わった説 せつ が有力 ゆうりょく ですが、台湾 たいわん を経由 けいゆ したという説 せつ もあります。」と述 の べられ、朝鮮半島 ちょうせんはんとう 経由 けいゆ 説 せつ と江南 えな 説 せつ のどちらが有力 ゆうりょく であるかについては明言 めいげん されていない[53] 。
長江 ながえ 流域 りゅういき に起源 きげん がある水稲 すいとう 稲作 いなさく を伴 ともな った大 おお きな人類 じんるい 集団 しゅうだん が、紀元前 きげんぜん 5~6世紀 せいき には呉 ご ・越 こし を支 ささ え、北上 ほくじょう し、朝鮮半島 ちょうせんはんとう から日本 にっぽん へと達 たっ したとする説 せつ [52] などである。実際 じっさい に、日 にち 韓 かん 合 あ わせて最古 さいこ の水稲 すいとう 耕作 こうさく 遺跡 いせき は蔚山 うるさん 市 し のオクキョン遺跡 いせき であり、日本 にっぽん 最古 さいこ の水稲 すいとう 耕作 こうさく 遺跡 いせき である佐賀 さが 県 けん 菜畑 なばた 遺跡 いせき からは、韓国 かんこく 慶尚南道 けいしょうなんどう 晋 すすむ 陽 ひ 郡 ぐん 大坪 おおつぼ 里 さと 遺跡 いせき 出土 しゅつど 土器 どき の系統 けいとう から影響 えいきょう を受 う けた「朝鮮 ちょうせん 無文 むもん 土器 どき 系 けい 甕 う 」や、朝鮮 ちょうせん 式 しき の石 いし 包丁 ぼうちょう 、鍬 くわ などが出土 しゅつど している[54] 。朝鮮半島 ちょうせんはんとう の無文 むもん 土器 どき 文化 ぶんか の担 にな い手 て は、長江 ながえ 文明 ふみあき の流 なが れを汲 く んだY染色 せんしょく 体 たい ハプログループO1b (O1b1 /O1b2 )であり、朝鮮半島 ちょうせんはんとう に水稲 すいとう 農耕 のうこう をもたらしたのも同 どう 集団 しゅうだん であると考 かんが えられている[55] 。
2001年 ねん 当時 とうじ 、佐原 さはら 真 しん は「南方 なんぽう 説 せつ 、直接 ちょくせつ 説 せつ 、間接 かんせつ 説 せつ 、北方 ほっぽう 説 せつ があった」が「しかし現在 げんざい では・・・朝鮮半島 ちょうせんはんとう 南部 なんぶ から北部 ほくぶ 九州 きゅうしゅう に到来 とうらい したという解釈 かいしゃく は、日本 にっぽん の全 すべ ての弥生 やよい 研究 けんきゅう 者 しゃ ・韓国 かんこく 考古学 こうこがく 研究 けんきゅう 者 しゃ に共有 きょうゆう のものである」と述 の べ有力 ゆうりょく であった事 こと を示 しめ しており、佐藤 さとう 洋一郎 よういちろう らが最近 さいきん 唱 とな えた解釈 かいしゃく に対 たい しては、安 やす 思 おもえ 敏 さとし らの石 いし 包丁 ぼうちょう 直接 ちょくせつ 渡来 とらい 説 せつ を含 ふく めて「少数 しょうすう 意見 いけん である」としていた[56] 。趙 ちょう 法 ほう 鐘 かね は、弥生 やよい 早期 そうき の稲作 いなさく は松 まつ 菊 きく 里 さと 文化 ぶんか に由来 ゆらい し「水稲 すいとう 農耕 のうこう 、灌漑 かんがい 農耕 のうこう 技術 ぎじゅつ 、農耕 のうこう 道具 どうぐ 、米 べい の粒 つぶ 形 がた 、作物 さくもつ 組成 そせい および文化 ぶんか 要素 ようそ 全般 ぜんぱん において」韓 かん 半島 はんとう 南部 なんぶ から伝来 でんらい したとしており、「日本 にっぽん の稲作 いなさく は韓 かん 半島 はんとう から伝来 でんらい したという見解 けんかい は韓 かん 日 にち 両国 りょうこく に共通 きょうつう した見解 けんかい である」と書 か いている[57] 。
分子 ぶんし 人類 じんるい 学 がく 者 もの の崎谷 さきや 満 みつる は、ハプログループO1b2 (Y染色 せんしょく 体 たい ) に属 ぞく す人々 ひとびと が、長江 ちょうこう 下 か 流域 りゅういき から朝鮮半島 ちょうせんはんとう を経由 けいゆ して日本 にっぽん に水稲 すいとう をもたらしたとしている[58] 。
池 いけ 橋 はし 宏 ひろし は、長江 ながえ 流域 りゅういき に起源 きげん がある水稲 すいとう 稲作 いなさく は、紀元前 きげんぜん 5~6世紀 せいき には呉 ご ・越 こし を支 ささ え、北上 ほくじょう し、朝鮮半島 ちょうせんはんとう から日本 にっぽん へと達 たっ したとしており[52] 、20世紀 せいき 中 ちゅう ごろから南島 なんとう 経由 けいゆ 説 せつ 、長江 ちょうこう 下 か 流域 りゅういき から九州 きゅうしゅう 方面 ほうめん への直接 ちょくせつ 渡来 とらい 説 せつ 、朝鮮半島 ちょうせんはんとう 経由 けいゆ 説 せつ の3ルートの説 せつ が存在 そんざい していたが、21世紀 せいき になり、考古学 こうこがく 上 じょう の膨大 ぼうだい な成果 せいか が積 つ み重 かさ ねと朝鮮半島 ちょうせんはんとう の考古学 こうこがく 的 てき 進歩 しんぽ により、「日本 にっぽん への稲作 いなさく 渡来 とらい 民 みん が朝鮮半島 ちょうせんはんとう 南部 なんぶ から来 き たことはほとんど議論 ぎろん の余地 よち がないほど明 あき らかになっている」とまとめている[52] 。
従来 じゅうらい 、稲作 いなさく は弥生 やよい 時代 じだい に朝鮮半島 ちょうせんはんとう を南下 なんか 、もしくは半島 はんとう 南部 なんぶ を経由 けいゆ して来 き たとされている。しかし、2005年 ねん 岡山 おかやま 県 けん 彦崎 ひこざき 貝塚 かいづか の縄文 じょうもん 時代 じだい 前期 ぜんき (約 やく 6000年 ねん 前 まえ )の土 ど 層 そう から稲 いね のプラントオパール がみつかっており[59] 、縄文 じょうもん 中期 ちゅうき には稲作 いなさく (陸稲 おかぼ )をしていたとする学説 がくせつ が出 で た[60] 。また、水田 すいでん 稲作 いなさく (水稲 すいとう )についても渡来 とらい 時期 じき が5世紀 せいき 早 はや まり、紀元前 きげんぜん 10世紀 せいき (約 やく 3000年 ねん 前 まえ )には渡来 とらい し、長 なが い時間 じかん をかけて浸透 しんとう していった可能 かのう 性 せい が指摘 してき されたため[61] 、朝鮮半島 ちょうせんはんとう を経由 けいゆ する説 せつ の中 なか にも下記 かき のように時期 じき や集団 しゅうだん 規模 きぼ などに違 ちが いのある複数 ふくすう の説 せつ が登場 とうじょう した。しかし、稲作 いなさく ・水稲 すいとう がそれぞれ約 やく 6000年 ねん 前 まえ ・約 やく 1000年 ねん 前 まえ に伝播 でんぱ したという説 せつ は、
と否定 ひてい されている[63] [64] [65] [62] 。
