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平安京へいあんきょう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
平安京へいあんきょう復元ふくげん模型もけい平安京へいあんきょうそうせいかん展示てんじぶつ
正面しょうめんがわから平安京へいあんきょうじょうぼうせい採用さいようしており、街路がいろ直交ちょっこうする
平安京へいあんきょう北東ほくとう方向ほうこううつす。東側ひがしがわ写真しゃしんみぎおく)は東山ひがしやま

平安京へいあんきょう(へいあんきょう/たいらのみやこ)または平安へいあんじょう(へいあんじょう)は、日本にっぽんにおける古代こだい最後さいごみや[1]794ねんのべれき13ねん)から1869ねん明治めいじ2ねん)までの日本にっぽん首都しゅと[注釈ちゅうしゃく 1]

桓武かんむ天皇てんのうにより、長岡京ながおかきょうわるとしてやまこく山城やましろこく愛宕あたご葛野くずのりょうぐんにまたがるえらばれ、中国ちゅうごく洛陽らくようじょう長安ながやすじょうして793ねんのべれき12ねん)から建設けんせつされた[2]よく794ねんのべれき13ねん)に遷都せんと北部ほくぶ中央ちゅうおう宮城みやぎ平安へいあんみや大内裏だいだいり)が建設けんせつされ、以降いこう歴代れきだい皇居こうきょかれた。

遷都せんと以来いらい平清盛たいらのきよもりにより断行だんこうされた福原ふくはら遷都せんと1180ねん)の期間きかんのぞいて、東京とうきょう奠都てんとまで1100ねんちかくにわたって[3]であり、1869ねん明治めいじ2ねん)までつづいた[4]今日きょう京都きょうと市街しがい形成けいせいされるにいたる。

概要がいよう

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平安京へいあんきょう現在げんざい京都きょうとおおきさや位置いち関係かんけいあかわく平安京へいあんきょう。(ランドサット衛星えいせい写真しゃしん

建造けんぞう選定せんてい範囲はんい都市とし計画けいかく

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新都しんと建設けんせつ選定せんていにひそかにはいった桓武かんむ天皇てんのうは、792ねんのべれき11ねん)1がつそして5がつ狩猟しゅりょうをよそおって、候補こうほのひとつやまこく葛野かずらのぐん宇太むらおとずれた。 さらによく793ねんのべれき12ねん)には、大納言だいなごん藤原ふじわら小黒おぐろ麻呂まろひだりだいべんきの佐美さびらも派遣はけん同地どうち確認かくにん検討けんとうさせた。その結果けっかここが建設けんせつまり、しん都市とし建設けんせつ計画けいかく遷都せんと計画けいかくうごし、と同時どうじ長岡京ながおかきょうこわしがはじまった。

当時とうじやまこく葛野くずの愛宕あたごりょうぐんにまたがる結果けっかとして現在げんざい京都きょうと市街しがいとなった)に東西とうざい4.5 km南北なんぼく5.2 kmの長方形ちょうほうけい都城みやこのじょうとして計画けいかくされた。

平安京へいあんきょう計画けいかく大枠おおわく平面へいめん計画けいかく)は基本きほんてき中国ちゅうごくずいとう洛陽らくようじょう長安ながやすじょう手本てほんとしたものであり、またやはり長安ながやすした日本にっぽん平城京へいじょうきょう長岡京ながおかきょう踏襲とうしゅうしたものでもある。都市とし全体ぜんたい四角形しかっけいで、左右さゆう対称たいしょうで、街路がいろが「碁盤ごばんじょう整然せいぜん直交ちょっこうするようにもうけられ、市街しがい中心ちゅうしん朱雀すざく大路おおじ南北なんぼく方向ほうこう配置はいちし、政治せいじ中心ちゅうしんとなる大内裏だいだいり朱雀すざく大路おおじきた北辺ほくへんもうけられた(「きた闕型」)。朱雀すざく大路おおじによってけられたきょういき東西とうざいをそれぞれ左京さきょう右京うきょうんだ(「ひだりみぎ」はあくまで内裏だいりがわからての左右さゆうである)。またのちには大内裏だいだいりみなみ東西とうざいはしじょう大路おおじきたを「上辺うわべ」(かみのわたり)、みなみを「下辺かへん」(しものわたり)、さらには「上京じょうきょう」(かみぎょう)、みなみを「下京しもぎょう」(しもぎょう)とぶようになり、これが地形ちけい相俟あいまって現代げんだい京都きょうときたくことを「あがル」、みなみくことを「しもル」とぶことにつながる。手本てほんとなった長安ながやすじょうじょう(=都市としかこ城壁じょうへき)でかこまれていたのにたいして、平安京へいあんきょうではきょういきみなみくちである城門じょうもん左右さゆうみじか部分ぶぶんのぞじょうつくられなかったとかんがえられている。

