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稲作いなさく

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米作べいさくから転送てんそう
タイ田植たうえ。東南とうなんアジア稲作いなさくでは1ヘクタールにたない水田すいでんでも、田植たうえ、除草じょそう収穫しゅうかく農業のうぎょう労働ろうどうしゃ雇用こようされることがおお
ミャンマー水田すいでんにおける農作業のうさぎょう

稲作いなさく(いなさく)とは、イネいね)を栽培さいばいすることである。収穫しゅうかくいねからは、べい米糠こめぬか(ぬか)、籾殻もみがら(もみがら)、わら(わら)がとれるが、おもべいるため稲作いなさくおこなわれている。

いね栽培さいばいには水田すいでんはたけ利用りようされ、それぞれの環境かんきょう需要じゅようにあった品種ひんしゅもちいられる。水田すいでんでの栽培さいばい水稲すいとう(すいとう)、畑地はたち栽培さいばい陸稲おかぼ(りくとう、おかぼ)とよばれる。栽培さいばい品種ひんしゅおおきくジャポニカまいインディカまいけることができ、ジャポニカまいはさらに熱帯ねったいジャポニカ(ジャバニカまい)と温帯おんたいジャポニカに区分くぶんされる。形状けいじょうによっても、たんつぶしゅ中粒種ちゅうりゅうしゅ長粒種ちょうりゅうしゅ分類ぶんるいされる。ジャポニカまいたんつぶしゅで、インディカまい長粒種ちょうりゅうしゅとされるが、長粒種ちょうりゅうしゅのジャポニカまい存在そんざいするため正確せいかくではない。

現在げんざいは、北緯ほくい50から南緯なんい35範囲はんいにある世界せかいかく地域ちいき栽培さいばいされている。べい生産せいさんやく90%をアジアめ、アジア以外いがいではみなみアメリカブラジルコロンビアアフリカエジプトセネガルマダガスカルでも稲作いなさくおこなわれている。

伝播でんぱ理由りゆう

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稲作いなさくひろおこなわれた理由りゆうとして、

  • べいあじすぐれており、かつ脱穀だっこく精米せいまい調理ちょうり比較的ひかくてき容易よういである[1]
  • イネは連作れんさく可能かのうほか作物さくもつよりも生産せいさんせいたかく、収穫しゅうかく安定あんていしている(とく水田すいでんはその要素ようそつよい)[1]
  • 施肥せひ反応はんのう適切てきせつ肥料ひりょうあたえた場合ばあい収量しゅうりょう増加ぞうか)が作物さくもつくらべてたかく、反対はんたい肥料ひりょう栽培さいばいした場合ばあいでも収量しゅうりょう減少げんしょうすくない[1]
  • 水田すいでん場合ばあいには野菜やさい魚介ぎょかいるい供給きょうきゅうげんにもなりた(『史記しき貨殖かしょく列伝れつでんの「いねめしぎょあつものにす……はてずい蠃蛤、賈をたずしてたれり」は、水田すいでんからいねだけでなくさかなやタニシもふりられるので商人しょうにん販売はんばい不要ふようであったとほぐされる)[2]

などがかんがえられている[3]

べいづくりの歴史れきし

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起源きげん

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インド田植たう
イラン北部ほくぶマーザンダラーンしゅう田植たう
ブラジル南東なんとうサンパウロしゅうパライーバ渓谷けいこく水田すいでん
インドネシアジャワ島じゃわとううし耕田こうだ
ネパール田植たう

稲作いなさく起源きげんは、栽培さいばいイネOryza sativa 1083品種ひんしゅとその起源きげんしゅとされる野生やせいイネO. rufipogon 446系統けいとう[4][5] などのゲノム解析かいせき考古学こうこがくてき調査ちょうさにより、やく1まんねんまえ中国ちゅうごく珠江たまえちゅう流域りゅういき[4]あるいは長江ながえ流域りゅういき[6]かんがえられている。 かつては雲南うんなんしょう遺跡いせきから発掘はっくつされた4400ねんまえ試料しりょう遺伝いでん情報じょうほう多様たようせいといった状況じょうきょうから雲南うんなんしょう周辺しゅうへんからインドアッサムしゅう周辺しゅうへんにかけての地域ちいき発祥はっしょうとされていた[4][7][8]

ゲノム解析かいせき結果けっかと、遺跡いせきから発掘はっくつされたイネの遺物いぶつから、まず野生やせいイネから熱帯ねったいジャポニカ祖先そせん系統けいとう栽培さいばいされ、それにことなる野生やせい系統けいとうふくすうかい交配こうはいしてインディカ組成そせい系統けいとうしょうじ、熱帯ねったいジャポニカ祖先そせん系統けいとう人為じんい選択せんたくくわわって温帯おんたいジャポニカ祖先そせん系統けいとうまれたとかんがえられている[9]長江ちょうこう流域りゅういきにある草鞋わらじやま遺跡いせきプラント・オパール分析ぶんせきによれば、やく6000ねんまえにそのではジャポニカまい栽培さいばいされており、インディカまい出現しゅつげんはずっとくだ[10]。ゲノム解析かいせき結果けっかから、白米はくまい野生やせいイネが熱帯ねったいジャポニカ祖先そせん系統けいとう栽培さいばいされる過程かていしょうじ、むらさき黒米くろごめもちまい熱帯ねったいジャポニカ祖先そせん系統けいとうからしょうじたとかんがえられている[9]

ひがしアジア

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中国ちゅうごく

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中国ちゅうごくでは紀元前きげんぜん6000ねんから紀元前きげんぜん3000ねんまでの栽培さいばい痕跡こんせき黄河こうが流域りゅういき北限ほくげんとした地域ちいきかぎられている。紀元前きげんぜん3000ねん以降いこう山東さんとう半島はんとう先端せんたんにまで分布ぶんぷした。

日本にっぽん

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従来じゅうらい紀元前きげんぜん5~4世紀せいきごろ水田すいでん稲作いなさくからはじまったとされていたが、現在げんざいは、縄文じょうもん時代じだいこう晩期ばんきやく3000–4000ねんまえ)には水田すいでん稲作いなさくおこなわれていた可能かのうせいたかいとかんがえられている[11]水田すいでん稲作いなさく伝来でんらい経路けいろとしては、山東さんとう半島はんとうから黄海こうかい横断おうだん朝鮮半島ちょうせんはんとう日本にっぽん伝来でんらいした経路けいろ有力ゆうりょくとされる[12]が、詳細しょうさい後述こうじゅつする。近年きんねんは、水田すいでん稲作いなさく伝来でんらい以前いぜんからの熱帯ねったいジャポニカたね陸稲おかぼ栽培さいばい可能かのうせい指摘してきされるようになったが、決定的けっていてき証拠しょうこ発見はっけんされていない。これも詳細しょうさい後述こうじゅつする。

朝鮮半島ちょうせんはんとう

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無文むもん土器どき時代じだい前期ぜんきにあたる平壌ぴょんやん南京なんきんさと遺跡いせき発見はっけんされたイネが最古さいこであるが、陸稲おかぼであった可能かのうせいたかいとされる。水田すいでん稲作いなさくかんしては朝鮮半島ちょうせんはんとう南部なんぶでは、3100ねんまえ水田すいでんあと慶尚南道けいしょうなんどう蔚山うるさん・オクキョン遺跡いせきから、2500ねんまえ水田すいでんあとまつきくさと遺跡いせきつかっている。

結核けっかくとの関連かんれん

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古代こだいひがしアジアにおける結核けっかく稲作いなさく文化ぶんかとセットで中国ちゅうごくからひろまったとかんがえられている[13][14][15]

2019ねん時点じてんでは、中国ちゅうごく朝鮮半島ちょうせんはんとう日本にっぽん列島れっとうから出土しゅつどした人骨じんこつにある結核けっかくによる脊椎せきついカリエス痕跡こんせき年代ねんだい場所ばしょ関係かんけいから、結核けっかく稲作いなさく文化ぶんか長江ちょうこう流域りゅういきにある広富ひろとみりん遺跡いせき現在げんざい上海しゃんはい)の付近ふきんから日本にっぽん伝播でんぱした可能かのうせい示唆しさされている[14][15]

東南とうなんアジア・みなみアジア

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東南とうなんアジアみなみアジアへは紀元前きげんぜん2500ねん以降いこうひろまった[16]。そのになオーストロネシア語族ごぞくはなハプログループO-M95 (Y染色せんしょくたい)ぞくする人々ひとびとかんがえられる[17]

