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後水尾天皇ごみずのおてんのう

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後水尾天皇ごみずのおてんのう
後水尾天皇ごみずのおてんのうぞう宮内庁くないちょうしょりょうぞう 尾形おがた光琳こうりんふで

即位そくいれい 1611ねん5月23にち慶長けいちょう16ねん4がつ12にち
元号げんごう 慶長けいちょう
元和がんわ
寛永かんえい
時代じだい 江戸えど時代じだい
征夷大将軍せいいたいしょうぐん 徳川とくがわ秀忠ひでただ
徳川とくがわ家光いえみつ
先代せんだい こう陽成ようぜい天皇てんのう
次代じだい 明正めいせい天皇てんのう

誕生たんじょう 1596ねん6月29にちぶんろく5ねん6月4にち
崩御ほうぎょ 1680ねん9月11にちのべたから8ねん8がつ19にち
りょうしょ 月輪げつりんりょう
追号ついごう こう水尾みずおいん
後水尾天皇ごみずのおてんのう
いみな 政仁まさひと
別称べっしょう まどかきよし法名ほうみょう
称号しょうごう 三宮さんのみや
父親ちちおや こう陽成ようぜい天皇てんのう
母親ははおや 近衛このえぜん
中宮なかみや 徳川とくがわ和子かずこ
子女しじょ きょう内親王ないしんのう明正めいせい天皇てんのう
おんな二宮にのみや
こうひとし親王しんのう
若宮わかみや
昭子あきこ内親王ないしんのう
賀子かこ内親王ないしんのう
きくみや
紹仁親王しんのうこう光明こうみょう天皇てんのう
まもりきよし法親王ほうしんのう
げんあきら女王じょおう
そうきよし女王じょおう
かつらみや
賀茂かもみや
ぶんさとし女王じょおう
あきら女王じょおう
光子こうし内親王ないしんのう
良仁よしひと親王しんのうこう西にし天皇てんのう
せい法親王ほうしんのう
みや
ちゅう女王じょおう
はちじょうみや穏仁親王しんのう
道寛みちひろ法親王ほうしんのう
たかしじょ法親王ほうしんのう
常子つねこ内親王ないしんのう
けい法親王ほうしんのう
みことしょう法親王ほうしんのう
識仁親王しんのうれいもと天皇てんのう
えいとおる女王じょおう
みことこう入道にゅうどう親王しんのう
もりたね法親王ほうしんのう
ぶん察女おう
新宮しんぐう
せいうけたまわ法親王ほうしんのう
皇居こうきょ 平安へいあんみや京都きょうと御所ごしょ
親署しんしょ 後水尾天皇の親署
テンプレートを表示ひょうじ

後水尾天皇ごみずのおてんのう(ごみずのおてんのう、ごみのおてんのう、1596ねん6月29にちぶんろく5ねん6月4にち〉 - 1680ねん9月11にちのべたから8ねん8がつ19にち〉)は、日本にっぽんだい108だい天皇てんのう在位ざいい: 1611ねん5月9にち慶長けいちょう16ねん3月27にち〉 - 1629ねん12月22にち寛永かんえい6ねん11月8にち〉)。いみな政仁まさひと(ことひと)。幼名ようみょう三宮さんのみや

こう陽成ようぜい天皇てんのうだいさん皇子おうじはは関白かんぱく太政大臣だじょうだいじん豊臣とよとみ秀吉ひでよし猶子ゆうしこう陽成ようぜい女御にょうご近衛このえぜん中和ちゅうわもんいん)。