広瀬 ひろせ 和雄 かずお は、「中国 ちゅうごく 大陸 たいりく から戦乱 せんらん に巻 ま き込 こ まれた人達 ひとたち が渡来 とらい した」というような説 せつ は水田 すいでん 稲作 いなさく が紀元前 きげんぜん 8世紀 せいき には渡来 とらい したのであれば「もう成立 せいりつ しない」としている[66] 。
藤尾 ふじお 慎一郎 しんいちろう は、これまでの前 ぜん 4,5世紀 せいき 頃 ごろ 伝来 でんらい 説 せつ が、新 しん 年代 ねんだい 説 せつ (前 ぜん 10世紀 せいき 頃 ごろ )になったとしても、朝鮮半島 ちょうせんはんとう から水田 すいでん 稲作 いなさく が来 き たことには変 か わりないとしている[67] 。
山崎 やまざき 純男 すみお は、朝鮮半島 ちょうせんはんとう から最初 さいしょ に水田 すいでん 稲作 いなさく を伴 ともな って渡来 とらい したのは支 ささえ 石 せき 墓 はか を伴 ともな った全羅南道 ぜんらなんどう の小 ちい さな集団 しゅうだん であり、遅 おく れて支 ささえ 石 せき 墓 はか を持 も たない慶 けい 尚道 なおみち の人 ひと が組織 そしき 的 てき に来 き て「かなり大 だい 規模 きぼ な工事 こうじ を伴 ともな っている」としている[68] 。
佐藤 さとう 洋一郎 よういちろう は、2010年 ねん のインタビュー記事 きじ では「約 やく 1万 まん 前 まえ に中国 ちゅうごく の長江 ちょうこう 流域 りゅういき で始 はじ まったと推定 すいてい される稲作 いなさく は、中国 ちゅうごく 大陸 たいりく から、もしくは朝鮮 ちょうせん 半島 はんとう を経由 けいゆ して日本 にっぽん に伝 つた わりましたが、それがいつ頃 ごろ なのかははっきり分 わ かりません。」、2001年 ねん のインタビュー記事 きじ にて「私 わたし は、ひょっとすると縄文 じょうもん 晩期 ばんき から作 つく られたごく初期 しょき の水田 すいでん は、縄文 じょうもん 人 じん が朝鮮 ちょうせん 半島 はんとう を訪 おとず れ、そこで目 め にした水田 すいでん を見 み よう見真似 みまね で作 つく ったものではないかと思 おも っているんです。」と述 の べている[69] [70] 。
江南 こうなん 説 せつ (対馬 つしま 暖流 だんりゅう ルート)[ 編集 へんしゅう ]
農学 のうがく 者 しゃ の安藤 あんどう 広太 ひろた 郎 ろう によって提唱 ていしょう された中国 ちゅうごく の長江 ながえ 下 しも 流域 りゅういき から直接 ちょくせつ 稲作 いなさく が日本 にっぽん に伝播 でんぱ されたとする説 せつ [71] [72] [73] 。考古 こうこ 学者 がくしゃ では、八幡 はちまん 一郎 いちろう が「稲作 いなさく と弥生 やよい 文化 ぶんか 」(1982年 ねん )で「呉 ご 楚 すわえ 七 なな 国 こく の乱 らん の避難 ひなん 民 みん が、江南 こうなん から対馬 つしま 海流 かいりゅう に沿 そ って北九州 きたきゅうしゅう に渡来 とらい したことにより伝播 でんぱ した可能 かのう 性 せい を述 の べており[74] 、「対馬 つしま 暖流 だんりゅう ルート」とも呼 よ ばれる。気候 きこう による耕作 こうさく 穀物 こくもつ の境界 きょうかい になる秦 はた 嶺 みね ・淮河線 せん および、弥生 やよい 時代 じだい の炭化 たんか 米 まい と日 にち 中 ちゅう 韓 かん のイネの在来 ざいらい 種 しゅ の遺伝子 いでんし 分布 ぶんぷ 、弥生 やよい 時代 じだい と長江 ながえ 文明 ふみあき の文化 ぶんか 的 てき 類似 るいじ 性 せい が、江南 こうなん 説 せつ を支持 しじ する者 もの がよく列挙 れっきょ する根拠 こんきょ である。
江南 こうなん 説 せつ を支持 しじ する者 もの は「中国 ちゅうごく 北方 ほっぽう や朝鮮半島 ちょうせんはんとう では気候 きこう が寒冷 かんれい であるため稲作 いなさく は伝播 でんぱ しなかった」と主張 しゅちょう する場合 ばあい があるが、5000年 ねん から4000年 ねん 前 まえ の竜山 たつやま 文化 ぶんか に属 ぞく する山東 さんとう 省 しょう 膠 にかわ 州 しゅう 市 し 趙 ちょう 家 か 荘 そう 遺跡 いせき では水田 すいでん 跡 あと が発見 はっけん されており、現在 げんざい では小麦 こむぎ 地帯 ちたい に入 はい る山東 さんとう 半島 はんとう で稲作 いなさく が行 おこな われていた他 ほか 、甲元 こうもと 眞之 まさゆき によって紀元前 きげんぜん 3000年 ねん 以降 いこう にはさらに北方 ほっぽう の遼東 りゃおとん 半島 はんとう [注釈 ちゅうしゃく 1] 、同 どう 2000年 ねん 以降 いこう には朝鮮半島 ちょうせんはんとう [注釈 ちゅうしゃく 2] まで伝播 でんぱ したと明 あき らかになっている。気候 きこう を理由 りゆう に江南 えな 説 せつ は支持 しじ されない。
近代 きんだい 的 てき な育種 いくしゅ により品種 ひんしゅ 改良 かいりょう された改良 かいりょう 種 しゅ よりも前 まえ から栽培 さいばい され、自家 じか 採種 さいしゅ により世代 せだい 交代 こうたい をしていたという定義 ていぎ での在来 ざいらい 稲 いね および近畿 きんき の遺跡 いせき から発掘 はっくつ された弥生 やよい 時代 じだい の炭化 たんか 米 まい に、朝鮮半島 ちょうせんはんとう の在来 ざいらい 稲 いね にない遺伝子 いでんし を持 も つと言 い う意味 いみ で「中国 ちゅうごく から直接 ちょくせつ 伝来 でんらい したタイプの稲 いね 」と考 かんが えられる品種 ひんしゅ は確認 かくにん されているものの、それらが日本 にっぽん の稲作 いなさく の始 はじ まりで栽培 さいばい されていた証拠 しょうこ は存在 そんざい しない 。2002年 ねん に農学 のうがく 者 しゃ の佐藤 さとう 洋一郎 よういちろう が著書 ちょしょ 「稲 いね の日本 にっぽん 史 し 」で、中国 ちゅうごく ・朝鮮 ちょうせん ・日本 にっぽん の水稲 すいとう (温帯 おんたい ジャポニカ)のSSR(Simple Sequence Repeat)マーカー 領域 りょういき を用 もち いた分析 ぶんせき 調査 ちょうさ でSSR領域 りょういき に存在 そんざい するRM1-aからhの8種類 しゅるい のDNA 多 た 型 かた を調査 ちょうさ し、中国 ちゅうごく にはRM1-a〜hの8種類 しゅるい があり、RM1-bが多 おお く、RM1-aがそれに続 つづ くこと。朝鮮半島 ちょうせんはんとう はRM1-bを除 のぞ いた7種類 しゅるい が存在 そんざい し、RM1-aがもっとも多 おお いことや、日本 にっぽん にはRM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類 しゅるい が存在 そんざい し、RM1-bが最 もっと も多 おお いことを指摘 してき した。RM1-aは東北 とうほく も含 ふく めた全域 ぜんいき で、RM1-bは西日本 にしにほん が中心 ちゅうしん である[75] 。