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みなもとよりゆき

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みなもと よりゆき
みなもとよりゆきぞう建仁寺けんにんじ所蔵しょぞう江戸えど時代じだい
時代じだい 平安へいあん時代じだい末期まっき - 鎌倉かまくら時代ときよ前期ぜんき
生誕せいたん 寿ことぶきひさし元年がんねん8がつ12にち1182ねん9月11にち
死没しぼつ 元久もとひさ元年がんねん7がつ18にち1204ねん8がつ14にち
享年きょうねん23(まん21さいぼつ
改名かいめい 万寿まんす幼名ようみょう)、よりゆき
別名べつめい 鎌倉かまくら殿どのひだり金吾きんご
戒名かいみょう 法華ほっけいん殿どの金吾きんごだいぜんごう
墓所はかしょ 福地山ふくじやま修禅寺しゅぜんじ境内けいだいゆびがつおか
官位かんい 左衛門さえもんとく征夷大将軍せいいたいしょうぐんせい
幕府ばくふ 鎌倉かまくら幕府ばくふだい2だい鎌倉かまくら殿どの
1199ねん - 1203ねん
鎌倉かまくら幕府ばくふだい2だい征夷大将軍せいいたいしょうぐん
在任ざいにん1202ねん - 1203ねん
氏族しぞく 清和せいわはじめ頼信よりのぶながれ河内かわうちはじめ
父母ちちはは ちちみなもと頼朝よりともはは北条ほうじょう政子まさこ
兄弟きょうだい せん鶴丸つるまる?、だいひめよりゆきさだあかつきさんはたじつあさ
つま 正室せいしつしょう[注釈ちゅうしゃく 1]
若狭わかさきょく一品いっぴんぼうあきらひろしむすめつじ殿どの源義仲みなもとのよしなかむすめなど
いちはたおおやけあかつきさかえぜんあかつきたけ御所ごしょ
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鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐう参道さんどうだんかずら

みなもと よりゆき(みなもと の よりいえ)は、鎌倉かまくら時代ときよ前期ぜんき鎌倉かまくら幕府ばくふだい2だい将軍しょうぐん鎌倉かまくら殿どの)。鎌倉かまくら幕府ばくふひらいたみなもと頼朝よりとも嫡男ちゃくなんで、はは北条ほうじょう政子まさこ頼朝よりともとしてはだい3次男じなん政子まさことしてはだい2長男ちょうなん)。

ちち頼朝よりともにより18さい家督かとく相続そうぞくし、鎌倉かまくら幕府ばくふだい2だい鎌倉かまくら殿どのさらに3ねんはん征夷大将軍せいいたいしょうぐんとなる。母方ははかた北条ほうじょう中心ちゅうしんとしてじゅうさんにん合議ごうぎせいがしかれ、よりゆき独断どくだんおさえられたとされるが、当事とうじしゃである北条ほうじょう史書ししょ記録きろくのみでしか確認かくにんできていない。

合議ごうぎせい成立せいりつの3ねんよりゆき重病じゅうびょうおちいったとされ、よりゆきうしたてである比企ひきと、おとうとじつあさかつ北条ほうじょうとの対立たいりつこり、北条ほうじょう一派いっぱ攻撃こうげきにより比企ひき滅亡めつぼうした。よりゆき将軍しょうぐんしょく剥奪はくだつされ、伊豆いずこく修禅寺しゅぜんじ幽閉ゆうへいされたのち暗殺あんさつされた。よりゆき追放ついほうにより、北条ほうじょう鎌倉かまくら幕府ばくふ実権じっけんにぎることになる。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

鎌倉かまくら殿どの嫡男ちゃくなん[編集へんしゅう]

寿ことぶきひさし元年がんねん1182ねん)8がつ12にちみなもと頼朝よりとも嫡男ちゃくなんとして鎌倉かまくら比企ひきだに比企ひきのういん屋敷やしきまれる[1]幼名ようみょう万寿まんすはは頼朝よりとも流人るにん時代じだいつまとなった北条ほうじょう政子まさこ頼朝よりとも36さい鎌倉かまくらり3ねん待望たいぼう後継こうけいしゃ男子だんしとして、周囲しゅうい祝福しゅくふく一身いっしんけての誕生たんじょうであった。政子まさこよりゆき懐妊かいにんしたさい頼朝よりとも安産あんざん祈祷きとうのため鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐう若宮わかみや大路おおじ整備せいびおこない、有力ゆうりょく御家人ごけにんたちがいしはこんでだんかずらつくり、頼朝よりともみずか監督かんとくおこなった。よりゆき乳母うばちちには頼朝よりとも乳母うばであった比企ひき養子ようしであるのういんえらばれ、乳母うばには最初さいしょちちづけ儀式ぎしき比企ひき次女じじょかわこしかわこし重頼しげよりしつ)がばれた。その乳母うばとして梶原かじはら景時かげときつまほか比企ひきさんじょ平賀ひらが義信よしのぶしつ)、のういんつまなど、おも比企ひき一族いちぞくからえらばれた。

よりゆき側近そっきんは、比企ひき三郎さぶろう比企ひきいん小笠原おがさわらちょうけい中野なかの能成よしなり北条ほうじょうぼう和田わだちょうもりみなもとせいしるし紀行きこうけいたいらともやすしなどであり、政治せいじてき後見人こうけんにん梶原かじはら景時かげとき比企ひきのういんであった。いずれも頼朝よりともによって指名しめいされた人々ひとびとである[2]