東南とうなんアジアにおいても、稲作いなさく文化ぶんか同時どうじ結核けっかく伝播でんぱしたという指摘してきがある[15]

中央ちゅうおうアジア・西にしアジア

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トルコへは中央ちゅうおうアジアから乾燥かんそう比較的ひかくてきつよ陸稲おかぼつたえられたとかんがえるせつや、インドからペルシャ経由けいゆ水稲すいとうつたえられたとかんがえるせつなどがあるが、十分じゅうぶん研究けんきゅうされておらず解明かいめいである[18]

アフリカ

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栽培さいばい解明かいめい不十分ふじゅうぶんとされているが、現在げんざいアフリカ栽培さいばいされているイネは、地域ちいき固有こゆう栽培さいばいいね(アフリカイネ Oryza glaberrima )とアジアから導入どうにゅうされた栽培さいばいいね(アジアイネ Oryza sativa )である[19]。アフリカイネの栽培さいばい開始かいし時期じきには諸説しょせつり2000ねんから3000ねんまえに、西にしアフリカマリ共和きょうわこくニジェールがわ内陸ないりく三角州さんかくす栽培さいばいされ、周辺しゅうへんこくセネガルガンビアギニアビサウ沿岸えんがんシエラレオネへと拡散かくさんしたとされている[20]

アジアイネの伝来でんらい以前いぜんのアフリカでは、野生やせいしていたアフリカイネの祖先そせんしゅかんがえられるいち年生ねんせいしゅ O. barthii多年生たねんせいしゅ O. longistaminata などが利用りようされていた。近代きんだい稲作いなさく普及ふきゅうする以前いぜんは、アフリカイネの浮稲がた陸稲おかぼがた、アジアイネの水稲すいとうがた陸稲おかぼがた栽培さいばいわせ選択せんたく栽培さいばいされていた。植民しょくみん支配しはいされていた時代じだい品種ひんしゅ改良かいりょうおこなわれず稲作いなさく技術ぎじゅつおおきな発展はってんく、旧来きゅうらい栽培さいばい方式ほうしきおこなわれた。また、利水りすい潅漑かんがい施設しせつ整備せいびされる以前いぜん陸稲おかぼがたが70%程度ていどであった。植民しょくみん支配しはいわり、利水りすい潅漑かんがい施設しせつ整備せいびされるとてい収量しゅうりょうだっつぶしやすいアフリカイネは敬遠けいえんされアジアイネに急速きゅうそくわった[19]。1970年代ねんだい以降いこうになると、組織そしきてきなアジアイネの栽培さいばい技術ぎじゅつ改良かいりょう普及ふきゅうすす生産せいさんりょう増大ぞうだいした。さらに、1990年代ねんだい以降いこうはアフリカイネの遺伝いでんてき多様たようせい注目ちゅうもくされるようになり、てつ過剰かじょう障害しょうがいたいせいたいびょうせいたかさをこう収量しゅうりょうせいのアジアイネにんだしん品種ひんしゅネリカべい開発かいはつされた[21][22]。ネリカまい特性とくせい試験しけんおこなった藤巻ふじまきら(2008)は[23]陸稲おかぼ品種ひんしゅの「トヨハタモチ」と比較ひかくしネリカまいたい乾性かんせい同等どうとうであるがたい塩性えんせいおとっていると報告ほうこくしている[23]

イタリア、ミラノ近郊きんこう水田すいでん

ヨーロッパ

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マ帝国まていこく崩壊ほうかいの7世紀せいきから8世紀せいきムーアじんによってイベリア半島はんとうにもたらされ、バレンシア近郊きんこう栽培さいばいはじまった。しばらくのちにはシチリアとう伝播でんぱし、15世紀せいきにはイタリアのミラノ近郊きんこうポーかわ流域りゅういきで、おもねばりけのすくないインディカしゅ水田すいでん稲作いなさくおこなわれる[24][25]

13世紀せいきにはフランスにつたわり、カマルグにて稲作いなさくおこなわれた(カマルグの稲作いなさくフランス語ふらんすごばん)。もと飼料しりょうようとして生産せいさんされていたが、だい世界せかい大戦たいせんちゅう食糧難しょくりょうなんひとべるようになり、フランスりょうインドシナから稲作いなさく技術ぎじゅつ導入どうにゅう品質ひんしつ向上こうじょうした。フランスでのべい生産せいさんの98%をにな[26]

アメリカ大陸あめりかたいりく

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16 - 17世紀せいきにはスペインじん、ポルトガルじんにより南北なんぼくアメリカ大陸あめりかたいりくまれ、プランテーション作物さくもつとなった[27]

日本にっぽん列島れっとうでの歴史れきし

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イネの栽培さいばいがはじまっていたと確実視かくじつしされるのは、水田すいでん遺構いこう発見はっけんされている縄文じょうもん時代じだい晩期ばんきから弥生やよい時代じだい前期ぜんきであり、現在げんざいまで主要しゅよう穀類こくるいのひとつとしてイネは連綿れんめん栽培さいばいされつづけている。

縄文じょうもん稲作いなさく可能かのうせい

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日本にっぽん列島れっとうにおける稲作いなさく弥生やよい時代じだいはじまるというのが近代きんだい以降いこう20世紀せいきまつまで歴史れきしがく定説ていせつだった。宮城みやぎけん枡形ますがたかこえ貝塚かいづか土器どきそこもみあつこんいていたことをどころにした、1925ねん山内やまうち清男きよお論文ろんぶん石器せっき時代じだいにもいねあり」が縄文じょうもん稲作いなさく指摘してきしていたが[28]のち山内やまうち縄文じょうもん時代じだい稲作いなさくには否定ひていてきになった[29]。しかし、1988ねんには、縄文じょうもん時代じだい後期こうきから晩期ばんきにあたる青森あおもりけん風張かざはり遺跡いせきで、やく2800ねんまえ推定すいていされるべいつぶがみつかった[30][31]。さらに、近年きんねん縄文じょうもん時代じだい後期こうきかそれ以前いぜんからいねふく農耕のうこうがあったとするせつがまたとなえられている。

縄文じょうもん時代じだいそう土壌どじょうちゅうからイネのプラント・オパール植物しょくぶつ珪酸けいさんたい化石かせき)が発見はっけんされ、縄文じょうもん時代じだいから上層じょうそう土壌どじょうでイネぞく花粉かふん増加ぞうかしていることは、縄文じょうもん稲作いなさく整合せいごうてきである。プラント・オパールは採取さいしゅしたそうから年代ねんだい特定とくていすることができ、2013ねんにはプラント・オパール自体じたい年代ねんだい測定そくていする方法ほうほう開発かいはつされている[32][33]縄文じょうもん時代じだい晩期ばんき宮崎みやざきけん桑田くわた遺跡いせき土壌どじょうからジャポニカしゅのプラント・オパールがられた[34]鹿児島大学かごしまだいがく構内こうない遺跡いせきからは縄文じょうもん時代じだい中期ちゅうきそうからプラント・オパールがられ、これが最古さいこのものとなる[35]千葉ちばけん八千代やちよ新川しんかわ低地ていちのボーリング調査ちょうさでは3700ねんまえそうからイネぞく花粉かふん出現しゅつげんしている[36]

ただし、攪拌により上層じょうそうから下層かそうへの混入こんにゅう懸念けねんされるため、土壌どじょうデータは証拠しょうことして積極せっきょくてき採用さいようしない研究けんきゅうしゃもいる[35]。イネのプラント・オパールは20–60ミクロンとちいさく、土壌どじょうちゅう生物せいぶつ植物しょくぶつけいなどの攪拌によって下層かそうはいりこむこともあるため、即座そくざ発見はっけんそう年代ねんだい栽培さいばい時期じきとすることはできない。鹿児島かごしまけん遺跡いせきでは12,000ねんまえ薩摩さつま火山灰かざんばい下層かそうからイネのプラント・オパールが検出けんしゅつされており、発見はっけんそう年代ねんだい栽培さいばい時期じきとすると、稲作いなさく起源きげん想定そうていされている中国ちゅうごく長江ちょうこう流域りゅういきよりもふる年代ねんだいとなってしまう[37]岡山おかやまけん朝寝あさねはな貝塚かいづかからやく6000ねんまえのイネのプラント・オパールがつかっているが、同時どうじにコムギのプラント・オパールも検出けんしゅつされており、コムギも中国ちゅうごくよりもはるかに年代ねんだいさかのぼることになってしまう。

