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大内裏だいだいり

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平安へいあんみやから転送てんそう
平安京へいあんきょう大内裏だいだいり位置いち
平安京へいあんきょう大内裏だいだいり平安へいあんみや

大内裏だいだいり(だいだいり)とは、平安京へいあんきょう宮城みやぎである。別名べつめい平安へいあんみや

平安京へいあんきょうにおける宮城みやぎない天皇てんのう在所ざいしょである内裏だいりが「大内裏だいだいり」とばれた。14世紀せいきになると宮城みやぎ全体ぜんたいを「大内裏だいだいり」としょうするようになり、この用例ようれい一般いっぱんするようになる。平安京へいあんきょう北辺ほくへん中央ちゅうおう位置いちする。

構造こうぞう[編集へんしゅう]

東西とうざいやく1.2km、南北なんぼくやく1.4kmの、行政ぎょうせい施設しせつ国家こっか儀式ぎしき年中ねんじゅう行事ぎょうじおこな殿舎でんしゃ天皇てんのう居住きょじゅうする内裏だいり設置せっちされている区域くいきであった。

大内裏だいだいり周囲しゅうい築地つきじ大垣おおがきめぐらされており、この築地つきじを「宮城みやぎかき」または「そとじゅう(とのえ)」という。

もん[編集へんしゅう]

もんもっと外側そとがわに「宮城みやぎもん(きゅうじょうもん)」が位置いちし、内裏だいり外郭がいかくもんを「宮門きゅうもん(きゅうもん)」、内郭ないかくもんを「ごうもん(こうもん)」という。

宮城みやぎじゅうもんつぎとおり。

宮城みやぎじゅうもん一覧いちらん陽明ようめいもんから時計とけいまわり)[1]
画像がぞう 位置いち ひろじんしき さだかんしき 延喜えんぎしき みの転訛てんか みやつこすすむぞく 通称つうしょう
さだかんしき 延喜えんぎしき
東面とうめん きた けんけんやしなえもん 山門さんもん 陽明ようめいもん やま やうめい やま 兵衛ひょうえ御門みかど
なか 山門さんもん 建部たけべもん まちけんもん たけるべ たいけん 建部たけべ 中御門なかみかど
みなみ いたる部門ぶもん まともん いくよしもん いくは いくはう てき 大炊おおい御門みかど
南面なんめん ひがし 壬生みぶもん 壬生みぶもん ぶくもん みぶ びふく 壬生みぶ 壬生みぶ御門みかど
なか 大伴おおとももん 大伴おおとももん 朱雀すざくもん おおとも大伴おおともはすぐきたおうてんもんのこる) すざく 大伴おおとも 大伴おおとももん
西にし わかいぬやしなえもん わかいぬやしなえもん すめらぎ嘉門かもん わかいぬかい くわうか わかいぬあま 雅楽ががくりょうもん
西にしめん みなみ 玉手たまてもん 玉手たまてもん だんてんもん たまて だんてん 玉手たまて うまりょうもん
なか 佐伯さえきもん 佐伯さえきもん かべもん さえき さうへき 佐伯さえき 西中にしなか御門みかど
きた 伊福部いふくべもん 伊福部いふくべもん いんとみもん いふくべ いんぷ 伊福部いふくべ 西にし近衛このえもん
北面ほくめん 西にし うみけんやしなえもん うみけんやしなえもん やす嘉門かもん あまいぬかい あんか うみいぬあま 兵庫ひょうごりょう御門みかど
なか いのしし使もん いのしし使もん えら鑒門 いかい いかん いのよう ひらけ(あかずの)もん
ひがし 丹治たんじもん 丹比たんぴもん いたるさとしもん たぢひ たっち 丹治たんじ 天井てんじょうもん

宮城みやぎもんには、以上いじょうじゅうもんくわえて東面とうめんでは陽明ようめいもんのさらにきた上東うえひがしもん(じょうとうもん)、西にしめんではいんとみもんのさらにきた上西かみにしもん(じょうさいもん)があった。上東じょうとうもん上西かみにしもん大蔵おおくら通用つうようもんとして「屋根やねもうけず築地つきじひらいただけ」のもんであったため、「もん」=「土御門つちみかど」とばれた。このもんとおりが「土御門つちみかど大路おおじ」であり、姓氏せいし土御門つちみかど藤原ふじわら邸宅ていたく土御門つちみかど殿どのはこの地名ちめい由来ゆらいしている。上東じょうとうもん上西かみにしもんのぞく12もんが「宮城みやぎじゅうもん」と総称そうしょうされる。