この選定せんてい中国ちゅうごくからつたわった陰陽いんようどう風水ふうすい)にもとづくよんかみ相応そうおうかんがかたもとおこなわれたというせつもある。このよんかみとはきた玄武げんぶひがしあおりゅう西にし白虎びゃっこみなみ朱雀すざく霊獣れいじゅうをいうが、せんにあたりこれを「やま」「かわ」「みち」「さわ」にてはめ、それぞれを船岡ふなおかさん鴨川かもがわ山陰さんいんどうきょむくといった具体ぐたいてき地物ちぶつしたというものである。このかんがえは通説つうせつとなっているものの、現在げんざいでは否定ひていする研究けんきゅうしゃすくなくない。それは、平安京へいあんきょうよんかみ相応そうおうとしてつくられたことが平城京へいじょうきょうとはことなり不明ふめいであるうえ[注釈ちゅうしゃく 2]よんかみ山川やまかわみちさわとするのは宅地たくち風水ふうすいられるかんがかたで、本来ほんらい都市とし風水ふうすいでもってうらないすべきよんかみとはべつのものであることなどを理由りゆうとするものである。(議論ぎろんについては、「よんかみ相応そうおう#平安京へいあんきょう」のこう参照さんしょう。)

平安京へいあんきょう範囲はんいは、現代げんだい京都きょうと市街しがいよりちいさく、北限ほくげんいちじょう大路おおじ現在げんざい今出川いまでがわとおる丸太町まるたまちどおり中間ちゅうかんにある一条通いちじょうどおり南限なんげんきゅうじょう大路おおじ現在げんざいJR京都きょうとえき南方みなかた東寺とうじ南側みなみがわとお九条通くじょうどおりひがしげん東京とうきょう極大きょくだい現在げんざい寺町てらまちどおりにあたる。西にしげん西京極にしきょうごく大路おおじ推定すいていJR嵯峨野線さがのせん花園はなぞのえき阪急はんきゅう京都きょうとせん西京極にしきょうごくえき南北なんぼくむすんだせんである。

きょうない東西とうざい南北なんぼくはし大路おおじ小路こうじによって40たけやく120メートル)四方しほうの「まち」にけられていた。東西とうざい方向ほうこうならまちを4れつあつめたもの(北辺ほくへんの2れつのぞく)を「じょう」、南北なんぼく方向ほうこうれつを4つあつめたものを「ぼう」とび、おなじょうぼうぞくする16のまちにはそれぞれ番号ばんごうけられていた(『じょうぼうせい』。これによりそれぞれのまちは「右京うきょう五条ごじょうさんぼうじゅうよんまち」のようにばれた。これらがいは、平城京へいじょうきょうでは街路がいろ中心ちゅうしんせん基準きじゅんとしていたため、街路がいろはばちがいによって宅地たくち面積めんせき広狭こうきょうまれたが、平安京へいあんきょうでは街路がいろはばのぞいて形成けいせいされたため、場所ばしょによる宅地たくち広狭こうきょうまれることはなかった。

道幅みちはば小路こうじでも4たけやく12メートル)、大路おおじでは8たけやく24メートル)以上いじょうあった。朱雀すざく大路おおじいたっては28たけやく84メートル)ものはばであったが、一方いっぽう東京とうきょうきょく西京極にしきょうごく大路おおじ大路おおじであっても造営ぞうえい当初とうしょから10メートル前後ぜんこう小路こうじよりせまはばであった[5]。また、堀川ほりかわ小路こうじ西堀にしぼりがわ小路こうじでは中央ちゅうおうかわ堀川ほりかわ西堀にしぼりがわ[注釈ちゅうしゃく 3])がながれていた[6]

平安へいあんみや大内裏だいだいり付近ふきんちょうどういんはちしょういん)や豊楽ほうらくいん内裏だいりなどの宮殿きゅうでんかく官衙かんがなら

宮城みやぎ平安へいあんみや

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平安京へいあんきょう北部ほくぶ中央ちゅうおうには、天皇てんのうき、まつりごとがおこなわれる施設しせつぐんとなる宮城みやぎ大内裏だいだいり)の平安へいあんみや建造けんぞうされた。大内裏だいだいりには天皇てんのう御所ごしょとして内裏だいり即位そくいれいなど国家こっか行事ぎょうじ挙行きょこうするはちしょういん(「ちょうどういん」、ちょうどういん正殿せいでんが「大極殿たいきょくでん」)、だい規模きぼ饗宴きょうえんおこなわれた豊楽ほうらくいん神事しんじおこな中和ちゅうわいん仏事ぶつじかかわる真言しんごんいん、そのかんはちしょう政庁せいちょうまもるなどがならった。