たてひさ4ねん1193ねん)5がつ富士ふじ巻狩まきがで、12さいよりゆきはじめて鹿しかると、頼朝よりともよろこんで政子まさこ報告ほうこく使つかいをおくったが、政子まさこは「武将ぶしょう嫡子ちゃくしならたりまえのことである」と使者ししゃかえした。これについては、よりゆき比企ひき関係かんけいふかかったため政子まさこがそれをきらったとするせつや、よりゆき鹿しかりはかみによってかれ頼朝よりとも後継こうけいしゃとみなされたことを人々ひとびとみとめさせる効果こうかち、そのために頼朝よりともはことのほかよろこんだのだが政子まさこにはそれが理解りかいできなかったとするせつがある[3]一方いっぽうで、政子まさこ発言はつげんよりゆきおとしめるための『吾妻あづまきょう』の曲筆きょくひつで、実際じっさいにはそのような発言はつげんはなかったとするせつもある[4]。なお、この巻狩まきがりで曾我そが兄弟きょうだいかたきこり、叔父おじ源範頼みなもとののりより頼朝よりとも謀反むほんうたがいをけて流罪るざいしょされている。

たてひさ6ねん1195ねん)2がつ頼朝よりとも政子まさこよりゆきだいひめともなって上洛じょうらくする。よりゆきは6がつ3にちと24にち参内さんだいし、頼朝よりとも後継こうけいしゃとしての披露ひろうおこなわれた。けんひさ8ねん1197ねん)、16さいしたがえじょうみぎ近衛このえけん少将しょうしょう叙任じょにんされる。まれながらの「鎌倉かまくら殿どの」であるよりゆき武芸ぶげい達人たつじんとして成長せいちょうした。けんひさ9ねん1198ねん)には長子ちょうしいちはた誕生たんじょうしている。

なお、『吾妻あづまきょう』にはよりゆき元服げんぷく記事きじがない。これについては、『吾妻あづまきょう』の欠落けつらくした部分ぶぶんであるたてひさ7ねん1196ねん)からたてひさ10ねん1199ねん)1がつまでのうちよりゆき叙任じょにんされたたてひさ8ねん(1197ねん以前いぜんのどこかで元服げんぷくしたとするせつ[5]や、たてひさ6ねん以前いぜん元服げんぷくしたが『吾妻あづまきょう編纂へんさんしゃなんらかの理由りゆうでそれを記載きさいしなかったとするせつ[4]などがある。

だいだい鎌倉かまくら殿どの[編集へんしゅう]

たてひさ10ねん1199ねん)1がつ13にちちち頼朝よりとも急死きゅうしする。よりゆき同月どうげつ20にちけでひだり中将ちゅうじょうとなり、ついで26にちけで家督かとく相続そうぞくし、だい2だい鎌倉かまくら殿どのとなる。ときに18さいであった。1 - 2がつごろには武士ぶしたち大勢おおぜい京都きょうとのぼり、きゅう政権せいけん交代こうたいじょうじた不穏ふおんうごきを警戒けいかいする態勢たいせいられており、このあいださん左衛門さえもん事件じけん発生はっせいしている。

よりゆき家督かとく相続そうぞくして3かげつの4がつ北条ほうじょう有力ゆうりょく御家人ごけにんによるじゅうさんにん合議ごうぎせいがしかれ、よりゆきじか訴訟そしょうを聴断することは停止ていしされた。反発はんぱつしたよりゆき小笠原おがさわらちょうけい比企ひき三郎さぶろう比企ひきいん中野なかの能成よしなり以下いかわか近習きんじゅ5にん[注釈ちゅうしゃく 2]指名しめいして、かれらでなければ自分じぶんへの目通めどおりをゆるさず、またこれに手向てむかってはならないという命令めいれいした。また正治しょうじ元年がんねん(1199ねん)7がつには小笠原おがさわら比企ひき中野なかの和田わだちょうもりらにたいして、安達あだち景盛かげもり留守るすねらい、その愛妾あいしょうれてるようにめいじた。このあたりの『吾妻あづまきょう』には、よりゆき側近そっきん乳母うば一族いちぞくである比企ひき重用じゅうようし、従来じゅうらい慣習かんしゅう無視むしした独裁どくさいてき判断はんだんおこなった挿話そうわならべられている(じゅうさんにん合議ごうぎせい実態じったいよりゆき本当ほんとう暗君あんくんであったかについては、#じゅうさんにん合議ごうぎせい実態じったいよりゆき実績じっせき参照さんしょう)。

合議ごうぎせい設立せつりつから半年はんとしの10がつ頼朝よりともだいから側近そっきんとして重用じゅうようされていたさむらいしょ長官ちょうかん梶原かじはら景時かげとき反発はんぱつする御家人ごけにんたちには、御家人ごけにん66めいによる景時かげとき糾弾きゅうだん連判れんばんじょうよりゆき提出ていしゅつした。よりゆき弁明べんめいもとめられた景時かげときは、なん抗弁こうべんもせず所領しょりょうくだる。謹慎きんしんののち、鎌倉かまくらもどった景時かげとき政務せいむへの復帰ふっきよりゆきねがったが、よりゆきけいすくうことができず、景時かげとき鎌倉かまくら追放ついほうもうわたされた。正治しょうじ2ねん1200ねん)1がつ20日はつか失意しつい景時かげとき一族いちぞくひきいて京都きょうとのぼ道中どうちゅう在地ざいち御家人ごけにんたちから襲撃しゅうげきけ、一族いちぞくもろとも滅亡めつぼうした[6]九条くじょうけんの『たま正治しょうじ2ねん正月しょうがつ2にちじょうによると、景時かげときよりゆきおとうとであるせんはた(のちの源実朝みなもとのさねとも)を将軍しょうぐんてようとする陰謀いんぼうがあるとよりゆき報告ほうこくし、武士ぶしたちと対決たいけつしたがかされ一族いちぞくとともに追放ついほうされたという。慈円じえんは『かんしょう』で、景時かげときなせたことはよりゆき失策しっさくであるとひょうした(梶原かじはら景時かげときへん)。