大内裏だいだいりおも施設しせつ[編集へんしゅう]

歴史れきし[編集へんしゅう]

村上むらかみ天皇てんのう日記にっき村上むらかみ天皇てんのうてんれき)によると、もとはたかわしょう邸宅ていたくがあった場所ばしょであるという。大内裏だいだいり内裏だいりは10世紀せいき後半こうはん以降いこう、たびたびの焼失しょうしつ見舞みまわれた。最初さいしょ焼失しょうしつ村上むらかみ天皇てんのう天徳てんとく4ねん960ねん)のことで、村上むらかみ天皇てんのうで「ひとだい以後いご」3度目どめ内裏だいり焼失しょうしつ難波なんばみや[注釈ちゅうしゃく 1]藤原ふじわらみや[注釈ちゅうしゃく 2]ぐと認識にんしきされた)を平安へいあん遷都せんと170ねんまねいたみずからの不徳ふとくなげいた。村上むらかみ天皇てんのう冷泉れいせんいん[注釈ちゅうしゃく 3]さと内裏だいりとし、よくおう元年がんねん(961ねん)に大内裏だいだいり再建さいけんされると還幸かんこうした[2]。しかし、再建さいけんした大内裏だいだいりも15ねん円融天皇えんゆうてんのう貞元さだもと元年がんねん(978ねん)に焼失しょうしつしてしまう[3]

以後いご内裏だいり再建さいけん焼亡しょうぼう頻繁ひんぱんこり、円融天皇えんゆうてんのう一条天皇いちじょうてんのう時代じだいにはそれぞれ再建さいけん焼亡しょうぼうを1~3ねん間隔かんかくで3ずつかえした。三条さんじょう天皇てんのう長和ながわ4ねん(1015ねん)には、9がつ20日はつか再建さいけんった内裏だいりに1ねんぶりにかえったのにもかかわらず、わずか2かげつの11月17にち内裏だいり焼失しょうしつする有様ありさまであった[4]。また、当初とうしょは1~2ねん程度ていどおこなわれた再建さいけんも、一条天皇いちじょうてんのう寛弘かんこう2ねん(1005ねん)に発生はっせいした焼亡しょうぼうからの再建さいけんに6ねんようしたのを皮切かわきりとして間隔かんかくながくなる傾向けいこうられ、天皇てんのうさと内裏だいりらしが常態じょうたいするようになった[5]

院政いんせい[編集へんしゅう]

白河天皇しらかわてんのうえいたもつ2ねん(1082ねん)に焼亡しょうぼうした内裏だいりは、かんかず2ねん(1100ねん)の再建さいけんまでに足掛あしかけ19ねんようした。このため、おうとく3ねん(1086ねん)に譲位じょういされた堀河ほりかわ天皇てんのうは、堀河ほりかわいんというさと内裏だいり践祚せんそすることとなった[6]。また堀河ほりかわ天皇てんのう内裏だいり再建さいけんさと内裏だいりらした期間きかんながく、天皇てんのう在位ざいい期間きかん大半たいはんさと内裏だいりごした[7]以後いご院政いんせい天皇てんのうたちも同様どうようで、鳥羽天皇とばてんのうは15ねんはん在位ざいい期間きかんちゅう合計ごうけい7かげつ程度ていどしか内裏だいりらしておらず[8]崇徳天皇すとくてんのう儀式ぎしきなどのために大内裏だいだいりに4かいおもむ滞在たいざいしたが、内裏だいりにはいちあしれなかった[9]てんなが3ねん(1112ねん)に鳥羽天皇とばてんのうさと内裏だいりであるこういん焼失しょうしつしたさいには、本来ほんらい内裏だいり存在そんざいして使用しよう可能かのうであるにもかかわらず「つぎさと内裏だいり」をえら議論ぎろんおこなわれた。『ちゅう右記うき』によれば、てんである白河しらかわ法皇ほうおうが「内裏だいり殿舎でんしゃはなは広博こうはくなり」(内裏だいりひろすぎる)という理由りゆうげて幼少ようしょう天皇てんのう内裏だいりまいに反対はんたいしたといい、まごである天皇てんのう法皇ほうおう御所ごしょであるしょうろくじょう殿どの同居どうきょさせて(それまで天皇てんのういん同居どうきょ異例いれいであった)天皇てんのう庇護ひご後見こうけんするいんという政治せいじ体制たいせい体現たいげんした[10]院政いんせいてん大内裏だいだいり修築しゅうちく活用かつようきらい、慈円じえんの『かんしょう』には藤原ふじわらただしどおり慈円じえんちち)が「てられた」大内裏だいだいり復興ふっこう提起ていきしたものの鳥羽とっぱいん退しりぞけたはなしせられている[11]かんかず2ねん(1100ねん再建さいけん内裏だいりうけたまわひさし元年がんねん(1219ねん)まで119年間ねんかん焼失しょうしつまぬかれるが、天皇てんのう日常にちじょうてきらさなくなったために使つかわなくなったことが理由りゆうかんがえられる[12]

