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円融天皇えんゆうてんのう

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円融天皇えんゆうてんのう

即位そくいれい 969ねん11月5にち安和あわ2ねん9月23にち
大嘗祭だいじょうさい 970ねん12月18にちてんろく元年がんねん11月17にち
元号げんごう 安和やすかず
てんろく
てんのべ
貞元さだもと
天元てんげん
永観えいかん
時代じだい 平安へいあん時代じだい
先代せんだい 冷泉れいせん天皇てんのう
次代じだい 花山はなやま天皇てんのう

誕生たんじょう 959ねん4がつ12にち天徳てんとく3ねん3月2にち
崩御ほうぎょ 991ねん3月1にちせいこよみ2ねん2がつ12にち
円融寺えんゆうじ
大喪たいそう 991ねん3月8にちせいこよみ2ねん2がつ19にち
りょうしょ こう村上むらかみりょう
追号ついごう 円融えんゆういん
円融天皇えんゆうてんのう
いみな まもりひらた
別称べっしょう 金剛こんごうほう法名ほうみょう
朱雀すざくいん上皇じょうこう
元服げんぷく 972ねん1がつ21にちてんろく3ねん1がつ3にち
父親ちちおや 村上むらかみ天皇てんのう
母親ははおや 藤原ふじわら安子やすこ
中宮なかみや 藤原ふじわら媓子藤原ふじわら遵子
女御にょうご 藤原ふじわらかい尊子たかこ内親王ないしんのう
子女しじょ 一条天皇いちじょうてんのう
皇居こうきょ 平安へいあんみや
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円融天皇えんゆうてんのう(えんゆうてんのう、きゅう字体じたい圓融天皇えんゆうてんのう959ねん4がつ12にち天徳てんとく3ねん3月2にち〉- 991ねん3月1にちせいこよみ2ねん2がつ12にち[1])は、日本にっぽんだい64だいとされる天皇てんのう在位ざいい:969ねん9月27にち安和やすかず2ねん8がつ13にち〉- 984ねん9月24にち永観えいかん2ねん8がつ27にち〉)。いみなまもりひらたもりひら

村上むらかみ天皇てんのうだい5皇子おうじで、はは右大臣うだいじん藤原ふじわらむすめ皇后こうごう中宮ちゅうぐう安子やすこ冷泉れいせん天皇てんのう同母どうぼおとうと

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

村上むらかみ天皇てんのうだい5皇子おうじ中宮なかみや安子やすこ所生しょせいの3番目ばんめ皇子おうじとして誕生たんじょうする。冷泉れいせん天皇てんのう為平親王ためひらしんのう2人ふたり同母どうぼけいのほか、4にん同母どうぼ姉妹しまいがいた。おう4ねん964ねん)、おさなくしてはは安子やすこくす。安子やすこ死後しご安子やすこいもうとである藤原ふじわら登子たかこ重明しげあき親王しんのうつま)にそだてられ、資子もとこ兄弟きょうだいとも中宮なかみやけん大夫たいふつとめていた藤原ふじわらけんどおり安子やすこ登子たかこあに)に庇護ひごされていた[2]

もりひら親王しんのうあにである冷泉れいせん天皇てんのう即位そくいすると、立太子りったいしをめぐり藤原ふじわら左大臣さだいじんみなもと高明こうめい対立たいりつしたが、かんたもつ4ねん967ねん9月1にち藤原ふじわら主張しゅちょうかよって9さいもりひら親王しんのう皇嗣こうしとなった。対立たいりつはさらに安和あわへん安和あわ2ねん969ねん3がつ)の勃発ぼっぱつをもたらし、みなもと高明こうめい失脚しっきゃくした。高明こうめいむすめにしていた為平親王ためひらしんのう存在そんざいちゅうき、5かげつの9がつ23にち冷泉れいせん譲位じょういまもりたいら円融天皇えんゆうてんのうとして即位そくいする。即位そくいすぐに親密しんみつだった同母どうぼあね資子もとこ内親王ないしんのう一品いっぴんじゅんさんみやとした。