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]
後水尾天皇ごみずのおてんのう みやび 色紙いろがみ

こう陽成ようぜい天皇てんのうはかねてからだいいち皇子おうじ良仁よしひと親王しんのうさとし深入ふかいりどう親王しんのう)をはいして、おとうとみやはちじょうみや智仁ともひと親王しんのうてることをのぞんでいた。だが、関ヶ原せきがはらたたかによってあらたに権力けんりょくれた徳川とくがわ家康いえやすもまた皇位こうい継承けいしょう介入かいにゅうし、良仁よしひと親王しんのう出家しゅっけ皇位こうい継承けいしょうからの排除はいじょ)はみとめるものの、これにわる次期じき天皇てんのうとして嫡出ちゃくしゅつ男子だんしであっただいさん皇子おうじ政仁まさひと親王しんのう擁立ようりつもとめた。最終さいしゅうてきこう陽成ようぜい天皇てんのうはこれをれたものの、結果けっかてきには自己じこ希望きぼうはんして家康いえやす意向いこうによっててられた政仁まさひと親王しんのうたいしても良仁よしひと親王しんのう同様どうよう冷淡れいたん態度たいどるようになった。

慶長けいちょう16ねん1611ねん3月27にちこう陽成ようぜい天皇てんのうから譲位じょういされ践祚せんそ4がつ12にち即位そくいれいおこなう。だが、ちちのち陽成ようぜい上皇じょうこうとの不仲ふなかはそのつづき、天海てんかい板倉いたくら勝重かつしげ仲裁ちゅうさいにもかかわらず不仲ふなか上皇じょうこう崩御ほうぎょまでつづいた。

江戸えど幕府ばくふ朝廷ちょうてい行動こうどう統制とうせい目的もくてきとして慶長けいちょう18ねん6月16にち1613ねん8がつ2にち)には、「公家くげしゅ法度はっと」・「勅許ちょっきょ紫衣しえ(しえ)法度はっと」を制定せいていし、いで、豊臣とよとみ宗家そうけ滅亡めつぼう慶長けいちょう20ねん7がつ17にち1615ねん9月9にち)には「禁中きんちゅうなみ公家くげしょ法度はっと」を公布こうふした。以後いご朝廷ちょうてい行動こうどう全般ぜんぱん京都きょうと所司代しょしだいつうじて幕府ばくふ管理かんりかれたうえに、その運営うんえい摂政せっしょう関白かんぱく朝議ちょうぎ主宰しゅさいし、その決定けってい武家ぶけ伝奏てんそうつうじて幕府ばくふ承諾しょうだくることによってはじめて施行しこうできる体制たいせいへと変化へんか余儀よぎなくされた。これによって摂家せっけ以外いがい公卿くぎょう上皇じょうこう朝廷ちょうてい政策せいさく決定けってい過程かていから排除はいじょされ、幕府ばくふ方針ほうしん忠実ちゅうじつ朝廷ちょうてい運営うんえい目指めざされた。

天皇てんのう即位そくいすると大御所おおごしょ徳川とくがわ家康いえやす孫娘まごむすめ和子かずこ入内じゅだいもうれ、慶長けいちょう19ねん1614ねん)4がつ入内じゅだい宣旨せんじされる。しかし、入内じゅだい大坂おおさかじん元和がんわ2ねん1616ねん)の家康いえやす死去しきょこう陽成ようぜいいん崩御ほうぎょなどがつづいたため延期えんきされた。

元和がんわ4ねん1618ねん)には女御にょうご御殿ごてん造営ぞうえい開始かいしされるが、天皇てんのう寵愛ちょうあい女官にょかん四辻よつつじあずかとのあいだ皇子おうじ皇女おうじょがいたことが徳川とくがわ秀忠ひでただ発覚はっかくすると、入内じゅだい問題もんだいされる。