これは日本 にっぽん 育種 いくしゅ 学会 がっかい の追試 ついし で再現 さいげん が確認 かくにん された[76] [77] 。ただしこれは「日本 にっぽん に伝来 でんらい したRM1-a、RM1-b、RM1-cのうち、朝鮮半島 ちょうせんはんとう に見 み られない(中国 ちゅうごく から直接 ちょくせつ 伝播 でんぱ したと考 かんが えられる)RM1-bが割合 わりあい 的 てき に最 もっと も多 おお い」ことを示 しめ しているだけであり、「中国 ちゅうごく からの直接 ちょくせつ 伝播 でんぱ が日本 にっぽん における稲作 いなさく の始 はじ まりであり、朝鮮半島 ちょうせんはんとう からは伝播 でんぱ しなかった(あるいは日本 にっぽん から朝鮮半島 ちょうせんはんとう に稲作 いなさく が伝播 でんぱ した)」と証明 しょうめい できたわけではない。日本 にっぽん では中世 ちゅうせい から近世 きんせい にかけて西日本 にしにほん を中心 ちゅうしん にインディカ米 まい の一種 いっしゅ の大 だい 唐 とう 米 まい (占 うらない 城 じょう 稲 いね )の栽培 さいばい が広 ひろ まっていたことが知 し られており[78] [79] 、自 じ 殖 ふえ 性 せい の高 たか いイネでも条件 じょうけん に応 おう じて1%未満 みまん から5%程度 ていど の自然 しぜん 交雑 こうざつ が起 お きる[80] 。佐藤 さとう 自身 じしん も、2010年 ねん のインタビュー記事 きじ では「約 やく 1万 まん 前 まえ に中国 ちゅうごく の長江 ちょうこう 流域 りゅういき で始 はじ まったと推定 すいてい される稲作 いなさく は、中国 ちゅうごく 大陸 たいりく から、もしくは朝鮮 ちょうせん 半島 はんとう を経由 けいゆ して日本 にっぽん に伝 つた わりましたが、それがいつ頃 ごろ なのかははっきり分 わ かりません。」、2001年 ねん のインタビュー記事 きじ では「私 わたし は、ひょっとすると縄文 じょうもん 晩期 ばんき から作 つく られたごく初期 しょき の水田 すいでん は、縄文 じょうもん 人 じん が朝鮮 ちょうせん 半島 はんとう を訪 おとず れ、そこで目 め にした水田 すいでん を見 み よう見真似 みまね で作 つく ったものではないかと思 おも っているんです。」と述 の べており、伝播 でんぱ の経路 けいろ について明確 めいかく な主張 しゅちょう を行 おこな っていない[70] [81] 。2008年 ねん 、農業生物資源研究所 のうぎょうせいぶつしげんけんきゅうじょ の研究 けんきゅう チームが、イネの粒 つぶ 幅 はば を決 き める遺伝子 いでんし qSW5を用 もち いてジャポニカ品種 ひんしゅ 日本晴 にっぽんばれ とインディカ品種 ひんしゅ カサラスの遺伝子 いでんし 情報 じょうほう の解析 かいせき を行 おこな い、ジャポニカ米 まい の起源 きげん が東南 とうなん アジアで、中国 ちゅうごく で温帯 おんたい ジャポニカが生 う まれ、日本 にっぽん に伝播 でんぱ した新 あたら しい仮説 かせつ を提案 ていあん している[82] [83] が、中国 ちゅうごく から日本 にっぽん への伝播 でんぱ 経路 けいろ については言及 げんきゅう はない。
長江 ながえ 文明 ふみあき が朝鮮半島 ちょうせんはんとう の遺跡 いせき より、弥生 やよい 時代 じだい の遺構 いこう に類似 るいじ しているとは言 い えない。農具 のうぐ 、武器 ぶき 、土器 どき は、朝鮮半島 ちょうせんはんとう の発掘 はっくつ 物 ぶつ に酷似 こくじ したものが見 み られる[84] ものの、長江 ながえ 文明 ふみあき では見 み られない。朝鮮半島 ちょうせんはんとう では見 み られない高床 たかゆか 倉庫 そうこ が長江 ながえ 文明 ふみあき と弥生 やよい 時代 じだい の遺跡 いせき で確認 かくにん できるが、世界 せかい 各地 かくち で見 み られる技術 ぎじゅつ であり、日本 にっぽん でも水田 すいでん 稲作 いなさく 伝播 でんぱ 前 まえ の縄文 じょうもん 時代 じだい 中期 ちゅうき には確認 かくにん できる。
江南 こうなん 説 せつ を前提 ぜんてい として「朝鮮半島 ちょうせんはんとう には陸稲 おかぼ のみが伝 つた えられて、水稲 すいとう は日本 にっぽん が朝鮮 ちょうせん に伝 つた えたものである」という主張 しゅちょう も存在 そんざい するが、朝鮮半島 ちょうせんはんとう 経由 けいゆ 説 せつ で述 の べたとおり、朝鮮半島 ちょうせんはんとう の水田 すいでん の方 ほう が時代 じだい が遡 さかのぼ るので支持 しじ されない。甲元 こうもと 眞之 まさゆき は平壌 ぴょんやん 市 し にある無文 むもん 土器 どき 文化 ぶんか 時代 じだい 前期 ぜんき (紀元前 きげんぜん 1500年代 ねんだい )の南京 なんきん 里 さと 遺跡 いせき では水稲 すいとう 農耕 のうこう が行 おこな われていたと指摘 してき している。加 くわ えて、蔚山 うるさん 市 し にあるオクキョン遺跡 いせき (紀元前 きげんぜん 1000年 ねん 頃 ごろ )は、日 にち 韓 かん 合 あ わせて最古 さいこ の水田 すいでん 遺跡 いせき である。日本 にっぽん 最古 さいこ の水稲 すいとう 農耕 のうこう の遺跡 いせき は、佐賀 さが 県 けん の菜畑 なばた 遺跡 いせき (紀元前 きげんぜん 930年 ねん 頃 ごろ )である[62] 。
柳田 やなぎだ 國男 くにお の最後 さいご の著書 ちょしょ 「海上 かいじょう の道 みち [85] 」で提唱 ていしょう した中国 ちゅうごく の長江 ながえ 下 しも 流域 りゅういき からの南西諸島 なんせいしょとう を経由 けいゆ して稲作 いなさく が日本 にっぽん に伝播 でんぱ されたとする説 せつ 。
石田 いしだ 英一郎 えいいちろう 、可児 かに 弘明 ひろあき 、安田 やすだ 喜 き 憲 けん 、梅原 うめはら 猛 たけし などの民俗 みんぞく 学者 がくしゃ に支持 しじ され[86] [87] 。佐々木 ささき 高明 こうめい が提唱 ていしょう した照葉樹 しょうようじゅ 林 りん 文化 ぶんか 論 ろん も柳田 やなぎだ の南方 なんぽう 経由 けいゆ 説 せつ の強 つよ い影響 えいきょう を受 う けている[88] 。
北里大学 きたさとだいがく の太田 おおた 博樹 ひろき 准 じゅん 教授 きょうじゅ (人類 じんるい 集団 しゅうだん 遺伝 いでん 学 がく ・分子 ぶんし 進化 しんか 学 がく )は、下戸 げこ の遺伝子 いでんし と称 しょう されるALDH2 (2型 がた アルデヒド脱 だつ 水素 すいそ 酵素 こうそ )遺伝子 いでんし 多 た 型 がた の分析 ぶんせき から、稲作 いなさく の技術 ぎじゅつ を持 も った人々 ひとびと が中国 ちゅうごく 南部 なんぶ から沖縄 おきなわ を経由 けいゆ して日本 にっぽん に到達 とうたつ した可能 かのう 性 せい を指摘 してき しており[89] 、生化学 せいかがく の観点 かんてん からは渡部 わたなべ 忠世 ただよ や佐藤 さとう 洋一郎 よういちろう が陸稲 おかぼ (熱帯 ねったい ジャポニカ )の伝播 でんぱ ルートとして柳田 やなぎだ の仮説 かせつ を支持 しじ している[90] [91] 。