縄文じょうもん稲作いなさく有力ゆうりょく考古学こうこがくてき証拠しょうこは、イネもみ土器どきあつこんと、土器どき胎土なかのプラント・オパールである。1991ねんに、縄文じょうもん時代じだい後期こうきやく4000–3000ねんまえ)にぞくする岡山おかやまけん南溝手みなみみぞて遺跡いせき土器どきもみあと発見はっけんされた[38][39]縄文じょうもん時代じだい中期ちゅうきやく5000–4000ねんまえ)にぞくする岡山おかやまけん美甘みかもむらひめ笹原ささはら遺跡いせき土器どき胎土ない後期こうきぞくする南溝手みなみみぞて遺跡いせき岡山おかやまけん津島つしまおかだい遺跡いせき土器どき胎土ないから、イネのプラント・オパールが発見はっけんされた[40]土壌どじょうちゅうのプラント・オパールには、攪乱かくらんによる混入こんにゅう可能かのうせいもある[41]が、くだいた土器どきなかからたプラント・オパールは、そうからはいんだものではなく、原料げんりょう制作せいさくからじっていたとかんがえられる[42]。さらに、土器どき生地きじとなった粘土ねんどちゅうにイネのふくまれていたということになるが、もみことなりイネの地域ちいきからわざわざ必要ひつようかんがえられない[38]

しかし、これらについても疑問ぎもんする研究けんきゅうしゃもいる。土器どき年代ねんだいたい疑問ぎもんされており[43]もみべいつぶそとからまれた可能かのうせいもあり[44]もみ土器どきあつこん本当ほんとうにイネか断定だんていできない場合ばあいがあり[43]土器どき胎土ちゅうのプラント・オパールも検出けんしゅつできるりょうわずかでコンタミネーションの懸念けねん払拭ふっしょくできない[45]多方面たほうめんからの分析ぶんせき必要ひつよう指摘してきされている[43]。また、縄文じょうもん稲作いなさくおこなわれたとするのであれば、稲作いなさくらしい農具のうぐ水田すいでんともなわない栽培さいばい方法ほうほうかんがえなければならない。稲作いなさくにともなう農具のうぐ水田すいでんつかり、確実かくじつ稲作いなさくがはじまったとえるのは縄文じょうもん時代じだい晩期ばんき後半こうはん以降いこうである[43]。これは弥生やよい時代じだい稲作いなさく連続れんぞくしたもので、ほん項目こうもくでいう縄文じょうもん稲作いなさくには、縄文じょうもん晩期ばんき後半こうはんふくめない[46]

農具のうぐもちいない稲作いなさくとして、はたけでの陸稲おかぼ栽培さいばい[47]とく焼畑やきばた農業のうぎょう注目ちゅうもくされている[48]弥生やよい時代じだいに、現在げんざいまでがれる水稲すいとうけい温帯おんたいジャポニカではなく、陸稲おかぼおお熱帯ねったいジャポニカが栽培さいばいされていた可能かのうせいたかいことが指摘してきされている[49]。しかし、陸稲おかぼ栽培さいばいしめ遺構いこうなどは発見はっけんされておらず、熱帯ねったいジャポニカも水田すいでん耕作こうさく可能かのうなため陸稲おかぼ栽培さいばいおこなわれたことをつよくはしめさない[35]陸稲おかぼ栽培さいばいおこなわれていたとしても、雑穀ざっこくとの混作こんさくや「焼畑やきばた稲作いなさく」あるいは「水陸すいりく分化ぶんか」であり、ひろ面積めんせきめられたり、ひとつの場所ばしょ長期ちょうきにわたってたがやされるという環境かんきょうにはなかった[50]かんがえられる。

水田すいでん稲作いなさく伝来でんらいルート

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イネ(水稲すいとうおよび陸稲おかぼ)の日本にっぽん本土ほんどへの伝来でんらいかんしては、(1)朝鮮半島ちょうせんはんとう経由けいゆせつ((1a)華北かほくからりくづたいに朝鮮半島ちょうせんはんとう縦断じゅうだん、(1b)山東さんとう半島はんとうから黄海こうかいわた遼東りゃおとん半島はんとう経由けいゆ朝鮮半島ちょうせんはんとう縦断じゅうだん、(1c)山東さんとう半島はんとうから黄海こうかいわた朝鮮半島ちょうせんはんとう南西なんせい海岸かいがんから南下なんか)、(2)江南こうなんせつ(直接ちょくせつルート)、(3)南方みなかた経由けいゆせつの3せつ[51][52]ないし5せつがあり、山東さんとう半島はんとうから黄海こうかい横断おうだん朝鮮半島ちょうせんはんとう日本にっぽん伝来でんらいした経路けいろ有力ゆうりょくとされる[12]が、2023ねん現在げんざい農林水産省のうりんすいさんしょう最新さいしん公式こうしき見解けんかいでは「朝鮮半島ちょうせんはんとう南部なんぶ経由けいゆしたというせつ、または、中国ちゅうごく江南こうなん地方ちほうあたりから直接ちょくせつつたわったせつ有力ゆうりょくですが、台湾たいわん経由けいゆしたというせつもあります。」とべられ、朝鮮半島ちょうせんはんとう経由けいゆせつ江南えなせつのどちらが有力ゆうりょくであるかについては明言めいげんされていない[53]

朝鮮半島ちょうせんはんとう経由けいゆせつ

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長江ながえ流域りゅういき起源きげんがある水稲すいとう稲作いなさくともなったおおきな人類じんるい集団しゅうだんが、紀元前きげんぜん5~6世紀せいきにはこしささえ、北上ほくじょうし、朝鮮半島ちょうせんはんとうから日本にっぽんへとたっしたとするせつ[52]などである。実際じっさいに、にちかんわせて最古さいこ水稲すいとう耕作こうさく遺跡いせき蔚山うるさんオクキョン遺跡いせきであり、日本にっぽん最古さいこ水稲すいとう耕作こうさく遺跡いせきである佐賀さがけん菜畑なばた遺跡いせきからは、韓国かんこく慶尚南道けいしょうなんどうすすむぐん大坪おおつぼさと遺跡いせき出土しゅつど土器どき系統けいとうから影響えいきょうけた「朝鮮ちょうせん無文むもん土器どきけい」や、朝鮮ちょうせんしきいし包丁ぼうちょうくわなどが出土しゅつどしている[54]朝鮮半島ちょうせんはんとう無文むもん土器どき文化ぶんかになは、長江ながえ文明ふみあきながれをんだY染色せんしょくたいハプログループO1bO1b1/O1b2)であり、朝鮮半島ちょうせんはんとう水稲すいとう農耕のうこうをもたらしたのもどう集団しゅうだんであるとかんがえられている[55]

  • 2001ねん当時とうじ佐原さはらしんは「南方なんぽうせつ直接ちょくせつせつ間接かんせつせつ北方ほっぽうせつがあった」が「しかし現在げんざいでは・・・朝鮮半島ちょうせんはんとう南部なんぶから北部ほくぶ九州きゅうしゅう到来とうらいしたという解釈かいしゃくは、日本にっぽんすべての弥生やよい研究けんきゅうしゃ韓国かんこく考古学こうこがく研究けんきゅうしゃ共有きょうゆうのものである」と有力ゆうりょくであったことしめしており、佐藤さとう洋一郎よういちろうらが最近さいきんとなえた解釈かいしゃくたいしては、やすおもえさとしらのいし包丁ぼうちょう直接ちょくせつ渡来とらいせつふくめて「少数しょうすう意見いけんである」としていた[56]ちょうほうかねは、弥生やよい早期そうき稲作いなさくまつきくさと文化ぶんか由来ゆらいし「水稲すいとう農耕のうこう灌漑かんがい農耕のうこう技術ぎじゅつ農耕のうこう道具どうぐべいつぶがた作物さくもつ組成そせいおよび文化ぶんか要素ようそ全般ぜんぱんにおいて」かん半島はんとう南部なんぶから伝来でんらいしたとしており、「日本にっぽん稲作いなさくかん半島はんとうから伝来でんらいしたという見解けんかいかんにち両国りょうこく共通きょうつうした見解けんかいである」といている[57]
  • 分子ぶんし人類じんるいがくもの崎谷さきやみつるは、ハプログループO1b2 (Y染色せんしょくたい)ぞく人々ひとびとが、長江ちょうこう流域りゅういきから朝鮮半島ちょうせんはんとう経由けいゆして日本にっぽん水稲すいとうをもたらしたとしている[58]
  • いけはしひろしは、長江ながえ流域りゅういき起源きげんがある水稲すいとう稲作いなさくは、紀元前きげんぜん5~6世紀せいきにはこしささえ、北上ほくじょうし、朝鮮半島ちょうせんはんとうから日本にっぽんへとたっしたとしており[52]、20世紀せいきちゅうごろから南島なんとう経由けいゆせつ長江ちょうこう流域りゅういきから九州きゅうしゅう方面ほうめんへの直接ちょくせつ渡来とらいせつ朝鮮半島ちょうせんはんとう経由けいゆせつの3ルートのせつ存在そんざいしていたが、21世紀せいきになり、考古学こうこがくじょう膨大ぼうだい成果せいかかさねと朝鮮半島ちょうせんはんとう考古学こうこがくてき進歩しんぽにより、「日本にっぽんへの稲作いなさく渡来とらいみん朝鮮半島ちょうせんはんとう南部なんぶからたことはほとんど議論ぎろん余地よちがないほどあきらかになっている」とまとめている[52]