元和がんわ5ねん1619ねん)9がつ15にち秀忠ひでただ自身じしん上洛じょうらくして、あずかいを宮中きゅうちゅうにおける不行跡ふぎょうせきであるとして和子わこ入内じゅだい推進すいしんしていた武家ぶけ伝奏てんそう広橋ひろはしけんかちとともにこれを追及ついきゅうした。そして万里まり小路しょうじたかしぼう宮中きゅうちゅう風紀ふうきみだれの責任せきにん丹波たんばこく篠山しのやま配流はいるあずか実兄じっけいである四辻よつつじままし高倉たかくら嗣良豊後ぶんごこく配流はいる、さらに天皇てんのう側近そっきん中御門なかみかどせん堀河ほりかわやすしたね土御門つちみかどひさおさむ出仕しゅっし停止ていしにした。これに憤慨ふんがいした天皇てんのう譲位じょういしようとするが、幕府ばくふからの使者ししゃである藤堂とうどう高虎たかとら天皇てんのう恫喝どうかつあずか追放ついほう出家しゅっけ強要きょうようした(およつ御寮人ごりょうにん事件じけん)。

元和がんわ6ねん1620ねん)6がつ18にち和子わこ女御にょうごとして入内じゅだいすると、これに満足まんぞくした秀忠ひでただは、今度こんど処罰しょばつした6めい赦免しゃめん復職ふくしょくめいじる大赦たいしゃ天皇てんのう強要きょうようした。

寛永かんえい2ねん(1625ねん)11月13にち皇子おうじであるこうひとし親王しんのう誕生たんじょうする。

寛永かんえい3ねん1626ねん)10がつ25にちから30にちまで二条城にじょうじょうへの行幸ぎょうこうおこなわれ、徳川とくがわ秀忠ひでただ家光いえみつ上洛じょうらく拝謁はいえつした。

寛永かんえい4ねん(1627ねん)に紫衣しえ事件じけん家光いえみつ乳母うばであるぶく春日局かすがのつぼね)が無位むい無官むかんでありながら朝廷ちょうてい参内さんだいする(金杯きんぱい事件じけん)など天皇てんのう権威けんい失墜しっついさせる江戸えど幕府ばくふ行為こういえかねた天皇てんのう寛永かんえい6ねん(1629ねん11月8にち幕府ばくふへの通告つうこくまったくしないまま次女じじょきょう内親王ないしんのう明正めいせい天皇てんのう)に譲位じょういした(こうひとし親王しんのう夭折ようせつしていたため)。このことを事前じぜんられていたのは腹心ふくしん中御門なかみかどせん衡のみであったとされる(『ときけいきょう寛永かんえい6ねん11月8にちじょう[1]一説いっせつには病気びょうき天皇てんのう治療ちりょうのためにやいとえようとしたところ、「玉体ぎょくたい火傷かしょうあとをつけるなどとんでもない」と廷臣ていしん反対はんたいしたために譲位じょういして治療ちりょうけたともいわれているが(つじ善之助ぜんのすけひとし代表だいひょうされる通説つうせつの「幕府ばくふ横暴おうぼうたいする天皇てんのう朝廷ちょうてい抵抗ていこうとしての譲位じょうい」にたい反論はんろんするほら富雄とみおせつ[2]。)、天皇てんのう灸治きゅうじけた前例ぜんれい高倉たかくらこう宇多うたりょう天皇てんのう)もあり、譲位じょういのための口実こうじつであるとされている。その一方いっぽうで、中世ちゅうせい後期こうき以降いこう玉体ぎょくたいへの禁忌きんき拡大かくだいしたとする見方みかた存在そんざいし、こう花園天皇はなぞのてんのうの鍼治療ちりょうさいして「御針おはりをはたまからだはばかる」として反対はんたいする意見いけん存在そんざいしたとする記録きろく(『かんとみ嘉吉よしきち2ねん10がつ17にちじょう)が存在そんざいし、その治療ちりょうおこなわれなくなったとする指摘してき存在そんざいする[3]。また、れいもと天皇てんのうみかどえらさいに、こう水尾みずお法皇ほうおう意思いしはんして一宮いちのみや(のちのすみふか法親王ほうしんのう)を退しりぞけ、寵愛ちょうあいする朝仁あさに親王しんのう(のちの東山ひがしやま天皇てんのう)を強引ごういんてたが、このときに表向おもてむきの理由りゆうとされたのが「一宮いちのみや灸治きゅうじけたことがある」であった[4]小倉おぐら事件じけん)。