大内裏だいだいり全体ぜんたい荒廃こうはい一途いっとをたどったが[13]特定とくてい建物たてもの儀礼ぎれいとして維持いじされた[14]即位そくいしきおこな大極殿たいきょくでんなどで、即位そくいしきおこなわれる時期じきだけは修造しゅうぞう復興ふっこうがなされた[15]もと2ねん(1157ねん)、後白河天皇ごしらかわてんのう近臣きんしんである信西しんぜい藤原通憲ふじわらのみちのり)が主導しゅどうして大内裏だいだいり再建さいけん着手ちゃくしゅされた。算術さんじゅつあかるい信西しんぜいみずか計算けいさんおこなって各国かっこく無理むりなく費用ひよう分担ぶんたんさせたといい、1ねんらずで造営ぞうえいえた[16]。ただし近年きんねん研究けんきゅうによれば[注釈ちゅうしゃく 4]信西しんぜい再建さいけんしたのはちょうどういん(その正殿せいでんである大極殿たいきょくでん回廊かいろうかいあきらもん)・朱雀すざくもんなどかぎられたものであり[注釈ちゅうしゃく 5]二条天皇にじょうてんのう即位そくいしきもと3ねん(1158ねん))の会場かいじょうとして整備せいびされたものとかんがえられる[18]

安元やすもと3ねん(1177ねん)に発生はっせいした安元やすもと大火たいか太郎たろう焼亡しょうぼう)は、ちょうどういん大極殿たいきょくでんふくむ)が焼失しょうしつするなど、大内裏だいだいり壊滅かいめつてき被害ひがいあたえた[19]内裏だいり焼失しょうしつまぬかれた)。大極殿たいきょくでん再建さいけんわなかったために、安徳天皇あんとくてんのう内裏だいり紫宸殿ししんでん即位そくいしきおこなったが、安徳天皇あんとくてんのう平家へいけとともにぼっしたために内裏だいりでの即位そくいは「きょうれい」となされ、後鳥羽ごとば天皇てんのう太政官だじょうかんちょう即位そくいした(後三条ごさんじょう天皇てんのうが、焼失しょうしつした大極殿たいきょくでんわりに太政官だじょうかんちょう即位そくいしきおこなった前例ぜんれいがあった)[20]以後いご室町むろまちまで、中世ちゅうせい天皇てんのう太政官だじょうかんちょう即位そくいすることが定例ていれいとなる[21]

うけたまわ寿ことぶきひさしらん朝廷ちょうてい明白めいはく財政難ざいせいなんおちいった。安元やすもと大火たいか焼失しょうしつした大内裏だいだいり再建さいけん遅々ちちとしてすすまず、文治ぶんじ5ねん(1189ねん)にようやく再建さいけんはじまった[22]うけたまわひさし元年がんねん(1219ねん)に内裏だいりふくめた大内裏だいだいり焼失しょうしつ。その再建さいけん途上とじょう安貞やすさだ元年がんねん(1227ねん)に火災かさいによって全焼ぜんしょうし、これをもって大内裏だいだいり再建さいけん放棄ほうきされた[23]

内野ないや[編集へんしゅう]

