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女院にょいん

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女院にょいん(にょいん/にょういん)は、三后さんこう太皇太后たいこうたいこう皇太后こうたいごう皇后こうごう)や、それにじゅんずるじゅんきさき内親王ないしんのうなど)の女性じょせい宣下せんげされた称号しょうごうし、平安へいあん時代じだい中期ちゅうきから明治維新めいじいしんまでつづいた制度せいどである。「いん」はすなわち太上天皇だじょうてんのうのことをし、「女院にょいん」とはそれにじゅんずる待遇たいぐうけた女性じょせいのことである。上皇じょうこうならっていんちょうき、別当べっとう判官ほうがんだいしゅ典代のりよそのしょつかさにんじ、殿上てんじょうさだめ、蔵人くろうどした。

宣下せんげ対象たいしょう

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従来じゅうらい出家しゅっけともな后妃こうひ待遇たいぐうきさきみやしょく)は停止ていしするものになっていた。ところが一条天皇いちじょうてんのうだいせいこよみ2ねん(991ねん皇太后こうたいごう藤原ふじわらかい落飾らくしょくさい皇太后こうたいごうみやしょくめると同時どうじに、ゆうみことのりあって東三条ひがしさんじょういん院号いんごうおくられ、「女院にょいん」が出現しゅつげんしたのである。

初期しょき女院にょいんごう宣下せんげ后妃こうひなかでもとく国母こくぼとなったものかぎられておこなわれたが、うけたまわ元年がんねん(1074ねん)の後冷泉天皇ごれいぜいてんのう中宮なかみや章子あきこ内親王ないしんのう院号いんごう宣下せんげじょういん以後いご所生しょせいはなくてもとうととうと出自しゅつじを以って院号いんごうれいくわわった(ただし章子あきこ内親王ないしんのう場合ばあいあらたに立后りっこうするのためにきさきける手段しゅだんとして女院にょいんにされたとするせつがある)。また、皇女おうじょじゅんはは立后りっこうによる尊称そんしょう皇后こうごう天皇てんのう配偶はいぐうではない称号しょうごうのみのきさき)とする制度せいど白河天皇しらかわてんのう皇女おうじょ媞子内親王ないしんのういくよしもんいん)を契機けいきとして確立かくりつすると、院号いんごう宣下せんげ対象たいしょう尊称そんしょう皇后こうごうにまで拡大かくだい、さらにおう元年がんねん(1161ねん)の暲子内親王ないしんのうはちじょういん)によって、きさきずに院号いんごう宣下せんげされるみちひらかれた。この結果けっかとく内親王ないしんのう女院にょいんごう宣下せんげけるれい大幅おおはばえたが、原則げんそくとして宣下せんげ対象たいしょう后妃こうひ天皇てんのう生母せいぼ内親王ないしんのうのいずれかであることが前提ぜんていであり、いぬいはじめ元年がんねん(1302ねん)のえい嘉門かもんいん瑞子みずこ女王じょおう宗尊親王むねかたしんのうおんなこう宇多天皇うだてんのう後宮こうきゅう)や、おうひさし14ねん(1407ねん)の北山きたやまいん日野ひの康子やすこ足利あしかが義満よしみつしつ)などは非常ひじょう異例いれいだといえる。

平安へいあん末期まっきから鎌倉かまくら時代ときよにかけて、内乱ないらん両統りょうとう迭立影響えいきょうされ、女院にょいんごう宣下せんげ氾濫はんらんし、一時いちじにはじゅうすうにんにのぼる女院にょいんがいた。このうち皇女おうじょ所領しょりょう相続そうぞく前奏ぜんそうとして院号いんごうあたえられたれいおおられ、内親王ないしんのう宣下せんげじゅんきさき宣旨せんじののち、即日そくじつ院号いんごうという場合ばあいもある。もっとも、厖大ぼうだい荘園しょうえんぐんゆずられた姫宮ひめみや権勢けんせい大変たいへんなもので、とみ利用りようして政治せいじにらみをきかせたはちじょういんせんもんいんやす嘉門かもんいんなどはその代表だいひょうである。

その室町むろまち時代ときよから江戸えど初期しょきにかけて、立后りっこう内親王ないしんのう宣下せんげとも途絶とだえ、その結果けっか天皇てんのう生母せいぼのみが女院にょいんとなる時代じだいながつづいた。しかし後水尾天皇ごみずのおてんのう中宮なかみや徳川とくがわ和子かずこ東福門院とうふくもんいん以後いごきさきからの女院にょいん復活ふっかつ、また内親王ないしんのうからの女院にょいんとして孝子こうし内親王ないしんのうれいなりもんいん)のようなれいもあったが、正親町おおぎまち雅子まさこしんまちけんもんいん孝明天皇こうめいてんのう生母せいぼ)を最後さいご明治維新めいじいしんとき廃止はいしされる。その中山なかやま慶子けいこ柳原やなぎはら愛子あいこ(それぞれ明治天皇めいじてんのう大正天皇たいしょうてんのう生母せいぼ)の待遇たいぐうめぐり、女院にょいん復活ふっかつさせる意見いけんたものの、反対はんたいろんおお実現じつげんされなかった。