たてひとし元年がんねん1201ねん正月しょうがつから5がつにかけて、景時かげとき与党よとうであったじょう一族いちぞくたてひとしらんこして鎮圧ちんあつされる。よりゆきは、らえられて鎌倉かまくらおくられてきたじょう一族いちぞくおんな武者むしゃさかがく御前ごぜん引見いんけんしている。たてひとし2ねん1202ねん)7がつ22にちしたがえじょされ、征夷大将軍せいいたいしょうぐん宣下せんげされる。

将軍しょうぐん追放ついほう[編集へんしゅう]

景時かげとき滅亡めつぼうから3ねんたてひとし3ねん1203ねん)5がつよりゆきせんはた乳母うば阿波あわきょくおっと叔父おじである阿野あのちょんしげる謀反ぼうほんじんとがめ逮捕たいほ殺害さつがいした。さらに阿波あわきょく逮捕たいほしようとしたが、阿波あわきょくあねである政子まさこわたしを拒否きょひする。

たてひとし3ねん8がつ10日とおか(1203ねん9がつ16にち)、やまい平癒へいゆ祈念きねん三嶋みしま大社たいしゃ奉納ほうのうしたよりゆきひつ般若心経はんにゃしんぎょう

ぜんなり事件じけんまえの3がつごろから体調たいちょう不良ふりょうあらわれていたよりゆきは、7がつなかぎに急病きゅうびょうにかかり、8がつまつには危篤きとく状態じょうたいおちいった。まだよりゆき存命ぞんめいしているにもかかわらず、鎌倉かまくらから「9がつ1にちよりゆき病死びょうししたので、せんはたあといだ」との報告ほうこくが9月7にち早朝そうちょうとどき、せんはた征夷大将軍せいいたいしょうぐん任命にんめい要請ようせいされたことが、藤原ふじわら定家さだいえ日記にっき明月めいげつ』のほか複数ふくすう京都きょうとがわ記録きろく確認かくにんされている。使者ししゃ鎌倉かまくらった前後ぜんごおもわれる9がつ2にち鎌倉かまくらではよりゆき乳母うばちち長男ちょうなんいちはた外祖父がいそふである比企ひきのういん北条ほうじょう時政ときまさによって謀殺ぼうさつされ、比企ひき一族いちぞくほろぼされた(比企ひきのういんへん)。

一人ひとりのこったよりゆき多少たしょう病状びょうじょう回復かいふくして事件じけん激怒げきど時政ときまさ討伐とうばつめいじるがしたがものはなく、9月7にち鎌倉かまくら殿どの地位ちいわれ、せんはたがこれにわった。これによって時政ときまさ幕府ばくふ実権じっけんにぎることになる。

吾妻あづまきょう』によると、「よりゆき重病じゅうびょうのため、あとは6さい長男ちょうなんいちはたぎ、日本国にっぽんこくそう守護しゅご関東かんとう28かこくそう地頭じとうとなり、12さいおとうとせんはたには関西かんさい38かこくそう地頭じとうゆずると発表はっぴょうされた[注釈ちゅうしゃく 3]。しかしせんはたゆずられることに不満ふまんいたのういんが、せんはた北条ほうじょう討伐とうばつくわだてた」(8がつ27にちじょう)。「病床びょうしょうよりゆきのういんによる北条ほうじょう討伐とうばつ密議みつぎ障子しょうじかげきしていた政子まさこ時政ときまさ報告ほうこくし、先手せんてった時政ときまさ自邸じていのういんして殺害さつがいいちはた屋敷やしきめ、比企ひき一族いちぞくほろぼしいちはた焼死しょうしした」(9がつ2にちじょう)としている。

京都きょうとがわ記録きろくである『かんしょう』によれば、よりゆき大江広元おおえのひろもと屋敷やしき滞在たいざいちゅうやまいおもくなったので自分じぶんから出家しゅっけし、あとはすべいちはたゆずろうとした。これでは比企ひきのういん全盛ぜんせい時代じだいになるとおそれた時政ときまさのういんして謀殺ぼうさつし、同時どうじいちはたころそうと軍勢ぐんぜいけた。いちはたはようやくははいてびたが、のこ一族いちぞくみなたれた。やがて回復かいふくしたよりゆきはこれをいて激怒げきど太刀たちがったが、政子まさこがこれをさえけ、修禅寺しゅぜんじめてしまった。11月になっていちはたらえられ、北条ほうじょうよしとき手勢てぜいころされてめられたという。

最期さいご[編集へんしゅう]