しかしながら、考古学 こうこがく の観点 かんてん からは沖縄 おきなわ の貝塚 かいづか 時代 ときよ に稲作 いなさく の痕跡 こんせき がないことから、南方 みなかた ルート成立 せいりつ の可能 かのう 性 せい は低 ひく いとされている[92] 。
中西 なかにし 遺跡 いせき (奈良 なら 県 けん 御所 ごしょ 市 し )2019年 ねん 発掘 はっくつ 調査 ちょうさ 時 じ
現在 げんざい 、確認 かくにん されている最古 さいこ の水田 すいでん 跡 あと は今 いま から約 やく 2500~2600年 ねん 前 まえ の縄文 じょうもん 時代 じだい 晩期 ばんき 中頃 なかごろ の佐賀 さが 県 けん の菜畑 なばた 遺跡 いせき で、これは干潟 ひかた 後背 こうはい の海水 かいすい の入 い り込 こ まない谷間 たにま 地 ち の中央 ちゅうおう 部 ぶ に幅 はば 1.5~2.0mの水路 すいろ を掘 ほ り、この両側 りょうがわ に土盛 ども りの畦 あぜ によって区画 くかく された小規模 しょうきぼ (10~20平方 へいほう メートル)のものであった。農耕 のうこう 具 ぐ としては石 いし 庖丁 ぼうちょう 、扁平 へんぺい 片刃 かたは 石斧 せきふ 、蛤 はまぐり 刃 ば 石斧 せきふ 、磨 すり 製 せい 石鏃 せきぞく などが出土 しゅつど している[93] 。
同 どう 時代 じだい 頃 ごろ の宮崎 みやざき 県 けん の坂元 さかもと 遺跡 いせき からも水田 すいでん 跡 あと が発掘 はっくつ され、九州 きゅうしゅう 北部 ほくぶ に伝 つた わった水田 すいでん 稲作 いなさく が大 おお きな時間 じかん をあけずに九州 きゅうしゅう 南部 なんぶ まで伝 つた わったことを示 しめ している。
本州 ほんしゅう 最北端 さいほくたん の青森 あおもり 県 けん の砂沢 いさござわ 遺跡 いせき から水田 すいでん 遺構 いこう が発見 はっけん されたことにより、弥生 やよい 時代 じだい の前期 ぜんき には稲作 いなさく は本州 ほんしゅう 全土 ぜんど に伝播 でんぱ したと考 かんが えられている[51] [94] 。弥生 やよい 時代 じだい の中期 ちゅうき には種籾 たねもみ を直接 ちょくせつ 本田 ほんだ に撒 ま く直播 じきまき 栽培 さいばい からイネの苗 なえ を植 う える田植 たう え へ変化 へんか し、北部 ほくぶ 九州 きゅうしゅう 地域 ちいき では農耕 のうこう 具 ぐ も石 いし や青銅器 せいどうき から鉄製 てつせい に切 き り替 か わり、稲 いね の生産 せいさん 性 せい を大 おお きく向上 こうじょう させた。古墳 こふん 時代 じだい には鉄器 てっき が日本 にっぽん 全土 ぜんど へ広 ひろ く普及 ふきゅう すると共 とも に土木 どぼく 技術 ぎじゅつ も発達 はったつ し、茨 いばら 田 た 堤 つつみ などの灌漑 かんがい 用 よう のため池 いけ が築造 ちくぞう された。弥生 やよい 時代 じだい から古墳 こふん 時代 じだい における日本 にっぽん の水田 すいでん 形態 けいたい は、長 なが さ2・3メートルの畦 あぜ 畔 ほとり に囲 かこ まれ、一 いち 面 めん の面積 めんせき が最小 さいしょう 5平方 へいほう メートル程度 ていど の小 しょう 区画 くかく 水田 すいでん と呼 よ ばれるものが主流 しゅりゅう で、それらが数 すう 百 ひゃく ~数 すう 千 せん の単位 たんい で集合 しゅうごう して数 すう 万 まん 平方 へいほう メートルの水田 すいでん 地帯 ちたい を形成 けいせい するものだった[95] 。
律令 りつりょう 体制 たいせい 導入 どうにゅう 以降 いこう の朝廷 ちょうてい は、水田 すいでん を条 じょう 里 さと 制 せい によって区画 くかく 化 か し、国民 こくみん に一定 いってい 面積 めんせき の水田 すいでん を口分田 くもで として割 わ りあて、収穫 しゅうかく を納税 のうぜい させる班 はん 田 でん 収 おさむ 授制 を652年 ねん に実施 じっし した。以後 いご 、租税 そぜい を米 べい の現物 げんぶつ で納 おさ める方法 ほうほう は明治 めいじ 時代 じだい の地租 ちそ 改正 かいせい にいたるまで日本 にっぽん の租税 そぜい の基軸 きじく となった。稲作 いなさく 儀礼 ぎれい も朝廷 ちょうてい による「新嘗祭 にいなめさい 」「大嘗祭 だいじょうさい 」などが平安 へいあん 時代 じだい には整 ととの えられ、民間 みんかん でも稲作 いなさく の予 よ 祝 しゅく 儀礼 ぎれい として田楽 でんがく などが行 おこな われるようになった。大分 おおいた 県 けん の田 た 染 しみ 荘 そう は平安 へいあん 時代 じだい の水田 すいでん 機構 きこう を現在 げんざい も残 のこ す集落 しゅうらく である。
鎌倉 かまくら 時代 ときよ になると西日本 にしにほん を中心 ちゅうしん に牛 うし 馬耕 ばこう が行 おこな われるようになり、その糞尿 ふんにょう を利用 りよう した厩肥 うまやごえ も普及 ふきゅう していった。また、西日本 にしにほん を中心 ちゅうしん に夏 なつ に水田 すいでん で水稲 すいとう を栽培 さいばい し、冬 ふゆ は水 みず を落 お とした畑地 はたち 化 か にして麦 むぎ を栽培 さいばい する水田 すいでん の米麦 べいばく 二毛作 にもうさく が行 おこな われるようになった。室町 むろまち 時代 ときよ には、日照 ひで りに強 つよ く降水 こうすい 量 りょう の少 すく ない土地 とち でも良 よ く育 そだ つ占 うらない 城 じょう 稲 いね が中国 ちゅうごく から渡来 とらい し、降水 こうすい 量 りょう の少 すく ない地域 ちいき などで生産 せいさん されるようになったが、味 あじ が悪 わる いためかあまり普及 ふきゅう しなかった。戦国 せんごく 時代 じだい になると、大名 だいみょう たちは新田 にった 開発 かいはつ のための大 だい 規模 きぼ な工事 こうじ や水害 すいがい 防止 ぼうし のための河川 かせん 改修 かいしゅう を行 おこな った。武田 たけだ 信玄 しんげん によって築 きず かれた山梨 やまなし 県 けん 釜無川 かまなしがわ の信玄 しんげん 堤 つつみ は、その技術 ぎじゅつ 水準 すいじゅん の高 たか さもあり特 とく に有名 ゆうめい である。また、農業 のうぎょう 生産 せいさん 高 だか の把握 はあく するため検地 けんち も行 おこな われた。天下 てんか を掌握 しょうあく した豊臣 とよとみ 秀吉 ひでよし が全国 ぜんこく に対 たい して行 い った太閤 たいこう 検地 けんち によって、土地 とち の稲作 いなさく 生産 せいさん 量 りょう を石 いし という単位 たんい で表 あらわ す石高 こくだか 制 せい が確立 かくりつ し、農民 のうみん は石高 こくだか に応 おう じた租税 そぜい を義務付 ぎむづ けられた。この制度 せいど は江戸 えど 幕府 ばくふ にも継承 けいしょう され、武士 ぶし 階級 かいきゅう の格付 かくづ けとしても石高 こくだか は重視 じゅうし されていた。
