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おもんみかん親王しんのう

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おもんみかん親王しんのう
鎌倉かまくら幕府ばくふ7だい将軍しょうぐん
続柄つづきがら 宗尊親王むねかたしんのう嫡男ちゃくなん

親王しんのう
出生しゅっしょう ぶんひさし元年がんねん4がつ29にち1264ねん5月26にち
相模さがみこく鎌倉かまくらぐん鎌倉かまくら
死去しきょ よしみれき元年がんねん10月30にち1326ねん11月25にち[1]
山城やましろこく平安京へいあんきょう
子女しじょ じんきよしぞうめぐみひじりめぐみぞうめずらしかんただし中御所なかごしょ久明ひさあき親王しんのうしつ
父親ちちおや 宗尊親王むねかたしんのう
母親ははおや 近衛このえおさむ
役職やくしょく ひん征夷大将軍せいいたいしょうぐん
サイン
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おもんみかん親王しんのう(これやすしんのう)は、鎌倉かまくら幕府ばくふだい7だい征夷大将軍せいいたいしょうぐん。(在任ざいにん1266ねん - 1289ねん

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

だい6だい将軍しょうぐん宗尊親王むねかたしんのう嫡男ちゃくなんとして相模さがみ鎌倉かまくらまれる。ぶんなが3ねん1266ねん)7がつちちはいされて京都きょうと送還そうかんされたことにともない、3さい征夷大将軍せいいたいしょうぐん就任しゅうにんした。親王しんのう宣下せんげがなされずおもんみやすしおうばれていたが、ぶんなが7ねん1270ねん)12月に臣籍しんせき降下こうかしてみなもとせいたまものあずかされ、みなもとおもんみやすし名乗なのる(こう嵯峨さがはじめ)。今日きょうでは一般いっぱんに「おもんみかん親王しんのう」のられ、みや将軍しょうぐん一人ひとりとしてあつかわれることがおおいが、将軍しょうぐん在職ざいしょく期間きかん大半たいはんみなもとおもんみやすし、すなわち源氏げんじ将軍しょうぐんとしてごしていた[注釈ちゅうしゃく 1]

細川ほそかわ重男しげおせつによれば、おもんみかん源氏げんじ将軍しょうぐんであったことは、当時とうじこうむ襲来しゅうらいもと)というゆう事態じたいたいする、執権しっけん北条ほうじょう時宗じしゅうによる政策せいさく一環いっかんであったという。時宗じしゅうはかつてのうけたまわ寿ことぶきひさしらんあるいは承久じょうきゅうらん先例せんれいとして、7だい将軍しょうぐんおもんみやすし初代しょだい将軍しょうぐんみなもと頼朝よりともになぞらえ、時宗じしゅう自身じしん高祖父こうそふよしときになぞらえる[注釈ちゅうしゃく 2]ことで、御家人ごけにん武士ぶし階級かいきゅうちから結集けっしゅうして、もと勝利しょうりすることを祈願きがんしたのだという[注釈ちゅうしゃく 3]弘安ひろやす2ねん1279ねん) のせいへの昇叙しょうじょ弘安ひろやす10ねん1287ねん)のみぎ近衛このえ大将たいしょうへの任官にんかんはいずれも頼朝よりとも意識いしきしてのものであり、北条ほうじょうがその後見こうけんとして幕政ばくせい主導しゅどうすることによって、同氏どうしによるとくむね専制せんせい正統せいとうせいささえる論理ろんりとしても機能きのうしていた。とく源氏げんじたまものせいせい昇叙しょうじょはいずれも時宗じしゅう政権せいけんおこなわれており、時宗じしゅう源氏げんじ将軍しょうぐん復活ふっかつつよのぞんでいたことがうかがえる。一方いっぽう曽我部そがべあい当時とうじ皇室こうしつ内部ないぶ事情じじょう背景はいけいにあったことを指摘してきしている。ちちである宗尊親王むねかたしんのうこう深草ふかくさ亀山かめやまりょう天皇てんのうよりは下位かいであるものの、将軍しょうぐん在任ざいにんちゅう皇位こうい継承けいしょうけんつづけたこう嵯峨さが上皇じょうこう皇統こうとう王家おうけ)の主要しゅよう成員せいいんであり、かれ京都きょうと送還そうかんした鎌倉かまくら幕府ばくふ退任たいにん一定いってい配慮はいりょをしつづけた[5]。しかし、ぶんなが5ねん1268ねん)に後深草天皇ごふかくさてんのう皇子おうじいて亀山天皇かめやまてんのう皇子おうじであるじん親王しんのうこう宇多天皇うだてんのう)が立太子りったいしされたことで、宗尊親王むねかたしんのう子孫しそん皇位こうい可能かのうせいうしなわれたことに対応たいおうした措置そちであったという[6]