名称めいしょう

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女院にょいん名称めいしょう以下いか女院にょいんごう)は、天皇てんのう上皇じょうこう院号いんごうとはことなり生前せいぜん時点じてん院号いんごうじょう(いんごうさだめ)により決定けっていされる。最初さいしょ二人ふたり女院にょいんそくしてると、東三条ひがしさんじょういん称号しょうごう東三条ひがしさんじょうだいによって、上東門院じょうとうもんいん称号しょうごう上東じょうとうもんだい土御門つちみかどだい別名べつめい)(大内裏だいだいり上東うえひがしもん別名べつめいを「土御門つちみかど」といい、そこにつうじる道路どうろ土御門つちみかど大路おおじまたは上東じょうとうもん大路おおじばれた)によってと、いずれもさとだい由来ゆらいした。つづ陽明ようめいもんいんいくよしもんいんも、つてりょうした邸宅ていたくがそれぞれ大内裏だいだいり陽明ようめいもんつうじる近衛このえ大路おおじ別名べつめい陽明ようめいもん大路おおじ)にめんする枇杷びわ殿どの大内裏だいだいりいくよしもんつうじる大炊おおい御門みかど大路おおじめんする大炊おおい殿でんで、それにちなもん院号いんごうであった。しかし、てん元年がんねん(1124ねん)のまちけんもんいん以後いご女院にょいんごう在所ざいしょかかわりなく宣下せんげされることが通例つうれいした。当時とうじ朝廷ちょうてい執行しっこう関係かんけいおもわしくなかったけい法門ほうもんいんのように実在じつざいしないもん名前なまえ本人ほんにん出家しゅっけ法名ほうみょうに「もん」を付加ふかしたもの)をあたえられたケースもある[1]

女院にょいんごう決定けっていには、まず複数ふくすう候補こうほげられたなかからえらばれたことが記録きろくからわかり、選定せんていたってはさとだいもんいんめいだけでなく、いかどうかや不吉ふきつ先例せんれいていないか、またすで存在そんざいする院号いんごう重複じゅうふくしないかとう様々さまざま角度かくどから検討けんとうされた。なお天皇てんのう上皇じょうこう院号いんごう場合ばあい、「」をかんして重複じゅうふくする院号いんごう使用しようしたが、女院にょいんごうほとんどが「しん」をかんしたのも特徴とくちょうのひとつである(こう京極きょうごくいんのみ例外れいがい)。また天皇てんのう上皇じょうこう院号いんごう重複じゅうふくする女院にょいんごう採用さいようされなかったのにたいし、ぎゃく天皇てんのう院号いんごうめるさいには、二条天皇にじょうてんのうのように先例せんれいである女院にょいんごうじょういんとの重複じゅうふく考慮こうりょされなかったとられる。

なお、しんまちけんもんいんだけは、南北なんぼくあさ時代じだい阿野あのれん江戸えど時代じだい末期まっき正親町おおぎまち雅子まさこ両者りょうしゃ重複じゅうふくしている。これは、前者ぜんしゃ南朝なんちょうから宣下せんげされたものであり、北朝ほくちょう正統せいとうとする江戸えど時代じだい史観しかんからは無視むしされていたからである。

もん院号いんごう

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女院にょいんごういち形式けいしきとして、禁裏きんりもんてるもん院号いんごうがある。はつれい上東門院じょうとうもんいんで、元々もともとさとだい由来ゆらいする命名めいめいだが、だい国母こくぼとなった上東門院じょうとうもんいんけいれいであるとされたこともあり、女院にょいん全体ぜんたいだい多数たすうめる院号いんごうとなった。はじめは禁門きんもん大内裏だいだいりかこ外郭がいかくじゅうよんもん)にかぎられたが、よしみおう元年がんねん(1169ねん)の建春門院けんしゅんもん以降いこう宮門きゅうもん内裏だいりそとじゅうかこ外郭がいかくななもん)や内門うちかど内裏だいり中重なかしげかこ内郭ないかくじゅうもん)、うちごうもん、そのあさどういん豊楽ほうらくいんもんめいなどもれられた。