以後いごれいもと天皇てんのうまでの4だい天皇てんのう後見人こうけんにんとして院政いんせいおこなう。当初とうしょ院政いんせいみとめなかった幕府ばくふも、寛永かんえい11ねん1634ねん)の将軍しょうぐん徳川とくがわ家光いえみつ上洛じょうらくをきっかけにみとめることになる[5]。その上皇じょうこう(のちに法皇ほうおう)と幕府ばくふとの確執かくしつつづく。また、東福門院とうふくもんいん和子かずこ)にたいする配慮はいりょから彼女かのじょ養子ようしとされていた後光ごこうあきらこう西にしれいもとの3天皇てんのう生母せいぼえん光子こうし櫛笥くしげ隆子たかこえん国子くにこ)にたいする女院にょいんごう贈呈ぞうてい間際まぎわえん光子こうし場合ばあいこう光明こうみょう天皇てんのう崩御ほうぎょ直後ちょくご)におこなわれ、その父親ちちおやえんもとにん櫛笥くしげたかしえん基音きおん)への贈位ぞうい贈官ぞうかん極秘ごくひおこなわれるなど、幕府ばくふ朝廷ちょうていたいする公然こうぜん公然こうぜん圧力あつりょくつづいたともいわれている(ただし、生前せいぜん女院にょいんごう贈呈ぞうていには経済けいざいてき待遇たいぐう付随ふずいするため、財政ざいせい問題もんだいとのいもある)[6]。その一方いっぽうで、本来ほんらい禁中きんちゅうがい存在そんざいである「院政いんせい」の否定ひていたい朝廷ちょうてい基本きほん政策せいさくとしてきた幕府ばくふこう水尾みずお上皇じょうこう法皇ほうおう)の院政いんせいみとめざるをなかった背景はいけいには徳川とくがわ家光いえみつ朝廷ちょうていとの協調きょうちょう姿勢しせい[注釈ちゅうしゃく 1]とともに東福門院とうふくもんいんおっと政治せいじ方針ほうしん理解りかいしめし、その院政いんせい擁護ようごしたからでもある。また、こう西にし天皇てんのう在位ざいいをめぐる特殊とくしゅ事情じじょう[注釈ちゅうしゃく 2]院政いんせい継続けいぞくさせる要因よういんとなった[8]晩年ばんねんになりれいもと天皇てんのう成長せいちょうし、天皇てんのう若年じゃくねんゆえの浅慮せんりょ不行跡ふぎょうせき問題もんだいされるようになると、法皇ほうおう天皇てんのう近臣きんしんたち抑制よくせいして幕府ばくふがそれを支援しえんするうごきもみられるようになる。法皇ほうおう主導しゅどう天皇てんのうした設置せっちされた御側おそばしゅ(のちのそう)にたいしてのべたから7ねん1679ねん)に幕府ばくふからのやくりょう支給しきゅう実施じっしされたのはその代表だいひょうてきれいである。

のべたから8ねん1680ねん)8がつ19にち、85さい崩御ほうぎょし、泉涌寺せんにゅうじうち月輪げつりんりょう(つきのわのみささぎ)にほうむられた。なお京都きょうと上京かみぎょう相国寺しょうこくじ境内けいだいには後水尾天皇ごみずのおてんのう毛髪もうはつおさめた、後水尾天皇ごみずのおてんのうかみづか現存げんそんする。