建治けんじ3ねん1277ねん)7がつおもんみやすし御所ごしょ新調しんちょうされたさいおもんみやすしにゅう見計みはからって時宗じしゅうみずからがにわりて着座ちゃくざおもんみやすしむかえた。御家人ごけにん時宗じしゅうにならいにわりてれつした(『建治けんじさんねん』19にちじょう)。権力けんりょく掌中しょうちゅうおさめていた時宗じしゅうによるおもんみやすしへの礼遇れいぐうであり、将軍しょうぐんとして一定いってい権威けんい維持いじされていたことをしめしている。弘安ひろやす7ねん1284ねん)に時宗じしゅう死去しきょするが、その安達あだち泰盛やすもり平頼綱たいらのよりつな時宗じしゅう遺志いしいだ。霜月しもづき騒動そうどう頼綱よりつな執政しっせいどう10ねん1287ねん)におもんみやすしみぎ近衛このえ大将たいしょうにんじられた。しかしわずか3かげつ辞任じにんし、幕府ばくふ要請ようせいすめらぎせき復帰ふっきしてこう宇多天皇うだてんのうより親王しんのう宣下せんげがなされた[7]俗人ぞくじんまごおう天皇てんのうまご)が親王しんのう宣下せんげされるのは歴史れきしじょうはじめての事例じれいで、のちに9だい将軍しょうぐんとなったまもりくに親王しんのうにも踏襲とうしゅうされている。

なお前述ぜんじゅつ細川ほそかわ見解けんかいでは、将軍しょうぐん親王しんのう目指めざ頼綱よりつな意向いこうによるもので、執権しっけん北条ほうじょう貞時さだとき成人せいじんしたおもんみやすし長期ちょうき在任ざいにんきらい、こう深草ふかくさ上皇じょうこう皇子おうじである久明ひさあき親王しんのう就任しゅうにんのぞみ、おもんみかん追放ついほうしも準備じゅんび意図いとしたものであったとしている[注釈ちゅうしゃく 4][8]一方いっぽう前述ぜんじゅつ曽我部そがべ指摘してきによれば、親王しんのう宣下せんげもまた当時とうじ皇室こうしつ内部ないぶ事情じじょうによるものであり、建治けんじ元年がんねん(1275ねん)にこう深草ふかくさ上皇じょうこう持明院じみょういんみつるがわかえしによって皇子おうじひろしじん親王しんのう伏見天皇ふしみてんのう)が立太子りったいしてられ、おもんみやすしへの親王しんのう宣下せんげから17にち伏見天皇ふしみてんのう践祚せんそしている。親王しんのう宣下せんげ譲位じょうい直前ちょくぜんおこなわれた亀山かめやま上皇じょうこう大覚寺だいかくじみつるがわによる宗尊親王むねかたしんのうけい工作こうさく一環いっかんとしている[注釈ちゅうしゃく 5][6]。しかし、こう深草ふかくさ上皇じょうこうせいおう2ねん4がつ伏見天皇ふしみてんのう皇子おうじたねじん親王しんのうこう伏見天皇ふしみてんのう)の立太子りったいし強行きょうこうした。そして、自己じこ皇統こうとう安定あんていのために幕府ばくふとの関係かんけい強化きょうか意図いとして[注釈ちゅうしゃく 6]自己じこ皇統こうとう王家おうけ)の成員せいいんへの将軍しょうぐんしょく交代こうたいもとめたのであり[10]おもんみやすし臣籍しんせき降下こうかすめらぎせき復帰ふっき親王しんのう宣下せんげ)、将軍しょうぐん解任かいにんのいずれもが大覚寺だいかくじみつる持明院じみょういんみつるによる両統りょうとう迭立成立せいりつ密接みっせつかかわっていたとえるとしている。また、この時期じきには貞時さだときとくむねへの積極せっきょくてき服従ふくじゅう条件じょうけんとして足利あしかがさだ源氏げんじ嫡流ちゃくりゅうとして公認こうにんしており、足利あしかが源氏げんじ一門いちもんとの格差かくさ明示めいじするためにこれをむねへの協力きょうりょく姿勢しせいしめしたが、御家人ごけにん足利あしかが源氏げんじ将軍しょうぐんいて源氏げんじ嫡流ちゃくりゅうとなる矛盾むじゅんかかえることになるためにおもんみやすし親王しんのうとする必要ひつようせいがあったという事情じじょう影響えいきょうしているともしている。ただし鎌倉かまくら時代じだい足利あしかがが「みなもと嫡流ちゃくりゅう」だったとするどう時代じだい史料しりょう確認かくにんできず、このせつしるされているのは戦国せんごく時代じだい成立せいりつの『今川いまがわ』『今川いまがわ』であり、源実朝みなもとのさねとも没後ぼつご鎌倉かまくら時代じだいには武士ぶしたちは「みなもと嫡流ちゃくりゅう」は滅亡めつぼうしたからもういないとかんがえていたとする見解けんかいもある[11]