浮世絵 うきよえ に描 えが かれた田植 たう え風景 ふうけい
江戸 えど 時代 じだい は人口 じんこう が増加 ぞうか したため、為政者 いせいしゃ たちは利根川 とねがわ や信濃川 しなのがわ など手付 てつ かずだった大河 おおかわ 流域 りゅういき の湿地 しっち 帯 たい や氾濫 はんらん 原 ばら で新田 にった の開墾 かいこん を推進 すいしん し、傾斜地 けいしゃち にも棚田 たなだ を設 もう けて米 べい の増産 ぞうさん を図 はか った。幕府 ばくふ も見沼 みぬま 代用 だいよう 水 すい や深良 ふから 用水 ようすい などの農業 のうぎょう 用 よう 用水路 ようすいろ を盛 さか んに設 もう けたり、諸国 しょこく 山川 やまかわ 掟 おきて を発 はっ して山林 さんりん の伐採 ばっさい による土砂 どしゃ 災害 さいがい を防 ふせ ぐなどの治水 ちすい に勤 つと めた。その結果 けっか 、16世紀 せいき 末 まつ の耕地 こうち 面積 めんせき は全国 ぜんこく で150万 まん 町歩 ちょうぶ 、米 べい の生産 せいさん 量 りょう は約 やく 1800万 まん 石 せき 程度 ていど だったものが、18世紀 せいき 前半 ぜんはん の元禄 げんろく ならびに享 とおる 保 ほ 時代 じだい になると、耕地 こうち 面積 めんせき が300万 まん 町歩 ちょうぶ 、生産 せいさん 量 りょう も2600万 まん 石 せき に達 たっ した[96] 。農業 のうぎょう 知識 ちしき の普及 ふきゅう も進 すす み、宮崎 みやざき 安貞 やすさだ による日本 にっぽん 最古 さいこ の体系 たいけい 的 てき 農 のう 書 しょ である農業 のうぎょう 全書 ぜんしょ や大蔵 おおくら 永常 ながつね の農具 のうぐ 便利 べんり 論 ろん などが出版 しゅっぱん されている。地方 ちほう 農村 のうそん では二宮 にのみや 尊徳 そんとく や大原 おおはら 幽学 ゆうがく 、渡部 わたなべ 斧 おの 松 まつ などの農政 のうせい 学者 がくしゃ が活躍 かつやく した。農具 のうぐ も発達 はったつ し、備中 びっちゅう 鍬 くわ や穀物 こくもつ の選別 せんべつ を行 おこな う千石 せんごく 通 どお し 、脱穀 だっこく の千 せん 歯 は 扱 などの農具 のうぐ が普及 ふきゅう した。肥料 ひりょう としては人間 にんげん の排泄 はいせつ 物 ぶつ が利用 りよう されるようになり、慶安 けいあん の御 ご 触書 ふれがき でも雪隠 せっちん を用意 ようい して、糞尿 ふんにょう を集 あつ めるように勧 すす めている。また、江戸 えど 時代 じだい は寒冷 かんれい な時期 じき が多 おお く、やませ の影響 えいきょう が強 つよ い東北 とうほく 地方 ちほう の太平洋 たいへいよう 側 がわ を中心 ちゅうしん に飢饉 ききん も多発 たはつ しており、江戸 えど 時代 じだい からは北海道 ほっかいどう 渡島 ととう 半島 はんとう で稲 いね が栽培 さいばい され始 はじ まったが、その規模 きぼ は微々 びび たるものであった。
農耕 のうこう 馬 ば を使 つか った大正 たいしょう 時代 じだい の代掻 しろか き
大正 たいしょう 時代 じだい の田植 たう えの様子 ようす
明治 めいじ 時代 じだい に入 はい ると、柔 やわ らかい湿地 しっち を人間 にんげん が耕 たがや す方法 ほうほう から硬 かた い土壌 どじょう の水田 すいでん を牛 うし や馬 うま を使 つか って耕 たがや す方法 ほうほう が行 おこな わるようになった。肥料 ひりょう も排泄 はいせつ 物 ぶつ ではなく干鰯 ほしか や鰊 にしん 粕 かす 、油粕 あぶらかす など金肥 かねごえ と呼 よ ばれる栄養 えいよう 価 か の高 たか いものが使 つか われるようになっていった。交通 こうつう 手段 しゅだん の発達 はったつ を背景 はいけい に、各地 かくち の篤農 とくのう 家 か (老農 ろうのう )の交流 こうりゅう も盛 さか んになり、江戸 えど 時代 じだい 以来 いらい の在来 ざいらい 農業 のうぎょう 技術 ぎじゅつ の集大成 しゅうたいせい がなされた(明治 めいじ 農法 のうほう )。ドイツから派遣 はけん されたオスカル・ケルネル らによって西洋 せいよう の科学 かがく 技術 ぎじゅつ も導入 どうにゅう され農業 のうぎょう 試験場 しけんじょう などの研究 けんきゅう 施設 しせつ も創設 そうせつ された。稲 いね の品種 ひんしゅ 改良 かいりょう も進 すす み、コシヒカリ の先祖 せんぞ にあたる亀 かめ の尾 お などの品種 ひんしゅ が作 つく られた。
江戸 えど 時代 じだい から北海道 ほっかいどう 南部 なんぶ (道 みち 南 みなみ )の渡島 ととう 半島 はんとう 南部 なんぶ では稲作 いなさく が行 おこな われていたが、明治 めいじ に入 はい ると道 みち 央 ひさし の石狩平野 いしかりへいや でも栽培 さいばい されるようになった。中山 なかやま 久蔵 きゅうぞう などの農業 のうぎょう 指導 しどう 者 しゃ が寒冷 かんれい 地 ち で稲作 いなさく を可能 かのう とするために多 おお くの技術 ぎじゅつ 開発 かいはつ を行 おこな い、かつて不毛 ふもう の泥炭 でいたん 地 ち が広 ひろ がっていた石狩平野 いしかりへいや や上川盆地 かみかわぼんち は広大 こうだい な水田 すいでん 地帯 ちたい に変 へん じ(道 みち 央 ひさし 水田 すいでん 地帯 ちたい )、新潟 にいがた 県 けん と一 いち 二 に を争 あらそ う米 こめ どころへ変化 へんか していく。
こうして昭和 しょうわ 初年 しょねん には、米 べい の生産 せいさん 高 だか は明治 めいじ 11〜15年 ねん 比 ひ で2倍 ばい 以上 いじょう に増加 ぞうか したが[97] 、それにもかかわらず昭和 しょうわ 初期 しょき には幕末 ばくまつ の3倍 ばい 近 ちか くにまで人口 じんこう が膨 ふく れ上 あ がった ことにより、日本 にっぽん 内地 ないち の米 べい 不足 ふそく は深刻 しんこく であり、朝鮮 ちょうせん や台湾 たいわん からの米 べい の移入 いにゅう で不足 ふそく 分 ぶん を賄 まかな い、それでも足 た りないので南米 なんべい や満州 まんしゅう へ移民 いみん を送 おく り出 だ す有様 ありさま となった。