よりゆき伊豆いずこく修禅寺しゅぜんじ護送ごそうされ、翌年よくねん元久もとひさ元年がんねん1204ねん)7がつ18にち北条ほうじょう手兵しゅへい[注釈ちゅうしゃく 4]によって殺害さつがいされた。享年きょうねん23(まん21さいぼつ)。『吾妻あづまきょう』はそのについて、ただ飛脚ひきゃくからよりゆき死去しきょほうがあったことをみじかしるすのみである(7がつ19にちじょう)。殺害さつがい当日とうじつ日付ひづけの『かんしょう』によると、抵抗ていこうしたよりゆきくびひもけ、急所きゅうしょさえてころしたという[注釈ちゅうしゃく 5]南北なんぼくあさ史書ししょである『れきあいだ』では、入浴にゅうよくちゅう殺害さつがいされたとしている[注釈ちゅうしゃく 6]

評価ひょうか[編集へんしゅう]

北条ほうじょう編纂へんさんである『吾妻あづまきょう』におけるよりゆきぞうは、遊興ゆうきょうにふけり家臣かしん愛妾あいしょううばおうとする暗君あんくんとしてえがかれている。ただし比企ひき滅亡めつぼうよりゆき追放ついほうかんする『吾妻あづまきょう』の記述きじゅつは、京都きょうとがわ史料しりょうとはあきらかな相違そういがあり、よりゆきをことさらおとしめる記述きじゅつ北条ほうじょうによる政治せいじてき作為さくいかんがえられている。『かんしょう』では「マタむかしいまフツニナキほどキキニテアリケリ、ノクモリナクキコエキ(古今ここんならびなき武芸ぶげい腕前うでまえぬしだとは、かくれもない評判ひょうばんであった)」、『ろくだいかちごと』では「百発百中ひゃっぱつひゃくちゅうげいながじて、武器ぶき武家ぶけさきにこえたり」としるされている。

またよりゆき近習きんじゅであった信濃しなのこく御家人ごけにん中野なかの能成よしなりは、『吾妻あづまきょう』ではよりゆき連座れんざして所領しょりょう没収ぼっしゅうされ遠流おんるとされたことになっているが、『市河いちかわ文書ぶんしょ』にのこされている書状しょじょうでは、比企ひき滅亡めつぼう直後ちょくごたてひとし3ねん1203ねん)9がつ4にち日付ひづけ時政ときまさから「比企ひきのういんほうのため、所領しょりょううばられたそうだが、とくに特別とくべつ待遇たいぐうあたえる」という所領しょりょう安堵あんどけている。この能成よしなりふか関係かんけいのあった時政ときまさ北条ほうじょうぼうよりゆき蹴鞠けまり相手あいてとなっており、よりゆき周辺しゅうへんには北条ほうじょうによる監視かんしがあったとられる(『吾妻あづまきょう#吾妻あづまきょう曲筆きょくひつ顕彰けんしょう』も参照さんしょうのこと)。

頼朝よりとも死去しきょ前後ぜんごたてひさななねん政変せいへんさん左衛門さえもん事件じけんにより朝廷ちょうていはん幕府ばくふ攻勢こうせいつよめていた。じゅうさんにん合議ごうぎせいがしかれたのは、よりゆき頼朝よりともあといでわずか3ヶ月かげつであり、よりゆき政治せいじ能力のうりょく欠如けつじょによるものとはかんがえにくい。よりゆき排斥はいせき北条ほうじょう陰謀いんぼうのみではなく、幕府ばくふ成立せいりつ起動きどうりょくとなった東国とうごく武士ぶしたち将軍しょうぐん独裁どくさいへの鬱積うっせきした不満ふまん背景はいけいにあったとおもわれる。また、じゅうさんにん合議ごうぎせい導入どうにゅうおながつおこなわれたといちゅうしょ移転いてんかんする『吾妻あづまきょう』の記事きじにも矛盾むじゅん指摘してきされており[注釈ちゅうしゃく 7]よりゆきおこなったとされる独裁どくさいてき親裁しんさいじつ頼朝よりとも時代じだいからのもので、『吾妻あづまきょう』において頼朝よりとも御家人ごけにんあいだ対立たいりつしょうじていたのをかく曲筆きょくひつおこなわれた結果けっかよりゆき行為こういだけが記録きろくされたとする指摘してきされている[11]

結局けっきょくよりゆき為政者いせいしゃとしてはほとんど特色とくしょくしめせないままぼっし、以降いこう御家人ごけにんたちによる泥沼どろぬま権力けんりょく闘争とうそうつづくことになった。そしてすうだい有力ゆうりょく御家人ごけにんたち合従連衡がっしょうれんこうかえしてほろびていくなか権力けんりょく闘争とうそうのこっていった北条ほうじょう権力けんりょく次第しだい特出とくしゅつしていくことになる(執権しっけん政治せいじおよびとくむね専制せんせい)。

よりゆき殺害さつがい原因げんいん[編集へんしゅう]

よりゆき側近そっきん政治せいじてき後見人こうけんにんはいずれも頼朝よりともえらんだ人物じんぶつであったが、そのかおぶれによりつぎ世代せだい比企ひき中心ちゅうしんとなることがあきらかであった[2]。そのため、よりゆき政権せいけんにおける権力けんりょく闘争とうそうは、頼朝よりともよりゆきのためにいた政治せいじ路線ろせんと、その政治せいじ路線ろせんではいずれ政権せいけん中枢ちゅうすうからはずされることになる北条ほうじょうとの対立たいりつであった[2]よりゆきちち頼朝よりとものように武家ぶけ棟梁とうりょうとしておうとする意識いしき武断ぶだん将軍しょうぐんであり、わかさゆえの未熟みじゅくさや暴走ぼうそうられるものの、一方いっぽう政子まさこよりゆき暴走ぼうそうあぶらそそ対応たいおうをして、よりゆき権威けんい失墜しっついさせようとしていた[2]。つまり、よりゆき実力じつりょく発揮はっきするまえ政子まさこ北条ほうじょうさぶられて殺害さつがいされたとかんがえられる[2]