26さいとなったせいおう2ねん9月14にち1289ねん9月29にち)には将軍しょうぐんしょく解任かいにんされ[12]きょう送還そうかんされた。『とはずがたり』によれば、鎌倉かまくら追放ついほうさい、まだおもんみかん親王しんのう輿こしらないうちから将軍しょうぐん御所ごしょ身分みぶんひく武士ぶしたちに土足どそく破壊はかいされ、女房にょうぼうたちはいて右往左往うおうさおうするばかりであった。悪天候あくてんこうなかむしろつつんだ粗末そまつな「網代あじろ御輿みこしにさかさまに」せられたおもんみかん親王しんのういていたという。その様子ようすをつぶさにていた後深草院二条ごふかくさいんのにじょうは、おもんみかん親王しんのうちち宗尊親王むねかたしんのうのように和歌わかのこすこともなかったことをやんでいる。人々ひとびとは「将軍しょうぐんながされたまう」とひょうしたという(『ぞうきょうだい11「さしぐし」)。同年どうねん10がつにはおもんみかん親王しんのうわって久明ひさあき親王しんのう将軍しょうぐんとなり鎌倉かまくらりしている。おもんみかん親王しんのう将軍しょうぐん解任かいにんきょう送還そうかん理由りゆうやくわしい経緯けいい不明ふめいである。もり幸夫ゆきおは、泰盛やすもり霜月しもつき騒動そうどうほろぼした頼綱よりつなが、弘安ひろやす徳政とくせい連動れんどうしてきょう朝廷ちょうていない改革かいかく徳政とくせいおこなうなど泰盛やすもり親密しんみつだった大覚寺だいかくじみつる亀山かめやま上皇じょうこう危険きけんしたことが原因げんいんで、持明院じみょういんみつる伏見天皇ふしみてんのう即位そくいによるのち深草ふかくさ院政いんせい成立せいりつたねじん親王しんのう立太子りったいし、そしていもうと掄子女王じょおう瑞子みずこ女王じょおうこう宇多天皇うだてんのう後宮こうきゅうはいっていたおもんみかん親王しんのう将軍しょうぐん更迭こうてつ深草ふかくさ上皇じょうこう皇子おうじである久明ひさあき親王しんのう将軍しょうぐん就任しゅうにんは、すべ鎌倉かまくら恐怖きょうふ政治せいじ頼綱よりつな意向いこうおこなわれたとしている[13]