従来じゅうらい稲作いなさく弥生やよい時代じだい朝鮮半島ちょうせんはんとう南下なんか、もしくは半島はんとう南部なんぶ経由けいゆしてたとされている。しかし、2005ねん岡山おかやまけん彦崎ひこざき貝塚かいづか縄文じょうもん時代じだい前期ぜんきやく6000ねんまえ)のそうからいねプラントオパールがみつかっており[59]縄文じょうもん中期ちゅうきには稲作いなさく陸稲おかぼ)をしていたとする学説がくせつ[60]。また、水田すいでん稲作いなさく水稲すいとう)についても渡来とらい時期じきが5世紀せいきはやまり、紀元前きげんぜん10世紀せいきやく3000ねんまえ)には渡来とらいし、なが時間じかんをかけて浸透しんとうしていった可能かのうせい指摘してきされたため[61]朝鮮半島ちょうせんはんとう経由けいゆするせつなかにも下記かきのように時期じき集団しゅうだん規模きぼなどにちがいのある複数ふくすうせつ登場とうじょうした。しかし、稲作いなさく水稲すいとうがそれぞれやく6000ねんまえやく1000ねんまえ伝播でんぱしたというせつは、

否定ひていされている[63][64][65][62]

  • 広瀬ひろせ和雄かずおは、「中国ちゅうごく大陸たいりくから戦乱せんらんまれた人達ひとたち渡来とらいした」というようなせつ水田すいでん稲作いなさく紀元前きげんぜん8世紀せいきには渡来とらいしたのであれば「もう成立せいりつしない」としている[66]
  • 藤尾ふじお慎一郎しんいちろうは、これまでのぜん4,5世紀せいきごろ伝来でんらいせつが、しん年代ねんだいせつぜん10世紀せいきごろ)になったとしても、朝鮮半島ちょうせんはんとうから水田すいでん稲作いなさくたことにはわりないとしている[67]
  • 山崎やまざき純男すみおは、朝鮮半島ちょうせんはんとうから最初さいしょ水田すいでん稲作いなさくともなって渡来とらいしたのはささえせきはかともなった全羅南道ぜんらなんどうちいさな集団しゅうだんであり、おくれてささえせきはかたないけい尚道なおみちひと組織そしきてきて「かなりだい規模きぼ工事こうじともなっている」としている[68]
  • 佐藤さとう洋一郎よういちろうは、2010ねんのインタビュー記事きじでは「やく1まんまえ中国ちゅうごく長江ちょうこう流域りゅういきはじまったと推定すいていされる稲作いなさくは、中国ちゅうごく大陸たいりくから、もしくは朝鮮ちょうせん半島はんとう経由けいゆして日本にっぽんつたわりましたが、それがいつごろなのかははっきりかりません。」、2001ねんのインタビュー記事きじにて「わたしは、ひょっとすると縄文じょうもん晩期ばんきからつくられたごく初期しょき水田すいでんは、縄文じょうもんじん朝鮮ちょうせん半島はんとうおとずれ、そこでにした水田すいでんよう見真似みまねつくったものではないかとおもっているんです。」とべている[69][70]

江南こうなんせつ対馬つしま暖流だんりゅうルート)

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農学のうがくしゃ安藤あんどう広太ひろたろうによって提唱ていしょうされた中国ちゅうごく長江ながえしも流域りゅういきから直接ちょくせつ稲作いなさく日本にっぽん伝播でんぱされたとするせつ[71][72][73]考古こうこ学者がくしゃでは、八幡はちまん一郎いちろうが「稲作いなさく弥生やよい文化ぶんか」(1982ねん)で「すわえななこくらん避難ひなんみんが、江南こうなんから対馬つしま海流かいりゅう沿って北九州きたきゅうしゅう渡来とらいしたことにより伝播でんぱした可能かのうせいべており[74]、「対馬つしま暖流だんりゅうルート」ともばれる。気候きこうによる耕作こうさく穀物こくもつ境界きょうかいになるはたみね・淮河せんおよび、弥生やよい時代じだい炭化たんかまいにちちゅうかんのイネの在来ざいらいしゅ遺伝子いでんし分布ぶんぷ弥生やよい時代じだい長江ながえ文明ふみあき文化ぶんかてき類似るいじせいが、江南こうなんせつ支持しじするものがよく列挙れっきょする根拠こんきょである。

江南こうなんせつ支持しじするものは「中国ちゅうごく北方ほっぽう朝鮮半島ちょうせんはんとうでは気候きこう寒冷かんれいであるため稲作いなさく伝播でんぱしなかった」と主張しゅちょうする場合ばあいがあるが、5000ねんから4000ねんまえ竜山たつやま文化ぶんかぞくする山東さんとうしょうにかわしゅうちょうそう遺跡いせきでは水田すいでんあと発見はっけんされており、現在げんざいでは小麦こむぎ地帯ちたいはい山東さんとう半島はんとう稲作いなさくおこなわれていたほか甲元こうもと眞之まさゆきによって紀元前きげんぜん3000ねん以降いこうにはさらに北方ほっぽう遼東りゃおとん半島はんとう[注釈ちゅうしゃく 1]どう2000ねん以降いこうには朝鮮半島ちょうせんはんとう[注釈ちゅうしゃく 2]まで伝播でんぱしたとあきらかになっている。気候きこう理由りゆう江南えなせつ支持しじされない。

近代きんだいてき育種いくしゅにより品種ひんしゅ改良かいりょうされた改良かいりょうしゅよりもまえから栽培さいばいされ、自家じか採種さいしゅにより世代せだい交代こうたいをしていたという定義ていぎでの在来ざいらいいねおよび近畿きんき遺跡いせきから発掘はっくつされた弥生やよい時代じだい炭化たんかまいに、朝鮮半島ちょうせんはんとう在来ざいらいいねにない遺伝子いでんしつと意味いみで「中国ちゅうごくから直接ちょくせつ伝来でんらいしたタイプのいね」とかんがえられる品種ひんしゅ確認かくにんされているものの、それらが日本にっぽん稲作いなさくはじまりで栽培さいばいされていた証拠しょうこ存在そんざいしない。2002ねん農学のうがくしゃ佐藤さとう洋一郎よういちろう著書ちょしょいね日本にっぽん」で、中国ちゅうごく朝鮮ちょうせん日本にっぽん水稲すいとう温帯おんたいジャポニカ)のSSR(Simple Sequence Repeat)マーカー領域りょういきもちいた分析ぶんせき調査ちょうさでSSR領域りょういき存在そんざいするRM1-aからhの8種類しゅるいDNAかた調査ちょうさし、中国ちゅうごくにはRM1-a〜hの8種類しゅるいがあり、RM1-bがおおく、RM1-aがそれにつづくこと。朝鮮半島ちょうせんはんとうはRM1-bをのぞいた7種類しゅるい存在そんざいし、RM1-aがもっともおおいことや、日本にっぽんにはRM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類しゅるい存在そんざいし、RM1-bがもっとおおいことを指摘してきした。RM1-aは東北とうほくふくめた全域ぜんいきで、RM1-bは西日本にしにほん中心ちゅうしんである[75]。これは日本にっぽん育種いくしゅ学会がっかい追試ついし再現さいげん確認かくにんされた[76][77]。ただしこれは「日本にっぽん伝来でんらいしたRM1-a、RM1-b、RM1-cのうち、朝鮮半島ちょうせんはんとうられない(中国ちゅうごくから直接ちょくせつ伝播でんぱしたとかんがえられる)RM1-bが割合わりあいてきもっとおおい」ことをしめしているだけであり、「中国ちゅうごくからの直接ちょくせつ伝播でんぱ日本にっぽんにおける稲作いなさくはじまりであり、朝鮮半島ちょうせんはんとうからは伝播でんぱしなかった(あるいは日本にっぽんから朝鮮半島ちょうせんはんとう稲作いなさく伝播でんぱした)」と証明しょうめいできたわけではない。日本にっぽんでは中世ちゅうせいから近世きんせいにかけて西日本にしにほん中心ちゅうしんにインディカまい一種いっしゅだいとうまいうらないじょういね)の栽培さいばいひろまっていたことがられており[78][79]ふえせいたかいイネでも条件じょうけんおうじて1%未満みまんから5%程度ていど自然しぜん交雑こうざつきる[80]佐藤さとう自身じしんも、2010ねんのインタビュー記事きじでは「やく1まんまえ中国ちゅうごく長江ちょうこう流域りゅういきはじまったと推定すいていされる稲作いなさくは、中国ちゅうごく大陸たいりくから、もしくは朝鮮ちょうせん半島はんとう経由けいゆして日本にっぽんつたわりましたが、それがいつごろなのかははっきりかりません。」、2001ねんのインタビュー記事きじでは「わたしは、ひょっとすると縄文じょうもん晩期ばんきからつくられたごく初期しょき水田すいでんは、縄文じょうもんじん朝鮮ちょうせん半島はんとうおとずれ、そこでにした水田すいでんよう見真似みまねつくったものではないかとおもっているんです。」とべており、伝播でんぱ経路けいろについて明確めいかく主張しゅちょうおこなっていない[70][81]。2008ねん農業生物資源研究所のうぎょうせいぶつしげんけんきゅうじょ研究けんきゅうチームが、イネのつぶはばめる遺伝子いでんしqSW5をもちいてジャポニカ品種ひんしゅ日本晴にっぽんばれとインディカ品種ひんしゅカサラスの遺伝子いでんし情報じょうほう解析かいせきおこない、ジャポニカまい起源きげん東南とうなんアジアで、中国ちゅうごく温帯おんたいジャポニカがまれ、日本にっぽん伝播でんぱしたあたらしい仮説かせつ提案ていあんしている[82][83]が、中国ちゅうごくから日本にっぽんへの伝播でんぱ経路けいろについては言及げんきゅうはない。