なおそれらは、平安京へいあんきょう衰微すいびとともに、太政官だじょうかんちょうなど大内おおうち霊場れいじょう(おおうちれいじょう)とばれた4つの建物たてもののこして荒廃こうはいし、のちにこれらも倒壊とうかいしてつい当時とうじ大内裏だいだいりしのばせるものはすべてくなってしまった。ただし、あらたな内裏だいりである京都きょうと御所ごしょ建設けんせつされるとこれを平安へいあんみやしょうするなど、その完全かんぜんわすられることはなかった。

平安へいあん宮北みやきた拡大かくだいせつ

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平安京へいあんきょう北端ほくたん南側みなみがわ2まちぶんについては「北辺ほくへん北辺ほくへんぼう)」とばれているが、平安京へいあんきょう北端ほくたん街路がいろ当初とうしょ設計せっけいでは現在げんざい土御門つちみかど大路おおじ位置いちにあたり、のちきたへ2まち拡張かくちょうし、現在げんざいいちじょう大路おおじ位置いちつくられたというせつがある。

この北辺ほくへん拡張かくちょうについては、瀧浪たきなみ貞子さだこせつ[7]がもとになっている。 中山なかやまただしおや日記にっきやまえんじゅ』に、むかし土御門つちみかど大路おおじ宮城みやぎ大内裏だいだいり)の北側きたがわせっしていちじょう大路おおじばれ、のち北辺ほくへんまちぶんやく200メートル)をんで宮城みやぎ拡張かくちょうした結果けっか、この大路おおじいちじょう大路おおじばれるようになった[注釈ちゅうしゃく 4]、という記載きさいがある。このことにもとづき、平安京へいあんきょう藤原ふじわらきょうおなじく当初とうしょ大内裏だいだいり北側きたがわ空地くうち北辺ほくへん)をもつ構造こうぞうであって、元々もともと12もんであった大内裏だいだいり平安京へいあんきょう造営ぞうえいに2町分まちぶんきたひろげられ14もんとなり、平安京へいあんきょう北端ほくたんとされる「北京ぺきん極大きょくだい」がいちじょう大路おおじに、もといちじょう大路おおじ拡張かくちょうまえ大内裏だいだいり北端ほくたん)が土御門つちみかど大路おおじとなったとするのが瀧浪たきなみせつである。さらには冒頭ぼうとうのように平安京へいあんきょう全体ぜんたいきた拡張かくちょうされたとするせつ[8]となえられている。

これらのせつもとづけば、指図さしずのこ平安京へいあんきょう変更へんこう姿すがたということになり、北辺ほくへんまで大内裏だいだいり拡張かくちょうされた時期じきはおよそ9世紀せいき後半こうはん推定すいていされるが[9]論拠ろんきょのもとになった『やまえんじゅ』の記載きさいについて、この「むかし」とは初期しょき平安京へいあんきょうすものとはかぎらず、平安京へいあんきょう以前いぜん都城みやこのじょうのことをすのではないかという疑義ぎぎしめされ[10]、さらに「むかし」とは、後期こうき造営ぞうえいにより宮城みやぎきた拡張かくちょうすることになった初期しょき長岡京ながおかきょうのことをすのが適切てきせつである[11]との批判ひはんがあり、いまだ仮説かせついきだっしていない。

歴史れきし

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平安京へいあんきょうは、のべれき13ねん10月22にち西暦せいれき794ねん11月18にちユリウスれき))から、一説いっせつには明治めいじ2ねん1869ねん)まで日本にっぽん首都しゅとであったとされ、明治めいじ2ねん1869ねん)に政府せいふ太政官だじょうかん)が東京とうきょうきゅう江戸えど)に移転いてんして首都しゅと機能きのううしなっている[12]