いまだかぞ11だったため、大伯父おおおじにあたる太政大臣だじょうだいじん藤原ふじわらみのるよりゆき摂政せっしょう就任しゅうにんてんろく元年がんねん970ねん)にじつよりゆき死去しきょすると、天皇てんのう外舅がいきゅう藤原ふじわらいん摂政せっしょうぐ。どう3ねん(972ねん)1がつ3にち元服げんぷくむかえる[3]が、その直後ちょくごいん在職ざいしょく1ねんあまりで死去しきょすると、そのおとうとけんどおりけんあいだ関白かんぱくしょくめぐって熾烈しれつあらそいがきた。天皇てんのうほろびはは安子やすこ遺訓いくんしたがってけんどおり関白かんぱくにんじた。よく4ねん(973ねん)、けんどおりむすめ媓子入内じゅだいさせ中宮なかみやとする。当初とうしょ円融天皇えんゆうてんのうあに冷泉れいせん上皇じょうこう成長せいちょうするまでの「一代いちだいぬし」、すなわち中継なかつぎの天皇てんのう[注釈ちゅうしゃく 1]とみなされており、外舅がいきゅうであるいんけんむすめ天皇てんのう入内じゅだいさせるかんがえはなかった。そのなか安子やすこ所生しょせい皇子おうじおんな面倒めんどうつづけたけんどおり天皇てんのう唯一ゆいいつ後見こうけんとして浮上ふじょうし、円融天皇えんゆうてんのう関白かんぱくけんどおり主導しゅどうあらたな皇統こうとう形成けいせいはかられたとかんがえられている[2]貞元さだもと2ねん(977ねん)に関白かんぱくけんどおり重病じゅうびょうおちいると、けんどおり要望ようぼうしたがって外戚がいせき関係かんけいのない藤原ふじわらよりゆきただし後任こうにんとした。これはけんどおり権勢けんせいしたがったものとかんがえられるが、当時とうじけん自身じしんあにである冷泉れいせん上皇じょうこうには長女ちょうじょちょう入内じゅだいさせていたのにたいして、円融えんゆうにはむすめ入内じゅだいさせておらず、そのため円融天皇えんゆうてんのうけんふくむところがあり、むしろ自身じしんむすめ・遵子を入内じゅだいさせていたよりゆきちゅうほう好意こういいていたとする見方みかたもある。

しかし、そのけん天元てんげん元年がんねん(978ねん)に次女じじょかい入内じゅだいさせ、どう3ねん(980ねん)6がつ女御にょうごとなったかい天皇てんのう唯一ゆいいつ皇子おうじおんなであるふところじん親王しんのう一条天皇いちじょうてんのう)をもうけた。前年ぜんねん天元てんげん2ねん(979ねん)の中宮ちゅうぐう媓子がに、中宮ちゅうぐう空席くうせきとなったが、円融えんゆうはすぐにはわりの皇后こうごう冊立さくりつしようとせず、天元てんげん5ねん(982ねん)になって入内じゅだいしていたよりゆきちゅうむすめの遵子を冊立さくりつした。ただし遵子はこれ以前いぜんにも以後いごにも皇子おうじおんなむことはなく「もとはらきさき」とあだされた。こうした一連いちれんうごきに立腹りっぷくしたけんは、むすめかい外孫そとまごふところじん親王しんのう自邸じていかえり、出仕しゅっしをやめた。一方いっぽう円融天皇えんゆうてんのうも2にわたる内裏だいり焼失しょうしつさいにもけんへの依存いぞんこばみ、関白かんぱくよりゆきちゅうてい譲位じょういこう仙洞せんとう御所ごしょとして使用しようしたけんどおりてい堀河ほりかわ殿どのさと内裏だいりとして使用しようした。両者りょうしゃ意地いじいはおさまらなかった。

やがて天皇てんのうけん譲歩じょうほし、永観えいかん2ねん984ねん)、息子むすこふところじん親王しんのう立太子りったいしえに、冷泉れいせん天皇てんのう皇子おうじさだ親王しんのう譲位じょういし、太上天皇だじょうてんのうとなる。その比較的ひかくてき自由じゆう上皇じょうこうで、詩歌しか管絃かんげん遊楽ゆうらくたのしみ、石清水八幡宮いわしみずはちまんぐう石山寺いしやまでら南都なんとしょてら参詣さんけいしている。寛和ひろかず元年がんねん(985ねん)2がつ13にち紫野むらさきのにおいて盛大せいだいな「ゆう」をもよおし、平兼盛たいらのかねもり大中おおなかしんのうせん清原きよはらもとみなもと重之しげゆききの時文じぶんらをふく当代とうだい著名ちょめい歌人かじん和歌わかませた。『今昔こんじゃく物語ものがたりしゅうまき28にある、曾禰好忠そねのよしただされもしないのにみすぼらしい狩衣かりぎぬ姿すがた推参すいさんしてされたという逸話いつわは、このときはなしである。

