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嫡男ちゃくなん

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嫡男ちゃくなん(ちゃくなん)とは、嫡子ちゃくし嫡嗣ちゃくし)ともばれ、一般いっぱん正室せいしつ正嫡せいちゃく)のんだ男子だんしのうちもっと年長ねんちょうす。女子じょし場合ばあい嫡女となる。

概要がいよう[編集へんしゅう]

長男ちょうなん同一どういつされることもあるが、たとえ長男ちょうなんであっても側室そくしつんだである場合ばあい正室せいしつんだおとうと嫡男ちゃくなんとなることもあることから、嫡男ちゃくなん長男ちょうなんかならずしも同一どういつではない。とく嫡男ちゃくなんではない長男ちょうなんは庶長子ちょうしちょう庶子しょし庶子しょしともしょうされる。嫡男ちゃくなん嫡男ちゃくなんまごちゃくそんばれる。また、代々だいだい嫡男ちゃくなん家系かけいである血筋ちすじ嫡流ちゃくりゅうという。また、内孫うちまごうちまごともしょうされる。

ただし、正室せいしつんだ男子だんし全員ぜんいん場合ばあいもある。日本にっぽんにおける現行げんこう皇室こうしつ典範てんぱんの「嫡男ちゃくなん」はこのである。さら明治めいじ以後いご民法みんぽうでは、かつての正室せいしつ相当そうとうするつまんだ子供こども女子じょしふくめて嫡出ちゃくしゅつ呼称こしょうしている。

日本にっぽん歴史れきしじょうにおける嫡男ちゃくなん[編集へんしゅう]

嫡男ちゃくなん嫡子ちゃくしかんがかた日本にっぽんしょうじたのは、律令制りつりょうせいかげせい導入どうにゅう由来ゆらいするせつがあるがさだかではない。このときには正室せいしつんだ長男ちょうなん自動的じどうてき嫡子ちゃくしとしてあつかわれてかげにおいてさい優先ゆうせん位階いかいさづけられることになっていた。なお、この制度せいど民間みんかんにも導入どうにゅうされて戸籍こせきにも記載きさいされることになっていたが、当時とうじいまだに氏族しぞく単位たんい行動こうどうすることがおおかった日本にっぽんではまった定着ていちゃくせず、はやくも奈良なら時代じだい中期ちゅうきにはこの戸籍こせきじょう規定きていすたれていくことになった。また、嫡子ちゃくしさだめられてもそれによって兄弟きょうだいたいして優位ゆういてるかかは無関係むかんけいであった。

極端きょくたん事例じれいげれば、平安へいあん時代じだい初期しょきのべれき22ねん803ねん)、のち右大臣うだいじんとなった藤原ふじわらきた藤原ふじわらない麻呂まろ嫡子ちゃくしさだめたのは、当時とうじきた嫡流ちゃくりゅう藤原ふじわらひさししゅうち麻呂まろ伯父おじ)のむすめんだ藤原ふじわらまもるで(『文徳ふみのり実録じつろくてんやす元年がんねん11がつ5にちじょう)、まもるは10なん当時とうじ5さいたいする長男ちょうなん藤原ふじわら真夏まなつすでに30さいしたがえなかまもるけん少将しょうしょう、1さい年下としした同母どうぼおとうとふゆひだり衛士えじ大尉たいいであった。そのまもる当時とうじ貴族きぞくでは異例いれいの24さいしたがえじょされ、つね親王しんのうむすめ淳和天皇じゅんなてんのうまご)をつまむかえた。だが、このとき右大臣うだいじん異母いぼけいふゆ嗣であった(当時とうじ太政大臣だじょうだいじん左大臣さだいじん不在ふざい、またあに真夏まなつくすりへん失脚しっきゃく)。このため、庶子しょしとされたふゆ嗣とその子孫しそんによって嫡子ちゃくしとされたまもる生涯しょうがい圧迫あっぱくされつづけ、文章ぶんしょうせいえらばれるなどの異才いさいぬしでありながら、せいよん右京大夫うきょうのだいぶというひく地位ちいぼっした。つまり、嫡子ちゃくしえらばれることで最初さいしょ叙位じょいなどにおける効果こうかはあっても将来しょうらい保証ほしょうつものではなかった。