平安へいあん後期こうき大内裏だいだいりは、周囲しゅういめぐらせた大垣おおがき維持いじされて(正門せいもんたる朱雀すざくもん周辺しゅうへんでは)威容いようたもった一方いっぽう大垣おおがき内側うちがわでは内裏だいりなどの一部いちぶ施設しせつのぞいて空閑地くうかんちであったことが考古学こうこがくてき確認かくにんされている[注釈ちゅうしゃく 6]大内裏だいだいり廃墟はいきょになった部分ぶぶん内野ないや(うちの)とばれるようになった[24]平安へいあん時代じだい中期ちゅうき成立せいりつの『今昔こんじゃく物語ものがたりしゅうまきだいじゅうななだいさんじゅうさん西京にしぎょうひとおうてんもんうえひかものかたり」には、西京にしぎょう右京うきょう)にもの深夜しんやに「内野ないやどおり」をとおり、おうてんもんかいあきらもんあいだ[注釈ちゅうしゃく 7]あやしいひかり目撃もくげきしたはなしであるが、平安へいあん時代じだい中期ちゅうきにはすでに大内裏だいだいり夜間やかん通行つうこう可能かのう荒地あれちし、そこに「内野ないやどおり」という道路どうろつくられていたことを物語ものがた[25]。「内野ないやどおり」は、当時とうじ市街地しがいちであった左京さきょう北部ほくぶ西にし嵯峨さが方面ほうめんとをむすみちのひとつであった[26]

内野ないや鎌倉かまくら時代じだいには武士ぶしたちの馬場ばばとして利用りようされた[27]各地かくちから上京じょうきょうした武士ぶしきょうちゅう秩序ちつじょみだすことを懸念けねんした鎌倉かまくら幕府ばくふ天福てんぷく元年がんねん(1233ねん)にした禁制きんせいなかには、内野ないや馬場ばばとして馬術ばじゅつ騎射きしゃじゅつ訓練くんれんおこなうことをきんじるものがある[28]元弘もとひろ3ねん(1333ねん)に足利尊氏あしかがたかうじろく探題たんだいめたさいろく軍勢ぐんぜい内野ないや布陣ふじんしてむかったのを皮切かわきりとして、明徳めいとく2ねん(1391ねん)の明徳めいとくらんにおける内野ないや合戦かっせんなど、南北なんぼくあさから戦国せんごくにはしばしば戦場せんじょうとして利用りようされた[29]

室町むろまち時代じだいには、内野ないやきた位置いちする北野きたのしゃ内野ないや朱雀すざく大路おおじ占拠せんきょして農地のうち開発かいはつし、室町むろまち幕府ばくふ社領しゃりょうとしてみとめさせた。その一方いっぽうで、天皇てんのう即位そくいしき会場かいじょうとなる太政官だじょうかんちょう各種かくしゅ神道しんとう儀式ぎしきおこなわれてきた神祇官じんぎかん各種かくしゅ仏教ぶっきょう儀式ぎしきおこなわれてきた真言しんごんいんの3つの施設しせつ南東なんとうにある神泉苑しんせんえんとも荒廃こうはいしながらも内野ないやなか存続そんぞくしていたが、応仁おうにんらんでこれらの施設しせつ焼失しょうしつし、再建さいけんすることが出来できなかった。このため、こう柏原かしわばら天皇てんのう即位そくいしき内裏だいり大内裏だいだいり空間くうかん見立みたてて実施じっしされた[30]

天正てんしょう15ねん(1587ねん)、豊臣とよとみ秀吉ひでよし内野ないや聚楽第じゅらくだい建設けんせつしたが、その豊臣とよとみ秀次しゅうじ失脚しっきゃく余波よはやぶ却された。近世きんせいには聚楽じゅらくむら聚楽じゅらくまわり)という農村のうそんとなって近代きんだいむかえ、現代げんだいでは京都きょうと市街地しがいち一部いちぶ中京ちゅうきょうの「聚楽じゅらくまわり」をかんするまちなど)となっている。

のちの施設しせつとの関係かんけい[編集へんしゅう]

幕末ばくまつまで天皇てんのうんだ京都きょうと御所ごしょは、1331ねんひかりげん天皇てんのうさと内裏だいりだった土御門つちみかど東洞とうどういん殿どの皇居こうきょとしてさだめたものである。現存げんそん建物たてもの1855ねん建造けんぞうされた建物たてもの太平洋戦争たいへいようせんそうのち復元ふくげんされた建物たてもの混在こんざいしている。