そのはじめは桓武かんむ天皇てんのう長岡京ながおかきょう遷都せんとまでさかのぼる。桓武かんむ天皇てんのうのべれき3ねん784ねん)に平城京へいじょうきょうから長岡京ながおかきょう造営ぞうえいして遷都せんとしたが、これは天武天皇てんむてんのうけい政権せいけんささえてきた貴族きぞく寺院じいん勢力せいりょくあつまる大和やまとこくからだっして、あらたな天智天皇てんぢてんのうけいつく意図いとがあったといわれる。しかしそれからわずか9ねんのべれき12ねん793ねん)1がつ和気清麻呂わけのきよまろ建議けんぎ[注釈ちゅうしゃく 5]もあり、桓武かんむ天皇てんのうさい遷都せんと宣言せんげんする(理由りゆう長岡京ながおかきょう参照さんしょう)。場所ばしょは、長岡京ながおかきょう北東ほくとう10 km、2つのかわはさまれたやまこく北部ほくぶ葛野かずらのぐんおよび愛宕あたごぐんであった。事前じぜん桓武かんむ天皇てんのう現在げんざい京都きょうと東山ひがしやまにある将軍しょうぐんづかから見渡みわたし、相応ふさわしいかたしかめたとわれている。『日本にっぽんりゃく』には「葛野くずのやまかわうるわしく四方しほうくにひとあつまるのに交通こうつう水運すいうん便びんいところだ」という桓武かんむ天皇てんのう勅語ちょくごのこっている。

大極殿たいきょくでんのこ阯碑
千本せんぼん丸太まるたまち北西ほくせい

平安京へいあんきょう造営ぞうえいはまず宮城みやぎ大内裏だいだいり)からはじめられ、つづいてきょう市街しがい)の造営ぞうえいすすめたとかんがえられる。中央ちゅうおうつらぬ朱雀すざく大路おおじ一番いちばんきたに、皇居こうきょ官庁かんちょうがいふく大内裏だいだいりもうけられて、その中央ちゅうおうには大極殿たいきょくでんつくられた。その後方こうほう東側ひがしがわには天皇てんのうまいである内裏だいりもうけられた。

東西とうざいながれる鴨川かもがわ桂川かつらがわ沿いには、よどみ大井おおいなどのみなと整備せいび、これらのみなと全国ぜんこくから物資ぶっしあつめる中継ちゅうけい基地きちにして、そこから物資ぶっしはこんだ。はこばれた物資ぶっしなかにあるおおきな2つのひがし西市さいち)におくり、人々ひとびと生活せいかつささえた。このように食料しょくりょう物資ぶっし安定あんてい供給きょうきゅうできる仕組しくみをととのえ、人口じんこう増加ぞうか対応たいおうできるようにした。また、長岡京ながおかきょう住民じゅうみんくるしめた洪水こうずいへの対策たいさくこうじ、なか自然しぜんかわがないわりに東西とうざいにそれぞれ「堀川ほりかわ」(現在げんざい堀川ほりかわ西堀にしぼりがわ)をはじめとする河川かせんをいくつも整備せいびし、水運すいうん便びんきょうするとともに生活せいかつ廃水はいすいとした。そして長岡京ながおかきょうみとめなかったように、ここでもかんてらである東寺とうじ西寺にしてらのぞき、あらたな仏教ぶっきょう寺院じいん建立こんりゅうみとめなかった(この平安へいあん遷都せんと以前いぜんからの寺院じいんとしてきょう域内いきないには六角ろっかくどうがあったとされるが、平安へいあん遷都せんと創建そうけんせつもある。また、広隆寺こうりゅうじはこのとき太秦うずまさ移転いてんされたとされ、きょう域外いきがい北野上白梅きたのかみはくばいまちからは移転いてん以前いぜんどう寺跡てらあととみられる「北野きたの廃寺はいじあと」がつかっている)。 なお、建都けんとあたってはそれまで上賀茂かみがも付近ふきんからみなみながれていた賀茂川かもがわ鴨川かもがわ出町でまち以北いほく通称つうしょう)を現在げんざい南東なんとうりゅうに、また出町でまち付近ふきんから南西なんせい方向ほうこう左京さきょういきはすぎょうしていた高野川こうのかわ現在げんざいみなみりゅう鴨川かもがわとしたとのせつ塚本つかもと常雄つねおによってとなえられおおくの歴史れきし学者がくしゃ支持しじされた[14](「鴨川かもがわつけかえせつ」)。これにたいしてのち横山よこやま卓雄たくお[15]によって否定ひていせつ提出ていしゅつされ、歴史れきし学者がくしゃ一転いってんしてこのせつしたがうようになり、現在げんざいは「鴨川かもがわ賀茂川かもがわつけかえはなかった」とするのが有力ゆうりょくとなっている。ところが、最近さいきんになって横山よこやませつ疑問ぎもんていする研究けんきゅうしゃあらわれ、塚本つかもと鴨川かもがわつけかえせつたいするさい評価ひょうかうごきが活発かっぱつになりつつある[16][17][18]

のべれき13ねん(794ねん)10がつ22にち桓武かんむ天皇てんのうしんきょうに遷り、よく11がつ8にちにはやまこく山城やましろこく改名かいめいするとみことのりくだした。