女院にょいん一覧いちらん

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院号いんごう なま没年ぼつねん 出自しゅつじ父母ちちはは 宣下せんげ根拠こんきょ 宣下せんげ年月日ねんがっぴ 宣下せんげ
東三条ひがしさんじょういん 藤原ふじわらかい(962 - 1002) ちち関白かんぱく藤原ふじわらけん
はは藤原ふじわら中正ちゅうせいおんなどきひめ
一条天皇いちじょうてんのうはは せいこよみ2ねん9月16にち
991ねん10月26にち
皇太后こうたいごう
上東門院じょうとうもんいん 藤原ふじわら彰子あきこ(988 - 1074) ちち摂政せっしょう藤原ふじわら道長みちなが
ははみなもと雅信まさのぶおんな倫子ともこ
一条天皇いちじょうてんのう中宮なかみや
こういちじょうこう朱雀すじゃくりょう天皇てんのうはは
万寿まんす3ねん1がつ19にち
1026ねん2がつ9にち
太皇太后たいこうたいこう
陽明ようめいもんいん 禎子さだこ内親王ないしんのう(1013 - 1094) ちち三条さんじょう天皇てんのう
はは藤原ふじわら道長みちながじょ中宮ちゅうぐう妍子
こう朱雀すざく天皇てんのう皇后こうごう
後三条ごさんじょう天皇てんのうはは
れき5ねん2がつ17にち
1069ねん3月12にち
太皇太后たいこうたいこう
じょういん 章子あきこ内親王ないしんのう(1026 - 1105) ちち後一条天皇ごいちじょうてんのう
はは藤原ふじわら道長みちながじょ中宮ちゅうぐう
後冷泉天皇ごれいぜいてんのう中宮なかみや 延久のべひさ6ねん6月16にち
1074ねん7がつ12にち
太皇太后たいこうたいこう
いくよしもんいん 内親王ないしんのう(1076 - 1096) ちち白河天皇しらかわてんのう
はは藤原ふじわら養女ようじょ中宮ちゅうぐう賢子さとこ
堀河ほりかわ天皇てんのうじゅんはは中宮なかみや 寛治かんじ7ねん1がつ19にち
1093ねん2がつ17にち
中宮なかみや
まちけんもんいん 藤原ふじわら璋子あきこ(1101 - 1145) ちちけん大納言だいなごん藤原ふじわらこう
はは藤原ふじわらたかしかたおんな光子こうし
鳥羽天皇とばてんのう中宮なかみや
たかしとくこう白河しらかわりょう天皇てんのうはは
てん元年がんねん11月24にち
1124ねん12月31にち
中宮なかみや
こういん 藤原ふじわら泰子やすこ(1095 - 1156) ちち関白かんぱく藤原ふじわら忠実ちゅうじつ
ははみなもと顕房あきふさおんな
鳥羽天皇とばてんのう皇后こうごう のべ5ねん7がつ28にち
1139ねん8がつ24にち
皇后こうごう
美福門院びふくもんいん 藤原ふじわら得子とくこ(1117 - 1160) ちちおく左大臣さだいじん藤原ふじわらちょうみのる
ははみなもとしゅんぼうおんな方子のりこ
鳥羽天皇とばてんのう皇后こうごう
近衛天皇このえてんのうはは
久安ひさやす5ねん8がつ3にち
1149ねん9月6にち
皇后こうごう
すめらぎ嘉門かもんいん 藤原ふじわら聖子せいこ(1122 - 1182) ちち関白かんぱく藤原ふじわらただしどおり
はは藤原ふじわらはじめどおりおんな宗子むねこ
崇徳天皇すとくてんのう中宮なかみや 久安ひさやす6ねん2がつ27にち
1150ねん3月27にち
皇太后こうたいごう
上西かみにしもんいん 統子もとこ内親王ないしんのう(1126 - 1189) ちち鳥羽天皇とばてんのう
ははまちけんもんいん
後白河天皇ごしらかわてんのうじゅんはは皇后こうごう もと4ねん2がつ13にち
1159ねん3月4にち
皇后こうごう
はちじょういん 暲子内親王ないしんのう(1137 - 1211) ちち鳥羽天皇とばてんのう
はは美福門院びふくもんいん
二条天皇にじょうてんのうじゅんはは おう元年がんねん12月16にち
1162ねん1がつ3にち
じゅんきさき
高松たかまついん 内親王ないしんのう(1141 - 1176) ちち鳥羽天皇とばてんのう
はは美福門院びふくもんいん
二条天皇にじょうてんのう中宮ちゅうぐう おう2ねん2がつ5にち
(1162ねん2がつ20日はつか
中宮なかみや
きゅうじょういん 藤原ふじわらてい(1131 - 1176) ちち太政大臣だじょうだいじん藤原ふじわらどおり
はは藤原ふじわらあらわたかしおんな立子たつこ
近衛天皇このえてんのう中宮なかみや じんやす3ねん3月14にち
1168ねん4がつ23にち
皇太后こうたいごう
建春門院けんしゅんもん 平滋子たいらのしげこ(1142 - 1176) ちちおく左大臣さだいじん平時へいじしん
はは藤原ふじわらあらわよりゆきおんな祐子ゆうこ
高倉天皇たかくらてんのうはは よしみおう元年がんねん4がつ12にち
1169ねん5がつ10日とおか
皇太后こうたいごう
建礼門院けんれいもんいん 平徳子たいらのとくこ(1155 - 1214) ちち太政大臣だじょうだいじん平清盛たいらのきよもり
はは平時へいじしんおんな時子ときこ
高倉天皇たかくらてんのう中宮ちゅうぐう
安徳天皇あんとくてんのうはは
養和ようわ元年がんねん11月25にち
1182ねん1がつ1にち
中宮なかみや
いんとみもんいん 亮子あきこ内親王ないしんのう(1147 - 1216) ちち後白河天皇ごしらかわてんのう
はは藤原ふじわらなりおんな成子しげこ
安徳天皇あんとくてんのうじゅんはは皇后こうごう
後鳥羽ごとば天皇てんのうじゅんはは皇后こうごう
文治ぶんじ3ねん6月28にち
1187ねん8がつ4にち
皇后こうごう
ななじょういん 藤原ふじわらふえ(1158 - 1228) ちちおく左大臣さだいじん藤原ふじわら信隆のぶたか
はは藤原ふじわらとおるもとおんなきゅう
後鳥羽ごとば天皇てんのうはは たてひさ元年がんねん4がつ22にち