1895ねんには平安へいあん神宮じんぐう建立こんりゅうされ、内部ないぶ大極殿たいきょくでんおうてんもんなど大内裏だいだいりちょうどういん施設しせつ縮尺しゅくしゃく復元ふくげんされた。

文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

重要じゅうよう文化財ぶんかざいくに指定してい[編集へんしゅう]

  • 平安へいあんみや豊楽ほうらく殿でんあと出土しゅつどひん考古こうこ資料しりょう) - 明細めいさい以下いか京都きょうと所有しょゆう京都きょうと埋蔵まいぞう文化財ぶんかざい調査ちょうさセンター保管ほかん。2005ねん平成へいせい17ねん)6がつ9にち指定してい[31]
    • みどり釉・三彩さんさいかわら 422てん
    • かわら塼類 237てん
    • 白色はくしょく土器どき 3てん
    • 金属きんぞく製品せいひん 3てん
    • ガラスだま 1てん
    • 基壇きだん石材せきざい 8てん

くに史跡しせき[編集へんしゅう]

  • 平安へいあんみやあと
    1979ねん昭和しょうわ54ねん)12月22にち史跡しせき平安へいあん宮内くないうら内郭ないかく回廊かいろうあと」の指定してい
    1990ねん平成へいせい2ねん)2がつ22にち史跡しせき平安へいあんみや豊楽ほうらく殿でんあと」の指定してい
    2008ねん平成へいせい20ねん)7がつ28にち史跡しせき平安へいあん宮内くないうら内郭ないかく回廊かいろうあと」と「平安へいあんみや豊楽ほうらく殿でんあと」を統合とうごうし、きよしあつどうあと一部いちぶおよび豊楽ほうらく殿でんきよしあつどうあいだろうあと追加ついか指定していして、「平安へいあんみやあと 内裏だいりあと豊楽ほうらくいんあと」に名称めいしょう変更へんこう
    2017ねん平成へいせい29ねん)2がつ9にちちょうどういん大極殿たいきょくでん回廊かいろうあと一部いちぶ内野ないや公園こうえん)・豊楽ほうらくいんあと一部いちぶ追加ついか指定していして、「平安へいあんみやあと 内裏だいりあとちょうどういんあと豊楽ほうらくいんあと」に名称めいしょう変更へんこう[32]
    2021ねんれい3ねん)3がつ26にち史跡しせき範囲はんい追加ついか指定してい[33]

京都きょうと指定してい文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

  • 有形ゆうけい文化財ぶんかざい
    • 平安へいあん宮内くないうらうけたまわあきら門跡もんぜき しず遺構いこう出土しゅつどひん 42てん考古こうこ資料しりょう) - 京都きょうと考古こうこ資料しりょうかん保管ほかん。2008ねん平成へいせい20ねん)4がつ1にち指定してい
    • 平安へいあん宮内くない酒殿さかどあと出土しゅつどうち酒殿さかど木簡もっかん考古こうこ資料しりょう) - 京都きょうと考古こうこ資料しりょうかん保管ほかん。2010ねん平成へいせい22ねん)4がつ1にち指定してい
    • 平安へいあんみや出土しゅつど 和歌わか墨書ぼくしょ土器どき考古こうこ資料しりょう) - 京都きょうと考古こうこ資料しりょうかん保管ほかん。2010ねん平成へいせい22ねん)4がつ1にち指定してい
  • 史跡しせき
    • 平安へいあんみや造酒ぞうしゅ倉庫そうこあと - 1997ねん平成へいせい9ねん)4がつ1にち指定してい