長江ながえ文明ふみあき朝鮮半島ちょうせんはんとう遺跡いせきより、弥生やよい時代じだい遺構いこう類似るいじしているとはえない。農具のうぐ武器ぶき土器どきは、朝鮮半島ちょうせんはんとう発掘はっくつぶつ酷似こくじしたものがられる[84]ものの、長江ながえ文明ふみあきではられない。朝鮮半島ちょうせんはんとうではられない高床たかゆか倉庫そうこ長江ながえ文明ふみあき弥生やよい時代じだい遺跡いせき確認かくにんできるが、世界せかい各地かくちられる技術ぎじゅつであり、日本にっぽんでも水田すいでん稲作いなさく伝播でんぱまえ縄文じょうもん時代じだい中期ちゅうきには確認かくにんできる。

江南こうなんせつ前提ぜんていとして「朝鮮半島ちょうせんはんとうには陸稲おかぼのみがつたえられて、水稲すいとう日本にっぽん朝鮮ちょうせんつたえたものである」という主張しゅちょう存在そんざいするが、朝鮮半島ちょうせんはんとう経由けいゆせつべたとおり、朝鮮半島ちょうせんはんとう水田すいでんほう時代じだいさかのぼるので支持しじされない。甲元こうもと眞之まさゆき平壌ぴょんやんにある無文むもん土器どき文化ぶんか時代じだい前期ぜんき紀元前きげんぜん1500年代ねんだい)の南京なんきんさと遺跡いせきでは水稲すいとう農耕のうこうおこなわれていたと指摘してきしている。くわえて、蔚山うるさんにあるオクキョン遺跡いせき紀元前きげんぜん1000ねんごろ)は、にちかんわせて最古さいこ水田すいでん遺跡いせきである。日本にっぽん最古さいこ水稲すいとう農耕のうこう遺跡いせきは、佐賀さがけん菜畑なばた遺跡いせき紀元前きげんぜん930ねんごろ)である[62]

南方なんぽう経由けいゆせつ(黒潮くろしおルート)

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柳田やなぎだ國男くにお最後さいご著書ちょしょ海上かいじょうみち[85]」で提唱ていしょうした中国ちゅうごく長江ながえしも流域りゅういきからの南西諸島なんせいしょとう経由けいゆして稲作いなさく日本にっぽん伝播でんぱされたとするせつ

石田いしだ英一郎えいいちろう可児かに弘明ひろあき安田やすだけん梅原うめはらたけしなどの民俗みんぞく学者がくしゃ支持しじされ[86][87]佐々木ささき高明こうめい提唱ていしょうした照葉樹しょうようじゅりん文化ぶんかろん柳田やなぎだ南方なんぽう経由けいゆせつつよ影響えいきょうけている[88]

北里大学きたさとだいがく太田おおた博樹ひろきじゅん教授きょうじゅ人類じんるい集団しゅうだん遺伝いでんがく分子ぶんし進化しんかがく)は、下戸げこ遺伝子いでんししょうされるALDH2(2がたアルデヒドだつ水素すいそ酵素こうそ遺伝子いでんしがた分析ぶんせきから、稲作いなさく技術ぎじゅつった人々ひとびと中国ちゅうごく南部なんぶから沖縄おきなわ経由けいゆして日本にっぽん到達とうたつした可能かのうせい指摘してきしており[89]生化学せいかがく観点かんてんからは渡部わたなべ忠世ただよ佐藤さとう洋一郎よういちろう陸稲おかぼ熱帯ねったいジャポニカ)の伝播でんぱルートとして柳田やなぎだ仮説かせつ支持しじしている[90][91]

しかしながら、考古学こうこがく観点かんてんからは沖縄おきなわ貝塚かいづか時代ときよ稲作いなさく痕跡こんせきがないことから、南方みなかたルート成立せいりつ可能かのうせいひくいとされている[92]

古代こだい稲作いなさく

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中西なかにし遺跡いせき奈良ならけん御所ごしょ)2019ねん発掘はっくつ調査ちょうさ

現在げんざい確認かくにんされている最古さいこ水田すいでんあといまからやく2500~2600ねんまえ縄文じょうもん時代じだい晩期ばんき中頃なかごろ佐賀さがけん菜畑なばた遺跡いせきで、これは干潟ひかた後背こうはい海水かいすいまない谷間たにま中央ちゅうおうはば1.5~2.0mの水路すいろり、この両側りょうがわ土盛どもりのあぜによって区画くかくされた小規模しょうきぼ(10~20平方へいほうメートル)のものであった。農耕のうこうとしてはいし庖丁ぼうちょう扁平へんぺい片刃かたは石斧せきふはまぐり石斧せきふすりせい石鏃せきぞくなどが出土しゅつどしている[93]どう時代じだいごろ宮崎みやざきけん坂元さかもと遺跡いせきからも水田すいでんあと発掘はっくつされ、九州きゅうしゅう北部ほくぶつたわった水田すいでん稲作いなさくおおきな時間じかんをあけずに九州きゅうしゅう南部なんぶまでつたわったことをしめしている。

本州ほんしゅう最北端さいほくたん青森あおもりけん砂沢いさござわ遺跡いせきから水田すいでん遺構いこう発見はっけんされたことにより、弥生やよい時代じだい前期ぜんきには稲作いなさく本州ほんしゅう全土ぜんど伝播でんぱしたとかんがえられている[51][94]弥生やよい時代じだい中期ちゅうきには種籾たねもみ直接ちょくせつ本田ほんだ直播じきまき栽培さいばいからイネのなええる田植たう変化へんかし、北部ほくぶ九州きゅうしゅう地域ちいきでは農耕のうこういし青銅器せいどうきから鉄製てつせいわり、いね生産せいさんせいおおきく向上こうじょうさせた。古墳こふん時代じだいには鉄器てっき日本にっぽん全土ぜんどひろ普及ふきゅうするととも土木どぼく技術ぎじゅつ発達はったつし、いばらつつみなどの灌漑かんがいようためいけ築造ちくぞうされた。弥生やよい時代じだいから古墳こふん時代じだいにおける日本にっぽん水田すいでん形態けいたいは、ながさ2・3メートルのあぜほとりかこまれ、いちめん面積めんせき最小さいしょう5平方へいほうメートル程度ていどしょう区画くかく水田すいでんばれるものが主流しゅりゅうで、それらがすうひゃくすうせん単位たんい集合しゅうごうしてすうまん平方へいほうメートルの水田すいでん地帯ちたい形成けいせいするものだった[95]