1190ねん5月27にち
じゅんきさき
せんもんいん 覲子内親王ないしんのう(1181 - 1252) ちち後白河天皇ごしらかわてんのう
はは法印ほういんきよしくもおんな高階たかしな栄子えいこ
たてひさ2ねん6月26にち
1191ねん7がつ19にち
じゅんきさき
むべあきもんいん 九条くじょうつとむ(1173 - 1239) ちち関白かんぱく九条くじょうけん
はは藤原ふじわらはんけんおんな兼子かねこ
後鳥羽ごとば天皇てんのう中宮ちゅうぐう 正治しょうじ2ねん6月28にち
1200ねん8がつ9にち
中宮なかみや
うけたまわあかりもんいん みなもとざい(1171 - 1257) ちち法印ほういんのうえん養父ようふ内大臣ないだいじんみなもととおるおや
はは藤原ふじわらはんけんおんな範子のりこ
土御門天皇つちみかどてんのうはは たてひとし2ねん1がつ15にち
1202ねん2がつ9にち
じゅんきさき
坊門ぼうもんいん 範子のりこ内親王ないしんのう(1177 - 1210) ちち高倉天皇たかくらてんのう
はは藤原ふじわらしげるはんおんなしょうとくきょく
土御門天皇つちみかどてんのうじゅんはは皇后こうごう たてひさし元年がんねん9月2にち
1206ねん10月5にち
皇后こうごう
修明のぶあきもんいん 藤原ふじわら重子しげこ(1182 - 1264) ちちおく左大臣さだいじん藤原ふじわらはん
はは平教盛たいらののりもりおんな教子きょうこ
順徳天皇じゅんとくてんのうはは たてひさし2ねん6月7にち
1207ねん7がつ3にち
じゅんきさき
春華はるかもんいん 昇子しょうこ内親王ないしんのう(1195 - 1211) ちち後鳥羽ごとば天皇てんのう
ははむべあきもんいん
順徳天皇じゅんとくてんのうじゅんはは皇后こうごう うけたまわもと3ねん4がつ25にち
1209ねん5月30にち
皇后こうごう
かげあかりもんいん 大炊おおい御門みかど麗子れいこ(1185 - 1243) ちち太政大臣だじょうだいじん大炊おおい御門みかどよりゆき
はは藤原ふじわらじょうたかしおんな隆子たかこ
土御門天皇つちみかどてんのう中宮ちゅうぐう うけたまわもと4ねん3月19にち
1210ねん4がつ14にち
中宮なかみや
嘉陽かようもんいん 礼子あやこ内親王ないしんのう(1200 - 1273) ちち後鳥羽ごとば天皇てんのう
はは坊門ぼうもん信清のぶきよおんな坊門ぼうもんきょく
けん2ねん6がつ10日とおか
1214ねん7がつ18にち
じゅんきさき
東一条ひがしいちじょういん 九条くじょう立子たつこ(1192 - 1248) ちち摂政せっしょう九条くじょうりょうけい
はは一条いちじょうのうおんな
順徳天皇じゅんとくてんのう中宮なかみや
仲恭天皇ちゅうきょうてんのうはは
うけたまわひさし4ねん3月25にち
1222ねん5月7にち
中宮なかみや
きた白河しらかわいん 持明院じみょういんひね(1173 - 1238) ちちけん中納言ちゅうなごん持明院じみょういんもと
はは平頼盛たいらのよりもりおんな
こう堀河ほりかわ天皇てんのうはは さだおう元年がんねん7がつ11にち
(1222ねん8がつ19にち
じゅんきさき
やす嘉門かもんいん 邦子くにこ内親王ないしんのう(1209 - 1283) ちちまもりさだ親王しんのう高倉たかくらいん
ははきた白河しらかわいん
こう堀河ほりかわ天皇てんのうじゅんはは皇后こうごう さだおう3ねん8がつ4にち
1224ねん9月18にち
皇后こうごう
やすもんいん 三条さんじょう有子ゆうこ(1207 - 1286) ちち太政大臣だじょうだいじん三条さんじょう公房こうぼう
はは藤原ふじわらはんのうおんな修子のぶこ
こう堀河ほりかわ天皇てんのう皇后こうごう よしみろく3ねん2がつ20日はつか
1227ねん3月9にち
皇后こうごう
鷹司たかつかさいん 近衛このえ長子ながこ(1218 - 1275) ちち関白かんぱく近衛このえ
はは藤原ふじわらしんおんな
こう堀河ほりかわ天皇てんのう中宮ちゅうぐう ひろし元年がんねん4がつ18にち
1229ねん5月12にち
中宮なかみや
璧門いん きゅうじょう(1209 - 1233) ちち関白かんぱく九条くじょう道家どうか
はは西園寺さいおんじこうけいおんな
こう堀河ほりかわ天皇てんのう中宮ちゅうぐう
四条しじょう天皇てんのうはは
さだひさし2ねん4がつ3にち
1233ねん5月13にち
中宮なかみや
明義あきよしもんいん たい内親王ないしんのう(1217 - 1243) ちち順徳天皇じゅんとくてんのう
はは東一条ひがしいちじょういん
よしみただし2ねん12月21にち
1237ねん1がつ19にち
じゅんきさき
しきいぬいもんいん 利子りし内親王ないしんのう(1197 - 1251) ちちまもりさだ親王しんのう高倉たかくらいん
ははきた白河しらかわいん
四条しじょう天皇てんのうじゅんはは のべおう元年がんねん11月12にち
1239ねん12月8にち
皇后こうごう
宣仁のぶひともんいん 九条くじょう彦子(1227 - 1262) ちち摂政せっしょう九条くじょうきょう
はは西園寺さいおんじこうけいおんな嘉子よしこ
四条しじょう天皇てんのう女御にょうご じん4ねん2がつ23にち
1243ねん3月15にち
じゅんきさき
正親町おおぎまちいん さとし内親王ないしんのう(1213 - 1285) ちち土御門天皇つちみかどてんのう
ははみなもととおるむねおんな通子みちこ
ひろしもと元年がんねん6月26にち
(1243ねん7がつ14にち
じゅんきさき
室町むろまちいん 暉子てるこ内親王ないしんのう(1228 - 1300) ちちこう堀河ほりかわ天皇てんのう
はは持明院じみょういん家行いえゆきおんな別当べっとう典侍てんじ
ひろしもと元年がんねん12月14にち