一世一元いっせいいちげんせい導入どうにゅう江戸えど時代じだい以前いぜん明確めいかく記録きろくのこ歴代れきだい天皇てんのう崩御ほうぎょ法皇ほうおう)のなかではさい高齢こうれいである。昭和しょうわ60ねん1985ねん7がつ12にち記録きろくいた昭和しょうわ天皇てんのうは、「後水尾天皇ごみずのおてんのうのときは平均へいきん寿命じゅみょうみじかく、後水尾天皇ごみずのおてんのうほう立派りっぱ記録きろくです」とべた[注釈ちゅうしゃく 3]。また、だい125だい天皇てんのう明仁あきひと平成へいせい30ねん2018ねん3月7にち後水尾天皇ごみずのおてんのう崩御ほうぎょ時点じてんでの年齢ねんれい到達とうたつしている[注釈ちゅうしゃく 4]

日光にっこう東照宮とうしょうぐうには陽明ようめいもんをはじめ各所かくしょ後水尾天皇ごみずのおてんのう親筆しんぴつとされるがくかかげられており、のちに板垣いたがき退助たいすけ強硬きょうこう日光にっこう東照宮とうしょうぐうちを要求ようきゅうする薩摩さつまはん説得せっとくする理由りゆうの1つとしてげたとされる。

じゅうだい大橋おおはしはじめきんが、将棋しょうぎこま、「水尾みずお天皇てんのう筆跡ひっせきうつし」(宸筆しんぴつ錦旗きんき)を後世こうせい製作せいさくしている。

諡号しごう追号ついごう異名いみょう

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のこおくりなにより水尾みずお追号ついごうされた。水尾みずおとは清和せいわ天皇てんのう異称いしょうである[9]後水尾天皇ごみずのおてんのうは、不和ふわであったちちこう陽成ようぜい天皇てんのうに、乱行らんぎょうがあるとして実質じっしつてき廃位はいいまれた陽成ようぜい天皇てんのうの「陽成ようぜい」のごうおくり、みずからは陽成ようぜい天皇てんのうちちであった清和せいわ天皇てんのう異称いしょう水尾みずお」のごう名乗なのるという意志いしっていたことになる。このような父子ふし逆転ぎゃくてんごうはほかにれいがない。徳川とくがわ光圀みつくに随筆ずいひつ西山にしやま随筆ずいひつ』で、あにしのけて即位そくいしたことが清和せいわ天皇てんのう同様どうようであり、この諡号しごうみずかえらんだ理由りゆうであろうと推測すいそくしている[10]のこおくりなは、鎌倉かまくら時代ときよこう嵯峨天皇さがてんのうから南北なんぼくあさ室町むろまち時代ときよこう小松こまつ天皇てんのうにかけておおくあったが、その7だいにわたってえており、後水尾天皇ごみずのおてんのうのこおくりなこう小松こまつ天皇てんのう以来いらいやく2世紀せいきぶりである。このことからも後水尾天皇ごみずのおてんのうつよ意志いしがうかがわれる。また、清和せいわはじめしょうする徳川とくがわうえつという意志いしれる。なお、「水尾みずお」のかたについては、現在げんざい宮内庁くないちょうは「ごみずのお」としているが、江戸えど時代じだい中期ちゅうき故実こじつ学者がくしゃ伊勢いせ貞丈さだたけは「ごみのお」がただしいとしている[11]

逸話いつわ

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  • 類題るいだい和歌集わかしゅう』の編纂へんさん臣下しんかめいじた。
  • 学問がくもんこのみ、『伊勢物語いせものがたりしょう』などの著作ちょさくがある。
  • 女性じょせい関係かんけい派手はでであった。禁中きんちゅう法度はっと無視むしして宮中きゅうちゅう遊女ゆうじょまねきいれたり、遊廓ゆうかくにまでおしのびでかけた。譲位じょういにも中宮なかみや以外いがい女性じょせいに30余人よにんませ、56さい出家しゅっけしたのち精力せいりょく欲求よっきゅうおとろえず、58さいでのちのれいもと天皇てんのうませている。
  • 1985ねん7がつ12にち昭和しょうわ天皇てんのう後水尾天皇ごみずのおてんのう記録きろくたっしたさい天皇てんのう意向いこう祝賀しゅくが行事ぎょうじなどはおこなわれなかったが、側近そっきんらと鰻重うなじゅうべたという[12]