じゅうさんにん合議ごうぎせい実態じったいよりゆき実績じっせき [編集へんしゅう]

じゅうさんにん合議ごうぎせいは、よりゆき訴訟そしょうを「じかに聴断」するのを停止ていしし、北条ほうじょう時政ときまさ宿老しゅくろう13にん合議ごうぎによりはからい、かれ以外いがい訴訟そしょう取次とりつぎみとめないとさだめたもので、通常つうじょうは、就任しゅうにん早々はやばや頼朝よりとも先例せんれいくつがえ失政しっせいかさねて御家人ごけにん信頼しんらいうしなったよりゆきから親裁しんさいけんうばい、執権しっけん政治せいじへの第一歩だいいっぽになったと理解りかいされてきた[12]。だが、現実げんじつにはよりゆきによる親裁しんさい事例じれい存在そんざいするじょう、この体制たいせい自体じたい実態じったい不明ふめい部分ぶぶんおおい。そもそも、その伏線ふくせんとされる『吾妻あづまきょうたてひさ14ねん4がつ12にちじょうにて「幕下まくした将軍しょうぐんときさだかるることあらためらるるのはじめ」とひょうされた後藤ごとうはじめきよし讃岐さぬき守護しゅごしょく罷免ひめんは、朝廷ちょうていでの処分しょぶん対応たいおうした措置そちであり、つづ同年どうねん3がつ23にち伊勢神宮いせじんぐうりょう6箇所かしょ地頭じとうしょく停止ていしにしても、祈祷きとう目的もくてき本所ほんじょりょう配慮はいりょした地頭じとうしょく停止ていし寄進きしん頼朝よりとも時代じだいからすくなくはなく、失政しっせいとするには説得せっとくりょくとぼしい[12]

近年きんねん研究けんきゅうでは、この体制たいせい将軍しょうぐん独断どくだんふせ機能きのうみとめつつも、宿老しゅくろう合議ごうぎよりゆき最終さいしゅう判断はんだんくだ方式ほうしきをとったもので、親裁しんさい自体じたい否定ひていしてはいないとされる[12]。すなわち、内実ないじつ訴訟そしょう取次とりつぎを13にんかぎるという制度せいどてきわくつくったもので、直前ちょくぜんといちゅうしょ開設かいせつ機能きのう拡大かくだいよりゆきからすすんだ訴訟そしょう機構きこうとしての政所まんどころ整備せいび、そして先述せんじゅつ宿老しゅくろう役割やくわりかんがえても、わかよりゆき権力けんりょく補完ほかんする体制たいせいととのえられたものとすべきである[12]

よりゆき親裁しんさいれいとして、正治しょうじ2ねん1200ねん)の陸奥みちのくこくしん熊野くまの社領しゃりょうさかいしょうろんられる。『吾妻あづまきょう同年どうねん5がつ28にちじょうによれば、この訴訟そしょういて、よりゆき係争けいそう絵図えず中央ちゅうおうせんき、「ところ広狭こうきょううんまかすべし。使節しせつひまついやし、地下ちか実検じっけんせしむるにあたはず。向後きょうこうさかいしょうろんこといては、此のごと成敗せいばいあるべし。ちりよしぞんずるのぞくいては、そうろんいたすべからず」とべたという[12][13]

だが、『吾妻あづまきょう』によれば同年どうねん8がつには側近そっきんそうみなもとせい陸奥みちのくこく伊達だてぐんさかいしょうろん実検じっけん下向げこうしており、実際じっさいには上記じょうき方針ほうしんつらぬかれたわけではない[12]。また、文書ぶんしょ史料しりょうでのよりゆきは、領家りょうけ主張しゅちょうみとめ、尋問じんもんずに地頭じとうしょく停止ていしする一方いっぽう領主りょうしゅがわ地頭じとう停止ていし要求ようきゅうたいし、地頭じとうひねじょうまえ、地頭じとう補任ほにん頼朝よりとも決定けっていであること、地頭じとう不当ふとう行為こういがないことを根拠こんきょに、その主張しゅちょうよりどころとして却下きゃっかするなど、それなりの判断はんだんおこなっている[12]

吾妻あづまきょうたてひさ10ねん8がつ10日とおかじょうによれば、よりゆき陸奥みちのく出羽でわこく地頭じとうところつとむは、頼朝よりとも決定けっていごと藤原ふじわら時代じだいきゅうぶんまわしまもるようめいじ、さかいしょうろんなどの紛争ふんそうを「ろん」として抑制よくせいしている[12]。つまり、上記じょうき陸奥みちのくこくにおけるさかいしょうろん頼朝よりとも時代じだいさだめを否定ひていするにひとしい「ろん」にならなかった、ということになる[12]。とすると、よりゆき主眼しゅがんはむしろ、代替だいがわりにともな増加ぞうかした紛争ふんそう訴訟そしょうおさえることや、頼朝よりとも時代じだい決定けってい遵守じゅんしゅさせることにあったのだとかんがえられる[12]