1244ねん1がつ25にち
じゅんきさき
大宮おおみやいん 西園寺さいおんじ姞子(1225 - 1292) ちち太政大臣だじょうだいじん西園寺さいおんじみのる
はは四条しじょうたかしおんな貞子さだこ
こう嵯峨天皇さがてんのう中宮なかみや
こう深草ふかくさ亀山かめやまりょう天皇てんのうはは
たからおさむ2ねん6月18にち
1248ねん7がつ10日とおか
中宮なかみや
せんはなもんいん 曦子内親王ないしんのう(1224 - 1262) ちち土御門天皇つちみかどてんのう
ははみなもとゆうみやびおんな大宮おおみやきょく
こう嵯峨天皇さがてんのうじゅんはは皇后こうごう けんちょう3ねん3月27にち
1251ねん4がつ19にち
皇后こうごう
永安えいあんもんいん 内親王ないしんのう(1216 - 1279) ちち順徳天皇じゅんとくてんのう
はは坊門ぼうもん信清のぶきよおんな大納言だいなごんきょく
けんちょう3ねん11月13にち
(1251ねん12月26にち
じゅんきさき
神仙しんせんもんいん からだ内親王ないしんのう(1231 - 1302) ちちこう堀河ほりかわ天皇てんのう
はは持明院じみょういん家行いえゆきじょ別当べっとう典侍てんじ
けんちょう8ねん2がつ7にち
1256ねん3月5にち
じゅんきさき
東二条ひがしにじょういん 西園寺さいおんじ公子きみこ(1232 - 1304) ちち太政大臣だじょうだいじん西園寺さいおんじみのる
はは四条しじょうたかし衡女貞子さだこ
後深草天皇ごふかくさてんのう中宮ちゅうぐう せいもと元年がんねん12月19にち
1260ねん2がつ1にち
中宮なかみや
和徳わとくもんいん 義子ぎし内親王ないしんのう(1234 - 1290) ちち仲恭天皇ちゅうきょうてんのう
はは法印ほういんせいけいおんな右京大夫うきょうのだいぶきょく
ひろちょう元年がんねん3月8にち
1261ねん4がつ9にち
じゅんきさき
つきはなもんいん 綜子内親王ないしんのう(1247 - 1269) ちちこう嵯峨天皇さがてんのう
はは大宮おおみやいん
ひろちょう3ねん7がつ27にち
1263ねん9月1にち
じゅんきさき
今出いまでかわいん 西園寺さいおんじうれし(1253 - 1318) ちち太政大臣だじょうだいじん西園寺さいおんじこうしょう
はは徳大寺とくだいじ実基さねもと養女ようじょ教子きょうこ
亀山天皇かめやまてんのう中宮ちゅうぐう ぶんひさし5ねん12月6にち
1269ねん1がつ9にち
中宮なかみや
京極きょうごくいん ほらいんただし(1245 - 1272) ちち左大臣さだいじんほらいんじつゆう
はは法印ほういんおおやけしんおんな徳大寺とくだいじ栄子えいこ
亀山天皇かめやまてんのう皇后こうごう
こう宇多天皇うだてんのうはは
ぶんなが9ねん8がつ9にち[2]
1272ねん9月2にち
皇后こうごう
しん陽明ようめいもんいん 近衛このえ(1262 - 1296) ちち関白かんぱく近衛このえはじめたいら
はは久我くがとおるのうおんな
亀山天皇かめやまてんのう ぶんなが12ねん3月28にち
1275ねん4がつ25にち
じゅんきさき
のべせいもんいん 悦子えつこ内親王ないしんのう(1259 - 1332) ちちこう嵯峨天皇さがてんのう
はは西園寺さいおんじこうけいおんな公子こうし
弘安ひろやす7ねん2がつ28にち
1284ねん3月16にち
じゅんきさき
げんてるもんいん ほらいん(1246 - 1329) ちち左大臣さだいじんほらいんじつゆう
はは四条しじょう隆房たかふさおんな臧子
伏見天皇ふしみてんのうはは せいおう元年がんねん12月16にち
1289ねん1がつ9にち
じゅんきさき
五条ごじょういん 懌子内親王ないしんのう(1262 - 1294) ちちこう嵯峨天皇さがてんのう
はは藤原ふじわらたかしときおんなてのひらさむらい博子ひろこ
せいおう2ねん12月10にち
1290ねん1がつ22にち
じゅんきさき
ゆうもんいん 内親王ないしんのう(1270 - 1307) ちち後深草天皇ごふかくさてんのう
はは東二条ひがしにじょういん
こう二条天皇にじょうてんのうじゅんはは皇后こうごう せいおう4ねん8がつ12にち
1291ねん9月6にち
皇后こうごう
えいようもんいん 久子ひさこ内親王ないしんのう(1272 - 1346) ちち後深草天皇ごふかくさてんのう
ははげんてるもんいん
えいひとし2ねん2がつ7にち
1294ねん3月5にち
じゅんきさき
あきらけいもんいん 憙子内親王ないしんのう(1270 - 1324) ちち亀山天皇かめやまてんのう
はは法性寺ほっしょうじみやびひらたおんな典侍てんじ雅子まさこ
えいひとし4ねん8がつ11にち
1296ねん9月9にち
じゅんきさき
永福門院えいふくもんいん 西園寺さいおんじ(1271 - 1342) ちち太政大臣だじょうだいじん西園寺さいおんじみのるけん
はは中院なかのいんとおるなりおんな顕子あきこ
伏見天皇ふしみてんのう中宮ちゅうぐう
こう伏見天皇ふしみてんのう養母ようぼ
えいひとし6ねん8がつ21にち
1298ねん9月27にち
中宮なかみや
あきらくんもんいん 西園寺さいおんじ瑛子えいこ(1273 - 1336) ちち太政大臣だじょうだいじん西園寺さいおんじみのるけん
はは中院なかのいんとおるなりおんな顕子あきこ
亀山天皇かめやまてんのう 正安まさやす3ねん3月19にち
1301ねん4がつ28にち
じゅんきさき
えい嘉門かもんいん 瑞子みずこ女王じょおう(1272 - 1329) ちち宗尊親王むねかたしんのう
はは堀川ほりかわきょうおんな
こう宇多天皇うだてんのう 正安まさやす4ねん1がつ20日はつか
1302ねん2がつ18にち
じゅんきさき