系譜けいふ

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後水尾天皇ごみずのおてんのう系譜けいふ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. だい105だい こう奈良なら天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
8. だい106だい 正親町おおぎまち天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. 万里まり小路しょうじ房子ふさこ
 
 
 
 
 
 
 
4. まことじん親王しんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. 万里小路まりこうじしゅうぼう
 
 
 
 
 
 
 
9. 万里まり小路しょうじ房子ふさこ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2. こう陽成ようぜい天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20. 勧修寺かんしゅうじいんゆたか
 
 
 
 
 
 
 
10. 勧修寺かんしゅうじはれみぎ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
21. 伊勢いせさだとおむすめ
 
 
 
 
 
 
 
5. 勧修寺かんしゅうじ晴子はるこ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
22. 粟屋あわやもとたかし
 
 
 
 
 
 
 
11. 粟屋あわや元子もとこ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1. だい108だい 後水尾天皇ごみずのおてんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. 近衛このえしょうどおり
 
 
 
 
 
 
 
12. 近衛このえ稙家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
25. 徳大寺とくだいじ維子
 
 
 
 
 
 
 
6. 近衛このえぜんひさ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26. 細川ほそかわ高基たかもと
 
 
 
 
 
 
 
13. 久我くが慶子けいこ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3. 近衛このえぜん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7. たからいつきいん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

系図けいず

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107 こう陽成ようぜい天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
108 後水尾天皇ごみずのおてんのう
 
近衛このえしんひろ
 
高松宮たかまつのみや(有栖川ありすがわみや)こうじん親王しんのう
 
一条いちじょう昭良あきら
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
109 明正めいせい天皇てんのう
 
110 こう光明こうみょう天皇てんのう
 
111 こう西にし天皇てんのう
 
112 れいもと天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
有栖川ありすがわみや幸仁ゆきひと親王しんのう
 
113 東山ひがしやま天皇てんのう
 
福子ふくこ内親王ないしんのう
 
有栖川ありすがわみやしょくじん親王しんのう
 
吉子よしこ内親王ないしんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
せいじん親王しんのう
 
114 中御門天皇なかみかどてんのう
 
閑院みやただしじん親王しんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

后妃こうひ皇子おうじおんな

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在位ざいいちゅう元号げんごう

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りょう霊廟れいびょう

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月輪げつりんりょう京都きょうと京都きょうと

りょう(みささぎ)は、宮内庁くないちょうにより京都きょうと京都きょうと東山ひがしやま今熊野泉山いまぐまのせんざんまち泉涌寺せんにゅうじうちにある月輪げつりんりょう(つきのわのみささぎ)に治定じじょうされている。宮内庁くないちょうじょう形式けいしき石造せきぞうきゅうじゅうとう

こう水尾みずお以後いご孝明たかあきいたるまで歴代れきだい天皇てんのうすべ泉涌寺せんにゅうじないほうむられている(泉涌寺せんにゅうじないにはこう水尾みずお以前いぜん鎌倉かまくら時代ときよこう堀河ほりかわ四条しじょうりょう天皇てんのうりょうがある)。

また皇居こうきょでは、皇霊こうれい殿どの宮中きゅうちゅうさん殿どのの1つ)においてほか歴代れきだい天皇てんのう皇族こうぞくとともに天皇てんのうれいまつられている。

しゅう

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史料しりょう

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後水尾天皇ごみずのおてんのう題材だいざいとした作品さくひん