また、正治しょうじ2ねん1200ねん)に、国衙こくがへの介入かいにゅうとう後鳥羽ごとばいん逆鱗げきりんれた佐々木ささきけいだかを、守護しゅごしょくとうわせて停止ていししているように、正治しょうじ元年がんねん1199ねんまつからたてひとし2ねん1202ねん)にかけて、よりゆき守護しゅご職務しょくむ制限せいげん確定かくてい積極せっきょくてきんでいる[12]。これとならんでよりゆき熱心ねっしんだったのが、『吾妻あづまきょう正治しょうじ元年がんねん9がつ17にちじょうどう2ねん正月しょうがつ15にちじょうえるように、京都きょうと大番おおばんやくつとむつかまつめぐ問題もんだいであり、よりゆき大番おおばんやく催促さいそくなん守護しゅご厳命げんめいしている[12]

以上いじょうのことを考慮こうりょすると、正治しょうじ元年がんねん東国とうごく地頭じとう荒野あらの開発かいはつめいじ、武蔵むさしこくぶんととのえさせたことや[14]翌年よくねん政所まんどころめいじて諸国しょこくぶん提出ていしゅつさせ、頼朝よりとも挙兵きょへい以後いごしんおん所領しょりょうで500まちえたぶんげ、所領しょりょうたないものあたえようとしたけん[15]注意ちゅうい必要ひつようである。とく後者こうしゃは、宿老しゅくろう反対はんたい実施じっし見送みおくられるが、中小ちゅうしょう御家人ごけにん経済けいざい基盤きばん確保かくほという側面そくめんゆうしており、負担ふたんうえ必要ひつよう措置そちともえる。賦課ふか対象たいしょう把握はあく確保かくほつながるこれらのみは、御家人ごけにん編成へんせい大番おおばんやく整備せいび併行へいこうする政策せいさくであったとかんがえられる[12]

守護しゅご職務しょくむ限定げんてい御家人ごけにんせい再編さいへん京都きょうと大番おおばんやく御家人ごけにんやくは、頼朝よりとも晩年ばんねんたてひさ年間ねんかん朝廷ちょうていとの交渉こうしょうなかおこなわれていたことであり、よりゆきによるしょ政策せいさくは、頼朝よりとも末期まっき路線ろせん継承けいしょうしたうえで、それを確定かくていして制度せいどてき定着ていちゃくさせる道筋みちすじつくった[12]

かんれき[編集へんしゅう]

日付ひづけ旧暦きゅうれき

れき 西暦せいれき 日付ひづけ 内容ないよう
たてひさ8ねん 1197ねん 12月15にち したがえじょうじょし、みぎ近衛このえけん少将しょうしょう任官にんかん。(16さい
たてひさ9ねん 1198ねん 1がつ13にち 讃岐さぬきけんかい兼任けんにん。(17さい
11月21にち せい昇叙しょうじょし、みぎ近衛このえけん少将しょうしょう讃岐さぬきけんかい如元。
たてひさ10ねん 1199ねん 1がつ 家督かとく相続そうぞく。(18さい
1がつ20日はつか ひだり近衛このえ中将ちゅうじょう転任てんにん
正治しょうじ2ねん 1200ねん 1がつ5にち したがえよんじょう昇叙しょうじょし、ひだり近衛このえ中将ちゅうじょう如元。(19さい
1がつ8にち 禁色きんじきゆるされる。
10月26にち 左衛門さえもんとくに遷任。
たてひとし2ねん 1202ねん 1がつ23にち せいさん昇叙しょうじょし、左衛門さえもんとく如元。(21さい
7がつ22にち したがえ昇叙しょうじょし、征夷大将軍せいいたいしょうぐん宣下せんげ左衛門さえもんとく如元。
たてひとし3ねん 1203ねん 1がつ23にち せい昇叙しょうじょし、左衛門さえもんとく如元。(22さい
9月7にち 出家しゅっけ
元久もとひさ元年がんねん 1204ねん 7がつ18にち 薨去こうきょ享年きょうねん23(まん21さいぼつ)。

墓所はかしょなど[編集へんしゅう]

みなもとよりゆきはか
静岡しずおかけん伊豆いず修善寺しゅぜんじ
  • たてひとし2ねん1202ねん)に建仁寺けんにんじ建立こんりゅうし、どうてらには江戸えど時代じだい仏師ぶっし辰巳たつみぞうすすむによってつくられたよりゆき木像もくぞう安置あんちされている。
  • 三嶋みしま大社たいしゃにはたてひとし3ねん1203ねん)に突如とつじょ発病はつびょうしたさい、その平癒へいゆ祈願きがんした自筆じひつ般若心経はんにゃしんぎょう奉納ほうのうされている。
  • 幽閉ゆうへいされた伊豆いず修禅寺しゅぜんじには政子まさこよりゆき供養くようのためにてたゆびがつ殿どの江戸えど時代じだい建立こんりゅうされたよりゆき供養くようとうなどがある。また、近隣きんりん子供こどもたち付近ふきん山々やまやまあそびまわったりして子供こども面倒めんどうかったらしく、地元じもと有志ゆうしによっておもよりゆきしのんだ将軍しょうぐんあいわらわ地蔵じぞうみことてられている。修善寺しゅぜんじ温泉おんせんまちでは、毎年まいとし7がつよりゆきまつりがおこなわれている。

系譜けいふ[編集へんしゅう]