とくもんいん 内親王ないしんのう(1288 - 1352) ちち後深草天皇ごふかくさてんのう
はは西園寺さいおんじこうしょうおんな相子あいこ
正安まさやす4ねん3月15にち
(1302ねん4がつ13にち
じゅんきさき
章義あきよしもんいん 誉子たかこ内親王ないしんのう(? - 1336) ちち伏見天皇ふしみてんのう
ははほらいんおおやけむねおんな英子えいこ
徳治とくじ2ねん6月22にち
1307ねん7がつ22にち
じゅんきさき
西にしはなもんいん 堀川ほりかわ基子もとこ(1269 - 1355) ちち内大臣ないだいじん堀川ほりかわもり
ははひらおやまましおんな
こう二条天皇にじょうてんのうはは のべけい元年がんねん12月2にち
1309ねん1がつ13にち
じゅんきさき
広義こうぎもんいん 西園寺さいおんじ寧子やすこ(1292 - 1357) ちち左大臣さだいじん西園寺さいおんじこう
はは藤原ふじわら光保みつやすおんな兼子かねこ
こう伏見天皇ふしみてんのう
花園天皇はなぞのてんのう養母ようぼ
のべけい2ねん1がつ13にち
(1309ねん2がつ23にち
じゅんきさき
あきらぜんもんいん 永子えいこ内親王ないしんのう(? - 1338) ちち後深草天皇ごふかくさてんのう
はは三条さんじょうこうおやおんな房子ふさこ
のべけい2ねん2がつ3にち
(1309ねん3月15にち
じゅんきさき
さくひらもんいん 内親王ないしんのう(1287 - 1310) ちち伏見天皇ふしみてんのう
ははあらわおやもんいん
のべけい2ねん6月27にち
(1309ねん8がつ3にち
じゅんきさき
長楽ながらもんいん 徳大寺とくだいじ忻子(1283 - 1352) ちち太政大臣だじょうだいじん徳大寺とくだいじ公孝きみたか
はは徳大寺とくだいじこうおやおんな喜子のぶこ
こう二条天皇にじょうてんのう中宮ちゅうぐう のべけい3ねん12月19にち
1311ねん1がつ9にち
中宮なかみや
のべあかりもんいん 延子のぶこ内親王ないしんのう(1291 - ?) ちち伏見天皇ふしみてんのう
ははあきらおやもんいん
正和しょうわ4ねん2がつ24にち
1315ねん3月29にち
じゅんきさき
だんてんもんいん つじ忠子ただこ(1268 - 1319) ちち参議さんぎ五辻いつつじちゅうままし
はは平高ひらたかおんな
後醍醐天皇ごだいごてんのうはは ぶん2ねん4がつ12にち
1318ねん5月13にち
じゅんきさき
いたるさとしもんいん すすむ内親王ないしんのう(1286 - 1348) ちちこう宇多天皇うだてんのう
ははだんてんもんいん
皇后こうごう もとおう元年がんねん11月15にち
1319ねん12月27にち
皇后こうごう
まんあきもんいん いちじょう(1268 - 1338) ちち関白かんぱく一条いちじょうみのるけい
ははたいら成俊なりとしおんな中納言ちゅうなごん典侍てんじ
こう二条天皇にじょうてんのう尚侍しょうじ もとおう2ねん2がつ26にち
1320ねん4がつ5にち
じゅんきさき
寿ことぶきしげるもんいん 㛹子内親王ないしんのう(1302 - 1362) ちちこう二条天皇にじょうてんのう
ははたいらとうしゅんおんな勾当こうとう内侍ないし
もとおう2ねん8がつ24にち
(1320ねん9月26にち
じゅんきさき
あらわおやもんいん ほらいん季子としこ(1265 - 1336) ちち左大臣さだいじんほらいんじつゆう
はは賀茂かものうじきおんな但馬たじまきょく
花園天皇はなぞのてんのうはは 正中せいちゅう3ねん2がつ7にち
1326ねん3月11にち
じゅんきさき
たかしあかりもんいん 内親王ないしんのうなま没年ぼつねんしょう ちちこう宇多天皇うだてんのう
はは宗尊親王むねかたしんのうおんな子女しじょおう
東宮とうぐうくにりょう親王しんのう もととく3ねん10月25にち
1331ねん11月25にち
じゅんきさき
れいなりもんいん 西園寺さいおんじ禧子よしこ(1303 - 1333) ちち太政大臣だじょうだいじん西園寺さいおんじみのるけん
はは藤原ふじわら孝泰たかやすおんな孝子こうし
後醍醐天皇ごだいごてんのう中宮なかみや せいけい元年がんねん5がつ20日はつか[3]
1332ねん6月13にち
中宮なかみや
こう京極きょうごくいん 元弘もとひろ3ねん10月12にち[2]
1333ねん11月19にち
皇太后こうたいごう
宣政のぶまさもんいん 懽子内親王ないしんのう(1315 - 1362) ちち後醍醐天皇ごだいごてんのう
ははこう京極きょうごくいん
ひかりげん天皇てんのう たてたけし2ねん2がつ2にち
1335ねん2がつ25にち
じゅんきさき
あきらとくもんいん 内親王ないしんのうなま没年ぼつねんしょう ちちこう伏見天皇ふしみてんのう
はは正親町おおぎまちみのるあきらおんな守子もりこ
たてたけし3ねん4がつ2にち
1336ねん5月13にち
じゅんきさき
しん室町むろまちいん 珣子内親王ないしんのう(1311 - 1337) ちちこう伏見天皇ふしみてんのう
はは広義こうぎもんいん
後醍醐天皇ごだいごてんのう中宮ちゅうぐう たてたけし4ねん1がつ16にち
1337ねん2がつ17にち
中宮なかみや
徽安もんいん 寿子ひさこ内親王ないしんのう(1318 - 1358) ちち花園天皇はなぞのてんのう
はは宣光のぶみつもんいん
ひかりげん天皇てんのう たてたけし4ねん2がつ7にち
(1337ねん3月17にち
じゅんきさき
宣光のぶみつもんいん 正親町おおぎまち実子じっし(1297 - 1360) ちちけん大納言だいなごん正親町おおぎまちみのるあきら
はは正親町おおぎまち三条さんじょうこうぬきおんな
花園天皇はなぞのてんのう たてたけし5ねん4がつ28にち
1338ねん5月18にち
じゅんきさき