からしとりくるま遷于しんきょう
どうじゅうさんねんじゅうがつ廿にじゅうさんにち天皇てんのう南京なんきん、遷北京ぺきん
りゃく
ちょううしみことのり云々うんぬんやまぜいじつごうぜん聞。云々うんぬん。此国山河襟帯さんかきんたい自然しぜんさくじょうよし斯勝、せいしんごうむべあらためやまこくため山城やましろこくまた子来こらいみん謳歌おうかやからくちどうごう平安京へいあんきょうまた近江おうみこく滋賀しがぐん古津ふるつしゃ先帝せんてい旧都きゅうとこんせっ輦下。おいむかしごう改称かいしょう大津おおつ云々うんぬん — 『日本にっぽんまきだいさん逸文いつぶんのべれき13ねん10がつおよび11月のじょう

「此のくに山河襟帯さんかきんたい(さんがきんたい)し、自然しぜん(おのづから)にしろをなす。此のかち形勝けいしょう けいしょう)によりて、しんごうせい(さだ)むべし。よろしくやまこくあらためて、山城やましろこくすべし。また子来こらい(しらい)のみん謳歌おうか(おうか)のやから(ともがら)、くちどう(いくどうじ)に、ごうして平安京へいあんきょうと曰(い)ふ」(此のくに山河さんがまわりをかこみ、自然しぜんしろかたちをなしている。この景勝けいしょうちなんで、あたらしい名前なまえけよう。「やまこく」をあらためて「山城やましろこく」とあらわすことにしよう。またしんきょう出来できたことをよろこんであつまった人々ひとびとや、よろこびのうたうた人々ひとびとが、異口同音いくどうおんに「平安へいあん」とんでいるから、このを「平安京へいあんきょう」と名付なづけることとする)。ここにう「謳歌おうか」とは、遷都せんとよくのべれき14ねん795ねん正月しょうがつ16にち宮中きゅうちゅうもよおされたうたげでもうたわれた踏歌とうかはや言葉ことばしんきょうらく平安へいあん楽土らくどまんねんはる(しんきょうがく、びょうあんがくつ、まんねんしゅん)」をうのであろう。

ひろじん元年がんねん810ねん)、桓武かんむ天皇てんのうあと皇位こういめぐ対立たいりつ平城ひらじろ上皇じょうこうとその一派いっぱから平城京へいじょうきょうもどそうといううごきがこるが、平城ひらじろ上皇じょうこうおとうと嵯峨天皇さがてんのう平安京へいあんきょうのこすことこそくに安定あんていかんがえ、平城ひらじろ上皇じょうこうらのこのうごきを退しりぞけ、側近そっきん藤原ふじわらなかしげるくすり兄妹きょうだい討伐とうばつ上皇じょうこう出家しゅっけさせた(くすりへん)。そして平安へいあんみやを「万代ばんだいみや(よろずよのみや)」とさだめる(永遠えいえん皇居こうきょという)。

きょういきひろすぎたためか、規則正きそくただしく配置はいちされたじょうぼう人家じんかまることはついになく、とく右京うきょう南方なんぽう桂川かつらがわ形作かたちづく湿地しっちたいにあたるため左京さきょう比較ひかくすると宅地たくちすすまなず、律令制りつりょうせいがほとんど形骸けいがいした10世紀せいきはいると本来ほんらいきょうないではきんじられている農地のうちへと転用てんようまでされるようになった。[注釈ちゅうしゃく 6]

平安京へいあんきょう城門じょうもん模型もけい
JR京都きょうとえき

980ねん天元てんげん3ねん)には朱雀すざく大路おおじ南端なんたんにある城門じょうもんぞくに「羅生門らしょうもん」という)が倒壊とうかいし、以後いご再建さいけんされることはなかった。また朱雀すざく大路おおじはじめとしてひろかった大路おおじ小路こうじ次第しだい宅地たくち侵食しんしょくされせばめられた。

貴族きぞく宅地たくち大内裏だいだいりちか右京うきょう北部ほくぶのぞいて左京さきょうもうけられ、藤原ふじわらのような上流じょうりゅう貴族きぞく宅地たくち左京さきょう北部ほくぶ集中しゅうちゅうする一方いっぽうまずしい人々ひとびときょうない南東なんとう密集みっしゅうしてみ、さらには平安京へいあんきょうひがしげんえて鴨川かもがわかわべりにはじめた。また、鴨川かもがわ東岸とうがんには寺院じいん別荘べっそう建設けんせつされて、平安京へいあんきょう本来ほんらい範囲はんいよりひがし左京さきょう)にかたよった市街地しがいち形成けいせいされていった。