帰洛きらく同年どうねん12がつ6にち出家しゅっけするが、その動向どうこうについては晩年ばんねんいたるまでほとんど不明ふめいである。

えいひとし3ねん1295ねん)にはおもんみかん親王しんのうむすめ中御所なかごしょ久明ひさあき親王しんのう正室せいしつむかえられている。これで義理ぎりとはいえおもんみやすし久明ひさあき父子ふしということになり、宗尊親王むねかたしんのう系統けいとう存続そんぞくされることになった(結果けっかてき鎌倉かまくら幕府ばくふ最後さいご将軍しょうぐんとなるまもりくに親王しんのうおもんみやすし外孫そとまごということになる)[10]

よしみれき元年がんねん1326ねん)10がつ30にち薨去こうきょ享年きょうねん63。鎌倉かまくら幕府ばくふ歴代れきだい征夷大将軍せいいたいしょうぐんなかではもっと長命ちょうめいであった。

かんれき[編集へんしゅう]

日付ひづけ旧暦きゅうれき

将軍しょうぐん在職ざいしょく執権しっけん[編集へんしゅう]

系譜けいふ[編集へんしゅう]

おもんみかん親王しんのう系譜けいふ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
後鳥羽ごとば天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
土御門天皇つちみかどてんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
みなもとざい
 
 
 
 
 
 
 
こう嵯峨天皇さがてんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
みなもととおるむね
 
 
 
 
 
 
 
みなもと通子みちこ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宗尊親王むねかたしんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
たいらとうはん
 
 
 
 
 
 
 
たいらとうもと
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
たいらとう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
おもんみかん親王しんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
近衛このえはじめどおり
 
 
 
 
 
 
 
近衛このえ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ぼうじょう顕子あきこ
 
 
 
 
 
 
 
近衛このえけんけい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
藤原ふじわらしん
 
 
 
 
 
 
 
せんもんいんみぎ衛門えもんとく
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
近衛このえおさむ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
九条くじょうりょうけい
 
 
 
 
 
 
 
九条くじょう道家どうか
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
一条いちじょうのうむすめ
 
 
 
 
 
 
 
九条くじょう仁子さとこ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
西園寺さいおんじこうけい
 
 
 
 
 
 
 
西園寺さいおんじ掄子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
一条いちじょう全子まさこ
 
 
 
 
 
 

おもんみかん親王しんのう源義朝みなもとのよしとも女系じょけい子孫しそんにあたる(頼朝よりとも同母どうぼいもうと坊門ぼうもんひめ上記じょうき系譜けいふにある一条いちじょうのうしつで、九条くじょうりょうけいしつ西園寺さいおんじこうけいしつはは)。せいもと2ねん2がつ5にち1260ねん3月18にち)、だい5だい執権しっけん北条ほうじょうよりゆききょうより近衛このえおさむ猶子ゆうしむかえ、将軍しょうぐん宗尊親王むねかたしんのう御息所みやすんどころとしてそなえた[注釈ちゅうしゃく 8]が、おさむ宗尊親王むねかたしんのうとつげば、そのあいだまれるあさ血筋ちすじくことになるため、ときよりゆきはこのことをみや将軍しょうぐん正統せいとうせいしたささえする要素ようそとして重視じゅうししていた可能かのうせいがある[15]

へんいみなあたえた人物じんぶつ[編集へんしゅう]