よりゆきには4なん1じょがいたが、みな非業ひごうげている。若狭わかさきょく所生しょせい嫡男ちゃくなんいちはたたてひとし3ねん(1203ねん)、比企ひきのういんへん北条ほうじょう殺害さつがいされた。のこされた男子だんしはそれぞれ出家しゅっけした。はは一品いっぴんぼうあきらひろしむすめ三浦みうらたねよし再婚さいこんした三男さんなんさかえは、たてたもつ元年がんねん(1213ねん)のいずみちかし衡のらん擁立ようりつされるが、翌年よくねん自害じがいまれた。つじ殿どので、三浦みうらよしむらあづけられたのち、鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐうてら別当べっとうていあかつきの受法の弟子でしとなった次男じなんおおやけあかつきは、けん7ねん(1219ねん)にじつあさ暗殺あんさつ実行じっこうした直後ちょくごたれた。さかえははおなじくするよんなんぜんあかつきは、おおやけあかつき荷担かたんしたとしてうけたまわひさし2ねん(1220ねん)にきょう殺害さつがいされた。

源義仲みなもとのよしなかむすめははとするとつたえられる女子じょしたけ御所ごしょ祖母そぼ政子まさこのもとにあり、北条ほうじょう擁立ようりつした4だい将軍しょうぐん藤原ふじわらよりゆきけい台所だいどころとなるが、天福てんぷく2ねん(1234ねん)に33さいむかえた初産しょさん難産なんざんとなり、男子だんし死産しざんしたのち死去しきょした。叔父おじじつあさ同様どうようよりゆき子供こどもたちもさぬまま早世そうせいしたため、たけ御所ごしょによって、頼朝よりとも政子まさこ血筋ちすじ完全かんぜん断絶だんぜつした。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 吾妻あづまきょう』で若狭わかさきょく愛妾あいしょうつじ殿どのしつかれているが、若狭わかさ局所きょくしょせいいちはた嫡子ちゃくしひとしいあつかいをけており、だれ正室せいしつかははっきりしていない。くわしくはつじ殿どの#みなもとよりゆき妻妾さいしょうとしての地位ちい参照さんしょうのこと。
  2. ^ 吾妻あづまきょう』は5にんとしながら名前なまえを4にんしかしるしていない。のこ1人ひとりについては北条ほうじょうぼう比定ひていする見解けんかいがある。『北条ほうじょうきゅうだい』では小笠原おがさわらちょうけい比企ひき三郎さぶろう和田わだちょうもり中野なかの能成よしなり細野ほその四郎しろうの5にんとなっている。
  3. ^ 異説いせつとして、当時とうじ守護しゅご設置せっちされたのはいちはたゆずられる予定よていであった関東かんとう28かこくのみで、せんはたゆずられた関西かんさい38かこく守護しゅご文治ぶんじ2ねん6がつ21にち停止ていしされた状態じょうたいのままであったとする保立ほたて道久みちひさ見解けんかいがある[7]
  4. ^ かんしょう』や『武家ぶけ年代ねんだい』『ぞうきょう』によればおくった刺客しかく活字かつじほんうけたまわひさ』や『梅松うめまつろん』では時政ときまさおくった刺客しかくとしている。
  5. ^ 修禅寺しゅぜんじにてまたよりゆき入道にゅうどう刺殺さしころしてけり。とみに、えとりつめざりければ、頸にいとぐちをつけ、ふぐりをりなどしてころしてけりときこえき。」[8]
  6. ^ 修禅寺しゅぜんじ浴室よくしつうちにて討まつり。」[9]
  7. ^ 森内もりうち優子ゆうこ指摘してきれば、『吾妻あづまきょうたてひさ10ねん4がつ1にちじょうには頼朝よりとも時代じだい熊谷くまがい直実なおみ久下くげ直光なおみつ訴訟そしょう口頭こうとう弁論べんろんさい直実なおみちょくひかり梶原かじはら景時かげときつうじているとうたがってかたないてたぶさってそのまま逐電ちくでんしてしまうという騒動そうどうきたことをきっかけに移転いてんまったとされているが、この騒動そうどうしるされているのはおなじ『吾妻あづまきょう』のけんひさ3ねん11月25にちじょうであり、そのあいだの6年間ねんかんとえちゅうしょ移転いてん実施じっしされず頼朝よりともんだ直後ちょくごのこの時期じき移転いてんおこなわれた明確めいかく理由りゆうかれていない(4がつ1にちじょうにはそのあいだ三善みよし康信やすのぶやしき訴訟そしょうおこなわれていたとかれているが、康信やすのぶていからの移転いてんとしても理由りゆうしるされていないことにわりはい)。さらにこの訴訟そしょう前年ぜんねんにあたるたてひさ2ねん3がつ1にちづけ熊谷くまがい直実なおみ作成さくせいした譲状ゆずりじょう名義めいぎは「地頭じとうそうはちすせい」であり、その書体しょたい花押かおうから現存げんそんする譲状ゆずりじょう直実なおみ作成さくせい正本しょうほん可能かのうせいたか[10]たてひさ3ねん11月25にち実際じっさい直実なおみ直光なおみつ訴訟そしょうおこなわれていたとしてもすで出家しゅっけしている直実なおみかたないてたぶさることは不可能ふかのうであり、『吾妻あづまきょう』のけんひさ3ねん11月25にちじょう脚色きゃくしょく曲筆きょくひつ可能かのうせいかんがえられる以上いじょう、これをけているけんひさ10ねん4がつ1にちじょう内容ないようもそのままのかたちでは信用しんようできないことになる(森内もりうちといちゅうしょ移転いてん頼朝よりとも意志いしではなく、頼朝よりともによって御家人ごけにんたちがかねてからの要求ようきゅう実現じつげんさせたとみる)。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ りゅう粛・訳注やくちゅう吾妻あづまきょういち)』岩波いわなみ文庫ぶんこ、1996ねん、104ぺーじ 
  2. ^ a b c d e 永井ながい 2010.
  3. ^ 石井いしいすすむ中世ちゅうせい武士ぶしだん小学館しょうがくかん、1974ねん
  4. ^ a b 坂井さかい孝一こういち源氏げんじ将軍しょうぐん断絶だんぜつ なぜ頼朝よりともさんだい途絶とだえたか』PHP新書しんしょ、2020ねん
  5. ^ 藤本ふじもとよりゆきじんみなもとよりゆきとその時代じだい 代目だいめ鎌倉かまくら殿どの宿老しゅくろうたち吉川弘文館よしかわこうぶんかん歴史れきし文化ぶんかライブラリー〉、2023ねん
  6. ^ 吾妻あづまきょう
  7. ^ 保立ほたて道久みちひさ鎌倉かまくら前期ぜんき国家こっかにおける国土こくど分割ぶんかつ」『歴史れきし評論ひょうろんだい700ごう、2008ねん8がつ /所収しょしゅう:保立ほたて道久みちひさだい6しょう 鎌倉かまくら前期ぜんき国家こっかにおける国土こくど分割ぶんかつ」『中世ちゅうせい国土こくどだかけん天皇てんのう武家ぶけ校倉あぜくら書房しょぼう、2015ねん 
  8. ^ かんしょう』(まきだいろく
  9. ^ れきあいだ』(2かん
  10. ^ はやしゆずる熊谷くまがい直実なおみ出家しゅっけ往生おうじょうかんする史料しりょうについて-『吾妻あづまきょう史料しりょう批判ひはんいち事例じれい」『東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさんしょ研究けんきゅう紀要きよう』15ごう、2005ねん /所収しょしゅう:高橋たかはし 2019, pp. 47–58
  11. ^ 森内もりうち優子ゆうこ熊谷くまがい直実なおみ出家しゅっけかんするいち考察こうさつ」『文書ぶんしょかん紀要きよう』12ごう埼玉さいたま県立けんりつ文書ぶんしょかん、2008ねん /所収しょしゅう:高橋たかはし 2019, pp. 93–102
  12. ^ a b c d e f g h i j k l m n 野口のぐち 2014.
  13. ^ みなもとよりゆきまれながらの鎌倉かまくら殿どの仕掛しかけられた北条ほうじょう陰謀いんぼう”. WEB歴史れきし街道かいどう. PHP研究所けんきゅうじょ (2017ねん8がつ11にち). 2022ねん8がつ15にち閲覧えつらん
  14. ^ 吾妻あづまきょう正治しょうじ元年がんねん11がつ30にちじょう
  15. ^ 吾妻あづまきょう正治しょうじ2ねん12月28にちじょう