政庁せいちょう平安京へいあんきょうがいいた院政いんせい出現しゅつげんは、平安京へいあんきょう都市とし構造こうぞう変化へんかをもたらし、また天皇てんのう中心ちゅうしんという形態けいたいそこなうことで、結果けっかとして平安京へいあんきょうというさだめられた都市とし規範きはん崩壊ほうかいさせるおおきながねとなった[20]

平安へいあん時代じだい末期まっきいたってきょうないせん頻発ひんぱつし、荒廃こうはい進行しんこうした。政情せいじょう不安ふあんもあってうけたまわ4ねん1180ねん)、平清盛たいらのきよもり安徳天皇あんとくてんのうほうじて福原ふくはら遷都せんと福原ふくはらきょう)したが、公家くげたちの反対はんたいい、わずか半年はんとし京都きょうとかえした。

平安へいあん末期まっきから「平安京へいあんきょう」にわる言葉ことばとして「京都きょうと」というかたりもちいられはじめ、鎌倉かまくら初頭しょとうにかけてその使用しよう頻度ひんど[20]。また、平安京へいあんきょうなぞらえた「洛陽らくよう」からられた、中世ちゅうせい近世きんせい京都きょうとちゅうしめす「洛中らくちゅう」という言葉ことばも、鎌倉かまくら時代じだいから使つかわれはじめる。

鎌倉かまくら幕府ばくふにより京都きょうとかんした最初さいしょ役職やくしょくとなる「京都きょうと守護しゅご」(ろく探題たんだい設置せっちにより消滅しょうめつ)が設置せっちされる。鎌倉かまくら武家ぶけ政権せいけん本拠ほんきょとなる一方いっぽう京都きょうと貴族きぞく寺社じしゃ権門けんもん中心ちゅうしんとなった[21]天皇てんのうまいである内裏だいり度重たびかさなる災害さいがいにより転々てんてんとし、室町むろまち時代ときよ鴨川かもがわりのさと内裏だいり土御門つちみかど東洞とうどういん殿どの」が修造しゅうぞう正式せいしき内裏だいりとなり、以降いこうはこの場所ばしょ築造ちくぞうかえされ、現在げんざいの「京都きょうと御所ごしょ」の原形げんけいとなった[22]

室町むろまち時代じだいから戦国せんごく時代じだいにかけての時期じきは、応仁おうにんらんにて市街地しがいち過半かはん焼失しょうしつし、衰退すいたいした。その京都きょうと市街地しがいちは、上京じょうきょう下京しもぎょうかれて小規模しょうきぼなものとなっていた。これが再度さいど一体いったい市街しがいとして復興ふっこうかうのは安土あづち桃山ももやま時代じだいであり、織田おだ信長のぶなが上洛じょうらくのことである。豊臣とよとみ秀吉ひでよし大内裏だいだいり跡地あとちである内野ないや政庁せいちょうである聚楽第じゅらくだいもうけ、またきょうかこ延長えんちょう20 kmあまりのそう構である「土居どい」を建設けんせつした。秀吉ひでよしは、関白かんぱくおい秀次しゅうじゆずると伏見ふしみゆびがつ隠居いんきょした。もなく秀次しゅうじ失脚しっきゃくして聚楽第じゅらくだいやぶ却され秀吉ひでよし伏見ふしみじょう建設けんせつすると、政治せいじ中心ちゅうしん京都きょうとからはなれて完全かんぜん伏見ふしみうつることとなった。

そして関ヶ原せきがはらたたか勝利しょうりした徳川とくがわ家康いえやす伏見ふしみじょう入城にゅうじょうし、伏見ふしみじょう征夷大将軍せいいたいしょうぐん宣下せんげける。家康いえやす洛中らくちゅう二条城にじょうじょう建設けんせつしたが、これは政庁せいちょうとしてのしろではなくもっぱら儀礼ぎれいてき役割やくわりになうものであったから、このことによって京都きょうとせいふくすることはなく、以後いごさんだい徳川とくがわ家光いえみつまで伏見ふしみじょう将軍しょうぐん宣下せんげしきおこなっている。江戸えど時代じだいには、国政こくせい中心ちゅうしん江戸えど商業しょうぎょう中心ちゅうしん大坂おおさかうつったものの、京都きょうとには江戸えど幕府ばくふ機関きかんである京都きょうと所司代しょしだいかれて朝廷ちょうていとの交渉こうしょう京都きょうと市政しせいになった。かくはん藩邸はんていいてたい朝廷ちょうていおよびかくはんあいだ外交がいこうおこなったため、京都きょうと独特どくとく地位ちいゆうしたが、幕府ばくふはこのことをこのまず、たとえば西国さいこく大名だいみょう参勤交代さんきんこうたいさい京都きょうとはいることをきんじた。幕末ばくまつにはきょうでの政情せいじょう不安ふあんかんが京都きょうと守護しゅごしょくあらたにき、一層いっそう支配しはいつよめようとした。