寛和ひろかず2ねん986ねん)6がつ23にち寛和ひろかずへんにより花山はなやま天皇てんのうふところじん親王しんのう譲位じょういし、かぞえ7さい一条天皇いちじょうてんのうった。一条いちじょうあさではようみかど指導しどうしてつよ発言はつげんけんち、院政いんせい意図いとがあったともいわれ、摂政せっしょうとなったけん意見いけん対立たいりつすることもあったことが、いん別当べっとうとして円融えんゆうあつ信頼しんらいていた藤原ふじわらみのるの『しょう右記うき』によってかる。

なお、あに為平親王ためひらしんのう式部しきぶきょうにん一品いっぴんじょしており、これは皇族こうぞくでももっとも上位じょういもの叙任じょにんされるもので、円融えんゆう法皇ほうおう一条天皇いちじょうてんのうによる政治せいじてき配慮はいりょがあったとされる。

せいこよみ2ねん991ねん)、御願ごがんてらである円融寺えんゆうじで33さい生涯しょうがいじた。

和歌わか愛好あいこうし、『拾遺しゅういしゅう以下いか勅撰ちょくせんしゅうに24しゅいれしゅう。ほかに『円融えんゆういんしゅう』もつたわる。

てんろく3ねん(972ねん)、五大ごだい明王みょうおうほうもちいたもとさん大師だいし良源りょうげんらにより円融天皇えんゆうてんのう病気びょうきなおしている。つたわるところ[よう出典しゅってん]によると関係かんけいしゃ見守みまもるなか、加持かじはじめるとたちまち良源りょうげん姿すがた変容へんようし、から火炎かえん右手みぎてけん左手ひだりてさくにぎりついに不動明王ふどうみょうおうそのものとしたようえたので天皇てんのう公卿くぎょう生身なまみ不動明王ふどうみょうおうおそれて合掌がっしょう礼拝れいはいしたという。

在位ざいいちゅう重臣じゅうしん一覧いちらん[編集へんしゅう]

系譜けいふ[編集へんしゅう]

円融天皇えんゆうてんのう系譜けいふ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. だい58だい 光孝みつたか天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
8. だい59だい 宇多天皇うだてんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. はん子女しじょおう
 
 
 
 
 
 
 
4. だい60だい 醍醐天皇だいごてんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. 藤原ふじわら高藤たかとう
 
 
 
 
 
 
 
9. 藤原ふじわらたね
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19. みやみちれつ
 
 
 
 
 
 
 
2. だい62だい 村上むらかみ天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20. 藤原ふじわら長良ながら
 
 
 
 
 
 
 
10. 藤原基経ふじわらのもとつね(=24)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
21. 藤原ふじわらおつはる
 
 
 
 
 
 
 
5. 藤原ふじわら穏子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
22. ひとやすし親王しんのう
 
 
 
 
 
 
 
11. ひとやすし親王しんのうおんな(=25)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1. だい64だい 円融天皇えんゆうてんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. 藤原基経ふじわらのもとつね(=10)
 
 
 
 
 
 
 
12. 藤原ふじわら忠平ちゅうへい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
25. ひとかんちかし王女おうじょ(=11)
 
 
 
 
 
 
 
6. 藤原ふじわら
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26. みなもとのうゆう
 
 
 
 
 
 
 
13. みなもと昭子あきこ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
27. 藤原基経ふじわらのもとつねおんな
 
 
 
 
 
 
 
3. 藤原ふじわら安子やすこ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
28. 藤原ふじわらゆうさだ
 
 
 
 
 
 
 
14. 藤原ふじわらけいくに
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
29. 藤原ふじわら富士ふじまるおんな
 
 
 
 
 
 
 
7. 藤原ふじわら盛子もりこ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

系図けいず[編集へんしゅう]

 
 