戦後 せんご 、技術 ぎじゅつ の発展 はってん により国内 こくない 生産 せいさん が軌道 きどう に乗 の ってからは、政府 せいふ が米 こめ を主食 しゅしょく として保護 ほご 政策 せいさく を行 おこな ってきた。不作 ふさく を除 のぞ いて輸入 ゆにゅう を禁止 きんし し、流通 りゅうつう 販売 はんばい を規制 きせい した。自主 じしゅ 流通 りゅうつう 米 まい は量 りょう を制限 せいげん し、政府 せいふ 買 か い上 あ げについては、買 か い上 あ げ価格 かかく より安 やす く赤字 あかじ で売 う り渡 わた す逆 ぎゃく ザヤにより農家 のうか の収入 しゅうにゅう を維持 いじ しつつ、価格 かかく 上昇 じょうしょう を抑制 よくせい する施策 しさく をとってきた。農閑期 のうかんき に行 おこな われていた出稼 でかせ ぎは、稲作 いなさく に機械 きかい 化 か が進 すす み人手 ひとで が余 あま り要 い らなくなったため、「母 かあ ちゃん、爺 じい ちゃん、婆 ばあ ちゃん」のいわゆる「三 さん ちゃん農業 のうぎょう 」が多 おお くなり、通年 つうねん 出稼 でかせ ぎに行 い く一家 いっか の主 あるじ が増 ふ え、専業 せんぎょう 農家 のうか より兼業 けんぎょう 農家 のうか の方 ほう が多 おお くなった。1960年代 ねんだい 以降 いこう 、食生活 しょくせいかつ の多様 たよう 化 か により一人 ひとり 当 あ たりの米 べい の消費 しょうひ 量 りょう の減少 げんしょう が進 すす み、1970年 ねん を境 さかい に米 べい の生産 せいさん 量 りょう が消費 しょうひ 量 りょう を大 おお きく越 こ え、米 べい 余 あま りの時代 じだい に突入 とつにゅう 。政府 せいふ によって減反 げんたん 政策 せいさく などの生産 せいさん 調整 ちょうせい が行 おこな われるようになった。
日本 にっぽん における栽培 さいばい 技術 ぎじゅつ と品種 ひんしゅ 改良 かいりょう [ 編集 へんしゅう ]
この
節 ふし の
加筆 かひつ が
望 のぞ まれています。
(2014年 ねん 2月 がつ )
品種 ひんしゅ 改良 かいりょう は当初 とうしょ 耐寒 たいかん 性 せい の向上 こうじょう や収量 しゅうりょう 増 ぞう を重点 じゅうてん に行 おこな われた。近代 きんだい 的 てき 育種 いくしゅ 手法 しゅほう で育成 いくせい されたイネのさきがけである陸 りく 羽 わ 132号 ごう は耐寒 たいかん 性 せい が強 つよ く多 た 収量 しゅうりょう 品種 ひんしゅ であったことから、昭和 しょうわ 初期 しょき の大 だい 冷害 れいがい の救世主 きゅうせいしゅ となり、その子 こ 品種 ひんしゅ である水稲 すいとう 農林 のうりん 1号 ごう は第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう ・戦後 せんご の食糧 しょくりょう 生産 せいさん に大 おお きく貢献 こうけん した。特筆 とくひつ すべきは陸 りく 羽 わ 132号 ごう 、農林 のうりん 1号 ごう は食味 しょくみ に優 すぐ れた品種 ひんしゅ でもあったことで、その系統 けいとう を引 ひ くコシヒカリ など冷涼 れいりょう 地 ち 向 む きの良 りょう 食味 しょくみ 品種 ひんしゅ が普及 ふきゅう することにより、日本 にっぽん の稲作 いなさく 地帯 ちたい の中心 ちゅうしん は北日本 きたにっぽん に移 うつ っていき、日本 にっぽん の稲作 いなさく 地図 ちず を塗 ぬ り替 か えることになった。
「米 べい 余 あま り」となった1970年 ねん 以降 いこう 、稲 いね の品種 ひんしゅ 改良 かいりょう においては、従来 じゅうらい 重点 じゅうてん をおかれていた耐寒 たいかん 性 せい や耐 たい 病 びょう 性 せい の強化 きょうか から、食味 しょくみ の向上 こうじょう に重点 じゅうてん をおかれるようになった。1989年 ねん から1994年 ねん の間 あいだ 、農林水産省 のうりんすいさんしょう による品種 ひんしゅ 改良 かいりょう プロジェクトスーパーライス計画 けいかく が行 おこな われ、ミルキークイーン などの低 てい アミロース米 まい が開発 かいはつ された[98] 。
21世紀 せいき には西日本 にしにほん を中心 ちゅうしん に猛暑 もうしょ 日 び が増 ふ え、高温 こうおん による稲 いね の登 とう 熟 じゅく 障害 しょうがい や米 べい の品質 ひんしつ 低下 ていか が問題 もんだい となっている[99] 。耐 たい 高温 こうおん 品種 ひんしゅ の育成 いくせい 、高温 こうおん 条件下 じょうけんか に適合 てきごう した稲 いね 栽培 さいばい 技術 ぎじゅつ の確立 かくりつ が急 いそ がれている。
気候 きこう 的 てき に可能 かのう な場合 ばあい は三毛作 さんもうさく も行 おこな われている。
稲 いね の水田 すいでん による栽培 さいばい を水田 すいでん 稲作 いなさく と呼 よ び、水田 すいでん で栽培 さいばい するイネを水稲 すいとう (すいとう)という。
田 た に水 みず を張 は り(水田 すいでん )、底 そこ に苗 なえ を植 う えて育 そだ てる。日本 にっぽん では、種 たね (種籾 たねもみ )から苗 なえ までは土 ど で育 そだ てる方 ほう が一般 いっぱん 的 てき であるが、東南 とうなん アジア などでは、水田 すいでん の中 なか に種籾 たねもみ を蒔 ま く地域 ちいき もある。深 ふか い水深 すいしん で、人 ひと の背丈 せたけ より長 なが く育 そだ つ栽培 さいばい 品種 ひんしゅ もある。畑 はたけ よりも、水田 すいでん の方 ほう が品質 ひんしつ が高 たか く収穫 しゅうかく 量 りょう が多 おお いため、定期 ていき 的 てき な雨量 うりょう のある日本 にっぽん では、ほとんどが、水田 すいでん を使 つか っている。水田 すいでん による稲作 いなさく は、他 た の穀物 こくもつ の畑作 はたさく に比 くら べ、連作 れんさく 障害 しょうがい になりにくい。
畑 はたけ で栽培 さいばい される稲 いね を陸稲 おかぼ (りくとう、おかぼ)という。
水稲 すいとう ではほとんど起 お こらないが、同 おな じ土壌 どじょう で陸稲 おかぼ の栽培 さいばい を続 つづ けると連作 れんさく 障害 しょうがい が発生 はっせい する[100] 。
初 はじ めに田畑 たはた にじかに種 たね もみ を蒔 ま く直播 じきまき (じかまき)栽培 さいばい と、仕立 した てた苗 なえ を水田 すいでん に植 う え替 か える苗代 なわしろ (なわしろ/なえしろ)栽培 さいばい がある。
(春 はる )乗用 じょうよう 田植 たうえ 機 き による田植 たう え
(初夏 しょか )田植 たう え後 ご の水田 すいでん
(秋 あき )稲穂 いなほ
(秋 あき )自 じ 脱 だっ 型 がた コンバイン による稲刈 いねか り