へんいみなあたえた人物じんぶつはいない。鎌倉かまくら時代じだいにおいて元服げんぷく皇族こうぞく将軍しょうぐんからいち拝領はいりょうするのは北条ほうじょうとく宗家そうけ赤橋あかばし限定げんていされており、おもんみかん親王しんのう在任ざいにんにおいては北条ほうじょう貞時さだとき北条ほうじょうひさとき該当がいとうしていたが両者りょうしゃともおもんみかん親王しんのうよりへんいみなけなかった。貞時さだとき平貞盛たいらのさだもりからいちったというせつ提唱ていしょうされている(貞時さだときこう参照さんしょう)。ひさ久明ひさあき親王しんのうからいち拝領はいりょうけたとされるが、おもんみかん親王しんのう在任ざいにんから官位かんいけるなどすで元服げんぷくしていた可能かのうせいもある。北条ほうじょう両者りょうしゃ同年代どうねんだい元服げんぷくしているが、家系かけい血縁けつえんじょう貞時さだとき従兄弟いとこというとく宗家そうけもっとちか家系かけいながらとく宗家そうけ赤橋あかいばし同等どうとうあつかわれていたか不明ふめいである。経緯けいい不明ふめいながら結果けっかとして20ねん以上いじょう将軍しょうぐんとして在籍ざいせきしながらへんいみなあたえた人物じんぶつがいない異例いれい将軍しょうぐんとなった。

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 23ねんおよ将軍しょうぐん在任ざいにん期間きかんのうち、皇族こうぞくおうとして4ねん5かげつみなもととして16ねん9かげつ親王しんのうとして2ねんじゃくごした[2]
  2. ^ 若狭わかさ国税こくぜいしょ今富いまとみめい領主りょうしゅだい次第しだい』(『ぐんしょ類従るいじゅうだいよん所収しょしゅう)には、時宗じしゅうについてごうとくたかしとくたかし追号ついごうとされる)としるしている[3]
  3. ^ この政策せいさくについては、足利あしかが家時いえとき伊予いよもりにんじられたのを、こうむ襲来しゅうらいたいして「うけたまわ寿ことぶきひさしらんにおける軍事ぐんじ統率とうそつしゃおよび勝利しょうりしゃである源義経みなもとのよしつね」の再現さいげん意図いとしたものであるとするべつ見解けんかい[4]されている。
  4. ^ 親王しんのう宣下せんげ貞時さだとき頼綱よりつな双方そうほう家格かかく向上こうじょう意図いともあり、貞時さだときおもんみやすし親王しんのう宣下せんげから将軍しょうぐん解任かいにん直前ちょくぜんまでにちち時宗じしゅう上回うわまわしたがえよん昇叙しょうじょ頼綱よりつな次男じなん飯沼いいぬまむね御内おんうちじんとしては異例いれい検非違使けびいし任命にんめいされるなど地位ちい向上こうじょう成果せいかげた。
  5. ^ おもんみかん自身じしんへの親王しんのう宣下せんげくわえ、親王しんのう2人ふたりいもうと(掄子女王じょおう瑞子みずこ女王じょおう)がこう宇多天皇うだてんのう後宮こうきゅうなるなど大覚寺だいかくじみつるとのつながりをちつつあった。また、こう宇多天皇うだてんのう宗尊親王むねかたしんのう生母せいぼおもんみかんかられば祖母そぼ)であるたいらとうなぞらえ祖母そぼ待遇たいぐうあたえている。
  6. ^ 曽我部そがべは、親王しんのう将軍しょうぐんみや将軍しょうぐん)の成立せいりつそのものに皇位こうい奪還だっかんうごきをあきらめない順徳じゅんとく上皇じょうこうけい皇族こうぞく岩倉いわくらみや四辻よつつじみやなど)のうごきに対抗たいこうするのち嵯峨さが上皇じょうこう関与かんよ指摘してきしている[9]
  7. ^ 本朝ほんちょうすめらぎたね紹運ろく』『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』『しょ門跡もんぜきでん』では宗尊親王むねかたしんのうおよび久明ひさあき親王しんのうとして両方りょうほう記載きさいがある。『天台座主てんだいざしゅ』『僧官そうかん補任ほにん』では久明ひさあき親王しんのうとする。
  8. ^ 吾妻あづまきょう同日どうじつじょうせいもとねんがつしょうにちみずのとはれとり剋。岡屋おかや禪定ぜんじょう殿下でんかけんけいこう息女そくじょとしじゅうため最明寺さいみょうじ禪室ぜんしつ猶子ゆうし下着したぎのりいれ山内さんないていれい御息所みやすんどころきゅう云々うんぬん