律令りつりょう体制たいせい導入どうにゅう以降いこう朝廷ちょうていは、水田すいでんじょうさとせいによって区画くかくし、国民こくみん一定いってい面積めんせき水田すいでん口分田くもでとしてりあて、収穫しゅうかく納税のうぜいさせるはんでんおさむ授制を652ねん実施じっしした。以後いご租税そぜいべい現物げんぶつおさめる方法ほうほう明治めいじ時代じだい地租ちそ改正かいせいにいたるまで日本にっぽん租税そぜい基軸きじくとなった。稲作いなさく儀礼ぎれい朝廷ちょうていによる「新嘗祭にいなめさい」「大嘗祭だいじょうさい」などが平安へいあん時代じだいにはととのえられ、民間みんかんでも稲作いなさくしゅく儀礼ぎれいとして田楽でんがくなどがおこなわれるようになった。大分おおいたけんしみそう平安へいあん時代じだい水田すいでん機構きこう現在げんざいのこ集落しゅうらくである。

中世ちゅうせい稲作いなさく

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鎌倉かまくら時代ときよになると西日本にしにほん中心ちゅうしんうし馬耕ばこうおこなわれるようになり、その糞尿ふんにょう利用りようした厩肥うまやごえ普及ふきゅうしていった。また、西日本にしにほん中心ちゅうしんなつ水田すいでん水稲すいとう栽培さいばいし、ふゆみずとした畑地はたちにしてむぎ栽培さいばいする水田すいでん米麦べいばく二毛作にもうさくおこなわれるようになった。室町むろまち時代ときよには、日照ひでりにつよ降水こうすいりょうすくない土地とちでもそだうらないじょういね中国ちゅうごくから渡来とらいし、降水こうすいりょうすくない地域ちいきなどで生産せいさんされるようになったが、あじわるいためかあまり普及ふきゅうしなかった。戦国せんごく時代じだいになると、大名だいみょうたちは新田にった開発かいはつのためのだい規模きぼ工事こうじ水害すいがい防止ぼうしのための河川かせん改修かいしゅうおこなった。武田たけだ信玄しんげんによってきずかれた山梨やまなしけん釜無川かまなしがわ信玄しんげんつつみは、その技術ぎじゅつ水準すいじゅんたかさもありとく有名ゆうめいである。また、農業のうぎょう生産せいさんだか把握はあくするため検地けんちおこなわれた。天下てんか掌握しょうあくした豊臣とよとみ秀吉ひでよし全国ぜんこくたいしてった太閤たいこう検地けんちによって、土地とち稲作いなさく生産せいさんりょういしという単位たんいあらわ石高こくだかせい確立かくりつし、農民のうみん石高こくだかおうじた租税そぜい義務付ぎむづけられた。この制度せいど江戸えど幕府ばくふにも継承けいしょうされ、武士ぶし階級かいきゅう格付かくづけとしても石高こくだか重視じゅうしされていた。

近世きんせい稲作いなさく

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浮世絵うきよええがかれた田植たう風景ふうけい

江戸えど時代じだい人口じんこう増加ぞうかしたため、為政者いせいしゃたちは利根川とねがわ信濃川しなのがわなど手付てつかずだった大河おおかわ流域りゅういき湿地しっちたい氾濫はんらんばら新田にった開墾かいこん推進すいしんし、傾斜地けいしゃちにも棚田たなだもうけてべい増産ぞうさんはかった。幕府ばくふ見沼みぬま代用だいようすい深良ふから用水ようすいなどの農業のうぎょうよう用水路ようすいろさかんにもうけたり、諸国しょこく山川やまかわおきてはっして山林さんりん伐採ばっさいによる土砂どしゃ災害さいがいふせぐなどの治水ちすいつとめた。その結果けっか、16世紀せいきまつ耕地こうち面積めんせき全国ぜんこくで150まん町歩ちょうぶべい生産せいさんりょうやく1800まんせき程度ていどだったものが、18世紀せいき前半ぜんはん元禄げんろくならびにとおる時代じだいになると、耕地こうち面積めんせきが300まん町歩ちょうぶ生産せいさんりょうも2600まんせきたっした[96]農業のうぎょう知識ちしき普及ふきゅうすすみ、宮崎みやざき安貞やすさだによる日本にっぽん最古さいこ体系たいけいてきのうしょである農業のうぎょう全書ぜんしょ大蔵おおくら永常ながつね農具のうぐ便利べんりろんなどが出版しゅっぱんされている。地方ちほう農村のうそんでは二宮にのみや尊徳そんとく大原おおはら幽学ゆうがく渡部わたなべおのまつなどの農政のうせい学者がくしゃ活躍かつやくした。農具のうぐ発達はったつし、備中びっちゅうくわ穀物こくもつ選別せんべつおこな千石せんごくどお脱穀だっこくせんなどの農具のうぐ普及ふきゅうした。肥料ひりょうとしては人間にんげん排泄はいせつぶつ利用りようされるようになり、慶安けいあん触書ふれがきでも雪隠せっちん用意よういして、糞尿ふんにょうあつめるようにすすめている。また、江戸えど時代じだい寒冷かんれい時期じきおおく、やませ影響えいきょうつよ東北とうほく地方ちほう太平洋たいへいようがわ中心ちゅうしん飢饉ききん多発たはつしており、江戸えど時代じだいからは北海道ほっかいどう渡島ととう半島はんとういね栽培さいばいされはじまったが、その規模きぼ微々びびたるものであった。

近代きんだい稲作いなさく

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農耕のうこう使つかった大正たいしょう時代じだい代掻しろか
大正たいしょう時代じだい田植たうえの様子ようす

明治めいじ時代じだいはいると、やわらかい湿地しっち人間にんげんたがや方法ほうほうからかた土壌どじょう水田すいでんうしうま使つかってたがや方法ほうほうおこなわるようになった。肥料ひりょう排泄はいせつぶつではなく干鰯ほしかにしんかす油粕あぶらかすなど金肥かねごえばれる栄養えいようたかいものが使つかわれるようになっていった。交通こうつう手段しゅだん発達はったつ背景はいけいに、各地かくち篤農とくのう老農ろうのう)の交流こうりゅうさかんになり、江戸えど時代じだい以来いらい在来ざいらい農業のうぎょう技術ぎじゅつ集大成しゅうたいせいがなされた(明治めいじ農法のうほう)。ドイツから派遣はけんされたオスカル・ケルネルらによって西洋せいよう科学かがく技術ぎじゅつ導入どうにゅうされ農業のうぎょう試験場しけんじょうなどの研究けんきゅう施設しせつ創設そうせつされた。いね品種ひんしゅ改良かいりょうすすみ、コシヒカリ先祖せんぞにあたるかめなどの品種ひんしゅつくられた。

江戸えど時代じだいから北海道ほっかいどう南部なんぶみちみなみ)の渡島ととう半島はんとう南部なんぶでは稲作いなさくおこなわれていたが、明治めいじはいるとみちひさし石狩平野いしかりへいやでも栽培さいばいされるようになった。中山なかやま久蔵きゅうぞうなどの農業のうぎょう指導しどうしゃ寒冷かんれい稲作いなさく可能かのうとするためにおおくの技術ぎじゅつ開発かいはつおこない、かつて不毛ふもう泥炭でいたんひろがっていた石狩平野いしかりへいや上川盆地かみかわぼんち広大こうだい水田すいでん地帯ちたいへんじ(みちひさし水田すいでん地帯ちたい)、新潟にいがたけんいちあらそこめどころへ変化へんかしていく。

こうして昭和しょうわ初年しょねんには、べい生産せいさんだか明治めいじ11〜15ねんで2ばい以上いじょう増加ぞうかしたが[97]、それにもかかわらず昭和しょうわ初期しょきには幕末ばくまつの3ばいちかくにまで人口じんこうふくがったことにより、日本にっぽん内地ないちべい不足ふそく深刻しんこくであり、朝鮮ちょうせん台湾たいわんからのべい移入いにゅう不足ふそくぶんまかない、それでもりないので南米なんべい満州まんしゅう移民いみんおく有様ありさまとなった。