(秋 あき )刈田 かりた と稲 いね の天 てん 日干 ひぼ し(稲 いね 杭 くい 掛 か け)
(秋 あき )刈田 かりた と稲 いね の天 てん 日干 ひぼ し(稲架 はさ 掛 か け)
田 た の土 ど を砕 くだ いて緑肥 りょくひ などを鋤 す き込 こ む(田 た 起 お こし )。
圃場 ほじょう に水 みず を入 い れさらに細 こま かく砕 くだ き田植 たう えに備 そな える(代掻 しろか き)。
苗代 なわしろ (なわしろ/なえしろ)に稲 いね の種 たね ・種籾 たねもみ (たねもみ)をまき、発芽 はつが させる(籾 もみ 撒 ま き )。
苗代 なわしろ にてある程度 ていど 育 そだ った稲 いね を本田 ほんだ (圃場 ほじょう )に移植 いしょく する(田植 たう え)。※明治 めいじ 期 き 以降 いこう は田植 たうえ 縄 なわ や田植 たうえ 枠 わく (田植 たうえ 定規 じょうぎ )などによって整然 せいぜん と植 う え付 つ けがなされるようになった。
定期 ていき 的 てき な雑草 ざっそう 取 と り、肥料 ひりょう 散布 さんぷ 等 とう を行 おこな う。
稲 いね が実 みの ったら刈 か り取 と る(稲刈 いねか り )。
稲木 いなぎ で天 てん 日干 ひぼ し にし乾燥 かんそう させる。※稲架 はさ (馳 はせ )を使用 しよう したハセ掛 か け、棒 ぼう 杭 くい を使用 しよう したホニオ掛 か けなど
脱穀 だっこく を行 おこな う(籾 もみ =もみにする)。
籾摺 もみす り (もみすり)を行 おこな う(玄米 げんまい にする)。
精白 せいはく (搗精)を行 おこな う(白米 はくまい にする)。
まず、育苗 いくびょう 箱 ばこ に稲 いね の種 たね ・種籾 たねもみ (たねもみ)まき、育苗 いくびょう 器 き で発芽 はつが させる。
次 つぎ に、ビニールハウス に移 うつ して、ある程度 ていど まで大 おお きく育 そだ てる。
トラクター にて、田 た の土 ど を砕 くだ いて緑肥 りょくひ などを鋤 す き込 こ む(田 た 起 お こし)。
圃場 ほじょう に水 みず を入 い れ、トラクターにてさらに細 こま かく砕 くだ き田植 たう えに備 そな える(代掻 しろか き)。小学生 しょうがくせい などの体験 たいけん 授業 じゅぎょう で代掻 しろか きの代 か わりに泥 どろ 遊 あそ びをすることもある。この場合 ばあい も、土 ど は細 こま かくなる。
育 そだ った苗 なえ を、田植 たうえ 機 き (手押 てお し又 また は乗用 じょうよう )で、本田 ほんだ に移植 いしょく する(田植 たう え)。
定期 ていき 的 てき な雑草 ざっそう 取 と り、農薬 のうやく 散布 さんぷ 、肥料 ひりょう 散布 さんぷ 等 とう を行 おこな う(専用 せんよう の農業 のうぎょう 機械 きかい を使 つか う)。
稲 いね が実 みの ったら稲刈 いねか りと脱穀 だっこく を同時 どうじ に行 おこな うコンバイン で刈 か り取 と る。
通風 つうふう 型 がた の乾燥 かんそう 機 き で乾燥 かんそう する(水分 すいぶん 量 りょう 15%前後 ぜんご に仕上 しあ げるのが普通 ふつう )。
籾 もみ すり機 き で籾 もみ すりを行 おこな う(玄米 げんまい )。
精米 せいまい 機 き にかける(白米 はくまい )。
上記 じょうき 方法 ほうほう が標準 ひょうじゅん 方法 ほうほう というわけではない。その中 なか でも栽培 さいばい に関 かん しては、さまざまな方法 ほうほう がみられる。特 とく に、1,2で述 の べられている育苗 いくびょう の方法 ほうほう は、地域 ちいき や播種 はしゅ 時期 じき 、品種 ひんしゅ 、農家 のうか の育苗 いくびょう 思想 しそう ・主義 しゅぎ などからきわめて多様 たよう である。例 たと えば無 む 農薬 のうやく 栽培 さいばい 法 ほう では除草 じょそう 剤 ざい を使用 しよう しないことがあるので、ノビエ などイネ科 か の雑草 ざっそう を手作業 てさぎょう で除草 じょそう しなくてはならなくなる。
播種 はしゅ 期 き
出芽 しゅつが 期 き
緑化 りょくか 期 き :発芽 はつが 器 き を使用 しよう しない、または発芽 はつが 器 き から出 だ した後 のち にハウスなどで育苗 いくびょう ・養生 ようじょう しない場合 ばあい 、緑化 りょくか 期 き はない
硬化 こうか 期 き
移植 いしょく 期 き
活着 かっちゃく 期 き
分蘖 ぶんけつ 期 き
最高 さいこう 分蘖 ぶんけつ (げつ)期 き
頴花分化 ぶんか 期 き
幼 よう 穂 ほ 形成 けいせい 期 き この時期 じき は低温 ていおん に弱 よわ く、やませの常 つね 襲 かさね 地帯 ちたい では深水 ふかみ 管理 かんり が推奨 すいしょう されている。
減数 げんすう 分裂 ぶんれつ 期 き 花粉 かふん の基礎 きそ が形成 けいせい される時期 じき で、この時期 じき にやませに遭 あ うと障害 しょうがい 型 がた 冷害 れいがい が発生 はっせい しやすい。
穂孕 ほばら み期 き
出穂 しゅつほ 始期 しき :圃場 ほじょう 出穂 しゅつほ 割合 わりあい 10 - 20%
出穂 しゅつほ 期 き (出穂 しゅつほ 盛期 せいき ):圃場 ほじょう 出穂 しゅつほ 割合 わりあい 40 - 50%
穂 ほ 揃 ぞろ い期 き :圃場 ほじょう 出穂 しゅつほ 割合 わりあい 80 - 90%
開花 かいか 期 き ※稲 いね は出穂 しゅつほ しながら抽出 ちゅうしゅつ した先端 せんたん から順次 じゅんじ 開花 かいか をする
乳 ちち 熟 じゅく 期 き この時期 じき 、猛烈 もうれつ な残暑 ざんしょ に襲 おそ われると玄米 げんまい の品質 ひんしつ が低下 ていか する。
黄熟 おうじゅく 期 き
傾 かたぶけ 穂 ほ 期 き
登 とう 熟 じゅく 期 き (糊 のり 熟 じゅく 期 き )
成熟 せいじゅく 期 き
日程 にってい の例 れい (鳥取 とっとり 県 けん 地方 ちほう の早期 そうき 栽培 さいばい )[ 編集 へんしゅう ]
4/2 - 5
発芽 はつが 器 き で苗 なえ を発芽 はつが ・育成 いくせい (育成 いくせい に3日間 にちかん 必要 ひつよう )育 そだ てた苗 なえ は畑 はたけ の小 ちい さいハウスに移動 いどう し、田植 たう えまでそのまま育 そだ てる。
4/16
耕 こう 起 おこり (田 た 起 お こし)。土 ど を耕 こう うん機 き で耕 たがや すこと。田 た には水 みず は入 い れない。
4/17 - 29
荒 あら かき。田 た に水 みず を入 い れて土 ど を耕 こう うん機 き で耕 たがや す。
4/30
代掻 しろか き。土 ど をさらに細 こま かくする。田植 たう えの3 - 4日 にち 前 まえ に実施 じっし 。
5/3,4,5
田植 たう え。田植 たう え機 き 使用 しよう による機械 きかい 移植 いしょく 。
5/7