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ おもんみかん親王しんのう』 - コトバンク
  2. ^ 細川ほそかわ 2007, p. 102.
  3. ^ 細川ほそかわ 2007, p. 98.
  4. ^ 前田まえだ 2010
  5. ^ 曽我部そがべ 2021, pp. 235–238.
  6. ^ a b 曽我部そがべ 2021, pp. 238–241.
  7. ^ たけばら 2014, p. 155
  8. ^ 細川ほそかわ 2007
  9. ^ 曽我部そがべ 2021.
  10. ^ a b 曽我部そがべ 2021, pp. 241–242.
  11. ^ 鈴木すずき由美ゆみ足利あしかが将軍家しょうぐんけ誕生たんじょうは、「みなもと嫡流ちゃくりゅう」の復活ふっかつだったのか?」(日本にっぽん史料しりょう研究けんきゅうかい監修かんしゅう関口せきぐち崇史たかふみへん征夷大将軍せいいたいしょうぐん研究けんきゅう最前線さいぜんせん ここまでわかった「武家ぶけ棟梁とうりょう」の実像じつぞうよういずみしゃ歴史れきし新書しんしょy、2018ねん、P.78-93)
  12. ^ たけばら 2014, p. 159
  13. ^ もり幸夫ゆきおろく探題たんだい きょうおさめた北条ほうじょう一門いちもん吉川弘文館よしかわこうぶんかん 歴史れきし文化ぶんかライブラリー、2021ねん
  14. ^ a b c d e f g h i j たけばら 2014, p. 152
  15. ^ 山本やまもと 2011, p. 54.

参考さんこう文献ぶんけん論文ろんぶん[編集へんしゅう]

  • 細川ほそかわ重男しげおみぎ近衛このえ大将たいしょうげんおもんみやすしとくむね専制せんせい政治せいじ論理ろんり―」『年報ねんぽう 三田みた中世ちゅうせい研究けんきゅう』9ごう、2002ねん /所収しょしゅう:細川ほそかわ重男しげお鎌倉かまくら北条ほうじょう神話しんわ歴史れきし権威けんい権力けんりょく―』日本にっぽん史料しりょう研究けんきゅうかい日本にっぽん史料しりょう研究けんきゅうかい研究けんきゅう選書せんしょ1〉、2007ねん 
  • 山本やまもとみなみ近衛このえおさむろん宗尊親王むねかたしんのう御息所みやすんどころとしての立場たちばから―」『紫苑しおんだい9ごう京都女子大学きょうとじょしだいがく 宗教しゅうきょう文化ぶんか研究所けんきゅうじょゼミナール、2011ねん 
  • 前田まえだ治幸はるゆき ちょ鎌倉かまくら幕府ばくふ家格かかく秩序ちつじょにおける足利あしかが」、阿部あべたけし へん中世ちゅうせい政治せいじ研究けんきゅう日本にっぽん史料しりょう研究けんきゅうかい、2010ねん /所収しょしゅう:田中たなか大喜だいぎ へん下野しもの足利あしかがえびすひかりさち出版しゅっぱん〈シリーズ・中世ちゅうせい関東かんとう武士ぶし研究けんきゅう だいきゅうかん〉、2013ねん 
  • たけはら康弘やすひろ親王しんのう将軍しょうぐん鎌倉かまくら幕府ばくふ祭祀さいしいのり禱にかんする考察こうさつ」『年報ねんぽう新人しんじん文学ぶんがくだい11かん北海学園大学ほっかいがくえんだいがく大学院だいがくいん文学ぶんがく研究けんきゅう、2014ねん12月25にち、148-175ぺーじ 
  • 曽我部そがべあい「〈宮家みやけ成立せいりつしょ前提ぜんてい」『中世ちゅうせい王家おうけ政治せいじ構造こうぞうどうなりしゃ、2021ねんISBN 978-4-88621-879-7