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小説しょうせつ

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戯曲ぎきょく

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後水尾天皇ごみずのおてんのうえんじた俳優はいゆう

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 野村のむらげん徳川とくがわ当主とうしゅ秀忠ひでただ大御所おおごしょ)から家光いえみつ将軍しょうぐん)にわったことで協調きょうちょう政策せいさくてんじるとともに、明正めいせい天皇てんのう幼少ようしょう女帝にょてい)の登場とうじょうによる朝廷ちょうていない混乱こんらん責任せきにんこう水尾みずお上皇じょうこう問題もんだいこした当事とうじしゃ)にわせようとしたことを指摘してきしている[7]
  2. ^ こう西にし天皇てんのうあに後光ごこうあきら)の急逝きゅうせい宮家みやけ当主とうしゅから即位そくいし、すでに実子じっしがいるにもかかわらずおとうとれいもと)が元服げんぷくしたら譲位じょういすることがはじめからめられていた。
  3. ^ 昭和しょうわ天皇てんのう1989ねん1がつ7にちまん87さい8かげつ崩御ほうぎょ
  4. ^ だい125だい天皇てんのう明仁あきひと平成へいせい31ねん2019ねん4がつ30にちまん85さい4かげつで、皇室こうしつ典範てんぱん特例とくれいほうもとづき退位たいいし、翌年よくねんれい元年がんねん5月1にちより上皇じょうこうとなる。さらに、れい3ねん2021ねん9月2にちには昭和しょうわ天皇てんのうにならび、歴代れきだいさい長寿ちょうじゅ天皇てんのうとなった。
  5. ^ 本朝ほんちょうすめらぎたね紹運ろく』などには昭子あきこ内親王ないしんのうしるしているが、おんな二宮にのみや内親王ないしんのう宣下せんげがなされたという記録きろくはなく、おんなさんみやとの混乱こんらんであるとかんがえられている[13]

出典しゅってん

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  1. ^ 山口やまぐち和夫かずお生前せいぜん譲位じょうい近世きんせいいんさんしゅ形成けいせい」『近世きんせい日本にっぽん政治せいじ朝廷ちょうてい吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2017ねん、154ぺーじISBN 978-4-642-03480-7 
  2. ^ 熊倉くまくら 2010, p. 104.
  3. ^ 井原いはら今朝男けさお中世ちゅうせい国家こっか天皇てんのう儀礼ぎれい校倉あぜくら書房しょぼう、2012ねん、169ぺーじISBN 978-4751744307 
  4. ^ 熊倉くまくら 2010, p. 107.
  5. ^ 九条くじょうみちぼう日記にっきみちぼうおおやけ寛永かんえい14ねん12月3にちじょう
  6. ^ 久保くぼ 1998, pp. 46–49.
  7. ^ 野村のむら 2006, pp. 296–298.
  8. ^ 久保くぼ 1998, p. 54.
  9. ^ 菊地きくち浩之ひろゆき (2019ねん3がつ21にち). “天皇てんのうのお名前なまえ秘密ひみつ 裕仁ひろひと明仁あきひととくひとし…なぜ「○ひとし」がおおい?”. ビジネスジャーナル. サイゾー. 2019ねん6がつ2にち閲覧えつらん
  10. ^ 熊倉くまくら 2010, p. 32.
  11. ^ 熊倉くまくら 2010, p. 6.
  12. ^ 日本にっぽん放送ほうそう協会きょうかい. “上皇じょうこうさま 歴代れきだい天皇てんのうなかさい高齢こうれい”. NHKニュース. 2021ねん9がつ2にち閲覧えつらん
  13. ^ 久保くぼ 2008b, p. 102.

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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後水尾天皇ごみずのおてんのう

1596ねん6月29にち - 1680ねん9月11にち

日本にっぽん皇室こうしつ
先代せんだい
こう陽成ようぜい天皇てんのう
しゅうひとし
皇位こうい
だい108だい天皇てんのう

1611ねん5がつ9にち - 1629ねん12月22にち
慶長けいちょう16ねん3がつ27にち - 寛永かんえい6ねん11月8にち
次代じだい
明正めいせい天皇てんのう
きょう