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 石井いしいすすむ日本にっぽん歴史れきし 7 鎌倉かまくら幕府ばくふ中公ちゅうこう文庫ぶんこ、1974ねん
  • 本郷ほんごう和人かずとみなもとよりゆき修善寺しゅぜんじころされる」 石井いしいすすむ編著へんちょ別冊べっさつ歴史れきし読本とくほん 鎌倉かまくら北条ほうじょう新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1999ねん
  • 山本やまもと幸司こうじ頼朝よりとも天下てんか草創そうそう』〈講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ〉、2001ねん
  • 本郷ほんごう和人かずとしん中世ちゅうせい王権おうけんろん新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2004ねん
  • 永井ながいすすむ鎌倉かまくらはじめさんだい 一門いちもん重臣じゅうしんみなもと将軍しょうぐん吉川弘文館よしかわこうぶんかん歴史れきし文化ぶんかライブラリー〉、2010ねん 
  • 野口のぐちみのる へんうけたまわ文治ぶんじ内乱ないらん鎌倉かまくら幕府ばくふ成立せいりつ清文せいぶんどう出版しゅっぱん、2014ねん 
  • 高橋たかはしおさむ へん熊谷くまがい直実なおみ』戒光さち出版しゅっぱん〈シリーズ・中世ちゅうせい関東かんとう武士ぶし研究けんきゅう だいはちかん〉、2019ねんISBN 978-4-86403-328-2 
  • 坂井さかい孝一こういち源氏げんじ将軍しょうぐん断絶だんぜつ なぜ頼朝よりともさんだい途絶とだえたか』PHP新書しんしょ、2020ねん
  • 呉座ござ勇一ゆういち頼朝よりともよしとき 武家ぶけ政権せいけん誕生たんじょう講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ〉、2021ねん 
  • 山本やまもとみなみ史伝しでん 北条ほうじょうよしとき 武家ぶけ政権せいけん確立かくりつした権力けんりょくしゃ実像じつぞう小学館しょうがくかん、2021ねん 
  • 藤本ふじもとよりゆきじんみなもとよりゆきとその時代じだい 代目だいめ鎌倉かまくら殿どの宿老しゅくろうたち吉川弘文館よしかわこうぶんかん歴史れきし文化ぶんかライブラリー〉、2023ねん 

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

ごうまき
戯曲ぎきょく
小説しょうせつ
映画えいが
テレビドラマ

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]