しんまちけんもんいん 阿野あのれん(1301 - 1359) ちちみぎ中将ちゅうじょう阿野あのこうれん
後村上天皇ごむらかみてんのうはは 正平しょうへい6ねん12月28にち
1352ねん1がつ15にち
皇太后こうたいごう
ろくもんいん 正親町おおぎまち三条さんじょう秀子ひでこ(1311 - 1353) ちち内大臣ないだいじん正親町おおぎまち三条さんじょう公秀きんひで たかしこう後光ごこうげんりょう天皇てんのうはは 文和ふみかず元年がんねん10月29にち
(1352ねん12月6にち
じゅんきさき
よしみもんいん 藤原ふじわら勝子かつこ?(本名ほんみょうなま没年ぼつねんしょう 実父じっぷしょう
なおちち関白かんぱくじょうもと
長慶ちょうけいこう亀山かめやま天皇てんのうはは 正平しょうへい24ねん1369ねん)?
文中ぶんちゅう2ねん1373ねん)?
しんせんもんいん 憲子のりこ内親王ないしんのう?(本名ほんみょうなま没年ぼつねんしょう ちち後村上天皇ごむらかみてんのう?(後醍醐天皇ごだいごてんのう?) 天授てんじゅ4ねん2がつ
1378ねん3月?)
じゅんきさき
たかしけんもんいん 勘解由小路かげゆこうじ仲子なかご(1336 - 1427) ちち八幡やはた検校けんぎょう法印ほういん善法寺ぜんぽうじどおりきよし
はは四辻よつつじみやみことみやびおうおんなさとしいずみきよしどおり
なおちちおく左大臣さだいじん勘解由小路かげゆこうじけんつな
こう円融天皇えんゆうてんのうはは えいいさお3ねん4がつ25にち
1383ねん5月27にち
じゅんきさき
つうもんいん 三条さんじょういわお(1351 - 1407) ちち内大臣ないだいじん三条さんじょうこうただし こう小松こまつ天皇てんのうはは おうひさし3ねん7がつ24にち
1396ねん8がつ27にち
じゅんきさき
北山きたやまいん 日野ひの康子やすこ(1369 - 1419) ちちけん大納言だいなごん日野ひのやすし
はは池尻いけじり殿どの三上みかみいずみおもね養女ようじょ
こう小松こまつ天皇てんのうじゅんはは
将軍しょうぐん足利あしかが義満よしみつしつ
おうなが14ねん3月5にち
1407ねん4がつ12にち
じゅんきさき
光範みつのりもんいん 日野西ひのにし資子もとこ(1384 - 1440) ちちおく左大臣さだいじん日野西ひのにしこく
しょうこう天皇てんのうはは おうなが32ねん7がつ29にち
1425ねん9月11にち
じゅんきさき
じきせいもんいん 庭田にわた幸子さちこ(1390 - 1448) ちちおく左大臣さだいじん庭田にわたけいゆう
はは飛鳥井あすかいみやびふゆおんな
こう花園天皇はなぞのてんのうはは ぶんやす5ねん3月4にち
1448ねん4がつ7にち
じゅんきさき
よしみらくもんいん 大炊おおい御門みかど信子のぶこ(1411 - 1488) ちちみぎすけ藤原ふじわらたかしちょう
なおちちおく太政大臣だじょうだいじん大炊おおい御門みかどしんむね
こう土御門天皇つちみかどてんのうはは 文明ぶんめい13ねん7がつ26にち
1481ねん8がつ21にち
じゅんきさき
豊楽ほうらくもんいん 勧修寺かんしゅうじ藤子とうこ(1464 - 1535) ちちおく左大臣さだいじん勧修寺かんしゅうじきょうしゅう
はは飛鳥井あすかいまさひさしおんな
こう奈良なら天皇てんのうはは 天文てんもん4ねん1がつ12にち[2]
1535ねん2がつ14にち
じゅんきさき
しん上東門院じょうとうもんいん 勧修寺かんしゅうじ晴子はるこ(1553 - 1620) ちちおく左大臣さだいじん勧修寺かんしゅうじはれみぎ
はは粟屋あわやもとたかしおんな元子もとこ
こう陽成ようぜい天皇てんのうはは 慶長けいちょう5ねん12月29にち
1601ねん2がつ2にち
じゅんきさき
中和ちゅうわもんいん 近衛このえぜん(1575 - 1630) ちち関白かんぱく近衛このえぜんひさ
はは若狭わかさ武田たけだぼうおんなたからいつきいん
こう陽成ようぜい天皇てんのう女御にょうご
後水尾天皇ごみずのおてんのうはは
元和がんわ6ねん6月2にち
1620ねん7がつ1にち
じゅんきさき
東福門院とうふくもんいん 徳川とくがわ和子かずこ(1607 - 1678) ちち将軍しょうぐん徳川とくがわ秀忠ひでただ
はは浅井あさい長政ながまさおんな達子たつこ崇源院すうげんいん
後水尾天皇ごみずのおてんのう中宮ちゅうぐう
明正めいせい天皇てんのうはは
寛永かんえい6ねん11月9にち
1629ねん12月23にち
中宮なかみや
壬生みぶいん えん光子こうし(1602 - 1656) ちちおく左大臣さだいじんえんもとにん こう光明こうみょう天皇てんのうはは うけたまわおう3ねん8がつ18にち
1654ねん9月28にち
じゅんきさき
しん広義こうぎもんいん えん国子くにこ(1624 - 1677) ちちおく左大臣さだいじんえん基音きおん
ははたに衡長おんな
れいもと天皇てんのうはは のべたから5ねん7がつ5にち[2]
1677ねん8がつ3にち
じゅんきさき
逢春もんいん 櫛笥くしげ隆子たかこ(1604 - 1685) ちちおく左大臣さだいじん櫛笥くしげたかし
ははいえ女房にょうぼう
こう西にし天皇てんのうはは 貞享ていきょう2ねん5月22にち[2]
1685ねん6月23にち
じゅんきさき
しん上西かみにしもんいん 鷹司たかつかさ房子ふさこ(1653 - 1712) ちち左大臣さだいじん鷹司たかつかさきょうひらた
はは冷泉れいせんためみつるおんな
れいもと天皇てんのう中宮ちゅうぐう 貞享ていきょう4ねん3月25にち
1687ねん5月6にち
中宮なかみや
うけたまわあきもんいん 幸子こうじ女王じょおう(1680 - 1720) ちち有栖川ありすがわみや幸仁ゆきひと親王しんのう
ははいえ女房にょうぼう