平安へいあん時代じだい後期こうきかげせい意味いみうしなっていくと、嫡子ちゃくし選択せんたく父親ちちおや権限けんげんとなり、その地位ちい財産ざいさんぐに相応ふさわしい人物じんぶつ選択せんたくされるようになった。その場合ばあいには母親ははおや身分みぶん出生しゅっしょうじゅん考慮こうりょされたが、「たて嫡」の儀式ぎしきによって嫡男ちゃくなん擁立ようりつする手続てつづきられれば、正室せいしつ次男じなん以下いか庶子しょし継承けいしょうもありた。なお、当時とうじ公家くげにおいて嫡子ちゃくしあかしとされていたのは、所領しょりょうよりも日記にっき公文書こうぶんしょなど代々だいだい当主とうしゅ継承けいしょうされてきた記録きろくるいであった。先例せんれい重視じゅうしする公家くげ社会しゃかいではその知識ちしきつうじていることが宮廷きゅうてい官僚かんりょうとしての評価ひょうか反映はんえいされ、それが出世しゅっせいえ繁栄はんえい直接ちょくせつつながった。このために、そうした記録きろくるい保持ほじしていること結果けっかてき出世しゅっせ優位ゆういはたらくとかんがえられ、公家くげみずからの嫡子ちゃくしさだめた人物じんぶつにこうした記録きろくるいさづけることでその社会しゃかいてき地位ちい継承けいしょうさせようとした。

武家ぶけでは、男子だんし元服げんぷくするさい太郎たろう次郎じろうまれたじゅん沿って仮名かめいをつけるれいがあるが、嫡男ちゃくなん太郎たろうとし、嫡男ちゃくなん同母どうぼおとうとまれたじゅん次郎じろう三郎さぶろうぶのにたいして、側室そくしつははとする庶子しょし場合ばあい嫡男ちゃくなんより年長ねんちょうであっても嫡男ちゃくなんをはじめ正室せいしつよりも下位かい仮名かめい使つかれいられ、嫡男ちゃくなんとその同母どうぼおとうとと庶兄弟きょうだいとの身分みぶん厳格げんかくであった。また、嫡男ちゃくなんさきんだ場合ばあいには、その嫡男ちゃくなんである嫡孫ちゃくそん伯父おじ叔父おじにあたる嫡男ちゃくなん兄弟きょうだいたちよりも優先ゆうせんてき後継こうけいしゃ地位ちいことがあった。

ぎゃく側室そくしつであっても、年齢ねんれいはは身分みぶんなどを総合そうごうてき勘案かんあんしたうえ領主りょうしゅ後継こうけいしゃとして正当せいとうであるとみとめられれば、これを嫡男ちゃくなんぶこともあった。武家ぶけでは、かつては正室せいしつんだ全員ぜんいんによる分割ぶんかつ相続そうぞくおこなわれていたが、南北なんぼくあさ時代じだいころから長子ちょうし単独たんどく相続そうぞく移行いこうしていった。「嫡男ちゃくなん」の定義ていぎもこれにおうじて変化へんかしたものとかんがえられている。

近世きんせいになると、将軍しょうぐんいえ大名だいみょういえなどでは代々だいだい嫡男ちゃくなんおな幼名ようみょうける日本にっぽん独自どくじ習慣しゅうかんまれた(徳川とくがわ将軍家しょうぐんけの「たけせんだい」、加賀かがはんあるじ前田まえだの「いぬせんだい」など)。また将軍しょうぐん大名だいみょう中国ちゅうごくふうに「国主こくしゅ」「諸侯しょこう」などとばれるようになるにつれ、そのまた嫡男ちゃくなんにも中国ちゅうごくふうの「世子せいし」がもちいられるようになっていった。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]