現代げんだい稲作いなさく

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戦後せんご技術ぎじゅつ発展はってんにより国内こくない生産せいさん軌道きどうってからは、政府せいふこめ主食しゅしょくとして保護ほご政策せいさくおこなってきた。不作ふさくのぞいて輸入ゆにゅう禁止きんしし、流通りゅうつう販売はんばい規制きせいした。自主じしゅ流通りゅうつうまいりょう制限せいげんし、政府せいふげについては、価格かかくよりやす赤字あかじわたぎゃくザヤにより農家のうか収入しゅうにゅう維持いじしつつ、価格かかく上昇じょうしょう抑制よくせいする施策しさくをとってきた。農閑期のうかんきおこなわれていた出稼でかせぎは、稲作いなさく機械きかいすす人手ひとであまらなくなったため、「かあちゃん、じいちゃん、ばあちゃん」のいわゆる「さんちゃん農業のうぎょう」がおおくなり、通年つうねん出稼でかせぎに一家いっかあるじえ、専業せんぎょう農家のうかより兼業けんぎょう農家のうかほうおおくなった。1960年代ねんだい以降いこう食生活しょくせいかつ多様たようにより一人ひとりたりのべい消費しょうひりょう減少げんしょうすすみ、1970ねんさかいべい生産せいさんりょう消費しょうひりょうおおきくえ、べいあまりの時代じだい突入とつにゅう政府せいふによって減反げんたん政策せいさくなどの生産せいさん調整ちょうせいおこなわれるようになった。

日本にっぽんにおける栽培さいばい技術ぎじゅつ品種ひんしゅ改良かいりょう

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品種ひんしゅ改良かいりょう当初とうしょ耐寒たいかんせい向上こうじょう収量しゅうりょうぞう重点じゅうてんおこなわれた。近代きんだいてき育種いくしゅ手法しゅほう育成いくせいされたイネのさきがけであるりく132ごう耐寒たいかんせいつよ収量しゅうりょう品種ひんしゅであったことから、昭和しょうわ初期しょきだい冷害れいがい救世主きゅうせいしゅとなり、その品種ひんしゅである水稲すいとう農林のうりん1ごうだい世界せかい大戦たいせんちゅう戦後せんご食糧しょくりょう生産せいさんおおきく貢献こうけんした。特筆とくひつすべきはりく132ごう農林のうりん1ごう食味しょくみすぐれた品種ひんしゅでもあったことで、その系統けいとうコシヒカリなど冷涼れいりょうきのりょう食味しょくみ品種ひんしゅ普及ふきゅうすることにより、日本にっぽん稲作いなさく地帯ちたい中心ちゅうしん北日本きたにっぽんうつっていき、日本にっぽん稲作いなさく地図ちずえることになった。

べいあまり」となった1970ねん以降いこういね品種ひんしゅ改良かいりょうにおいては、従来じゅうらい重点じゅうてんをおかれていた耐寒たいかんせいたいびょうせい強化きょうかから、食味しょくみ向上こうじょう重点じゅうてんをおかれるようになった。1989ねんから1994ねんあいだ農林水産省のうりんすいさんしょうによる品種ひんしゅ改良かいりょうプロジェクトスーパーライス計画けいかくおこなわれ、ミルキークイーンなどのていアミロースまい開発かいはつされた[98]

21世紀せいきには西日本にしにほん中心ちゅうしん猛暑もうしょえ、高温こうおんによるいねとうじゅく障害しょうがいべい品質ひんしつ低下ていか問題もんだいとなっている[99]たい高温こうおん品種ひんしゅ育成いくせい高温こうおん条件下じょうけんか適合てきごうしたいね栽培さいばい技術ぎじゅつ確立かくりついそがれている。

方式ほうしき

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二期作にきさく二毛作にもうさく

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気候きこうてき可能かのう場合ばあい三毛作さんもうさくおこなわれている。

水田すいでん稲作いなさく陸稲おかぼ

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水稲すいとう

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いね水田すいでんによる栽培さいばい水田すいでん稲作いなさくび、水田すいでん栽培さいばいするイネを水稲すいとう(すいとう)という。

みずり(水田すいでん)、そこなええてそだてる。日本にっぽんでは、たね種籾たねもみ)からなえまではそだてるほう一般いっぱんてきであるが、東南とうなんアジアなどでは、水田すいでんなか種籾たねもみ地域ちいきもある。ふか水深すいしんで、ひと背丈せたけよりながそだ栽培さいばい品種ひんしゅもある。はたけよりも、水田すいでんほう品質ひんしつたか収穫しゅうかくりょうおおいため、定期ていきてき雨量うりょうのある日本にっぽんでは、ほとんどが、水田すいでん使つかっている。水田すいでんによる稲作いなさくは、穀物こくもつ畑作はたさくくらべ、連作れんさく障害しょうがいになりにくい。

陸稲おかぼ

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はたけ栽培さいばいされるいね陸稲おかぼ(りくとう、おかぼ)という。

水稲すいとうではほとんどこらないが、おな土壌どじょう陸稲おかぼ栽培さいばいつづけると連作れんさく障害しょうがい発生はっせいする[100]

栽培さいばいほう

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はじめに田畑たはたにじかにたねもみ直播じきまき(じかまき)栽培さいばいと、仕立したてたなえ水田すいでんえる苗代なわしろ(なわしろ/なえしろ)栽培さいばいがある。

手順てじゅん

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はる乗用じょうよう田植たうえによる田植たう
初夏しょか田植たう水田すいでん
あき稲穂いなほ
あきだっがたコンバインによる稲刈いねか
あき刈田かりたいねてん日干ひぼし(いねくいけ)
あき刈田かりたいねてん日干ひぼし(稲架はさけ)

ふるくからの伝統でんとうてき方法ほうほう

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  1. くだいて緑肥りょくひなどをむ(こし)。
  2. 圃場ほじょうみずれさらにこまかくくだ田植たうえにそなえる(代掻しろかき)。
  3. 苗代なわしろ(なわしろ/なえしろ)にいねたね種籾たねもみ(たねもみ)をまき、発芽はつがさせる(もみ)。
  4. 苗代なわしろにてある程度ていどそだったいね本田ほんだ圃場ほじょう)に移植いしょくする(田植たうえ)。※明治めいじ以降いこう田植たうえなわ田植たうえわく田植たうえ定規じょうぎ)などによって整然せいぜんけがなされるようになった。
  5. 定期ていきてき雑草ざっそうり、肥料ひりょう散布さんぷとうおこなう。
  6. いねみのったらる(稲刈いねか)。
  7. 稲木いなぎてん日干ひぼにし乾燥かんそうさせる。※稲架はさはせ)を使用しようしたハセけ、ぼうくい使用しようしたホニオけなど
  8. 脱穀だっこくおこなう(もみ=もみにする)。
  9. 籾摺もみす(もみすり)をおこなう(玄米げんまいにする)。
  10. 精白せいはく(搗精)をおこなう(白米はくまいにする)。

現代げんだい一般いっぱんてき方法ほうほう

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  1. まず、育苗いくびょうばこいねたね種籾たねもみ(たねもみ)まき、育苗いくびょう発芽はつがさせる。
  2. つぎに、ビニールハウスうつして、ある程度ていどまでおおきくそだてる。
  3. トラクターにて、くだいて緑肥りょくひなどをむ(こし)。
  4. 圃場ほじょうみずれ、トラクターにてさらにこまかくくだ田植たうえにそなえる(代掻しろかき)。小学生しょうがくせいなどの体験たいけん授業じゅぎょう代掻しろかきのわりにどろあそびをすることもある。この場合ばあいも、こまかくなる。
  5. そだったなえを、田植たうえ手押ておまた乗用じょうよう)で、本田ほんだ移植いしょくする(田植たうえ)。
  6. 定期ていきてき雑草ざっそうり、農薬のうやく散布さんぷ肥料ひりょう散布さんぷとうおこなう(専用せんよう農業のうぎょう機械きかい使つかう)。
  7. いねみのったら稲刈いねかりと脱穀だっこく同時どうじおこなコンバインる。
  8. 通風つうふうがた乾燥かんそう乾燥かんそうする(水分すいぶんりょう15%前後ぜんご仕上しあげるのが普通ふつう)。
  9. もみすりもみすりをおこなう(玄米げんまい)。
  10. 精米せいまいにかける(白米はくまい)。
  • 上記じょうき方法ほうほう標準ひょうじゅん方法ほうほうというわけではない。そのなかでも栽培さいばいかんしては、さまざまな方法ほうほうがみられる。とくに、1,2でべられている育苗いくびょう方法ほうほうは、地域ちいき播種はしゅ時期じき品種ひんしゅ農家のうか育苗いくびょう思想しそう主義しゅぎなどからきわめて多様たようである。たとえば農薬のうやく栽培さいばいほうでは除草じょそうざい使用しようしないことがあるので、ノビエなどイネ雑草ざっそう手作業てさぎょう除草じょそうしなくてはならなくなる。