東山ひがしやま天皇てんのう中宮なかみや 宝永ほうえい7ねん3月21にち
1710ねん4がつ19にち
中宮なかみや
しんたかしけんもんいん 櫛笥くしげ賀子かこ(1675 - 1710) ちち内大臣ないだいじん櫛笥くしげたかし
はは西洞院にしのとういん時成ときなりおんな
中御門天皇なかみかどてんのうはは 宝永ほうえい7ねん3月26にち[4]
(1710ねん4がつ24にち
じゅんきさき
けい法門ほうもんいん 松木まつき宗子むねこ(1657 - 1732) ちち内大臣ないだいじん松木まつきはじめじょう
はは河鰭かわはたはじめしゅうおんな秀子ひでこ
東山ひがしやま天皇てんのうはは 正徳まさのり元年がんねん12月23にち
1712ねん1がつ30にち
じゅんきさき
しん中和ちゅうわもんいん 近衛このえ尚子しょうこ(1702 - 1720) ちち関白かんぱく近衛このえ
はは町尻まちじりけんりょうおんな量子りょうし
中御門天皇なかみかどてんのう女御にょうご
さくらまち天皇てんのうはは
とおる5ねん1がつ20日はつか[2]
1720ねん2がつ27にち
じゅんきさき
れいなりもんいん 孝子こうし内親王ないしんのう(1650 - 1725) ちちこう光明こうみょう天皇てんのう
はは庭田にわた重秀しげひでおんな秀子ひでこ
とおる10ねん6月26にち[2]
1725ねん8がつ4にち
じゅんきさき
あおあやぎぬもんいん じょうしゃ(1716 - 1790) ちち関白かんぱくじょうよしただし
はは前田まえだ綱紀つなのりおんな利子りし
さくらまち天皇てんのう女御にょうご
こうさくらまち天皇てんのうはは
寛延かんえい3ねん6月26にち
1750ねん7がつ29にち
皇太后こうたいごう
開明かいめいもんいん あね小路しょうじ定子さだこ(1717 - 1789) ちち参議さんぎあね小路しょうじみのるたけ
ははいえ女房にょうぼう
桃園ももぞの天皇てんのうはは たかられき13ねん2がつ10日とおか
1763ねん3月24にち
さん
きょうれいもんいん 一条いちじょう富子とみこ(1743 - 1796) ちち関白かんぱく一条いちじょうけんこう
ははいえ女房にょうぼう
桃園ももぞの天皇てんのう女御にょうご
こう桃園ももぞの天皇てんのうはは
明和めいわ8ねん7がつ9にち
1771ねん8がつ19にち
皇太后こうたいごう
もりもんいん 近衛このえ維子(1760 - 1783) ちち関白かんぱく近衛このえないまえ
はは吉田よしだりょう養女ようじょ
こう桃園ももぞの天皇てんのう女御にょうご
ひかりかく天皇てんのう養母ようぼ
天明てんめい3ねん10月12にち[2]
1783ねん11月6にち
皇太后こうたいごう
しんすめらぎ嘉門かもんいん 鷹司たかつかさつなぎ(1798 - 1823) ちち関白かんぱく鷹司たかつかさまさしひろし
はは豊岡とよおかしょうおんな斐子あやこ
仁孝天皇にんこうてんのう女御にょうごおく皇后こうごう 文政ぶんせい6ねん4がつ6にち[4]
1823ねん5月4にち
じゅんきさき
しん清和院せいわいん 欣子きんこ内親王ないしんのう(1779 - 1846) ちちこう桃園ももぞの天皇てんのう
ははもりもんいん
ひかりかく天皇てんのう中宮ちゅうぐう 天保てんぽう12ねんうるう1がつ22にち
1841ねん3月14にち
皇太后こうたいごう
東京とうきょうきょくいん 勧修寺かんしゅうじ(1780 - 1843) ちちおく内大臣ないだいじん勧修寺かんしゅうじけいいっ
ははいけ田仲たなかいさおおんな
仁孝天皇にんこうてんのうはは 天保てんぽう15ねん2がつ13にち[4]
1844ねん3月31にち
じゅんきさき
しんついたちひらもんいん 鷹司たかつかさ祺子(1811 - 1847) ちち関白かんぱく鷹司たかつかさまさしひろし
はは豊岡とよおかしょうおんな斐子あやこ
仁孝天皇にんこうてんのう女御にょうご ひろし4ねん10月13にち[2]
1847ねん11月20にち
皇太后こうたいごう
しんまちけんもんいん 正親町おおぎまち雅子まさこ(1803 - 1856) ちちおく左大臣さだいじん正親町おおぎまちみのるこう
はは四辻よつつじこうとおるおんな千栄ちえ
孝明天皇こうめいてんのうはは よしみひさし3ねん2がつ27にち
1850ねん4がつ9にち
じゅんきさき

存疑そんぎ

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女院にょいんごう便覧びんらん類聚るいじゅう』『もんいんでん』に記載きさいがあるにもかかわらず、院号いんごう宣下せんげ事実じじつ確認かくにんできないれい

そのおおくは誤解ごかい俗説ぞくせつもとづくものとかんがえられる。ただし、福来ふきもんいんかんしては南朝なんちょう女院にょいんごうとする異説いせつもある(『紀光のりみつきょう明和めいわ8ねん7がつ9にちじょう)。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 久保くぼ貴子たかこ近世きんせい朝廷ちょうてい運営うんえいあさまく関係かんけい展開てんかい―』(岩田いわた書院しょいん、1998ねんISBN 4872941152 C3321 P180-181.
  2. ^ a b c d e f g h i 死没しぼつ同日どうじつ宣下せんげ
  3. ^ ひかりげん天皇てんのうによる宣下せんげ元弘もとひろ3ねん/せいけい2ねん1333ねん)6がつ後醍醐天皇ごだいごてんのう復辟ふくへきともない、女院にょいんごう宣下せんげ白紙はくしもどされ、皇太后こうたいごう復帰ふっきした。
  4. ^ a b c 没後ぼつご追贈ついぞう

関連かんれん項目こうもく

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