 
60 醍醐天皇だいごてんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
61 朱雀すざく天皇てんのう
 
62 村上むらかみ天皇てんのう
 
兼明親王かねあきらしんのう
 
みなもと高明こうめい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
広平ひろへい親王しんのう
 
63 冷泉れいせん天皇てんのう
 
致平親王しんのう
 
為平親王ためひらしんのう
 
64 円融天皇えんゆうてんのう
 
昭平しょうへい親王しんのう
 
具平親王ともひらしんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
65 花山はなやま天皇てんのう
 
67 三条さんじょう天皇てんのう
 
 
 
 
 
66 一条天皇いちじょうてんのう
 
 
 
 
 
みなもとぼう
村上むらかみはじめへ〕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
あつしあきら親王しんのう
(小一条こいちじょういん)
 
禎子さだこ内親王ないしんのう
陽明ようめいもんいん)
 
68 後一条天皇ごいちじょうてんのう
 
69 こう朱雀すざく天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
70 後冷泉天皇ごれいぜいてんのう
 
71 後三条ごさんじょう天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

后妃こうひ皇子おうじおんな[編集へんしゅう]

追号ついごう異名いみょう[編集へんしゅう]

譲位じょういこういんにちなみ、朱雀すざくいん上皇じょうこうばれた(『日本にっぽんりゃく』『しょう右記うき』『だい斎院さいいんまえしゅう』などに散見さんけん)。寛和ひろかず元年がんねん(985)8がつ大僧正だいそうじょうひろしあさから受戒じゅかいして出家しゅっけし、以後いご勅願ちょくがんてらである円融寺えんゆうじんだことにちなみ、崩御ほうぎょ円融えんゆういん」と追号ついごう

在位ざいいちゅう元号げんごう[編集へんしゅう]

りょう霊廟れいびょう[編集へんしゅう]

円融えんゆう天皇陵てんのうりょう

りょう(みささぎ)は、宮内庁くないちょうにより京都きょうと京都きょうと右京うきょう宇多野福王子うたのふくおうじまちにあるこう村上むらかみりょう(のちのむらかみのみささぎ)に治定じじょうされている。宮内庁くないちょうじょう形式けいしきえんおか

遺体いたい円融寺えんゆうじ北原きたはら火葬かそうし、ちち村上むらかみ天皇陵てんのうりょうかたわらに遺骨いこつおさめられた。今日きょうでも龍安寺りゅうあんじうらしゅやま円融えんゆういん火葬かそうづかのこっている。

また皇居こうきょでは、宮中きゅうちゅうさん殿どののひとつ皇霊こうれい殿どのにおいてほか歴代れきだい天皇てんのう皇族こうぞくとともに円融天皇えんゆうてんのうれいまつられている。

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 円融天皇えんゆうてんのうを「一代いちだいぬし」としたのは、長男ちょうなんである冷泉れいせん天皇てんのう子孫しそん皇統こうとうがせたい村上むらかみ天皇てんのう遺命いめいであり、反対はんたいにその意図いとからすれば村上むらかみ天皇てんのう晩年ばんねん段階だんかいすで成人せいじんしていて冷泉れいせんよりさき男子だんしもうける可能かのうせいがあった為平親王ためひらしんのうでは「一代いちだいぬし」には適当てきとうであった、とする見解けんかいもある[4]
  2. ^ 」の異説いせつあり。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 円融天皇えんゆうてんのう』 - コトバンク
  2. ^ a b 栗山くりやま圭子けいこけんどおり政権せいけん前提ぜんてい-外戚がいせき後見こうけんふくふじ早苗さなえ へん平安朝へいあんちょう女性じょせい政治せいじ文化ぶんか 宮廷きゅうてい生活せいかつ・ジェンダー』(明石書店あかししょてん、2017ねん
  3. ^ 日本にっぽんりゃく
  4. ^ 沢田さわだ和久かずひさ冷泉れいせんあさ円融えんゆうちょう初期しょき政治せいじいち考察こうさつ初出しょしゅつ:『北大ほくだい史学しがく』55ごう、2015ねん/所収しょしゅう:倉本くらもと一宏かずひろ へん王朝おうちょう時代じだい実像じつぞう1 王朝おうちょう再読さいどく臨川りんせん書店しょてん、2021ねん 倉本くらもとへん、P6-8.
  5. ^ 本郷ほんごうそう、『ひかきみへ』で花山はなやま天皇てんのうやくたのしみながらえんじたい」『麒麟きりんがくる』では関白かんぱくやく”. マイナビニュース. マイナビ (2023ねん5がつ23にち). 2023ねん5がつ23にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]