生育せいいく段階だんかい

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  • 育苗いくびょう
  1. 播種はしゅ
  2. 出芽しゅつが
  3. 緑化りょくか発芽はつが使用しようしない、または発芽はつがからしたのちにハウスなどで育苗いくびょう養生ようじょうしない場合ばあい緑化りょくかはない
  4. 硬化こうか
  • 本田ほんだ
  1. 移植いしょく
  2. 活着かっちゃく
  3. 分蘖ぶんけつ
  4. 最高さいこう分蘖ぶんけつ(げつ)
  5. 頴花分化ぶんか
  6. よう形成けいせい
    この時期じき低温ていおんよわく、やませのつねかさね地帯ちたいでは深水ふかみ管理かんり推奨すいしょうされている。
  7. 減数げんすう分裂ぶんれつ
    花粉かふん基礎きそ形成けいせいされる時期じきで、この時期じきにやませにうと障害しょうがいがた冷害れいがい発生はっせいしやすい。
  8. 穂孕ほばら
  9. 出穂しゅつほ始期しき圃場ほじょう出穂しゅつほ割合わりあい10 - 20%
  10. 出穂しゅつほ出穂しゅつほ盛期せいき):圃場ほじょう出穂しゅつほ割合わりあい40 - 50%
  11. ぞろ圃場ほじょう出穂しゅつほ割合わりあい80 - 90%
  12. 開花かいかいね出穂しゅつほしながら抽出ちゅうしゅつした先端せんたんから順次じゅんじ開花かいかをする
  13. ちちじゅく
    この時期じき猛烈もうれつ残暑ざんしょおそわれると玄米げんまい品質ひんしつ低下ていかする。
  14. 黄熟おうじゅく
  15. かたぶけ
  16. とうじゅくのりじゅく
  17. 成熟せいじゅく

日程にっていれい鳥取とっとりけん地方ちほう早期そうき栽培さいばい

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4/2 - 5 発芽はつがなえ発芽はつが育成いくせい育成いくせいに3日間にちかん必要ひつよう
そだてたなえはたけちいさいハウスに移動いどうし、田植たうえまでそのままそだてる。
4/16 こうおこりこし)。こううんたがやすこと。にはみずれない。
4/17 - 29 あらかき。みずれてこううんたがやす。
4/30 代掻しろかき。をさらにこまかくする。田植たうえの3 - 4にちまえ実施じっし
5/3,4,5 田植たうえ。田植たう使用しようによる機械きかい移植いしょく
5/7 除草じょそうざいり1かい田植たう1週間しゅうかん以内いない実施じっし
5/13 追肥ついひ田植たう10日とおか以内いない実施じっしいね元気げんきるため。
5/28 除草じょそうざいり2かい田植たう25にち以内いない実施じっし
草刈くさかり
6がつ 防除ぼうじょ(=カメムシイモチなど病害虫びょうがいちゅう駆除くじょ)1かい出穂しゅつほまえ実施じっし
防除ぼうじょ2かい出穂しゅつほぞろい実施じっし
7/23 - 8/6 こえ(ほごえ)のための肥料ひりょうまき1かい
8/13 ↑ 2かい
9/2,3 稲刈いねかり。

こうおこり栽培さいばい

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省力しょうりょくおも目的もくてきとした水田すいでんはたけたがやさないまま農作物のうさくもつ栽培さいばいする農法のうほうである[101][102]

冬季とうきしろかきによる方法ほうほうれい

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[103]生産せいさんコスト低減ていげん収量しゅうりょう安定あんてい目的もくてきとした栽培さいばい方法ほうほう普及ふきゅう段階だんかい栽培さいばい方法ほうほうで、「耕作こうさくしゃによる地域ちいきおさ平均へいきんした生育せいいく収量しゅうりょう期待きたいできる」として期待きたいされているが、地域ちいき利水りすいけん水利すいり慣行かんこうなど導入どうにゅうさい解決かいけつすべき問題もんだいおおい。

  1. 12月 - 翌年よくねん3がつ代掻しろかきをし、みずむのをまってみずとす。
  2. 圃場ほじょうかたくなってから、みぞ直接ちょくせつ肥料ひりょう種籾たねもみく。
  3. 2 - 3ようぎたらみずる。
  4. 必要ひつようおうじ、中干なかぼしをおこなう。

べいヌカを方法ほうほうれい

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[104][105]

  1. 1がつこめヌカをまいて、みずめる(たたえすい)。
  2. 3 - 4がつ一旦いったんみずき、たがやす(ただし、状態じょうたいによっては不要ふよう)。
  3. 再度さいどたたえすいし、田植たうえ。
  4. 必要ひつようおうじ、中干なかぼしをおこなう。
  5. 稲刈いねかたたえすい冬期とうきたたえすい)。

稲作いなさく文化ぶんか

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稲作いなさく文化ぶんか

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稲作いなさく文化ぶんかいね生産せいさんするための農耕のうこう技術ぎじゅつからいねしょく文化ぶんか稲作いなさくかかわる儀礼ぎれい祭祀さいしなど様々さまざま要素ようそ構成こうせいされている。

農耕のうこう技術ぎじゅつでは稲作いなさくのための農具のうぐ収穫しゅうかく動物どうぶつもちいた畜力ちくりょく利用りようや、水田すいでん形態けいたい田植たうえや施肥せひなどの栽培さいばい技術ぎじゅつ虫追むそういや鳥追とりおい、カカシなど鳥獣ちょうじゅうけの文化ぶんか存在そんざいする。また、穂刈ほかりしたあとのわら様々さまざま用途ようとがあり、わら細工ざいく信仰しんこうともかかわりがふかい。しょく文化ぶんかではかゆ強飯こわいいもちちまきなど多様たようかた調理ちょうりほう存在そんざいした。また、高倉たかくらなどの貯蔵ちょぞうほうや、醸造じょうぞうしてさけにするなど幅広はばひろ利用りようおこなわれていた。水田すいでん光景こうけいは、日本にっぽん伝統でんとうてき文化ぶんかの1つといえ、日本人にっぽんじん稲作いなさくふかかかわりをしめすものとして、田遊たあそ田植たうえ田植たうえおどり御田みたさい田植たうえ御田みたまいひとし豊作ほうさくいのるためのおおくの祝儀しゅうぎしき収穫しゅうかくさい民俗みんぞく芸能げいのう伝承でんしょうされている。

宮中きゅうちゅう祭祀さいしにおいても天皇てんのう皇居こうきょ御田みた収穫しゅうかくされた稲穂いなほてんあきら大神おおがみ(アマテラスオオミカミ)にささげ、そのとし収穫しゅうかく感謝かんしゃする新嘗祭にいなめさいがおこなわれている。天皇てんのうとくじんは、皇居こうきょない生物せいぶつがく研究所けんきゅうじょなどで、水稲すいとうしゅき、田植たうえ、稲刈いねかりをみずからおこなっている(宮内庁くないちょうサイト)。なお漢字かんじの「とし」は、元々もともとは「秊」(禾 / せん)と表記ひょうきされたで、部首ぶしゅに「禾」がはいっているてんからもほどけるように、いね栽培さいばいする周期しゅうきを1ねん見立みたてていた。

水田すいでん稲作いなさく農耕のうこうのもつたか持続じぞくせい

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水田すいでん稲作いなさく農耕のうこうがその環境かんきょうあたえる負荷ふか限定げんていてきである。かずせん年間ねんかんにわたってひがしアジア・東南とうなんアジアの各地かくち水田すいでん稲作いなさく農耕のうこうおこなわれてきているが、農地のうち耕作こうさく不能ふのうになったれいはあまりられていない。麦作むぎさくこしてきた土壌どじょう破壊はかい歴史れきしくらべて注目ちゅうもくあたいする。

水田すいでん環境かんきょうは、1000しゅえる生物せいぶつ多様たようせいようする「時空じくうあいだてき安定あんていした一時いちじてき湿地しっちあるいは水辺みずべ」ととらえることができ、代替だいたいてき自然しぜんとしてのたか持続じぞくせい安定あんていせい評価ひょうかできる[106]


脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 大連たいれんにあるそう砣子3紀元前きげんぜん2000年代ねんだい後半こうはん)のだいくちばし遺跡いせき
  2. ^ 平壌ぴょんやんにある無文むもん土器どき文化ぶんか時代じだい前期ぜんき紀元前きげんぜん1500年代ねんだい)の南京なんきんさと遺跡いせき

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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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