明治維新めいじいしんさいには、明治天皇めいじてんのう東京とうきょう行幸ぎょうこう留守るすとなり、留守るすかんかれた(明治めいじ4ねん廃止はいし)。江戸えど東京とうきょう改名かいめいする詔勅しょうちょくくだされたものの、京都きょうとのこ公家くげらの反発はんぱつおおきかったため、「遷都せんと」という言葉ことばけられた(→東京とうきょう奠都てんと)。以後いご天皇てんのう京都きょうと行幸ぎょうこうはたびたびおこなわれ、そのさいには、勅旨ちょくし保存ほぞんされた京都きょうと御所ごしょまたは仙洞せんとう御所ごしょ京都きょうと大宮おおみや御所ごしょ)に宿泊しゅくはくすることが慣例かんれいとなった。なお、天皇てんのう玉座ぎょくざである高御座たかみくらも、京都きょうと御所ごしょ紫宸殿ししんでんかれている。

名称めいしょう

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平安京へいあんきょうはふつう音読おんよで「へいあんきょう」とむが、ときに「たいらのみやこ」と訓読くんよした。古来こらいはその地名ちめいかんすることが一般いっぱんてきであり、本来ほんらいならば葛野くずのきょう[注釈ちゅうしゃく 7]となるはずであったが、藤原ふじわらを「しんえききょう(あらますのみやこ)」としょうしたように、ここでも「平安京へいあんきょう」と命名めいめいされた。とう長安ながやす」にならっての命名めいめいであることは容易ようい理解りかいできるが、長岡京ながおかきょうでの騒動そうどう原因げんいんのひとつとして、ふたた遷都せんとされたため、しんきょうではわるいことがこらず、「たいらかでやすらかな」、「平安へいあん」(訓読くんよみは「たいら」)であってしいというねがいもめられたとかんがえられている。また平安へいあん時代じだいかん詩文しぶんには、文学ぶんがくじょう雅称がしょうとして「洛陽らくよう」「長安ながやす」とれいられる。この「洛陽らくよう」からのちに「洛中らくちゅう」「入洛にゅうらく」「上洛じょうらく」などの言葉ことばまれる。

平安京へいあんきょう全体ぜんたい

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注意ちゅういえがかれているもの以外いがいにも、複数ふくすうまちにまたがる邸宅ていたくなどにより小路こうじ途切とぎれていることがある。

平安へいあん遷都せんと記念きねん事業じぎょう

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1100ねん記念きねん事業じぎょう
1200ねん記念きねん事業じぎょう

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ただし後述こうじゅつとお福原ふくはらきょう遷都せんとしたいち時期じきのぞく。
  2. ^ 平安京へいあんきょうよんかみ相応そうおうせついまのところ鎌倉かまくら時代ときよ成立せいりつの『平家ひらか物語ものがたり』が初出しょしゅつ
  3. ^ 当時とうじの「西堀にしぼりがわ」は現在げんざいの「紙屋川かみやかわ天神川てんじんかわ)」である。西堀にしぼりがわ小路こうじ現在げんざい西土居にしどいどおり該当がいとうする。
  4. ^ ちょうひろし2ねん1164ねん)6がつ27にちじょう北辺ほくへんいちじょうみなみ土御門つちみかどきたなり。むかし土御門つちみかどをもっていちじょう大路おおじとなす。その北辺ほくへんちょう宮城みやぎはいる。すできょうちゅうたり。」
  5. ^ きよし麻呂まろ建議けんぎ以前いぜんの791ねんのべれき10ねんごろには長岡京ながおかきょう廃止はいしあらたな候補こうほさがしがはじまっていたとする見方みかたもある[13]
  6. ^ このせつ慶滋保胤よししげのやすたね(? - 1002ねん)が『池亭ちてい』にいて以来いらいしんじられてきたが、最近さいきん発掘はっくつ調査ちょうさ結果けっかからは、すくなくとも平安へいあん中期ちゅうきまでは中小ちゅうしょう規模きぼ邸宅ていたくすくなからず存在そんざいしており。右京うきょう本格ほんかくてき荒廃こうはいはじまるのは院政いんせいはいった11世紀せいきからのことられる。[19]
  7. ^ 平安京へいあんきょう葛野くずのかれたというのは史書ししょなどによる伝統でんとうてき認識にんしきであり、実際じっさい葛野かずらのぐん愛宕あたごぐんにまたがるかれている。