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 日本書紀にほんしょき』には朱鳥あすか元年がんねん(686ねん)に難波なんばみや全焼ぜんしょうしたと記録きろくされている。
  2. ^ 扶桑ふそう略記りゃっき』には和銅わどう4ねん(711ねん)に焼失しょうしつしたという記事きじがある。
  3. ^ 嵯峨天皇さがてんのう譲位じょういんだことにはじまるこういんひと
  4. ^ ももさき(2016ねん)は上原うえはら真人まさと院政いんせい平安へいあんみやかわらからみた―」(高橋たかはし昌明まさあきへん院政いんせい内裏だいり大内裏だいだいりいん御所ごしょ』(文理ぶんりかく、2006ねん)をいている
  5. ^ ちょうどういん正門せいもんであるおうてんもんかいあきらもん外側そとがわ位置いちする)やしょ官庁かんちょう再建さいけんされなかったという[17]
  6. ^ ももさき(2016ねん)は山本やまもと雅和まさかず変貌へんぼう」(西山にしやま良平りょうへい鈴木すずき久男ひさおへん古代こだい3 恒久こうきゅう 平安京へいあんきょう』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2010ねん)をいている
  7. ^ 本来ほんらいちょうどういん敷地しきちにあたる

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 国史こくしだい辞典じてん』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん)「宮城みやぎじゅうもんしょ史料しりょう異同いどう一覧いちらんひょうもとづいて記載きさい
  2. ^ ももさき(2016ねん)、kindleばん位置いちNo.4277
  3. ^ ももさき(2016ねん)、kindleばん位置いちNo.4331
  4. ^ ももさき(2016ねん)、kindleばん位置いちNo.4334
  5. ^ ももさき(2016ねん)、kindleばん位置いちNo.4341
  6. ^ ももさき(2016ねん)、kindleばん位置いちNo.4344
  7. ^ ももさき(2016ねん)、kindleばん位置いちNo.4388
  8. ^ ももさき(2016ねん)、kindleばん位置いちNo.4393
  9. ^ ももさき(2016ねん)、kindleばん位置いちNo.4410
  10. ^ ももさき(2016ねん)、kindleばん位置いちNo.4644
  11. ^ ももさき(2016ねん)、kindleばん位置いちNo.4723
  12. ^ ももさき(2016ねん)、kindleばん位置いちNo.4764
  13. ^ ももさき(2016ねん)、kindleばん位置いちNo.4886
  14. ^ ももさき(2016ねん)、kindleばん位置いちNo.4777
  15. ^ ももさき(2016ねん)、kindleばん位置いちNo.4820
  16. ^ ももさき(2016ねん)、kindleばん位置いちNo.4933
  17. ^ ももさき(2016ねん)、kindleばん位置いちNo.4955
  18. ^ ももさき(2016ねん)、kindleばん位置いちNo.4990
  19. ^ ももさき(2016ねん)、kindleばん位置いちNo.4357
  20. ^ ももさき(2016ねん)、kindleばん位置いちNo.4821
  21. ^ ももさき(2016ねん)、kindleばん位置いちNo.4852
  22. ^ ももさき(2016ねん)、kindleばん位置いちNo.5316
  23. ^ ももさき(2016ねん)、kindleばん位置いちNo.5316
  24. ^ ももさき(2016ねん)、kindleばん位置いちNo.5335
  25. ^ ももさき(2016ねん)、kindleばん位置いちNo.5338
  26. ^ ももさき(2016ねん)、kindleばん位置いちNo.5347
  27. ^ ももさき(2016ねん)、kindleばん位置いちNo.5364
  28. ^ ももさき(2016ねん)、kindleばん位置いちNo.5387
  29. ^ ももさき(2016ねん)、kindleばん位置いちNo.5400
  30. ^ ひさすい俊和としかず室町むろまち内野ないやにおける存続そんぞくかんまもる -神祇官じんぎかん太政官だじょうかんちょう真言しんごんいん神泉苑しんせんえんこう-」『駿台すんだい史學しがくだい160ごう、2017ねん、pp.1-27/改題かいだい所収しょしゅう:「内野ないや存続そんぞく官衙かんがひさすい俊和としかず中世ちゅうせい天皇てんのう作法さほう律令制りつりょうせい残像ざんぞう八木やぎ書店しょてん、2020ねん、pp.209-246
  31. ^ 平安へいあんみや豊楽ほうらく殿でんあと出土しゅつどひん - くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース(文化庁ぶんかちょう
  32. ^ 平安へいあんみやあと - くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース(文化庁ぶんかちょう
  33. ^ れい3ねん3がつ26にち文部もんぶ科学かがくしょう告示こくじだい49ごう

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

座標ざひょう: 北緯ほくい3501ふん17びょう 東経とうけい13544ふん33びょう / 北緯ほくい35.021492 東経とうけい135.742559 / 35.021492; 135.742559