除草 じょそう 剤 ざい 振 ふ り1回 かい 目 め 。田植 たう え後 ご 1週間 しゅうかん 以内 いない に実施 じっし 。
5/13
追肥 ついひ 。田植 たう え後 ご 10日 とおか 以内 いない に実施 じっし 。稲 いね の元気 げんき が出 で るため。
5/28
除草 じょそう 剤 ざい 振 ふ り2回 かい 目 め 。田植 たう え後 ご 25日 にち 以内 いない に実施 じっし 。草刈 くさかり 。
6月 がつ
防除 ぼうじょ (=カメムシ 、イモチ など病害虫 びょうがいちゅう の駆除 くじょ )1回 かい 目 め 。出穂 しゅつほ 前 まえ に実施 じっし 。防除 ぼうじょ 2回 かい 目 め 。出穂 しゅつほ 後 ご の穂 ほ ぞろい期 き に実施 じっし 。
7/23 - 8/6
穂 ほ 肥 こえ (ほごえ)のための肥料 ひりょう まき1回 かい 目 め 。
8/13
↑ 2回 かい 目 め
9/2,3
稲刈 いねか り。
省力 しょうりょく 化 か を主 おも な目的 もくてき とした水田 すいでん や畑 はたけ を耕 たがや さないまま農作物 のうさくもつ を栽培 さいばい する農法 のうほう である[101] [102] 。
[103] 生産 せいさん コスト低減 ていげん と収量 しゅうりょう 安定 あんてい を目的 もくてき とした栽培 さいばい 方法 ほうほう 。普及 ふきゅう 段階 だんかい の栽培 さいばい 方法 ほうほう で、「耕作 こうさく 者 しゃ による差 さ や地域 ちいき 差 さ を抑 おさ え平均 へいきん した生育 せいいく ・収量 しゅうりょう が期待 きたい できる」として期待 きたい されているが、地域 ちいき の利水 りすい 権 けん 、水利 すいり 慣行 かんこう など導入 どうにゅう に際 さい し解決 かいけつ すべき問題 もんだい も多 おお い。
12月 - 翌年 よくねん 3月 がつ に代掻 しろか きをし、水 みず が澄 す むのをまって水 みず を落 お とす。
圃場 ほじょう が固 かた くなってから、溝 みぞ に直接 ちょくせつ 肥料 ひりょう と種籾 たねもみ を播 ま く。
2 - 3葉 よう 期 き を過 す ぎたら水 みず を張 は る。
必要 ひつよう に応 おう じ、中干 なかぼ しを行 おこな う。
[104] [105]
1月 がつ に米 こめ ヌカ をまいて、水 みず を溜 た める(湛 たたえ 水 すい )。
3 - 4月 がつ に一旦 いったん 水 みず を抜 ぬ き、耕 たがや す(但 ただ し、状態 じょうたい によっては不要 ふよう )。
再度 さいど 湛 たたえ 水 すい し、田植 たう え。
必要 ひつよう に応 おう じ、中干 なかぼ しを行 おこな う。
稲刈 いねか り後 ご 、湛 たたえ 水 すい (冬期 とうき 湛 たたえ 水 すい )。
稲作 いなさく 文化 ぶんか は稲 いね を生産 せいさん するための農耕 のうこう 技術 ぎじゅつ から稲 いね の食 しょく 文化 ぶんか 、稲作 いなさく に関 かか わる儀礼 ぎれい 祭祀 さいし など様々 さまざま な要素 ようそ で構成 こうせい されている。
農耕 のうこう 技術 ぎじゅつ では稲作 いなさく のための農具 のうぐ や収穫 しゅうかく 具 ぐ 、動物 どうぶつ を用 もち いた畜力 ちくりょく 利用 りよう や、水田 すいでん の形態 けいたい 、田植 たう えや施肥 せひ などの栽培 さいばい 技術 ぎじゅつ 、虫追 むそう いや鳥追 とりお い、カカシ など鳥獣 ちょうじゅう 避 さ けの文化 ぶんか も存在 そんざい する。また、穂刈 ほかり したあとの藁 わら は様々 さまざま な用途 ようと があり、藁 わら 細工 ざいく や信仰 しんこう とも関 かか わりが深 ふか い。食 しょく 文化 ぶんか では粥 かゆ や強飯 こわいい 、餅 もち やちまき など多様 たよう な食 た べ方 かた ・調理 ちょうり 法 ほう が存在 そんざい した。また、高倉 たかくら などの貯蔵 ちょぞう 法 ほう や、醸造 じょうぞう して酒 さけ にするなど幅広 はばひろ い利用 りよう が行 おこな われていた。水田 すいでん の光景 こうけい は、日本 にっぽん の伝統 でんとう 的 てき 文化 ぶんか の1つといえ、日本人 にっぽんじん と稲作 いなさく の深 ふか い関 かか わりを示 しめ すものとして、田遊 たあそ び ・田植 たうえ ・田植 たうえ 踊 おどり ・御田 みた 祭 さい ・御 ご 田植 たうえ ・御田 みた 舞 まい 等 ひとし 、豊作 ほうさく を祈 いの るための多 おお くの予 よ 祝儀 しゅうぎ 式 しき ・収穫 しゅうかく 祭 さい ・民俗 みんぞく 芸能 げいのう が伝承 でんしょう されている。
宮中 きゅうちゅう 祭祀 さいし においても天皇 てんのう が皇居 こうきょ の御田 みた で収穫 しゅうかく された稲穂 いなほ を天 てん 照 あきら 大神 おおがみ (アマテラスオオミカミ)に捧 ささ げ、その年 とし の収穫 しゅうかく に感謝 かんしゃ する新嘗祭 にいなめさい がおこなわれている。天皇 てんのう 徳 とく 仁 じん は、皇居 こうきょ 内 ない 生物 せいぶつ 学 がく 研究所 けんきゅうじょ などで、水稲 すいとう 手 しゅ 蒔 ま き、田植 たう え、稲刈 いねか りをみずからおこなっている(宮内庁 くないちょう サイト)。尚 なお 、漢字 かんじ の「年 とし 」は、元々 もともと は「秊」(禾 / 千 せん )と表記 ひょうき された字 じ で、部首 ぶしゅ に「禾」が入 はい っている点 てん からも解 ほどけ るように、稲 いね を栽培 さいばい する周期 しゅうき を1年 ねん に見立 みた てていた。
水田 すいでん 稲作 いなさく 農耕 のうこう のもつ高 たか い持続 じぞく 性 せい [ 編集 へんしゅう ]
水田 すいでん 稲作 いなさく 農耕 のうこう がその地 ち の環境 かんきょう に与 あた える負荷 ふか は限定 げんてい 的 てき である。数 かず 千 せん 年間 ねんかん にわたって東 ひがし アジア・東南 とうなん アジアの各地 かくち で水田 すいでん 稲作 いなさく 農耕 のうこう が行 おこな われてきているが、農地 のうち が耕作 こうさく 不能 ふのう になった例 れい はあまり知 し られていない。麦作 むぎさく が引 ひ き起 お こしてきた土壌 どじょう 破壊 はかい の歴史 れきし と比 くら べて注目 ちゅうもく に値 あたい する。
水田 すいでん 環境 かんきょう は、1000種 しゅ を超 こ える生物 せいぶつ 多様 たよう 性 せい を擁 よう する「時空 じくう 間 あいだ 的 てき に安定 あんてい した一時 いちじ 的 てき 湿地 しっち あるいは水辺 みずべ 」ととらえることができ、代替 だいたい 的 てき 自然 しぜん としての高 たか い持続 じぞく 性 せい ・安定 あんてい 性 せい を評価 ひょうか できる[106]
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