出典しゅってん

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  1. ^ 京都きょうと史料しりょう 京都きょうと歴史れきしだい4かん 市街しがい生業せいぎょう、1980ねん、4ぺーじ 
  2. ^ 京都きょうと上京かみぎょう区役所くやくしょ上京かみぎょう成立せいりつ”. www.city.kyoto.lg.jp. 2020ねん1がつ9にち閲覧えつらん
  3. ^ 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん だいはん平安京へいあんきょう
  4. ^ 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ平安京へいあんきょう
  5. ^ "「大路おおじめいばかり、「小路こうじ」よりせま平安京へいあんきょう東端ひがしばたみち"京都きょうと新聞しんぶん、2016ねん1がつ26にち記事きじ)。
  6. ^ 平安京へいあんきょう右京うきょうろくじょうぼう西堀にしぼりがわあと 現地げんち説明せつめいかい資料しりょう
  7. ^ 瀧浪たきなみ貞子さだこ日本にっぽん古代こだい宮廷きゅうてい社会しゃかい研究けんきゅう思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、1991ねん、330-340ぺーじ 
  8. ^ ももさきゆういちろう平安京へいあんきょうはいらなかった』吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2016ねん 
  9. ^ 都市とし03 じょうぼうせい”. 2024ねん6がつ8にち閲覧えつらん
  10. ^ 藤本ふじもと孝一こういち都城みやこのじょう拡大かくだいろんと『山塊さんかい』」『古代こだい文化ぶんかだい46かんだい9ごう古代こだいがく協会きょうかい、1994ねん 
  11. ^ 山田やまだ邦和くにかず平安京へいあんきょうじょうぼうせい」『都城みやこのじょうせい研究けんきゅうだい1かん、2007ねん、80‑94。 
  12. ^ 京都きょうとへん京都きょうと歴史れきしだい7かん 維新いしん激動げきどう 學藝がくげい書林しょりん
  13. ^ あみ伸也しんや平安京へいあんきょう造営ぞうえい過程かていかんする総合そうごうてき考察こうさつ」『平安京へいあんきょう造営ぞうえい古代こだい律令りつりょう国家こっか』(はなわ書房しょぼう、2011ねんISBN 978-4-8273-12447
  14. ^ 塚本つかもと常雄つねお京都きょうと市域しいき変遷へんせんと其地理学りがくてき考察こうさつ」1926
  15. ^ 横山よこやま卓雄たくお平安へいあん遷都せんと鴨川かもがわつけかえ」1988
  16. ^ 高橋たかはしまなぶ近世きんせいにおける京都きょうと鴨川かもがわ桂川かつらがわ水害すいがい」2011『京都きょうと歴史れきし災害さいがい』(思文閣出版しぶんかくしゅっぱん所収しょしゅう
  17. ^ 小谷おたにまき二郎じろうみずから京都きょうと都市とし形成けいせい歴史れきし生活せいかつ文化ぶんか』2007(法政大学ほうせいだいがく大学院だいがくいんエコ地域ちいきデザイン研究所けんきゅうじょ歴史れきしプロジェクト)。
  18. ^ 加藤かとう繁生しげお「「鴨川かもがわつけかえせつふたたび―横山よこやま卓雄たくお鴨川かもがわつけかえせつ」の不審ふしん―」2021『ふみ迹と美術びじゅつ』(ふみ美術びじゅつどう攷会)912・913・914ごう所収しょしゅう
  19. ^ 山田やまだ邦和くにかず平安京へいあんきょう都市とし計画けいかくとその実態じったい」『変貌へんぼうする中世ちゅうせい都市とし京都きょうと』。 
  20. ^ a b 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん編纂へんさん委員いいんかい へん角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん 26 京都きょうと上巻じょうかん角川書店かどかわしょてん、1982ねん、34ぺーじISBN 4-040-01261-5 
  21. ^ 山田やまだ邦和くにかずきょう鎌倉かまくら時代じだい京都きょうと都市とし構造こうぞう」『変貌へんぼうする中世ちゅうせい都市とし京都きょうと』、83ぺーじ 
  22. ^ 山田やまだ邦和くにかず南北なんぼくあさ動乱どうらんから室町むろまち政権せいけんへ」『変貌へんぼうする中世ちゅうせい都市とし京都きょうと』、159ぺーじ 

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外部がいぶリンク

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先代せんだい
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794ねんのべれき13ねん) - 1180ねんうけたまわ4ねん
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福原ふくはらきょう
先代せんだい
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1180ねんうけたまわ4ねん) - 1868ねん明治めいじ元年がんねん
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